2011-12-24 リンク
久々の更新がこんな話で申し訳ないんですが、リンク集に、僕がやっているサイトを加えました。
です。
「DOUBLe HoUR」は、そもそもは「BUBBLe HoUR」というサイトの1コーナーとして始めたものなんですよ。ところが、先日、PCを買い替えたら本サイトの更新ができなくなっちゃって、どうしたもんかなあとあれこれ考えた結果、「BUBBLe HoUR」をブログに移動しました。旧「BUBBLe HoUR」をいじれないので、ここでお知らせしておきます。どうぞよろしく。
あ、DOUBLe HoURの更新も忘れたわけじゃないですよ。放っておいたら積読本の山は増えるばかりだし。地震で崩さないためにも、どんどん片づけていかなきゃ。ということで、来年がんばります。
2011-08-16
■『星座から見た地球』福永信
「読み終えたので書いておく」をやろうと思ったきっかけは、この小説でした。
です。
事前に聞かされていた情報から、なんとなく「実験的」というイメージを抱いていたんですよ、読む前はね。「実験」は嫌いじゃないけど、ハードルが高いんじゃないかと勝手に思ったりして。でも、飛んでみるもんですね。思ってたよりハードルは高くなく、しかもすごく面白い。大好き、と声を大にしていいたいくらい、よかった。とっつきにくそうに見えてフレンドリーでチャーミング。確かに、ありきたりの小説とは違うところはたくさんあります。でも、そういうものだとして読めば、ぜんぜん飛べちゃいます。ということで、レッツ・ジャンプ。では、飛び出す冒頭から。
Aはとびだした。それ以上がまんできなかったのだ。たった五分だがながいながい時間にそれは思われた。雪はやんでいたが降っていたことすらAは知らなかった。Aは立ち止まった。雪だるまを作りたいと思ったからだ。でもいちどぶるっとからだをふるわせただけでまたすぐかけだした。Aはもうおうちになんかもどるつもりはなかった。
これだけでもう、「ありきたりの小説とは違う」匂いがぷんぷんしますね。登場人物が名前じゃなくて、「A」と記号のように表されてるところがいきなりひっかかります。とっつきにくそうでしょ。いったい何者なんだ、と。しかも、「ながいながい時間にそれは思われた」って何が? すでに疑問だらけです。しかし、この疑問に答えることなくAは駆けて出してゆきます。そして、「おうちになんかもどるつもりはなかった」とくる。え、「おうち」?
淡々とした文体に似つかわしくない言葉使いに、おやっと思いますが、どうやらAは子供のようなんです。そしてこのあと段落が変わって、「B」の話が始まります。次の段落では「C」の話が、さらに次の段落では「D」の話が綴られます。どうもB、C、Dも子供らしいぞということはわかるんですが、彼らの関係性がわからない。というところで数行の空白を挟んで、またAの話が始まります。続いて、段落ごとにB、C、Dと続く。うーん、どうなってるの?
整理しましょう。一人の子供についての話が一つの段落で語られる。彼らは名前ではなく、A、B、C、Dとアルファベットで記されています。Aのパート→Bのパート→Cのパート→Dのパートという具合に順繰りに進行し、数行の空白ののち、またAのパート→Bのパート→Cのパート→Dのパートがくり返される。基本的には、この小説は、いかにも仕掛け然としたこのパターンに乗っ取って語られていきます。
ただし、ややこしいことにそれぞれのパートで登場するAが皆同じ人物かどうかはわかりません。同じようでもあり、でも違うっぽいところもあり。B〜Dも同様です。しかも、時系列に沿って語られているわけじゃなさそうです。数行の空白を挟んで次のパートに移ると、いきなり時間がジャンプしたり、巻き戻ったり、同じような場面をくり返したりしている。ABCDの子供たちがどういう関係にあるかもわかりません。ABCDのパートがひと塊になったそれぞれのブロックは、時間やテーマを共有しているようでもあり、まったく無関係のようでもあります。
という具合に、もやっとしたことしか言えないんですが、何かルールがありそうに見えるけど、一方でそのルールから逸脱するパートがあったりもするんですよ。ああ、この話はここにつながってるのね、なんて思ってると、それを裏切るような記述が出てくる。A→B→C→Dに乗っ取ってない章もひとつだけあります。最初は僕もパズルを解くような気分で読んでいたんですが、どうもそう簡単には割り切れるものじゃないらしい。
「ああ、難しそう」って思う人がいるかもしれませんね。でも、僕が言いたいのはその逆。「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないか」ということです。ルールを持ち込もうとするから、わからなくなるんですよ。そうじゃなくて、好きなようにそれぞれの断片をつなげていけばいいし、つなげなくってもいい。この仕掛けは、そういう読み方を促しているんじゃないかと思います。
例えば僕は、途中でカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』というSF小説を連想しました。ヴォネガットのこの作品には、すべての時間を一望の下に見ることができるトラルファマドール星人という宇宙人が出てきます。この『星座から見た地球』は、そんな宇宙人から見た地球の子供たちのレポートのように思えたんですよ。
トラルファマドール星人にとって、時間は流れるものではありません。だから、すべての時間の断片が同時に存在する。しかも、宇宙人ですから地球人を名前や年齢や性別ではないもので区別しているかもしれません。だから、他の子供と平気で取り違えたりもする。ひょっとしたら、犬猫と子供の区別がつかなくなっちゃうことだって、あるかもしれません。
そういうものだとして読んでみると、宇宙人から見た地球人が異星人であるように、子供っていうのはまさに異星人に思えてきます。大人の理屈なんかおかまいなしに、わけのわからないことを平気でやる生き物。楳図かずおの『まことちゃん』なんかもそうですよね。子供を不思議な生き物として観察すると、この小説のような文章になるんじゃないでしょうか。
何か聞いてくれれば答える用意がDにはある。だが問いかけはといえばもっぱらおんなじことのくりかえし。おしりを見られることにもすっかり慣れてしまったほどだ。むろんおなかがすいたのかだのおしっこしたいのかだのといった問いが場違いであると主張したいのではない。おしっこしたのかと問い詰められればイエスと答えるしかないのだがもっとほかにも聞くべきことがあるのだろうにとDは思うのである。ときに率直にあなたはどこからきたのと問われることもあるがそれは本当にまれなことだった。Dは手足を使って雄弁に自分がどこからきらのかということについて語るのだがむろん一日や二日で済むほどことは単純ではない。だがその二人はといえばそれが若さということなのだろうがしんぼうすることなくもう次の日には自分らの問いかけをあっさり手放しおなかがすいたのとかおしっこしたのとかそういった問いにすりかえてしまう。Dは無念のあまり夜となく昼となくなきじゃくったものである。とはいえじつはDにしたところで人のことをいえた立場にはなかった。そう遠くないうちにパパとかまんまとか答えるだけになってしまうからだ。
A〜Dは子供だと言いましたが、このパートでのDはなんとびっくり、赤ちゃんのようです。Dの年齢を書かずに、徐々にそれをにおわせていくところが巧みです。超絶技巧と言ってもいい。「おしりを見られる」とか「おしっこしたのか」とか、「ん?」と思わせるポイントが少しずつ挿入されていくんですよ。Dに問いかける「二人」とは、両親のことでしょうね。「それが若さということなのだろうが」というあたり、可笑しい。Dのほうが年齢的にはずっと若いんですから。
