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甲子大黒天本山のブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-09-30 信念とは何か

 ずいぶん昔ですが、ある神主さんが「神道とは伝えられてきた儀礼や文化を後世に伝えていくことを使命としている。」と言っておられました。他の宗教はどれもその根底に人々の幸福と世界の平和を説くのに対して、教えを説かず伝承のみを使命にしているという発言に失望したことを憶えています。神道の場合には開祖はなく、また教義というものもなく、現代日本において仏教以上の速度で衰退しているのは必然かと思いました。


 それから15年ほどして一冊の本に出会いました。その本には神道は理論的に整備されていないが、教えを通すことなく天へと至る道に直通するものであり、理屈を越えているものであるとありました。そして清らかな心、明るい心、真っ直ぐな心という清・明・直の三徳を備えれば、いつでも神々とつながることができると説いてありました。それは密教にもつながる考えであり、表面的なものに囚われていたことを反省させられました。


 いつまでも同じ考えでいることを信念を貫くという場合と成長がないという場合とがあり、混同されやすいので注意が必要です。自分のワガママを信念と勘違いしてまわりに迷惑をかけているのに、本人はまったく気づいていないということもあります。また、自分の間違いに気づいたら謝罪して修正すればいいのに、間違いを認めることができずに突き進む人もいます。信念とは何かと自問自答しなければなりません。せっかく学んでも、それを自分の人生や態度に活かせないのでは意味がありませんね。




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2016-09-28 不信不満の対処法

 何かを為そうとすれば、その想いに比例して困難が訪れるものです。天はその想いが本物なのかを見極めるため試すのです。天による試験は能力や才能ではなく、どれだけ強い想いを抱いているかの試験なのです。ですから、あきらめなければ合格することができるのです。何事もあきらめずに継続することが最低条件であり、効率よく楽ができる方法などありません。


 困難には2種類あると思っています。ひとつは自ら望んで挑戦する困難です。目標達成のため積極的に向き合っていく態度です。もうひとつは嫌々逃げ回っているときに追ってくる困難です。苦労したくないからと困難から逃げ安楽な道を求めようとする態度です。前者は積極的に困難と向き合うため、克服しては大きな成長を得ることができます。その姿勢を天が認めてくれるのです。困難と向き合うならば、困難は本人を苦しめずにやさしく導いてくれるのです。まわりからは大変に見えても本人は苦を苦と思っておらず楽しんでいるということもあります。


 後者はなんとか困難から逃げようとするため、ただ苦しい状態が続くばかりです。その状態から生まれてくるのは不満や後悔ばかりで、成長や意義といったものはありません。前者と後者の困難は同一のものであり、違うのは困難に対する態度なのです。部活の監督も上手下手以前に一生懸命にやっているか嫌々やっているかを見て待遇を考えます。自らの態度によって天も自分も相手もすべてが変わるのです。嫌々やっていても良いことなどひとつもありません。自分が変われば日頃の不信や不満を吹き飛ばすことができます。日頃の心構えと、そこから作り出される態度はとても大切なのです。




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2016-09-26 亀が見ていたもの

 人は誰しも幸福を願い、また希望を抱いて生きているものです。ところが、そういった自分の想いというものは簡単に実現できるものではありません。思い立ったが吉日といいますが、すぐ行動することが大事な場合と、じっくりと自分の想いを練り込むことが大切なこともあると思っています。思うようにはなかなか動けないとしても、焦ることもあきらめる必要もありません。まだ、機が熟していないということなのです。


 想いを達成するためには様々な条件があり、無理に進まず条件が整うのを待たなければならないこともあります。たとえば子供の成長が条件ならば、待つという選択肢しかありません。すぐに行動実現できないとしたら、自分の想いを高めながら転機を待っていればいいのです。私は10年ほど不満に思っていたことがありましたが、1人で動くこともできずに悶々としていましたが、あるときチャンスが訪れ条件が整ったら、わずか半年ほどで達成することができました。


