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小野俊介 サル的日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-09-10

目まいがするほどドラクエしない

朝晩、だいぶ涼しくなってきましたが、皆さんお元気? ちょっと間が空いてゴメンね。 この頃、気苦労が重なってブログを書く気分ではなかったのである。 ドラクエを深夜までやりすぎて頭痛、めまいが止まらない、などということでは決してない。 家人に 「あんた、年齢はいくつなの? ゲームは一日1時間以内に決まってるでしょ?」 と怒られまくっているわけでも決してないことだけは強調しておこう。

ここ数週間湿気が高いので、本の自炊をやろうとすると紙の分離がうまくいかず、時々数ページがくっついて吸い込まれてしまう。 なんかタイのバンコック、マレーシアクアラルンプールの室外の空気がこんな湿気だったよなぁ、と昔訪れた都市の気候を思い出したりする。 ほんと、東京気候は変わってしまいました。

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先日、とある学会シンポジウムパネリストとして参加。

サル的なヒトは、最近はその手の学会シンポに参加することはほとんどない。 そもそも学会というものに参加する気分になることもほとんどない。(注 1) だって、医薬品開発や規制がらみの学会って面白くないんだもの。 新しい情報が得られるわけじゃないし、学問として尖った意見、面白い異説が聞けるわけでもない。 お仲間で流行のトピックのパネルディスカッションやって、お仲間で講演やって、お仲間がポスター出して。 政府広報の垂れ流しみたいなセッションもやたら増えた。 昔(二、三十年前)は、フロアから手厳しい質問・コメントをして、壇上のお役人や学会重鎮の顔面を蒼白にさせる名物センセイが何人かいたものだが、今ではその手のおじさんはいないし。 みーんな予定調和。 お役人・重鎮のご機嫌伺のつまらない質問ばかりである。

(注 1) 「学会がつまらない」 というのはおっさん・おばさんの意見である。 学生、若者(心の若者を含む)、初心者はどんどん学会に参加しなさい。 土台の知識が無い若者が業界の常識をまとめて勉強するのに、学会参加が最も効率的な方法であることは間違いない。 ほれ、次の臨床薬理学会は12月7日−9日、パシフィコ横浜だよ。 若者は、中華街などをフラフラせず、会場を隅から隅まで回って、先輩たちの知識をしゃぶりつくすように。 私もポスター会場には行くので、声かけてね。 世間話しましょう。

が、先日のそのシンポは恩ある大先生に依頼されたため、断ることもできず、参加したのである。 きっかけは何であれ、講演する以上はベストを尽くすのがオトナの流儀。 テーマについて何週間も熟考し、本気で聴いてくれる人はごくわずかにせよ、その人たちの心に届く講演・スライドを作成し、当日に臨んだわけである。 内容は、医薬品評価の世界の学問的な課題、たとえば 「薬が効く」 という表現の意味が全然伝わってないよ、とか、『医薬品の輸入超過が問題だ』 というけど、それのどこが問題なのかが分からない、といった、このブログの読者ならとっくにご存知の話ではある。

それらを真正面から取り上げて、ギャグとユーモアをまぶして陳列する。 講演はいつものとおりの (不) 出来であるが、まぁいいや。 一生懸命やったからな。

・・・ と思って、講演後帰り支度をしていたら、ほら、例によって何人かのこの業界の重鎮のおっさんたちが寄ってきた。 顔は笑ってるが、目は笑ってない。 「小野さんの今日の講演、面白かったよ。 でも、あなたの話は哲学的すぎて、ワタシらにはさっぱり分からない」。

ハイハイ、そうでしょう、そうでしょう(棒)。 この台詞を講演後に聞かされるのも毎度のことである。 何十年もの間、耳にタコができるほど聞いてますよ。 「哲学的」 が誉め言葉ではなく、嫌味であることも、とっくに理解してますよ。 ちなみに、皆さんよくご存知のとおり、私の学会での講演って、だいたいこのブログ並みの分かりやすさです。 医薬品業界の住人で、話の内容が分からないなんてことはあり得ない。

