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小野俊介 サル的日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-08-21

人類の知恵と真理を追究しない

ちょっと仕事があって、日曜日だというのに早起きしたのである。 ボーっとした頭でテレビをつけたら、「おおっ! こ、これは!」 と一瞬で目が覚めてしまった。 なんと、杉本彩国生さゆり、そして杉田かおるの3人が、浴衣を着てトークをしてる。 いや、何がすごいのかはよくわからないのだが、何かがすごいことだけは分かるぞ ・・・ あ、それって論理学における ω(オメガ) 矛盾 (注 1) ではないか ・・・ などと、こちらの頭も朝からいきなりゲーデル不完全性定理の世界に突入するというシュールなことになってしまった今日この頃。 皆さんお元気?

(注 1) 式 A(1) は正しい、 式 A(2) は正しい、式 A(3) は正しい、・・・ と個々の式の正誤はすべて言えるのに、「それらの式が 『すべて』 正しい」 とは言えないという矛盾。 無限と有限の狭間で生じる。

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最近のお天気、無茶苦茶だとは思いませんか。 お昼、外でラーメンを食べたのである。 ラーメン屋から出ようとしたらその瞬間から集中豪雨に。 傘は持ってたけど、そんなもの全く役に立たない状況である。 オフィスに戻らぬわけにはいかないので、意を決してラーメン屋を飛び出すが、10秒ほどでズボンが重くなり、20秒ほどでボロ靴が水浸しに。 歩くとガッポン、ガッポンと妙な音がする。 もの悲しい。

オフィスに戻ったが、とても仕事ができる状況にはない。 たまたまその日は秘書のおばさまおねいさま方はいなかったので、まずはズボンを脱いでエアコンの吹き出し口に掛ける。 バカボンパパのステテコ姿のサル的なヒト。 急にお客さんが来ないことを祈る。

ぐちょぐちょのボロ靴と靴下も乾かさないといけないのだが、ここは大学の研究室。 乾燥機も物干しもハンガーも何もない。 しかし、私だって4千年の文明を背負った人類 (サル的だけどね) の端くれである。 プライドがあるぞ。 北京原人にはできないことが何かできるはずだ。 何かいい方法は、と ・・・ あ、そうだ。 あれだよ、あれ。

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電気ストーブとブックエンド。 人類4千年の知恵の結晶(笑)

・・・ こうしてなんとか危機を乗り切ったのだが、乾燥している間ずっと、オフィスには何とも言えない臭いが充満したのである。 強いて言えば、ドブネズミ臭とキッチンのシンクの生ごみを3日くらい放置した後の臭いを足して二で割ったような臭い。 ドブネズミってホントは嗅いだことないけどな。

というわけで、まだまだ人類には進化の余地があることが判明した2016年8月中旬。 遠い未来の人類の足は、きっと、今の我々の足ほど臭くはないはずだ。(注 2)

(注 2) そっち方面の進化ではない。

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日々 wet の実験に命をかけている薬学の先生方から、時々、「ドライラボ (実験をやらない、社会科学系の研究室ね) の人たちって、実験科学者がそうしているように、ホントに真理を極めようとしてるの?」 といった不審の目を向けられることがある。 皆さん紳士だから言い方は優しいけど。 でもそう尋ねたくなる気持ちはよく分かるのだ。

いわゆる 「れぎゅらとりーさいえんす」 での議論を見ていると、「私には現状はこう見えて、こういう問題があるように私には思えて、私的にはこうあってほしいなぁと思う」 といった私的感想が述べられているだけのことがあまりに多い。 (実際のプレゼンでは 「・・と言われている」 「・・という政策が進められている」 といった感じの、無責任な受動態 (笑) が好んで使われ、「私」 という言葉は一言も出てこないことに注意せよ。) 一体それのどのへんが 「れぎゅらとりー」 なのかというと、その 「」 が規制当局 (れぎゅらとりー えいじぇんしー) の従業員であるという、ただその一点だったりして。 もしそうだとすれば、そんなものは 「レギュラトリー」 でも 「サイエンス」 でもないよねと思う実験科学者の感覚は正しい、と僕も思う。

「規制当局で働く人の言葉は自然に規制科学になる」 などというのは、「スプーン曲げができる手品師の言葉は自然に金属工学になる」 というのと同じくらいバカげているもんね。

