「遠距離恋愛」ナネット・バースタイン


途中まで書いてsafariが落ちる。同じようには書けないけど備忘として。

公私混同を常套句としてではなく、どちらかというとポジティブに、いやポジティブでも検討違いだけど、常套句ではない術語として捏造したい欲望は以前からある。そのヒントはバリモアにあるのも前々から勝手に決めつけていた。
この映画はそんな捏造されるべき「公私混同」が目に見えるような映画だ。実人生においても交際しているバリモアとジャスティン・ロングの映画といったらそれこそまさに常套句としての公私混同そのものとして見える。でもバリモアの「公私混同」はそれでも常套句から切り離されている。
映画の中では友人とアパートをシェアして暮らす男と、姉の家に居候する女というプライヴェートを保持できる空間がない。男はニューヨークというアメリカ大陸の東側、女はサンフランシスコという西側に暮らす。物語はそんな男と女が東と西を行ったり来たりしながら駆動し続ける。
バリモアがヒントを出し続けているでっち上げられそうな公私混同は全きプライヴェートであり、かつ全くプライヴェートがないと言い換えられそうだ。プライヴェートなきプライヴェートと言ってもいい。つまりこの映画の男と女にはそもそも「公から戻ってくるべき私」が存在していない。公と私の往復運動を丁寧に行うことに対して、そのバランスが崩れる状態を常套句としての公私混同と言うとすれば、バリモアの公私混同はプライヴェートが全方位に漏れ続けるため、「帰る空間としてのプライヴェート」はないとも言えるし、アメリカ大陸全体がプライヴェートとも言える。
端から見たら恥ずかしくて目も当てられない常套句としての公私混同を演じてしまったバリモア。それでもなおこの映画でこそ子役時代から実人生と映画のなかの登場人物として生きる往復をさわやかに放棄して常套句としてではない公私混同に到達したかに見える。到達というとゴール、終わり、目的、目標のように感じられるけど、バリモアの公私混同はひたすらプライヴェートを周囲に「漏らし続けること」だからちと違う。気が付いたら公私混同はパブリックとプライヴェートの戦いではなく、プライヴェートの終わりなき起動、ドライブ、書き換え、読み換えとでもいったらいいか。
そしてこの映画には東にいたジャスティン・ロングが西側に物理的に移動してしまうことでひとまず終ることになるのだが、どうやらアメリカ大陸を東と西でまっ二つに折り畳むという欲望も滲み出ているように思う。
二人がアメリカ大陸の西側で共に暮らすきっかけとなったのはとあるバンドだったわけだけど、どうやら「バンド」も常套句としてのそれ、音楽を創造する人間の集まり、という意味とは異なる捏造された術語としての「バンド」を書いてみないといけないけど、時間切れなのでまた今度。ここでは、もしかしたらアメリカ大陸を西と東で折り畳む接着剤が「バンド」なのではないか、という適当なでっち上げをメモしておく。

「華麗なるアリバイ」パスカル・ボニゼール

「華麗なるアリバイ」パスカル・ボニゼール
エアベンダーナイト・シャマラン
インセプションクリストファー・ノーラン
疲労が溜まると泳いで、疲れると泳いでを繰り返していたらホントに疲れてきた。
いいかげん答え合わせのような批評や作品を読んだり見たりするのにはうんざり、ということに今頃気が付いた。
シャマランの新作ということで、都内での上映期間が終る寸前にシネマート六本木に見に行ったものの、「レディ・イン・ザ・ウォーター」のような良さはなかった。「ハプニング」で最後に写る人々が自殺しまくるパリの続きから見たかった気もする。「ミル・プラトー」文庫版買う。3部冊で各1,300円だと古本屋でハードカバー探した方がいいのではと躊躇するも、まあ買う。
絵が描けないので絵を描いている人に、そして絵を描く人の文章に憧れる。