 世の中には自分の思うことをすぐに実現する人もいますが、自分の想いを大切に焦らずじっくりと挑んでいくことが大切だと思っています。社会の流れは急激になっており、その流れに乗ろうとする考えもありますが、濁流に飛び込み頑張っても多くは飲み込まれてしまいます。昔話でうさぎは亀を見ながら走っていた。でも亀はゴールを見ながら走っていたから勝ったのだと聞いたことがあります。まわりと比較しながら一喜一憂するよりも、自分なりのゴールに向けて想いを高め転機を待ち、じっくりと歩んでいきたいものです。




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2016-09-23 奥底にある衝動

 私はたまに静かに駄々をこねることがあります。理由は様々ですが、思うようにならずヘソを曲げてしまうのです。これは周囲への甘えだと分かっていながら、言葉では語らず不満げな態度をふりまいてしまいます。このモードに入ってしまうと駄々っ子のようなもので、周囲を困らせ嫌な思いをさせていると思います。自分でも小さい人間だと自嘲的になるのですが、素直になれずそこから抜け出せなくなってしまいます。


 このモードでいるとすべてを否定しすべてを周囲の責任にして、自分は被害者であると勝手に考えます。そして被害者である自分はどんどん気持ちの下り坂を転げ落ち、もうどうなってもかまわないと思うようになります。周囲が悔い改め謝罪しない限り、自分も周囲も不幸になってしまえばいいと投げやりな気持ちに埋没してしまいます。周囲に責任があるわけではなく、自分が勝手にイライラしているのですが、自分でもどうしようもなくなってしまうのです。


 私の場合は長くても数日に脱出できるのですが、もしこのような気持ちを何ヶ月と持ち続けたらどうなってしまうのかと考えます。心の奥底には不満と結託した破壊衝動があり、現在の生活を破壊することを望んでいる自分がいるのかもしれません。そんな自分が支配的になると、とんでもない事件を引き起こしてしまうのかもしれません。世の中には「あの人が、どうしてあんなことを」というようなことがありますが、誰の心にもそんな思いが渦巻いているのかもしれませんから、気をつけたいものです。




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通りすがり通りすがり 2016/09/23 16:50 私もそんなところがあります。男は永遠の子供かもしれませんね。

buddhistbuddhist 2016/09/23 21:06 通りすがりさん、コメントありがとうございます。男性は特に幼稚なところがあるかもしれませんね。それが魅力となるか欠点となるかはそれぞれだと思いますが、夢見る少年的な要素は残し、母親に甘えるような駄々っ子は反省したいと思います。

メグライアンメグライアン 2016/09/24 09:58 おはようございます。
いつもありがとうございます。

男性は永遠の子供であれたら魅力的ですね。そんな魅力をもった男性のそばには、優しく見守る母のような女性がいるから。っていうのが私の中では男女の理想像かな?って思います。なかなか現実はそうはいきませんが(笑)
本題とはそれているコメント失礼致しました。

buddhistbuddhist 2016/09/25 07:37 メグライアンさん、コメントありがとうございます。良き子供と良き母の関係は理想ですね。私の友人にも旦那を大きな子供と考えている人がいます。そう考えたほうがイライラしないと言っていましたが、そういう意味ではなくお互いの魅力を発揮できる関係になれればと思います。

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2016-09-21 人生に何を求めていますか

 当山のご本尊は大黒様です。大黒様は福の神であり、いつも和やかに笑っておられます。大黒様は七福神にも属しておられますが、仏教、神道、道教で構成され出身も違いますが、皆様仲良く笑い福を呼び込んでおられます。キリスト教やイスラム教では神々の同居は考えられないことですが、日本では神道、仏教、儒教、道教などが融合し日本文化を創り出しています。こだわらずに一緒にしてしまう文化こそ、これからの世界に必要な価値観ではないかと思っています。