ただし、実験科学者がどうやら心の中で抱いているらしい 「ドライラボがやっている医薬品社会科学には、(実験科学の我々がやっているような) 真理に迫るアプローチがそもそも存在しないのでは?」 という疑念には、明確に「いいえ、存在しますよ。 あなたがそれを知らないだけ」 とお答えしたい。 例を挙げろと言われればいくらでも挙げられますよ。 

たとえば (あえて実証科学とは別の例を挙げるとすれば)、今や社会科学の常識とも言えるアロウの不可能性定理の帰結・含意をどうとらえ、どう現実に適用しうるのかを考える、なんてのは論理世界と現実世界の究極の融合であり、真理世界の探究の旅である。 もっと具体的にしましょうか。 たとえば、医薬品の価値評価 (たとえば承認) において (公理としての) 推移律や選択肢の独立はどのように・どの程度前提にしうるのか、なんていう研究も、人類4000年の真理の積み上げに貢献する良いアプローチだと思うよ。 そういう学問的な課題をドライラボがきちんと取り上げていないのが問題なのだと言われれば、まさしくそのとおり。

というわけなので、実験科学に命をかけて真理を追究している先生方、医薬品規制の界隈に蔓延 (はびこ) る科学もどきだけを見て 「ドライラボは真理を追求していない」 なんて誤解はしないでほしいのです。 私たちもあなたたちの同志です。

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昼間の暑さはともかく、夜になると次第に夏の終わりが肌で感じられるこの頃。 今日のブログの締めは昭和のこんな感じでしんみりと。 40年前の田舎の花火を思い出す。 昔の記憶はいつも鮮明だ。

D

読んでくれてありがとね。

2016-08-10

事務局に大外刈りをかけられない

完全に転倒状態にありながらも、決めポーズを笑顔でとっていた体操の山室選手のファンになってしまった今日この頃。 サラリーマンのあるべき姿を指し示してくれたような気がする。 倒れようが、コケようが、とにかく最後は決めポーズ。 そんな感じで、皆さんお元気?

1600人読者には申し訳ないのだが、サル的なヒトにも夏休みが必要である。 読むだけの人には分からんだろうが、毎回のブログ書くのだって15分くらいでテキトーに書きなぐるだけ何時間もかけて構想を練って、執筆して、推敲を重ねているのだ。 大変なのだ。 だから今週くらいは手抜きさせてくれ。 頼むぞ。

今回は事実上お休みの回なのだ。 勝手にそう宣言しちゃうのだ。 だから今日は、無料出張講義で使っているこんなスライドを一枚解説するだけで勘弁してくれ。 みんなが目を背け続ける日本の医薬品評価の暗部、ブラックホールの一例。

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一般の人たちにも分かりやすく説明しますね。 新薬を承認するかどうかは、PMDAの審査官や薬事食品衛生審議会 (薬食審) という審議会のエラい委員たちが審査して決めています。 で、新薬を承認しても良いかどうかの判断基準は、大きく3つ。 (1) ちゃんと効くこと (有効性)、(2) 副作用が重くないこと (リスクベネフィットOK)、(3) 品質がちゃんとしてること。 これら3つの基準が全部OKであれば承認されて、一つでも欠けていれば承認されない。

「基準に従うだけなら、お薬の承認って誰がやっても同じじゃないの?」 と素人さんは思うかもしれないが、そういう感じじゃないのよ、実は。 これらの基準ってとても曖昧で抽象的・概念的。 基準が満たされるかどうかは100人いれば100人判断が異なるような代物です。 裁判官ごとに判決が変わるのと同じ。

で、スライドの状況を考えてみましょう。 審査官あるいは審議会委員のAさんは、この薬は効かないと思っている (でもリスクベネフィット、品質はOKと思ってる)。 Bさんは、リスクベネフィットがダメだと思ってる (でも有効性、品質はOK)。 Cさんは品質がダメだと思っている (でも有効性、リスクベネフィットはOK)。

この場合、Aさん、Bさん、Cさん個々人に 「この薬、承認して良いと思いますか?」 と尋ねたら、三人とも 「承認してはいけません」 と答えます (薬事法を知っていれば)。 この薬はどう転んでも承認されません。