Dと「二人」の間のコミュニケーションには、齟齬があります。「聞いてくれれば答える用意がDにはある」し、聞かれれば「手足を使って雄弁に」語るんですが、「二人」にはそれが通じない。子供たちは、大人にはわからない子供の原理で行動している。異星人のようなものだというのは、そういうことです。
この作品は、大人には不可解に見えたりもするそんな子供たちの行動を、不可解なものでも当たり前のものでもない、そういうものとして描き出します。大人目線でも子供目線でもなく、観察する目線。すっかり大人の常識を身につけてしまった僕らは、なかなかこういう目線を持てません。だから、「宇宙人から見た地球の子供たちのレポート」なんですよ。
まったくようしゃなくコーヒー牛乳は服にしみをつくった。自主的にそれはなされたというのがCの主張だ。コーヒー牛乳がとびだしてきたというのだ。フタを開けたらおそいかかってきたという。あわれて閉じたが間に合わなかったという。それでこうなってしまったのだと両手をひろげるのである。失笑を買うが動じない。こっちといって手をひっぱる。カーテンをめくってみせる。ひきだしを全部開けてみせる。なるほどたしかにCの服とおなじ事態になっている。Cいわくコーヒー牛乳はいたるところにしみをつくりながら病院内を移動しているそうである。おどろいたことにCに異論をはさむものはひとりもなかった。むしろその説明を支持するという。そして早急に対策を練るといい残しその場を去ったことはかえってCを不安にさせた。しかしそれも五分ともたず自分の役者としての力量のたまものであると同室の者らにたいそう自慢したのだった。(中略)やはり地球外生命体だろうと聞こえてくる。まちがいないとも聞こえてくる。先頭に立ってぜひたたかってくれと背中を押される。Cはそこで震え上がる。
コーヒー牛乳で服を汚してしまった子供が言い訳をしてる。僕がやったんじゃなくって、コーヒー牛乳が勝手に飛び出してきたんだ、というわけです。そんな理屈が通ると思っているところが子供なんですが、観察レポートですからそれに対して語り手のコメントはありません。「というのがCの主張だ」となる。
ところが、このパートは後半意外な展開を見せます。なんと、コーヒー牛乳は地球外生物だと大人たちが言い出すんですよ。びっくりです。大人たちはそれを本気で信じているのか、それともCに合わせているだけなのか、そもそも何故大人がそんなことを言うのか。いろいろ解釈はできますが、とりあえずそれを置いといてもすごく面白いです。「Cはそこで震え上がる」というシメのフレーズが素晴らしい。
というところで、文体の話です。この作品、仕掛けもさることながら、僕は文章にすごく魅かれました。淡々としているけどリズミカル。クールななかに立ち上がる詩情。福永さんは、情報の出し方がすごく巧いと思います。「おうち」や「おしりを見られる」ってな引っかかる言葉を、途中にスルッと挟んでくる。このCのパートでは、「病院内」というところで「おや?」っと思います。さらに「同室の者ら」というところで、Cは入院してるということがわかる。こういうのが、読んでいてゾクゾクするんですよ。1行ごとに見える世界が更新されていくような感覚がある。
どのパートを取っても、福永さんの文章の素晴らしさはわかりますが、今度はBのパートを引用してみましょう。ちなみに、Bは女の子のようです。
Bが念じていたのは台風五号のすみやかな北上である。しかし残念ながら昨夜のうちに進路を大幅に変更してしまったのだ。次のやつはまだずっと南だ。したがって高気圧が張り出してご覧のとおりの快晴というわけだ。プールサイドでは気のはやい男子たちが水をかけあっている。Bはその歓声を更衣室で聞いているが表情はまったく最悪といったものである。本当は今日Bは休むべきなのだ。それは正当な行為であって実際に何人か見学している。そこにくわわればいい。全然むずかしいことではなかった。ただそれだけのことがBはできなかった。去年までとおなじでいたかったのだ。
Bは台風の北上を願っていた→北上ってのは台風の直撃を意味する→つまり晴れてプールの授業が行われるのがBはイヤなのだ→Bにはプールを休むべき正当な理由がある→しかしB泳ぎたくないのではなくその正当な理由に向き合いたくないのだ→ああ、だから台風が来ればいいと思っていたのか。というようにわずかこれだけの文章で、僕の思考はくるくると移り変わっていきます。最後の一文まできて、最初の一文から想像したのとは違う場所へと来てしまったことに気づく。「去年までとおなじ」でいたかったとしても、世界は更新されてしまった。Bに初潮が訪れたんです。
世界が更新されていく。今まで見えてたものとは違う世界が立ち上がってくる。それは、子供たちが日々感じていることかもしれません。子供にとって、世界は初めて尽くしです。そのたびに今までとは何かが変わってしまう。さっきまでの瞬間と、今この瞬間はもう別物になっている。同じ名前で呼ばれていても、別の子供になっている。同じ時間を共有していても、別の世界を見ている。そんな風にして、この作品は描かれています。
「星座から見た地球」というタイトルも、考えてみれば不思議です。「星から見た地球」や「地球から見た星座」ではなくて、見る側の視点も常に複数の揺らぎを含んでいる。その揺らぎこそ世界が移り変わる秘密のように思えてきます。ABCDの4人の子供の日々の様々な断片を、星座のようにつなげてみる。それはいくらでも自由に組み替えられる世界で、そのたびに世界が違って見えてくる。星座から見た地球のレポートを星座のように再構築することで、僕らの世界もまた更新されていく。星座をつなぐたびに何度も何度も更新される。
何度かの転校の経験があってそのたびにCの名は出席簿からいったん消えた。市内を転々としたかと思えば県をまたいで別の出席簿の上に現われたこともあった。長居をすることはなくしばらくしてまったく異なる書式のなかに現われる。まあたらしいカルテのなかにCの名が記されたのだ。その万年筆の筆跡はなかなかの達筆だったという。その後も落ちつかず何枚ものカルテのあいだをうろうろした。迷子になったのだ。
Dはこれから見る世界のことをたのしみにしていた。それはもうじきにやってくるはずだった。聞くかぎりそこはとてもにぎやかそうだった。またかなりひろいらしくいろんなところに歩いていかなければならないようだった。むろん歩くだけではなくほかの手段もあるらしかった。ときにかすかな振動が伝わってくることがある。それだけでいつのまにかどこかへ到着してしまうのだ。そういうひとつひとつがDをわくわくさせた。自分がどこまで歩けるかを考えただけでも心臓がたかなった。いろんなところへいっていろんなものを見たいと思っていた。海とか山とか話には何度も出てきた。見ることができるのだろうか。あたらしい家には出窓があっておじいちゃんがいて庭があるそうだ。大きな庭だそうだが海よりも山よりもだろうか。夏になったらかき氷はぜひとも食べたい。いつもDのところへとどくころにはすっかり話とちがうものになっていたから。
ああ、いいなあ。転校するたび世界は変わる。海や山や庭やかき氷に初めて触れるとき、世界は変わる。あっという間に変わってしまうんです。この小説を読んでいると、そんな子供たちの生きる瞬間瞬間が、かけがえのないものに思えてくる。大きな出来事ばかりではありません。大人になったら忘れちゃう、そんなどってことない出来事がほとんどです。それでも、その瞬間が愛おしくてたまらなくなる。それを生きている子供たちに、声をかけたくなるんです。
やほー。君の見ている世界はどんなだい?
