『もうひとつの街』ミハル・アイヴァス


もうひとつの街
読み始めたのは去年の春頃。読んでる途中で書こうかなあと思ってたんですが、次々と繰り出されるあまりにシュールで濃密なイメージに、頭がついていけずしばらく放置しちゃってたんですよ。ところが先日、えらく寒い日に読み返してみたら、舞台となる雪のプラハに波長が合って、するすると頭に入ってくる。これなら読めるじゃん、ということで読み終えちゃった。なので今回は、「読み終えたので書いておく」です。
読んだのは、去年翻訳されたチェコの小説。
『もうひとつの街』ミハル・アイヴァス
です。
日本で紹介される外国文学の中でダントツに多いのがアメリカ文学で、当然、僕が手に取るのもアメリカ文学が中心になりがち。でも、ここ数年、フラバル、ソローキン、ゴンブローヴィチなど共産圏の作品を読んでるうちに、その薄暗い想像力に妙に惹かれるようになってきました。この『もうひとつの街』も、チェコ・都市・幻想と、三題噺じゃないですが、「東萌え」の心を非常にくすぐる作品でした。


物語は、語り手である「私」が雪の降る日、古本屋で1冊の本と出会うところから始まります。

書棚に並べられた本の背の波をゆっくりと指で触れていくと、国家経済を論じたフランス語のぶあつい分冊と『牛と馬の助産術』という書名の背が剥がれかかっている本のあいだにできた暗い窪みのなかに、すっと指が入り込んでしまった。その奥で指が触れたのはとてつもなく滑らかな本の背だった。濃い菫(すみれ)色のビロードで装丁された本を思い切って書棚の奥から取り出してみたものの、本には書名も、著者名も記されていなかった。

本の背を何とはなしに触れていくと本棚の窪みに指が吸い込まれ、その奥にある本を発見する。この菫色の本からすべては始まるんですよ。いいですねえ。暗がりと窪みってのがまた、「裏側の世界」を感じさせるじゃないですか。申し分ない導入です。ただし、なめらかな滑り出しと呼ぶにはちょっと引っかかる。
菫色の本も気になるけど、指が窪みに引っかかるように、『牛と馬の助産術』が気になっちゃうんですよ。何、その本? まあ、いいや。その菫色の本には見たこともない文字が記されていて、「私」はそこに別世界の気配を感じちゃうんですよ。

このような出会いは初めてではなかった。どこかに通じているはずの半開きになっている扉のなかに足を踏み入れることはせずに、これまで何度も通り過ぎてしまったにちがいない。見知らぬ建物のひんやりとする廊下や中庭、あるいは街はずれのどこかで。この世の境界は遠くにあるわけでも地平線や深淵で広がっているわけでもなく、ごく身近な場所で、かすかな光をそっと放っている。私たちが接している空間のはずれの暗がりのどこかにあるはずだが、自分では意識しないものの、つねに眼角を通してしか世界を見ていない私たちは、ほかの世界を見過ごしている。

H・G・ウェルズのSF短編に、日常の中でふいに「向こう側」への扉を見かけるという話がありましたが、そんな感じでしょうか。ともあれ、まだ始まって2ページ目だってのに、いきなりテーマ的なことを語っちゃってます。すぐそばにある別の世界。それが「もうひとつの街」というわけです。いたるところに積もっている雪は非現実の始まりで、一歩踏み出すように私たちに促しています。ということで、主人公は「もうひとつの街」を探していろんな人に話を聞き、街をさまよいます。
面白いのは、一度この「もうひとつの街」の存在に気づいてしまうと、プラハの街がまったく違って見えてくるということ。至るところに、その「境界」を見つけてしまうんですよ。そこで得た手がかりが次の手がかりにつながり、また別の場所にある境界へと導かれる。まるでクエストもののゲームのように、それぞれの場所で奇妙な話を聞いたり、体験をしたりすることになる。そうやって、プラハの街に二重写しのように「もうひとつの街」を見つけていくんですよ。
と、ここまでなら、ファンタジー幻想小説でもさほど珍しくない構成でしょう。問題は、「もうひとつの街」がどんな街なのかです。ここで、ミハル・アイヴァスのシュールな幻視力が爆発します。この、奇妙なイメージの連打についていけなくなって、一回読むのを休んじゃったんだよね。それくらいすごいんですが、ちょっと引用してみましょう。まずは、図書館員が語る話から。主人公同様、奇妙な文字で書かれた本を見つけ読み耽っていたら、いつの間にか津波が押し寄せ窓の外ぎりぎりのところで、時間が止まったかのように固まってしまったと。

