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2016-02-29

セルフ・ナラタージュ #05 三浦直之(ロロ)



ロロの演劇は、いつだって少年と少女の出会う瞬間に命をかけ、ポップでキュートな片思いを紡いできた。2015年から始めた高校演劇向けのフォーマットでつくる連作『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校』(通称『いつ高』)シリーズでは、手練のストーリーテラーとして驚くべき新境地を開拓している。自分ではあらがえない理不尽な恋心。嫌われないか不安になっても、思いがあふれる愛の告白。彼の中にこんこんと湧く恋の言葉は、泉のようにピュアで多くの人の心を潤す。そうかと思えば、「官能教育」シリーズでは、あどけなさが残るゆえに強烈なままの性欲を開示し、観客の度肝を抜いたりもする。
そんなアンビバレントな作家性を持つ三浦直之。『ハンサムな大悟』の、第60回岸田國士戯曲賞ノミネートが発表された直後のある日、彼に会って話を聞くことにした。
(聞き手=落 雅季子)


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ロロ集合写真(2016年 撮影:三上ナツコ)


▼三浦少年のひとり遊び

― ご出身は、仙台ですよね。

三浦  仙台市で生まれて、幼稚園のころに女川に引っ越して、小学校三年生の時に、今の実家がある新興住宅地の富谷町に移りました。今年10月で「町」から「市」になるみたいです。今まで地元のこと全然知らなかったんですけど、最近興味が出てきましたね。それは、女川が……津波で、なくなっちゃったから。ここに何があったか、津波のあとの女川を歩いて思い出せなかった経験から、つながってる気がします。

― どんなお子さんだったんですか?

三浦  ちっちゃい男の子って、頭の中でオリジナルの敵をつくって、戦って遊びますよね。うちのお母さんはそれ「ピシピシ」(※「ミラクル」と同じイントネーションで)って呼んでたんですけど(笑)。普通は卒業していくんだけど、俺、中学になるくらいまで部屋で「ピシピシ」やってたんですよ。だから親は心配してた……。さすがに声出してはやらなくなったけど、いまだに、頭の中でのお話つくるのはやってます。

― いまだに、とは?!

三浦  今までわりと普通のことだと思ってたから、あまり話したことないんだけど……。

― ぜひ教えてください……!

三浦  えっと、コレ結構複雑なんだよな……(ぶつぶつ)もう10年くらい、サッカーの物語つくってるんですよ。すごい大河ドラマになってます。最初は、超天才的な10番の男の子の物語だったんだけど、10年続いてるから、主人公がひとりじゃもたなくなってきて、主人公が26歳になった時に、20歳そこそこの選手ふたりが下の世代として出てきたの。彼らひとりひとりの才能は、主人公よりも下なんだけど、ふたりのコンビネーション技なら主人公にも及びうるッ!! みたいな? 俺何の話してんだろ(笑)。主人公がトップ下で、この二人がツートップで日本代表が最強に?! ってところまで進んで、今はこの二人のライバルの、さらに別の二人が主人公の物語になってます。

― おお……初めに登場した10番の選手もまだ存在しているんですか?

三浦  もう日本代表に呼ばれてますね。日本代表はレギュラー争いが厳しいから、細かくひとりひとりの設定や葛藤をつくります。「こいつは兄ちゃんの思いを受け継いでフィールドに立ってる」みたいな葛藤持ったやつらがレギュラー争いしている。ふとした時に、何も意識しないで頭の中で始まるから、自分では今まで普通のことだと思ってた。でも、俺がこうやってお話つくる根本なのかもしれない。

― 子供のころ、いちばん最初にお話をつくったのはいつなんでしょう?

三浦  小学校4・5年生の夏休みに、ポケットモンスターの指人形集めにはまってて。朝ひとりで、指人形を富谷町のいろんなところに置いていくんです。で、友だち呼んで、リアルポケモンをやるんですね。俺がゲームマスターみたいになって、最初のポケモン渡してバトルする。「今日の課題はこいつを倒すことだ。そのためにはこの条件を満たさなければいけない!」みたいな感じで、俺が連れ回すんです。森にいくと草ポケモンがいたり、川の側に水ポケモンがいたり、修行を積むと新しい技を覚えられるとか、ルールを考えて。うん、俺がやったいちばん最初の演劇はこれかな。小学校六年生までやってました。


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▼マッピさんのこと

― 三浦さんは読書家で知られていますが、子供の頃から本が好きだったんですか?

三浦  好きでしたね。小学校中学年くらいから、ズッコケ三人組シリーズをひたすら読んでた。ただ、でも小学生の頃はどっちかっていうと読書感想文書くと「うまいね」って言われるのが嬉しかったっていうのが大きかったかも。作文は、ちょっと得意だったから。読んで何か書くと褒められると思って、難しい本も読んでみようと思い出したのが中学です。
でも、中2の頃に、マッピさんっていう同級生に出会って。その人にいろいろ自分の価値観変えられたんですよね……。なんで「マッピさん」って名前なのか、なんで「さん」付けしてるのかもわかんないんだけど(笑)。当時の俺、作文コンクールで賞取ったり、マーチングバンドのリーダーをやったり、優等生だったんですよ。ある時、弁論大会のクラス代表になって、ものすごくエモーショナルに弁論したことがあったんですね。小賢しくて、先生が喜ぶだろうなっていう弁論だったんだけど、マッピさんがそのことをいじってきて、その瞬間すごい恥ずかしいと思った。太宰治の『人間失格』で主人公の道化をみやぶる竹一みたいな存在っていうのかな……。バレてる! って。自分の汚いものを見抜かれたと思って恥ずかしくなって、そこからそういう優等生ぶったことはやめました。それから、マッピさんとすごく遊ぶようになっていった。

― マッピさんは、不良だったの?

三浦  めちゃめちゃおもしろい人だった。やすりで授業中にずっと木を削ってて、綺麗な球体つくって「わあ! マッピさんすごいね!」って俺が言ったり(笑)。昼休みに、体育館でマッピさんがみんな集めて鬼ごっこしたこともあった。「普通の鬼ごっこじゃつまんないから、頭つかむことにしようぜ」ってマッピさんが暴力的なこと言い出して、みんな超痛え! ってなってんだけど、だんだん興奮してきたマッピさんが、鬼でもないのに俺のところに来て、地面にバン!って俺をのしていく、みたいな。すごい変わってる人だったの(笑)。ぜんぜん俺が思いつかない視点からいろんなこと言ってくるし、人生で出会った中ですごく影響受けてると思う。でも、今は会わない。中3になってクラス変わってから、俺が受験勉強始めたんですよね。マッピさんはそういう感じじゃないから、距離できちゃって……。高校上がってからマッピさんと地元のイトーヨーカドーで会った時に「マッピさん!」って声かけたのは覚えてる。その時にマッピさんが「これ俺のバイクなんだ。乗ってみるか?」って言うから、またがって「すごいね、大きいね」とか言ってたらマッピさんが遠く離れたとこでニヤニヤしてて、そしたら全然知らない男の人が来て「てめえ何乗ってんだ」って言われた(苦笑)。……マッピさんには、結構コンプレックス持ってましたね。俺、小学生くらいまで結構全能感あったんだけど、全然違う価値観でめちゃくちゃおもしろい友だちでした。



▼男子校の日々

― その頃は、女の子には興味あったんですか?

三浦  国語の時間の本読みがうまかったから、小4の時に学芸会で主役をやったんだけど、その時が人生マックスのモテ期でしたね。でもいわゆる恋愛感情を持ったことはなくて。中2くらいから突然顔が赤くなって、女の人と敬語でしか喋れなくなった。

― 高校は男子校だったんですよね。

三浦  男子校の3年間、まったく色恋はなかったです。でも、隣のクラスの小池徹平君みたいな可愛い感じのキレイな男の子に疑似恋愛してた。遠くから眺めてただけで、話もしたことなかったけど、彼が楽しそうにしてるのを見るだけで嬉しかった。卒業式で顔真っ赤にしながら「一緒に写真とってもらっていいですか」って頼んだなあ。ギリギリ踏みとどまってた感じですね。今はこうしてネタっぽく言ってるけど、あと何歩か歩くと本当に好きになっちゃうギリギリのところだった。

― その頃は、さっき言ってたような青春小説に耽溺していた?

三浦  中学の頃から太宰治とか読んでたんだけど、一方で山田詠美『僕は勉強ができない』金城一紀『レヴォリューションNo.3』っていう青春小説も読んでました。ケーブルテレビの『闘うベストテン』っていう豊崎(由美)さんとか大森(望)さんが議論しあってミステリのベスト10を決める番組があって、そこで豊崎さんの勧めてた舞城王太郎世界は密室でできている。』『煙か土か食い物』と古川日出男『アラビアの夜の種族』を読んだんです。その時に、これは俺が今まで読んで来た小説とちょっと違うなと思ったんですよね。そこから興味がわいて、SFとか海外文学を読むようになりました。それで、高3の冬にイアン・マキューアン『贖罪』に出会うんです。授業中から放課後までぶっ通しで読んじゃって、読み終えた時に俺がめっちゃ泣いてて……残って勉強してたクラスメイトたちが「えっ、どうしたの」みたいな空気になったの覚えてる。

― 今までの小説と何が違ったんでしょうね。

三浦  物語……すげえなって。『贖罪』は、物語で罪は償えるかっていう話なんだけど、物語に対する願いとか希望がこんなにもあるのかって。俺も物語つくろうっていう気持ちが、明確になりましたね。



▼物語は「乗り物」

― 今の話からも、物語に対する尊敬や畏怖がすごく感じられるけれど、物語を表現する手段として演劇を選んだのはいつですか?

三浦  本当は日芸の映画学科に入りたかったんだけど、入れなくて演劇学科入ったんですよね。そこで亀島(一徳)くんとか望月(綾乃)さんとか(篠崎)大悟とか、気が合う同期にも会いました。亀島くんが、授業での俺の話をおもしろがってくれて、三浦くんと作品つくりたいって言ってくれたんです。劇場押さえるところまで行ってたんだけど、俺が行き詰まって逃げ出しちゃって……。それで友だち全部失ったと思って、ずっと引きこもって音信不通になって、実家に1回帰ったあげく、大学戻るって親に嘘ついて、友だちのところ転々としてた。その最中に、戯曲を書こうと思ったんですよね。それこそマキューアンの『贖罪』のイメージで、無碍にしてしまったいろんなものや人たちに向けて贖罪の物語を書こうと思って……。それが(王子小劇場の「筆に覚えあり」を獲った)『家族のこと、その他のたくさんのこと』です。書いてる途中に、とにかく謝るしかないし、許してもらえないならそれでもいいと思って大学に戻ったんですよ。そしたら一番最初に会ったのが亀島くんで。いまだに覚えてるけど「戻ってきてくれて良かった!」って言ってくれた。「三浦くんはクソ人間だけど、俺は三浦くんのことおもしろいと思ってるからまた何かやろうね」って言ってくれて……。書き上げたらその戯曲はおしまいにするつもりだったんだけど、大悟がおもしろいから絶対やろうって言ってくれて、王子小劇場に持って行ったら上演できることになりました。それで、絶対に亀島くんと大悟と一緒にやりたいと思ってその二人に声かけたのがロロの始まりです。

― 三浦さんにとっての物語を支える、物語を物語たらしめるものって何なんでしょう。

三浦  何だろう……物語……。(長考)何なんだろうな…………最近のイメージだと、あるひとつの言葉を見つけるために必要な「乗り物」のイメージかな。物語に乗っからないと、その言葉は見つからない。だから書きたい「物語」はなくて、書きたい「言葉」が何かあるんだと思う。今は、それをずっと目指してるんだと思うんですね。
2014年に『ロミオとジュリエットのこどもたち』をつくった時、乳母の「すべての関係性であなたを愛してますよ。」っていう台詞が書けたんです。その時に「こういうこと自分で書けるんだ!」って、嬉しい驚きがあったんですよね。『ロミオとジュリエット』は、自分にとって初めて既成戯曲の演出だったし、俳優さんにそれぞれの役についてどう考えてるか、いろいろ話を聞いてたんです。その時に(乳母を演じた伊東)沙保さんが、乳母がジュリエットをいかに愛しているかについてそんなことを言ったんですよね。沙保さんがすごいのは「人って普通こんなこと言わないよね」っていう違和感から出発しないこと。共感できるかできないかでキャラクターを捉えず、すんなり受け入れてフラットに寄り添える俳優です。だからあれは、自分で書けたというよりも、半分は沙保さんに書かせてもらったようなものですね。そういうふうに最終的に俺が聞きたい台詞があって、そこに向かっていく形で書いています。

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(左)『家族のこと、その他のたくさんのこと』(2009年)    (右)あうるすぽっとプロデュース『ロミオとジュリエットのこどもたち』(2014年 撮影:青木司)


― 自分の今を形づくる、思い出に残る恋ってありますか。

三浦  ありますあります。大学に入って好きな子ができて、運命の人だ! って思ってたんですよね。絶対にこの人と俺は結ばれるって純粋に思ってた。でもそれは実らなくて……そこから5年くらいずっと好きだったのかな。『LOVE』は彼女に失恋した直後に、立ち直るためだけに書いた戯曲だから、今読むとヤバいところもある(苦笑)。ただ、俺が好きだった女の子にとって『LOVE』はまったく嬉しくないと思ったから『LOVE02』は、彼女が喜ぶ話にしたいと思って書いたんです。『LOVE02』で、自分の中の決着がついて、そこから誰かに一目惚れすることはなくなりました。運命の恋はないんだって……。

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『LOVE02』(2012年 撮影:三上ナツコ)



▼書評としての「役」?!

