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パン焼き日誌 このページをアンテナに追加

2009-03-09

アニメ評論/批評を書いてみること 2

| 16:58 | アニメ評論/批評を書いてみること 2を含むブックマーク

アニメを語るときに、ストーリーに触れなければいけない(?)というのは、一種のストレスでもあります。物語の内容に触れて終わり、というアニメ評論なり批評なりに閉口している人は、かなり多いはずですよね。あるいはアニメにちりばめられた記号を拾って何かを語ったような気になるとか。初期段階では『唯物論研究』の宮崎駿論リストにはそのへんの不満や暴言がたくさんあったのですが、ページの都合上なくなりました。それでもあれには各方面から苦情が来たそうなんですけどね。

じゃあ画面だけ読めばいいのか、と言われると、何だかそれにも納得できません。アニメとマンガとは違うわけだから、絵がうまい、美術がすごい、というだけで面白くなるわけじゃないですし。それを語ればアニメのすべてが語れるとも思えません。そこから抜け出そうとすると、

  • ストーリーと一枚絵はとりあえず横へ置いておく
  • 画面は画面でも演出の方を読む
  • 画面以外の「時間的な構成要素」を考える
  • 「(TV・劇場)アニメであること(状態/環境)」を考える
  • アニメアニメたるゆえん(アニメの何が独自なのか)を考える

みたいな。

そのあたりからの習作がもう一本。こちらも「アニメと狂気」の同じころの執筆で、頭のなかには『サザエさん』とかああいう作品の存在を、脈々としたアニメ史の流れのなかに想定した上で書いてはいます。忙しい毎日だからこそ、一週間に一度やってくる不変の空気は大切だよね、とは個人的に思います。

(つづく)

アニメと空気(『らき☆すた』『ひだまりスケッチ』『ARIA』)

| 16:58 | アニメと空気(『らき☆すた』『ひだまりスケッチ』『ARIA』)を含むブックマーク

 まずはアニメと実写との違いについて考えよう。

 実写は、あるいは実写に必要なカメラという撮影装置は、現実を過度に見てしまう性質のモノだ。普段見えていなかったものをも透徹せしめ、それを暴き、露わにしてしまう。現実世界の一部分を切り取ることによって、その部分を過度に露出させるのだ。

 写真に撮って見たとき、あるいは映像に撮って見たとき、自分が普段見ている感覚よりも、「格好良く」見えたり、「美しく」見えたり、あるいは「醜く」見えたり、「さまになっている」ように見えたりすることがあるだろう。それはいずれも過度な露出のために感じることだ。

 だが、そのとき、一種の違和感をも感じる。そうだ、カメラの弱点は、撮影することによって「日常のリアリティ」が失われるということだ。普段こんなに過度には見ていないものにもかかわらず、それを強烈に突きつけられてしまう。見ていないものすらも、見せられてしまうのだ。それゆえに、実写という手法はドキュメンタリィを紡ぐ際に適しているとも言えるし、様々な芸術的効果を生み出すことができる。しかし、そのカメラの有り様は、同時に限界をも孕んでおり、事実上描くことが困難になってしまうものも存在する。

 それが本稿で述べるところの「日常の空気」である。

 日常において、我々は意識を尖らせながら暮らしているわけではない。ぼーっととモノを見て、ぼんやりと物事を考えながら生きている。だがカメラを通したとき、ぼーっと見ていたはずのモノが、妙にぶれてちらちらする。見えていなかったはずのものが見えてしまう。そうすると、日常感は失われてしまう。そんなゆるゆるとした日常を描くのにはカメラは適していない。

 しかしアニメは、何気ない生活の流れる時間を現出させることに関しては、抜群に秀でている。なぜならば、アニメというものは人工的な絵の連続であるため、本来的に「見たいもの」しか描けないからだ。見るものと見ないものを区別して、見るものだけを表現することができるからだ。

 そうすると、もし日常を描こうと思ったとき、日常で見えているものを選び出して、それだけをフィルムに映し出すことができる。ぼんやりとした、ゆっくりとした、過度なものなど何もない、その時間の流れを現出することができる。