しかしここで、サル知恵が働くヒトが 「一人一人の判断だと誤る可能性があるから、三人で話し合って決めましょうよ」 などと言い出したとしましょう。 「3つの基準について、順にみんなの意見を出し合いませんか? それぞれの基準が満たされているかを多数決で決めません? 民主的に」 なんてね。 すると何が起こるかというと、あいやー、多数決ではこのお薬はすべての基準を満たしていることになってしまうぞ。

「どの基準についても満たされていますね。 じゃあこの薬は承認して良いですよね」 とサル知恵のヒトの完全勝利。

たくさんの委員が決定に加わる○○審議会とか、複数の審査官が民主的に (笑) 口を挟むチーム審査では、こういうことが起こって当然ですね。 というか、過去にも、今この瞬間にも、こういうパラドクスのようなことが起きているだろうし、今後も起き続けるだろうね。

ニポンが危ないのは、当事者 (業界人、薬食審関係者、審査当局)に、こうした構図をきちんと取り上げて、この構図・メカニズムの長所と短所(危険)をちゃんとリストアップして、みんなで共有する気がまったくないこと。 正確には、当事者 (の一部) はこの構図をむしろ隠し通そうとすることが多いんだよね。 なぜかというと、こうした構図を熟知した人たちは、構図に無知なヒトに、大外刈りのような大技を簡単にかけることができるから。

ほら、よくあるでしょ? A案かB案かでもめている委員会などで 議論を効率よく進めるために、論点を整理してまいりました」 と言いながら、見事なメモを委員に配る事務局が。 論点を小分けして (このスライドの (1)、(2)、(3) のように)、それぞれの論点について順に議論していくと ・・・ あーら不思議、「委員の皆さん、どの論点についても、A案を支持される方が多数のようですね」 なんて事務局の思惑どおりに結論が導かれたりする。 委員に多数決をとったらB案が勝つのに。 なんのことはない、事務局の完全勝利 である。

こういうことって、ホントよく起きてるのよ。 皆さんが気づいていないだけ。

決定の構図に無知なヒト (つまり世の中のほとんどの人たち) に対しては、こんな荒技・大技が簡単にかけられるのだから、そりゃたまらないのである。 事務局側のヒト(笑) にしてみれば、今のまま、みんなに無知でいてもらいたいに決まっている。

どうですか、読者の皆さん。 世の中って恐ろしいでしょ? 無知って怖いでしょ? ちゃんと世の中の仕組みを勉強しましょうね。 このあたりは社会選択論という学問領域がカバーしてます。 私の無料出張講義でも重点的に教えますので、興味のあるヒトはしっかり聴いてね。

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・・・ あ、あれ? 今週はお休みの回のはずだったのに、懲りもせずに理屈っぽいことをまた長々と書いとるぞ、このサル。 バカである。

お盆にはこんなマンガがよかろう。 前者は陛下も訪れ、献花されたあの激戦地、ペリリュー島のお話。 後者はシベリア抑留のお話。 どちらもとても読みやすい絵柄で (作者が意図的にそうしている)、戦争の醜悪な姿を復習させてくれる。



おすすめです。

ではみなさん、よい夏休みをお過ごしください。 あとさ、1600人の読者さんたち、たまにはこのブログへの激励のコメント書いてもいいんですからね (笑 ← 目が笑ってない)。 夏休みなんだから。

2016-07-29

欠陥品を平気で使い続ける専門家

エヘヘへ ・・・ でへへへ ・・・ ふふふ ・・・

暑さでもともとビミョーだった頭がおかしくなったわけではない。 長生きするといいことがありますよ、って話である。

今日、昼メシに出かけるタイミングを完全に失してしまった。 で、2時半ごろ、何を食べようかなぁと通りを歩いていたら、向うから登場したのは、うちの研究室の社会人学生、九州男児のTさん。 Tさんもお昼を食べ損ねたらしく、「一緒に食べますか」 ということになり、向かったのが、ほれ、このブログにたびたび登場する本郷通にある、あの海鮮丼屋さんである。 これね → オネエ言葉で薬効評価の闇を語らない - 小野俊介 サル的日記