2011-03-06
■『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【7】
更新が滞ってる間に、第一部を読み終えてしまいました。なので、駆け足でだだーっといきます。
「18」の章。
冒頭から。
船旅も終え、戦争や奴隷制、首尾よく遂げた観測、聖ヘレナの風、同胞達から浴びせられる慣れぬ敬意等々に五感も呆然となったメイスンとディクスンは、くるくる回る独楽のように倫敦の街を、大抵は二人一緒に彷徨い、時折ドスンとぶつかっては又サッと離れる。(中略)
ディクスンはじき北へ、とにかくステーンドロップの〈陽気な坑夫(ジョリー・ピットマン)〉亭に戻ることのみ念じつつ向う、――故郷から離れるにつけ彼(か)の暇人達の溜り場が益々の魅惑と共に思い出されるに至ったのである。一方、倫敦に留まったメイスンは、何をしたらよいのか今一つ判らない。息子達は当然恋しいが、反面、再会が怖くもある。義理を果しに彼方此方(あちこち)挨拶に回ると、正(まさ)しくボンクの予言した通り、様々な「幹部机(デスク)」に座った人びとから質問を受ける、――海軍、東印度会社、王立協会の官吏だの、王の臣下からロッキンガムの自由派(ホイッグ)まで物好きの議員連中だのが、野菜の供給、或いは道幅、更には沿岸の備砲、市民の士気、奴隷の不穏等々に関して探りを入れてくるのである。
え、もうロンドンに帰ってきちゃったの? 例によって、聖ヘレナの風上から逃げ出したメイスンとケープ・タウンに戻っていたディクスンとの再会のシーンはありません。ピンチョンは、そういうストーリーの節目となるようなシーンを平気ですっ飛ばします。なので、読んでると「いつの間に、そんなことになってんの?」と、戸惑うこともしばしば。
しかも、ここまでのストーリーを「戦争や奴隷制、首尾よく遂げた観測、聖ヘレナの風、同胞達から浴びせられる慣れぬ敬意」と、あっさり要約しちゃう。確かに、起きた出来事を並べていくとそういうことになるんでしょうけど、僕なんかここまで読み進めるのに、3ヶ月弱かかってるんですよ。それが、たったこれっぽっち?
結局、ストーリーはその程度のものなんですよ。ただしそこには、膨大な脱線と蘊蓄と冗談がたっぷり詰め込まれている。英国博学犬やら、時計同士の会話やら、巨大チーズやら、本筋とは関係なさそうでありそうなエピソードが、次々に出てくる。そういうものだと思って読んだほうがよさそうですね。
ということで、メイスンとディクスンはあっさり別れて、ディクスンは故郷へ向かい、メイスンはロンドンに留まります。メイスンは、レベッカのことを思い出したり、亡くなったばかりの師ブラッドリーの葬儀に向かったり。メイスンとレベッカ、ブラッドリーとその妻スザンナの間には、いろいろ複雑な過去があったようですが、ほのめかされるだけでよくわかりません。
「19」〜「21」の章。
故郷に戻り、酒場に入ったメイスンを待ち受けていたのは、ブラッドリーが英国に太陽暦を導入するのに一役買ったという話題。太陰暦から太陽暦に変わる際、イギリスではカレンダーの日付を調整するために、9月2日の次は9月14日と定められたそうです。しかし、柴田さんの註によれば、「民衆からの反感はきわめて強かった」とか。酒場の客は、「日歴(カレンダー)から十一日を盗んだ」とブラッドリーを罵ります。そしてメイスンは、当時、父親と交わした会話を思い出す。
「ふむ、だがな息子よ、――その十一日はどうなるんだ? お前、判ってるのか? お前の話を聞いてると、あっさり……なくなっちまうってことか?」(中略)
「元気出してよ父さん、いい面もあるんだから、――あっと云う間に十四日まで飛べて、何の苦労もなしに十一日得するんだよ、その間(かん)歳も取らない訳で、――要するに十一日ぶん若くなるんだよ」
「お前、頭いかれてるのか? 儂の誕生日が十一日早く来ちまうってことじゃないのか? 馬鹿野郎、そりゃ十一日ぶん老けるってことだ、――老けるんだよ。」
うー、ややこしいなあ。まるでトンチ合戦です。どう言えば納得させられるのか。酒場でも似たような会話がくり返されるんですが、メイスンはそこでとんでもない説をぶち上げます。どこからか攻めてきた「亜細亜風の小人」をその11日間の中に閉じ込めるため新暦を採用したという、デタラメな話。「何じゃ、そりゃ?」と思いますが、その場にいた客たちは妙に納得してしまうのが可笑しい。科学も伝説も、人々が腑に落ちさえすれば真実になるんですよ。
その後、メイスンは息子たちとぎこちない再会を果たします。さらに、父親とも再会するんですが、メイスンと父の間には昔から確執があるようです。父は麺麭(パン)職人で、パンは生きていると考えている。滑らかに見えて複雑で細かな穴のあいたパンは一個の世界であり神秘に満ちている、とかなんとか。パンはキリストの肉の象徴でもあるわけで、父親にとってパン屋こそ聖職ということなのかもしれません。
麺麭屋稼業は若きメイスンを怯えさせた。もう麺麭屋としてやって行けるだけのことは学んだけれども、――篤と考えてみると、――様々な匂い、生地の不可解な膨張、神聖なるものを収めた廟の扉のごとき窯の扉を想い、――弥撒(ミサ)のように日々匂いと発酵が繰返される隠れた劇(ドラマ)を想ってみると、――自分が空へと逃げたのは、空が同じことの繰返しだから、空の方が安全に思えるから、麺麭ほど生と死で飽和していないからであったか? 基督の体が麺麭に入れるのなら、他に何が入って来ても不思議はないのでは?――もっと有難くない幽霊に憑かれてもおかしくないではないか? 空虚な早朝、たった一人で、ほんの数秒間だけでも、物云わぬ白い列と一緒に居ると、麺麭の幽霊性にメイスンは圧倒された。
面白いですね。確かにこうして描写されると、自然に膨らむパン生地が神秘的に思えてきます。でも、その不可解さがメイスンには恐ろしいのでしょう。だから「星見人」になることを選んだと。父親がパンに霊的な聖性を感じているとすれば、メイスンは逆にそこにパンの「幽霊性」を見て取るあたりからも、彼の陰鬱な性格がわかります。パン生地が並んでるだけなのに、「物云わぬ白い列」って…。
ところで、メイスンのアメリカ行きには、様々な陰謀が渦巻いているようでもあり、それはただの妄想とか噂の類いのようでもあり。このあたりは、読んでいてもあんまり頭に入ってきません。出てくる名前が多すぎるんですよ。マクスラインやらブラッドリーの息子やら、誰もがうさん臭く思えてくる。んー。
「22」〜「24」の章。
一方、ディクスンはというと、こちらもかつての師ウィリアム・エマスンと再会します。このエマスンって人物もよくわからない人で、弟子たちに念力線に沿って空を飛ぶことを教えてるとか。何よ、「念力線」って?
