Hatena::ブログ(Diary)

甲子大黒天本山のブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017-03-29 自分の世界を壊してこそ

 私達はそれぞれに様々な「幅」というものを持って生活しています。たとえば身体でいえばどこまで走られるのか、頭脳でいえばどこまで憶えられるのか、精神でいえばどこまで我慢できるのか、どこまで許せるのかなどです。さらに外界に目を向ければ交友関係や仕事の範囲など、すべてにおいて自分なりの「幅」というものを意識することができるのではないかと思います。この「幅」を無意識に設定しては、その一線を越えないようにして生活しています。


 この普段は意識していない「幅」を意識することで、広げていくことができます。いつもならあきらめてしまうところで、もう少しだけ頑張ってみる。いつもならキレてしまうところで、もう少しだけ相手の話を聞いてみる。普段ならしないようなことに取り組んでみたり、いつもなら理解できないような価値観に耳を傾けたりと、いつもとは違う思考や行動を選択することも大切です。そうすることで、無意識に自分を縛っている鎖を取り外すことができるかもしれません。


 私達は「私はこういう人間である」という勝手な台本を作りだしては、その通りに演じようとしているのかもしれません。さらには台本通りに生きることに安心感を持つようになり、アドリブを恐れるようになっているのかもしれません。ですが、自分が作りだした限定的な世界を「井の中」とまではいいませんが、外の世界に飛び出すことで自分の世界を広げることができます。今まで知らなかった豊かさや喜びがあり、新しい感動や発見があるかもしれません。無理に自分を変える必要はありませんが、縛られる必要もないと思うのです。



応援クイックお願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/buddhist/20170329

2017-03-27 新しい活力

 国会の喚問を見ていると、あの問題の真相を究明することが政治の使命なのか、日本を豊にすることにつながるのだろうかという素朴な疑問を抱きました。もっと解決しなければならない社会問題がたくさんあるなか、1日3億円の運営費をかけ国会で与野党がおそらく真剣に議論している姿には失望してしまいます。ワイドショーにネタを提供することも、お茶の間を楽しませるのも、政治の役割ではありません。


 政治においては無駄を排除しなければなりませんが、個人においては無駄を排除していくと無機質な生活になってしまいます。たとえば骨董品収集が楽しみな人がいます。家族から見ればガラクタを集める無駄な行為に思えますが、本人にとっては宝であり喜びなのです。遺品となれば二束三文で売りに出されますが、だからといって無駄になるからと最初から禁止することは、本人の喜びを奪う行為であり、生活が破綻しない程度に認めてあげることも優しさというものです。


 人間はお金を稼ぐために生きている訳ではなく、使うために生きていると表現することができます。もちろんお金に縛られて生きるということではなく、自分なりの楽しみのために生きています。その楽しみに優劣はないと思っています。自分らしく楽しめることがあればいいのです。野暮なことは考えず純粋に楽しむという行為も人間には必要だと思うのです。楽しむことから新しい活力が生まれ豊かな人生が作られていきます。効率や意義をあえて排除することで得られるものもあるのかもしれませんね。




応援クイックお願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村 

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/buddhist/20170327

2017-03-24 求められる変化

 地元の温泉街を見て、変わるべき時には変わらなければならないと感じました。社会は激しく変化を続けています。また、自分も周囲も年々歳をとり変わっていきます。仏教には諸行無常という教えがありますが、万物はすべて変化するものであり、その変化を素直に受け入れていくこと、さらには変化のなかにあっても変わらない真理を求めていくことが大切だといわれています。変化を恐れず、変化から逃げず、変化を受けとめていかなければなりません。


 人間には変わるべき時、成長すべき時期や転機というものが、それぞれに巡ってくるものです。その向き合う姿勢によって、その後の人生が大きく変わっていくものです。チャンスともいえる転機を迎えたときに、その変化を拒否してしまうと、だんだんと現状に無理がかかり苦しくなってしまいます。転機とは現状への救いであると同時に通告でもあり、変化を求められている、変化しなければならない時期でもあります。


 変化を無視すると、時代に取り残されたり、周囲が失望しあきらめられることにもなります。今のままの現状維持が楽なのですが、時代も周囲もさらなる変化や成長を求めます。自分の現状と求められる変化とのギャップが大きくなるほど苦しくなります。そんなことなら、あきらめられたほうが楽だと思うかもしれませんが、それはそれで苦しいものです。周囲からのプレッシャーに負け無理に変化することも負担になります。水は高いところから低いところへと自然に流れていきます。私達も無理なく自然と流れに身を委ねていかなければなりません。翻弄されるのではなく、順応していかなければならないのです。




応援クイックお願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/buddhist/20170324

2017-03-22 理不尽な理由

 仏教では生きることには苦しみが伴うと教えていますが、理不尽なこともあるものです。理不尽なことがあったときには、冷静になり理性で解決しようとするかもしれません。激しく波打つ感情を抑えることが解決策だと思うかもしれません。ですが、理不尽なことに客観的な事実や原因はなく、理性で理解できるものではありません。社会は明確な根拠や理屈では動いていないところが多分にあります。


