caguirofie

哲学いろいろ

p***a on ヘーゲルの補完

「正」で相対する場合は、控へめなのが効果的に思へます。同意する際に、何か付加するとか、少し修正するとかするわけですが、教へてやるのだ、といふ姿勢でゐると、受け入れてもらへなくなります。自然に気づいてもらふ、そんな状態が理想です。

bragelone

  1. 相手によるという原則もありますが 一般にはおのれの文体であくまで自己表現をするしかない。でしょう。
  • われはわれなりという原則も 対機応答の原則とともに大事です。なぜなら その相手も同じくわれはわれなりという人だからです。
  • そもそも《おしえる》ということは 一方で相手やほかの人間から〔けっきょく一足先に得たというに過ぎないところの〕情報や知識をそれ見ろ おまえは知らないだろう ザマァ見ろとでもいうかのようにひけらかされますが 他方ではそれを受け取った自分が自分の理解力とそして〔相手のそれとは違った〕判断力とで《おのれにおしえる》のです。
  • その結果は――おのれがおのれにおしえた結果は―― おのづと相手や他の人間のとは違って来ます。判断力が違いそれの応用が違って来ます。先を越されたことは 自分の情報収集の手間と時間が省けたと思っていれば済みます。
  • さらに大事な点があります。《自然に気づいてもらう》ことの危険性です。
  • そもそも そのように《こちらは決して自分の知識を誇っているのではない》という気持ちを表わそうとするのなら 先ほどの《おしえる-おそわる》の関係から自分が自由になればよいことです。
  • 誰もが 自分で自分におしえるのだという常識が持たれれば済みます。
  • そうではなく 知識をこちらからそちらへ与えたというようなコトを相手にさとられないようにする気配りがあるとしたらそれは 要りません。なぜなら けっきょくは――相手が気づいたときには―― 上から目線であったと分かるわけですから。《おしえる‐おそわる》関係があったことは消えません。
  • そうではなく たとえばわたしが正攻法で《ひとつの答え》をそのままぶっきらぼうに何ごともズバリ表わすならば それは 横にいて一緒に走っている仲間に告げているだけだからです。
  • ただし 確かにそういう場合には じつはクレームがつく場合はあります。なぜなら 隣りで一緒に走っていると言っても それは 周回遅れだということを言っていることになるではないか。というものです。
  • これは そのとおりです。だから 周回遅れぢゃないかとも そのとき言おうとしています。へっへっへという笑いをつけ添えます。
  • けれども 問題は たとえ三周も十周も遅れているとしても 相手は同じくその運動場でともに走っているということはマチガイありません。つまり 上から目線にはならないのです。
  • そうではなく あとで何となく気づいて欲しいというような《おしえ》方は 相手をまだその競技に出ていない補欠か脱落者かとしてあつかっていることになります。いっしょに走っていないと見なしています。だから アウトだと考えるのです。
  • なお 教師と生徒という設定による関係がある場合は また別になります。設定にしたがって《おしえ》てよいわけです。