「すると、水の壁のなかから、巨大な黒い魚がぬっと頭を突き出し、しわがれた笑い声をしばし響かせたかと思うと、あざ笑うかのような調子で、こう言ってきたんだ。『これまでの生涯、おまえはずっと忘れようとしていたな。ラドリツェの裏通りにある薄汚い映画館で、シートの列のまんなかにひとりで坐り、ニュース映画を眺めていたことを。海底から撮影したシーンでは、細かい砂の上をきらきらと光る小魚の群れが泳いでいるのが映し出されていたな。小魚の群れは突然、動く彫像を形作ったかと思うと、人造の美女とおまえがバコフ・ナト・イゼロウ駅のレストランでキスをしている様子を映し出す(おまえは、いつものごとく、人造の女性たちに魅了されてしまい、夜の静けさのなか、彼女たちが隣で横たわっているときなど、彫像の歯車が出すカチカチという音に親しみをおぼえていたな)。美女は――創造主に宛てた長い書簡のなかで、自分は《地峡》へ向かっている途中だと綴っていた――居心地の悪い部屋で、チェコの悪魔たちと暮らしていたんだ。悪魔たちはクッキーをむしゃむしゃ頬ばりながら、美女の話に相槌を打っていたが、遠く離れた暗い星をこれからも忘れないように語られたのは、畑に囲まれた池に張った氷の下で灯っているバラ色のランプを巡るものだった。だが同時に、悪魔たちは美女をバラバラに分解して、自分たちの母の彫像を、いや、むしろ母そのものを作ろうではないかと密談していたのだ。(中略)かと思うと、聖ヴィート大聖堂のようなものが、フラッチャヌイの本物よりもすこしばかり大きいものがソビェスラフ州を時速二七〇キロで走っていたり、《地峡》は二つの海の光り輝く水面上に聳えていたりする。蟹と化したピアノは寝室を這い回っているが、音楽が流れるのにふさわしい時間ではなかった。というのも、シルバーのケースに収められた女神はまだ、天井から怪物会議に落下していなかったからだ。ピアノ蟹の背の中央には螺旋模様のピクトグラムがペンで描かれ、コンクリートの倉庫内でのくしゃみに似た音を出していたが、その音が意味するのは、湖上に浮かぶ建物の明かりが消された部屋で素早く動く緑の指を忘却せよ、というものだった(じつは多種多様な中国がいくつもあり、私たちが暮らしているのはその辺境なのだ。隣の寝室にはすべて水田があった)。おまえは映画館のホールから逃げようとするが、ドアというドアのすべてに鍵がかかっている。

長めの引用ですが、どうでしょう。スッと頭に入ってきますか? こないでしょ。字面を追っていくと何の話をしているのかよくわからなくなってくるんですよ。図書館員の語りの中に、巨大な魚の語りが入れ子になっていて、さらにその語りの中に映画のシーンが入れ子になっている。水の壁と化した津波から魚が顔を出すというイメージにびっくりしてると、ニュース映画に自分が登場するというイヤな展開へ。ところが、そのことは掘り下げられずに、人造美女の話から悪魔の話へ横滑りしていき、後半はわけのわからない奇想が爆発。大聖堂が通りを走り抜け、ピアノは蟹と化し、寝室に水田がある。なんかもう、情報量が多過ぎ!
考えてみれば、チェコは海のない国ですから、津波が押し寄せるということ自体おかしいんですよ。この作品では、あちこちに海のイメージや海洋生物が登場します。鐘楼でサメと格闘したり、エイに乗って空を飛んだり。僕は、カレル・ゼマンというチェコのアニメーション作家を思い出してしまいました。ゼマンもまた幻想的な海底のシーンを何度も描いています。チェコでは、海は幻想の中にしか存在しないということでしょう。
もういっちょ、いってみましょうか。地下ドームで怪しげな司祭が語る説教の一部です。

物語が真実を告げることはなく、怪物はつねに戻ってくる。よく知られた化け物がチェス盤を脇に抱えて、あなたがたの家のドアのベルを鳴らすかもしれない。チェスを一緒にやらないかと誘い、虎の頭が彫刻された槍兵のコマを使ってくれと頼み込むにちがいない。槍兵は、相手をうかがうような螺旋の不規則な動きをしてチェス盤を離れ、しまいには建物の外まで出ていってしまうことがある。私たちに馴染みのあるビロードに爪を喰い込ませながら、怪物たちは戻ってきて、玄関の鏡に彫琢を施したり、地下爆撃機のデッキで愛すべき女性が六人の肥満男性との暗く秘めやかな狂宴に誇らしげに参加している様子を描いていく。爆撃機は、粘土と石穴の奥深くに沈んだかと思うと、巨大なハタネズミの鼻のような黒い機首を、国民大通りのカフェ・スラヴィアのまえの石畳のところで浮かび上がらせていた。それは、ちょうど、コーヒーカップをまえにして、カフェに坐っている若い詩人が、内なるアジアの輝ける都市の支配者たちにまつわる詩を未完のままに留めようと最終的な決心をしたときのことでもあった。詩人は、タイプライターで詩を書くことに飽き飽きしてしまったのだ。タイプライターはきちんと紙に印字する代わりに、ジョイントの部分が曲がったり、伸びたりして、先端部分の有毒の棘が顔に切れ込みを入れてしまう。そのため、百二十行もの六歩格の詩行をタイプしようものなら、ひと月前、女性たちが賞賛し、愛撫してくれた詩人の頭はボールのように膨れあがってしまうからで、すこしずつ透明になりつつあるものの、ぱんと張った肌の下では緑がかった炎症の膿が溜まっていた。それならば、なぜ、ほかのタイプライターを探そうとしないのか? というのも、ほかのタイプライターはすべて消失してしまっているからだ。タイプライターの一部は、バッタの大群によって、コーカサスへ運ばれてしまった(バッタたちは協力しあうと、馬でさえも何キロも離れた場所に運べることは、証明済みだ)。また一部のタイプライターは、さまざまな町で広がりを見せている新種の倒錯の一種として使用されている。ほかのタイプライターは、美しい動物天使の彫像を照らす白い光そのものに変容していた。

