小野俊介 サル的日記

いや、その、サル的なヒトだから・・・

人類の知恵と真理を追究しない

ちょっと仕事があって、日曜日だというのに早起きしたのである。 ボーっとした頭でテレビをつけたら、「おおっ! こ、これは!」 と一瞬で目が覚めてしまった。 なんと、杉本彩国生さゆり、そして杉田かおるの3人が、浴衣を着てトークをしてる。 いや、何がすごいのかはよくわからないのだが、何かがすごいことだけは分かるぞ ・・・ あ、それって論理学における ω(オメガ) 矛盾 (注 1) ではないか ・・・ などと、こちらの頭も朝からいきなりゲーデル不完全性定理の世界に突入するというシュールなことになってしまった今日この頃。 皆さんお元気?

(注 1) 式 A(1) は正しい、 式 A(2) は正しい、式 A(3) は正しい、・・・ と個々の式の正誤はすべて言えるのに、「それらの式が 『すべて』 正しい」 とは言えないという矛盾。 無限と有限の狭間で生じる。

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最近のお天気、無茶苦茶だとは思いませんか。 お昼、外でラーメンを食べたのである。 ラーメン屋から出ようとしたらその瞬間から集中豪雨に。 傘は持ってたけど、そんなもの全く役に立たない状況である。 オフィスに戻らぬわけにはいかないので、意を決してラーメン屋を飛び出すが、10秒ほどでズボンが重くなり、20秒ほどでボロ靴が水浸しに。 歩くとガッポン、ガッポンと妙な音がする。 もの悲しい。

オフィスに戻ったが、とても仕事ができる状況にはない。 たまたまその日は秘書のおばさまおねいさま方はいなかったので、まずはズボンを脱いでエアコンの吹き出し口に掛ける。 バカボンパパのステテコ姿のサル的なヒト。 急にお客さんが来ないことを祈る。

ぐちょぐちょのボロ靴と靴下も乾かさないといけないのだが、ここは大学の研究室。 乾燥機も物干しもハンガーも何もない。 しかし、私だって4千年の文明を背負った人類 (サル的だけどね) の端くれである。 プライドがあるぞ。 北京原人にはできないことが何かできるはずだ。 何かいい方法は、と ・・・ あ、そうだ。 あれだよ、あれ。

電気ストーブとブックエンド。 人類4千年の知恵の結晶(笑)

・・・ こうしてなんとか危機を乗り切ったのだが、乾燥している間ずっと、オフィスには何とも言えない臭いが充満したのである。 強いて言えば、ドブネズミ臭とキッチンのシンクの生ごみを3日くらい放置した後の臭いを足して二で割ったような臭い。 ドブネズミってホントは嗅いだことないけどな。

というわけで、まだまだ人類には進化の余地があることが判明した2016年8月中旬。 遠い未来の人類の足は、きっと、今の我々の足ほど臭くはないはずだ。(注 2)

(注 2) そっち方面の進化ではない。

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日々 wet の実験に命をかけている薬学の先生方から、時々、「ドライラボ (実験をやらない、社会科学系の研究室ね) の人たちって、実験科学者がそうしているように、ホントに真理を極めようとしてるの?」 といった不審の目を向けられることがある。 皆さん紳士だから言い方は優しいけど。 でもそう尋ねたくなる気持ちはよく分かるのだ。

いわゆる 「れぎゅらとりーさいえんす」 での議論を見ていると、「私には現状はこう見えて、こういう問題があるように私には思えて、私的にはこうあってほしいなぁと思う」 といった私的感想が述べられているだけのことがあまりに多い。 (実際のプレゼンでは 「・・と言われている」 「・・という政策が進められている」 といった感じの、無責任な受動態 (笑) が好んで使われ、「私」 という言葉は一言も出てこないことに注意せよ。) 一体それのどのへんが 「れぎゅらとりー」 なのかというと、その 「」 が規制当局 (れぎゅらとりー えいじぇんしー) の従業員であるという、ただその一点だったりして。 もしそうだとすれば、そんなものは 「レギュラトリー」 でも 「サイエンス」 でもないよねと思う実験科学者の感覚は正しい、と僕も思う。

「規制当局で働く人の言葉は自然に規制科学になる」 などというのは、「スプーン曲げができる手品師の言葉は自然に金属工学になる」 というのと同じくらいバカげているもんね。

ただし、実験科学者がどうやら心の中で抱いているらしい 「ドライラボがやっている医薬品の社会科学には、(実験科学の我々がやっているような) 真理に迫るアプローチがそもそも存在しないのでは?」 という疑念には、明確に「いいえ、存在しますよ。 あなたがそれを知らないだけ」 とお答えしたい。 例を挙げろと言われればいくらでも挙げられますよ。 

たとえば (あえて実証科学とは別の例を挙げるとすれば)、今や社会科学の常識とも言えるアロウの不可能性定理の帰結・含意をどうとらえ、どう現実に適用しうるのかを考える、なんてのは論理世界と現実世界の究極の融合であり、真理世界の探究の旅である。 もっと具体的にしましょうか。 たとえば、医薬品の価値評価 (たとえば承認) において (公理としての) 推移律や選択肢の独立はどのように・どの程度前提にしうるのか、なんていう研究も、人類4000年の真理の積み上げに貢献する良いアプローチだと思うよ。 そういう学問的な課題をドライラボがきちんと取り上げていないのが問題なのだと言われれば、まさしくそのとおり。

というわけなので、実験科学に命をかけて真理を追究している先生方、医薬品規制の界隈に蔓延 (はびこ) る科学もどきだけを見て 「ドライラボは真理を追求していない」 なんて誤解はしないでほしいのです。 私たちもあなたたちの同志です。

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昼間の暑さはともかく、夜になると次第に夏の終わりが肌で感じられるこの頃。 今日のブログの締めは昭和のこんな感じでしんみりと。 40年前の田舎の花火を思い出す。 昔の記憶はいつも鮮明だ。

読んでくれてありがとね。