 大黒様の笑顔は人生を楽しみなさいという教えでもあります。では、どのように人生を楽しむかが重要になります。享楽と呼ばれるような快楽的・刹那的な喜びではなく、陰徳や清貧ということが昔から推奨されてきました。陰徳とは人知れず社会に尽くすこと、今でいえばボランティアなどです。清貧とはことさらに求めずあるがままを楽しむことです。陰徳や清貧を実践できれば心おだやかに生活でき、徳を積み人望を得て尊敬されるようになります。


 ところが、なかなか陰徳や清貧を実践できないものです。それは楽しいと思えないからなのです。楽しいと思えればいくらでも続けられますが、そう思えなければ三日坊主になってしまいます。何を楽しむのかは各人の選択するところですが、年齢に応じて自らの楽しみも転換していかなければなりません。価値観を変えなければ求めるものは変わりません。これからの人生に何を求めていくのか、何を楽しみとしていくのか、どのように生きていくのか、「なんとなく」ではなく自分と向き合いながらしっかりと考えていきたいものです。




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ねこ8ねこ8 2016/09/21 21:41 たびたびすみません。私はボランティア的なことをしています。一つは、休日、そして平日も時間があれば、家から徒歩6分ほどの駅までの道と駅の周囲のゴミを拾うことです。駅を出たところに、ジュースなどの自動販売機があり、そこで帰宅するまでにほっと一息つきたいのか、結構タバコを吸ったり、アルコール類を飲んだり、缶コーヒーを飲んだりする人がいるようです。ほっと一息というのはわかるのですが、吸い殻入れがない時は、地面に吸い殻が散乱。吸い殻入れがあるとそこにタバコの空箱や灰皿代わりにした空き缶を突っ込む。コンビニで買った氷の入ったジュースが飲みきれず、中身が入ったまま自販機横の回収ボックスの入り口に突っ込んである…という有様です。きれいになるのはうれしいし、汚いのは気になるので、片づけていますが、正直、モラルの低い人が結構いるよな〜自分さえ良ければいい人が結構いるんだよな〜という思いは、時に強くなります。だから、「楽しむ」ことはできていません。一度ひどく汚れている写真を撮って貼りだして、もう少し配慮してくれと頼もうかと思ったりしています。私の価値観は、どう変えるべきなのでしょうか。純粋に、「きれいになるのがうれしい」とは思えず、「誰かが掃除してくれるだろう」と、人任せの人が増えてくるのは恐ろしいことだという思いは消えません…。
もう一つの活動は、野良ネコの餌やり、手術、時に保護です。近くの道は山に近いので、猫を捨てに来る人がいて、猫の数が減りません。つい10日前も生後3週間ぐらいの子猫を保護しました。見かけない模様の子であまり汚れていないので、誰かが捨てに来た可能性もあります。しかし、もう我が家には、保護した猫が9匹で、これ以上増やすと、こちらの体力も経済的な面もしんどくなってきました。できる時にできることをするしかないとは思うものの、車にひかれ亡くなった猫を、市の回収車に頼むとき、がりがりにやせていたり、疥癬にかかっているのを見たりします生きているときもつらかったろうなあ、と思うと、餌やりを全くしないわけにはいきません。捕獲して手術して数が増えないよう、他の人の苦情が大きくならないようしていますが、それも結構な支出で、捕獲機を持っていても、1時間ぐらい粘ったり、数日粘らないとダメなことも多いです。楽しいですか?と言われたら、楽しくはないが、何かしないとこの子たちのことが心配だから、という気持ちしかありません。「猫に餌やりをしないように」と貼り紙をする人はいても、その場所に散乱する吸い殻や空き缶、タバコの空き箱には何の苦情も言わないって変じゃないか?…つくづく世の中は勝手なものだなあと、私の人間嫌いは深まるばかりなのです。

buddhistbuddhist 2016/09/22 08:41 ねこ8さん、コメントありがとうございます。私も近くのフリースクールの生徒さんと清掃活動をしたり、1人で温泉街の掃除をしています。ひどいときには公園にコタツを持ち込んで宴会をして、コタツもゴミもそのままで帰る人もいました。モラルの低さにイライラすることもありますが、なるべく相手のことは考えないようにしています。考えはじめると自分が辛くなり続かなくなるからです。私は善意でやっているつもりでも、ゴミ捨てる相手への憎しみや無関心な周囲への苛立ちに苦しめられることもあります。現在は修行だと思ってやっています。掃除をしてその場所も自分の心も清らかにしたいと思ってやっていますが、なかなか難しい修行だと実感させられています。いつかは楽しんで続けられるようなりたいと思っています。