― 最近の作品で特にすばらしいと思うのが、三浦さんの書く愛の表現。ヘテロセクシャル、ホモセクシャル、バイセクシャルなどを問わない形になっていて、人を好きになるっていいなという気持ちになれます。

三浦  自分でも不思議なんですよ。前からいろんな恋愛のバリエーションのモチーフは出てきていたけど、最近サラッと溶けて普通のことになった。

― 『ハンサムな大悟』で、大悟くん以外は、俳優本人の性別とは逆の役をやってましたよね。

三浦  このキャラクターを演じるのはこの人がいちばんいいと思って書いているだけなんです。俳優さんを観るのと小説読む行為って、似てる。僕、小説を深く読むことには自信があるんです。だから俳優さんという「テキスト」を読み込むことでは負けないっていう自負があって、読み込んだ俳優さんの「書評」を書くつもりで役を書いてます。あとはやっぱり、触れる触れないの話とかセックスの話を書きたいけど、俳優の性別がそのままだとあまりに直接的になっちゃって、それは俺が本来描きたいセックスから離れちゃうから避けました。大きい理由はその二つです。

― 書評として「役」を書くというのは、よく知っている間柄だからできること?

三浦  一緒にやりたいと思える俳優さんは「この本は俺がいちばんわかる!!」って語りたくなる小説みたいな人です。『いつ高』シリーズに出てもらった新名(基浩)さんと大石(将弘)さんはサンプル『蒲団と達磨』で共演したのがすごく大きい。今の俺は演出家だから、俳優さんと出会うのって「演出家と俳優」の関係になっちゃうんですよね。ロロメンバーは、大事な友だちでもあるから、今後誰かがロロのメンバーになったとしても、俺が演出家になる前に出会った(板橋)駿谷さんと同じ関係性は二度とつくれない。でも新名さんと大石さんとは、そう思ってた俺が、俳優としてイチから関係を結べたのが新鮮で、うれしかった。自分で俳優をやりたいモチベーションはそんなにはないけど、そういう出会いはしたいから、またいつか俳優もやってみたいです。松井(周)さんに会うたびに「サンプルに出たいです!」って言ってたし、ずっと松井さんに抑圧されたいと思ってたから嬉しかった(笑)。松井さんの性欲の話にはすごくシンパシー感じますね。

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いつ高シリーズvol.1『いつだって窓際であたしたち』vol.2『校舎、ナイトクルージング』(2015年 撮影|三上ナツコ)



▼性欲が消えて恋だけが残る

― 性愛の話になってきましたね……。人間って、ある年齢から恋と性欲が不可分になってくるけど、三浦さんを見ていると、ピュアな部分と作品に現れる性描写の濃さが対照的に思える。三浦さんにとって、恋と性欲ってどんな関係にありますか?

三浦  …………(長考)いや、一緒なんですけど……えっと、性欲っていうものの終わりがどこなのかわかんないんです。僕、射精っていう経験がないから。夢精は目が覚めたら終わってるし、意図的に「達する」ことがないから、だんだん時間がたつにつれて勝手に収束して終わるしかないんですね……。そうなった時に、相手にどうしてあげればいいのかもわかんないし、俺もどうなりたいかわからない。性欲と行為はセットで、始まりはそこなんだけど、終わる頃にはそのふたつが離れてる感じかな。行為の最中に、スーッて性欲が消えて恋だけが残る。や、でもわかんないですけど……! 向こうを傷付けちゃうんじゃないかなっていうことで自分も自信なくなっちゃうことになりかねないし、それで行為自体が減っていくのが一番良くないのかなって……すごい具体的な悩み(苦笑)

― でも、それは相手を嫌いとか魅力を感じていないからではないですよって、きちんと話せばいいんじゃないかな。恋をした相手にしか性欲を感じない人もいるし、誰とでもできる人もいるから、そうなると恋と性欲は別物だろうなと思うけど、どうなんでしょうね。

三浦  や、ホントに難しいですよね……。

― 性的なことに興味はあるけど、自分自身がセックス経験を積みまくるみたいなことにはならないんですね。

三浦  そうですね。性欲はぜんぜんありますけど、それよりは妄想とか想像の方が好きかもしれない。人と触れ合いたいっていう気持ちは持ってるんだけど……たとえば一緒にいて、相手がすやすや寝てて、その横で本読んでる時間にすごく幸せだなって思うんですよ。一緒にいるっていうことにいちばん幸せを感じて満たされたるんです。向こうが安心してるって感じれた時に幸せを感じれる。全く甲斐性がないからそんな機会はつくれてないんですけど(苦笑)。

― ちなみに、結婚願望などは……?

三浦  最近、子ども欲しい気持ちが強くて。一人暮らししてから、親に対する尊敬がすごく強くなったんです。よく俺をこんなに愛してくれたなって。俺も、自分以上に他者を愛してみたいって思うんです。俺は、どんなふうに他者を思うかって作品を書いてるけど親はそれを実践しててすげえなって気持ちがあるから、自分も親になってみたいです。



▼言葉は行為を越えられるか、行為は言葉を越えられるか

― 三浦さんの世界には、そういうプラトニックな恋もあれば、『ハンサムな大悟』に登場するような愛に満ちたセックスも存在するわけですよね。自分の中にアンビバレントなものを感じません?

三浦  感じますね……。答えになるかわからないけど、『ハンサムな大悟』では、触れることは言葉を越えられるのかとか、言葉を触れることを越えられるのかっていうことを考えてました。

― それは、演劇が負っている宿命のような気がしますね。言葉に対する感度の質問になるのですが、三浦さんは小説を書いてみたいと思ったことはないですか?

三浦  戯曲の言葉は少しずつ書けるようになってきたけど、小説の言葉を俺は書けるかな? って疑問がありますね。演劇を使って書きたい言葉はきっとある気がするけど、小説を使って書きたい言葉があるのか、現時点ではわからない。

― 戯曲を書きたいわけじゃなくて、それを上演して俳優に形にしてもらうことまで含めて、表現したい言葉があるという意味?

三浦  あ、そういうことかな……うん、ちょっと考えますね(しばし考え始める)…………そうそう、思い出した。『朝日を抱きしめてトゥナイト』くらいから、俳優への口づて演出がすごく多くなったんです。台詞をその場で俺が言って、俳優に言ってもらって、聞いてっていうやり取りが増えた。ちなみに『いつ高』は意図的にそれをやめてダイアログを書いてるんですけど……。自分でもどういうふうに行くかわからずに台詞を与えて、俳優の声を聞いて次の言葉を出す。俳優も、台詞を戯曲として印刷して渡されたら、全体の流れを見てどういう言い方をするかってなるけど、どこが台詞の終わりか俺も俳優もわからない不安定な中で出来る言葉を、もう少しつくっていきたい。だから、小説の言葉ではないんですね。この俳優のこの声だから、この言葉が生まれてくるっていう感覚が『朝日〜』くらいからあって。そこに行き過ぎるとよくないと思うんですけど。

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『朝日を抱きしめてトゥナイト』(2014年 撮影:三上ナツコ)

― その「戯曲の言葉」が認められて、第60回岸田國士戯曲賞にノミネートされましたね。おめでとうございます。

三浦  これでノミネートもされなかったら、俺は作家として結構難しいだろうなと思いました。ただ、受賞は……うーん。戯曲の完成度っていうことで言うなら、大きな転換期になった作品ではあるけど、自分はこっからだと思ってるから。あれは、こっからの作品の大きな一歩だから……まだたぶん俺もっと書けます。これからきっともっと書けるっていう気持ちですね。本当に、俺、珍しいんですよ。ワクワクしてる。自分が書くことにモチベーションがすごく高い時期なんです。

― 応援してます。今日はありがとうございました!


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『ハンサムな大悟』(2015年 撮影|朝岡英輔)

批評やインタビューにたずさわる者のさがとして「この人はどんなことがあっても一生「作家」でいる人だな」というのが、わかることがある。『ハンサムな大悟』『いつ高』シリーズと、2015年の大躍進を見て私は、まさに三浦直之こそ、作家として生まれ、一生作家でありつづける人なのだと確信した。誰に頼まれなくても、何もかも無くしても、彼から物語を奪うことだけはできない。本当に書きたい「言葉」を見つける乗り物である「物語」で、彼がどこまでも走るのを、これからも私はまぶしい気持ちで見つめつづけるだろう。






★過去のセルフ・ナラタージュはこちらから。
第一回 神里雄大(岡崎藝術座)
第二回 大道寺梨乃(快快)
第三回 菅原直樹(OiBokkeShi)
第四回 柴幸男(ままごと)

2015-12-11

セルフ・ナラタージュ #04 柴幸男(ままごと)



2010年、柴幸男が岸田國士戯曲賞を受賞した夜のことは今も覚えている。前年に観た『わが星』はラップ、時報のメロディが重要な位置を占める上演形態だったが、インターネットで受賞の速報を目にした時は「やっぱり……」と、新しい風の到来を実感したものだった。
しかし、ままごとはその後1、2年で、東京の小劇場シーンから距離を取るようになる。次の舞台に彼らが選んだのは、瀬戸内海に浮かぶ小豆島だった。私は彼らを追って毎年小豆島をおとずれ、東京から離れた彼らが、自由かつ強靭な作品を生み出すのを目撃してきた。そして、ままごとが島にやってきて3年目の2015年7月、ついに代表作の『わが星』が、小豆島高校の体育館特設ステージで上演されたのだ。
これまでの3年間のあゆみについて、『わが星』上演を終えた翌日に、体育館でのバラシの音が響く中、柴幸男に話を聴くことができた。

(聞き手:落 雅季子 小豆島写真:濱田英明 象の鼻テラス写真:池田美都)



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『わが星』小豆島公演


― 3日間の『わが星』公演を終えてみて、手応えはどうでしたか。

柴 とりあえず、観てほしかった島の人にはほぼ来てもらえたので嬉しかったですね。劇場にいざなって、客席に座ってもらうところまでで3年かかりました。小豆島には、ホールはあるんですけど、いわゆる「劇場」はないです。当然、劇場に行く習慣も日常的にはない中で、90分間の現代演劇を観てもらうのは遠い道のりでした。



▼2013年・はじめての小豆島

第2回瀬戸内国際芸術祭は、2013年の春・夏・秋の3会期にわたって、分散して開催された。ままごとはすべての会期に参加し、小豆島にその活動の場をひろげ始めた。


― ままごとと小豆島のかかわりは、2013年3月、瀬戸内国際芸術祭の春会期から始まりましたよね。

柴  春会期はリサーチも兼ねていました。瀬戸内国際芸術祭の感じもぜんぜんわからなくて。瀬戸芸に来る(島外の)人だけがお客さんなのか、どれくらいの人が来るのか、地元の人は観るのか観ないのか……。まず僕らが何者であるかも浸透させなきゃいけなかったし、一か所に人を集めて演劇を観てもらうのは難しいと思っていたので、町を散歩するタイプの「おさんぽ演劇」をつくったんですよね。
とにかく初年度は思いついた人がアイディアを具現化する方法を取りました。リサーチから発表までのサイクルをできるだけ早めて、試行錯誤をした方がいいと思ったんです。それでつくったのが、僕が出演した『赤い灯台』です。いっしー(大石将弘)にも、単独でおさんぽ演劇をつくって上演してもらいました。

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おさんぽ演劇の様子


― 私は、夏会期に初めて島に来たんですが、その時には、同年のあいちトリエンナーレでつくった『日本の大人』を上演されましたよね。

柴  上演場所だった遊児老館という場所は、もともと島の幼稚園だった場所です。幼稚園をそのまま生かしてあの場所に合うものが上演できましたね。60分くらいでしたけど、お客さんが座って観てるのはすごくおもしろかった。でも客席で小豆島町民だった人は半分より少ないかもしれない。あとは瀬戸芸のお客さんとか、ままごとの観客でした。


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『日本の大人』公演より



▼転機となった秋会期

― つづく瀬戸内国際芸術祭の秋会期では、どのように作品づくりをしたのでしょうか。

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柴  秋会期に、劇団員総出になりました。それまでは演目が「おさんぽ演劇」しかない、手探りの黎明期でした。

― 劇団員以外では、俳優の名児耶ゆりさんも初参加されましたね。名児耶さんを島に誘ったのは誰だったんですか?

柴  ……あれ、どうして名児耶さん誘ったんだっけな?

