caguirofie

哲学いろいろ

国鉄(1)

▼ (葛西敬之私の履歴書 日経 2015・10・12朝刊 32文化面) 〜〜〜〜〜〜〜〜
 ・静岡で総務部長

  静岡鉄道管理局の総務部長に就任したのは1977年2月。局のナンバー2で 人事や労務の責任者である。これ以降 国鉄の終焉まで 私は 労務問題に深くかかわることになる。
 当時 国鉄には国鉄労働組合国労) 国鉄動力車労働組合動労) 鉄道労働組合(鉄労)の3つの主要な組合があった。最大の組織は組合員が25万人を擁する国労で 戦闘的な動労と穏健な鉄労がそれぞれ5万人と6万人といったところだった。

 《葛西君 一つだけお願いがある》。着任早々 本社の運転局にいる旧知の課長補佐から電話があった。一度内命された新人一人の配属先を替えるよう 動労が求めているという。
 初めて労務を担当する私にとって 最初の試練であった。人事は経営権の根幹であり 筋の通らない話には応じられない。《それは無理だ》と拒んだ。

 本社としては 運転職場の7割を組織する動労ともめたくないのだ。《動労が怒ってストライキをやったらどうする。あなたは自分のメンツのために何十万人のお客さんに迷惑をかけてもいいのか》と重ねて発令替えを求める。
 私は《いま人事を曲げれば これから10年 20年にわたって組合の人事介入を許すことになる。その結果 もっと多くのお客さんに迷惑をかける》と突っぱねた。《そうか。どんなことがあっても知らないぞ》と 電話は切れた。

 1時間もしないうちに 今度は東京の動労本部の副委員長から電話が入った。同じ用件である。私が改めて断ると 穏やかだった口調が一変した。《おまえとは話してもダメらしいな。後は戦場でまみえよう》。
 しばらくして翌日の列車に乗務する予定の動労の組合員30人ほどが 《頭が痛い》《腹が痛い》と 次々に医者の診断書を持って休みを申請してきた。このままでは列車の運行に影響が出る。しかし 丸く収めようとして譲れば 際限のない連鎖反応が起こる。筋論では押すしかない。

 動労の職員が出勤できないなら 非番の国労職員に乗務させればいいのだが これが難題だった。国労も《動労が仕掛けたストライキのスト破りをした》とは言われたくないからだ。
 非番の国労職員に乗務させるよう部下に指示すると 案の定 みな驚いた顔で尻込みする。だが下がるわけにはいかない。乗務指示を出す直前 国労の運転系統の実力者と電話で話をした。《不当な要求を退け かつ安定した運行を損なわないためには非番の国労職員に乗務してもらうしかない》と話した。

 彼は《わかった。しかし2時間待ってくれ》と言う。1時間後に電話があり 《いつでも指示していただいて結構》とのことだった。結局 国労の職員たちが代わりにの乗務することが決まった。
 すると今度は 動労の職員から《頭痛が治った》《腹痛も治った》と連絡が相次ぐ。《あしたは出勤できる》と口々に言うので 《要員は確保した。安心して養生するように》と休ませた。

 私は自らの職を賭するつもりでこの問題い対処したが 国労の指導者のその立場を賭けての判断をしたはずである。立場は違っても自らの信念に忠実であるという一点で 不思議な信頼関係が芽生えた。立場を超えた付き合いは 彼が亡くなるまで続いた。


 ・ 激戦地の仙台 (2015・10・14)

 人事や管理権への介入は許さない。静岡鉄道管理局の総務部長として 私は一切の妥協をせず 労働組合と向き合った。ただそのころの静岡が 国鉄の中で特に荒れた職場だったわけではない。
 《激戦地》は仙台だった。全国的には国鉄労働組合国労)が組合員全体の7割程度を占める中 仙台鉄道管理局では鉄道労働組合(鉄労)と国労の勢力が拮抗していた。このため仙台の国労は 組織を全国並みに拡大しようとやっきになっていたのだ。一方の鉄労は協調的な労使関係を目指す穏健な組合である。

 そこで国労は鉄労に圧力をかけるとともに 列車の運行を人質にとって 現場で業務の妨害を繰り返す。何とか事態を収めたい駅の助役らは 国労側の理不尽な要求をのんでしまう。そうやって国労は管理者を自分たちの言いなりにし 鉄労つぶしに加担させようとしていた。
 加えて3年後には東北新幹線が開業する。要員合理化など 労組と協議すべきことは山のようにあった。

 1979年3月。私はその仙台局総務部長の発令を受けた。《タカ派の部長が来たら 目にものを見せてやる》。赴任が決まると 仙台の国労委員長が息巻いているという話が伝わってきた。《武運を祈る》と本社の先輩に送られ 降り立った仙台駅にはみぞれが舞っていた。
 仙台の現場はどうなっていたか――。たとえば 21人の要員がいた会津若松線区内の支区では 1年間に行われた業務は21本の枕木の交換だけだった。ほかに何をしていたかというと 一日中点呼を繰り返していたのだ。

 朝の点呼で 助役がある地点の線路の保守を指示する。すると組合員が《指示は具体的に行なう》という取り決めを盾に取って 《そこの地形はどうなっているのか》《待避するときはどこへ逃げるのか》《逃げる際にはどちらの足から逃げるのか》などと問い詰める。助役が口ごもると 《おまえは労働組合が列車にひかれてもいいと思っているのか》と糾弾が始まる。

 支区では風呂を焚くために 専従の職員1名が配置されていた。以前はアルバイトを雇っていたのだが あるとき作業が終わって風呂に入ろうとしたら 熱くて入れない。《外部の人間は労働者への共感が足りない》ので それ以来職員を充てることになったのだという。
 現場だけによるこうした悪慣行は 現場長や助役を大勢で取り囲んで威嚇し 強引に認めさせたものだ。法的な効果などない。そこで私はその一つ一つを数え上げ 《あしたからないものとする》と通告した。組合側は《労使が話し合って決めたものを一方的に破棄するつもりか》と激しく反発した。

 今まで通り強い態度で押せば 会社側は折れる。組合はそう思っていたのかも知れない。だが私は妥協するつもりなどない。《破棄ではない。はじめから無効なんだ》と蹴飛ばした。
 それから あちこちで起きる反乱を鎮圧して回る日々が始まった。《正当に働くように》と指示すると 組合員が《そのような命令には従わない》と無断欠勤したり 仕事をさぼったりする。これに対して私は 《働いていない分は支払わない》と 片っ端から賃金をカットしていった。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