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2010-11-02 「遠距離恋愛」ナネット・バースタイン

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途中まで書いてsafariが落ちる。同じようには書けないけど備忘として。

公私混同を常套句としてではなく、どちらかというとポジティブに、いやポジティブでも検討違いだけど、常套句ではない術語として捏造したい欲望は以前からある。そのヒントはバリモアにあるのも前々から勝手に決めつけていた。

この映画はそんな捏造されるべき「公私混同」が目に見えるような映画だ。実人生においても交際しているバリモアとジャスティン・ロングの映画といったらそれこそまさに常套句としての公私混同そのものとして見える。でもバリモアの「公私混同」はそれでも常套句から切り離されている。

映画の中では友人とアパートをシェアして暮らす男と、姉の家に居候する女というプライヴェートを保持できる空間がない。男はニューヨークというアメリカ大陸の東側、女はサンフランシスコという西側に暮らす。物語はそんな男と女が東と西を行ったり来たりしながら駆動し続ける。

バリモアがヒントを出し続けているでっち上げられそうな公私混同は全きプライヴェートであり、かつ全くプライヴェートがないと言い換えられそうだ。プライヴェートなきプライヴェートと言ってもいい。つまりこの映画の男と女にはそもそも「公から戻ってくるべき私」が存在していない。公と私の往復運動を丁寧に行うことに対して、そのバランスが崩れる状態を常套句としての公私混同と言うとすれば、バリモアの公私混同はプライヴェートが全方位に漏れ続けるため、「帰る空間としてのプライヴェート」はないとも言えるし、アメリカ大陸全体がプライヴェートとも言える。

端から見たら恥ずかしくて目も当てられない常套句としての公私混同を演じてしまったバリモア。それでもなおこの映画でこそ子役時代から実人生と映画のなかの登場人物として生きる往復をさわやかに放棄して常套句としてではない公私混同に到達したかに見える。到達というとゴール、終わり、目的、目標のように感じられるけど、バリモアの公私混同はひたすらプライヴェートを周囲に「漏らし続けること」だからちと違う。気が付いたら公私混同はパブリックとプライヴェートの戦いではなく、プライヴェートの終わりなき起動、ドライブ、書き換え、読み換えとでもいったらいいか。

そしてこの映画には東にいたジャスティン・ロングが西側に物理的に移動してしまうことでひとまず終ることになるのだが、どうやらアメリカ大陸を東と西でまっ二つに折り畳むという欲望も滲み出ているように思う。

二人がアメリカ大陸の西側で共に暮らすきっかけとなったのはとあるバンドだったわけだけど、どうやら「バンド」も常套句としてのそれ、音楽を創造する人間の集まり、という意味とは異なる捏造された術語としての「バンド」を書いてみないといけないけど、時間切れなのでまた今度。ここでは、もしかしたらアメリカ大陸を西と東で折り畳む接着剤が「バンド」なのではないか、という適当なでっち上げをメモしておく。

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2010-08-31 「華麗なるアリバイ」パスカル・ボニゼール

「華麗なるアリバイ」パスカル・ボニゼール

エアベンダーナイト・シャマラン

インセプションクリストファー・ノーラン

疲労が溜まると泳いで、疲れると泳いでを繰り返していたらホントに疲れてきた。

いいかげん答え合わせのような批評や作品を読んだり見たりするのにはうんざり、ということに今頃気が付いた。

シャマランの新作ということで、都内での上映期間が終る寸前にシネマート六本木に見に行ったものの、「レディ・イン・ザ・ウォーター」のような良さはなかった。「ハプニング」で最後に写る人々が自殺しまくるパリの続きから見たかった気もする。「ミル・プラトー」文庫版買う。3部冊で各1,300円だと古本屋でハードカバー探した方がいいのではと躊躇するも、まあ買う。

絵が描けないので絵を描いている人に、そして絵を描く人の文章に憧れる。

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2010-08-17 「シルビアのいる街で」ホセ・ルイス・ゲリン

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シルビアのいる街でホセ・ルイス・ゲリン

「スヴェニゴーラ」アレクサンドル・ドブジェンコ

ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の奇妙な冒険」レフ・クレショフ

「ハロルドとモード」ハル・アシュビー

「Love and Other Disasters」アレク・ケシシアン(ブリタニー・マーフィ勝手に追悼)

「欲望のあいまいな対象」ルイス・ブニュエル

女性の髪の毛が全方向から吹いてくる風にゆらめく。後頭部だけが画面に写っている。たったそれだけで高揚する。ストラスブールだろうか、新型都市交通とでもいうのか最新の路面電車が走る町でただひたすらシルビアと思しき名の女性を見つめ、追跡し、結局人違いが分かるだけの映画。カフェでは老若男女が好き勝手におしゃべりしているのが聞こえる。見える。画面には彼ら、彼女らのおしゃべりの声と、町の喧噪、風の吹く音、路面電車が走る音が重なり合う。同時に主人公の見る目の前の男女とその向こうのカフェの窓ガラスに写りこむ人物と、窓ガラスの向こう側にいる人物が重なり合う。たくさんのレイアーといってしまえばそれまでだが、世界はかくも見なければならないもの、聞かなければならないもので溢れかえっていて、誰ひとりとしてその横溢を捉えることなどできない、というシンプルな事実を改めて感じる。見ている、聞いているつもりだったこの世界は見ている、聞いているそばから潜在力を漏れさせ、ほんの少ししか一人の人間にはその力を分け与えてくれない。だけどそれでいいのだ。途中で挿入される「全方向から吹く風」に翻弄される女性の美しい髪の毛のたなびきを見るだけでいいのだ。わたしたちの潜在力は「全方向から吹いてくる風」に翻弄されながらそれぞれの人々にちょっとずつの力を分け与えてくれるのだから。この世界に関して何かが分かったなんて金輪際言うものか。巷に溢れかえる「全方向から吹いてくる風」などないかのように振舞い、翻弄されていないふりをした言説など捨て去ってしまおう。重要なのは耳を澄まし続け、目を見開き続ける徒労を恐れず、その行為のみを持って生き続けることだ。それ以外の時間は死んでいるも等しい。

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裕福な家庭に生まれたばかりにそんな徒労を耐えうるはずの主人公の少年が、環境が邪魔をするのか「死んでいる時間」をあたかも「生きている時間」のように感じさせようとするセレブな母親と軍人のおじに抵抗するためにあえて「自殺するふり」を趣味とする「ハロルドとモード」。他人の葬儀に出席することも趣味のこの少年が葬儀が行われる教会で出会った老婆に恋に落ち、寄る辺ない生を老婆と共に生き切るこの映画は、すくなくとも「現実」なんてものはいつだって相手にする必要のない「全方向から吹く風」を「たった一方向から吹いてくる風」として縮減しているだけでしかない身勝手なこの世界に対する耳の澄まし方、目の見開き方でしかない、ということを分らせてくれる。68年を経て、70年代に撮られた多くの有象無象の映画はそのことをはっきりと理解していたのだろうけど、あまりにも現在見る機会が少ないだけだな。ウンコみたいな現代日本映画で集客を確保しておいて、時折、意欲的な特集上映を組み始めた新宿武蔵野館に拍手。そうそう、この映画のおばあちゃんはルース・ゴードン。「ダーティーファイター」のあのおばあさん。いいなあ。(ダーティーファイターは「Every which way but loose」の次に「Any which way you can」という題名で続編が撮られているらしい。うーん、見てみよう。)

現実を馬鹿にするといえばブニュエル最後の作品「欲望のあいまいな対象」も同様。ブルジョアのおっさんが貴娘にやられて翻弄されるのだが、観客には何の説明もなく二人の女優を一人の登場人物にあててテロリストによる爆破でおっさんと女は死ぬ。あっけらかんとしながらも実人生と映画は何も関係なく、「現実の反映」とやらを映画に見出そうとする観客を馬鹿にしきっているこの映画にも拍手。

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2010-08-04 「忘れられた人々」ルイス・ブニュエルほか

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「三億円をつかまえろ」前田 陽一

「喜劇 日本列島震度0」前田 陽一

「涙にさよならを」前田 陽一

「濡れた逢引き」前田 陽一

「起きて転んでまた起きて」前田 陽一

「喜劇 家族同盟」前田 陽一

「バード・シット」ロバート・アルトマン

ゾンビランド」ルーベン・フライシャー

「忘れられた人々」ルイス・ブニュエル

「幻影は市電に乗って旅をする」ルイス・ブニュエル

「バード・シット」を見る前にしこたま梅サワーを呑んでしまっていたため、記憶が曖昧。武蔵野館での上映が終わってしまったのでどうしたものかとしょんぼりしていたら、バウスでかかるではないか。も一回みよ。70年代アメリカ映画は行き場を失った若者たちが、いまここではない世界をいまここに出現させるために、というか、いまこここそがいまここではない場所になり得ることを示してくれているように思う。人間が鳥ではない、のは気のせいであって、絶対確実の事実ではない。映画がいまここではない場所への「窓」として存在していた勇気リンリンな時代の映画。

「喜劇 日本列島震度0」は平和極まりない東京の下町で足袋職人をしながら、町内会長兼防災対策の長を務めるフランキー堺の映画。「男の子守歌」でも「家族同盟」でもいいけど、偽医者、偽家族を本当の医者、本当の家族に対峙させるのではなく、偽医者を、偽家族をそのまま肯定する映画だったとすると、この映画でも「東京に大地震がやってくる」という本当か嘘かさっぱり分らない占い師の予言をそのまま信じて行動し続けるのがフランキー堺。