― のちにお嫁さんになる方なのに(笑)。
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柴  いや……「名児耶さんいいんじゃないか説」が何となく劇団内にあったんですよ(笑)。春会期に遊びに来てくれてたし。

― 秋会期では、春会期に始めたことを積極的に町にひろげたんですね。

柴  春と秋に、ほぼ毎日おさんぽ演劇をやりつづけたことで、相当浸透しましたね。ありがたいことにお客さんも毎日ひとりかふたりはいて、決まった時間に必ず上演はできたので。上演している様子を町の人が垣間見てくれて、何かがちゃんと成立してることが伝わった。
決定的に大きかったのは、新菜さんが紙芝居をやっていた時に、とあるおばさんから「うちのおばあちゃんは、足腰が弱くて出られないから、うちまで来て紙芝居をやってほしい」っていう依頼を受けたことですね。ご家族だけだと思って気軽に行ったら、そのおばさんが、まわりの婦人会の人を呼んでくれて、土間に客席がずらっと並んでた(笑)。「こりゃまずい!」ってなって、急いで相談して、1時間くらいの出し物をしたんです。演奏して歌う、紙芝居をする、名児耶さんも踊れるし、『そうめん体操』っていう演目もあるから、上演の構成が組み立てられるレパートリーはあったんですね。その時に土間が「劇場」になった感覚はすごく印象に残ってるし、劇団の中でも、町に活動が届いてる感触が得られた時期だと思います。

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小豆島というステージになじんでいったままごと



▼横浜・象の鼻テラスにて「演劇とすれ違う」

横浜・象の鼻テラスで、2013年4月から始まった柴幸男のワークショップは、年間を通して継続的に行われ、その年の12月にTheater ZOU-NO-HANA(シアターゾウノハナ)『象はすべてを忘れない』という公演に結実した。それは、象の鼻パークに流れる時間と風景の中に演劇がひょっこり現れるような、ダンスや紙芝居、ラジオやミニ映画をちりばめた新しい上演のかたちだった。翌2014年もTheater ZOU-NO-HANAは開催され、「演劇とすれ違う」をコンセプトに、誰もが演劇を身近に触れられるパフォーミング・パーク(演劇的公園空間)を、象の鼻パーク&象の鼻テラスに生み出した。

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Theater ZOU-NO-HANA2013の様子


― 2013年春、小豆島の活動と同時期に、横浜・象の鼻テラスでの活動が始まったのは大きいことだと思います。

柴  2013年は、常に小豆島と横浜を往復する感じで、小豆島での成果を象の鼻テラスのワークショップにフィードバックしていきました。12月のワークショップ発表会で、あの方法論をそのまま横浜でやってみようと思ったのは、小豆島で鍛えられたおかげだと思います。もともと、4月の段階では、象の鼻テラスを劇場化して作品をやる方向で動いてたのですが、どんどん分解されて、ああいう催しになりました。

― スイッチが生まれたのも2013年の象の鼻テラスでしたね。

柴  そうなんです。あれは都市型というか、人通りがないと難しい作品なんで。

― 2014年7月には、小豆島でスイッチのワークショップがおこなわれたり、肝試し型のツアースイッチが生まれましたね。

柴  光瀬指絵さん(ニッポンの河川・スイッチ総研)に小豆島スイッチをつくってもらえないかと思って呼んだんですけど、都市じゃないのでかなり難しかったみたいです。2014年の7月は、僕が都合がつかず小豆島に行けなかったんですが、メンバーのみでスイッチの可能性をひろげてくれましたね。ツアー型スイッチの発明があって、それがのちに象の鼻や、六本木アートナイトで上演されたりすることにもなって、相互的な流れが生まれていると思います。



▼2014年・醤の郷+坂手港プロジェクト

― 翌2014年に「アート小豆島・豊島2014醤の郷+坂手港プロジェクト」が開催され、また小豆島に来ることになりましたね。2年目にはどういう変化がありました?

柴  瀬戸芸が開かれた2013年と比べると、観光客の比率がぜんぜん違ったので、町の人をメインでお客さんのターゲットにしました。大きかったのは『うたう火の用心』ですね。2013年秋にも、島に点在する瀬戸芸作品の道案内をする『島めぐりライブ』という弾き語りの催しをやって、音楽ライブしながら町を歩くのが面白かったから、概念(星野概念実験室)さんと宮永(琢生)さんが会議して、「火の用心!」って言えば、島をめぐってもおかしくないんじゃないかって(笑)。坂手地域は消防車が入りづらい地形で、昔から「火の用心」が大事だったみたいなんです。なので、ままごとで火の用心の文句に曲をつけたり、新曲をつくったりしました。拍子木も地元から借りましたよ。歌いながら家のあいだを巡っていくと、ガチャッて玄関あけて「ご苦労さまです」って挨拶してくれる人がいました。「ご苦労さまです」ってことは、火の用心だって伝わってたんですよね。うるさくないように路地では音絞ってましたけど、歌を家の中で聴くっていうのはありだなって。より、町の人のために作品をシフトできた一例だったと思います。火の用心はどの地域にもあるし、スイッチに続く、いろんなところで活用できる作品だと思ってます。
で、さっき言った土間の家のおばちゃんから「今年もやってほしい」ってリクエストもらって、第2回公演もやりました。ほかにも、地域の幼稚園のお泊まり会でのワークショップとか、島の中で僕らが認知されつつ、自分たちの作品を上演している感じの浸透した面白い1年でしたね。2年続けて行ったことで、できる限り島での活動を継続したほうがいいかもしれないと思うようになりました。

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2014年『港の劇場』の様子


▼作品を「手離す」ということ

― 小豆島や象の鼻テラスでの創作を観ていると、以前のガチガチに固めて演出する柴さんのスタイルからずいぶん変化したなと感じます。メンバーの自主性に委ねて、柴さんは時々アドバイスをしてコントロールする役目に徹していますね。メンバーがつくる作品は、いつ頃から柴さんの手を離れたのですか。

柴  2013年の秋の段階で、ほぼ手は離れていたんですが、さっきお話ししたとおり、2014年の夏、僕のスケジュールが合わなくて島に行けなかったんですよね。1日か2日来て、何となくアドバイスしただけで、肝試しツアースイッチも実際見ていないんです。完全に任せました。

― そういうことが、昔はできなかった?

柴  できなかったですね。想像もできなかった。……でも実は、2012年くらいから、自分の作品への関わり方が、緩やかにほどけていくような感触はあったんです。はえぎわの『ガラパコスパコス〜進化してんのかしてないのか〜』(ノゾエ征爾 作・演出)に出演したのもすごく大きかったですね。他の演出家の仕事の様子を見て、役者側から作品に介入するっていう体験をしたことで、他人に任せても大丈夫なのかなって思いましたね。はえぎわ、すごく楽しくて不思議な経験でした。あのタイミングで俳優をやらせてもらえたのはよかったです。でも、まだ自分の作品を人に委ねるまでではなかったかな……。

― それで自分の演出スタイルだけじゃない可能性がちょっとずつほどけてたところに小豆島に行く話が来たんですね。



▼劇場作品を島の人に

― 一昨年と去年と、『うたう火の用心』やおさんぽ演劇が島の人たちに認知されてきつつも、劇場サイズの『わが星』のようなものを見せたい思いはありました?

柴  ありましたね。やっぱり、一度は大きな作品を見せたかった。そして、それを観ている演劇が好きな人たちを、島の人たちに見せたいというのもありました。

― それはどういう意味ですか?

柴  島の人たち全員に、演劇を好きになってもらいたいわけじゃないし、そんなことはありえない。だけど演劇を好きな人たちがこの世にいて、その人たちは、演劇にすごく価値があると思ってることを知ってほしかった。「私はわからないけど、あの人たちにとっては大事なものらしい」ってことが分かってもらえたら嬉しいなって。

― 今年『わが星』の公演があったことで、3年連続で小豆島に来ることができたんですね。

柴  そうですね。2年間の活動で出会った人たちが足を運んでくれて、嬉しかったですね。人を動かすというのがいちばん難しいし、大変だと思うので、それはすごい結果だったと思います。

― 小豆島には電車がないけれど、『わが星』で山手線が出てくるシーンなどは、どう受け止められたんでしょうね。

柴  それなんですよ! どうなんでしょうね。僕は「山手線」を「船」に置き換えて観てましたよ。フェリーで毎朝高松の高校に通ってる子もいますし、島の人も、そうやって観てくれるんじゃないかなって何となく思いました。


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島を去るままごとと、見送る島の人々(2013年秋)


▼地域コミュニティとアート

― ある地域で活動するアーティストとして、ままごとはかなり成功してると思うんです。島の人と話す中で、私も「ままごとさん」ってみんなが普通に呼んでいるのをよく聴きます。そういうふうに受け入れられるために、何が重要だったと思いますか。

柴  これについては……よくわかんないことも多いんですけど……運が良かったなとは思います。2013年の瀬戸芸では、他のいろんなアーティストたちがいたので、彼らのリサーチの仕方、町の人とのコミュニケーションの仕方とか、いろんな作品の成立のさせ方を見て、ちょっとずつ使わせてもらった感じはあります。でもやっぱり大きいのは続けることじゃないですかね。一回で結果を出すのは難しいと思うんですよね。

― 町に入って行く過程で困ったことや、トラブルなどはありましたか。

柴  具体的にトラブルになったことはないんですけど、メンバーが参っちゃうというか、どうしていいかわかんなくなっちゃう時はありましたよ。それは、みんなそうです。10日しか滞在しない人も、1か月いる人も、その期間に絶対起こる。自分が何者なのかとか、町の人たちとどう付き合って行けばいいのかとか。人との関わり自体に疲れ果ててしまうことが、みんな一度は起こるんじゃないかなあ……。でも、ままごとではうまくバランス取ってやってきたし、向いてない人は無理する必要ないので距離を取ってもいい。適切な距離の取り方というのは、常に難しい問題です。
僕らは、いろんな町との行き来をしていくから、ちょうどいい関係を保ててる。小さな島では常に人間関係の論理が働くし、逃げ場や個人的な活動を維持することにはストレスがかかる。誰とも話をしたくない日があっても、島の中だとちょっと許されないというか、心配されてしまう。その心配自体が重荷ということはありえますよね。東京に近づけば近づくほど、誰とも挨拶しなくても、部屋に閉じこもっても誰にも心配されない。そうやってそれぞれ勝手に生きていけるように都市は生まれたので。演劇を観るっていうことは、集団で観ていたとしても個人的な活動なんですよね。小豆島でのままごとは、そういう個人の抜け道というか、都市的な部分をアシストするような存在になれたらいいなって考えてます。島の人たちは昼間職場や学校に行ってるけど、歌って芝居してる僕らはどう見ても働いてるように見えない(笑)。そういう存在がいるだけで、可能性が一歩ひろがるイメージが、僕にはあるんです。存在そのものが、小豆島とか、もっと言うなら日本のルールと違うものが存在するんだということを伝えられる。

― 町のすべての人がアート、芸術を必要とするわけじゃなくて、それ以外の楽しみを持ってる人もたくさんいる。それでも、柴さんは芸術をやるわけですよね。

柴  厳密な意味での「芸術」の役割は、既存のものを破壊するとか、問題を投げかけることだと思うので、今起こってる問題や土台を解決するためには、芸術がそもそも役立っちゃいけないと思うんです。それは芸術ではなく、デザインの領域。小豆島でやるぶんには、僕の演劇は芸術である必要はなくて、それよりは道具・ツールとして機能したらいいなという思惑があって、町全体の問題に、演劇を使って変化を起こしたいんですね。町の人に応援してもらったぶん、島外の人を観光に呼ぶとか高校生に見せるとか、行政や町の問題解決のために公演を考えている部分もあります。

― 町の人から「何だ、あんなもの。アートなんて」とか言われたこともあります?

柴  や、みんな言ってます(笑)。初期の頃は特にそうだったんですけど、で、2つ思ったことがあって、何だろう……だから……(しばし長考)……そう言ってる人たちは、僕らが小豆島でやることを知ってくれてるからまだいいと思ってますね。「俺はわかんないから」って、言葉で言ってくれる人は、まだ表に出てきてくれている。で、そういう人たちも、自分の興味に合う作品に出会うと、いいとかおもしろいとか、言うんですよね。だからまったく遮断してる人は少ないと思います。むしろ、島にいて生活してるんだけど、家から出てこなくて僕らとまったくすれ違わない人たちはどうしてるのかなって想像しますね。もちろん、全員と出会わなきゃいけないわけじゃないけど……。
もう1つは、みんなが鑑賞者にならなくてもいいと思うんです。人の作品に興味ない人も、「じゃ、おじさんは何やってるんですか?」って話を訊くと、すごい喋ってくれる(笑)。人の話を黙って聴くよりも言いたいことがたくさんある人をむりやり鑑賞者にする必要はなくて、「あんなの俺だってできるよ!」って言って、自分でやっちゃうほうがいいと思うんです。観客を観客で居させつづけようとするのは、演劇を独占的な感覚で捉えてるし、ある種の権力構造があるというか、つくる側が権力を持っていて、観る側がそれを享受するという発想につながる気がします。だから喋りたい人たちに、演劇をしてもらえないかなって思いますね。やりたがってくれるかはわからないですけど、観るより何かアウトプットしたいっていう気持ちが潜在的にはあると思うんで。僕らみたいな未知の人に昔話をする人はやっぱり、知ってほしいんですよ。そういうおじさんたちの方がよっぽど表現欲求持ってると思います。

― それが、来年以降に構想があるという小豆島の劇団ですね。

柴  そうなんですよ! できるのかなあ(笑)。できるといいなあ。



▼演劇を「クックパッド」に!

― 今後は、三重県文化会館でのミエ・ユース演劇ラボなどの場で、市民の人に、演劇をつくるための考えどころを教える機会も増えそうですね。

柴  やっぱり人がつくってるのを見るのが楽しいですね、最近は。だから「観客」を増やそうという発想自体、もういらないかなと思ってまして。「観劇人口」よりは「演劇人口」を増やして、誰でも演劇ができる状況にしていった方がおもしろいと僕は思うんです。その中でトップレベルのプロはいるんですけど。たとえば、サッカー人気は「観客人口」が増えたからじゃなくて、「サッカーやったことある人口」が増えてるからだと思うんですよね。総人口が増えれば結果的にお客さんも増えると思いますし、みんながやれる簡単なことなんだよってことを言う人間がいてもいいんだと思います。演劇ワークショップって、ちょっとお料理教室的につくって、最後の調味料だけとか盛り付けだけを手伝って、「あら、私がつくるのとは違うわ〜」と言ってるのもあると思うんで、もっと根本のレシピから公開していく、クックパッドみたいなことをしたいんです。演劇をつくるのは集団の問題で、本当に難しいので、そこをレシピ化できるのはプロの仕事。僕が試行錯誤してきた創作の過程を、もう少し順序だててフローチャートにして、他の人も使えるようにシェアできないかと。それをさらに、他の人もこうやったとか、俺はこうだとかバリエーションが増えるように。

― クックパッドで言う「つくれぽ」ですね!

柴  戯曲をネットに公開しても、演劇人口は増えないと思うんですよ。だからクックパッド的に、「(1)人を3人用意します (2)ふたりがいる所にもうひとりが来ます (3)話し合って、ひとりが出て行きます……」みたいなことを、レシピにできそうな気がするんだけどなあ。それも、小豆島に来て、演劇は90分じゃなきゃいけないとかいう発想から解放されたのはすごく大きいですね。90分のものは、料理で言うとフルコースみたいになっちゃうんで。でも一品だったら料理が下手な人でもつくれるでしょう。そういう、一品料理みたいな演劇がつくれる状況はおもしろいと思う。



▼「結婚」という変化

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― 今年大きくプライベートでも変化がありましたね。ご結婚と、名児耶さんの妊娠おめでとうございます。島の方々は、結婚を伝えた時どう言ってくれました?