 これは、絵にはできないことだ。なぜなら絵には流れる時間がない。それゆえに、時間とともに生起するはずの生命感を与えることができない。日常と生活、そして現実と生命は、すべてくっついているものである。西欧の言葉でそれらを同じひとつの言葉で呼び習わすのは、そのためだ。

 またマンガとも違う。マンガの時間は、あくまでも読む主体の時間だ。あくまでも空気のなかの時間は、勝手に流れ、過ぎていく。マンガでは自動でページをめくることができず、主体の方へ、より「快楽」という非日常的要素の方へ寄っていってしまう。マンガが意識的に見て読むものである一方で、映像は「目に入る」ものであるからこそ、空気となることができる。

 そして連続テレビアニメであることも重要な要素のひとつだ。単発の映画の場合、商業的要請もあって、一時間半ならそのあいだで起承転結があって、なおかつ盛り上がりも作らなければならない。そうすると、いきおい話は起伏を持たざるを得ず、平凡な日常からは乖離してゆく。

 その一方で、十回以上連続するテレビアニメであれば、それこそ日常のように毎週放映することができるし、また三十分の枠であれば、エンタテイメントとして苦痛にならない時間で変哲のない日常が描ける。大きなことが何も起こらない、まるで空気が流れるだけのような時間をあえて見せることができる。

 このように空気を表現したアニメは、俗に「空気系」とも呼ばれるが、それはアニメの本質である「魂を与える」ことに成功している。ゆるやかに流れる日常というものは、大きなスペクタクルよりも、我々に生命と時間を感じさせてくれる。リアリティを感じさせてくれる。

 なかでも『らき☆すた』と『ひだまりスケッチ』、そして『ARIA』の好評は、アニメがそもそも生命と時間を与えることができるという普遍的事実に帰するものでもある。それぞれ何を見るか何を見ないかという選択においてはかなり違っているし、それは制作陣の手法がそれぞれ違うということでもあるのだが、いずれも日常に流れる「空気」を再現し、映像を見る人々の前に立ち上がらせている。

 もちろんこれら「空気系」成立の背景には、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』といった長寿コメディアニメが存在する。しかし、どちらも古典的手法のコメディで、「空気」を生むための「表現」を意識してはいないし、また物語も日常よりは非日常な「笑い」を提供することを眼目としている。そのために「小さな事件」を必要とする。

 「空気系」は日常のなかに非日常を挟むためのものではない。素朴に日常を描くためのものだ。あるいは、日常を忘れてしまった、日常の見えなくなってしまった「没日常」に対して、ありうるはずの「日常」を挟み込み、思い出させる機能を持つものだ。それゆえに、こちらの場合は「事件」ではなく、誰しもが感じうる、いつでも起こりうる「日々」が必要とされる。

 『らき☆すた』は、「何を見ているか」にこだわったアニメだった。このアニメでは、徹底的に主観と客観を区別する。理性と感情を精緻にかき分けると言ってもいいだろう。何よりも、登場人物はデフォルメされているとはいえ、それぞれ骨格を持った人体として描かれている。動きも自然であり丁寧だ。日常部分の自然さを愚直にも追いかけ、映像の視点位置も常にアイレベル、なおかつ水平が多く、「日常」ではありえないはずの俯瞰や鳥瞰はほとんどなされない*1

 それでいて、個々の登場人物の感情的な部分・主観的な部分では、映像表現が過度に爆発する。アニメが積み上げてきたいわゆる「狂気」の気持ちよさを、これでもかと使用する。爆発、飛行、回転、異世界。その分け方は、我々が日常接している自分たちの感情の起伏に対応している。楽しいとき、盛り上がっているときの高揚感、普段の時間の落ち着いたゆるゆるとした感じ。人間の高まった気持ちが、外界を主観的にどう見せるのか。落ち着いた気持ちのときの客観的な外界とは何なのか。制作陣の感情に対する理性的観察の窺える作品だ。