二人とも日替わり丼なぞをおいしくいただき、人心地ついて、レジへ向かう。 一瞬 「ここはセンセイであるワシが奢ってあげるべきか?」 とも思ったが、Tさんは日本が誇る製薬企業、天下の某社の社員。 どう考えても私よりも給料は高いわけで、おごるのも変だよな、ということで割り勘で支払うことにする。

まず私。 お店のおばさんにスタンプを押してもらおうと思い、カードを差し出したその時、素晴らしいことに気付いた。 すっかり忘れていたのだが、なんと今日は28日。 「8」 のつく日は、「鉢」 にからめて、スタンプ2倍の日なのだ! そう、前回、おばちゃんが間違えて一つしかスタンプを押してくれなかったという、因縁の「8」 のつく日。 期せずして僕は前回のリベンジに来ていたのだ。

今回は絶対に間違えないでね、と思いながらおばちゃんの手元を凝視していたら、「今日はスタンプ2倍の日ですから、二つね」 と笑いながら、ポン、ポンとちゃんと2個スタンプを押してくれた。 
やったー \(^▽^)/

次にTさんが支払い。 Tさん、僕をチラッと見て、「私はスタンプ集めてないから、センセイのカードに押してもらったらどうですか?」 と言ってくれた。 う、う、・・・。 持つべきものは高給取りの慈悲深い教え子である。 指導者はきっと素晴らしい人格者に違いない。

「あ、ありがとう! わかったよ。 Tさんのその支払い、僕は無駄にはしませんから」 と礼を言いつつ、おばさんに再びカードを力強く差し出す。 おばさん 「はい、もう二つスタンプ追加ね! ポン、ポンっと。 よかったねー、今日は大漁だねぇ」。 あ、ありがとう、おばちゃん! 前回間違えて一つしかスタンプを押してくれなかったことは、もう忘れたよ。 もう恨んでないからね。

かーさん、やったよ。 オレ、やっちまったよ。 一日でスタンプ4個ゲットだよ。 ボケモンgo! やってるヤツらもビックリだよね。 前回の失態を取り返して余りある見事なリカバリー。 あまりの出来事に手の震えが止まらない。

研究室に戻る道すがら、大収穫の感動の余韻に浸り、涙目になっているサル的なヒトを横目に、「このヒトに指導を受けていて大丈夫なのだろうか?」 と不安気な表情を浮かべるTさんがいたが、見なかったことにする。

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HPVワクチン訴訟が本格的に始まった。 私はむろんどちらの陣営にも与しておらず、裁判の行方をじっと見守るだけである。

過去の薬害関係の訴訟も含め、こうしたもめごとがあると、マスメディア学会がいろいろな見解や声明を出してくれるのだが、そうしたところに出てくる言説や言葉遣いのいい加減さ、テキトーさには、毎度毎度うんざり。

因果関係」 という言葉の使われ方が分かり易い例。 人類が3000年も議論し続けているのに、結論が出るどころか、本質へのアプローチの困難さがますます深まっている (だから学問として面白い) のが 「因果関係」 という概念なのに、医学薬学の世界では、猫も杓子も 「副作用因果関係が立証されてない (されている)」 だのと、まるでスーパーの特売品なみに大安売りされる。 意味分かって使っているんだろうか?

というか、そんな本質論のずっと前の問題として、たとえば「あの日あの時あの場所であの人に起きたこと」 の話をしてるのか、集団での相関 (そして確率的因果) を論じているのかの概念的区別をしていない人がほとんど。 分析哲学風にいうと 「タイプの話をしているのか、トークンの話をしているのか」 といった根本的なところも無茶苦茶である。 そこいらあたりの概念の区別をつけずに 「因果関係」 という語を使ったら、それはもう、ミドリムシとカナブンの対話くらい話が噛み合わないに決まっている。 絶望的である。 しかし、それが現在の姿。

ワクチンが危険(安全)」 だの 「ワクチンの有効性は検証されている」 だのという表現も、意味不明ですよ。 ホントかウソか意味論的に分からないのに、よく皆さんそんな表現を大胆に使うなぁ、と私はいつも不思議で仕方ないのだ。(前回の記事ね → オネエ言葉で薬効評価の闇を語らない - 小野俊介 サル的日記) 業界の手垢のついたこうした文章・表現は、いわば 欠陥品 なのよ。 人の命や尊厳がかかった状況、あるいは社会的対立が先鋭化してる微妙な状況で、よくもまぁそんな欠陥品を平気で使うものだ、と感心するのだ。 むろん皮肉である。 無頓着にもほどがあろう。