ブニュエルのメキシコ時代の2本。「忘れられた人々」はカネフスキーの「ぼくら20世紀の子供たち」の続編というか、前篇というか、まあ、戦争機械はいつでもどこでも不屈の精神でもって世界中に湧き続ける、ということを言いきった映画。映画はやっぱり現実の鏡ではなくって、現実から脱線するための入り口、「窓」なんだな。脱線といえば、「幻影は市電に乗って旅をする」。故障したとされ廃車にされてしまう市電を修理して、町中を日常のダイヤの外側で、誰にも知れずに走り続ける一日を、現実の線路を利用して線路からは脱線せずに、日常から、現実から脱線してみる一日を追った映画だった。

いずれにしてもくそったれな世界は相変わらず。特に親の世代の怠惰っぷりには腹が立ちっぱなしの今日この頃。このままおまえたちの想像どおりに死ぬまで現実がもつと思うなよ。はぁ、イライラする。

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2010-07-21 「喜劇 命のお値段」前田陽一 

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「OUTRAGE」北野武

「ガールフレンド エクスペリエンス」スティーブン・ソダーバーグ

サバイバル・オブ・ザ・デッドジョージ・A・ロメロ

「喜劇 右向け左」前田陽一

「にっぽんぱらだいす」前田陽一

「進め! ジャガーズ 敵前上陸」前田陽一

「喜劇 命のお値段」前田陽一

すかすかの北野武の新作を見たら、これはこれでいいのではないかという気がしてきて、早晩閉館しそうな新宿歌舞伎町ミラノ座の大きなスクリーンであと何回映画が見られるのか心配になってきたので、ミラノ座の封切り映画はできる限り見にいくことに決める。

ロメロの新作はといえば、前作「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」から相も変わらずという感じだけれど、ゾンビと人間が共存する島で縄に縛り付けられたゾンビたちが生きているときの動作を繰り返す(郵便配達人はポストに郵便物を投函し続け、木こりは木を切り続けたり、馬に乗った若い女性はゾンビのまま乗馬を続ける)姿を見ると、不屈のゾンビというかなんというか、端から人間なんぞは当てにしていないロメロの確信のようなものが見えてきて爽快な気持ちになる。

で、ソダーバーグは「ゲバラ」からは一転「セックスと噂とビデオテープ」がこんな映画だったっけなあとビデオで見たけれどすっかり忘れている彼の作品を思い出しつつも、実在する高級コールガールがこの世界の流れからすっかり取り残されていると同時にこの世界の流れに巧みに乗っているようなそんな娼婦の生き様を静かに見せられているような気がした。自分の人生よりも快楽の方を信じているというか、人間よりもセックスを信じているというか、うーん、ここでも人間なんかとうに消えてなくなっているようなただそこに身体と快楽が放り投げられているニューヨークの空気がそれはそれで悪くないと思った。これだけ「危機」が叫ばれる世間を、騒々しい巷を生き抜く術は、この映画で静かに強く生きる彼女の語りと振舞いの中にヒントがあるようなないような。

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さらに満を持して前田陽一特集。「にっぽんぱらだいす」はせんせーの処女作。「洲崎パラダイス」(川島雄三)、「女生きてます」(森崎東)、「浪速エレジー」(溝口健二)やら何やら娼婦を題材にしたたくさんの日本映画のひとつ。あ、「女生きてます」は脚本を読んだだけでうろ覚えだけど、ヌード小屋の話だったっけ。ソダーバーグの映画もそうだけど、娼婦として生きる生き方をどこまでも肯定する映画。売春防止法施行以降、人間と快楽はおおっぴらに切り離されて、どうも自分の人生を生きるしかできなくなったのか。せんせーはロメロのゾンビのように娼婦を人間なんかに屈しない存在として、快楽の側に立ってマッチョな戦後史を鼻で笑っている。香山美子の極度の諦めがそのまま人間の外側で生き抜く極度の強度となったような視線を確かめると、そもそも「現実」なんてどうでもよくて、「現実」に対してどのように「娼婦」として振舞えるかが彼の映画の肝になってゆくかが処女作で宣言されている。「娼婦」として生きていれば、何も終わらない、終わらせない。だから、「喜劇 右向け左」では太平洋戦争の記憶と経験を引きずったままさえないサラリーマンとして生きる課長が自衛隊に体験入隊したとたんに生き生きしはじめたり、「進め!ジャガーズ 敵前上陸」ではイーストウッドに先駆けて唐突に硫黄島ロケを敢行して、硫黄島での激戦の記憶を平和ボケしていたはずの観客たちに喜劇のふりをして見せつけたり、「喜劇 命のお値段」では、土本典昭が水俣へ向ってドキュメンタリーを撮り、公害についての告発を始める時期にイタイイタイ病でなく「カユイカユイ病」なる病気を創造し、偽医者であるフランキー堺自身が自ら被害者になって公害を告発すべく、添加物たっぷりの加工食品を食べ続けることで、高度成長まっしぐらな巷につばを吐きかける。

「偽物」、「娼婦」。または「現在を偽物で埋め尽くす」ことで誰もが「娼婦」として生き始めるような契機をほのめかすこと。どうみても企業や大手芸能プロダクションの都合が無理やり盛り込まれた映像がしっちゃかめっちゃか挿入されている作品を見ると、ひとつひとつの映画の出来はさておき、企業やプロダクションという資本の論理に対して「娼婦」として付き合うことで、一見したところ「タイアップ映画」にしか見えない彼のいくつかの映画も「にっぽんぱらだいす」の香山美子のように、マッチョな世間に屈しないための、「戦争を終わらせない」ための作戦を実行した華々しい栄光の記録のように見えてくる。彼は常に笑いながら「敵前上陸」を続けるのだ。そして上陸後は誰ひとり敵を殺さず、ただひたすら敵の思うがままに身を任せ(ジャガーズのPVにも見える作品や、唐突にコマーシャルフィルムと見まがうショットが挿入された作品など)、それでも最終的には、プロデューサーにもスポンサーにも気付かれないように「偽物」と「娼婦」が勝利する映画を撮り続ける。

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2010-07-05 「OUTRAGE」北野武

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2010-06-16 「プレシャス」リー・ダニエルズ

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二日目。朝の電車は特になんとも思わず。相変わらず誰も目が合わない群衆同士が大量に運ばれているさまを見て少し残念になる。iPadはよく知りませんが、倉庫や書店に積もり続ける紙の固まりとしての書籍を見ていると物質としての紙がどこか不屈の精神でデジタルデータに抗っているのかもしれないという気がしてくる。それにしてもその抗いは書籍を濫作しそれをメシの種とする輩に対しても向けられていて「それでも紙はなくならない」とか呟き続ける人種を紙の重さで押しつぶす日がもうすぐ来るのかな。とにかく紙に失礼な紙周辺の産業だな。「プレシャス」はマライア・キャリーが俳優として出演していてスッピンの方がいいと思った。

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2010-06-10 「マイ・ブラザー」ジム・シェリダン

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疎開生活が終ると決まった途端に腑抜けた存在になる。働く働かないでどぎまぎする社会は一日も早く破壊しなければ。

腑抜けから逃避するため武蔵野館に。海兵隊員と家族の物語。アフガニスタンへの出兵と刑務所から弟が出所するところから始まる。アフガニスタンで死亡したことが一度は家族に告げられたものの、生還することになる。家族との生活が耐え難く感じられる生還後の主人公は、娘の誕生日パーティーで感情のコントロールを失う。風船を爪でひっかく音を出し続ける娘に対して怒鳴り声をあげる。警察に逮捕されることになる拳銃の発砲音よりもこの風船を爪でひっかく雑音がこの映画全編を貫いている音と感じる。罵り合い、励まし合うためにコトバが飛び交う家族の空間は風船をひっかく音で全てがその場しのぎの慰めに過ぎないものになる。一度戦争に関わると後戻り不能の「その後」の世界を耐えるだけの時間が待っている。帰還兵の生は日常生活を満たす家族の声が遠のき、再び発せられるかもしれないゴム風船を爪でひっかく音が鳴ることに怯えながらも、ゴムから発せられる雑音が鳴り続ける環境こそが戦争から生還した生の場所だということをどこかで感じつつ徒にやり過ごすほか生きる術がない。

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2010-06-02 「WHIP IT」ドリュー・バリモア

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ハローワークの灰皿が撤去。日比谷のシャンテ前、高島忠夫らの手形が足元に配されている広場の灰皿も撤去されている。映画の日だということを忘れ前売りを購入してしまう。バリモア初監督作品「ローラーガールズ・ダイアリーズ」。「二番目のキス」(ファレリー兄弟)で共演したジミー・ファーロンがこの映画にも。「ペーパー・ファミリー」(チャールズ・シャイヤー)で両親と離縁する少女を演じた後、実人生においても離婚した母親と離縁した彼女。華やかな子役時代を経て映画出演とは無縁のアルコールとドラッグに塗れた青春時代を過ごした彼女。今回の映画ではエレン・ペイジを主演にしてテキサスの田舎町の少女が家族の鬱陶しさを超えてローラースケート競技に目覚め、家族と共に成長していく物語を見せる。でもバリモアは最初からそんな「田舎少女の成長譚」には興味がない。虚実共に両親との絶縁を選んだ彼女はやがて自らが母親になってしまうような男女間の恋愛関係を経ずに共に生きてゆけるかを、言い換えれば「子どものまま」いつまでも生きてゆけるかをバリモアは模索してきた、しているような気がしてならない。言い過ぎかもしれないがそれこそ「レスビアン的」とでも言えそうなローラースケートチームの女性同士の親密さや主人公とボーイフレンドとのあっけない破局や「父」や「コーチ」、「恋人」として登場する男性がどこまでも背景に追いやられているように見える遠近感。「夢見る少女」で有り続けるための具体的な戦略として「男性を信用しない」、というか「男性はいらない」とはっきり言ってしまうような「男性不要論」がいよいよ自らの監督作品としてのこの映画に全面展開され始めている。「田舎少女の成長物語」というアメリカ映画のクリシェはレスビアン的女性集団の介入によって親子という関係と男女間の恋愛をそっちのけにして何度も見た事のある風景をそっくりそのまま少女が「夢を見続けられる場所」に仕立て上げられた。