要はこの人たち、私の話が気に入らないのである。 というか、私が目障りで仕方がないのよね。 ストレートにそう言えばいいのに (笑)。 

むろんこちらはそんな嫌味ったらしい台詞は慣れっこだから、「ハハハ、すみませんね。 医薬品業界に不慣れなもので、新入生向けの易しい教科書に書いてあるようなことばかり話しちゃって」 などと嫌味で反撃するのもいつものとおり。

まぁそんなこんなで、毎度毎度多かれ少なかれ不愉快な思いをするのが学会のシンポである。 前にも書いたが、講演後に座長がいきなり怒鳴りつけてきたこともあるぞ (これね → バカ発見器 - 小野俊介 サル的日記 )。 いやはや。 こんな国でまともな学問やピチピチと自立した産業が育つとはとても思えんよ。 ため息。

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少し前に評判になっていた本だが、読み損ねていた。 もうすぐ映画化されるのね。

終わった人

終わった人

サラリーマンは皆、遅くとも定年が来たら、はいご苦労様、と組織から放り出される。 みーんな 「終わった人」 になるわけである。 「終わった人」 扱いされたくないから、必死で何かにしがみつこうとするけど、サラリーマン的には 「終わった人」 は 「終わった人」。 嫁さんとの関係もビミョーですね。 定年退職後、ドラクエやりすぎて家を追い出されるかもしれんなぁ、などと思いながら暗鬱たる気分で読了したのであった。

おすすめですよ。

2017-08-23

算術の少年しのび泣けり夏

皆さんさぁ、勘弁してよ、ホント。 マジで、こんなブログなんか書いてる場合じゃないのよ、自分。

今やっとレベル24まで到達したところなのよ。 ソルティコの町でちょっとカジノで遊んだりしてたわけ。 そしたらさ、そこから外海に出なきゃいけなくなったんだけど、海で出てくるモンスターたちが結構強くて、死にそうなのよ。 カミュの呪文のジバリカが全然効かないの。 だからさ、こんなくだらないブログ書いてる場合じゃないってこと。 わかった?

・・・ などと52歳のおっさんとはとても思えぬ腑抜けたことを書いているドラクエ11野郎のサル的なヒト。 大丈夫だろうか。 大丈夫なはずがない。 が、いいのだ。 まだ夏休みである (と勝手に思うことにすれば)。

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大学や企業での講義で、ロクに知りもしないことをエラソーに語る自分自身に嫌悪感をおぼえることは多いのだが、さすがに最近は昔の自分よりはモノを知っているよなぁと感じることも増えた。 20年前の自分はフッサール (注 1) なんて知りもしなかったが、今では講義の題材に使ったりしてるもんな。 少しはオトナになったのだ。

(注 1) 現象学のヒトです。 主観−客観図式(を乗り越えるの)に大きな影響を与えた哲学者


一方で、そういった知識の蓄積ではどうにも乗り越えられない知的な 「バカの壁」 があって、いくつになってもそれが心の中で痛み続けている。 バカっぽい言葉を使えば 「トラウマ」 化してるって感じ。

その手のトラウマはむろん一つ二つではない。本当にたくさんの 「バカの壁」 を抱えているのだが、その中でもっとも分かりやすいのを紹介すると、たとえば、数学コーシー列という概念。(注 2)

(注 2) ほれ、lim (am-an) = 0 (m, n → ∞) ってやつ。 数列の収束の条件。 思い出した?

34年前、大学の教養課程の解析学の講義は、2時間の講義時間中、教授が学生の方を一度も振り返らずに、黙々と数式を黒板に書いていくスタイルであった。 黒板に書かれているのが、日本語なのか、英語なのか、数式なのか、証明なのか、計算なのか、ギャグなのか(笑) それすらも区別がつかない。 おそろしいことに教科書も指定されていなかった。 なので、予習・復習もできない。 1年間、週二回、そもそも自分が受けているのが数学の講義なのかすら判然としないままで過ごしたのである。

そんな絶望的な状況の中で出会ったのが 「Cauchy」 という言葉である。 何のことかまったく分からないが、「Cauchy」 という言葉を先生が黒板に書いているぞ。 catch の過去形か? いや違う気がする。 読み方も分からん。 意味も分からん。 何もかもがまったく分からんが 「Cauchy」 という言葉だけはノートに書き写しておこう。 いや、意地でもそうせねばなるまい。