柴  みんなおめでとうって(照れ笑い)。結婚や子どもが生まれるニュースは、島ではすごく嬉しいことっていうか、東京のそれとは重みが違います。ものすごく歓迎すべきことで、僕らも島での経験を通してそれがわかったので、小豆島の人たちにはぜひ報告したいと思ったんです。

― お子さんが生まれることについて、昨日のアフタートークで「誰かが生まれて死ぬ、今はその先を考えてる」とおっしゃってたけど、それはお子さんができたこととも関連しているんですか。

柴  子どものことよりも、どちらかというと、この先数十年の世の中とか、自分自身が気になってる。子どもが今の自分の年になるまでは、何となく自分の経験で見通しが立つんですけど、今から自分が父親くらいまでの年になるこれからの30年間はどういうことを考えていけばいいのか意識するようになりました。具体的にせよ抽象的にせよ、老年期というものを掘り下げていきたいなと思ってますね。

― 自分の結婚は、若い時からイメージしてました?

柴  僕ですか? いやあー、結婚しなさそうだなと思ってましたね……。

― でも、なさったんですね。

柴  そうですね(笑)。それも、2012年以降、人に委ねて任せる考え方になったのはすごく大きいです。人生で、しっかり他人と関わっていかないといけないんじゃないかってことを……思ってしまいましたね。別にね、思わないでもいいと思うんです。生涯芸術家でいたいんだったら、孤独を選んだ方がいい。やっぱり絆って、鎖だから。人と関われば関わるほどしがらみが増えて、できることは減っていくんですね。それこそ子どもが生まれちゃったら面倒を見なきゃいけない。自分ひとりだったら、エネルギーを全部作品に使っても誰にも迷惑かけないし、いいんですけど……。そういう意味でも僕は、もともと僕は芸術家になりたかったわけじゃないんだろうなって。少しモードが変わってしまったなっていうのはあります。でも、そういう道の方が……自分にとっては必要なのかもしれないということは考えましたね。だから人と関わって、小豆島にも来るようになったし、作品を人に任せるようになったし、結婚もしたんじゃないかと思います。

― 芸術家になりたかったわけじゃないなら、何になりたかったんでしょうね。

柴  何になりたかったんでしょうね。わかんないですね。憧れは……研究者とか宗教家……。僧侶とか? ブッダの時代の仏教では、僧侶は家族関係をすべて断つんですよ。奥さんも取らない。生涯何も残さず、誰とも関係を持たず、自分の真理の探究に行くわけです。それはかっこいいなって思います。本当に何かを突き詰めたいんだとしたら、そうせざるを得ないんだろうと思いますけど、難しいなと思いますね。……うん、そうはなりきれなかったですね。そこまで僕は、自分を、強く持てなかったです。

― ……そのことについて、後悔はあります?

柴  そうですね……。最近は適材適所だなって考えてて、僕の適所はそこじゃなかった。でも昔はそうなりたいと思っていたがゆえの、マイナス面の方が大きかったので、いさぎよく路線を変更することのほうが、僕にとっても周りにとってもいい効果があると思って。……寂しさはありますけど、いい方向に進むように動いてるなと思います。

― 3年前からやや距離を置いてきた、東京小劇場市場の中心のことは今どう思っていますか。

柴  大変そうではありますけど……自分はそこには行けなかったので。行きたい気持ちもちょっと……ありましたし、以前はそこにいる人がうらやましかったりとか、自分と比較してしまってたと思うんですけど、……やっぱり、自分の道はそれじゃなかったんだと思いますね。逆に、東京であと1、2年無理してやってたら危なかったと思う。それこそ劇団とか僕自身、活動できない状況になってた可能性は非常に高かったから、いい時期に自分自身を見極めることができたと思ってます。


― 最後に、これからの野望を教えてください。

柴  野望ですか?! さっきも言ったように、自分の演劇づくりの方法を道具化して、世に展開したいっていうのがありますね。世界征服と言ってもいい。誰がその道具をつくったのか、だんだんわかんなくなってもいいんです。みんながみんな、パッと演劇をつくれる世の中になることを想像するのは、ワクワクしますね。まあ、みんなはさすがに無理でも、スポーツが得意な子がいるように、「演劇勘」があるやつ。こいつの言うとおりに劇をつくってると行き詰まらないって認知されてるやつが、教室にひとり、職場にひとりっていう状況をつくれたら嬉しいんですけどねえ。

― 体育の時間にこいつがいると勝てる! みたいな。

柴  ありますね。今は、演劇づくりがリーダーシップ論と一緒になっちゃってるところがあるんで。それとは別に、運動神経みたいな、演劇神経が存在するのは、大学で授業しながらいろんな子を見ていて思う。彼らが必ずしも優れた俳優になれるわけじゃないんだけど。演劇勘がいい子が、僕の道具を使って簡単に劇を組み立てることを、僕の知らないところで同時多発的に起こせたらいいなと今は夢見ています。

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ままごとが初めての小豆島公演を終えてから数か月。今年もTheater ZOU-NO-HANAの季節がやってきた。12月第1週からの公演に向けた公開制作も大詰めの11月最後の日、柴幸男と名児耶ゆりの長男となる男の子が生まれたというニュースが飛び込んできた。
名児耶ゆりのTwitterにアップされた写真に映った柴幸男は、マスクと白衣に身を包み、おだやかな表情で妻と子どもに頬を寄せていた。彼は「孤高の演出家」になることをあきらめたのだろうか? そうではなく「他者とともに生き、ともに創作する演出家」になることをみずから決断したのではないだろうか? 柴幸男の思い描く未来は、これから誰も見たことのない新しい地平へ、演劇を押し広げていくに違いない。
柴さん、名児耶さん、そして赤ちゃん。本当におめでとうございます。







★過去のセルフ・ナラタージュはこちらから。
第一回 神里雄大(岡崎藝術座)
第二回 大道寺梨乃(快快)
第三回 菅原直樹(OiBokkeShi)

2015-09-26

セルフ・ナラタージュ #03 菅原直樹(OiBokkeShi)




青年団に在籍し、東京で話題の演劇に頻繁に出演を続けていた俳優・菅原直樹。小劇場ファンの中には、彼のことを覚えている人も多いだろう。
2013年、そんな東京を離れて岡山県・和気町に移住した彼は今、OiBokkeShiという団体を主宰し、老人介護の観点から演劇をつくるという活動を続けている。認知症のお年寄りの言葉を受け止め、否定せずに演技をすることで心を通わせることを実践する「老いと演劇のワークショップ」から始まり、今年の1月には認知症徘徊演劇『よみちにひはくれない』という作品が上演されるまでになった。今年の3月末、私は和気町での『よみちにひはくれない』の上演を観に行き、演劇を通して、老いとボケと死をみつめる彼の言葉を聞いた。

(聞き手・撮影:落 雅季子 舞台写真・ワークショップ写真:岡野雄一郎)


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▼和気へ移住

― 和気に移住される前のことをまずは教えてください。演劇を始められたのはいつごろですか?

菅原 もともと映画をつくりたかったんですけど、高校に演劇部しかなくて、一番近いと思って入部したのが始まりです。その時は俳優なんてとてもできないと思っていましたね……恥ずかしがりやだし、興味もない。でも入ってすぐに顧問の先生が書いた脚本に、一言も喋らない「引きこもりの少年役」があったんですよ。まわりの友だちがみんな「これお前(の役)だよ」って言うので、騙されるような感じで舞台に立ったのがデビューでした。一言も台詞がなくても、おもしろいなって思いましたね。でも、その時はまだ自分で何やりたいかわかってなくて、進路を決めずにいたら顧問の先生が桜美林大学を勧めてくれたんですよ。それで3年の夏に、オープンキャンパスに行って、平田オリザさんのワークショップを受けました。それが目からウロコで。「問題を抱えている人が変わるんじゃなくて、環境を変えることによってその人は問題を解決することができる」っていうアプローチを聴いて、恥ずかしがりやの自分でももしかしたら俳優ができるかもしれないと思ったんですね。それで桜美林に行くことにしました。
卒業後は演劇をせずに1年間ぐらいバイトをしてました。卒業後二年目ぐらいからまたちょっとやり始めようと思って、田上パルの作品や、松井周さんの『火の顔』っていう作品に出ました。そこから「キレなかった14才♥︎りたーんず」の杉原邦生さんの『14歳の国』に出て、そこで知り合った柴(幸男=ままごと)さんや神里(雄大=岡崎藝術座)さんの作品にも出るようになりました。2010年4月に青年団に入団して1、2年でこっちに来ちゃったんで、実は青年団の本公演は2012年の『ソウル市民〜昭和望郷編〜』の1回しか出てないんです。

― 奥さまのでも菅原さんのご実家でもない、和気に移住するっていう大きな決断をしたんですよね。

菅原 2012年に、親父が癌で亡くなったんです。葬式の時に、兄貴が働いてる工場から花が届いたりして……。自分は親父が死んだのに何者にもなってない気がしたんですね。花が来ないのは別にいいんですけど(苦笑)、自分の中で「自立したい」っていう気持ちが出てきて。当時子供が産まれたばかりで放射線のこととかも気になったんで……。和気は妻がインターネットで見つけてきました。ぼくはちょうど、千葉で介護の仕事を始めておもしろさを覚えてた頃だったんで、和気の老人ホームで仕事を探して、2013年9月に移住しました。演劇と介護は相性がいいって、千葉の老人ホームで働いてた時から思ってたので、岡山に引っ越しても演劇活動ができる予感はありました。




▼老いと演劇のワークショップ


― 岡山に来て「老いと演劇のワークショップ」を始めたんですね。

菅原 はい。2014年6月が第1回です。和気に来てから出会った移住者の方の提案で助成金の申請をしたり、地元の建具屋さんに人を集めてもらったりして、何とかできました。役場の人が新聞社に電話もしてくれて「社会性がある」っていうことで、開催前に取材もしてもらって。まだ何もやってない状態で取材が来たんでびびりました(笑)。

― 『よみちにひはくれない』に主演されていたおかじい(岡田忠雄さん)はワークショップの第1回から?

菅原 第1回の、一番最初のお客さんでしたよ。開場1時間前に来てました。(会場に併設されていた)図書館の利用者だろうと思ってたら「あなたが菅原さんですか?」って(笑)。新聞の記事を見て参加してくれたみたいです。

― ワークショップや公演が記事になることで、社会的に意味があることだというのは認められるかもしれないけど、それが新しい「福祉」のかたちだという意識は、なかなか浸透しにくいですよね。

菅原 「老いと演劇のワークショップ」に、ぼくが働いている施設の関係者に来てもらったことはあるんですね。OiBokkeShiのメンバーが、地域の方々とぼくを含めた介護チームみたいになったらいいなと思って。でも、まだ始めて1年なんですけど、自分が働いてる施設では実現は難しいのかなって思ったんですよね。……ぼく、3月で老人ホームやめちゃったんです。今後は、レクリエーションがあるようなデイサービスで働こうと思っています。当初は、老人ホームが「老い」「ボケ」「死」にまつわる文化施設になればいいなってひとりで構想してたんです。「地域で面白い芝居を観るなら老人ホームに来てください」って言えるぐらい。そうやって地域の方々が老人ホームに足を運ぶことによって、老人ホームが地域にとけ込んで「老い」「ボケ」「死」が身近になればいいなって。



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「老いと演劇のワークショップ」の様子


▼老い・介護と演劇の相性のよさ


OiBokkeShiによる認知症徘徊演劇『よみちにひはくれない』は、参加者が俳優とともに和気の駅前から商店街、河原を歩いて体験する作品である。物語は、20年ぶりに故郷に帰ってきた青年・神崎(菅原直樹)が、和気駅前でいなくなった妻を探す老人(岡田忠雄)と出会うところから始まる。神崎は老人の妻をともに探しながら、かつて自分が飛び出した故郷をふたたびめぐる。果たして妻は見つかるのか。そして神崎は、20年ぶりの故郷の人々とどう接するのか……。
主演の「おかじい」こと岡田さんは88歳。映画が大好きで、演技が大好きな、チャーミングな俳優である。菅原直樹は、おかじいから「監督」と呼ばれているそうだ。ご自身の奥さまの在宅介護をされている中で「老いと演劇のワークショップ」を知り、OiBokkeShiに出会ったおかじいの演技に、私は大きな感銘を受けた。

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― 『よみちにひはくれない』を観て、人はどうして88歳になってもこんなに演劇に魅入られるんだろう? と思いました。なぜかわからないけど、おかじいが喋るだけで引力が生じる。敬意が湧いてきちゃう感じなんです。「何のために生きているのか」「人間らしいってどういうことなのか」を訴えてくるようで。