「シルビアのいる街で」ホセ・ルイス・ゲリン


シルビアのいる街でホセ・ルイス・ゲリン
「スヴェニゴーラ」アレクサンドル・ドブジェンコ
ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の奇妙な冒険」レフ・クレショフ
ハロルドとモードハル・アシュビー
「Love and Other Disasters」アレク・ケシシアン(ブリタニー・マーフィ勝手に追悼)
「欲望のあいまいな対象」ルイス・ブニュエル
女性の髪の毛が全方向から吹いてくる風にゆらめく。後頭部だけが画面に写っている。たったそれだけで高揚する。ストラスブールだろうか、新型都市交通とでもいうのか最新の路面電車が走る町でただひたすらシルビアと思しき名の女性を見つめ、追跡し、結局人違いが分かるだけの映画。カフェでは老若男女が好き勝手におしゃべりしているのが聞こえる。見える。画面には彼ら、彼女らのおしゃべりの声と、町の喧噪、風の吹く音、路面電車が走る音が重なり合う。同時に主人公の見る目の前の男女とその向こうのカフェの窓ガラスに写りこむ人物と、窓ガラスの向こう側にいる人物が重なり合う。たくさんのレイアーといってしまえばそれまでだが、世界はかくも見なければならないもの、聞かなければならないもので溢れかえっていて、誰ひとりとしてその横溢を捉えることなどできない、というシンプルな事実を改めて感じる。見ている、聞いているつもりだったこの世界は見ている、聞いているそばから潜在力を漏れさせ、ほんの少ししか一人の人間にはその力を分け与えてくれない。だけどそれでいいのだ。途中で挿入される「全方向から吹く風」に翻弄される女性の美しい髪の毛のたなびきを見るだけでいいのだ。わたしたちの潜在力は「全方向から吹いてくる風」に翻弄されながらそれぞれの人々にちょっとずつの力を分け与えてくれるのだから。この世界に関して何かが分かったなんて金輪際言うものか。巷に溢れかえる「全方向から吹いてくる風」などないかのように振舞い、翻弄されていないふりをした言説など捨て去ってしまおう。重要なのは耳を澄まし続け、目を見開き続ける徒労を恐れず、その行為のみを持って生き続けることだ。それ以外の時間は死んでいるも等しい。

裕福な家庭に生まれたばかりにそんな徒労を耐えうるはずの主人公の少年が、環境が邪魔をするのか「死んでいる時間」をあたかも「生きている時間」のように感じさせようとするセレブな母親と軍人のおじに抵抗するためにあえて「自殺するふり」を趣味とする「ハロルドとモード」。他人の葬儀に出席することも趣味のこの少年が葬儀が行われる教会で出会った老婆に恋に落ち、寄る辺ない生を老婆と共に生き切るこの映画は、すくなくとも「現実」なんてものはいつだって相手にする必要のない「全方向から吹く風」を「たった一方向から吹いてくる風」として縮減しているだけでしかない身勝手なこの世界に対する耳の澄まし方、目の見開き方でしかない、ということを分らせてくれる。68年を経て、70年代に撮られた多くの有象無象の映画はそのことをはっきりと理解していたのだろうけど、あまりにも現在見る機会が少ないだけだな。ウンコみたいな現代日本映画で集客を確保しておいて、時折、意欲的な特集上映を組み始めた新宿武蔵野館に拍手。そうそう、この映画のおばあちゃんはルース・ゴードン。「ダーティーファイター」のあのおばあさん。いいなあ。(ダーティーファイターは「Every which way but loose」の次に「Any which way you can」という題名で続編が撮られているらしい。うーん、見てみよう。)
現実を馬鹿にするといえばブニュエル最後の作品「欲望のあいまいな対象」も同様。ブルジョアのおっさんが貴娘にやられて翻弄されるのだが、観客には何の説明もなく二人の女優を一人の登場人物にあててテロリストによる爆破でおっさんと女は死ぬ。あっけらかんとしながらも実人生と映画は何も関係なく、「現実の反映」とやらを映画に見出そうとする観客を馬鹿にしきっているこの映画にも拍手。

「忘れられた人々」ルイス・ブニュエルほか


「三億円をつかまえろ」前田 陽一
「喜劇 日本列島震度0」前田 陽一
「涙にさよならを」前田 陽一
「濡れた逢引き」前田 陽一
「起きて転んでまた起きて」前田 陽一
「喜劇 家族同盟」前田 陽一
「バード・シット」ロバート・アルトマン
ゾンビランドルーベン・フライシャー
「忘れられた人々」ルイス・ブニュエル
「幻影は市電に乗って旅をする」ルイス・ブニュエル

