2004-11-05 王立宇宙軍 オネアミスの翼
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「王立」はいろいろと後になってから評価された部分が多く、興行収入としては芳しいものではなかったらしい。現在のハリウッドやアニメがマスコミによって作られる前評判で決まるのに対して、「王立」は「バブル期だからできた」という要素も否めないがもう少し高い評価を得ても良いのではないだろうか。スタッフロールに現れる庵野秀明・江川達也・岡田斗司夫・摩砂雪・坂本龍一らそうそうたるメンツ、そして24歳という若さの山賀博之が作り出すストーリー。この時代では傑出した作品だった。
物語は唐突に、そして淡々と始まる。森本レオの有名なナレーションから。
いいことなのか、それともわるいことなのか、わからない。
この一節から主人公らしき少年が現れるが、名前はまだわからない。それどころかこの少年の名前が判明するのは話がすすんで、リイクニの所に出向いて名前を問われる時になってようやく判明する。プロローグともいえるこの時点では「この少年がどうやら落ちこぼれて宇宙軍というところに入ったらしい」としか推測できない。主人公のシロツグだけではなく、「王立」では誰が誰だか名前がわかるには2・3回見直さなければわからない。シロツグとリイクニ以外は名前を持たない脇役ばかりである。にもかかわらずシチュエーションや性格などをこの脇役たちは明確に持っている。それらを名前に頼らずに見ているものにどのように伝えているのだろうか?
それはあまりにも日常を描いていることによる。例えば我々が自分の周りの人間を知らない人に「こんなヤツがいるんだ」と伝えるためにはどうしたらいいだろうか。おそらく知っている範囲でその人物の日常を語るだろう。普段どんな仕事をしていて、どんなことを言うのか、どんな嗜好を持っているのか、そのように人が持つ性質や要素を伝えることだろう。そうすることで実際には知らない人物像が(先入観としてだが)形成され、「こいつの言うことによるとヨシダってこういうヤツなんだな」と判断する。
英語では「情報」という単語が2つある。Information とIntelligence である。Information は言葉や文字、図形、写真、音声、画像などを媒体として何らかの知らせを伝えるもののすべてを指しており、その価値は個人個人により全く異なるものである。これに対してIntelligence はある目的のため収集された資料(Information)を分析処理、評価し、組織にとって共通の価値認識をもつよう整えられた知らせであり、Information と比べると狭義の情報である。
「王立」ではこのIntelligence が巧妙に散りばめられており、しかもそれらが日常というありきたりな中で与えられているのである。チャリチャンミは猫好きの皮肉屋・ネッカラウトは新物好きのお調子者・ドムロットは現実派の言うことが厳しいヤツ・・・といったふうにイメージができあがるのだ。そこでは名前はさして重要な意味を持たない。要するにシロツグという主人公の環境の一つというファクターではありながら、その一つ一つが名前によらず個々に成立しているといえよう。
次に考えたいのは「ロケットを飛ばす意義」である。ロケット打ち上げ直前になって国境付近での戦闘が激しくなり、軍から撤退命令が出てカイデン将軍が打ち上げ中止の指示を出す。が、その時シロツグは名セリフを叫ぶ。
オレはまだやるぞ。死んでも上がってみせる!イヤになったヤツは帰れよ。オレはまだやるんだ。十分立派に元気にやるんだ。各部門応答しろ!
冒頭のぐーたらした姿からは大変な変わりようではあるが、このセリフをはくまでにシロツグにとってロケット打ち上げの意味は紆余曲折を経る。
シロツグは盛り場で神の教えを説くリイクニと出会い、そのリイクニに宇宙の魅力を語った後に宇宙飛行士へと志願する。それはリイクニへの下心とリンクしているのだが、そのモチベーションが物語の進行とともに変化していく。グノォム博士の死、高官たちがロケットを敵国リマダに奪わせようとしている政略、そして何よりも心を寄せてこないリイクニ。普通なら話が進むに連れて惹かれあうというのがヒーローとヒロインのお約束なのだが、シロツグがリイクニを押し倒しても2人の関係は最後まですれ違いつづける。
そして物語が中盤に差し掛かかり市場でのマティとのやり取りから暗殺者の襲撃にかけて、シロツグは徹底的に宇宙計画の意義を問われ続ける。シロツグとマティの会話のやり取りをみてみよう。
シロツグ:なぁ、マティ。
マティ:あぁ?