欠陥品は薬機法の中に他にもゴロゴロありますね。 たとえば、「有効性」、「安全性」、「リスクベネフィット」、「禁忌」、・・・ といった用語の多くが欠陥品。 放置されたまま、長年の惰性で使われているこれらの言葉は、本来は、欠陥品として市場から駆逐されるべき言葉である。 もっとも 「代わりの言葉がすぐには見つからない」 から慣例としてこれらの言葉が使われるのは仕方ない面もある。 でもさ、百歩譲ってその場合でも、しぶしぶ・仕方なく欠陥品を使っていることを自覚しなきゃいかんでしょ。

欠陥品である 「有効性」 だの「安全性」 だの 「因果関係」 だのという言葉を使って、必死で相手を理屈で論破しようとしたって、そんなもの無理に決まってる。 お互いにね。 そういう言葉を組み合わせて 「オレの言ってることは正しい!」 なんて力説しても、説得力なんてまるでない。

こうした欠陥品 (ダメダメな表現、言葉、ボキャブラリー) を、欠陥品と気付くことすらできず、放置し続けている専門家学会の責任は重いと、サル的なヒトはずーっと思っているのだ。 また、今回の裁判でも、これまでの裁判同様に、欠陥品が使われまくるのだろうなぁ、虚しいなぁ、とため息が出る。

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もうすぐお盆だから、白熊アイスを食べながらこういうマンガを読むのが幸せ。 独特の雰囲気の、いいマンガだったよ。 おすすめです。

盆の国 (torch comics)

盆の国 (torch comics)

2016-07-20

勉強の夏、ニポンの夏

暑いですねぇ。 皆さんお元気ですか。

サル的なヒトは今年も意を決して、あれを持ち歩いていますよ。 お肌のシミ・そばかすが気になる中年男性の味方、日傘。 毎朝、「どうか知人に会いませんように。 軟弱野郎と思われませんように」 とお祈りしながら、駅までの炎天下の道を日傘をさして歩いているのである。 でもね、日傘ってホント涼しくて快適なのよ。 一度さしたらやめられないのよね。 フフフ ・・・ あ、あれ? 前回からのオネエ言葉がまだ治ってないわよ。 どうしたいいのかしら?

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今日はC社での無料出張講義の日である。 10回シリーズ中の9回目。 もうすぐ終了である。 目を輝かせて熱心に聞いてくれる受講生の方々がおり、とても嬉しい。 「講義を受けること」 の有り難みを感じているようにはまるで見えないうちの大学の学生たちに爪の垢を煎じて飲ませたい。

受講生の皆さん、今日のテーマ 「論理」 はいかがでしたか? 医学薬学系の人たちって、論理学のちゃんとした講義を受ける機会はなかなかないから、新鮮だったでしょ? 分かっているようで実は分かっていないこともたくさんあることに気づいたことと思います。

ブログ読者にも講義内容をちょっとだけサービスしてやろう。 ちょっとだけだぞ。 オラ、ケチだからな。

例題1: 「すべてのヒトに薬が効く」 の否定は?

答: 「薬が効かないヒトがいる」。 ¬∀xAx ⇔ ∃x ¬Ax だからね。 「すべてのヒトに薬が効かない (∀x ¬Ax)」 は正解じゃないことに注意。

例題2: 医薬品開発や承認審査でいう 「ならば」 は、論理学でいう何に近い?

答: 双条件法、つまり iff (if and only if) でしたね。 オペレーターでいうと ←→(両矢印)。 「副作用死が出た」 ならば 「承認を取り消す」 の実例を使って、「えー、それってウソつきじゃん」 と思える場合を偽、「うん、それならウソつきじゃない」 を真として、真理表で真偽を考えたら、双条件法 (iff) の真偽のパターンがしっくりくるのでしたよね。 思い出した?

例題3: 「承認薬ならば安全である」 の否定は?

