世田谷パブリックシアター演劇部 批評課(5日目)

進行役のひとり藤原ちからがホワイトボードに「批評 ― 愛と距離」と書いたのは、批評の対象は作品作家観客世の中種々様々なものが考えられるし、もしかすると演劇芸術アートそのものが対象かもしれない、しかしいずれにしてもそこからは距離を取らねばならない、距離を取ることができなければ愛に足を取られて倒れることになるであろう、ジョン・ケージにも宮武外骨にもそうした愛と距離の二つがあったのだ、批評はまず咀嚼から始まるのであり、観た作品に対してどう投げ返すか、要約や再現ではなく批評だ、ここは演劇部批評課なのだ、さあ思い出せ、今一度その方法や姿勢を各自で考えよ、と言わんがためではないかと思うが、兎にも角にもその前のめりでやや上滑りともいえる圧力で中学生たちはぱんぱんにふくらんで帰って行き、やっと静かになった、かと思いきや、そのあと始まった大人たちの振り返りの会でも彼の勢いはとどまることなく、中学生とやろうとなった時におっさんこと柏木さんと話したのは、体系を教えるのではなくまず無手活流でやってみることを大切にしようということで、今日まではなるべくこっちの意見を言わずに来た、しかし今日のいくつかのことに関しては一方的でもいいから批評家としての自分の姿勢を伝えたい、でもただ技術を教えるつもりはないし上手にやることにも興味はない、失敗のありえない場所に何の魅力があるのだろうか、必要なのはトライアンドエラーだ、自由にやっていいのだ、たとえば二日目にいろんな作家の文体を選んで持ってきて見せた中にもいわゆる“批評家”の文章はひとつも入れていない、ああ浅田彰の『逃走論』の冒頭は入れたけどあれは逃げろや逃げろの言葉が単に面白かったからで、これが批評、みたいな先入観はないほうがいいだろう、だって既存の批評家のエピゴーネン、つまり二番煎じですね、を育てるつもりは毛頭ないのだし、何がどう花咲くかなんてすぐにはわからないのだからと一気にまくしたて、それまで静かに聴いていたおっさんもたぶんそれにある程度同意したのだろう、「五年殺し、七年殺しですからね」とにやりと笑って言ったのだった。


(落 雅季子 2015.04.02)