菅原 そうですね。そうかもしれないですね……。本当におかじいと出会えてよかったですね。演劇と老いを体現してる人なんで。やっぱり88歳のおじいさんとフィクションを通じて関わることができるのはおもしろい。岡田さんと密に関わることによって、老人ホームのお年寄りの見方も変わってきました。効率優先の介護現場で働いているとどうしても感覚が麻痺してしまうところがあるので。おかじいと出会ってから、老人ホームのお年寄りを見ていて、心苦しいと感じて、どうにかしなきゃと思うことが増えてきました。
2月公演が終わったあとに岡田さんから電話があって「いやあ、監督、驚きました。老人ホームから電話があって、今度うちの妻の入所が決まったんです。今どうしようか本当に悩んでて、お芝居みたいな感じになってるんです」って。岡田さんは在宅で奥さんを介護していて、今は週に2、3回、通いや泊まりのサービスを利用してるんですけど、老人ホームの順番待ちって突然電話が来るんですね。悩んでたら別の人のところに話が行っちゃうので、すぐに決断するのは難しいけど、施設としては早く決断してもらいたい。で、ちょっと相談に乗ろうと思って、電話をもらった次の日におかじいに会いに行ったんですよ。その悩んでる姿が芝居のあのとおりでダブってて。結局その次の順番にしたんで、奥さんはまだ自宅で暮らされているんですけど、芝居が現実を追い越すような感じになりそうでしたね……。岡田さんの状況によって台詞のニュアンスも変わっていくのかもしれないです。それに、もし岡田さん自身が転んで骨折でもしたら、今の岡田さんの生活できなくなっちゃいますからね。かなり危ういんです。
年取ると本当に決断を迫られるというか、先延ばしにしていたことを一気に決断しないといけない、つらい選択が待ち受けてるんだなっていうのを感じますね。たとえば奥さんを老人ホームに預けるかどうかで悩んだり。夜中に徘徊してしまうので、岡田さんが探しに行かなければいけないんです。早朝に新聞配達の人にノックされて、「お宅の奥さんが2km先の家の玄関で倒れてます」って言われておかじいが歩いて行く、みたいな。若いぼくらでも大変なことを、90近いおじいさんがやってるって思うとすごいなって……。あと、奥さんの身になって考えると、認知症を患って老人ホームに入所するって、人生の中で一番順応力が低くなっている時に、人生で一番の環境の変化がある、っていうことじゃないですか。情緒不安定になったり、いわゆる問題行動が生じたとしても仕方がないことだと思います。老いるって本当になんか……誰でも、穏やかに老いて死ぬことができたらいいんですけど、特別養護老人ホームの90歳の方が「体が痛くて痛くて、こんなつらいことは人生で初めてだ。こんなことが待ち受けてるなんて思ってなかった」と言っていて……。生きるって何だろうな、人間って何だろうなってことを老人ホームで働き始めて考えるようになりました。そういうことを考えて、OiBokkeShiで演劇作品をつくれたらなと思います。

― 以前お話しした時に「社会性がある」って新聞に取り上げられるけど「認知症のお年寄りに向かって演技をするのはオレオレ詐欺とどう違うんだろう?」って考えるって、おっしゃってましたよね。

菅原 いや、悩むんですよ。何のために演技をするかっていうことですよね。認知症の人に対して金のために演技をしたら「オレオレ詐欺」で、ぼくが介護現場で実践している演技は、やっぱりその人のため、ですかね。ただ、その人のためであっても、端から見るとおかしなことに映ることがあるので、そこらへんは悩みますね。……たとえば、岡田さんにはお子さんがいないんです。お子さんがいないことは密に関われる理由にもなるんですけど……。ぼくは、岡田さんとはずっと一緒に芝居を続けたいと思っているんですよ。だからもし岡田さんが車いすになっても車いすの役者として出演していただきたいし、もし寝たきりの状態になっちゃったとしても寝たきりの状態で舞台に出ていただきたいと思ってる。岡田さんも「最後には棺桶に入る役ができる」っておっしゃってる。

― いわゆる「老い」とか「介護」というものに対する一般的イメージと今菅原さんがやろうとしているOiBokkeShiの活動がまだまだ結びついてないんだと思う。

菅原 そうなんですよ、ぼくと岡田さんの関係は、それを変える、新しいあり方を目指すことになっているのかな。子供がいなくて孤立する方って、これからどんどん増えていきますよね。そういう人たちが最期をどう迎えるか。病院でひとりなのか、もしくは若い友だちがそのお年寄りを看取ることもあってもいいんじゃないか。ぼくは岡田さんとは「演劇」っていう趣味を持つ同志というか、世代を超えた友だちみたいなもんなんです。
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『よみちにひはくれない』舞台写真より




▼ボケ・認知症のお年寄りとの関わり

菅原 俳優として演技をするっていうことは、ありもしないことを言って本当のことを伝えることだと思うんです。認知症のお年寄りのケアで演技をするのはそれに近いと思いますね。演技をすることでその人と心を通わせる。認知症のお年寄りの場合は、ありもしないことや脈絡のないことを言うわけですよね。その時に論理的に受け取るのではなくて、お年寄りの感情に寄り添う方がいい。その時は、ぼくらの常識では間違ってることでも受け入れなきゃいけないし、見えないものでも見たふりをしないといけない。そういう時にやっぱり演技っていう要素が出てくる。

― でも、認知症の人に相対するための「演技」と、おかじいが生き甲斐を見出している「演技」はちょっと違いますよね。

菅原 そうですね。おかじいがワークショップに興味を持ったのは、もともと自分の好きだった「演技」を認知症の妻との関わりに生かせるということなんですね。ワークショップを受けてから、おかじいも奥さんとの関わりで「演技」ができるようになったんです。理屈でやりあってた頃はいつも喧嘩になってた。だけど、最近は「演技」をして、話を受け止めたり、上手に逃げたりする。だから、ワークショップによって奥さんとの関わり方に「演技」っていうひとつの要素ができた。それともうひとつはぼくらと演劇をつくることで、おかじい自身が楽しむことが出来る「演技」が持てたってことですね。(後者は)介護者の休暇みたいなもんですかね。

― 以前、「老いた姿は、俳優として魅力的だ。お年寄りが歩く姿だけで、俳優として負けると思うくらい存在感がある」とおっしゃっていましたよね。その言葉の意味が、おかじいの演技を観てよくわかりました。介護者として演技が使えると思って始めたワークショップが、俳優としてのお年寄りが輝く演劇につながって、それがお年寄りの生き甲斐にもなっている。

菅原 そうですね! そういうことです。

― そういう意味でOiBokkeShiには「演劇と介護の相性の良さ」と「演劇と老人の相性の良さ」っていう、2つの側面がありますね。

菅原 そうですね、その路線で行きます(笑)。認知症徘徊演劇ではその2つを提示することができたかなと思います。ぼくは介護者として演じるし、岡田さんは演劇を通じて生き生きしている。そんな感じですね。
それから、OiBokkeShiとしての拠点をつくりたいなと今は思ってます。劇場でありつつ、家族介護者や認知症の方の集いの場になるような。家族介護者や認知症の方はいろいろと吐き出したい思いがあると思うんですよね。そういう思いに耳を傾けながら、演劇をつくることができればと。




▼死・いつか来るもの


― 今のところ、老いとボケは描かれてるけど、「死」は直面したかたちでは扱ってないのかなと。それよりは「生」っていう方を強く感じるんです。

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菅原 3年で子供も生まれて親父も亡くなって身内ももうひとり亡くなって、死を身近に感じるようになりましたね。介護の仕事も始めて、お年寄りを看取ったりして……。逆説的に、死を考えると「生きる」っていうことを考えることになるんですかね。これからおかじいと付き合っていくとそこで悩むと思う。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という憲法の「生存権」ってあるじゃないですか。老人ホームでは、入所者の健康状態にはものすごい気を使ってるんです。でも食事はペースト食だしトイレはおむつ、お風呂はストレッチャーで入るし、全然文化的な生活じゃない。一方おかじいは、演劇っていう文化的なものをものすごく大切にしてるんです。舞台で死ねたら本望だって言ってて、演劇があってこそ生きてるって感じなんです。文化が生きる気力を呼び起こして健康的な生活をしようって思うのかもしれないですよね。だけど、これから岡田さんとこれから関わっていくうちに、健康状態が悪くなっちゃって、それでも演劇やりたいっていう時にどう関わっていくのかなって、今でも悩んでるところではあります。稽古をする時に「まず生きてるかどうか」の心配をしますからね(苦笑)。おかじいの家に「今日生きてるかなあ、倒れてないかなあ」って。

― 今のところは老いながらボケながらも生きることを感じてるんですけど、だんだん死に向かっていくということに、もしかしたら今後なっていくのかもしれないですね。

菅原 どうなるんでしょうね。おかじいと密に関わって、おかじいが要介護1になったら「要介護1公演」にして、要介護2になったら「要介護2公演」にして、最期は「看取り劇場」をやれたらいい。看取りはおかじいの家を劇場にしなくちゃいけないので、「看取り劇場」です。どこまでできるかわかんないですけど、ずっと関わっていこうとは思っています。おそらくおかじいは認知症になっても俳優のままだと思うので、ぼくも俳優という名の介護者として共演できたらなと考えています。今も少しそうですけど、介護しているのか演劇しているのかよくわからなくなるんですよ(笑)。




▼おわりに
木更津の、とある宅老所「井戸端げんき」に取材に行った時のことだ。所長の伊藤英樹さんが聞かせてくれた話がある。

「人間の人生は放物線を描くようにできている。子供から思春期を迎えて、大人になり、てっぺんからくだりながら老いて、寝たきりの赤ちゃんに戻って死んでいく。思春期と同じだけの変化が、心にも身体にも起きるのが老いなんだ。」

私は俳優・おかじいの姿を見ながら、その話を思い出していた。今まさに、おかじいの青春を目撃しているんだと思った。でもこの先に待つのは青年期では、ない。だって、おかじいは88歳なのだから。『よみちにひはくれない』は、期間を定めない「ゆるゆるロングラン公演」として、月に一度上演が始まったが、残念ながら上演場所の都合などにより、2015年3月を最後に休演している。しかし、OiBokkeShiはその後も各地で「老いと演劇のワークショップ」を展開し、おかじいとの新作公演『老人ハイスクール』も準備中とのこと。おかじいが、あまりにパワフルでチャーミングだから、忘れそうになる瞬間もある。人が老いるということ、ぼけてゆくこと、いつか死ぬこと。それでも今、演劇をやるということ。演じられては消えてゆく演劇のはかなさ、そして圧倒的な力づよさを、OiBokkeShiから感じずにはいられない。


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『よみちにひはくれない』受付装飾(黒板イラスト・あさののい)

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『よみちにひはくれない』ラストシーンの場所



★過去のセルフ・ナラタージュはこちらから。
第一回 神里雄大(岡崎藝術座)
第二回 大道寺梨乃(快快)

2015-04-22

セルフ・ナラタージュ #02 大道寺梨乃(快快)




2015年2月、TPAMショーケースにて上演された大道寺梨乃のソロ公演『ソーシャルストリップ』English バージョンでのアフタートークでのことだった。客席からの「これはあなたの個人的な物語だったけれど、これからもこういうストーリーを描いていくのか?」という質問に対して、彼女はこう答えた。「この作品はわたしにとってひとつの区切りで、考えることや描くことはこれから変わっていくと思う。今年イタリアに引っ越して、結婚もするし。」と。それを聴いた時に私は、次は彼女に話を訊こうという思いを固めた。変わりゆく最中にある彼女の、これまでの道のりを刻みたいと思った。そして終演後の興奮さめやらぬまま、大道寺梨乃にインタビューのオファーをしたのだった。

(聞き手・撮影:落 雅季子 写真提供:大道寺梨乃 舞台写真:小林由美子)


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『ソーシャルストリップ』舞台写真より



▼イタリアへのお嫁入り
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― 明日からイタリアですね。

梨乃 でもまだパッキングしてないの。後でシノダ(演出家の篠田千明。かつて快快で一緒に活動していたメンバー)が「近所まで行くから会いたい〜」って言ってて。あたしも会いたかったからいいんだけど、でもパッキングしなきゃと思ってる(笑)。

― イタリアには、結婚式の準備をしに行くんでしょう?

梨乃 まずはエウジー(梨乃のフィアンセ)が仕事でいるベルリンに行って、そのあとイタリアのチェゼーナっていう町に一緒に帰って、いろいろ準備するの。それから日本の戸籍謄本をミラノの大使館に持っていって、証明書をもらってチェゼーナの役所に出す。イタリアって、結婚するのに2週間くらいかかるらしいの。何かね「この二人が結婚するけど異議はありませんか?」って貼り出すんだって。で、異議がないと結婚できる。でも、役所の窓とかに適当に貼られるみたい。「ネズミ駆除します」みたいなのと一緒に(笑)。結婚式は7月なんだけど、快快からは誰が来るのかな……こーじ(山崎皓司)が来てくれる気がする。あと絹ちゃん(野上絹代)が行けるって言ってて、そうなるとみちゅ(野上の娘)も来て、シノダも「結婚式は行けないけど、式の前に会いに行くつもり!!」って。

― エウジーさんはどんな人?

梨乃 エウジーは、イタリアのソチエタス・ラファエロ・サンツィオ劇場っていう劇場で働いてるの。自分で4人組のDewey dellっていうダンスグループを組んでて、そのツアーでヨーロッパを回ったりもしてる。

― 相手が日本人じゃなかったっていうのも、梨乃ちゃんには自然なことなのかな?

梨乃 すごいちっちゃい頃から、外国にいつか住む事になるだろうなって思ってた。お父さんが映画が好きで、よく観てたの。それを横で眺めてることが多くて……3、4歳の時。外国映画を観て、自分が今住んでる世界の「外」があるって意識出来たら、気持ちが楽になった。とにかく心配性だったから……(笑)。どうやら地球は大きいらしいって小さいながらに知って、みんな違うごはんを食べて違う言葉を使うけど、身体が汚れるとお湯に入るのは一緒らしい、って気付いて。お風呂入ってるシーン見て「へえ!︎」って(笑)。おもしろいな、行ってみたいなって。知らない文化の中に浸ると自分がどうなるかに興味があった。結婚はいつかするって思ってたけど、30代後半だろうなって。思ったより早かったなー。

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2014年、イタリアにて


▼小さい時の自分を満足させてあげたかった

― 今日は、梨乃ちゃんが子供のころから結婚するまでのことを話してもらいながらこれから先どんなふうになるのかなっていうのを訊いてみたいと思ってるのです。

梨乃 あのね、今日話そうと思って、ちっちゃい時のことを思い出してたんだけど……いちばん最初の記憶は、2歳ぐらいの時にベビーカーに乗ってた時のことなの。雨の日は前にビニールを掛けるでしょ。そうすると雨のてんてんがビニールの上にドットみたいにくっついて、それを見て「はあ♥︎これがいいんだよな♥︎」って思ってた。子供って可愛いことあんまり思ってなくて内面がヤバい(笑)。あとはね、小学校入ってから、死ぬこととか戦争とか地震とか、とにかく全部すごい怖かったから、毎晩ダウジングをしてから寝てた……。5円玉に糸をつけて垂らして質問をすると、右回りでイエス、左回りでノーって答えてくれるっていうのを本で読んで。

― えっ、こっくりさんみたいな?