これまた、怪物とチェスの話から、怪物の爪で描かれた場面の話へと移り、タイプライターの話へと横滑りしていきます。そのいちいちが、シュールなイメージに満ちていて、チェス盤から逃げ出すコマ、地下爆撃機、タイプライターの棘と、ついていくのがやっとという感じ。それだけでひとつの物語を語れそうなアイディアが、惜しげもなく繰り出されていく。
でも、これらはあくまで細部であって、物語の展開にはさほど関係がありません。『牛と馬の助産術』同様、本筋には関わらない細部にすぎない。這い回るピアノも、寝室の水田も、地下爆撃機も、タイプライターを運ぶバッタも、このあとは登場しないんですよ。引用個所だけじゃありません。全編に渡って「その情報いる?」というような描写がてんこ盛り。いや、ひょっとしたら暗号のように何か裏の意味が込められているのかもしれない。でも、それは「もうひとつの街」の住人にならないと読み取れない類いのものでしょう。
ニュース映画の場面や怪物が爪で描いた絵について、執拗に描写しているというのも特徴的です。最初の章でも、主人公が古本屋で手にした本の挿絵がたっぷり描写されていました。その他にも、この作品には絵や彫刻、映画や本といったものが頻出します。主人公が書物から「もうひとつの街」へ誘われたように、向こう側へと連れていってくれるものとして芸術や創作物が扱われている。
入れ子の語りや脱線する細部は、読者の居場所を見失わせる役割を果たします。ただでさえ迷路のようなプラハの街が、「もうひとつの街」の不思議なルートによってさらに迷宮化していく。そして、さまよう主人公の足取りを追っている僕らも、小説の迷路に迷い込んでしまう。これが、脳みそがついていけなくなる原因なんですが、そこに旨味があるとも言えます。だって、「もうひとつの街」にそんなに簡単にたどり着けるわけはないんですから。
主人公はこのあとも次々と不思議な体験をします。スキーのリフトに乗って中庭や建物の隙間や家具の裏を通り抜けるとか、シーツの上の雪原でヘリに追いかけられるとか、よくまあこんなことを思いつくなあというものばかり。中でも僕が気に入ったのは、駅の地下にある廊下に、同じサイズの何枚もの油絵が等間隔で飾られているという場面。

何十枚もの絵があったが、寸法はどれも同じで、描かれているものもすべて同じように思えた。絵はどれも、沿岸の邸宅の内装を同じ角度で描いたものだった。(中略)額縁の下の中央には、細い銅の帯がつけられていた。一枚目の絵には1という数字が刻まれ、その先の絵は数字がひとつずつ増えていた。驚嘆しながら、私は同じ絵が飾られた画廊を歩いていった。だが、丁寧にひとつずつ絵を見ていくと、細部がすこしずつ異なっていることに気づいた。カーテンの折り目、波の形、沿岸にいる人々の姿勢。それから絵にはすべて、目覚まし時計の秒針が描かれていた。時計はテーブルの上に置かれ、まえの絵よりもそれぞれ六十分の一だけ先に進んでいた。画廊全体がある種の映画となっていて、一秒のあいだに部屋のなかで起きた出来事を描いていた。(中略)入口に戻ると、一枚目の絵の目覚まし時計はちょうど十二時を指していた。私は自転車に乗り、絵の列に沿って走りはじめた。

面白いなあ。油絵によるパラパラマンガ。自転車に乗って見るゾートロープ。わざわざ自転車に乗るというのがいいですね。このあと、主人公はさらに歩を進め、図書館の奥にあるジャングルへと分け入っていきます。またしても図書館! 絵が、書物が、「もうひとつの街」へ誘う。それは、どこか遠いところにいくのではなく、「今・ここ」にいながらにしてすぐそばの別の世界に入り込むということです。
一見難しそうに思えるけど、道に迷うことを恐れなければ大丈夫。結論を求め理路を追う、といった読者はすぐに道を失ってしまいます。でも、あたりの風景を眺め、それにびっくりしたりうっとりしたりしているうちに、この迷路が親しいものに思えてくる。探すのではなく迷うことです。さすらい、さまよい、まよいこむ。そのための最初の一歩は、主人公の「私」がそうしたように本を開くこと。では、いってらっしゃいませ。