「羅馬人達は、」彼は翌日の授業で続ける、「水力であれ兵力であれ建築の力であれ、とにかく力を直線に沿って伝える、という問題に囚われておった。念力線は少なくとも彼等の時代から存在しておったのだ、――或いはドルイド教徒が起源かも知れぬが、ミトラ教が出所(でどころ)だと云う者もおる。如何なる宗派がその栄誉を得るにせよ、真っ直ぐな線というものは、或る規模を超えると、その線の近辺で生きる者にとっては然して役に立たず学ぶところもなくなるが、反面その巨大な規則性によって、遠い所に居る観察者にとっては、この惑星上に人類が存在する明らかな徴(しるし)となるのだ。」
確かに、自然界に巨大な直線というのはありえないですね。だから、ナスカの地上絵が高度な文明の証拠だ、と言われたりするのでしょう。それにしても、「線」です。線は力を伝えるものである。線の近くにいる者にとっては、線は役に立たない。メイソン・ディクソン線がこのあと出てくるであろうことを考えると、直線について言及されるこのシーンは、押えておいたほうがよさそうです。
さて、エマスンとディクスンにメア神父という人物が同席しているんですが、彼はディクスンを耶蘇会のスパイとしてアメリカに送り込みたいようです。メイスン側同様、こちらでも陰謀が渦巻いている。もちろん、ディクスンはまったく乗り気じゃありません。曰く、「何だって、性交(ファック)はなし?」。要するに、禁欲なんてまっぴらだと。ディクスンのこういう率直さは、好感が持てますね。
三人はこのあと、酒場へ流れます。そこで、メア神父がイタリア仕込みの「伊太利焼」を振る舞うシーンが出てきます。でも、残念なことにトマトがない。というところで、ディクスンがケープ・タウンから持ち帰ってきた「野菜煮醤」が役立つ。と、あえてルビなしで書いてみましたが、「伊太利焼」はピッツァ、「野菜煮醤」はケチャップです。柴田さん楽しんで訳してるんだろうな。ちなみに、ピンチョンによれば、これが英国初のピザだとか。はいはい、また始まりましたよ、ほら吹きが。
さらに、この酒場には、狼男の青年ラドとその母親マ・オフリーも訪れる。狼男の迷信は「息子の思春期の始まりに対する母親の動揺」からきてる、なんてことが書かれていますが、ラドの変身はちょっと妙です。酒場に現われたときは「ガルルルル!」としか言わなかったのに、満月を見ると…。
「あたし、変身の時が耐えられないんです、」マは嘆く。「見るのが益々辛くなってきてるんです、でも母親ですものねぇ、見なくちゃいけませんよねぇ?」
「変身してるぞ、」ホワイクが中に留まっている皆に向って叫ぶ、「――先ず歯、次に鼻、それから爪、――今度は髮だ、よし、うん、これで二本足で立った、――衿飾(スカーフ)を巻いて、締金(バックル)を締めて、さあお出ましだ、――若旦那ラドウィック、――」
颯爽とした足取りで、綺麗に髭を剃った、些か痩せ気味の若者が入って来る、銀の錦織(ブロケード)に身を包んだダラムの伊達男、其処ら中で中国式の留金が明るい金色に光って対比(コントラスト)をもたらし、――頭部の装飾としては、妙な角度に傾けた帽子から、細長い緑色の鸚鵡の羽根が、ここまで長く伸びた羽根は前代未聞と思えるほど長々と伸びている。「母上!」と変身を遂げたラドが声高に云う。
「うん、これで二本足で立った」というところで、これまでラドは四つ足だったとわかります。ということは、今まで狼だったの? つまり、ラドは満月になると、伊達男に変身するんですよ。ふざけてますね。逆狼男。そして、田舎のお母ちゃんであるマ・オフリーは、洗練された洒落者の息子が理解できずに困惑してるというわけです。野山で駆け回ってた男の子が、思春期になっていきなりパンクファッションに身を包む、みたいなことでしょうか。
そして、ディクスンはロンドンへ向かう石炭船に乗り込み、深い霧の中でアメリカに到着する幻影を見ます。もうすぐですよ、もうすぐアメリカ行きです。
「25」の章。
ロンドンで再会するメイスンとディクスン。「別に合意を交わした訳ではないが、まあ折角だから今夜は飲むか」と、酒場へ。それにしてもこの小説、ことあるごとに酒場で飲んでますね。もちろん、酒場で交わされるのは与太話。
二人の会話は例によって、噛み合ってるようないないようなものですが、話題の中心はまたしても「陰謀」です。
「判りませんねえ、どうしてわし等をまた雇ったんでしょうかねえ……?」
「私にも判らん。だが向うは、私達が判っているものと決めておる。あの二人には自分達と同じくらい黒い肚(はら)があるのだ、そう倫敦じゃ勝手に思っているのだ。そうとしか考えられん、でなけりゃあんなにややこしく立回る筈がない。実は此方には黒い肚など毛頭なくても、――例えば君だ、こう云っちゃなんだが素直な丘育ち、純朴な北東人(ジョーディー)で、――」
「うぅ、そうですねえ、――でもわしだって陰謀とか知らない訳じゃありませんよ、ビショップまで行けば十分です、ステーンドロップにだってたっぷりありますしね、――だけどまあ倫敦の人はほんと、いっつも見張ってますよねえ、此方の一挙一動、顔の引き攣り、その一つ一つから、有るか無いかも怪しい意味を読取って、――」
「単純な比喩ってものを、奴等はごく最近発見したばかりなのさ……。で、此方は、彼方を侮辱したってことにされたのを今頃になって知る、――或いは裏で札付き呼ばわりされ、陰口を叩かれ、――どの一言、どの仕種がその原因になったのかも一向に判らぬまま……」
「何もかも、田舎者め、ってことで片付けられちまうんでしょうねえ……?」
二人の口を使って、ピンチョンは「裏の意味なんかないよ」と言ってるように読めます。陰謀はいつだって、読み取る側が勝手に妄想を巡らすだけのこと。本当のところは、「有るか無いか」わかりっこない。
僕はここで、読書のことを考えてしまいます。行間に意味を見つけ、いくつものエピソードに張り巡らされた見えない糸を解きほぐす。どこかに陰謀が隠されているにちがいないと、目を凝らし鼻をひくひくさせるように、小説を読み進んでいく。でも、陰謀なんてないのかもしれません。いや、あるかないかは、読者に委ねられているのです。
というところで、第一部がようやく終わります。したたかに酔った二人の会話で、締めくくられる。
「(前略)実は君が何を話してるのかよく判らんのだがな。」