「バード・シット」を見る前にしこたま梅サワーを呑んでしまっていたため、記憶が曖昧。武蔵野館での上映が終わってしまったのでどうしたものかとしょんぼりしていたら、バウスでかかるではないか。も一回みよ。70年代アメリカ映画は行き場を失った若者たちが、いまここではない世界をいまここに出現させるために、というか、いまこここそがいまここではない場所になり得ることを示してくれているように思う。人間が鳥ではない、のは気のせいであって、絶対確実の事実ではない。映画がいまここではない場所への「窓」として存在していた勇気リンリンな時代の映画。
「喜劇 日本列島震度0」は平和極まりない東京の下町で足袋職人をしながら、町内会長兼防災対策の長を務めるフランキー堺の映画。「男の子守歌」でも「家族同盟」でもいいけど、偽医者、偽家族を本当の医者、本当の家族に対峙させるのではなく、偽医者を、偽家族をそのまま肯定する映画だったとすると、この映画でも「東京に大地震がやってくる」という本当か嘘かさっぱり分らない占い師の予言をそのまま信じて行動し続けるのがフランキー堺
ブニュエルのメキシコ時代の2本。「忘れられた人々」はカネフスキーの「ぼくら20世紀の子供たち」の続編というか、前篇というか、まあ、戦争機械はいつでもどこでも不屈の精神でもって世界中に湧き続ける、ということを言いきった映画。映画はやっぱり現実の鏡ではなくって、現実から脱線するための入り口、「窓」なんだな。脱線といえば、「幻影は市電に乗って旅をする」。故障したとされ廃車にされてしまう市電を修理して、町中を日常のダイヤの外側で、誰にも知れずに走り続ける一日を、現実の線路を利用して線路からは脱線せずに、日常から、現実から脱線してみる一日を追った映画だった。
いずれにしてもくそったれな世界は相変わらず。特に親の世代の怠惰っぷりには腹が立ちっぱなしの今日この頃。このままおまえたちの想像どおりに死ぬまで現実がもつと思うなよ。はぁ、イライラする。

「喜劇 命のお値段」前田陽一 

「OUTRAGE」北野武
「ガールフレンド エクスペリエンス」スティーブン・ソダーバーグ
サバイバル・オブ・ザ・デッドジョージ・A・ロメロ
「喜劇 右向け左」前田陽一
「にっぽんぱらだいす」前田陽一
「進め! ジャガーズ 敵前上陸」前田陽一
「喜劇 命のお値段」前田陽一

すかすかの北野武の新作を見たら、これはこれでいいのではないかという気がしてきて、早晩閉館しそうな新宿歌舞伎町ミラノ座の大きなスクリーンであと何回映画が見られるのか心配になってきたので、ミラノ座の封切り映画はできる限り見にいくことに決める。
ロメロの新作はといえば、前作「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」から相も変わらずという感じだけれど、ゾンビと人間が共存する島で縄に縛り付けられたゾンビたちが生きているときの動作を繰り返す(郵便配達人はポストに郵便物を投函し続け、木こりは木を切り続けたり、馬に乗った若い女性はゾンビのまま乗馬を続ける)姿を見ると、不屈のゾンビというかなんというか、端から人間なんぞは当てにしていないロメロの確信のようなものが見えてきて爽快な気持ちになる。
で、ソダーバーグは「ゲバラ」からは一転「セックスと噂とビデオテープ」がこんな映画だったっけなあとビデオで見たけれどすっかり忘れている彼の作品を思い出しつつも、実在する高級コールガールがこの世界の流れからすっかり取り残されていると同時にこの世界の流れに巧みに乗っているようなそんな娼婦の生き様を静かに見せられているような気がした。自分の人生よりも快楽の方を信じているというか、人間よりもセックスを信じているというか、うーん、ここでも人間なんかとうに消えてなくなっているようなただそこに身体と快楽が放り投げられているニューヨークの空気がそれはそれで悪くないと思った。これだけ「危機」が叫ばれる世間を、騒々しい巷を生き抜く術は、この映画で静かに強く生きる彼女の語りと振舞いの中にヒントがあるようなないような。