・・・ う、ううっ。 情けない。 ノートの字が涙で滲んで霞んでいく。

父上様、母上様。 田舎から無理して過分な仕送りをしていただいているのに、本当に申し訳ございません。 あなたたちの息子は、東京の大学の数学がまったく理解できないのです。 黒板に書かれた文字の意味が、何一つ、判別できんのです。 分かるのは 「Cauchy」 という記号がそこにあることだけ。 私に今できることは、木偶の坊 (でくのぼう) のごとく、大学ノートに 「Cauchy」 なる記号を書き写すことだけなのです。 何のことやらまるで分かりませんが、せめて丁寧に書き写します。 「Cauchy」。 こんな不出来な息子をお許しください。 

そういう辛い記憶とつながっているものだから、いくつになってもコーシー列の概念が頭に入らない。 私の場合、確率論や統計学を本気で勉強したのはむしろ大学を卒業してからだが、そこでも 「Cauchy」 という語をテキストで見つけたとたんに、頭がボーっとして、人間の証明テーマ曲が流れて、意識が遠くなってしまうのだ。

・・・ 母さん、僕のあの帽子、どうしたんでしょうねえ? ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ ・・・

D

学生諸君。 このサル的なセンセーは 「分からないこと」 の辛さ、悲しさを死ぬほど知っているぞ。 サル的を自称するのは伊達じゃない。 講義や指導の中で分からないことがあったら、安心して 「分かりません」 って言ってね。

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前回紹介しないといけなかったのに、紹介し忘れたので今回。 戦争にやたらと近づいていく阿呆どもに読ませるべき本。

加藤陽子先生、いろんなメディアでお見かけしますね。 先生とは大学の出版会の委員会でご一緒することがあるのだが、私のような無学なサルにとっては、いつもその場で (無料で) 講義をしていただいている感がある。 役得とはこのこと (笑)。 この本は高校生向けの講義をまとめたものなので、誰でも読めます。 「ふーむ。 歴史家はこういう風に歴史を見るのか」 が分かるよ。 おすすめです。

もう一冊、これは加藤先生のおすすめ。

小松左京セレクション 1---日本 (河出文庫)

小松左京セレクション 1---日本 (河出文庫)

もし日本が8月15日に戦争を止めずに、その後も本土決戦を続けていたら? という短編SF 「地には平和を」 にはウームと唸らされます。 我々昭和中期型世代は 「日本沈没 エピローグ」 にも涙腺が緩むはず。 小松左京はすごい作家だったのだなぁとあらためて認識。

なお、ニポンの医薬品研究開発や産業は実際に沈没してるのに、ニポンのおえらいさん、みんな知らん顔して沈没中どころかニポン躍進中の夢に浸って、バラ色の未来をうたっているのな。 私たちの足元、ずぶずぶに泥水に浸かってますけど。 そのことにとっくに気づいているビジネス界の人たちは、ずいぶん前にニポン脱出してるのにも大笑い。

小松左京先生の書きたかった未来は、きっと、これですね。

2017-08-10

ドラクエしすぎない

なつやすみのにっき

いやくひんひょうか小がっこう 1年2くみ おの しゅんすけ

8月10日 はれ

きょうは、とてもあつい日でした。 パンツとシャツがあせでぬれべしょで、きもちわるいです。
そとでザリガニつりをしてかえってきたら、うちの外のかべに、セミのようちゅうがはりついていました。
かべからおちるといけないので、ちかくの木にうつしてやりました。

ばんごはんは、れいとうサンマとごぼうでした。

ごはんのあとで、セミがどうなってるかを見にいきました。 そしたら、もう白いセミが外にでていました。
とてもきれいでした。
おかあさんが 「まだやわらかいから、さわったらだめよ」 といいました。
そしたら、足のゆびをかにさされて、かゆくてたまりませんでした。

いえにはいってから、ドラクエをしました。 メラができるようになったのですごかったです。
でもドラゴンのつよいのがでてきたので、しぬかとおもって、びっくりしました。

ドラクエをしたら、おかあさんが 「3じかんもやったらだめでしょ」 とおこられました。
「まだねむくないよ」 といったら、「じやあ、セミがまだいるかみてきて」 といいました。

ぼくはかにさされるのがいやだったけど、見にいきました。
そしたら、もうセミはいませんでした。
おかあさんに 「セミはいなかったよ」 といったら 「あんたが3じかんもドラクエやったからでしょ」 とおこられました。

せみがかえってくればいいなあ、とおもいました。


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おおむね、というか実際にそのような生活を送っているサル的なヒトである。 皆さんお元気? 夏休み、のんびりしてますか?