「やれやれ。ディクスン。私等、いま何話してるっていうんだ?」
いやいや、僕だって彼らが、そしてピンチョンが、何を話してるのかよく判らんのですが。
ということで、今日はここ(P368)まで。やっと、やっとここまできました! 全体の1/3といったところなのでまだ先は長いですが、次は第二部「亜米利加」です。
2011-02-22
■『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【6】
離れ離れになってしまった、メイスンとディクスン。さて、どうなることやら、ということで、続きです。
「14」の章。
ディクスンはケープ・タウンへ戻って、かつてのホスト・ファミリーだったフローム家へ。その主である、フローム・コルネリウスに誘われて、ディクスンは娼館へと連れていかれます。もちろん娼館ですから、あんなことやこんなことなどいやらしいメニューが勢揃いしているわけですが、中にはかなり特殊なコースもあります。その一つが、カルカッタ(甲谷陀)で土牢に閉じ込められた捕虜が窒息死したという「ブラック・ホール(黒穴)」事件を再現したもの。
館での官能筋書(エロチック・シナリオ)の一覧(メニュー)に「黒穴」が入っていることに、この世界の果てに在っては誰も驚きはしない。住人も、訪問者も、更には感受性高尚な一握りの水夫達も、暇を見つけて又やって来ては、華奢な偃月刀を光らせた、藍色の腰布(ドーティ)と頭布(ターバン)に身を包んだ優雅な乙女(ニンフ)達によって「捕虜」扱いされ、裸にされ、嬉々として縮尺模型の監房へと、可能な限り大人数の、欧州人捕虜仲間を演じる奴隷と共に詰込まれるのである、――甲谷陀の黒穴体験の真の実感を得るには三十六人が最適人数だとされる。
不謹慎極まりない話ですが、狭い部屋にぎゅうぎゅうに押し込められ、捕虜扱いされることでエクスタシーを感じるわけです。そういう性的趣味が存在することは理解できなくもないですが、この娼館ではそれなりに繁盛しているらしい。つまり、この地ではそれが特殊な趣味ではないということなんでしょう。やっぱり、奴隷制のせいかな。普段主人として振る舞っている人々が、ここでは捕虜になるんですよ。
ところで、ちょい前に時計が会話するシーンがありましたが、この章でも時計について言及されている箇所がありました。当時のオランダ(和蘭陀)時計は、針が短針のみだったとか。ですから、フローム家の娘たちは、ディクスンが持っていた長針と短針のある王立協会の時計が珍しくってしょうがない。
目下和蘭陀人の間では、当地でも本国和蘭陀でも、針が二本ある時計への熱狂が俄に高まっているのである。この調子ではやがて、尋問の最中でも、質問が発せられる度、行為が為される度に、誰かが必ず二本針の時計によって正確な時間を記録するようになるであろう、――と云っても誰かがそれを後で検査するからでなく、恐らくは最先端の計測機械によって被尋問者を怯えさせる為に、又、何はともあれ一分単位の正確さが事実可能になったのだし、記録簿にも分を書込むだけの余白はあるのだからという理由で。従って、近隣にある時計は全て、尋問用時計の有力候補である。
ディクスンたちの二本針時計は、天体観測の正確な記述に必要なんですよ。でも、オランダで流行しているのは、そうした必要に迫られてのことじゃないんですね。むしろ、正確な時計があるから、時間を記録するという発想が生まれる。
しかもそれは、支配の道具として使用される。たかが時計の話ですが、これを現代に置き換えてみれば、パソコンがそうですよね。「最先端の計測機械によって被尋問者を怯えさせる」にはもってこいじゃないですか。時計はすべて「尋問用時計の有力候補」という皮肉。
「15」の章。
またしても、聖ヘレナ島のメイスンです。マクスラインの提案で、彼とメイスンは風がびゅうびゅう吹きつける島の反対側へ、観測所を移すことになります。しかし、この地は、人が住むにはふさわしくない場所のようです。常に止むことのない風にさらされて、人々は精神に変調をきたしてしまいます。メイスンはこんな風に語っています。
「ふぅむ、そうそう、昨日わんわん吠えながら駆回って、大家のお上さんを噛んだとかいうあの農夫、――実に愉快でしたが、――商いを司る上で正気なる謹直さが重んじられるジェームズ町では、ちょっとした狂気でも疎まれるということはありましょうが、逆にここ風上側では謹直なる人びとが疎まれる訳で、寧ろ、これ程まで風に曝され己の無力さを思い知らされる場にあっては、四六時中愚行に走ることこそ唯一の防御策、――かくして互いに十哩(マイル)と離れておらぬにも拘らず、双方不信を抱きあう別個の国家が出来ておる様子。(後略)」
要するに、この地では狂わずにいるほうが難しいと。やがてこの聖ヘレナの風上の地で、メイスンは2年前に亡くなった妻、レベッカの亡霊と会うようになります。最初のほうの章でほのめかされていましたが、メイスンの心には常にレベッカの死が重くのしかかっていたようです。それが、この風にやられて顕在化したのかもしれません。
まあ、わかりませんが。メイスンがおかしくなっちゃったのかもしれないし、本当に亡霊が現われたのかもしれません。時計がお喋りするような小説ですから、亡霊くらい出てきてもおかしくはない。
「16」の章。
時間は前後しますが、この章では、メイスンがディクスンへ、レベッカとのなれ初めを語るシーンから始まります。このエピソードが面白い。
二人が出会ったのは、五月祭の「チーズ(乾酪)転がし」でのこと。チーズ転がしって、たまにテレビで紹介されたりするイングランドのお祭ですよね。丸いチーズを丘の上から転がしてそのスピードを競うっていうもの。チーズは、通常の2倍の大きさのダブルグロスターっていうチーズを使うそうです。ところがこの年は、なんと「オクトゥプル(八倍)グロスター」が作られたとか。
