btx21の日記の「安倍やめろ!」「安倍ケチって火炎瓶!」

2018-10-18

2018-10-17

水曜・・・

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前前日S高のネオスを、下がったところで買ったら、またブチ割られた・・・
前日終値以下で、かつ前日安値よりも下で買ったのに、まだ下がったのだ・・・
その時、月曜日に損切りした極東産機を思い出す・・・
嫌な予感がして、買った後から、ネオスの日足を見た・・・
そしたらネオスの日足が、ヒェッ!と叫び声を漏らしたくなるほどの高値圏に位置していたのだ・・・
この日足を見ていたら、下がったところで買わなかっただろう、というわけにはいかない・・・
ほんとにネオスが暴落するだけの株であれば、昨日から暴落しているはずだ・・・
だが前日のネオスは、前場は高値から8%下げただけで、後場は下げ渋った・・・
だから今日も、前日安値付近で何らかの動きがあるだろうと思って買ったのに、たやすく買値を割る・・・
ああ、もう、あらかじめ指値を出すのは前日S高までの株にして、前前日S高の株ではやめようかな、と弱気になった・・・
1200円台割ったらナンピンの準備と損切の準備をしよかな、と思っていると、1200円をギリギリで割らない・・・
1203円の安値をつけた後は、下ヒゲ陰線になって、上げ始めた・・・
強いな、と思った・・・

2018-10-15

月曜・・・

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前日S高のコシダカHDは、ちょい下がったところで買った・・・
材料は決算・・・
貸借は0.29・・・
東証1部の株で、前日の出来高は228万株・・・
今日、GDして始まったら、一度は上げるだろうと考え、下がったら買おうと思った・・・
東証1部の株だけに、そんなにド派手に下がらないだろうと考え、いつもより上の、ちょい下がったところで買った・・・
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前前前日S高の極東産機は、下がったところで買ったらブチ割られて、損切り・・・
いらん事した・・・
極東産機は直近IPO銘柄・・・
前日は前回の高値を更新せず、18%ほど下げた・・・
それが今日、GUして始まり、1分目に目を引く陽線が出た・・・
1分目の陽線につられて、高値から5%下の、前日終値付近で買ったら、ブチ割られた・・・
その瞬間、前日は高値を更新しなかったのを、思い出した・・・
土日を挟むと、日足がどうだったか、忘れてしまう・・・
それでも今日は週明けやし、買いが入るのではないかと期待していると、さらに下げた・・・
前日安値を割り、しかも1300円台を下回った・・・
あかん、もうあかん、と諦め、株価が戻ってきて、横横になって勢いを失ったところで、損切り・・・
1.5%の損切になったが、買う前に日足を見ていたら、もっと慎重になっていたかも・・・
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前日S高のテリロジーは、下がってきたところの2分目で買った・・・
相場になり、一度は大暴落するも、前日に息を吹き返してS高で張り付いた・・・
これを今日の本命にしていたから、GUしても、成買しようと思った・・・
ところが寄前気配を見ていると、あまりにも大幅GUしそうだったから、寄買は避けた・・・
確か買い注文が40万株以上あったと思うが、こんなに大幅GUしてしまうと、1分目は下げる気がした・・・
1分目に目を引く陰線が出て、ああ、助かったーー、ラッキー〜〜、と思った・・・
2分目も下げだしたのを見て、もっと下がってこい!と念じながら、指値を出した・・・
そしたら、アッ!という間に約定した・・・
買えた瞬間、ありがとう、と板に向かって思わず呟く・・・

2018-10-14

安倍政権を断じて「保守と呼べない」根本理由(中島岳志)

https://toyokeizai.net/articles/amp/240989

中島:安倍政権は、保守ではなく、革新政権と呼んだほうがふさわしいのではないでしょうか。
本来の保守主義の人間観と安倍首相の人間観の違いを考えると、そう言わざるをえないのです。保守主義系譜をたどると、イギリス思想家エドマンド・バークフランス革命批判したことにさかのぼることができます。フランス革命は、人間は理性によってユートピア社会を作り上げることができるという思想に基づいていましたが、バークはこの考えを危険視しました。
人間は道徳的にも能力的にも不完全な存在です。どんなに優秀な人でも間違いを犯し、誤認を繰り返しますし、嫉妬やエゴイズムからも自由ではいられません。実際、フランス革命は惨憺たる状況を生みました。
このように、本来の保守主義は人間の理性に対して懐疑的な見方をするのです。しかし、安倍首相にはこの懐疑主義的な姿勢がありません。国会での振る舞いを見ても、野党の質問に答えず、答弁時間を潰そうとしているだけです。安倍首相自らの考えが絶対に正しいと思い込んでいるのです。そのように正しさを所有し、反対意見を排斥するのは、革新政権のやることです。

違う。
スターリニズムである。
わかりやすく言うと、安倍はスターリニズムなのである。
安倍のやっている事は、スターリニズムの一言で片が付く。
保守だの革新だの、教条主義的に定義を持ち出すまでもなく、一目で安倍をスターリニズムだと見抜かねばならない。
中島のような保守的な立場から見れば、安倍を「革新」の方に追いやりたいのだろうが、それではあまりにも革新に失礼だ。
百歩譲って、安倍が保守ではないとしても、かといって革新といえるほど、安倍は頭がよくない。
安倍を革新として理解すると、戦前の革新や戦後の革新を貶めることになるし、革新というのであれば、それなりに思想を背負っていなければならないが、安倍には何もない。
思想を背景にしているからこそ、革新側に「自らの考えが絶対に正しいと思い込」む罠があったが、安倍は勉強していないくせに自分勝手にも正しいと思い込むから、革新とはまったく関係のない最低最悪の俗物独裁者なのである。
思想によって「正しい」という思い込みが生まれるのではなく、安倍は首相という立場にあるから「正しい」という思い込みが発生し、権力者であるがゆえにモリカケ問題ですらも正しくなってしまう、これをスターリニズムと呼ばずして何と呼ぶ。
ところで、スターリニズムって、何ですか・・・