少し前にズボンを買いに行ったのである。 パンツとか言うなよ。 気持ちわりーからな。 買いに行ったのはおズボンだ。

サル的なヒトには服を買うという習慣はない。 服なんていうのはなんか布を身にまとっていればいいのである。 すっ裸だと捕まるし、冬は寒いからな。 365日同じ服を着て、同じ靴を履いて出勤しても、なんら不自由はないし、不満もない。 そうは言っても加齢臭は嫌だし、汗臭いのも嫌なので、洗濯はしてもらうけど。

いつも同じようにバックパックを背負っているので、僕の数少ないズボン (スーツを含む) はすべて右ポケットのあたりが擦り切れてボロボロになっている。 何ら支障はないので平気ではいているのだが、そうするとなぜか家人が怒り出すのだ。 「そんなみすぼらしい恰好やめてくれる? 私が放置してるように見られちゃうでしょうが!」 とのこと。 貧乏人が貧乏ったらしい恰好をして何がいかんのだ、と思うし、ボロを着ている本人がまったく恥ずかしくないのだからそれでいいじゃないか、とも思うのだが、家人をこれ以上怒らせると危険なことになる。

で、近所のユニクロへ。 ここなら僕の稼ぎでも買えるズボンがあることくらいは知っている。

男性モノが並んでいるフロアの一角に、ズボンがずらりと陳列されておる。 おおっ、世の中にはこんなにたくさんズボンがあるのか! まるでおとぎの国のようである。 たくさんありすぎて何が何だか分からないので、目の前にある一番安そうな黒いズボンを二つ、手に取ってみる。 一つはフツーのズボン。 もう一つはちょっとコジャレてる。 なぜか中に紐がついているぞ。 ま、いいや。 二つ買っておけば今後5年間はズボンを買わなくてすむな。

試着室で足の長さを合わせたら、フツーのズボンの方はだいぶ長いので、裾をピンで留める。 裾上げしてもらうためね。 もう一つの方は ・・・ おおっ、ぴったりサイズ! 足の長さがピッタリで裾上げ不要だ!

試着室を出て、カウンターにいる店員のおねえさんに 「えーっと、こっちのズボンはこのピンで留めたところで裾上げしてください。 こっちのズボンは、なぜかぴったりの長さだったので、裾上げはいりませんから」 とお願いしたのだが、なぜかそのとき、店員のおねいさんがほんの少しクスっと笑ったのである。 オレ、なんか可笑しいこと言ったっけ?? ・・・ と不審に思いながら店内を見渡したとき、私はすべてを理解した。

そ、それって、アンクルパンツ7分丈 ってやつ ・・ なのか ・・・ ゲ、ゲフッ (血を吐く音)

しかし貧乏人は立ち直りが早い。 安けりゃいいのよ。 そのアンクルパンツ7分丈をあたかもビジネススーツのように華麗にはきこなして、毎日元気に通勤しているサル的なヒトなのだ。

次にズボンを買いにお店に行くのは、5年後である。

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遅ればせながら 「La La Land」 を観る。 おおっ、これはなかなかに優れもの。 映画館でちゃんと見ればよかった。

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「La La Land」、ワンダホーな映画ですよね。 ストーリー展開も、にじみ出てくる情感も、ミュージカルシーンも申し分なし。 涙がポロポロとこぼれましたよ。 でもね、人生長いこと生きているといろんな映画を見てるから、つい昔の名作と比較してしまうのよ。 たとえばこれ。 「The fabulous Baker boys」。

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「La La Land」 のラストシーンの趣、苦みをそのまま一つの作品にしたのが 「The fabulous Baker boys」 って感じ。 人生ってさ、苦(にが)いよね。 ガキどもには分からんだろうが。

「La La Land」 には感動させられたけど、半年もすれば忘れてしまうかも。 でも30年前に見た 「The fabulous Baker boys」 は忘れられないのである。 心の中の、触ると痛いところに引っかかったままなんだよなぁ。 きれいなおねいさん役があのミシェル・ファイファーだっていう、それだけで評価点が7億点加算されているっていうのもあるけど。