これぞ狂気の沙汰と見做す者もある。分別のない、信仰も怪しい教区牧師が、地元の乾酪職人達を嗾け、力を合わせてこの偉業を為遂げるよう仕向けたという話。昔ながらの一倍(シングル)グロスターを、厚さのみならず縦横高さ全てに於て八倍に膨らませ、二倍(ダブル)、三倍(トリプル)どころかクィンセンテナリデュオデシマル、即ち五一二倍グロスターが出来上った訳で、――出来立ては重さほぼ四屯(トン)、その後少し縮んでも、この前代未聞の乾酪製造のため町外れに特別に造られた大きな納屋から出て来た姿は、高さ優に三米(メートル)に達していた、――ゆっくりと熟してゆく中、何か月にも亘って、驚異の乾酪は噂の種を提供し続けた。近頃はもう、逸る気持ちを抑えられぬ群衆が納屋の入口に群がり、さながら王室の跡取り誕生が間近に迫ったような有様。英国(イングランド)のこの地方にあっては、民衆の集まりはしばしば、地元の仕立屋達に胃腸上の、かつ精神上の苦悩をもたらすため、軽騎兵の小隊も控えている。乾酪が遂に、そろそろと公衆の面前に運び出された現場に居合せた者達が記憶するところでは、誰もが一斉に息を呑み、一拍の沈黙が生じた後「いや、――大きいとは聞いてたけど、まさかここまで――」……「一体どうやって教会まで持ってくんだ?」……「どんな味なのかな?」等々口々に声を上げたという話。
従来、教会で浄められ、教会の敷地内を三周儀礼的に転がされたのち丘を転がされてゆく乾酪は、ごく普通の大きさの二倍のグロスターであって、それが年代物の車輪付き輿に載せられて運ばれるのであるが、この怪物にはそれでは到底間に合わない。やっとのことで、誰かが巨大なコッツウォルド荷車を持出してきた。煉瓦の赤、空の青、この二色に塗り分けられ、車輪の輻(スポーク)と●(リム)も同様に塗り分けられた代物だが、乾酪も負けずに鮮やかな橙(だいだい)、これを一種の積降し台で慎重に転がして荷車に載せ、何か危険で大きな動物を縛り付けるみたいに、頑丈な太索(ふとづな)を使って直立状態に固定したのだった。荷車の側面は板ではなく細い棒が並んでいる為、野次馬達からも乾酪の全貌が見えた。
ランドウィック教会までの行進は、永らく記憶に残る見世物であった。富めるも貧しきも、近隣の民が総出で沿道を埋め、大いなる乾酪がゆらゆら揺れながらその姿を現すと、みな畏敬の念に包まれて無言で迎え、――やがて、道の凹みに行逢う度に益々輝きを増してゆくその偉観に、不思議と静謐な気持に導かれたかのように、民等は乾酪とその運搬人に声を掛け始め、声は程なく万歳に、更には頌讃(ホナサ)に変っていった。呑助達が酒場から転がり出て来て、通りすがる壮大な食品に乾杯する――「サァみんな、偉大なる〈八倍〉を祝って万歳三唱!」娘達は投げ接吻(キッス)を送る。地元の若者達は時おり荷車に飛乗り、道の凸凹が取分け甚しくなった際に荷がぐらつかぬよう手を貸す、――これでいつの日か、彼(か)の名高き五月祭の日に俺は大いなる乾酪の道行きに付添ったんだぜと吹聴出来るというもの。
面白いんで、長々と引用してしまいました。ちなみに、「●」となってるのはPCで出なかった漢字。車偏に「網」の右側を合わせた漢字で、ルビは「リム」と表記されてます。
それはともかく、縦横高さすべて通常の8倍、ということは、質量で言うと8×8×8=512倍! かけ算でふくらむ、ホラ話的なバカでかさが可笑しい。ピンチョンの根っこには、きっとこの手のトールテイル的なるものがあるんでしょうね。メガロマニア。しかも、ちっちゃなくすぐりをちょこちょこと入れてくるところがおかしいです。地元の人々が、口々に大きさに驚いているところで、「どんな味なのかな?」とトボケたことを言って落とす。味は一緒でしょ、たぶん。
人々は、チーズのできあがりを「王室の跡取り誕生」のように待ちわび、できあがったチーズを「何か危険で大きな動物を縛り付ける」かのように荷車に乗せ、道行くチーズを見ては「万歳三唱!」。長くなるので引用しませんでしたが、このあと、人々は八倍チーズを讚える歌まで歌い出します。もう、これはチーズであってチーズじゃないですね。偉大な神のようでもあり、恐ろしい怪物のようでもあり。
この巨大チーズの日に、メイスンとレベッカがどのように出会ったかは書きませんが、いかにも「お話」といったご都合主義的な出会い方です。思わず「嘘だあ」と言いたくなる。
というのも、実はこのエピソードの冒頭から、メイスンが事実を歪めて話しているということがほのめかされているんです。つまり、このなれ初め、どこまで本当なのか怪しい。どうもメイスンは、レベッカに対して何か負い目があるようなんですよ。何かを隠すための作り話のように思えてくる。嘘をつくならもっともらしくやればいいものを、ピンチョンは巨大なチーズで背後の真実を覆い隠す。そこが、面白いんですが。
このあとも、メイスンが彼女の亡霊に対し、「僕は君を裏切った、」なんてことを言うシーンも出てきたりします。レベッカが亡くなった原因も、何かいわくがありそうだなあ。まあ、まだ今のところはわかりませんが。
そんなこんなで、この章は、メイスンがマクスラインから逃げ出すシーンで終わります。彼はマクスラインに対し、こうまくしたてる。
「正直申上げて、私、あんた程〈風〉に対する抗力を持ち合せておりません。この〈風〉には頭がおかしくなってきそうだ。」更に一言付加えるなと胃が警告している、「あんたには頭がおかしくなってきそうだ。」
メイスンは躊躇わず砂利浜に駆下りてゆき、狼煙を熾しに掛る。上着で扇いで、通り掛る沿岸船に向けて、風下まで乗せて行ってくれぬかと要請する。値段が殆ど犯罪的なのは覚悟の上。
ああ、言っちゃった…。となってからの展開の早さ! のろしを上げて船を呼び、船に乗ってさっさと島の風上側から立ち去ります。さらば、風。そして、さらば、マクスライン。
「17」の章。
やっと、風上側を離れた場所に来て、船を降ろされたメイスンは、「ジェンキン耳博物館」なる場所にたどり着きます。訳者の柴田元幸さんによる註では、「史実ではロバート・ジェンキンズ。この小型商船船長がスペイン船の侵入を受け拷問されて耳をちぎられ、一七三八年、英国下院においてその耳を提示したことが、英国とスペインの戦争が起きる一因となった」とのこと。つまり、その耳が展示されている博物館というわけです。
博物館とは言うものの、どうひいき目に見てもこれはただの見世物です。エレファントマンの頭蓋骨とか、そういう類いのもの。しかも、この博物館の経営者であり案内人でもあるニック・モーニヴァルという人物がまた、うさん臭いんですよ。芝居がかった調子で耳の由来を滔々と語り、ことあるごとに金を要求し、それがひと通り終わるまで解放してくれない。