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引き続きベンヤミン。「歴史哲学テーゼ」ではなく、それを準備していた時期に書かれたらしい断片から。

いわゆる破局(カタストロフ)の概念のもとに描出される歴史過程は、子どもが手にする万華鏡と同じで、ほんらい、もはや思考する人間を必要としない。万華鏡を廻せば、作られた秩序が交替する。それももっともだ。支配者のもつ諸概念はいつでも、「秩序」のイメージを生みだす鏡だった。この万華鏡を叩きこわさなくてはならない。「セントラル・パーク」

「解放された人類」がどんな状態のなかにいるか、とか、そういった状態はどういう諸条件のもとで出現するか、とか、その出現はいつごろに可能になるか、とかいったことを知りたがる者は、答えのない問いを提出しているのだ。そういう問いは、紫外線の色はどんな色か、と問うこととあまり違わない。「遺稿」

でもって晶文社の著作集で「歴史哲学テーゼ」解説に付けられた野村修のテキストから。

これらの断章や「テーゼ」から知られるように、ベンヤミンの歴史意識は危機の時代の意識であり、その意味でぼくらにも身近なものたらざるをえない。いまも支配階級は、たえまなくいたるところに「非常事態」をつくりだし、かれらの暴力装置を維持しつづけている。アウシュヴィッツと広島の現在であるこの装置の持続を切断するー歴史の連続を断ち切るーためには、ぼくらは、ぼくらのイニシアティブによって(いわば下から)「真の非常事態」をもたらす以外に道をもたない。そのばあい、ぼくらは、ぼくらの思考の構造そのものが、国家の権力構造のヴェクトルに沿って組織されていることを、自覚しなければならぬ。ぼくらは、たとえば「進歩」の、あるいは「改革」の名によって、つまり未来への甘ったれたよりかかりによって、悪しき現在の持続を許容してはいないのか。「ひとつの例外もなく、戦慄をおぼえずには考えられないような由来をもっている」文化財にかこまれ、体制の網の目にからめとられているぼくらの惰性的な思考を、ぼくらは断固として停止し、全面否定を思考の原理としなくてはならない。そういう否定的な態度は非現実的であり、積極的とはいえない、という声はもちろんあるだろうが、しかし否定こそが、現状況ではおそらくあらゆる積極的な目的の設定にさきだつ、まず第一の積極性なのである。

さあ、何から壊そうかな。

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2010-06-01 「新しい天使」パウル・クレー

 被抑圧者の伝統は、ぼくらがそのなかに生きている「非常事態」が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない。このばあい、真の非常事態を招きよせることが、ぼくらの目前の課題となる。それができれば、ぼくらの反ファシズム闘争の陣地は、強化されるだろう。ファシズムにすくなからずチャンスをあたえているのは、ファシズム対抗者たちが、歴史の規則としての進歩の名において、ファシズムに対抗していることなのだ。ーぼくらが経験しているものごとが20世紀でも「まだ」可能なのか、といったおどろきは、なんら哲学的では<ない>。それは認識の発端となるおどろきではない。もしそれが、そんなおどろきを生みだすような歴史像は支持できぬ、という認識のきっかけとなるのでないならば。

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 わたしの翼は飛びたつ用意ができている、

 わたしは帰れれば帰りたい、

 たとえ生涯のあいだ、ここにいようと

 わたしは幸福になれぬだろう。

  ゲルハルト・ショーレム「天使のあいさつ」

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使はかれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。

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2010-05-31 「グリーン・ゾーン」ポール・グリーングラス

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「七転び八起き」に騙されぬよう。どうも起きる必要はないことに気が付く。「何をされてるの?」と尋ねられたら「失業中です」ではなく「疎開中です」と笑顔で応えることにしよう。爽やかに陽光溢れ出した今日はベンヤミンをゆっくり書き写して過ごそう。

「人間の感情のもっとも注目すべき特質のひとつは」とロッツェはいう、「個々人としては多くの我欲があるにもかかわらず、人間全体としては現在が未来にたいして羨望をおぼえないことだ。」よく考えてみるとわかるが、ぼくらがはぐくむ幸福のイメージには、時代の色ーこの時代のなかへぼくらを追いこんだのは、ぼくら自身の生活の過程であるーが、隅から隅までしみついている。ぼくらの羨望をよびさましうる幸福は、ぼくらと語りあう可能性があった人間や、ぼくらに身をゆだねる可能性があった女とともに、ぼくらが呼吸した空気のなかにしかない。いいかえれば、幸福のイメージには、解放(Erlösung)のイメージがかたく結びついている。歴史の対象とされる過去のイメージについても、事情は同じだ。過去という本には時代ごとに新たな索引が附され、索引は過去の解放を指示する。かつての諸世代とぼくらの世代との間にはひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、<かすか>ながらもメシア的な能力が附与されているが、過去はこの能力に期待している。この期待には、なかなかにはこたえられぬ。歴史的唯物論者は、そのことをよく知っている。(「歴史哲学テーゼ」「ヴァルター・ベンヤミン著作集 �」 晶文社

ベンヤミンのいう「星位」(コンステラツィオーン)の概念が気になっていたら、「パサージュ論」で語られているらしい。うーむ。「パサージュ論」がない。翻訳といい本文設計といい注釈といいすべてが気持ちよい晶文社の著作集で読みたいのだけど「パサージュ論」が見当たらない。「一方通行路」と題された10巻目がそれなのか。探しにいこ。「歴史哲学テーゼ」は全文引用していきたいほど身に滲みる。何よりベンヤミンはいつでも優しくて強い。強くて優しいのではなくて優しいの方が先で強いが後。優しいから強い。現在がどこか遠くと繋がっている。遠くで類似している。今こことどこか遠くが星座を形作っている。ぼくらとかつての誰かには「ひそかな約束」がある。我欲はいくらでも裏切ってもいいから遠く彼方で似ている人たちとの約束は破らないようにしなきゃね。

グリーン・ゾーン」はブライアン・ヘルゲランド脚本。「ボーン・アルティメイタム」だか「ボーン・スプレマシー」だかなんだか分からなくなってるけど、マット・デイモンは相変わらず右往左往。合衆国の「テロとの戦い」を論理的に始め、継続するための端緒となったいきさつを「これは始めから陰謀論ですよ」とばかりに淡々と語ってゆく。それはどこか「脚本通りに映像を付けました」というか「脚本を読んで頂ければ分かりますけど映画なので映像も一応撮りました」と思えるほど、あっけらかんとしている。たかだか10年、20年の「現実」にばかり向き合っているようではぼくらに「かすか」ながらも備わっている「メシア的な能力」を「解放」に向けて発揮するにはほど遠いな。

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2010-05-16 「来たるべき蜂起」不可視委員会

2010年5月。「来たるべき蜂起」(不可視委員会)邦訳の刊行と同時に世界中で蜂起が始まる。発生地域ごとに関連があるわけではない。誰かがリーダーとなって指揮しているわけではない。自然発生的にそれは始まっている。都市中産階級の無力感はそっくりそのまま力に反転して学生たちの蜂起に接続される。カレンダーの日付の羅列はもはや意味をなさなくなり、あれだけ嫌悪していた日常はいつのまにか過去のものになる。今がいつか、ここがどこか、私は誰か、といったことが溶解し始める。歴史は繰り返さない。歴史は終らない。それぞれがそれぞれの場所で歴史を始める。始めることしかできなくなる。長く続いた諦念が社会を支えるのではない。バカにされ続けたキレイごとの叛乱が始まる。身体と精神はねじれ始める。もう元には戻らない。

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2010年5月 アテネ

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2010年5月 ネパール

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2010年4月 ハンブルグ

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2010年5月 ベルリン

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2010年5月 マカオ

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2010年5月 ボゴタ

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2010-04-21 動悸がとまらない

アイスランドの噴煙がいっそのこと世界中に広まって航空機による流通が全て止まってしまえばいいのに、と不埒なことばかりが頭の中をめぐっている。自分にとっても他人にとってもどうでもいいものでしかないこの停滞感から抜け出すためにはどう動いたらよいのかと思案すればするほどブレーキは断続的に効いてくる。晴れた空を見たり窓から差し込む光を眺めてみることくらいしか内部で鳴り続ける動悸を止める仕方が見つからない。よくもまあ今まで生きてこれたものだ。脳内のメモリを全て消去して再起動できたらいいのだけれど、その方法も分からない今となっては日に日に少なくなってゆく意識の中を駆け巡るコトバといやいや付き合うほかないのか。はてさてこれからどうなることやら。自らを殺めるひとのキモチが少しだけ理解できるような気がしている。