2017-07-28

付着させない

長生きすると、自分の無知が次々と明らかになる。 あるいは、知らなくてもいいことを知らされたり。 喜ぶべきか、悲しむべきかは、分からない。

後頭部をバットで殴られたような衝撃を受けたニュース、その1。

江戸時代農民もしっかり名字があったという件。 そして、それは歴史学の常識というか、小学校の教科書にもそう書いてあるよという件。

週刊ポスト 2017年 8月 4日号)
 
小学校の社会の時間に、「江戸時代には武士だけが名字を持っていた」と習った人は少なくない。これが名字に関する誤解の最たるものだ。

実は社会の教科書には 「武士以外は名字を名乗ることができなかった」 と書いてある。 しかし、この表現から 「名字はあったけれど、公的に名乗ることを禁止されていた」 ということを、社会が専門でもない小学校の先生に理解させるのは無理だろう。 庶民の名字について誤解したまま子供に教えてきた先生たちも多かったのである。

実際には、室町時代にはすでに農民は名字を持っていた。 最も古い記録は、和歌山県紀の川市粉河王子神社に伝わる名つけ帳である。 新生男児の名前を記録したこの帳簿は室町時代の文明10年(1478年)以来一度も途切れることなく現在まで続いている。 そこには名前の上に農民たちの名字が記入されている。 同地が特別な地域であったと推測する事情はなく、当時から農民が名字を持っていたことを示す証拠といえる。


ガ━━(゚д゚;)━━ン!! 

し、知らなんだ。 というか、完全に勘違いしていた。 52歳にもなって、こんなことすら知らない自分。 情けない。

うちは代々、田舎の農民家系である。 「○○家の先祖は、200年前は ××藩の家老で、 ・・・」 などとエラソーに語るお武家出身者に向かって、心の中で、「てやんでぇ、名字持ってりゃえらいのかよ。 お武家だのなんだのと言ってみたところで、200万年前にはみんな猿人じゃねーか」 などと盛大に毒づいていたのだが、今後はもう毒づけなくなるじゃないか、このヤロー。 どうしてくれるんだ。

「お百姓さんってさ、明治維新のときに、慌ててそのあたりのかっこいい名字をテキトーに名乗ったんだよね。 ( ´,_ゝ`)プッ 」 ってなことを多くの人たち (自分自身を含む) が言ってたわけだが、そんなことはなかったのだ。 うちの先祖は単なる 「田吾作」 じゃなくて、室町時代くらいから 「小野 田吾作」 だったのね。 ごめんなさい、ご先祖様。

これってニポンの歴史教育の分かりやすい歪みである。 鎌倉幕府ができたとされる年号が1192年になったり、1185年になったり、またもや別の年号になったりしている例からも分かるように、僕らの受けた歴史教育は結構テキトーである。

衝撃的ニュース、その2。

Wall Street Journal (2017.7.27) が、水泳のプールについてこんな記事を載せていた。

そのプールの水、本当にきれい

プールの水を調べると、4000種類以上の食品や飲料、医薬品に使われているある人工甘味料が異常な高濃度で検出される。 興味深いと思うかもしれないが、その理由を知れば気分が悪くなるだろう。

「これは利用者がプールの中でおしっこをしている証拠」アルバータ大学(カナダ)で毒物分析や環境毒性学を専攻する博士課程の大学院生リンジー・ブラックストック氏はそう話す。


あいやー、おまえら、やっぱりやってたのか! いつもプールにいくたびに、「世間の人たちって、おしっこに行く間隔が長いんだなぁ」 と感心してたのだが、実は、やらかしてたってわけかい。 サル的なやつらじゃのぅ。

記事の中の分析結果に基づいて計算すると、ふつうの6レーンくらいの50メートルプールには、50−100人分くらいの尿が入っている ことになる。 尿量は1回200−400mL で計算。

実は、その記事にはもう一つ衝撃的なデータがあったのだ。

プールや温水浴槽における病原菌の主要発生源は尿ではなく、体に付着している便だ。 フラフサ氏によると、大人には通常、約0.14グラムの便がおしりに付着しており、子どもの場合は10グラム にもなるという。