哀れなメイスンは、そんなペテンじみた耳博物館に足を踏み入れてしまいます。せっかくマクスラインから逃げてきたのに、また変なヤツにつかまっちゃったというところでしょうか。しかも、このジェンキンズの耳、まるで生きているみたいなんですよ。
「お気付きになりましたな。」モーニヴァル氏は語りを中断する。「結構。一向に感付いて下さらない方もいらっしゃいましてね。そうです勿論聞いておりますとも耳ちゃんは、――そもそも耳とは何の為に?――それに正直な話、此処ではやることといっても碌にありませんしねえ……一寸見(ちょっとみ)には小っぽけな、塩漬の代物かも知れません、が、耳ちゃん実は、貪欲にして飽くことを知らぬ器でしてね、――人の言葉を幾ら聞いても聞足りないときてまして、何だって聞きます、何語(なにご)でもいいのです――私も折に触れて朗読してやらねばならんのですよ、聖書、月距表、『蒼ざめた伊達男』、手当たり次第何でも……尽きることのない、耳ちゃんの大いなる飢えなのです。」
「『耳ちゃん』?」
「何て呼べばいいんです? 『鼻ちゃん』?」
「いや……只その、失礼を申上げてはと思いまして、――」メイスンの視線は一層狂おしく辺りを飛回るものの、出口は未だ見付からない。
「耳ちゃん」って…。オカルトチックな雰囲気や、厳めしい歴史物語にふさわしくない呼び方です。ピンチョンはすぐこういうふざけたことを言うんですよ。しかも、この耳ちゃんに朗読してやるものが、「聖書、月距表、『蒼ざめた伊達男』」と、なんだかメイスンに関係ありそうなチョイスです。考え過ぎかなあ。
このあと、またしても時間は飛んで、メイスンがディクソンに耳博物館での出来事を語ってるシーンになります。ここで、王立協会がアメリカの領主から受けた依頼のことが話題になります。その依頼はと、「最新の手段を用いて境界線を定めて戴きたい、等緯度線を五度、即ち百里(リーグ)、荒野を東から西に掛けて引いて戴きたい」というもの。おおっ、やっと、やっとのことで例の「メイソン・ディクソン線」が出てきました。ディクスンは、言います。
柴田訳、面白いなあ。「亜米利加道中膝栗毛」、弥次喜多ですか。
2011-02-09
■『メイスン&ディクスン』トマス・ピンチョン【5】
またちょっと間が空いてしまいましたが、続き、いきまーす。
「11」の章。
ケープタウンを出て、聖ヘレナへ島へやってきたメイスンとディクスン。セントヘレナと言えば、ナポレオンが追放された流刑地ですよね。そのくらい絶海の孤島であり、ロンドンからやってきた二人にとってみれば、地の果てといった感じでしょうか。少なくとも健全な場所とは言い難いようで、不品行や淫行がはびこっているとのこと。ちなみにこの島の所有者は、おなじみ東インド会社です。
マンデン崎に出ると、一基の絞首台が立つ姿は、この海空のぎらつく光を浴びて単なる一筆(ひとふで)と化している。夕暮れ時に此処を訪れる者は、砲座の上に立ち、倫敦を訪れた者が聖ポール寺院を眺めるように、暮れ泥む北極光の中、聖ポールよりは相当に不吉な情景を目にすることになる、――それによって、罰というものにいつしか思いを巡らしもしようし、――はたまた貿易に思いは流れるか……何故なら奴隷制を抜きにした貿易など考えられぬのだし、奴隷制はその必須要素として絞首台を含まぬ訳には行かず、絞首台なき奴隷制など、十字架なき十字軍同様に虚ろにして空しい代物でしかないのだから。海から内地に向って延びている大きな峡谷の端、絶壁の下、砲台に沿って、毎日黄昏時に、微風を捕えんとする島民達が漫ろ歩く。黒光りする銃砲と、武装した歩哨達を無視するなら、島全体を、大きさも定かでない東印度貿易船と見立てるのも強ち不可能ではなく、日暮れ時にこうして練歩く人の姿も、露天甲板の上を遊歩する乗船客のそれと見えよう、――尤も、よく見てみれば、どの顔にもそれぞれ浮かんでいるのは旅行客の好奇心というより、女達ですらも、陰鬱なる情景を長年日没の度に見てきたことを物語る表情。
夕日を背に断崖に立つ絞首台。いやーな感じの光景です。人がぶら下がってたりしたら、さらにいや。そのシルエットが、一筆書きでのように見えるという比喩は上手いですね。確かに、絞首台って線でできているっぽい。
貿易・奴隷制・絞首台の三題噺も、ピンチョンらしい皮肉です。要するに、「奴隷制」は経済と深く結びついているわけですよ。島全体が東インド会社のものであるからには、この地は貿易と奴隷制に骨絡みの場所ということになります。島が貿易船だとすれば、その船を漕がされているのは奴隷たちというわけです。何だか憂鬱な気持ちにさせられる話ですが。
「12」の章。
この章は、メイスンとディクスンが、マクスラインという人物と、酒場で飲んでいるシーンから始まります。いきなり何の説明もなく話は進んでいきますが、マクスラインって誰よ? どうやらこの人物、この島で大犬星(シリウス)の観測をしているらしい。3人の会話は噛み合わず、よくわからない皮肉の応酬をしているっぽい。もちろん読んでる僕にも、何の話をしてるのかこの時点ではよくわかりません。
ところで、この酒場では雄鶏麦酒(コック・エール)という酒を出すんですが、そのレシピがユニークです。
ブラックナー氏の雄鶏麦酒の製法(レシピ)と云えば、印度貿易船の航路上至る所で珍重されている。これ等馬来人が闘鶏を連れて町に立寄ると、云わば主材料が俄に旬となる。ブラックナー氏の好みとしては、欠かせぬ乾燥果実の欠片はカナリー葡萄酒に浸すより寧ろ山の酒即ちマラガ葡萄酒に浸すほうが望ましく、また闘鶏の死体を搾るには、中国製の巧妙な鴨搾りを用いるに限る。中国から逃亡してきた貴族からユーカー賭博でせしめたこの鴨搾りを使うことで、搾る力が無類に高まり、他所では凡そ得られぬ神秘なる体液が抽出出来るのである。
これ、実在する飲み物なんでしょうか? と思ってネットで調べたら、闘鶏の際に鶏に飲ませた酒を「コック・エール」と呼び、それがカクテルの語源になったというようなことが書かれてました。つまり、その話を元ネタにしたピンチョンの創作ということなんでしょう。それにしたって、鶏の体液を飲むってのは気色悪いジョークですね。だいたい「中国製の巧妙な鴨搾り」って、何なんですか? グレープフルーツを搾る器具ならわかりますが、ないでしょ、鴨搾りなんて!
