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2015-03-18

SPAC「ふじのくに⇄せかい演劇祭」プレス発表会 2015.03.16

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 SPAC-静岡県舞台芸術センターでは、今年もゴールデンウィークに「ふじのくに⇄せかい演劇祭」が行われる。今回、SPACの新作として発表される『メフィストと呼ばれた男』(Mefisto For Ever)はベルギーの劇作家トム・ラノワが、ナチス政権支配下にあった当時のドイツの公立劇場を舞台に書いた戯曲である。

 なぜ今、この戯曲を上演するのかということについて、SPAC芸術総監督・宮城聰は語った。

「日本が戦争をする国に近づいている状況にあって、公立劇場はこういう時に何ができるか? その時の参考例が1930〜40年代のドイツになる。僕ひとりでは到底答えの出ない問題だが、この作品を上演することで日本の公立劇場で仕事をする俳優やスタッフたちが戦前のことを考えるきっかけになり、そこから連帯が生まれていけばと切実に願っている」

 この言葉だけでも、宮城が、かつてない危機感を持っていることが見て取れる。彼は『メフィストと呼ばれた男』を、あえて“リアリズム的に”演出すると言った。その意図をたずねる会場からの質問に、宮城はこう答えた。

「物事を考えるヒントとしては“メタファー”や“普遍化”は手法として使えないんじゃないかと思って。1932年のベルリンの公立劇場に、今自分がスタッフ、俳優、演出家としてその場にいたらどうだろうかという、particularな(=特有の)状況に自分を置いて考えてほしいし、僕も考えている。そうした仲間を少しでも増やしたくて、そのためにはいっさい抽象化が出来ないと思ったんですね」

 会見には『例えば朝9時には誰がルーム51の角を曲がってくるかを知っていたとする』を共同演出する西尾佳織(鳥公園)、鈴木一郎太((株)大と小とレフ)も登壇していた。彼らの作品紹介に際して宮城は、(劇団としての)SPACが地域の劇場に行った時に「演劇は敷居が高い」と言われた経験を振り返りながらコメントした。

「戦前のドイツでは、演劇は教養の高い、いわば社会の上澄みの人々のもので、静岡に来て初めて『演劇は敷居が高い』という言葉を聞いた時に、そのドイツの話が遠いものではないと感じた。これまで“民衆的”という言葉は僕にとってあまりいい印象がなかったけれども、戦前のドイツを思わせる気分が蔓延してくる中で、今あらためて“民衆的な表現”が何なのかを考えずにはいられない。ファシズムの中では常に“民衆的な表現”であることが正しいとされ、そうではないものが弾圧されて多様性が失われていく。SPACで“民衆的な表現”をやれていると胸をはって言えなければ、われわれはやがて戦前のドイツの劇場のように追いやられてしまう。もちろん、世の中の過半数の価値観を追認することが“民衆的”なのではない。では何が? と問い続けること。この作品(『例えば朝9時には〜』)が、僕にとってそういう刺激になってくれることを期待している」

 『例えば朝9時には〜』は静岡市駿河区の池田地区周辺を歩いてめぐる形式の演劇作品である。上演中に、町の人と出会うことも、当然あるだろう。演劇は本当に敷居が高いものなのか、どんな演劇を上演すれば人々のよりよい生活の役に立てるのか、そもそもそんな必要が本当にあるのか、考えればきりがない。私自身も、町を舞台に遊歩型ツアーパフォーマンス『演劇クエスト』をつくる者として悩んだことは幾度もあったし、これからも試行錯誤は続いていくことを覚悟している。だからこそ、今作へのこの宮城のコメントには勇気づけられた。

 『演劇クエスト』は、リサーチとして町を何度も訪ね、時間を過ごした上でつくっている。銭湯に立ち寄っておばさんたちのおしゃべりに耳をそばだててみたり、立ち飲み屋で常連客同士のやりとりを眺めてみたり、と思っていたら急に話しかけられて面くらったりする。町の人々の生きている時間の奥ゆきを、作品の遥かかなたに感じさせるようなものでありたいと、いつも考えながら『演劇クエスト』をつくる。西尾佳織は、『例えば朝9時には〜』について「観て、感じたり考えたりするんだけど、“追いつかなさ”ということも同時にやりたい。作品を体験したところで追いつけないものが、人が生きてる時間にはあるなあって。そこに入っていけないと意味がないなあと(鈴木さんたちと)話している」と語った。まだ見ぬ池田地区を歩くことが、今から本当に楽しみになる一言だった。

 会見の全般にわたり、宮城が現在の日本の政治情勢への危機感を持ち、それに対する演劇にたずさわる人との連帯を模索している様子が印象的だった。何が起きてもふてぶてしくすり抜け、ごまかす権力者に私たちは慣れかけている。怒りや危機感を表明することが、急速にむなしくなっている状況で、終わりのない問いを考え続ける姿勢自体が、すでに難しいものになってしまっている。そうしたむなしさの嵐に飲み込まれ、あきらめてしまわないための一つのよりどころに、今年のふじのくに⇄せかい演劇祭はきっとなるだろう。
(落 雅季子)




(写真は左からダニエル・ジャンヌトー、鈴木一郎太、西尾佳織、宮城聰)




 

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