 「1日に1000人の子どもが遊ぶ比較的規模が大きいウォーターパークなら、約10キロということになる」(フラフサ氏)。


・・・

・・・

・・・ クンクン (こっそり自分のお尻の匂いを嗅ぐ音) ・・・ むっ? こ、これは ・・・ 

ま、まぁ、とにかくだ。 パブリックヘルスを大学で教えている専門家としては、次のアドバイスをしておこう。

その1。 あんたが仮に気の短い江戸っ子だったとしてもだ、プールに入る前にはよーーくケツを洗ってくれよな。 

その2。 おい、よい子の諸君。 付き過ぎだ。 ちゃんと拭け、な。 夏休みでドラクエに夢中になってるのは分かるが、まずはケツを拭け。

その3。 プールの中でブルブル ・・・ ってするなよ。 絶対にすんなよ。 いや、これはダチョウ倶楽部のやつじゃないぞ。 マジでだぞ。

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暑くて暑くて体力が落ちているので、今日はこれくらいで勘弁してもらおう。 読者の皆さんも身体に気を付けてね。 

真夏に見る真剣なおバカSF映画。 なかなかに素晴らしかったのである。 「ライフ」 おすすめです。

D

何年か前に 「ジュラシックワールド」 を見た時の感想を久しぶりに思い出した。

「登場人物、全員 バカ」(笑)

でもそれでいいのである。 そういうふうに作ってある映画だから。 100点満点で評価するならば、5億点は無理でも、2億点くらいは付けるよ。 5億点は、この秋に公開される2作、リドリー・スコットの例のアレと、「お客さん、2つで十分ですよ」 の続編 BR2049 のためにとっておこう。 BR2049には、たぶん、10億点つける気がするよ。 仕事休んででも初日に行きます。

2017-07-17

ひと雨くれば


人知れず咲いた 赤い朝顔ひとつ
日照り続きの 軒影に 忍ぶ恋しさよ

あぁ 好きな人は 今どこに
帰らないのか 帰るのか

あぁ わたしだって 女です
あなたばかりを 待てません ・・・

・・・ といった艶っぽい風情を鼻歌で歌いながら、無料奉仕のブログを書いているサル的なヒト。 こんなにもクソ暑いのに、よくもまぁ頑張るもんだ。 皆さんお元気? お中元・残暑お見舞いを届けたい方は遠慮なく研究室あてにどうぞ(笑)。

色恋沙汰とは無縁の本ブログだが、むろん私は色恋沙汰をバカにしてるわけではない。 むしろ大好きだ。 この歌詞くらいの艶っぽさがない人生なんぞ、そもそも生きている意味がなかろう。 読者の皆さんも枯れてる場合じゃない。 つまらん仕事なんか放りだして、ほれ、愛しいあのヒトのことをしばし思い浮かべるがよい。 若き日の恋心を思い出して、「あのヒトはあれからどんな人生を歩んでいるのだろうねぇ ・・・ 」 などと呟きながら遠い目をしてみよう。 これって人生経験ってやつがないとできない芸当ですからね。 ガキには真似できまいて。
 
それにしても、昔の歌はフレーズの響きの一つ一つが素晴らしくて気持ちが良い。 歌詞を引用しているだけでうっとりしてしまうよ。


あぁ わたしだって 女です
あなたばかりを 待てません

陽は高く 今日もまた 暑くなりそうだけど
思い出は流したいの
ひと雨くれば あぁ ・・・ 

D

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研修、人材育成といったものについて語る9月のシンポジウムの抄録の締切が先週だったので、あわててこんなものを書く。 アハハ、あわててると、正直に思っていることを書いちゃうものである。

何もかもが分からない中での人材育成は相当に難しい

小野俊介
東京大学大学院薬学研究科

教育機関にいながら、これまで一度も、受講者そして私が満足のいく薬の規制・評価の教育・訓練を提供した記憶がない。 その理由を考えてみる。

第一に、薬の規制・評価について私自身が「これは素晴らしい」と思える系統的な教育を受けたことがない。 すべては自学自習。 望ましい教育の姿を自身が知らないのだから、あるべき教育の姿を語れるはずがない。 情けない限りである。

第二に、私は人生において一度も「薬の評価を追求しよう」と決意した記憶がないのに、なぜか薬の評価の仕事をしている。 時には不遜にも医薬品評価の専門家のごとき顔をしたりして。 不思議である。 人事異動でたまたま薬の承認審査部門に配属されたからこんなことになったわけだが、もしたまたまロケットの開発部門に配属されていたら薬の評価とは無縁だったろう。 ところで、皆さんがこの会場にいるのはたまたま?