梨乃 毎晩「明日死ぬか?」「戦争が近いうち起こるか」って訊いて、「起こらない」ってなって安心してた。ちょうど湾岸戦争があった頃だったから、最終的に誰に頼ればいいんだろうってずっと考えてたの。「あめりかのだいとうりょう?」って思って、いつも「なんかちがう……わからない!」ってなってた(笑)。でもね、最近それにやっと答えが出たの。それは「誰にも頼れない」。誰がいちばん正しいこと知ってるのかなあって思ってたけど、誰も知らないってことがわかった。これまで、小さい時の自分を満足させるために作品をつくってたとこがあって、『ソーシャルストリップ』はそのいちばんのまとめだったんだよね。だから、これからはそうじゃなくてもいいかな。「頼れる人は誰もいない」「誰もほんとのこと知らない」って、答えが出たから。

― 満足させてあげたかった「小さい時の自分」について教えてほしいな。小学校の時は、どんなことを考えて過ごしてたの?

梨乃 小学校の頃は、いちばんキツかった……。なんか大変だったの。何だったんだろう、あれ……先生とあんまり折り合いよくなかったからかなあ。自分の好きに生きられないっていうフラストレーションがすごかった。集中力が高すぎてちょっとおかしいとこがあったし。家帰ってきて座り込んで、2時間くらいそのままとか。お母さんが「何してるの?!」とか様子見に来るの、よくあった。お話とか考えるのも好きで、一生懸命考えては泣いたり。小説家になりたかったんだけど漢字が苦手だから小説家無理かもって思って、うーん……ってなってた。あ、でもおもしろい事もたくさんあったよ。ヤバイ友達がいてねえ、3、4年生のころがいちばん楽しかった。その時つるんでたのが、「おじん」っていうあだ名の子。おじんはすごい笑いの才能があって、「ちょっと皺目(目に皺を寄せる遊び?)やって〜」ってみんなで言って、それで20分笑い続けたり、まるこちゃんって友だちもいて、おじんと3人で給食室から帰る時に歩いてアチョーって足を上げる遊びをして笑い崩れてたり。あの頃ほんとギャグセンス高かった。自分の好きに出来ないっていうフラストレーションは、中学入ったらなくなったんだけどね。いろんなタイプの友達ができて、ギャルっぽい友達もいたし、オタクっぽい友達もいたし、普通の子とも仲良かったから、すごいのびのびしてた。中学生ん時がいちばん好きにしてたかも。映画ひとりで観に行ったり、自分で服つくって着たり、髪型をものすごいおかっぱにしたりとか。カメラにもはまって写真すごい撮ってた。ルーズソックスはダメだったけど私はニーハイ履いてて、そんな子はひとりしかいないから先生も違反かどうかわかんなくて取り締まらなかったりして(笑)。男の子にもまったく興味なくて、それより自分の世界を突き詰めたかった。中学生の時は、頭ひらきっぱなしで過ぎてったな。90年代を楽しんでた気がする。10代の子って流行ってるもののド真ん中は買えないけど、それに似てるものとか、端っこを味わうみたいなとこあるでしょ。それでも自分たちが流行に参加してる感はあって。……うん、今でも好き、あの感じ。

― 初めて彼氏ができたのは高校生の時?

梨乃 うん、17歳。だんだん学校の外で遊ぶようになって、男の子とも会うようになって。中学の時に比べて普通に女子高生っぽくなった。

― それが『ソーシャルストリップ』にも出て来た「初めての彼氏」なんだね。「好きになる男の子はいつも亀に似ている。」っていう台詞、すごく好きだった。

梨乃 あの子、亀に似てたかなあ……? 似てたかもなー。でもいちばん亀に顔が似てたのは、18歳の時に好きだった子かな。今日の朝もその子のことを思い出してた。役所に戸籍謄本取りに行って「いよいよ結婚するってカンジ♥︎」って思って、でも今まで好きだった子もみんな好きだったのにいいのかなあ……とか(笑)。予備校で一緒だった子なんだけど、結構長く好きだった。本当に好きだったから結婚しようと思ってたけど出来なかったなー。まあ、出来ないもんはしょうがない……よね。

― 「小さい時の自分を満足させるために作品をつくってた」ってさっき言ってたけど、その「小さい時の自分」は、10代の頃からずっと胸の中にいたのかなあ?

梨乃 いつになったら子供の時の感覚を忘れるんだろうってちっちゃい時から考えてて、きっとすぐに忘れちゃうから注意しよう、って思ってた。それでもやっぱり忘れていってるなーって思うけど……。あんまり簡単に子供欲しいって前は思わなかったんだよね。子供は可愛いんだけど、内面では結構ヤバいこと考えてるって思うから……自分がそうだったし。最近は子供可愛いなって思っちゃうけど、自分の中にはちっちゃい時の自分がずっといるなって思う。



▼夢を叶えた20代

彼女いわく「内面では結構ヤバいこと考えてる」子供時代を経て、大道寺梨乃は多摩美術大学に進学することになった。彼女が今も所属する快快(ファイファイ)は、大学の同期メンバーによって結成されたパフォーマンスグループで、リーダーの北川陽子、演出の篠田千明らを含めた集団創作のスタイルを取っていた。明るく華やかなメンバーたちの雰囲気を映し出したような彼らの初期作品は、小劇場シーンの中でもかなり、特徴的なものだったと言える。


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― 多摩美術大学に入って、小指値(こゆびち。快快の前身となるグループ)を結成したんだよね。

梨乃 結成は卒制の時だけど、あのメンツでいろいろやりはじめたのは1年生の時。1年の最後にグループを組んで演劇をやることになって。シノダもいたし、絹ちゃんもいた。……やし(中林舞)はいなかったか。こーじもいなかった。天野(史朗)もいなかった。あれ? 意外といなかった(笑)。

― 小指値から快快として活動していく中で、海外に行く梨乃ちゃんの夢が叶っていったと思うんだけど、子供の頃に観た映画の向こう側の世界に、初めて行けたなって思ったのはいつ?

梨乃 初めて自分で行きたくて行った海外は香港で、大学出てすぐの頃に、かなちんっていう友達に誘ってもらったの。ずっとウォン・カーウァイ好きだったし、見るもの全部可愛くていろんなもの買いまくって食いまくって楽しみまくって、帰って胃腸炎で倒れるみたいな旅行をその2、3年で5、6回したかな? 楽しすぎてハマっちゃって。もうかなちんと行ける時あれば行ってた。行って「何これかわいー!」とか言って、買って持って帰ってこれるんだ、みたいな、好きなものにタッチできる感覚が初めて出来たのはその時。それがおもしろくて。ヨーロッパは、その時はあんまり心になかったかな。ユーロ高かったし。香港行きまくった後に、快快でTPAM(国際的な舞台芸術ミーティング)に出ることになって、大学出てすぐやった『My Name Is I LOVE YOU』を英語版にして再演したの。それがベルリンのHAUっていう劇場と、当時のTheater Der Welt(ドイツで行われる舞台芸術フェスティバル)のディレクターだったフリー・レイセンさんに買ってもらえることになって。そこが決まったら他のところからも声がかかって、オランダとスロベニアも行くことになって、快快メンバーのオルガがハンガリー出身だから、ハンガリーも。イタリアもエストニアにも行った。結局『My Name〜』で三年ツアーしたな。

― そこから快快が、海外に出て行くことになったのね。

梨乃 『My Name〜』の初演が2005年で、それが自分としても今までで一番いい演技だったって未だに思うくらい本当に良かったの。あれを超えられるか? って思うとどうしていいかわかんなくて、シノダやみんなと揉めたりして再演は大変だった。それまでシノダのオーダーはだいたい応えられたし、そんなに言葉にしなくても何をしてほしいかわかったの。でも初めて、シノダに何を言われても、わからないし出来ないみたいな感じになっちゃって……快快って、何か問題あるとみんなでそれを話し合うから、あたしも泣きすぎて言葉が出なくなっちゃったりして、すごい大変だった。でもそれがきっかけで、自分でも企画公演をやるようになったの。海外公演の企画も担当するようにもなって、外国のディレクターとやり取りしたり、大変だったけどよかったなっていう公演だった。それが2009年。そこからはツアーで快快が忙しくて、2012年くらいまではかなりいろいろやった。『SHIBAHAMA』とか『Y時のはなし』で日本もヨーロッパも、シンガポールにも行ったし。

― その間に東日本大震災もあったよね。

梨乃 あった! あの時はねえ、快快のみんなと一緒にいわき総合高校の子たちのワークショップの授業をやってたの。1月に授業やった直後で……だから思い入れができた時に地震が来たからすごい、ヤバかった……。みんな無事だったけど……。その年はね、お正月に初めてイタリアに長く行って、エウジーと一緒に過ごしたの。エウジーとは2010年夏のヨーロッパツアーの時に出会って、2011年の初めに付き合いだしたんだけど、いったん1年ぐらい別れてるの。だから付き合いは長いんだけど、恋人だった時間はそうでもない。震災の時は……エウジーがいたから、このまま日本で何か自分にあったらヤバいし、むしろすぐイタリアに行った方がいいと思ったんだけど、その時の「まずいまずい」っていう感覚をエウジーと共有できなくて……同じ体験してないし、いきなり結婚も出来ないし。一緒に住むとかも、向こうが結構ネガティブだったのね。でも私は今すぐそうしないと絶対後悔するっていう気持ちで、それでケンカばかりになっちゃって結局別れた。でもあの後シノダがタイに引っ越したりして、ゆるやかに快快のみんながそれぞれどうしたいかが出て来たっていうか。これからも日本で活動したいのか、違うところでもやってみたいって思ってるかはみんなバラバラになってたから。それで2012年の『りんご』が出来たんだと思う。あたしはすごいツアーしたくて、とにかく海外でツアー出来る作品をつくろうって言ってたんだけど、「やっぱり日本の人に見せたい」って言うメンバーもいて、そういうの聴くと自分がやりたいだけじゃダメだなって。だから、外国で仕事したかったらみんなに頼らないで自分ひとりでやれるようになんなきゃいけないんだなって思い始めた。

― それで、『りんご』(2012年9月)の後に休養することにしたんだね。

梨乃 ちゃんと休んで自分がどうしたいか考えようと思って……『りんご』が終わったらエウジーのとこ行くはずだったんだけど、別れちゃったんだよね……。2013年は『アントン、猫、クリ』のツアーがあってアメリカに行ったけど、夏にはシノダとゴスピくん(渋家のメンバーのゴッドスコーピオン)と、フィレンツェのFabbrica Europaっていうフェスで『The PARTY party』っていう作品もつくった。今思えば、シノダにとってもあれが快快から離れてつくる一作品目になったんだと思う。本当はね、あたしも2013年のうちに自分で公演をやればよかったんだけど、勇気がなかったの。『The PARTY party』は40分くらいの英語のほぼ一人芝居で、作品自体はすごくよかった。だけど、自分は今までやってきたことをただ焼き直してるだけみたいな気持ちにもなって……あんまり、自分自身が新しいことができてるとは思えなかった。シノダとやってる時点で自分ひとりでやるっていうのとも違うし……あっ、電話だ。

 梨乃、篠田千明からの電話に出る。
 この後の待合せの時間について相談したりしている。
 
梨乃 (電話を切って)シノダ、3年ぶりの日本の桜なんだって! そうそう、いつだろ……2013年の終わりかなあ? シノダと二人で、山手線の終電乗ってる時にいきなり「なんかさー!」とか言われて「やっぱり今まで梨乃のことミューズだと思ってたんだよねー」とか言って、「友達ともこないだ話したんだけどー」とか言うの。なんかその友達も演出家で、彼にはすごいミューズがいたんだけど、そのミューズが劇団やめちゃった後に、その人無しだと作品がつくれないっていう風にはなりたくない、っていう話をしたらしくって「あたしも梨乃無しじゃつくれなくなりたくないんだよねー。だから来年はもう誘わないんだ」って言われた瞬間に、高田馬場かなんかに着いて「あ、じゃあねー」って降りてった(笑)。「え?! あ、バイバーイ」みたいな。なんかその時にすごく……放り出されたっていうよりは、救われた感じで……誰かにミューズだったって言われるなんて素晴らしく嬉しかったし、じゃあ、これからはひとりでも大丈夫かもなって思えて。なぜかそれが今も心に残ってる。あたしはシノダにすごい頼ってたけど、向こうもあたしに頼ってたんだって、びっくりした。自分が誰かに頼られることなんてあったんだ、って……。宣言どおり、シノダは次の年の作品には誘ってくれなかったんだけど。あ、夏にピンチヒッターでちょっと出た。でも今年の新作はやっぱり誘わないらしい(笑)。

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『ソーシャルストリップ』舞台写真より



▼一生、「東京の女の子」宣言!