マティ:な、なんだぁ?
シロツグ:いや、もしそう考えた場合に。
マティ:ああ。
シロツグ:もしかしたら自分は正義の味方じゃなくて悪玉なんじゃないかって考えたことはないか?
マティ:おお、さぁな・・・さぁ、ただ、周りのやつら、親とかみんな含めて、そいつらがオレをほんのちょっとでも必要としているからこそオレはいられるんじゃないかと思ってる。金物屋だってそうだろ、誰かが必要としているからこそ金物屋でいられるんだろ。この世に全く不必要なものなんてないと思ってる。そんなものはいられるはずがないよ。そこにいること自体誰かが必要と認めてる。必要でなくなったとたん消されちまうんだ。こう思う、どうだろ?
この場面は哲学的なことを言っているようで、それでいてごくあたりまえのことを言っているようにも思える。ただ、この直後にハイライトとも言うべき暗殺婆の襲撃シーンが来ることを考え合わせると、マティの言っていることは半分は本当で半分は適切ではないように思える。
存在意義ということについて考えると、確かにそれは誰かが必要としているから存在していると言えなくもない。世の中に金物が必要でなければ、金物屋は必要でないからだ。この物語の中でも最初シロツグは神の教えを必要としなかったが、世の中に神の教えを必要とする人がいるからリイクニは(一方的にではあるが)盛り場で神の教えを説き続けるのだ。
ただ、ここで問われているのはシロツグがなぜ宇宙飛行士として存在しなければならないかということについてである。もっと単純なこととしてこの場面では「死ぬわけにはいかないから」シロツグも暗殺者を返り討ちにしたのだろう。しかしシロツグが宇宙飛行士でなければならない存在意義に関して言えば、先ほどのマティの回答のように「誰かが必要としているから」とか、一見するように「暗殺者の手で死ぬわけにいかないから」とか、自分以外の要因によって生じる理由からではないだろう。それは他ならぬ自分が必要としている目的があるから、その目的のために存在しているというのが人間の人間たる所以であると言えないだろうか。
ここで同じようなテーゼを問い詰めたものとして、サルトルの『実存主義とは何か』から引用してみたい。
たとえば書物とかペーパーナイフのような、造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭にえがいた職人によって造られたものである。職人はペーパーナイフの概念にたより、またこの概念の一部をなす既存の製造技術にたよったわけである。したがってペーパーナイフは、ある仕方で造られる物体であると同時に、一方では一定の用途をもってもいる。ゆえにペーパーナイフに関しては、本質は実存に先立つのである。
たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、なんらかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が少なくも一つある。その存在はすなわち人間、ハイデッガーのいう人間的現実である。
しかし、もしはたして実存が本質に先立つものとすれば、人間はみずからあるところのものにたいして責任がある。したがって実存主義の最初の手続きは、各人をしてみずからあるところのものを把握せしめ、みずからの実存について全責任を彼に負わしめることである。
(かなり中略)
つまりシロツグは自分で選んだ道を完遂した、という点に「王立」の中でロケットを飛ばす意義があったと言えよう。「王立」の中では「神の教え」と「文明」、「軍」と「失業者」など、いくつか対立構造として描かれるものがある。いずれも主人公たるシロツグには対立する立場として現れ、しかもシロツグの主人公としての立場をあやうくさせるものである。
しかしシロツグは宇宙への情熱を最後に語り、ロケット打ち上げを成功することができた。それは初めはリイクニへの下心から始まったものだが、自分にとって必要であるという目的を意義へと転換する。それはロケット打ち上げには意味はない、という状況からロケット打ち上げ自体が目的であり自分の存在意義なのだという転換をなしえたとも言える。それはリイクニが「生きるために祈る」のではなく「祈るために生きる」ような姿勢を持っていることと同じベクトルなのだが、この2人が最後まですれ違いつづけたのは皮肉である。
確かにこの映画は大円団のラストを迎えるのだが、目的を共有しない限り人間は理解しあえない、そんな可能性を示唆しているのかもしれない。