ねこ8ねこ8 2016/09/22 20:11 お返事ありがとうございます。こたつとは!結局ものが多く、安い値段で買えるので、そのまま捨てていくのでしょうか。時々100円ショップに入ってめまいがすることがあります。第三世界で暮らしたことがあるのですが、戦前の日本のように、釘一本でも、大事に使っていました。日本もかつてそうだったのに、今では…。100円で安いから、どんどん買い、断捨離とか言って、まだまだ使える物を捨てたり、道端に不法投棄するとかよく見ます。掃除も本当に「修業」ですね。淡々とすることの大切さを思いました。でも、時々、こうして誰かが掃除をするから、「誰かがやってくれる」という無関心を助長しているのでは?と思われることはありませんか? 家の近くの掃除でもそうですが、会社でもそうです。掃除なんて、ボーナスに影響するわけじゃなし、無関心な人も結構います。でも、そんな考えは、数世代後には、どういう結果として現れるのでしょう。
今日は、猫の餌やりで、犬を連れた老人から文句を言われました(餌やりの現場は見られませんでしたが)。そこで、その代わりに、毎晩ごみを拾っていること、疥癬の野良猫に薬をあげたり、捕まえて手術し、数が増えないようにしていることなどを言いかけたのですが、「常識がない」の繰り返し。で、聞いていると、「あそこの野良猫はばい菌を持っているので、長生きすると困る。しかし、タバコの吸い殻、空き缶、ペットボトルは、ばい菌がないので、落ちていても問題ない」そうです。「フンは土に戻ったりいつか風化しますが、缶やペットボトルは、拾う人がいないと、いつまでもそのままですよ?」「屁理屈を言うな!関係ない!常識がないことを言うな!」「結局、餌もなくて、できるだけ早く死んでくれれば、それでいいといいことですか?」と聞くと、「そうだ!餌やりなど余計なことをするな」と言われました。正直、70代ぐらいの老人がこういうドライな考えをするとはとびっくりしました。餌やり反対はわからないでもないのですが、それは実は突き詰めれば、嫌なもの、汚いものは早く死んでいなくなってくれという考えではないでしょうか? 私にはそれがとても恐ろしい考えに思えるのですが、そうじゃない人も結構いるのだと認識を新たにしました。缶やたばこを道に捨てるのも十分常識がないのですが、それに怒る人はなくて、野良ネコに餌をやっているものには怒る(薬や捕獲・手術をしていようが関係ない)。矛盾していると思うし、「常識がない」を繰り返すだけで、それ以上考えようとしない人達だと思っています。自分と考えが違う他人がいるから、摩擦が起き、それは、考えるきっかけとなるので修業なのでしょうが、毎日なんだかなあと思っています。

buddhistbuddhist 2016/09/23 10:48 ねこ8さん、コメントありがとうございます。物があふれ物を粗末にして心が荒んでいる現代日本です。豊かさを求めて頑張って、行き着いたのがこの状態では悲しいものがあります。私はゴミが落ちていると、良心の呵責なくゴミを捨てていく人が増えていくと思います。きれいなところにゴミを捨てられる人はまだまだ少ないと思います。少しでもきれいにしておければゴミを捨てる人も少なくなると思っています。動物に対する考えも様々だと思いますが、人の命、動物の命、植物の命すべて平等だと思います。これをきれい事と考える人は傲慢な人で自分の命も大切にできない人です。意見の衝突があったときには、まず自分を省みて問題がなければ相手に巻き込まれないように注意します。どんなことでも100人全員が賛成してくれることはありませんね。

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