 生きていくためにはグレーな部分や、さらには醜い部分も見なければなりません。さらに、そういったものが存在している以上は認めなければなりませんし、場合によっては同居しなければならないかもしれません。これは社会に対してばかりではなく、自分のなかにあるそういう部分も無視することはできないのです。人間は完璧な善人もいなければ悪人もおらず、誰しも偏りはあれど清濁合わせ持つ存在なのです。


 自分のなかの醜い部分を認められないと社会や相手のそういった部分を認めることができません。「同じなのだ」という感覚が大切だと思っています。同じように悩んでいるのだ、同じように弱い存在なのだ、同じように怒りに翻弄されているのだ、同じように理不尽なのだ、このように自分も相手も同じような存在でありお互い様なのだと思えれば救われます。自分のことを棚に上げてという表現がありますが、自分のことは知らないふりで、相手の欠点や失敗ばかりを見ていると、上手に付き合うことはできず、いつもイライラしては自分も相手も苦しむことになってしまいます。




応援クイックお願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/buddhist/20170322

2017-03-20 全体の幸福

 マレーシアでは殺人罪が確定すると死刑なのだそうです。日本では考えられないことですが、世界には様々な思想や刑法があるようです。刑を厳しくすれば抑止力となり犯罪件数を減少させられるかもしれません。フィリピンでも麻薬撲滅のため超法規的処置を断行しています。これによって治安は向上しており国民からの支持も高いようです。中東にはいまだに鞭打ち刑があるそうですし、公開処刑がおこなわれている国もあるそうです。何事にもそれぞれの現状や事情を考慮しなければなりませんから、安易に賛否の判断はできませんが考えなければならないと思います。


 日本の立場は性善説ですから、刑法も更生を根底においています。ですから、無理矢理押さえつけるのではなく、罪を犯さなくても生活できる人格や環境を目指します。義務教育も確立され治安も良い日本だからこそなのかもしれませんが。刑罰を厳しくすると最初は効果がありますが、それに慣れてしまうと効果が薄れ、さらに厳しくしなければならなくなります。また、厳しくすれば、いじめ問題もそうですが、見つからなければ良いと巧妙化・陰湿化することもあります。


 何事も押しつけるのではなく、考えさせることが大切だと思います。罪を犯して幸せになれる人はいません。自分も相手も、お互いが関わる人もすべての人を不幸にするのが犯罪です。世界中の人がこのことを理解しているのに戦争も犯罪も、この世界からなくならないのは悲しいことです。ですが、平和とは無理強いすべきものでもありません。自分の幸福を願うためには、すべての人が幸福にならなければならないという意識を共有できることが前提だと思っています。世界や社会が幸福でなければ、そこで暮らす人間が幸福になることはできないのです。




応援クイックお願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

メグライアンメグライアン 2017/03/20 10:27 おはようございます。お彼岸ですね。
毎月お墓参りをしている我が家では
特別にお彼岸だから・・・ということはないので今日はあえて混雑するのではずしました。
身につくというのは凄いことだと感じています。
結婚当初、毎月お墓参りに行く習慣が不思議でした。お彼岸にお墓参りをすることくらいは知っていましたが、特別に信仰心があるとか教えがあるとかではないです。ただ当たり前に月に一度はお墓に参る。そのために家族が予定を合わせる。朝のほんの1時間〜2時間の事です。予定が早朝から深夜に及ぶものでない限りたいてい月に一度くいらいは何とか時間は作れるものです。しかし正直若い頃は苦痛でした。特に子供が小さい頃は・・・「都合がつきませんとは言えない自分がいました。なんででしょうかわかりません。しかしそれを数十年続けると不思議ですね、一月抜けようものなが何か忘れ物しているような落ち着かない気持ちになります。決して押し付けられたりしたわけではありません。本当に予定があれば断れるのです。一回抜けることも可能なのです。しかし、自分の我儘で嘘をついて行かなくすることはやはり出来ない。行かない理由を探すぐらいなら朝少しいつもより早起きして2時間都合をつける事は出来るのです。出来ないのではなく、したくないのです。そういうことも教えてもらえました。
「水面に馬を連れて行くことは出来ても水を飲ませることは出来ない。」教育とは良い方へ導く事であり水を飲みなさい。と押し付けることではないのだと思います。しかし「良いこと」が人それぞれだと言ってしまえばそれまでですけどね。
少し話題がそれてしまいましたね。失礼致しました。。

buddhistbuddhist 2017/03/21 15:29 何事も習慣だと思います。そして良き習慣は人生の宝だと思います。どのような習慣を身につけるかは、それぞれの価値観だと思います。悪しき習慣は簡単に身につきますが人を堕落させます。良き習慣は身につくまでは大変ですが、身についてさえしまえば人生を豊にしてくれます。おっしゃるように、その判断は自分でしなければならず、周囲は見守ることしかできません。誰かの責任にはせず、自分の責任として選択していかなければなりません。良き選択と善き習慣を得たいものです。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/buddhist/20170320