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甲子大黒天本山のブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-08-29 運よりもご縁

 古来より宿命論なるものがあります。いわば各人の人生は事前に決められており、私達はその通りに生きているという考えです。生きていれば様々な悩みや迷いもあり、それらを克服しながら自分なりに懸命に生きているつもりでも、それがすでに決められているとしたら虚しくなってしまいます。ですが、状況によって自らの責任を問われるよりも、そうなることが定められていたと考えるほうが楽だと思うことがあるのかもしれません。それでも、やはり自分の人生はいかなるものであれ、他の誰でもなく自分で決め、自分で生きていきたいと思っています。


 人間とはご縁によって導かれる存在だと思っています。ご縁には良縁・悪縁というものは存在せず、赤子のように無色透明なご縁を、どのように育てていくかだと思っています。そのために求められるのが、ご縁を活かす人間力です。私達がご縁を育てて、そのご縁によって導かれるという関係です。どちらにも完全なる主導権があるわけではなく、人間の意志や欲が勝るときもあれば、ご縁の導きが勝るときもあります。


 良縁を育てている人の特徴は傲慢にならず自分を信じていること、ご縁に感謝し報いようとすること、簡単にあきらめることなく継続しようとすることなどありますが、人としての魅力が良きご縁を育み幸福へと導いてくれるのです。運といえば他力的な響きがあるため、私はご縁を大事に考えています。舟は風向きを考え上手に帆を張れば順調に進むことができます。人生もご縁を上手につかむことで順調に歩んでいくことができるのではないでしょうか。




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ねこ8ねこ8 2016/08/30 02:24 教の記事は耳の痛いものでした。私は小学校〜高校時代のいじめから、人間を基本的には信用していないところがあります。だから、会社でいい加減なことをしている人といるとき、反抗も注意もしませんが、心の中ではどこか軽蔑しています(でも、仕事のことで質問されれば、知っていることは全部答えますが)。もちろん、その人なりのいいところも見えるのですが、それは遊びに出かける時とかだなあと感じるので、やはり、仕事では信頼できないと感じています。逆に、会社では私より細かい人たちもいます。皆の机の横にある、未決のボックスに、処理すべき書類を(お互い)入れるのですが、昼休みに入れると、休み時間に入れるな!と腹を立てたり、朝礼で声が小さいと早速全員にメールを送り、朝礼の声掛けは強制ではないので、大きな声が出ないときは他の人に代わってもらえ、と言ってきたりします。なるほど、と思うところはあるものの、正直面倒です。…そういう人達をじっと見ていて、やはりいろんな場面で、うまくいかないなと思うことが多く、最善は、かかわりを減らすことだと思っています。私はそもそも、ご縁をうまく築くことができません。…理由を考えると、小さい頃のいじめで、人間不信が根底にあり、一皮むけば人は敵(直接攻撃してくる敵、傍観者という敵)になる存在だとしか思えないのです。よいご縁を築ける人は、謙虚で、感謝を知っている人なのでしょう。私には、それがありません。いえ、自然とかに感謝はあります。だから、週末には近所のゴミ拾いをしています。でも、人に対しては感謝の念が薄すぎるのです。攻撃されるといつも心の底ではおびえているからでしょうか。どうしたものでしょうか…。

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2016-08-26 心を導く

 この世界に確実なものなどありません。すべては不確定なものであり、そのため明日のことさえどうなるか分からないような環境で生活しているのが私達なのです。そんな環境にあってどのような態度で生きていくかも考えなければなりません。仏教では人間は不確かなものを確かなものと錯覚して「いつまでも」と執着していると嘆いています。命、健康、愛情、栄華、不幸、憎悪、悲哀など良くも悪くもいつまでも続くと思い込んでは、粗末にしたり苦しんだりしています。


 しかし現実は何事も過ぎてみれば一瞬のことです。あとになって考えてみれば「どうして、あれほど」と思うようなことばかりです。不確かなものに翻弄されることなく、たしかな道を歩んでいかなければなりません。たしかな道とは心おだやかな心境です。人間関係でいえばお互いに相手を大切だと思い何気ない静かな日常に感謝できる人があり、お金を使い享楽を得なければ満足できない人もあり、お互い感情の大きな波に翻弄され愛憎を繰り返す人もあります。


 こういったことは本から学べることではなく、自らの経験から修正していくべきことです。世の中にはこりない人々も多く、同じことを何度も繰り返している人もいますが、学び自分を変えていくことができない人は幸せにはなれません。感情が大きく蛇行しないよう、おだやかな境地を獲得していかなければなりません。若いときには難しい境地ですが、誰でも年齢と共に獲得できるというものでもありません。やはり日々の心がけが大切です。こんな自分はもう嫌だと思ったら、自らの心が落ち着くよう導いていきたいものです。