2014年10月、横浜の演劇センターFで生まれた一人芝居、『ソーシャルストリップ』は、大道寺梨乃がホスピタリティのすべてを凝縮してつくりあげたソロ作品だった。彼女の部屋を模した空間でおこなわれるそのパフォーマンスは、着ている服にまつわるエピソードを話しながら彼女がひとつずつそれを脱いでいくSocial Stripでもあり、彼女の生きてきた時間そのものが語られるSocial’s Tripでもあった。

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― 『ソーシャルストリップ』は、あの狭い演劇センターFの2階から始まって、小さなカフェとか横浜のお絵描き教室とか、とても親密な空間の中での上演を重ねていって、梨乃ちゃんとお客さんとの相互的な豊かさを生んだ作品だったと思う。快快の大道寺梨乃じゃなくて、ひとりのアーティストとしての時間が持てていたように思うな。

梨乃 『ソーシャルストリップ』をやるたび、観に来てくれたいろんな人とそれぞれのちっちゃい空間を持てた気がする。あと、私がもうすぐ日本に居なくなるから友だちみんなが会いたいって言ってくれて、そのたびにそこにしかないちっちゃい空間がいっぱいできる。これまでは、ひとりのアーティストとしての時間を持つっていうことがどういうものか、イメージできなかった。それはストイックで大それたもので、辛い感じなのかなって思ってて。でも、そんなに今までの自分を曲げなくてもできるのかもって思えたから気持ちが楽になった。快快で作品つくるのってすごい大変だし、みんながただやりたいことをやるとかじゃ全然なかったから、ひとりになっても自分のやりたいようにやるんじゃダメだろうって、ずっと思ってたの。でも『ソーシャルストリップ』をつくってからは、自分のペースでもいいんだってわかった。快快で作品つくる時はいつも、この作品は宇宙でいちばん面白いって思ってるのね。今もそれには疑問がなくて、大学の時からこのメンバーでつくるものは宇宙一面白いから、大工さんとかイヌとか偉い人とか偉くない人も、どんな人でもみんなホントに観に来ればいいのになーって思ってたんだけど、ひとりでやり始めてみたら、自分の作品が宇宙一面白いなんて全然思えないの。だけど、どこかにこれを観たい人はいるだろうなとは思える。もしかしたら快快の時よりも、かも。快快はみんなとつくってることに重きを置いてるから、リハーサルの時点で始まってるっていうか。だけどひとりでつくる時はお客さんが観て参加してくれて、初めて形になる。

― 結婚してイタリアに引っ越して、これから先、自分がどう変わっていくと思う?

梨乃 今年はもう、ひとりでは大きい公演はやらないで、とりあえず引っ越して生活を始めてから、来年違う作品をやりたいなって思ってる。東京に1か月くらい帰って来てリハして。本当はできたら出演してほしい人をみんなイタリアに呼んでリハしたいけど。東京で何かつくるのは、自分にとってやりやすいの。観てくれる人が絶対いるし、規模さえそんなに大きくしなければ何とかやれるから。本当は、イタリアでやれることをこれから考え始めなきゃって思ってて。でもそれには向こうの人の協力がいるから。東京だと、「これ出来なーい!」って言うとオバマ(小原光洋)がやってくれるとか、「ノロ(加藤和也)どうしよー!」っていうとノロが助けてくれるとか、そういう人が周りにいてくれたけど、向こうにはまだそれだけの信頼関係がつくれてないから。イタリア語も達者じゃないし、ドキドキしてる。

― でも、東京を大切にしつつ、イタリアのことも創作の足場として並列に捉えてる感じがする。もちろん、現時点で出来ることは東京が一番多いと思うけど、同じ地球の上にある一つの町として捉えてるたくましさがすごくあるよね。

梨乃 一生「東京出身」で売りたいなとは思う。「東京から来た女の子です!」って、それなりに魅力がある気がするから。へんな話だけど、あたしもっとおもしろくなりたい(笑)。なんか、不安に思ってるのかも。イタリアって古いしきたりとかがある古風な国だから、波が早い東京とはやっぱり全然違って……。イメージの中ではイタリアに引っ越しますって言うとマダム的な? ロハスっぽいの? とかになっちゃってヤバイ、おもしろくない! って思っちゃって(笑)。エウジーが嫌がるかもだから女体盛りパフォーマンスとかできなくなるし……とか。

― なんでおもしろいのがいいの?

梨乃 えっ……何だろう。年取った時に、お金があってもつまらないと早く死んでほしいって思われるだけだけど、お金がなくてもおもしろければ長生きしてほしいって周りから思ってもらえるでしょ(笑)。なんかね、うちのおばあちゃんがそうなの。おもしろいから、長生きしてほしいの。

― 大丈夫。どんな環境になってもおもしろい人はおもしろいっていうか、おもしろくあらずにはいられないって感じ(笑)。それは絶対大丈夫だと思う。

梨乃 うん、おもしろいほうがいい。

― ところで明日からイタリアに行って、帰国はいつになるんでしょう?

梨乃 4月21日に帰ってきて5月にKAAT(神奈川芸術劇場)で『再生』やって、6月にイタリアに戻る。8月にまた日本に戻って来るけど。新婚旅行と称して、行ったことない日本の場所に行きたいな。広島の、原爆資料館行ったことないから。

― 今日はどうもありがとうございました。




イタリアに旅立つ直前の彼女の表情を見て、私の胸には「充実」という言葉が浮かんだ。「充実」とは、やたらめったら創作に励んだり、たくさんの恋を経験したりすることではない。時間をかけて味わいつくし、価値観の違いに煩悶しながらぶつかりあい、いつか離れる時が来るまで相手との対話をあきらめないこと。そういう彼女の姿勢こそが、「充実」を感じさせる。彼女は、何か、誰かを好きになることを怖がらず、傷つくことをきちんと引き受ける強さを持っている。たくさんの国のボーイフレンドと恋をしてきた彼女は『ソーシャルストリップ』の中で、「たったひとつしかない私の心は、どこに懐かしさを覚えたらいいの」とせつなげに言った。でも、今まで彼女が恋してきた男の子たちはみんな、彼女のことを懐かしく思っているはずだ。彼女はいつだって、たいへんに心を尽くして、彼らと対話してきたのだから。だから、寂しがらなくて大丈夫。結婚おめでとうございます。いつまでも、最高におもしろい東京の女の子でいてください。

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右は井上悠(ヘアメイク、衣装、出演)。『ソーシャルストリップ』舞台写真より


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『ソーシャルストリップ』舞台写真より







2015-03-06

セルフ・ナラタージュ #01 神里雄大(岡崎藝術座)



▼はじめに

ある作家について語る時、彼らの過去作品に言及することや、演劇史そのものを参照しながら彼らの資質をどう位置づけるか考えることは、よくある。でも、そうした切り口に留まらず、彼らの人生そのものになぜか引きつけられてしまう相手がいるのも事実だ。

このインタビューシリーズで目指すのは、私にとってそうした存在である人々のルーツを訊ね、創作の地下深くを流れる水脈を知ること。過去を語ってもらいながら、未来に通じる道をさがす「セルフ・ナラタージュ」。第1回は、劇作家・演出家の神里雄大(岡崎藝術座)。昨年の3月と、今年の1月に訊いた話をもとにして、彼の行く先を見つめる。

(聞き手・撮影:落 雅季子 写真提供:神里雄大)


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ブエノスアイレスのラ・ボカにて


▼2014.3.21 登戸

2014年冬、神里は祖母の住むペルーのリマに滞在していた。その間には第58回岸田戯曲賞に『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』でノミネートされていたが、彼の関心はそうした日本国内のトピックにとどまってはいなかった。帰国したばかりの彼の話には、これまで/これからの彼の創作活動に通じる鍵が散りばめられており、どこか得体の知れないエネルギーに満ちていた。


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― まずはお帰りなさい。今年の岸田國士戯曲賞にノミネートされた時は、南米にいらしたんですよね。

神里 受賞については特に気にしないようにしてて……といっても気になるものだけど、当日の発表時間は、ペルーでは早朝だったので僕は寝てました。果報は寝てマテ茶。

― ……。

神里 つまんなかった? 果報じゃなかったですけどね(笑)。まあいいんじゃないですかね。次の日にはもう忘れました。

― 1月の前半から3月まで、どこにどれくらい滞在したんですか。

神里 僕の外国の親戚は、全部父方なんですが、ペルーのリマのばあちゃんちに3週間くらいいて、そのあと1週間クスコとマチュピチュに旅行して、リマに戻ってからアルゼンチンのブエノスアイレスに5日、パラグアイのアスンシオンに3日です。そこからリマに一週間ほど戻ってから、叔父のいるラスベガスに2週間行きました。12時間くらいのフライトも、慣れてほとんど寝てるので何も感じなくなってきましたよ。

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マチュピチュにて



【神里雄大のルーツ】
― リマにいらっしゃるおばあさまは、おいくつなんですか?

神里 今年数えで88歳だったかな。20年前にじいちゃんが亡くなったので、それからばあちゃんは一人暮らしですね。

― おばあさまが、最初にペルーに渡られた時の経緯を教えていただけますか。

神里 もともと、僕のひいじいちゃんが大正時代の移民政策・出稼ぎで、沖縄からペルーのリマに渡りました。そして戦前にじいちゃんが生まれて、12歳くらいで大宜味村という沖縄本島北部の村に戻ってきたんです。じいちゃんとばあちゃんは家が近かった縁で結婚して、父親が生まれた。うちの父親は小学校1年生まで那覇にいて、またじいちゃんたちと一緒にリマに戻ったんですね。だから父親はリマ育ちで、20歳過ぎに北海道に留学に来て母親と出会ったの。結婚してからリマに行ってそこで僕が生まれたから、僕はペルー国籍だけど、生後半年で日本に戻って来たので、ペルーの記憶はほとんどないです。沖縄の血を引いてるから顔は外国風だけど……まあ沖縄に行けば普通の顔だよ! ちなみに叔父さんは、ラスベガスで医者をしてます。日系の沖縄系ペルー人女性と結婚して、家庭内ではスペイン語を使ってるの。日系でありながら、スペイン語を話すというのはアメリカでも珍しいらしいんです。

― おばあさまとのリマでの暮らしについて教えてください。

神里 ばあちゃんは戦後にペルーに渡ったので、スペイン語は母語じゃない。でも、日本語も抜けてきているので、いくつか言語が混ざってる感じです。僕とは日本語しかしゃべらないけど、たとえばペルー人の友達が家に遊びに来ていて、そこに僕が話しかけたりするとスペイン語になって、うちなーぐちも混ざるかな。スペイン語5:日本の標準語4:うちなーぐち1くらいで、僕と喋る時は日本語8:スペイン語2のイメージ。
今回、リマでひいじいちゃんたちの墓参りをしたんだけど、ばあちゃんにとってはすごく大きな出来事だったみたいですね。ばあちゃんはカトリックなんだけど、仏壇も持ってて線香もあげるんです。帰り際に、ばあちゃんに仏壇のことをよろしく頼まれて。前だったらそういうの嫌だったけど、今は自分がどう考えるかよりも、誰かが大事にしているものは否定すべきではないって思う。「仏壇を頼む」って言われて「自分はそういうのは信じないから嫌だ」と言うのはあまりにも子どもじみてる。今後自分がどういう生活をするかはわからないけど、責任持たなきゃとは思いました。

― それはたとえば言語が混ざっているとか、カトリックと仏壇の渾然一体さを含めて、自分のルーツとして引き受けて行くということ?

神里 さっき「日本語とスペイン語が混ざってる」って言ったけど、でも言葉ってそういうものですよね。宗教だって、いろんな人の気持ちや思惑や政治が入り込んで今の信仰のあり方になってるし、混ざってるほうが自然だと思う。ペルーって「人種」を気にしないところがあると僕は思ってて。インカ帝国時代からの民族や日系、スペイン系、中国系……いろんな人がいる。2か月弱しか向こうにいなかったから大げさなこと言えないんだけど、帰国してみると、どうもこの日本はあまりに血が濃くて、どこか違う星だとすら感じる。他者が本当にいなくて厳しいなって、自分の環境をちょっと呪うよね。外国で文化習慣があまりに違う時にくじけそうになるこの弱さが、この環境のせいなんじゃないかって思うこともあります。

― 今回より以前に南米に滞在したことはなかったんでしたっけ?

神里 20年前にパラグアイに2年住んでましたけど、南米に行ったのはそれ以来でした。自分にとっても、パラグアイの2年間がだいぶ人格形成に関わったなっていう実感がもともとあって、作るものや興味のあるテーマが直結してるのは間違いないということは今回改めて感じましたね。

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リマの沖縄県人会によるOkinawa Matsuriにて



【日本人学校での生活】
― パラグアイのアスンシオンにいた時のことを教えていただけますか。

神里 父親はスペイン語と英語が出来るので、ずっと南米関係の仕事をしてるんですね。その赴任に伴って、小学校4年生から6年生まで住んでました。帰ってきた直後に、阪神大震災や地下鉄サリン事件がありましたね。

― 今回の旅で、母校であるアスンシオンの日本人学校も訪ねたんですよね。

神里 この学校には小学1年生から中学3年生までが在学しているんだけど、僕が学校に通ってた時代は今の生徒たちが生まれるより前なんだよね……。時間を飛び越えて、記憶の中の場所と場所がつながるのはおもしろかった。日本人学校の先生方の雰囲気も変わってなかった。人数が少ないので、ひとつの教室に集まってごはんを食べるし、スクールバスで帰る時も先生が皆でずーっと両手を振ってくれる。家族みたいな場所です。

― なるほど。ちなみに学校にいた頃はどういうキャラクターだったんですか。

神里 恥ずかしいんですけど、僕あだなが「しんちゃん」だったんですよ。どうしてか今まで忘れてたんだけど、当時『クレヨンしんちゃん』の物まねをよくやってて、それで「しんちゃん」だったの(笑)。まあ、そんなキャラです。



【南米と日本の距離】
― 私、パラグアイっていうと「マテ茶」と「グァラニー」くらいしか知らないんですよね……。

神里 それ、僕の芝居(『グァラニーがいっぱい』2009年)で得た知識じゃん……。しかも「マテ茶」ってもはや日本語じゃん……。グァラニーはパラグアイの通貨単位ですけど、もともとはインディオ部族の名前なんですよ。パラグアイは、スペイン語とグァラニー語が公用語。地方行くとグァラニー語しかしゃべれない人もいるとか。ちなみに、ただ「マテ」っていうと温かいマテ茶を指します。水出しの冷たいマテ茶は「テレレ」と呼びます。専用の水筒をみんな持ってて、道ばたで飲んだりしてますよ。暑いので、みんな仕事してないんじゃないかな。でも、蒸し暑いというよりは、太陽に押さえつけられるような暑さなんです。あそこに行って、ことあるごとに「南米っぽい」って言われる、僕の創作イメージの根源がわかった気がしました。あの暑さと土の色ですね。太陽に焼かれたような、レンガ色の土があるんですよ。

― かつてパラグアイに住んでいて、その暑さと土の色に愛着と創作を捧げたい気持ちがあるのに、永遠に異邦人の気持ちも同時にあって、それを持て余す暑苦しさも結局その太陽に通じてしまうのが、「南米っぽい」と言われる所以かもしれないですね。大人になったことで、南米との付き合い方や距離感が変わったと思いますか?