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2010-04-14 ブランショふたつ

68年5月は、容認されたあるいは期待された社会的諸形態を根底から揺るがせる祝祭のように、不意に訪れた幸福な出会いの中で、爆発的なコミュニケーションが、言いかえれば各人に階級や年齢、性や文化の相違をこえて、初対面の人と彼らがまさしく見なれた-未知の人であるがゆえにすでに仲のいい友人のようにして付き合うことができるような、そんな開域が、企ても謀議もなしに発現しうる(発現の通常の諸形態をはるかにこえて発現する)のだということをはっきりと示して見せた。(「来るべき共同体」)

何かについて書く、ということはいずれにせよ適切さを欠いている。しかし、人が何かについて書くこと-銘文、注釈、分析、讃辞、弾劾-をもはや断じて許すまいとする(とりわけ)そのためにこそある出来事についてなお書くということ、それはこの出来事をあらかじめ歪曲し、つねにすでに取り逃されたものとしてしまうことにほかならない。それゆえわれわれは、<5月>に起こったこと起こらなかったことについて書くということは決してすまい。敬意からでもなく、出来事に輪郭を与えることでそれを限定してしまうまいという配慮からでもなく。われわれは、この拒否が、エクリチュールとの断絶の決意とが結びつくひとつの地点であることを認めている。その二つは切迫したつねに予測不可能なものなのだ。(「ビラ・ステッカー・パンフレット」)

周囲は畑だらけの地域に住んでいると春には春の匂いがあることが分かる。歩いていると、自転車に乗ると、小走りすると、それぞれ少しずつ異なる匂いがしているように感じる。畑の真ん中に礼儀正しく咲くチューリップは花弁の外側を橙に内側を黄色にしながらお互いの色の区別がついていないかのようにみなで南側を向いている。

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2010-03-28 「ぼくら20世紀の子供たち」ヴィタリー・カネフスキー

もしかしたらソビエト連邦は早く時間の流れる合衆国だったのかもしれない。乳児が小箱に据えられたシーンで始まり、そして終るこの映画は、あまりにも早く時間の流れすぎる「ロシア語」しか共通点のない178の民族が生きる広大な土地で、その時間の流れの早さについていけない子供たちが、みずから「ゆっくりと」生を営むための試みを繰り返す様をカメラで捉える。盗みを働き、友人を殺し、酒を呑み、タバコも吸う子供たちが最後に収容される刑務所という場所で彼らはついに「ゆっくりと」した生を手に入れているかのように見える。少年院や刑務所では踊り、歌う。帰るべき家もなく、孤児であるしかない彼ら、彼女らは刑務所で始めて「緩慢」な時間を生きることができる。前作「ひとりで生きる」の最後、胸にタトゥーを入れた少年が画面から逃げ出すように駆け出したその先は刑務所だった。彼、パーヴェル・ナザーロフが生きられる場所は映画の中で右往左往する空間と刑務所だった。背景と登場人物の差がほとんどなくあるのはフレームという枠があるだけのように見えるカネフスキーの映画はそもそも始めから刑務所のようでもある。そしてこの映画で実際に刑務所で生きることになったナザーロフが他の少年、少女らへのインタビューのさなか、唐突に画面に入ってくる際の顔と振る舞いは、どこまでも落ち着いて穏やかなものだった。

いったいどこに焦点を合わせていいのか分からないほど、人間と時間と場所がバラバラに切断され続ける21世紀初頭は「20世紀の子供たち」が大人として生きさせられている。増え続ける自殺者と鬱を見ながら何食わぬ顔をして、21世紀を生き続けるのは「20世紀の子供たち」なのだ。この映画で彼ら、彼女らが見せた笑顔に、今という時間から微笑み返すこと。子供に戻る、回帰するのではなく「そもそも20世紀の子供であることが先」という事実を再確認すること。あまねく全世界が合衆国化しているかに見える今という時間と場所が、ソビエト崩壊後の刑務所そのものに、まるごと撮影中の刑務所になりつつあるのかもしれない。だとするなら、あとは合衆国の崩壊にしっかりと寄り添いながら嬉々として刑務所での生活を過ごし、大きな大きなカメラで撮影されながらも、そのフレームから逃れる機会をそれぞれが「20世紀の子供たち」として伺う時間を養うのだ。カネフスキーがどこかへ消えていってしまったように。カメラの撮影範囲には入らない、どこか見えなくなる場所に向かって消えてゆく準備を始めることにする。

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2010-03-26 「マイレージ、マイライフ」ジェイソン・ライトマン

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本当には信じていないものを信じているぞと他人に示そうとするときに、ひとは極めて危険で卑劣な権力の加担者となる。何も信じていないと他人に示そうとしつつ、自分でも気づかずに深く何かを信じている場合も同じ。(佐々木中のツイッターより)

「フィリップ きみを愛してる」はヨーロッパコープというフランス資本の会社が制作しているらしい。ヨーロッパ代表のユアン・マクレガーがアメリカ代表のジム・キャリーにコックサッカーする。うーん、冒頭の緊急治療室のベッドで横たわるジム・キャリーの顔が今まで見た事のないほどグロテスクに青ざめていて(まあ設定上そりゃそうだけど)、気持ち悪いなあと思ったら、そんな気持ち悪いジム・キャリーのモノをくわえるヨーロッパ代表。ひとまずはEUがアメリカに乗り込んでいくぞ、ってことだと思うけど、まずはコックサッカーしてしまうってのはなんとも見ていられない。媚び過ぎじゃないか。そして何よりもアメリカ代表のジム・キャリーがこれまではかろうじて「合衆国」ではなくて「アメリカ」の側で演じようともがいていた存在だったとすると、今回の彼は始めて「合衆国」側で存在してしまっていたような気がする。だとするとEUは「合衆国」に媚びようとしているわけで、彼の顔が偽のエイズ患者として青ざめていたように、EU側も青ざめていく運命を共にしていきます、っていう宣言でしかないのではないか。すぐにでもジム・キャリーの顔を「アメリカ」側に取り戻さねばね。

 マイケル・ムーアなら登場人物の一部として焦点を合わせそうなリストラされた人々が「マイレージ、マイライフ」ではどこかCNNドキュメントでちらっとインタビューされる人たち程度にしか扱われない。いまアメリカ映画で物語を駆動できるのはこの映画でジョージ・クルーニーが演じている役のように雇用する側でもなく雇用される側でもなく「雇用をはずす人」なんだろう。あるときは親身にあるときはドライにアメリカ合衆国全土を飛行機で移動し続け、各地の「雇用をはずしてゆく」。リストラされる人々に面談の最後に手渡しする資料にはこれからの全てが書かれているらしいが、まあ、何も書いてないんでしょう。「雇用をはずす側」はかろうじて物語を動かしていけるけれど、「雇用をはずされる側」は白紙状態。だから「雇用から引きはがされる側」は各々数秒のショットでちょっとのセリフがあるだけ。口々に「家族のため」、「妻と子供が全て」だなんて言わせるけど、それはあくまでも合衆国側からの紋切り型なだけ。アメリカを揺さぶり続けているのは「引きはがされる側」なのだから、この映画のすぐ後にアメリカ側からの映画が撮られないといけない。ジョージ・クルーニーが空港で目にするポスターには「機長への忠誠に感謝します」とかなんとか書かれた航空会社の広告があった。確かに彼は飛行機(合衆国)を操縦する機長にどこまでも忠実に搭乗(登場)し続ける。彼の生はどこまでいっても飛行機(合衆国)の側にへばりついたまま、少しでも離れる(インターネット経由での解雇面談の実験)と、生は停滞する。

妹と妹のフィアンセの写真を各地の名所でデジカメにおさめて、合衆国の地図にその写真を貼付けるシーンがある。合衆国はほぼ彼女たちの写真で埋め尽くされている。ここにしかいないのにどこにでも存在できる合衆国。だとするとアメリカ側からの返答はこうだ。ここにすらいれない(雇用をはがされる)けれど、どこにでも存在できるアメリカ。合衆国の地図では見る事のできない場所に投げ出され続ける人々がそれでも生を整えて物語を語り直す場所。そして飛行機(合衆国)を飛行機(アメリカ)としてそくりそのままハイジャック(detournement)すること。

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2010-03-02 カラー・パープルとか

f:id:btl:20100302094252j:image:right空回りの積み重ねが社会を動かすのではないか。イーストウッドが抽出した「それ以上の力」は日常と非日常の区別なしに「そこにある」のは間違いなさそうだ。「何がしたいのか」という自らへの問いはあまりにもバカバカしい。また、「これこれこうせねばならない」という当為のかたちをとった命令が自らに下されるのもホントのところ信じてない。できれば「これこれこうせざるを得ない」というところにいたいのだけれども。そこはもう、なかなかどうして。

起きている時間と空間の抽象化は避けられない。だからせめて意識だけでも具体的な事物に具体的に関わろうとはする。こちらはこちらで具体的な歩みは一歩目から抽象化への道に繋がってしまうわけで、まあ、それでも行くしかないけれど、尻込みしてばかり。

リハビリが必要なのかもしれないけど、そんな暇はないし、そもそもリハビリ自体が怪しいではないか。自由の効かなくなった思考や志向や視線や身体、まあなんでもいいけど、それこそ冷蔵庫の残り物でおいしいもの作ってしまうような動き方を今すぐ始めないとね。

「NYPD15分署」(ジェイムズ・フォーリー)、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(マイケル・チミノ)とチャイニーズマフィア二本立てで見てから、見ずに過ごしてしまった「カラー・パープル」(スティーブン・スピルバーグ)をようやく。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」のミッキー・ロークになりたいな。

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2010-03-01 「インビクタス」クリント・イーストウッド

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グラン・トリノ」と「チェンジリング」を見てしまったあとだと地味な映画に見える。1度目はさらっと見て、もう1回。