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2016-08-24 自分解放戦線

 子供に対して「あ〜でもない、こう〜でもない」とダラダラ言わず、やるべきことをしっかりやりなさいと叱ることがあります。ところが、私も同じようなものでダラダラになってしまうことがあります。子供への言葉は親の痛々しい反省とそこから生まれる期待であり、けして自分ができていることを伝えているわけではありません。そうであってもなお威厳を保ちながら、自分ができないことを棚に上げて叱るのは心苦しいものです。


 子供でも大人でも様々な計算をしてしまうため迅速に動くことができません。損なのか得なのか、まわりはどのように動くのか、自分の気持ちとどのように折り合いをつけるのか、こんなことを考えていては率先して動くことなどできません。ことに面倒くさいけど、しないわけにはいかないことをするためには、重い腰をあげるための時間や覚悟が必要になります。そのためダラダラしては、自分で自分をつまらない環境に放り込んでしまいます。


 子供に何かあれば親は考える前に体が動きます。それは子供は計算の対象にはなっていないからです。いわば「計らい」がないのです。だからこそ率先して動けますし、損得を考えない姿勢はまわりに感動を与えてもくれます。もし計らうことなく生活することができれば、私達は自分に囚われることなくもっと素晴らしい活動ができるのかもしれません。余計なことを考えるからこそ、自分を制限してしまうのです。まったく考えないとはいきませんが、もっとシンプルに生きることができれば素晴らしいと思います。




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2016-08-22 学校の崩壊

 学校の夏休みも終わりホッとしている親御さんも多いのではないかと思います。小学生の宿題などは子供ではなく親に向けて出されているのではないかと思われるかもしれません。宿題を嫌がる子供との我慢比べです。泣こうが騒ごうが逃げようが負けることなく宿題を終わらせなければなりません。自分でしたほうが簡単な宿題を見守りながらやらせるのは大変なことです。ですが、これも親の務めであり、人間的に成長させてもくれます。


 夏休みの自由研究セットも多く販売されていますし、楽をしようと思えば楽ができる環境にあります。また、面倒だからと子供が宿題をやっていないのを知りながら、素知らぬふりをして登校させる親もいます。宿題をしないということが一般化してしまうと、先生も怒ることができなくなり、宿題を出せなくなってしまいます。さらには自分が宿題をしないまま大人になれば、自分の子供に宿題をさせようとは思いません。恐ろしい連鎖が続いてくことになります。


 海外における格差の根本は教育にあると思います。たとえ貧しくとも親がしっかりしていれば、子供には向上心が生まれ奨学金を受けてでも学ぼうとします。しかし、貧しさに負けた家庭で育った子供はスラム街から抜けることができません。あと数世代を経れば日本もアメリカと同じようになるかもしれません。小学校に通うということさえ、あたりまえではなくなるかもしれません。少しずつ義務教育が形作られ、今度はそれが崩壊していくという無常観がただよっています。何事も知らないということは恐ろしいことです。



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2016-08-19 忘れてませんか緊張感

 最近、緊張感がなくなったと実感しています。修行時代は滝壺や絶壁にあり死という緊張感がありました。帰ってからは慣れないことに挑戦していくという緊張感がありました。ところが、今はそういった緊張感を持つ機会が少なくなりました。それは経験を積んだということでもありますが、自分が停滞してきているのではないかと心配にもなります。


 緊張感が持てないのは新しいことに挑戦していないからであり、また日々の生活を疎かにしているからなのかもしれません。一日を大切にしようと思っているならば緊張感が伴うはずなのです。人間というものは知らず知らず蛇行し停滞していくものです。その症状は緊張感を失っていくことからはじまります。そのように思うならば気をつけなければなりません。


 緊張で夜眠れないとかお腹が痛くなるといった緊張はいりませんが、緊張感を持って何事にも取り組んでいきたいと思います。経験を積めば緊張感がなくてもできるかもしれませんが、そこから得られるものや成長は少ないと思うのです。緊張感があるからこそ謙虚に頑張ることができ、初心を抱き続けることができます。緊張感のある生活を心がけたいものです。




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ねこ8ねこ8 2016/08/19 21:35 おっしゃる通りですね。私は、緊張感も薄れてきましたが、周囲のもの、未知のものに対する好奇心が失われてしまいました。どうしてだかわかりません。。。これが一番こたえています。

buddhistbuddhist 2016/08/20 07:40 ねこ8さん、コメントありがとうございます。緊張感や好奇心が年齢と共に衰えていくのは自然な流れなのかもしれませんね。それをいかにいく止めるかが課題です。体は運動や食生活で健康を保てますが、精神は日々の心がけで保てるのではないかと思います。精神的にも健康でありたいと思います。

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