大衆決断 このページをアンテナに追加 RSSフィード



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1998-2004のログ

■ryuto taonと抱擁家族の活動告知と更新情報


たえず過去に拘泥しながら自分を更新するバンド、ryuto taonと抱擁家族は、現在ちょっと充電中(2012年4月13日)。


2011-11-01-Tue 古典新訳文庫、週刊誌

[]ぼくたちの好きな冒頭15 ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』


光文社古典新訳文庫については、ドストエフスキーのブームがあったときに、ネットでもさんざん批判的なブログが書かれた。自分もジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』が新訳で出たとき、訳者あとがきの黒原敏行氏の意気軒昂な文章(いかに自分の新訳が正しいものであり、先行訳がおかしなものであるかを縷々と書く)な辟易したことがあった。何せ中野好夫チルドレンですからね、何冊も読んでる訳じゃないけども。

しかしことし、南條竹則氏によるチェスタトン『木曜日だった男 一つの悪夢』を読んで、そのふんわり柔らかくて、構えも大きい感じに惹かれた。言うまでもなくこの寓話的で哲学的な推理小説吉田健一の先行訳があるが(創元推理文庫)、吉田の翻訳のクセと、この小説の伸びやかな感じは合わないという思いがあったので(ヨシケン訳は通読はしてないんですけれども)、ピクニックということばを使ってこの小説を捉えなおした南條訳はとても気に入った。

そんな個人的・古典新訳文庫見直しブームのなかで出てきたのが貝澤哉によるナボコフ『カメラ・オブスクーラ』である。まずAmazonの「遠近法」さんによる紹介を転載する。

 『カメラ・オブスクーラ』(1933)は、ナボコフが33歳のときにロシア語で書いた小説ですが、これまでの邦訳書である川崎竹一訳『マグダ』(1960)はフランス語訳からの重訳、篠田一士訳『マルゴ』(1967)はナボコフ自らが英訳したバージョンからの訳であり、ロシア語版原典の翻訳は本書が初めてということになります。 美しい少女と中年男の関係をめぐって展開される『カメラ・オブスクーラ』は、筋からしてナボコフの代表作『ロリータ』を思わせますが、他にも類似点が少なくなく、1955年に発表される『ロリータ』の原型的小説と言えるでしょう。

10年位まえに自分がつくった拙い書誌にも、リンクを貼る。

http://homepage3.nifty.com/loom/nabokov4.htm

これによると、富士川義之氏は『ナボコフ万華鏡』で、<ロシア語版の原題は『暗箱』で、英語版が『暗闇の中の笑い』>と紹介している。暗箱。

河出書房新社の世界文学全集の一冊として刊行された『賜物』につづき、英語版からの和訳は出ていたがロシア語からの和訳がなかったナボコフ小説の、<ロシア語

原点からの初の翻訳!>(帯より)である。貝澤氏は『ナボコフ全短篇』を除けば、ナボコフの長編の翻訳はない。あとがきによれば『賜物』の沼野充義の推薦によるものだったとのこと。

「訳者あとがき」には、英語版からの翻訳があったことは書かれているが、『マルゴ』という書名も、篠田一士の名前もないし、ましてや仏版からの重訳『マグダ』の存在など触れられてもいない。あとがきになくても、巻末かどこかにひとこと書誌データについて触れられていれば良いのだが、それもない。英語版とロシア語版ではまるで別物だという解釈も判るけれども、わが国における翻訳の来歴にまったく触れられていないというのは、「古典新訳文庫」を名乗る文庫にしては乱暴すぎる。何か、いやなユルさを感じる。

ともあれ滑り出しは素敵! 書き出しをご覧ください。

一九二五年頃、かわいらしくて愉快な生き物が世界中を席巻した――今ではもうほとんど思い出されることがないが、当時は、つまり三、四年のあいだは、世界のいたるところであまねくその姿を見ることができたのだ――アラスカからパタゴニア、満州からニュージーランド、ラップランドから喜望峰にいたるまで、ようするに色刷りの絵葉書が届くところならどこにでも――。この流行りの生き物にはかわいい名前があった。チーピーだ。

ナボコフ 貝澤哉訳『カメラ・オブスクーラ』(光文社古典新訳文庫)

チーピー!!


[]まがじなりあ・あちらこちら17 週刊誌戦争が始まる…のか?(途中からポエムのようになってしまう)


ブログもほんとにたまにしか更新していないが、そのたび『週刊文春』のことを書いている気がする。

3.11以後、週刊誌の伝える情報はますます無くてはならないものになっている。『週刊文春』と『フライデー』は震災以後、毎週欠かさず買っている。もちろん面白くて堪らないから買っている。だが、黙ってへらへらしていたら、情報を取らないで悠々としていたら、どんどん不利な状況に追い込まれる、そんな恐ろしい時代が来たという気がするのだ。だから買っている、ということもある。『フライデー』先週の11月11日号は、「憤怒レポート「デタラメ年金」これは国家の詐欺だ! 30〜40代は1600万円以上カットも」は国の無策ぶりを鋭く批判する一方、30〜40代がもっと危機感を持ち、声を上げるべきだとする好記事だった。もう性善説では馬鹿を見るだけの時代なのだ。