イーストウッドが画面の中から消えてしまうというのはこういうことだったのか。

誰も主人公がいない映画。ラグビーに関しては素人でしかないマンデラがチームに協会に口を出して、ワールドカップで優勝してしまう。でもマンデラが主人公という感じもしない。スプリングボクスの主将、フランソワ・ピナール演じるマット・デイモンの方が主人公かといえばそうでもなさそうだし。とにかくすべてはさらっとした感触で画面が流れてゆく。

白人支配の象徴ともなっていた緑とゴールドのユニフォームを変えようとする黒人側からの動きを説得してなんとか多数決で抑えてみたり、チームには黒人の子供たちと練習して白人と黒人の融和というPR活動に参加させたり、いやがるチームメイトに新しい国家の歌詞を配ってみたりと、まあマンデラとピナールの働きかけはことごとく黒人の側からも白人の側からも面倒くさがられるばかり。けれども優勝してしまう。

この映画のキモはマンデラがピナールを大統領執務室に呼び寄せた際に主将に問いかけられる「持っている力以上の力を出すためにどうすればよいのか」という一言にある。

「持っている力以上の力」。「持っている力」と「それ以上の力」は別々のものとしてある。「持っている力」がそれぞれ組み合わさって世界を動かそうとするのではなく「持っている力」から「それ以上の力」を切り離して「それ以上の力」を組み合わせていくこと。このことがマンデラが成し遂げてしまったことだ。

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2010-02-18 「バレンタインデー」ゲイリー・マーシャル

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ゲイリー・マーシャルより妹、ペニー・マーシャルの新作はまだやらないのかなあと待ちわびる。近年のアメリカ映画でお金をかけてそうなものの傾向のひとつとして主人公が誰なのかさっぱり分からないまま映画が終るということがあるけれど、この映画もまさにその傾向をたっぷり抱えている。ジェシカ・アルバアシュトン・カッチャーアン・ハサウェイジュリア・ロバーツジェイミー・フォックスなどなど有名俳優たちがぎょうさん出演している。でも誰の物語か分からない。ジェシカ・アルバとアシュトン・カッチャーの二人が中心人物のようにも思えるけれど、果たしてどうなのか。登場人物のそれぞれがそれぞれの悩みを抱えながら恋愛に勤しむ。だれけども各々の組み合わせ同士には繋がりがほとんどない。各シーンはツーショットで撮られるのがほとんどの流れに対して、かろうじてそれぞれの空間を繋ぐ役割を担わされたスポーツキャスター演じるジェイミー・フォックスという存在がいるにはいる。

バレンタインデーを迎えたLAの朝。生花市場にバレンタインデーに相応しいネタ探しに取材に行くジェイミー・フォックスがアシュトン・カッチャーに話を聞いてテレビカメラで写したり、引退を表明するアメフト選手のPRを担当している女性と知り合ったりするところはそれぞれのツーショットの空間を繋げているようにも見えるけど、結局最後までバラバラの二人同士の物語が並行して語られている。ジュリア・ロバーツに至ってはイラクからの帰りだろうか、女性大尉として帰国中の機内でのシーンがほとんどで。最後のシーンで誰の母親かが判明するが、気が付けば息子の部屋で抱擁しているわけで、とにもかくにも各ツーショットはバラバラに切り離されたままだ。

切れ切れのエピソードに対して観客は切れ切れの感情移入をしていけばそれでいい映画なのかもしれない。だけどなあ。ほとんど何もないんだけど、こうして想起し始めると、この映画で起きてることって、アメリカ人は相当焦ってるっていうことがバレバレなんじゃないかなあ。LAという大都会で住む人々はPR会社の社員や花屋や派兵帰りの大尉やスポーツキャスター、サラリーマンといった働く人のバレンタインのエピソード(人生)をバラバラにしか提示できない。要するにバレンタインデーだけがもしかしたら、登場人物それぞれの立場の誰か一人には感情移入ができそうだからしておこうと。でもバレンタインデーを過ぎてしまえば、観客にはうまく感情移入ができないほど、各々のエピソード(人生)はあまりにもバラバラに異なりすぎている、と。

誰もが同じものを見ているはず、という前提(そもそもこの前提自体が最も怪しいわけですが)が明確に崩れさってしまっているがために、誰もが同じものを見ているはずだ、という焦りを慰めてくれるものとしてこの映画とバレンタインデーはあるように思えてくる。

でも確認しなきゃいけない。誰もが同じものを見ているはず、というかすかな期待を持ちつつも、全然違うものを観客それぞれが見てしまう、というのが映画だったわけで、だからこそ、映画体験はそれぞれにとって貧しくもあり豊かでもあり続けてきたのだけど、こうなると、「誰もが同じもの見なきゃ」っていう焦りばかりが前面に押し出されていて、もう別に映画じゃなくていいじゃん、って気がしてくる。

誰もが同じものを見ているはずはない、というやっぱり当たり前のことを手放してしまったら、あとはもう、専制政治の到来を待つしかないのではないか。

アン・ハサウェイは「レイチェルの結婚」以来、やっぱりアバズレ女な感じが実はぴったり嵌るんだなあ。

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2010-02-17 「50歳の恋愛白書」レベッカ・ミラー

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「バレンタインデイ」(ゲイリー・マーシャル)を見ると、やっぱり誰が主人公なんだか分からない映画のひとつとしてあったような気がけど、The Private Lives of Peppa Leeという原題が示す通り、この映画はロビン・ライト・ペン演じるピッパ・リーがしっかり主人公の映画。ドラッグの力を借りて、郊外の幸せな家族のパワフルママを演じ切った母親に対して、ドラッグに手を出すものの、アラン・アーキンとの出会いによって立ち直り、幸福な家庭の母親を薬なしで演じきるかに見えたが、どうやらそうもいかないらしい。

母親たちの世代の家庭が見せかけのもので、覚醒剤の力なくしては見かけを保てなかったように、「幸せな家庭」なんてものはいつでも見せかけなんだろう。夫であるアラン・アーキンが高齢のために周りには死を穏やかに迎えようとして老人ばかりが集まる区画に引っ越してきたまではいいけど、ロビン・ライト・ペンは夢遊病者のように、自らの意志にはない行為を繰り返し始める。「幸せな家庭」こそが必要ないことは明らかなんだけど、彼女の場合は、薬ではなく「現実」に対してトリップすることによって最後にはキアヌ・リーブスと旅だってしまうかのように見えた。現実に対してトリップするって変ないい方だし、バッドトリップでなければ、それはそれで「現実に適して」生きていくことに繋がりそうだけど、どうなんだろう。どちらかというと現実に適応して生きてる人たちはトリップ自体を避けているというか、副作用まんさいの現実に対して、我慢することによって適応しているのではないかしら。

ピッパの若い時分にはドラッグを利用したトリップによって社会を変革しようとしていた人たちがヒッピーとか云われてたくさんいたけど、今やトリップするには目の前の現実だけで十分な気がする。そこに多いなる希望を妄想してしまうのは楽天的すぎるんだろうけど、それでも現実にキレイに適応することって、一生ピッパの母親みたいにドラッグに頼ることになるか、現実の副作用による身体の失調を自らの我慢と努力が足りないせいだとか思い続けて、「健康(現実)」への回復を模索し続けることのいずれかだけしかないような気がする。

ありとあらゆる時間と空間が「パブリック」なものに浸食されつつあるなか、ピッパ・リーの「プライベート」は、そんなパブリック圧倒的優位の現実をそのまま母親の使ったドラッグのように利用して、トリップ(旅)に出る。車で迎えにくるキアヌ・リーブスの元へ行く姿は、「シーズ・ソー・ラブリー」で娘たちと夫を残してショーン・ペンの元に向かう姿と重なりつつも、再び幸せに向かって車が走り出していたように見える後者に対して、今回の映画のそれは「消え去る」ためだけの発進のように思えた。「パブリック」の大いなる浸食を前に反撃に出た「プライベート」は「パブリック」に見つからないように見えなくなる。逃げろ。

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2010-02-08 ツォホアピン

前田陽一「神様がくれた赤ん坊」と「インビクタス」(イーストウッド)を見る。

水泳と粉料理も。

餃子(北京ではギョーザは水餃子)と葱入りのピン、ツォホアピンを作ってみる。

水餃子は強力粉だけど麺より水が多めで捏ねるのは比較的簡単だった。ただひとつひとつ皮を成形していく際に薄くし過ぎたのか、包み終わった後、さあ茹でるかという段階で、皮が破ける。まあうまかったからいいや。捏ねるの簡単だけど、豚バラ肉をみじん切りにする作業は結構大変だなあ。

ツォホアピン。ツォホアはネギのことらしい。薄力粉をぬるま湯で捏ねる。こちらも麺よりは楽な作業。生地に油を塗って、ネギを敷いてくるくる巻いていく。半分に切って、両端閉じて、縦に持ち替えて90度捻ってつぶす。この捻ってつぶす作業が楽しい。捻ってつぶすことで焼いた後に、「層」がいくつもできている。その層に好みの具材を詰めて食べるのもいいらしいけど、今回はネギが予め入っているということでそのまま。味は予想よりさっぱりしているけど、やっぱりネギだけじゃ物足りないなあ。

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2010-02-03 「死刑執行人もまた死す」フリッツ・ラング

アメリカはテキサス州で街で唯一の書店が経営効率の名の元に撤退して住民たちが反対しているという記事をwebで読む。どうやら元々移民が多い地区で、識字率は全米でも相対的に低い場所らしい。その書店がなくなると、車でぐんぐん走らないとたどり着けない場所にしか「本」を買うための場所が、機会がなくなり、識字率は向上していかないから、とかそんな理由からの反対なのか。