2018-10-11

「みんなが差別を批判できる時代」に私が抱いている危機感(綿野恵太)

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57840

「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みがわからない」という有名な言葉がある。
差別差別された者にしかわからない、という意味である。たしかに、いくら想像力を働かせたとしても、踏まれた痛みは直接体験できない。また、差別差別された者だけが批判できる、という意味でもある。もしかしたら、私も気づかぬうちに足を踏んでいるかもしれないからだ。
しかし、杉田水脈LGBT生産性発言、「新潮45」休刊騒動では、当事者である性的マイノリティだけではなく、多くのひとびとが批判の声をあげた。みんなが差別批判できる時代。一見、それは望ましい社会であるようだが、危機感を抱いている

全然ダメ。
「みんなが差別批判できる時代」に危機感を覚えるのは、バカげた話だ。
真に危機的なのは、みんながたやすく差別できる時代の到来のことである。
ネットで匿名性に隠れて差別言語を巻き散らかし、歴史のある出版社が差別的雑誌を発売し、落ち目のテレビ局が差別的番組を報道してしまう、みんなが気軽に差別できてしまう現代日本こそ、危機感を覚えるべきであろう。
みんなが堂々と差別できる時代に危機感を覚えずして、「みんなが差別批判できる時代」に危機感を覚えるのは、先回りしすぎている。
そもそも「みんなが差別批判できる時代」とは、みんなが差別する時代がなければ、やってこない話だ。
差別時代があった後で、差別批判時代が来る以上、「みんなが差別批判できる時代」に危機感を覚える前に、みんなが差別する現代日本批判的にとらえなければ、おかしくなる。
私見では、「みんなが差別批判できる時代」など来たためしがない、と断言できる。

しかし、一方で炎上ネタとして消費されたことは否定できない。まるで芸能人のスキャンダルと同じレベルで、差別パワハラといった問題が扱われているのだ。
差別パワハラがいけないことだ、という考えが世の中に浸透した結果でもある。だが、そうであればこそ、そう簡単に片付けられないはずである。しかし、次から次へと悪者が告発され、どんどんと忘れ去られていっている。
そして、最大の問題点は、どんな社会的制裁を加えるか、という点ばかりに注目が集まっていることだ。

だから「みんなが差別批判できる時代」など、まだやってきていないのだ。
なぜなら差別批判するためには、ものすごく勉強しなければいけないからだ。
この私ですら、勉強が追い付かなくて差別批判できていないのに、「みんなが差別批判できる時代」とは、いったいどこの国の、どの時代のことなのか、さっぱり分からない。
当事者でもないのに差別批判しようと思ったら、一から勉強せねばならず、私ほど勉強してきた人間ですらも、ほんの少しだけ嗜み程度に勉強したぐらいで、あらゆる差別批判できず、自分の力不足を痛感している。

今回の騒動でも、性的マイノリティの当事者よりも周囲の人間の声のほうがあきらかに大きい。もしかしたら、私も足を踏んでいるかもしれない。この問いかけがなくなったのが、この炎上騒動の原因だと考えている。

酷い。
ピントはずれもいいところ。
足を踏まれた者でない限り、「炎上騒動」に関与することはないのだから、足を踏まれた者が、足を踏まれたと同時に「足を踏んでいるかもしれない」と自分に問いかけるのは、そんな賢者ギリシアの哲人くらいだろう。
足を踏まれた者が、「私も足を踏んでいるかもしれない」と自分に問いかけるのは、ヒマになってからでよい。
「足を踏んでいるかもしれない」という問いかけよりも、足を踏まれた者であることの強い自覚がない限り、「みんなが差別批判できる時代」はやってこないのだから。

くわえて重要なのは、在特会ネオナチKKKといった排外主義もまたアイデンティティポリティクスであるということだ。
逆差別」という言葉が象徴するように、マジョリティであるわたしたちが逆にマイノリティに虐げられていると主張する。その主張がいかに間違っているとしても、形式面においてはアイデンティティポリティクスと同じ行為をしているのだ。
アイデンティティの尊厳をもとに考えることは、実は排外主義同じ土俵に立ってしまう。

アホか。
排外主義の「形式面」が、アイデンティティポリティクスと「同じ行為」をしていたとして、排外主義の「主張」が間違っているのであれば、決着がついた話だ。
形式で似ていても内容が間違っている以上、排外主義アイデンティティポリティクスはまったく別物だということが、分からないのだろうか。
それでも「実は排外主義と同じ土俵に立ってしまう」と考えるのなら、アイデンティティポリティクスの主張もまた、間違ったものとしてとらえない限り、同じ土俵に立ちようがない。
排外主義の主張を救い出そうとする意図がない限り、排外主義の「形式面」を抽出して、アイデンティティポリティクスと同じ土俵に並べるのは、実は何もわかっていないことを白状しているに等しい。