週刊文春』は、『週刊現代』でグリコ・森永事件の真犯人であるという記事を書かれた作家黒川博行氏による反論を二度掲載した。『週刊現代』の裏とりの甘さはまず問題だが、岩瀬達哉氏による連載記事について、悪いことは認めるけれども同ルポの単行本は出させてもらうという、謝っているのか切り抜けようとしているだけなのか判断不能な後処理のいい加減さは文学的ですらある(お家芸ともいえるけれど。だから『現代』はほとんど読まない)。

http://logsoku.com/thread/raicho.2ch.net/newsplus//1318928910/

心安く日常を送っていても、弾丸がどこかから飛んでくるような時代である。歩いていても、飛び降り自殺者が空から降ってくるかもしれないし、ホームにいても、電車に飛び込んだ自殺者のもげた片腕が旋回しながら飛び込んでくるかもしれない。因果応報、ということなのか、今週の『週刊ポスト』11月11日号の電車内中吊り広告は目を惹いた。

<思わず目を疑いました 週刊現代は「年金カットやむなし」なんですね!? 本誌は断固反対します>。見出しで買ってしまった。『暮しの手帖』的というか、慇懃に行きながら相手の懐に入って喉笛かっさばいてくる、という文体が、突如はじまった、週刊誌界にビーフ戦争到来を告げているようで興奮した。「お父さん、知らないでしょ? 夕方ニュースは『デパ地下』『動物』『芸能』、以上。」という記事タイトルも、小気味いい。これから何が始まるんだろう?

『現代』はそうでなければよいがどうだろう。部数低下、制作費がおさえられ、以前のようにカネと人間をつかっての十分な取材ができない。結果、最低限の媒体的誠実さも失われ、ウラもとりきれていないスクープ取り(それはトバシ記事という)に走る…。

絵に描いたような話。メディアも耐久レースに突入した。面白いことがやれる人、やりたい人、どんな状況でもきれいなフォームでアプローチが打てる人でなければ脱落していく。終身雇用に脱落はないから、そうじゃない人をたくさん抱えているところから、体力をなくして消えていく。そういう怖いけれど、楽しい時代に突入した。この前も、東野幸治がこんなことをツイートしていた。

Higashinodesu Higashinodesu

ニコ生でみんな何してるんですか?教えて下さい。見たことないんです。“@aitihaehime: @Higashinodesu あの浜田さんもニコニコ生放送に出演してましたよね。Wコージで毎週ニコ生で放送とか・・・ゴクリ”

10月29日 »

Higashinodesu Higashinodesu

ないんですが、ニコファーレに出たいんです。ニコニコ動画でもいいんですが。“@yasuko403: @Higashinodesu 負け犬勝ち犬見てたら、東野さんがニコファーレの存在を知っていてビックリ。ニコニコ動画は見た事ありますか?”

10月29日

人気タレントがニコ動に出たいとつぶやき、そして一般のフォロワーに、どんなものなのか質問をしてくるという今っぽい面白さ。勝ち続けている人はいつも柔軟だ。それは認めないといかん。

デパ地下、動物、芸能に、惰性で付き合ってきた時代にヒビが入り、面白いもの、そこだけでしか得られないものを選択して享受する人たちが増えてくる。枠を埋める、紙面を埋める、それが自己目的化した媒体のゆっくり、ゆっくりな沈降を見届けよ。たくさんの動けない老人や目の落ち窪んだ若者、中年者を積んで船は次第に沈み、そこから抜け出したドロネズミみたいな人たちが何かを始めようとしている。

その時代は希望にあふれているけれども、そこに参画していくには、つねに精神を研ぎ澄まして、心を若くしていないといけない。それはある人にとってはとても、生き辛い世の中の到来を意味する。

検索でたどり着いた検索でたどり着いた 2011/11/02 15:12 訳者あとがきには書いてなくても、解説で思いっきり「この英語版は、篠田一士によって一九六七年に『マルゴ』の題名ですでに日本でも翻訳されているのだが」って書いてあるじゃないですか。
仏語訳のほうも「ちなみに、この小説の日本語訳としては、一九六〇年、河出書房から、仏語訳からの重訳『マグダ』(川崎竹一訳)も出版されていることを付け加えておく」って訳者当人が語ってるでしょう。
いったい何を言っとるんですか?

breaststrokingbreaststroking 2011/11/02 16:06 ご指摘いただいてどうもありがとうございます。年譜と訳者あとがきのみを読んで、貝澤氏による解説をすっぽりと見落としていました。読んでいただいた方だけでなく、訳者の方、書肆の方にもお詫びします。書いて公開することへの緊張感が足りていませんでした。誤解がひろまるのは避けないといけませんので、改稿削除ではなく、エントリーはそのままにして、まぎわらしくないように、冒頭に訂正とお詫びを入れて更新します。どうもすみませんでした。