でも待てよ。うーん。そもそも「識字率」を上げて上げて上げまくってイマの社会の仕組みがまわってるとしたら、識字率を下げるって、仕組みにとっては脅威じゃないのか。識字率ってコトバもそして統計の取り方もきっとはなはだ怪しいのだろうけど、ここはひとつ比喩的に「識字率を下げる」ってどうだろうか。というか「下げる」って否定辞に止まらず、「新しい字を読める」ように「新しい字を作り出す」ってことに繋げられないかね。まあ、無理かもしれませんが、うーん、せめて「新しい方言」とか「新しい訛り」とか「新しいくせ」とか「新しい振る舞い」とか「新しいラジオ体操」とか(まああ最後は冗談ですけど)、なんか「お上から勉強しろって云われてる文字を読める人間を一人でも増やさなきゃ」っていう脅迫観念はもう、それだけで、「奴隷の思想」なんじゃないでしょうか。

書店がつぶれていくのを嘆くんじゃなくて、それこそ「新しい書店」を作ればいいのでは。その「新しい書店」にはさっき妄想した「新しい方言」を話す人たちがいつのまにか集っていて、「新しい人生」が始まっているとか。「新しい」、「新しい」ってうるさいね。終わり。

久しぶりにアテネへ。アメリカ時代のフリッツ・ラング

マン・ハント」(1941)と「死刑執行人もまた死す」(1943)。死刑執行人の方はどうやらベルトルト・ブレヒトが脚本で参加している。ラングと同じくアメリカに亡命している時期に、またまた同じく亡命中のユダヤ人、アイスラーって人と3人で協力しあいながら作られた作品。ナチスによる占領下のプラハで実際に起こった高官の暗殺事件が元にされている。

極悪非道なゲシュタポとプラハの地下活動家たちの対立。だけじゃなくて、この映画の肝は、プラハの市民全体がまるで「ミュージカル映画」みたいに地下活動家たちをサポートして、集まったり散らばったりする様子じゃないですかねえ。でもその「ミュージカル映画」には監督とかディレクターとか指揮者は存在しなくてそれこそ「勝手にミュージカル」になっていくと。ナチス政権下のドイツ、ドイツ市民たちが意識的にも無意識的にも「最悪のミュージカル映画」として生活してしまっていたのは、ヒトラーやらゲッペルスやら、まあ監督がいたからで、それに対抗するためには「地下活動家」ではなく「監督なきミュージカル映画」が必要だったのかもしれない。いやもちろん「活動家」たちは必要といえば必要なのかもしれないけれど、彼らが「監督」として振る舞っている限り(そしてそれは今の今まで続いているような気もするが)、ナチスが上映する「ミュージカル映画」には勝てない。そんな妙ちくりんな確信がラングとブレヒトにはあったのかしら。

いや、だから、この映画を「サスペンス映画」とかでジャンル分けした上で評価されているのは重々承知の上で、「ミュージカル映画のように街中を歩く市民」たちをわざと引き抜いてみると、なかなかどうして、今でも再利用できそうなヒントがあるような気がしたので。

ただ今となっては「ヒトラー」のような「ナチズム」のような明らかに自分たち殺してくる存在が見えないだけに、ということは多分、現在の認知資本主義下においては「監督なきミュージカル映画」をやつらの側で利用されてしまっているところが面倒なところ。であれば「もう一度」監督なきミュージカルを、今度はプラハ市民限定とかではなく、「普通の人たち」全員が一斉に演技を始め(よーい、アクション!)、監督のツラしてヤツらがNGを出してきたら、素早く解散して、次の撮影場所に自転車で走る、そして次のロケ場所でも勝手に演技を始め(よーい、アクション!)。。。というのを繰り返すこと。そんな妄想をこの映画から見てしまうのは果たしてどうなのか。

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2010-02-02 「ラブリーボーン」ピーター・ジャクソン

税務署のおっさんの態度の悪さに呆れつつ、寒風吹きすさぶなかバウスへ。っていうか減価償却っていう考え方というか仕組みというか概念というか、かなり怪しくないですか。税徴収がパブリックの顔したショーバイのひとつだとすれば、悪徳商法っぽくないですか。ぜんぜん違うのかなあ。気を取り直して。

「ラブリーボーン」(ピーター・ジャクソン)。「ダイアナの選択」(ヴァディム・パールマン)が、殺されてしまう少女の、まさに殺される前段階を引き延ばして、途中とちゅうで、死んでしまうにも関わらず、未来の自分の姿が想像されるシーンが挿入されて、いずれにしても「主人公」(エヴァン・レイチェル・ウッド)に降り掛かる惨劇と妄想の映画だったとしたら、「ラブリーボーン」にはどうも「主人公」が誰なのか曖昧に感じられる。

シアーシャ・ローナン演じるスーザン・サーモンが主人公なんだろうけど、うーむ。エヴァン・レイチェル・ウッドの妄想がどこまでもこの世の生にへばりついたものだったので、フラッシュ・フォーワード(?)とか呼ばれもしたその手法はさておき、彼女が主人公として成立してはいた。だけど、この映画は、マーク・ウォールバーグレイチェル・ワイズ夫婦とシアーシャの関係(特に母親との関係が)が希薄だったり、途中から登場するスーザン・サランドンおばあちゃんが何しに家に来たのか分からないくらいはじけてるし、姉の死後の妹のハラハラドキドキする犯人の家での行動は、妹を主人公にして別の映画が始まりそうだし、犯人はといえば逃亡に成功したかに見えて物語とは全然別のところで奇妙な死に方をしたりして、そう、肝心のシアーシャの居場所がほとんど残されていないのだ。

彼女の死後、慌てふためく家族がそれでも生きているあいだ、彼女は何をしていたかというと、死後の世界(もうすぐ天国の場所?)からこの世のみんなを見守ることだ。そしてこの映画は死後の世界からの彼女の声をナレーションとしている。だからどちらかというと誰が主人公か分からない映画の解説を、かろうじて「私が主人公なんです」と説得しかかってくるように彼女のナレーションだけが、声だけが物語をドライブさせてゆく。

話は戻って、「ダイアナの選択」が興味深かったのは、死んでしまう少女が、死ぬ前にひたすら死ななかった場合の自らの生を妄想し続けて、その妄想を観客に見せているところだった。それに対して、シアーシャは映画の序盤ですぐに死んでしまい、家族や友人たちの世界を断片的に見守るというひどく中途半端な、バラバラな要素がバラバラなまま放り投げられている印象を強く受ける。シアーシャは死後の世界という特権的な場所に早々に行ってしまい、あとはざわざわしている家族の様子を「ひとごと」みたいに回想してゆくばかりだ。あ、でもこうして封切館でアメリカ映画を見続けている自分自身も、シアーシャが生きるものたちを見つめるようなどこか冷めた視線を映画に向けているのかもしれない。そして、見たそばから忘れていくことを繰り返しているだけのような。

というか、映画の作り手たちもどこか物語を制御できていない気がしてならない。もう誰も主人公なんていないし、物語が破綻していてもいい、ただ「マーク・ウォールバーグ」出演、とか「スーザン・サランドンがいい脇固めてます」とか、そういった要素がまず先にあって、後はもう。。。

違うと思うけど、とにもかくにも、映画を見た感覚ではない、変な徒労感が襲ってきた。主人公なんていらないけど。。。

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2010-01-31 MOST@BASEMENT BAR

1月も終わりじゃないか。カネはどんどん少なくなりつつもなんとか賃貸住宅の更新作業を済ませる。どうやら家賃滞納者のブラックリスト化が実現されてしまったようだが、金持ち相手の商売にいくことはできない人たちが貧乏人のココロと身体の隙間に資本を貼付けてショーバイにしようとしている前振りなんだろな。

そんななか、ひとり下北沢へ。4年ぶりのMOST名義でのライブ。core of bellsとライン京急のパフォーマンスを見終わり8時半過ぎくらいに始まる。core of bellsは落語の枕みたいな話から本編へ隙間なく繋いでゆく感じか。いずれの曲も日常の出来事のあるコトバがじわりじわりと浮かび上がってきたところで、大きな音と共に歌が始まる。途中、ファンからのFAXコーナーというのもあり、彼らのライブではおなじみなのかもしれないけれど、笑ってしまう。横浜市都筑区の「都筑区」を読めないベースのお兄さんはひょろひょろしてるけどかっこ良かった。

ライン京急では、大谷さんが山手線に乗っているときに見かけるお世辞で35歳くらいと25歳くらいのOL二人組の会話を想起し始める。お世辞35歳の方がどうやら「わたし、水嶋ヒロにしか興味ないのよね」という発言をするらしいのだが、昨年まさに額面34歳の女性が全く同じ発言をしているのをとある場所で聞き、というかメント向かって云われ、とてつもない不条理な感情がわき起こってきたばかりだったので、こちらも吹き出してしまう。

で、MOSTのライブ。「久しぶり」というPhewさんのひとことから全面展開。ファーストアルバムからの曲が多かったような気が。会場はぎゅうぎゅう詰めの満員で、息ができなくなりそうな感じだったけど、ステージが見づらい、柱で壇上の一部が隠れてしまうような位置に立ち、なんとか見続ける。Phewさんの落ち着いていて、身体をあまり動かさない歌い方と、山本久土さんの激しいアクションと、地味だけど少し怖くて「暑くて帰りたい」とまで途中で呟く山本精一さんの3人の姿しか見えない位置。