答: (承認薬)→ (安全) とは、つまり、(承認薬ではない)⋁ (安全)。 その否定だから、¬((承認薬ではない)⋁ (安全)) ⇔ ¬(承認薬ではない) ⋀ ¬(安全) ⇔ (承認薬) ⋀ (安全でない)

つまり日本語的にいうと 「承認薬なのに、安全でない」。 これが正解。


最後の例題3は論理学をちゃんと勉強したことがないと難問ですよね。 こうした論理の言葉遣いの常識を知らないで治験の総括報告書や申請資料や審査報告書を書いている業界人 (含当局) はいませんか? たくさんいるでしょ?(笑) たぶん、そういう人たちが書いている文章って、あちこちに奇妙な論理の穴が開いていると思うよ。 きちんと勉強しましょうね。 

基本からちゃんと勉強したければ、ほれ、会社の研修担当の責任者に 「小野センセに無料出張講義を頼んでください! お願いします!」 と頼んでみると良いよ。 自分で言うのもなんだが、もう15社もやったから、講義内容はムダに高度に練り上げられたものになっております。 他の大学のセンセ (注 1)・研修屋さんからは絶対に聴けない内容の講義であることは保証します。

(注 1) いや、東大でもこの講義は聴けないのだった。 こんなに楽しい内容の講義なんて、自分の大学ではまったく担当してないものな、自分。

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最近、政治がらみの本を立ち読みしてたら (白井聡さん(「永続敗戦論」 の著者)と内田樹さんの対談だったと思うが、間違ってたらゴメンなさい。 なんせ立ち読みだったもんで・・)、

ヨーロッパなどで急成長している、「外国人を排斥せよ! 自国民・自国の会社のみが甘い汁を吸える社会にせよ!」 って叫んでる極右政党をみんな怖がってるけど、あれって要は 『我が国もニポンを目指せ!』 って言ってるだけだよ。 移民受け容れとかほぼゼロだし。 ニポンってなんと素晴らしい国なんだろうと思ってるんだろうね」

・・・ といった感じのコメントがあって、大笑い。 そうか、ニポンって極右政党あこがれの国だったんだ。 どうりで息が詰まるわけだ。 うかつにもそんなことにすら気づかずに51年間も生きてきた平成28年の夏。

大橋巨泉さんも、永六輔さんも亡くなった。 私たちの昭和文化を築いた平和主義の大先輩たちが亡くなっていくのは、とても心細い。

また今年も 「レイテ戦記」 を読み返す夏が来たやうである。

属国民主主義論

属国民主主義論



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属国といえば、たとえばICHを、いいモノ、素晴らしいモノと信じて疑わない医薬品業界人が多いのだが、どこか間抜けである。 「ICHの○○ガイドラインでは、ニポンが議論をリードした!」 などと臆面もなく自慢をしている人もいるが、この手の人たちの口から、お釈迦様の掌の上にいること自体をどう思っているかの見識が語られることは決してない。 きっと夜の居酒屋では 「日本こそがグローバル世界をリードしていくんだ!」 とか気勢を上げているんだろうけど。 ちなみに、こうした一群の人たちこそが 日本の 「失われた25年」 の責任者たちだったはずなのだが、引退する気配も宗旨替えする気配も一向にない。 「失われた50年」 コースに突入する可能性大。

アメリカ様 (正確にはアメリカ様の強欲資本主義の支持者たち) が過去数十年、世界戦略としてやってきたことに対する、当たり前で健全な疑いすら持ってないとすれば、本当に掌の上で踊っているサルである。 あるいは、そんな深い歴史認識レベルで苦悩する業界人たちはグローバル化礼賛のご時勢の中でとっくに死に絶え、今交渉に参加してるのは、「ほら、褒めておくんなせぇ、アメリカ親分。 アジア開発の段取り、親分の満足する落としどころに仕上げましたぜ。 ご褒美に親分の息のかかったグローバル団体か学会のポスト、あるいはニポン国内の天下りポストへの推薦、お願いしまっせ!」 といった江戸時代岡っ引き程度の人たちばかりなのかも、という気がしないでもない。 属国の業界人にふさわしい振る舞いではあるのだけど。