さらに満を持して前田陽一特集。「にっぽんぱらだいす」はせんせーの処女作。「洲崎パラダイス」(川島雄三)、「女生きてます」(森崎東)、「浪速エレジー」(溝口健二)やら何やら娼婦を題材にしたたくさんの日本映画のひとつ。あ、「女生きてます」は脚本を読んだだけでうろ覚えだけど、ヌード小屋の話だったっけ。ソダーバーグの映画もそうだけど、娼婦として生きる生き方をどこまでも肯定する映画。売春防止法施行以降、人間と快楽はおおっぴらに切り離されて、どうも自分の人生を生きるしかできなくなったのか。せんせーはロメロのゾンビのように娼婦を人間なんかに屈しない存在として、快楽の側に立ってマッチョな戦後史を鼻で笑っている。香山美子の極度の諦めがそのまま人間の外側で生き抜く極度の強度となったような視線を確かめると、そもそも「現実」なんてどうでもよくて、「現実」に対してどのように「娼婦」として振舞えるかが彼の映画の肝になってゆくかが処女作で宣言されている。「娼婦」として生きていれば、何も終わらない、終わらせない。だから、「喜劇 右向け左」では太平洋戦争の記憶と経験を引きずったままさえないサラリーマンとして生きる課長が自衛隊体験入隊したとたんに生き生きしはじめたり、「進め!ジャガーズ 敵前上陸」ではイーストウッドに先駆けて唐突に硫黄島ロケを敢行して、硫黄島での激戦の記憶を平和ボケしていたはずの観客たちに喜劇のふりをして見せつけたり、「喜劇 命のお値段」では、土本典昭水俣へ向ってドキュメンタリーを撮り、公害についての告発を始める時期にイタイイタイ病でなく「カユイカユイ病」なる病気を創造し、偽医者であるフランキー堺自身が自ら被害者になって公害を告発すべく、添加物たっぷりの加工食品を食べ続けることで、高度成長まっしぐらな巷につばを吐きかける。
「偽物」、「娼婦」。または「現在を偽物で埋め尽くす」ことで誰もが「娼婦」として生き始めるような契機をほのめかすこと。どうみても企業や大手芸能プロダクションの都合が無理やり盛り込まれた映像がしっちゃかめっちゃか挿入されている作品を見ると、ひとつひとつの映画の出来はさておき、企業やプロダクションという資本の論理に対して「娼婦」として付き合うことで、一見したところ「タイアップ映画」にしか見えない彼のいくつかの映画も「にっぽんぱらだいす」の香山美子のように、マッチョな世間に屈しないための、「戦争を終わらせない」ための作戦を実行した華々しい栄光の記録のように見えてくる。彼は常に笑いながら「敵前上陸」を続けるのだ。そして上陸後は誰ひとり敵を殺さず、ただひたすら敵の思うがままに身を任せ(ジャガーズのPVにも見える作品や、唐突にコマーシャルフィルムと見まがうショットが挿入された作品など)、それでも最終的には、プロデューサーにもスポンサーにも気付かれないように「偽物」と「娼婦」が勝利する映画を撮り続ける。

「プレシャス」リー・ダニエルズ


二日目。朝の電車は特になんとも思わず。相変わらず誰も目が合わない群衆同士が大量に運ばれているさまを見て少し残念になる。iPadはよく知りませんが、倉庫や書店に積もり続ける紙の固まりとしての書籍を見ていると物質としての紙がどこか不屈の精神でデジタルデータに抗っているのかもしれないという気がしてくる。それにしてもその抗いは書籍を濫作しそれをメシの種とする輩に対しても向けられていて「それでも紙はなくならない」とか呟き続ける人種を紙の重さで押しつぶす日がもうすぐ来るのかな。とにかく紙に失礼な紙周辺の産業だな。「プレシャス」はマライア・キャリーが俳優として出演していてスッピンの方がいいと思った。