彼らの歌はいつ聞いても同じ一歩、第一歩、生きるためにしかたなく付き合ってしまっている線路から脱線するための第一歩をはっきりと示していてくれる。過去の曲だろうが、いつでも誰でもが脱線のための一歩を踏み出せるヒントと勇気を聞く人の身体に充満させてくれる。

はたしてどうして、Phewさんがまっすぐと目の前の壁、観客の頭を通り越して、ステージに立つ目線からそのまままっすぐ前を見つめ続ける視線、揺るがない視力。あの目線の先には脱線後の世界があるのだろう。だけどたぶんそれはPhewさんにも見えないし分からないものかもしれない。彼らのライブは、ただいつも、目に見える世界から脱線してゆくための第一歩だけを、歪んでいるけどクリアな音と、慌ただしいけどハキハキしたコトバの歌によって、聞く人と演奏する人の両方に、目に見えるものとして、こっそり教えてくれるのだ。

ナニナニ 2010/02/02 13:35 オレもそうおもう。

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2010-01-27 「オルエットの方へ」ジャック・ロジエ

気が付けばカネがなく、カネフスキーのせっかくのアンコール上映にも行けず。水泳は調子がいいものの、時間帯がまずくおばさまたちの団体レッスンに巻き込まれ、思うように泳げず。ま、いいや。

身内の勤務先でバカバカしい事柄が起き、テレビ、ネット、新聞のニュースに続々と載る。いったいどれが正しい情報か定かではないが、どうも修学旅行を舞台にした「長時間へたれ演劇」のような印象を持つ。十数時間という間、なぜ教師の怒りは持続するのか、しかもその間なぜ、観客として設定された当事者は出来の悪い演劇を黙って見続けたのか。なぞは深まるばかりだけど、生徒たちにとっては、修学旅行という舞台設定の惨劇を見させられたとこになる。観客は目の前のフィクションをただぼーっと見ているだけの存在で甘んじていていいのだろうか。

なんとか工面した小銭でユーロスペースへ。続けて見ればいいのにカネのために「オルエットの方へ」(ジャック・ロジエ)のみ。160分の長い上映時間。1969年の作品。パリで働く女の子がバカンスに訪れた大西洋側の町にある別荘の周辺で過ごす時間を追う。ただひたすら些細なことにも笑い転げ、無為なのか有為なのか、はたまたそのあわいなのか、笑ったり食べたり眠ったり走ったりするだけの時間が過ぎてゆく様子をカメラは追い続ける。バカンスの1ヶ月とそれ以外の11ヶ月という時間は圧倒的に11ヶ月の方が長いけれど、バカンスの1ヶ月間こそが生きる時間なのだという熱を帯びた焦燥をもって。

69年といえば68年の次の年で、当たり前だけど、学生運動の熱狂もまだ冷めてない時期にこんなオキラク映画が、とふと思ったものの、バカンスからパリの日常に戻るあっけなさというか、残酷さみたいなものは運動に参加していた当時の若者たち誰しもが予感していたことかもしれなくて、だとするとバカンス以外の残り11ヶ月との付き合い方を変えるヒントがあるかもしれないという気もしてくる。

パリに帰る際に乗車するメトロの寒々した印象や風景という風景が決して写されることのないパリのシーンは「もうパリには戻らない」というバカンス以後の身の処し方をそれとなく示しているような感覚もわき起こって来たりこなかったりして、まあ、海と女の子があればこうも簡単に日常から脱線できてしまうのだなあと改めて感じ入ったのだった。

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2010-01-25 「サロゲート」ジョナサン・モストウ

はてさてどうしたものか。

●唐突に。意を決して台所に立ち、大きなボールを手に取る。強力粉と水の分量を正確に計り、少しずつ水を入れながらボールの中の小麦粉を混ぜてゆく。ジャージャン麺を作るのだ。第一段階の工程は難なく終え、生地を寝かせている間に、冷蔵庫に切らしていた甜麺醤を買いに行く。スーパーの入り口には鹿児島産の金柑が試食用に山盛りになっている。思わず手に取って口にいれると、かつてのそれの記憶と印象とはかけ離れた香りと甘みが、通常好んで食される皮だけでなく、果肉の方からも滲み出してくる。金柑を手にすることなく一旦はレジに向かったものの、強烈な金柑の甘みが気になり、結局入り口付近まで戻り、買ってしまう。しかし、どうだろう。金柑に限らず近年の果物は「甘過ぎ」じゃないだろうか。品種改良を重ねた結果、それも良い方の結果かもしれない。だけれども、どれもこれも「甘過ぎ」やしないか。帰宅後、金柑を口に入れながら、寝かせておいた生地を捏ねる第二工程に。これが難しい。ジャージャン麺の麺は強力粉と少なめの水で捏ねる比較的腰の強い麺で、捏ねるための力はもちろん、経験値が必要なようで、どうにもこうにも生地がこちらの思い通りにはならない。でも気にせずになんとか切るところまで。事前に作っておいた味噌ダレを温めつつ、麺を茹でる。どう見てもキシ麺にしか見えない平たいうどんのような麺が茹で上がり、タレをかけて食す。でもうまかった。

●小麦粉への俄な情熱は続き、引き続いて、タンピンという名の料理へ。こちらはまあ、北京では朝食用に食されるということもあって、薄力粉に卵を溶いた水を入れる生地だから、混ぜるのも簡単。要は中華風パンケーキだ。混ぜ終わった生地に塩と胡椒を少しだけ振り、ワケギを混入させる。それを焼くだけ。焼き方もパンケーキの要領とほぼ同じ。はてさて出来上がったものを口に入れると、これまたおいしい。

●小麦粉料理。強力粉か薄力粉の選択。混ぜるのが水かぬるま湯か、熱湯かの違い。もちろんそれぞれの分量も。この最初の組み合わせで主食も副食もおやつも作れる。白い粉が変わりゆく様、その変幻自在な様子は、いい歳した大人が改めて料理の興味深さを思い知らせれた。「美味しさ」というものはどうも「美味しさ以外」に対する「美味しさ」ではなく、「美味しさのための仕事」が始めからあり、その仕事を成し遂げる先にぽつんとあるのだ。うまく表現できないけれど、まずい料理とか美味しい料理があるのではなく、美味しさのための段取りと過程があるだけで、美味しさの両隣が美味しくなさ、不味さではないのだ。美味しさから少しずれた場所は、そもそも美味しさへの始まりからは全く関係のない場所、遠く離れたところにあって、それは美味しくないとも不味いとも全く関係のないところなのだ。


●粉への情熱が迸る前日は「サロゲート」(ジョナサン・モストウ)。予告編を見る限り物語の設定が「マイノリティー・リポート」の変奏に違いないと思っていたらその通り。「マイノリティーリポート」が犯罪予知能力を持つプリコグという存在を利用して凶悪犯罪を激減させた世界を描いていたとすると、今回は「サロゲート」と呼ばれる生身の人間に対する身代わりロボットが実生活を営む役を演じ、生身の方は自宅でロボットを操作する機械に接続し遠隔操作することで、たとえ犯罪が起きてもロボットが被害に遭うだけで、自宅にいる生身の方は無事である、という意味において犯罪を減らす世界を描いている。

「マイノリティー・リポート」では電気自動車なのか何なのか便利な便利な未来の様子も描かれていたけれど、「サロゲート」では身代わりロボットが生活する世界はどうも現在とあまり変わらないようだ。社会資本は変わらずにそこで生活する人間が全てロボットになり生身の身体は自宅に引き蘢っている。殺された息子を想い続ける主人公とその妻の物語という設定もそっくりだけど、今回は息子の死は特に重要な要素にはならず、サロゲートを販売している企業と元々の開発者の対立がお話を転がしてゆく。

ブルース・ウィリス演じる主人公の捜査官がついには、サロゲートだけが外で生きる世界を壊し、生身の身体同士で妻と抱擁するところまでいくのだけど、「サロゲート」って代表制のことなのではないかと思い始める。何もかもが代表されながら生きることしかできなくなっている現在に嫌気がさして生身の人間として生き始めるブルース・ウィリスのその後の人生が気になるけど、身代わりを使ってしか世界を回せなくなっている現実の方が今日も同じように過ぎていこうとしている。

代表制という名の身代わり社会、身代わりロボット社会に否を突きつけていた人を急に思い出した。MJじゃないか。マイケルこそが、オノレの生身の身体といかようにでも加工できる身代わりロボットの両方を引き受け、ネバーランドという誰も生きた事のない近未来の世界での引き蘢りから、いよいよ世界中の人々の身代わりロボットとしてツアーを始めようとしていた最中に死んでいった。身代わりロボットを使って生きると死にますって伝えるために。

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2010-01-22 「不連続殺人事件」曽根中生

安吾の原作はすっかり忘却の彼方にあったが映画が始まるとなんとなくかすかな記憶が浮上してくる。「不連続殺人事件」(曽根中生)。1977年。内田裕也と夏純子と嵯川哲朗のエピソードが冒頭に挿入されているだけで、犯人を提示してしまっているように見える。実際に多数の登場人物が洋館に到着してからはどこか淡々と、平板な物語の進み方。俳優たちのキャラクターは強烈に強いのだけど、巨勢博士が事件を推理し解決する流れに乗る事ができないような作りになっている。小説の方がドキドキする。でも内田裕也がいいからいいや。