第三に、壇上・会場のそうそうたる諸先生方を見渡したときに、「れぎゅらとりーさいえんすの教育・訓練を受けたからこそ、私は今の指導的ポジションにいられるのですよ」 というセンセーが誰一人いないように見えるのである (勘違いだったらごめんなさい)。 先生方はそれぞれの専門領域でご活躍され、素晴らしい実績をお持ちである。 そのような先生方にとって、いわゆる 『れぎゅらとりーさいえんす』 なるものは、メシのタネとして役に立つ単なる余技・趣味にすぎないのではないのか、という疑念に苦しめられている。 出世の役に立たないことを本気で学んでくれる社会人・学生が、この世知辛い世の中、いますかね?

第四に、これが結構悩ましいのだが、薬の規制・評価とはそもそも何なのかが分からず、何を教えてよいのかがさっぱり分からない。 薬の規制、ビジネスの意思決定って、ほとんどが単なる思いつき。 「思いつきだろうとなんだろうと世の中がちゃんと回っているのだからそれで良いではないか」 とする考え方もあるが、先カンブリア時代だって世の中は回っていたことを思えば、多少は建設的でありたい。

薬がらみの言葉の大半は意味不明である。 「risk-based ほにゃらら」、「品質を作りこむ」など、その語を使う人の理解が試される言葉が多いのがこの業界だが、問題はそこではない。 たとえば薬効評価のご本尊、「薬が効く」 という文の意味が分からない(このままでは文の真偽が問えないでしょ?)。 「薬が効く」 の意味が分からないのだから、RCT で示された有効性の意味も本当は誰も分からないはず。 RCT で検証してるのは 「薬がきく」 ではなく、「薬がけく」 かもしれない。 「薬が安全」 も同様に意味不明文だから、薬害被害者・企業・当局・裁判官の間で言葉が通じないのも無理はない。

こうした点を諸先生方がいかに乗り越えているのか。私も本シンポでしっかり学んで帰りたい。


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三連休は寝転がって、汗をかきながら本を読む。 フムフム、多人数の囚人のジレンマでは ・・・ などと難しいことを考えているうちにたいていは意識が遠くなって、お昼寝に突入してしまうのだが、睡魔に敗れて悔いなしである。

知識(発行:思水舎)

知識(発行:思水舎)



九島さんのこの本、面白い。 著者の九島さんのスタンスが好きである。 

「著者略歴」 にあたるものが一切無いのが素晴らしい。 ほれ、だいたいすべての学術書・教養書と称するものには、「著者 デューク東郷。 19XX 年 ○月 ○日生まれ。 ○○大学××学部卒、△△大学大学院修了。 現在○○大学教授」 などといかにもエラソーな著者略歴がついているじゃありませんか。 「無知蒙昧な世間の読者を、立派な肩書を持つ高尚なセンセーが導いてあげます。 だから買えよ」 ってやつ。 それがこの本には一切ない (だから買ったのだ)。 

出版社による 「校正無し」 というのも素晴らしい。 同じ言葉には同じ表現を一律に当てはめるという出版社の方々による校正は、文の色気を確実に損ねるのよね。 私なんぞはつまらないGCPの解説書を書く時だって(笑) 「など」 と 「等」を、法律の条文どおりに使うのではなく、文章の流れ、音読したときの音の響きで使い分けているのだが、編集の人たちってそうした美的ニュアンスをきれいに塗りつぶしてくださる。(注 1)

(注 1) ただし、色気がある薬機法の解説書というのもビミョーなので、出版社の人たちは遠慮なく校正してかまわないと思います。

書き間違い、語尾の不統一を含めて、その人の文章である。 「サル的日記を、より正しい文章に校正してあげましょう」 などとぬかす輩がいるかもしれんがな、やれるもんならやってみやがれ。