そんなこんながあり、ディクスンは一端メイスンを残して島を離れ、ケープ・タウンに戻ることになったとか。そこで、今まで使っていた時計を聖ヘレナに置いて、新しい時計を持っていくこととなります。
このあと、えらく奇妙なシーンが描かれます。時計が交換されるまでのわずかな時間、ディクスンの古い時計と新しい時計が会話をするんですよ。これにはびっくり。そりゃあ喋る犬が出てきたりもしましたが、時計が話す気配なんて今までまったくなかったじゃないですか。まるで、藤枝静男の「田紳有楽」です。
新しい時計は、これからディクスンと共に向うまだ見ぬ地、ケープ・タウンについて知りたがります。
「で、岬町(ケープ・タウン)はどんな感じ?」もう一方が問う。
「先ず空気だが、常時湿っていると云ってよい、」エリコット時計が答え、――岬に関してこの時計が有する知識は全て雨季に得たものなのである、――そこから今度は、自らが目下患っている時計的疾患を、主撥条(ゼンマイ)の機能不全からブルゲ髯撥条(ヒゲゼンマイ)の中風まで一通り並べ立てるものだから、相手の振子の錘(おもり)も同情の念に揺れる。
「ということはつまり、何もかも防水になってはおらんってことだな。」
「雨が途切れる度、も少し水が入らぬよう一応努力はしてくれるがね。」
雨季しか知らないっていうのも可笑しいし、「時計的疾患」のあたりも笑えます。さらに時計たちは、オランダの時計の特徴について語ったり、メイスンやディクスンについての噂をしたりします。でも本当に面白いのは、このあとです。
実のところ、時計達が本当に話したかったのは、海のことであった。何故かその話題には行着けなかったのである。どちらの時計も、海とは何なのか実はよく知らず、――間違いなく何かしらの律動(リズム)を有する存在だということしか判っていない、――これまでの生の大半をその近辺で過ごし、時には樽板一枚、船体一面隔てたのみということすらあったにも拘らず。その波の律動は常に彼等と共に在ったけれども、どちらの時計も、自分が海というもののどの辺に居るのか、どうも確(しか)と判った例(ためし)がない。彼等が感じるのは、時に抵抗可能、時に不可能な誘引力である。即ち、振子の長さに拘らず、或いは時(じ)や分(ふん)にさえ無関係に、その力と合せて拍を打ちたいという誘惑。
好きだなあ、このシーン。海を知らない時計たち。言葉としては知っていても、その定義がわからない。いくら近くにいても、その形態や色や大きさがまったくピンとこないわけです。唯一わかるのは海の刻むリズムというのが、いかにも時計らしくて面白い。「あれが海ってものらしいけど、いったい何なんだ?」と思ってるんでしょう。時計たちの気持ちになって考えてみると、なんだか、彼らがかわいらしく思えてきます。まあ、時計に気持ちなんてないんですが。
「13」の章
聖ヘレナ島へ残されたメイスンは、マクスラインと行動を共にします。この章は、ちょっと読みづらい。というのも、マクスラインが何を考えてるのか、さっぱりわからないんですよ。思わせぶりなねじれた言い回しを多用し、裏に何かありそうなことを話すんですが、それがよくわからない。
マクスラインはかなり鬱陶しい人物で、偏屈で恨みがましくて、ちょっと妄想癖もあるという感じ。妙に自分を卑下したと思ったら、急に怒り出したりする。以下は、マクスラインのセリフです。
「いやいやいいんです。この島についてどんな悪口を云われたところで、もう全部ウォディントンから聞いております、でなければ私が自分で云っております。一時期なぞ、この島が意識を持った生き物だと信じて疑わなかったこともありますよ、地の下から活力を得ておる、会社によって秘密裡に造り上げられた生き物なのだとね、――この島は何もかも会社のもの、――如何なる営みも、思いも、夢も、全ては会社によって生み出されておるのだ、そう信じてました。ハ‐ハ、いやほんとにねぇ、私も妙なこと考えますよねぇ。私はなるたけそっと静かに歩くよう努めました、其奴に歩みを勘付かれまいとしてね。強く踏みすぎるとね、其奴がびくっと縮こまるのが判るんですよ。だから、それは避けようと。あんただってそうしますよきっと。この町の連中もみんな、狂った奴等ですら大半が、そうっと忍び足で歩いてますからね。誰の権力でそんなこと強制している訳です? ハッチソン総督ですか? 会社の警備隊? いやいやそれ以上に、自分達は微睡む生き物の上で生きてるんだという意識が、其奴から見れば人間なんて蚤よりちっぽけでしかない怪物の上で暮してるんだという気持ちが、そうさせるんです、――だからこそ私等みんな、かくも危うい生に対して細心の注意を払いもし、その生を維持する上で、如何なる礼儀が真に必要か、本気で考えておる訳です。夜間外出禁止令がないのもその為です。生きる為に、四六時中起きていなくちゃならんのです。目覚めている全ての瞬間、恐怖と共に過ごす、放蕩と汚辱に塗れる危険を常に抱えて、――」
(中略)
メイスンはだらだら汗をかきながら考えている。ディクスンの奴、私を危険な狂人と二人きりに置き去りにした訳か。それにウォディントンにしても、何でそこまで早く帰ったのだ? 何を云ってる? 火を見るより明らかではないか、奴がそそくさと発った訳は、恐慌(パニック)以外の何ものでもない! 此処では明らかに、一瞬たりとも注意を怠れぬのだ、絶対マクスラインを刺激しないように。ゲゲゲ……。
ウォディントンは、メイスンやマクスライン同様の天文学士で、ここ聖ヘレナにマクスラインを残してさっさと立ち去った人物です。そんな彼へのネチネチとした恨み辛みが、チラっと言葉の端にのぞいています。そういうところ! そういうところが、ウォディントンには耐え難かったんじゃないの?
それにしても、島が生きているなんてのは明らかにイカレた妄想です。しかもその生き物を造ったのが、「会社」だと。たわごとと言ってしまえばそれまでですが、ピンチョンはこの手の陰謀論めいた話が好きですね。
まあ、マクスラインにとっての東インド会社は、ちっぽけな自分の運命を左右する、巨大な生き物みたいなものなのかもしれません。そして、この島の陰鬱な空気も放蕩と汚辱にまみれた環境も、東インド会社の影響下にあるせいかもしれません。つまりは、貿易と奴隷制。あの、絞首台の話とつながっているんじゃないかと。
ともあれ、マクスラインはお守りをするのが大変なタイプと見受けられます。メイスンが「ゲゲゲ」と言うのも無理はありません。
マクスラインの不運を聞いて、メイスンは理解する。自分の務めは、マクスラインの前で絶対に嬉しそうな顔、満足気な顔をしないこと、――更に又、この後(ご)頻繁に見られることになる、マクスラインが矢鱈(やたら)振回す短剣にも一切反応せぬこと。
嬉しそうな顔をしたが最後、ねちねちと絡んでくるんでしょうね。しかも、短剣を振り回すんですか? やっかい。ちなみに、マクスラインは、東インド会社の大富豪クライヴの義理の弟に当たるらしいです。このあたりも、微妙に扱いにくい感じがします。
そう言えば、「11」の章の冒頭で、チェリーコーク牧師がマクスラインについて触れていたっけ。読み返してみると、牧師がお話を語っている時点でのマクスラインは「王立天文台長として暦を刊行し、世界貿易にも手を出している」とか。おおっ、大出世じゃないですか! そして、ここにも「貿易」が出てきてました。うーん、生臭いですね、マクスライン。
ということで、今日はここ(P212)まで。
話は遅々として進まない上によく見えない部分も多いです。なのに、コック・エールやら時計の会話やら、変なところが面白いのが困ります。どう読んだらいいものやら…。

お返事もせずに、すみません。まだ『メイスン&ディクスン』は読み終えていませんが、来年がんばります。1年たっちゃいましたが。あと、『アンダー・ザ・ドーム』、よさそうですね。これはきっと、いずれ読むだろうな。「ランゴリアーズ」も好きですよ。テレビドラマにもなっていて、そっちも面白かったです。ということで、よいお年を。