「天使のはらわた 赤い教室」(曽根中生)。1979年。蟹江敬三が生きるのに迷いまくって彷徨っている感じがいい。それにしても曽根中生の映画のヒロインは「顔がキレイ」だなあ。この映画の水原ゆう紀もしかり、不連続の夏純子もしかり。エロ雑誌編集という作れば作るほどマンネリになり同じことしかできなくなり、エロがなんだか分からなくなっていく中で、蟹江敬三が日常の外側に出る。そのきっかけもブルーフィルムというエロを通じてなんだけど。。。もうすぐ1980年になる新宿西口、中央公園で水原ゆう紀と蟹江敬三が二度目のすれ違いを演じる時間の暗さは忘れられないくらい重たいものだった。

もしかしたら、もしかしたら、ロマンポルノは日活という会社も加わっての蜂起の一種だったのではないかという予感がしてくる。だから今見るなら、映画館を出て、はあ、楽しかったとか、現実を忘れられるひとときだったとか言ってる場合じゃなくて、現実の方を「天使のはらわた」で深夜の街道に消えていった蟹江敬三のように生きることの方が、この映画に応えることになるのではないのかなあ。

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2010-01-21 「わたしのSEX白書 絶頂度」曽根中生

ようやく復調のきざしが。ただ単に寒いのが苦手なだけか。

その間、「忍者武芸帳」(大島渚)、「ジュリー&ジュリア」(ノーラ・エフロン)、「わたしのSEX白書 絶頂度」(曽根中生)という感じで過ごす。

なかでも「ジュリー&ジュリア」のエイミー・アダムスは今までで一番良かったなあ。今年一押しの女優としてみる。女優といえば「絶頂度」の三井マリアもキレイだったなあ。

三井マリア演じる主人公は病院の採血係で、何度も写される採血シーンの注射針。大きいなあ。音楽はコスモス・ファクトリー。見る前に自宅で聞いていた「ブッカーT&MG'S」みたいだと思ったら、スタックスやモータウンとロマンポルノって同時代なのか。京浜急行沿いの町で繰り広げられる無目的な生同士が絡み合うさまは、まっとうに生きることを諦めているというよりは、ただひたすら欲情することが、高度成長に翳りが見えていた当時の社会に対して、再び成長するのではない、もう一つの生のあり方が投げ出されているように感じた。そうそう、シネスコの画面って、視野を広くしてくれるのではなくて、逆に観客の視野を狭くしてくれる画面なんだと気が付いた。視野を狭くすることでフィクションの強度が高まっていくような。

少しずつだけど、公私混同の感覚が身体に滲んできた。

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2010-01-18 「かいじゅうたちのいるところ」スパイク・ジョーンズ

結局抗生物質に頼ることにしてなんとか生き延びる。

久しぶりにバウスシアターへ。「かいじゅうたちのいるところ」(スパイク・ジョーンズ)。

子ども向けも意識してか大きい劇場で上映中。

我が家も子どもと共に出陣するが、劇場内は大人だらけ。娘以外にはもう一人だけ小さな男の子が親子で見に来ている。

う〜ん、映画といえば、これじゃ子どもをバカにしてるとしか思えないし、大人がこんな風に子どもの世界を見ているとしたら、それはそれで気持ち悪い。

ユートピアに向かう子どもが、ユートピアに絶望して、母親のいるこの世界を再びユートピアとして読み直す物語。

しかしまあ、あんなに簡単にかいじゅうたちのいるところに行けてしまっていいのだろうか。

冷凍のコーンしか食べさせてくれない母親がいるこの世界にしてすでにかいじゅうたちのいるところとして読み込んでから始められないだろうか。

キャスト・アウェイ」で無人島からトム・ハンクスが「この世」に戻ってからの絶望というか、悲しみというか、まあ無人島から始めるしんどさと新しい生を受け入れるための勇気の示し方の方がよっぽど子どもが生きる世界に接続できるし、むしろそこからしか、子どもとともに生きることなんてできないのではないか。

冒頭の雪山、かまくらに潜るシーンとかいじゅうのお腹に入って隠れるところが重ねられて、どこまでも子宮回帰の狭苦しい物語にしか見えなかった。

唐突に宣言すると、「子どもは大人に先行している」のだから、大人が子どもに向かって近づいていかなければならないのだった。

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2010-01-17 「THIS IS IT」ケニー・オルテガ

やっぱりズーイーは音楽やってる時の方が輝いている。She & Him。結局、「Volume One」を買ってしまう。60年代や70年代のロックを何食わぬ顔して「現在のもの」としてゆっくり吸い込みながら歌っている。2曲目のWhy do you let me stay here?なんかはキンクスみたいだし。。。映画の中で窮屈そうに見える彼女はやっぱり歌を歌ったり演奏している方がのびのび生きているような気がする。

というわけで、遅ればせながら「THIS IS IT」(ケニー・オルテガ)。「ミスター・ロンリー」(ハーモニー・コリン)ではマイケルになりきって、なりきろうとして、なりきれない主人公がでてきたけど、マイケルに全く詳しくない僕から見ても、どうもマイケルは「普通の人」の方へ歩み寄ろうとし続けて、でもマイケルはマイケルの外へは出られなかったのではないか、という印象をこの映画を見て感じる。マイケル本人なら「ミスター・ロンリー」の登場人物全て、飛行機からダイビングする尼僧たちも含めてひとりでこなせる。

リハーサルの最中にやたらと繰り返される「God bless you」や、スタッフとの意思疎通がうまくいかなかった時にでる「怒ってるんじゃない、愛だよ、L,O,V,E,だよ」というコトバからも、この人は聖職者でもあるんじゃないかと気になる。ケニー・オルテガというディレクターがいたり、ヴォーカル、振り付け、演奏にそれぞれ優秀なスタッフがたくさんいるのだけれど、どうもマイケルにやられっぱなしというか、どちらかというとマイケルが作り出そうとする「波」みたいなものにみながついていこうとするので精一杯の感じがする。

いや、超絶的なダンスと歌と50歳とは思えぬシャープな身体があればそれだけでもう十分だと思うけど、マイケルは、うーん、そう、マイケル以外の人、それも「普通の人」の方に近づこうとする。マイケル自身であることに飽きているというか。。。

ただしマイケルは決してマイケル以外になれないことも知っていて、「自分で全部やる」方が「普通の人」たちと仕事をするよりもうまく、全てはうまくいくことも知っている。だけど、「THIS IS IT」のマイケルは、それでも「マイケル以外」の方へ滲み出ようとする。でもやっぱりうまくいかない。

マイケルはマイケルでしかない。マイケル・ジャクソンが最もマイケル・ジャクソンである。「普通の人」の僕らからしたら当たり前だし、凄いなあと思うばかりのこの事実にマイケルは苛立ち続け、ヘンテコリンな整形手術を繰り返し(せめて見た目だけでも普通の人の方へ!?)、少し変な人にしか思えないコメントを発していたのかもしれない。

ただ、だからこそ、なんだかリハーサルに励むシーンのみで構成されるこの映画のマイケルに感動してしまう。

「誰の役でもこなせる」のに、「マイケル・ジャクソン」として生きるしかなく、「普通の人」に近づこうとすればするほど、「変な人」に見えてしまうこと。

「ミスター・ロンリー」はそんなマイケル本人の生き様に「普通の人」の方から迫ろうとして、でもやっぱりうまくいかない、そんな映画として見ることができるような気がしてきた。

nettarounettarou 2010/02/03 00:14 はじめまして。
面白い視点で楽しませて頂きました。
ですが、マイケルは決して普通の人に近づこうとはしていませんでした。
彼は「僕は神のマネをしたいんだ」と、いう風にインタビューで語っていましたよ。

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2010-01-15 「(500)日のサマー」マーク・ウェブ

気が付けばドメスティックなパンデミックというか、まあ怒濤の発熱ラッシュで、時間が過ぎてゆく。

いい大人が平日朝イチで「(500)日のサマー」(マーク・ウェブ)なぞを見にいってしまうからなのか。2日しか経ってないのにもうだいぶ昔のことのような気がする。いずれにしてもズーイー・デシャネルを見に行ってきた。この物語はラブストーリーではなくボーイ・ミーツ・ガールのものであるとかなんとか冒頭のナレーションで語られても、最後までどっちでもいいような気がする物語。時系列を現在から過去、過去から現在、といったふうに行ったり来たりするのはいいけれど、これ見よがしに「〜日目」と提示してから見せられては、ちっとも物語の中に入っていけないではないか。

それは語りの創意工夫でもなんでもなくて、この映画を作る側からも見る側からも遠ざけてしまっているだけのような気がする。どうせやるならせめて、「〜日目」は教えないでバラバラに入れ替わる時間を説明なしで見ていたかった。

「ハプニング」の時よりも、いや「イエスマン」の時よりも、更にどこを見てるのか何考えてるのかちっとも分からない幸薄そうな女性としてデシャネルはいたのだけど、いや、なんというか彼女は「主演」に向いていないのではないか、という自分としては残念、かつ衝撃的な事実に思い至る。

彼女の出演作をちっとも見ていないが、そんな確信が。「ハプニング」でマーク・ウォールバーグの妻として、世界に起こる緊急事態に対して戸惑っているのか諦めているのか、何も感じていないの不明な彼女が画面に違和感をもたらしていたくらいがちょうどいいのではないか。

と、まあもう一人の主演俳優、ジョゼフ・ゴードン=レヴィットの存在感が更に薄かったからそう思っただけなのか。

そうそう、She & Himというユニットで音楽活動も行っている。

映画よりも音楽の方が輝きそうな女性なのではないか。でも次の出演作を嗅ぎ付けたらまた見に行ってしまうだろうな。

単なるファン目線での妄想はやっぱり尽きそうにない。

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