 一方で、『ひだまりスケッチ』は「何を見ていないか」を追求したアニメだ。日常で見えていないはずのもの、あまり気にしていないものにしては、とことんまで記号化していく。そもそもすべてが日常に相応しい度合いに記号化され簡略化されているのだが、とりわけ人としゃべっているとき、意識していないはずの背景は単純な模様にさえ変わる。そして使われている色も感覚的で、主人公の女子高生たちがその日常に感じているイメージそのままに、現実とは違うはずの明るい色で構成される。そして日常で気になるところ、強調されるところは、あえて色や音や効果で強調して描写する。

 人によっては、このアニメをあまりに記号的すぎると感じるものもあるだろう。しかし、日常で我々は、何かに夢中になって周りが見えなくなったり、あるいは何かに気が付いてはっとしていたりはしないだろうか。だが、その日常感は、単にカメラを通すだけでは、何も表現できないのだ。だとすれば、アニメのその「記号表現」というのは、我々の日常のリアリティをうまく描き出す手段なのではないだろうか。「感覚」を「感覚的」に表現することを考えた作品であるとも言える。

 さらに『ARIA』は「何が流れているか」を考えたアニメだと言ってもいい。普通、エンタテイメント作品においては、何か盛り上がることがあり、カタルシスを現出させる。しかしこの作品は「ほとんど何も起こらない」。日常の様々なエピソードが、詩情豊かに流れていくだけだ。あまつさえ、最終回が二〇数分間、主人公の女の子たちが雪を転がして雪だるまを作るだけで終わってしまう。

 そう、現実というのは普通、何も起こらないものなのだ。しかし同時に、何も起こらなくても、我々は何かを考えながら生きている。何かを想いながら過ごしている。その時間とともに想いが流れていくさまを、日常的なエピソードに沿って、遠景を交えながら、主人公のモノローグとともに表現するのである。主人公のゆったりとした心のつぶやきは、とりたてて素晴らしい発見でもなければ、とりわけ突き刺さる名言でもない。だが人が過ごすなかで誰しもが見つけるはずの、ほんのわずかな輝きを、見事に言い表している。そしてそれを忘れていた者に、ひとかけらの癒しを与える。

 これらそれぞれの作品の「空気」を描こうとする表現の根本にあるのが、アニメ特有の、過度に書き込まない線画の連続である。現実からおのおのが「日常の瞬間」だと思う線を取り出し、色を見つけ、空間を構築する。それを積み重ねることで、瞬間を「時間」にする。

 カメラを通したものだけが、現実をあたかもそのまま描いているように見えるものだけがリアルなのではない。たとえ現実にそれがあっても、見えていないものは見えていないように描く、見えるものだけを見えるように描く、それもリアルのひとつだ。

 そして、そのリアリティを表現できるものこそ、本質的に現実をひとつひとつ整理・解釈していくことを求められた、「アニメ」にほかならない。であるからこそ、「空気系」は、ようやく到達することのできたアニメの可能性の一地点であり、現実を映し出すための豊かな表現手段なのである。

らき☆すた』(二〇〇七)

らき☆すた OVA』(二〇〇八)

制作:京都アニメーション

監督:山本寛武本康弘

らき☆すた 1 通常版 [DVD]

らき☆すた 1 通常版 [DVD]

ひだまりスケッチ』(二〇〇七)

ひだまりスケッチ 特別編』(二〇〇七)

ひだまりスケッチ×365』(二〇〇八)

制作:シャフト

監督:新房昭之

ひだまりスケッチ×365 Vol.1 【完全生産限定版】 [DVD]

ひだまりスケッチ×365 Vol.1 【完全生産限定版】 [DVD]

『ARIA The ANIMATION』(二〇〇五)

『ARIA The NATURAL』(二〇〇六)

『ARIA The OVA 〜ARIETTA〜』(二〇〇七)

『ARIA The ORIGINATION』(二〇〇八)

制作:ハルフィルムメーカー

監督:佐藤順一

ARIA The ANIMATION DVD-BOX(初回限定生産)

ARIA The ANIMATION DVD-BOX(初回限定生産)

*1:この原則がOVAで外れるのを目にしたとき、これは別の監督の作品なのだと強く実感した