ある夫妻の風景

朝、診療前のテレサ先生がニルバ邸のまえを通りざま、ピノコさんに声をかけた。「ラテを買いに行くけど、一緒に来ない?」
そして、“ラテ”と聞いて添え菓子を想像しピクンとはね起きたニルバを見やり、「あ、ニルバも、よかったら」と笑顔でつけ加えた。

病院の本館1階には、「ベンジャミン広場」とよばれる憩いのスペースがある。洒落たことに、その脇に当世流行りの珈琲店が出店しているのだが、ベンジャミン広場は2階までの吹き抜けの造りとなっているため、朝いちばんの珈琲の香りは2階のブレストセンターのあたりまで流れてくる。その香りにつられて、ときどきテレサ先生やウッズ先生が、ナッツフレーバーや豆乳入りの、医局では味わえない類の飲み物を買いに行くのである。

珈琲店のまえには、手術まえの手術着姿の医師や白装束に着替えたばかりのナース、点滴台を押しながら並ぶパジャマの上にガウンをはおった入院患者さん、といった人たちで構成された、「いつも通りの」「風変わりな」行列がすでにできていた。業務連絡をしあいながら列の最後尾につくと、となりのカウンターも開いてたちまち人の数は減り、番号札代わりのレシートを手にしたテレサ先生とピノコさんは右手の柱の前へと移動する。……と、そのとき、ピノコさんが大廊下のほうに目をやり、「あ」と声をあげた。

やってきたのはオンコロジーセンター長のクルーニー先生だった。「あら」と顔をほころばせて、一緒に出勤しそれぞれの持ち場に別れたばかりの夫に近づいていくテレサ先生。白衣の妻と、水色の半袖シャツの上に聴診器を首から下げた夫は、人々が行きかう吹き抜けの天井の下でつかのまの談笑を楽しむ。……

ところが、ほどなくテレサ先生はこちらへすたすたともどり、不思議なことにクルーニー先生ももと来た道を引き返してしまった。
「クルーニー先生、コーヒーを買いにいらしたんじゃないんですか?」
ピノコさんが小首をかしげてたずねる。
「……あれ、いなくなっちゃった? 最近、胃が痛いとかいってコーヒー控えていたから。まさか私の顔見て退散したんじゃないわよね」

ピノコさんから向けられた視線をうけ、「ソウデス、テレサ先生のお顔を見て退散されたんデス」とうなずくニルバ――うーん、そういえばニルバも遠い昔、嫁ガエルの機嫌を見ながら、苦労して発見したアオムシに手を出さずに控えた経験がありましたな。え、ピノコさんも? スナック菓子をもうひと袋あけようとしたテラスちゃんのパパに、遠くから大きく首を振ったことが??

――いずこも同じ、ある朝の、愛すべき夫婦の風景である。