薬価・保険収載の話になると 「あのな、若い連中は知らんだろうが、昔日米 MOSS 協議というのがあってじゃな、・・・」 という話 (アメリカ様からの対日圧力の超分かり易い歴史的事例) をいつもひっぱり出し、それに対する何の批判も、わだかまりも、自嘲も無く、それを自明の前提としてあっけらかんと議論を始める人たちも同類ですね。

情けない。

疑おう。 考えよう。 意見しよう。 そのために、学ぼう。

2016-07-08

オネエ言葉で薬効評価の闇を語らない

・・・ う、う、・・・ う、う、う、 ・・・(嗚咽) ・・・

大学のそばの海鮮丼屋さんでメシを食うと、一食ごとに丼の形のスタンプを一つ押してくれる。 さらに8のつく日には大サービスで、なんと、二つもスタンプを押してくれるのだ。

今日は8日。 ワクワクしながら海鮮丼屋さん行った。 いつもの大トロあぶりサーモン丼を食べ、レジのおばちゃんにお金を払って、「これ、お願いします!」 と良い子の大きな声でスタンプ用のカードを差し出した。 おばちゃんは 「はい、6番のところに押しておきましたよー。 毎度ありがとうございまーす」 とニコニコしながらカードを返してくれた。 

あ、あれ? スタンプ1個だけ? ・・・ 今日は何日だったっけ?? 今日はハチのつく日ではなかったっけ? と思ったのだが、あいにく腕時計もしていない。 も、もしかして僕の勘違いかもしれない。 ス、スタンプ1個なんて、どうってことないよ。 目から涙がじんわり出そうになったのだが、自分の勘違いが悪いことにして、そのまま研究室に帰る。

研究室に戻って、部屋にいる秘書のおばちゃんおねーさまたちに 「ただいま。 今日は海鮮丼食べてきました」 と報告したら、

秘書さん 「えー、小野センセも? 私たちもさっき食べて帰って来たところですよぉ。 だって、今日はスタンプ2倍の日ですからね。 スタンプ2倍の日にしかあの店には行かないんです、私たち」。
サル的 「 ・・・ ぼ、ぼくは、なぜか1個しかスタンプ押してもらえませんでした ・・・」
秘書さん 「なにぃ!? もぅ、気が弱いんだから。 私たちが今から一緒に行って、押してもらうようにお願いしましょうか?」
サル的 「い、いいです。 もういいんです。 放っておいてください ・・ う、う、・・・(冒頭へ)」

サル的なヒトは 「スタンプが一つ足りないんじゃないですか?」 という台詞をどうしても発することができないのだ。 レジのおばちゃんの機嫌を損ねるのが怖くて、それが確認できないダメ人間なのである。 もう50歳を過ぎてるというのに。 生存能力が著しく劣っていることは自覚している。 絶滅寸前なのは当然である。

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今日の記事は、これの続編ですよ。 → 「本当に分からない」 と 「本当は分からない」 - 小野俊介 サル的日記

お薬の薬効評価や承認審査の世界のプロが使う言葉・文章って実にいい加減で、わけが分からないことについては、これまでもいろいろ書いてきた。 最も象徴的なのが

「薬Aが効く」

という文章ね。 「薬Aが有効である」 「薬Aは有効性が検証されている」 など、バリエーションは山ほどあるが、基本形は同じ。 「薬Aが安全である」 も同じ形です。

この文って、真か偽かが問いようがない、不完全な文なのよ。 「真とか偽とか言われても、ワシャ素人だし、よく分からんなぁ」 と思うかもしれんが、簡単である。 たとえば 「1+1は2である」 は真(true)。 「太陽は西から上る(細かい条件等は略)」 は偽(false)。

「薬Aが効く(効いた)」 を見てください。 「A」には、皆さんの知ってる薬の名前を何でもいいからテキトーに入れてみよう。 ロスバスタチンとか、オプジーボとか。 で、この文の真偽なのだが、皆さん、答えられますか? もし誰かが 「ねぇ、ロスバスタチンって効くの? ねぇ、効くの?」 としつこく尋ねてきたら、イラッと来ませんか? きっとこう言いたくなるでしょ? 「誰に (何に、どの病気に) だよ?」 って。

そのイライラは論理学的に当然なのである。 「薬Aが効く」 は、そもそも、まともな文、つまりちゃんとした論理学的な命題になってないのだから。 「薬Aが効く」 と同様に、真偽が問えないイライラする不完全な表現の例はいくらでも挙げられるよ。 たとえば、

