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哲学いろいろ

第五章 何もしない闘い

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[えんけいりぢおん](第四章−詩篇) - caguirofie041024よりの続きです。

第五章 何もしない闘い=話し合い

 《いま・ここなる〈わたし〉が わたしである》 これが基礎である。基礎への自己還帰 しかも この還帰した出発点からのわたしの踏み出し いや というよりは 出発点の持続としてのわたしの自己経営 いやいや すべては 生きたわたしの《存在》の問題として そのわたしのあらゆる形態における生きた自己表現の過程。繰り返すなら 過程動態としての《出発点》 これが わたしの現実であり その基礎(basis=歩み)だと思われます。 
 しかも この出発点に立って 次のことも 現実であろうと思われます。たとえば あらためて

主よ わたしに敵する者のいかに多いことでしょう。
わたしに逆らって立つ者が多く
《彼には神の助けがない》と
わたしについて言う者が多いのです。   (旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 3:1−2)

 自己のむしろ弱さを誇る自己生誕の表現 これの持続過程を歩むわたしたちは あたかも自己に閉じこもって和歌を詠み いつまでも空想に耽っていると見られ 神の・あるいは学問の・あるいは世間の知恵の一端をも 必ずしも知識としては学ぼうとせず 口に出してしゃれたことをも語りえず そんなことなら 《鳥のように山に逃れよ》と語りかけてくる人びとと共に  しかしながら 同じようにこの世の中にいることも 現実の一端であるのだろう。――ここからは 滞留しつつも もしそう言ってよければ 闘いが 始まる。自己という存在の持続過程を歩むわたしたちは それをもってする 何もしないたたかいである。

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