神里 今回来ることで変わりました。最初は、無理だな、こりゃ住めねえなと思いましたが、今はわりといけそう。それも、移住というより近所の散歩感覚です。「血」の話をするなら、自分の「日本人としての血」はどうでもいいけど、「血縁」というものについてはどうでもよくないと思うようになった。ずっと離ればなれでいた血縁を、普段そばにいる他者よりも優先しようとは思わないけど、せっかく近くに来たなら会っておきたいなって。

― 遠くに自分の過去を知ってる人がいてくれるのは安心感につながるし、自分を見つめ直す足場にもなりますよね。「南米に住めると思うようになった」というのはどういう感覚なのですか。

神里 たとえば日系ペルー人は、別に「住みたい」「住みたくない」という理由でペルーにいるわけじゃないでしょう。「親が移住したから住んでいるけれど、日本の心は忘れない」みたいなことは、「選択」じゃなくて「生き方」ですから。だから、僕が「南米に住める」と言ったのは、目的が「住む」ことじゃなくなったという意味かな。「住む」ことは、手段ではあっても目的にはしてはならないという意味で「言葉を使う」ことと似ていると思うの。日本語で話してると、いかに表現するかが目的になるし、どんどん内にこもる。喋り慣れてない英語やスペイン語はもっと何かを「伝える」ためだけにあって、もどかしさはあるんだけど、一方ではすっきりする。登山みたいに、もやもや抱えたままのぼって行くと汗で流れる感じ。狭いところで考えてることを、母語じゃないものが外に連れ出してくれる、そのシンプルさですね。期間限定でも、住んでみるとそこが大事になってきて、日本で気にしてた情報や関係性はその場所ではたいしたことじゃない。それこそ、「岸田賞にノミネートされましたが、取れませんでした」という事実は、あの町にいる限り何でもなくて、自分の靴にゴミがついたことのほうが正直気になる。

― 今回3月11日に帰国したわけだけど、あれくらいの大規模な災害や大事件が日本で起きたとしたらペルーで何を考えたんでしょうね。

神里 もちろん心配するでしょう。でも恐らく、自分たちの生活は変わらない。だって、チェルノブイリの時だって日本人の生活は変わらなかったし、原発も止まらなかったでしょう。

― それは遠い日本を切り離しているのではなくて、自分とペルーの周りの環境を、より強く大事に思うということなんですね。

神里 自分の靴の汚れより原発が大事になっちゃったら身が持たないって認めてから、何かが始まると思うんだけどなあ。
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― 南米の滞在を経て、書くものや作るものが変わる予感はあります?

神里 あります。今までは、よくも悪くも人の目を気にして作ってた。前はもっと、はみ出たかったけど、無意識に枠に収まろうとしてた。今は、皆がどういう考えを持っていてもいいと思う。自分はこれがいいと思うものはいいし、やりたくないことはやりたくないって言う。前からそうは言ってたんだけど(笑)周りの反応を予測しなくていいと思ったということかな。何だか、第二の人生始まったつもりでやってますよ。




▼1年の空白

さて、この神里雄大のパーソナリティに踏み込んだインタビューをどう形にしていくべきか。考えながら原稿を整えたり、手を入れたり、温め直したりしているうちに、彼の南米の滞在をもとにした新作『+51 アビアシオン, サンボルハ』が上演されることを知った。2014年8月に行われた試演を観て、きっとこれは岡崎藝術座の新しい境地になるという予感を得た。彼の長い旅(それは時間にしてみればたった2か月弱のことだけれど)を、曲がりくねった道なりに、観客がたどっていくような体験になると思った。

試演を観るにあたり、どこにも公開していなかった手元のインタビュー原稿は、私の作品理解をひそかに助けた。いくつかの固有名詞は、すでに彼から説明を受けていたし、彼の先祖が南米に渡った経緯も、私は(作品を初めて見る人よりは)よく理解していた。だから、インタビューを公開することは『+51 アビアシオン, サンボルハ』の観客にとって有益なことになるだろうと思った。しかし同時に、これを単なる「観劇の前情報」ではない形で届けたいとも考えていた。

それからしばらくの時間を経て、私は、戯曲を書き上げたという神里雄大に連絡を取り、ふたたび話を訊くことにした。帰国したばかりの頃の感覚が、現在の日本の政治情勢や、具体的な創作活動に臨むうちにどのように変化したのだろう。自分のルーツを探る旅から、彼は何か新しいものを掴むところにたどりついたのだろうか?




▼2015.1.23下北沢

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― お久しぶりです。あれから南米には行ってないんですか?

神里 行ってないです。お金もないし、暇がない。行くならやっぱり半年くらい行きたいんですよね。

― 去年帰国された頃から日本の状況もずいぶん変わりましたけれど、日本の政治の情勢は今も気になってる?

神里 気にはなってるけど、問題なのは政治じゃないと思ってる。2011年の『レッドと黒の膨張する半球体』の時にやったのは、ある種の国民批判だったわけだけど、結局そこに戻りますね。今の日本には、他人の人生に対する「謙虚さ」が存在しない。ネトウヨもリベラルと言われる人も、みんなが相手を攻撃するばっかりで、他人の存在を蔑ろにするようなことを平気でやるのは、相手がどういう思想の持ち主であれどうなのって思うよ。ある信念を持って中東情勢に関わってた人が捕まったら「自己責任」。でもイチローが活躍したら「日本人すげえ」ってなる。でも、そういう矛盾に対して、自分も加担してる人間のひとりだし、もう日本は終わってるんじゃないかって。そんな感じですね……最近の僕は(ため息)。

― ……だとすると、今は何に意味を見出してるのでしょう?

神里 終わってるってことは何の意味も見出せないってことで、ただ「終わってる」という状況だけがある感じかな。無責任な物言いだとは思いますけどね……。たとえば僕は子どもが好きだけれども、今の日本ではつくれないなって思ってしまう……。

― そういう、ある種の閉塞感を抱えながら新作をつくっているところだと思うんですけど、今回の作品のタイトルの『+51 アビアシオン、サンボルハ』は、おばあさまの住んでいらっしゃるリマの住所と、ペルーの国際電話の国コードだそうですね。最初の「+51」は、何て読むんですか?

神里 「プラスゴーイチ」です。アビアシオン、サンボルハっていうのがスペイン語だから、シンクエンタ・イ・ウノ(※スペイン語で51)にしようかと思ったけど、わかりにくいので日本語にしました。

― 昨年の8月に森下スタジオで試演を見た時、神里さんが台本の冒頭部分を読んだパフォーマンスがかなり面白かったんですよね。自分の体験に対する内向きのベクトルがありながら、舞台が日本から遠い南米だったせいか、内にこもった独りよがりなものがなくて。

神里 今作は、僕個人の体験をもとにしているし、固有名とかの情報量が特に多いと思う。特定の人間の特異な体験やバックグラウンドに支えられて出来てるものは、見る側にフックがないからこそシンプルに行くしかないと思ってます。でも、今回は自分の体験を書きながらも、確実に外には向かってる。ひとりで抱え込んでる話ではないし、8月の試演よりドライに距離が取れてる。

― 前作の『(飲めない人のための)ブラックコーヒー』には、誘拐された女の子のエピソードとか、自分の「意見」の及ばない存在がいましたよね。今作も、演出家の佐野碩とか、ペルーのおばあちゃんたちが話の中に出て来ていて、そういう他人の生きてきた道筋を尊重している作品をつくっていることは、「日本終わってる」っていうさっきの話とは逆のベクトルに思えるんですよ。

神里 そうかもしれない。話が戻るけど、僕個人の意見で言えば原発は反対だし、沖縄の基地も県外移設するべき。それはリベラル的な考え方だとは思うし、それに相反する意見は、愉快な気分にはならない。ただし、自分の属するコミュニティの中で対話が行われた上で、自分の意見と違う結論が導かれたならそれは尊重せざるを得ない。自分がそこに留まるかは、ともかくとしてね。だから日本で国民的議論が巻き起こった上で、原発は稼働させることになったならそれはしょうがない。いちばんの問題はそこで、今は誰しも、妥協する気もなければ対話する気すら見せない。限られた人間と同じ空間にいてものをつくることで、演劇という表現形式が、観客との対話の機会を奪うことだけはやりたくないっていうのが僕の意見で、上演が、違う意見を持つ人たちが対話を通して理解を深める場であればいいと思うけど、自分がそれを操作するのもえらそうな話だなと思うから……。結局自分も演劇において、相手を自分の持っていきたいところに行かせることは演出としてやるし、常にその綱引きですよね。


【南米に住むという実感】
― 前みたいに、純粋に南米住みたいなあとはもう思ってない?

神里 住みたいですよ。でも、まだまだ日本を切り離しては考えられない。

― 生活もだけど、創作も?

神里 普段の思考はすべて日本語でおこなってるわけだから。別の言語で創作するのは、まだ現実的ではないと思う。

― 南米では英語などを使って生活していたと思うんですけど、純粋に意志を伝えるための外国語は、創作のための思考には届かないのでしょうか。

神里 今は日本にいて生活をしてるから実感がないけど、あの時は確かにスペイン語がしゃべれなくても創作出来るんじゃないか? と思ってた。だから、今ここにいる時の実感よりも、行って順応した時にどうなるかが重要なんですよ。

― それが今のモードなんですね。でも、日本で新作を無理してつくってるわけではなくて、ある種の必然性を持ってつくってるんですよね?

神里 もちろん、楽な方に流れたくないからそういう無理はするけど、つくりたいからつくってるのは間違いないです。

― でも今日聞いてきたような、神里さんの社会に対する「終わっている」モードと、作品をつくっていくための気持ちの盛り上がりがあまり一致してない気もするんです。

神里 「終わってる」といいながら、どこかで何かを待って、何かが出来ると思ってるんだよね。もし自暴自棄だったら、たぶん家からも出ないし書こうとも思わないはずだから。

― そこにはすごく興味がある。それでも何か変わるかもしれない、起こるかもしれないっていう気持ちと同時に「終わってるという状況だけがある」という気持ちなわけですよね。

神里 まあ、もっとしょうもない話かもしれない。「子どもは欲しくないけどセックスはしたい」みたいな。

― ……う、うん?

神里 誰もがみんな子どもをつくろうと思ってセックスするわけじゃないでしょ。「欲」の部分と、「現状認識」や「理性」の部分は話は別だと思う。現状認識だと今の日本はかなり厳しくて、子どもなんてつくれない状況だと僕は思ってしまうけど、欲の部分では作品をつくりたいと思う自分がいる。種として子孫を残すべきであるっていう理性的な考えも、欲がないと机上の空論でしょ。欲がないとセックスできないし。社会には、ヤクザもいれば詐欺師もいて、サラリーマンもいる。僕はたまたま劇作家をやっている。集団の中で、自分の役割がどうあるべきか理性的に考えることと、やりたいから何かをやるという欲の話は別、というのが大きな前提。

― これは今日話した感触ですけど、やっぱり神里さんが何か作品をつくる時には、絶対的に他者を必要として、想定して描いている感じはあるんですよ。

神里 「観客」って誰なのかって考えると、結局のところ、「観客」「役者」みたいな言葉は演劇の中での言い方にすぎない。普通に街を歩いててすれ違う人に「観客」も「役者」もなくて、それは「人」と「人」なんですよ。そう考えるようになってきてるのかもしれない。だから別に作り手然としてなくてもいい気がするというか。でも何事においても外部がないと、ものはつくらないですよね。少なくとも僕はそう。

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― その「外部」は状況によって変化したり進化したりする?

神里 昔は、「劇場」に観に来るお客さんのことばかり考えてしまってたけど、それがいつのまにか「東京」になって、「東京」でもなくなって、つまりそういうことなんじゃないかなって。自分で考える範囲がひろがって、身体的な意味のスケール感がもう少し出たんじゃないかなって思いますね。




▼おわりに

神里雄大と南米との深い結びつきは、彼が生まれるずっと前から続いてきた。多くの人の生き様が長い年月の中で絡みあい、彼という作家を通して日本の演劇のフィールドにあらわれたことは、時間がけっしてひとりの人間の中を一直線に流れるものではないということを教えてくれるようだ。

新作『+51 アビアシオン, サンボルハ』ツアーの開始には間に合わなかったが、1年弱の時間をかけてひとりの劇作家・演出家としての彼の話を聴き、上演される1作品のためだけではない言葉を引き出すようつとめた。

下北沢でのインタビューの最後に彼が言った「普通に街を歩いててすれ違う人に「観客」も「役者」もなくて、それは「人」と「人」なんですよ。」という言葉が今も印象に残る。彼の今見ている世界のひろがりは、彼の作品がこれから開拓しつづける地平にきっと通じているだろう。