「私(医師) は治す」

もそう。 白衣を着たオッサンが 「へへへ。 私は治すよ。 治すのじゃー!」 とか病院で叫んでいたら、完全に危ないヒトだ。 危ない、と思うのは、言っている文の内容が変なのではなくて、それ以前の問題、 「口から出ている台詞が文なのかどうなのかが分からない」 という怖さである。

他にもたとえば、「私は (将棋の) 対局する」 という文も、対局相手がいるのかいないのか分からなければ真偽が分からないよね。

では、これらはどうすれば真偽が問える、まともな 「文」 と呼べるモノになるか? 答えは、先ほどのイライラしたヒトの言うとおり、

「薬Aが 田中さんに (○さんに) 効く」

とすればOK。 これではじめて文の意味 (真偽) を問うことができる。 「佐藤医師は 木村さん (の腰痛) を 治す」 「羽生さんが 渡辺さんと 対局する」 となったら、ほら、「はい、そのとおりです(真)」 「いいえ、それはウソです(偽)」 と答えることができるでしょ。

このように、二つの項の関係があってはじめて意味が問えるのであれば、その二項関係を明確にした記述をしないといけないのである。 当然だよね。 論理学では、たとえば 「a が b に効く(E)」 については Eab ってな感じにして、二項述語の世界で扱う (注: 他にも扱い方はある) のだが、ややこしいことはいいや。 

皆さんが知っておくべきこと、それは、「この薬は有効です」 「あの薬は安全です」 「この薬剤の有効性は検証されています」 といった、医薬品業界でよく見かける文章 (もどき) が基本的に意味不明、つまり、正しいとも誤りとも言えないような怪しい代物であるということ。

たとえば、「○○ワクチンが安全である」(あるいは逆に 「○○ワクチンが危険である」) を出発点にして何かの主張 (「こんな副作用は起きてはならない」 とか) を導いたとしても、その主張は虚しい、無意味なものにしかならないってこと。 だって、出発点が意味不明なんだもん。

で、私が恐ろしいのは、それらが意味不明であることを薬のプロがほとんど意識していないという事実だったりする。

HPVワクチンの混迷の背景に、今日ここで述べたどうにもならない闇が広がっているのは皆さんもうご存知のとおり。 当事者間で通じる言語がないという悲劇と言える。

また、「人類みな兄弟。 だから効く薬は、世界の誰にでも効く (に決まってる)」 なんていう単なる仮説 (注 1) から、あたかも論理学的 (演繹的) に 「だから日本人にも効く (に決まっている)」 が導けるかのような錯覚をしたり (注 2)、それを前提にしたガイドラインを平気で作ってしまえるのは、こうした背景があるのではないか、と社会学的に推察してるのよ。 だって、業界人の皆さんって 「薬は ○○に 効く」 の「○○に」 が無くても何十年も平気で生きている、相当に不思議な人たちなんだもん。 中には確信犯的にその 「○○に」 の項を避けている業界人もいるけどね。

(注 1) 「人類みな兄弟」 仮説は、確率的な方法論(つまり統計学ね)を用いて実証的に検証すべき仮説 (群) である。 細かな仮説に応じていろいろな結論(真偽)が疫学的に・実験科学的に出てくるのだろうし、それで健全。 宗教的信念のような取扱いをしたり、推論における真の前提扱いするのは、不健全。

(注 2) ちなみに、タブローで確かめてみればすぐに分かるのだが、「お薬を飲んだヒト(例:日本人) の中に効く人が存在する」 すら、それが論理的に満たされるには、存在措定を含め、厳しい条件が必要になる。 「へー、そうなんだ ・・・」 と呆れるほどである。

実は、ここはまだ薬効評価の闇 (いい加減さ) のほんの入口よ。 今日の話は、さらに様相論理的な闇につながっていくのよね、フフフ ・・・ (つづく)。

・・・ とまぁ、なぜか最後はオネエ言葉になりながら、理屈っぽい話を長々としてしまった。 すまんかった。 この論理学シリーズ、この先も時々やるから、覚悟しておくように ・・・ あ、読者がまた一人逃げた。