大昔には、職業音楽家なんて、存在してなかったんです。職業としては成り立っていなかったから、普段は別の仕事をしていて、お祈りのときだけ歌うとかね、歌を歌うといっても、そのくらいのものだった。それが西洋の合理主義的な社会の構造の中で、音楽というのは権利とか契約が関わってくるものなんだ、お金と結びつく仕事なんだということになってきた。
だけど、これから先、それがそうじゃない形にもう一度なるかもしれない。僕には、そんな気がするんですね。だから、いまみたいな状況は、そこにいたるプロセスとしては、案外いいことなのかもしれないって。誰も音楽では儲けることができなくなって、本当に好きでやってる人たちだけが残される。
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- 作者: 近田春夫
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日本には、昔からお年玉があるでしょう。西欧社会のクリスマスプレゼントに比べると、お年玉ってよりデジタルなプレゼントだと思うんですよ。
パクリかどうかは、いまや、そんな重要なことじゃないと思うんです。過去にあったものを編集するのは、いまは世界的に普通のこと、ある種の大前提になってることだから。聴くほうにしたって、パクったからこいつは才能がないとか、そういう見方はしなくなってるしね。だから、それよりはもっと、全体としてできあがったものが相手にどういう感じを与えるか、そういうことのほうが重要だと思う。
小沢健二の場合も、ともすると歌がヘタに聞こえたりするけれど、ライブで見るとけっしてヘタじゃないのね。うまくなったという意味じゃなく、昔からずっと同じ。歌って、このポイントとこのポイントだけは絶対にはずせない、はずすと成り立たないというポイントがあるんですね。逆に言えば、そのポイントさえ押さえておけば、それ以外はけっこう曖昧に歌っても大丈夫だったりする。
具体的に言うと、上がりきらなきゃいけないところは、絶対に上がりきらなきゃ気持ち悪いんですよ。下がりきらなきゃいけないところも、下がりきらなきゃいけない。そういうポイントに関しては、昔の歌を聴いても、必ずちゃんと押さえているんです。だから音楽的にはけっしてヘタじゃない。でも、ポイントにいくまでの動きみたいなものがフラフラしてるから、一見ヘタみたいに聴こえちゃうんだね。
本人がどう思っているのか、本当のところはわからないけれど、でも、誰もが「うまいなあ」と感じるような意味で上手に歌うことは、あまりプライオリティの上位にないのかもしれないね。
字面で見ると稚拙に見えるような歌詞でも、曲に乗せられると全然違ってきたりする。言葉だけで読むと矛盾してたりね。でも、歌にとっても言葉は、読むものじゃない、聴くものだから、ディレクターなんかが詞を見て、歌聴く前に「この言葉よくないから直して」なんていったりするのは、絶対間違いだと思う。とは言いながらも僕も昔は、見た目の字面をけっこう気にしたりもしたんだけど。
最近やっとわかってきたんだけど、詞を作る作業には、ある種の速さが必要なんですよ。極端な話、やっつけじゃないとダメな部分があったりする。あんまり推敲を重ねると、なんか止まっちゃうの、詞の勢いが。これは作曲にも言えるのかもしれないけど、とくに詞には、ある種の乱暴さが重要なんじゃないかなあ。