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甲子大黒天本山のブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-09-26 eスポーツを考える

 eスポーツ(エレクトロニック・スポーツ)が注目されているようです。 これはチームで対戦するゲームの試合なのですが、海外ではスポーツとして認知されている国もあります。オリンピック種目になることも期待されているようです。オリンピックを控える日本でも注目されるようになってきました。専門学校も登場し、国内においても賞金つきの大会もあるようです。ですが、私はゲームをスポーツとして認めることには抵抗があります。


 子供が部活で遅くまで一生懸命に練習していれば頑張っていると認められますが、ゲームの大会に出場するからと頑張っていても素直に求めることはできません。こういう感想に対して必ず「今の時代は」と反論されますが、必ずしも時代の流れが正しいということはなく、世界中の歴史が過ちを犯しながら現在に至っています。時代の流れというものは必ずしも善人が志を持って作るわけではありません。特に流行というものは企業の打算によって作られます。


 どのような世界にもプロは存在し、裾野が広いほどレベルは高まります。しかし、ゲームをスポーツとして認知し裾野を広げることに意義を見出せません。これまでのように好きな人がその人なりに楽しめばいいと思ってしまいます。昭和の時代には漫画は子供が読むものという意識がありましたが、今では世界に誇る日本文化になっています。はたしてeスポーツはこの先どうなっていくのか。時代の流れが激しいなかで翻弄されずに生活することの難しさを感じます。



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2018-09-24 正しい自己評価

 私達は自分という存在を正しく評価するということがなかなかできません。自分を卑下して低い評価をしたり、傲慢になり必要以上に高い評価をしたりします。また、自分の評価を他人に任せる人も多いようです。自分がどう思うかよりも、他人にどう思われるかを基準しています。自分で自分を評価する人は良くも悪くも現状に満足する割合が高いのに対して、他人の評価に頼る人は頑張るほどに高まっていく評価のハードルに苦しんでいるように感じることが多々あります。


 自然災害では電気や水道が途切れると自分ではどうしようもなくなります。普段はあたりまえのように使っていても、自前ではなく一方的に与えられているものです。精神世界においても誰かに依存していると、自分の思い通りにはいかないものです。日本人は欧米と比べると周囲の目を意識することで、自らを律する傾向があります。人の目や世間というものが日本においては大きな抑止力になります。ですが、自分への評価を周囲に依存するようになれば、自分という人間が分からなくなります。


 自分が何を求めているかではなく、周囲が自分に求めているものを基準に生きていると、本当は自分が何をしたいのか何を求めているのか分からなくなります。親の言うとおりに勉強して一流大学を卒業して一流企業に就職して、目標を達成して親元を離れた途端に、これからどのように生きていくのか分からなくなり苦悩する人もいます。人生の主役は自分であり周囲に助言は求めても、人生おける責任は自分にあります。その重責から逃れようとするのではなく、楽しもうとすることが大切だと思うのです。



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2018-09-21 私らしい生死

 日本は死というものをタブー視します。たとえば部屋やバスの番号も「4」を控えます。終活という言葉も登場しましたが、家族と死について語らう機会はまだまだ少ないと思います。死について連想するような話は縁起が悪いと言われますが、死が嫌われる理由は誰もが死に対する恐怖を持っているからなのでしょう。誰しも避けることができないからこそ、ひとたび意識するようになると、離れられなくなる恐怖があります。


 ですが人間は死をゴールに生きているようなものです。誰もが死を恐れながらも、幸福な死を求めており、しかもその幸福なる死とは漠然としたイメージでしかありません。死をタブー視しながらも、幸福な死を求めるというのも矛盾があります。いわば目隠しをしてゴールを目指しているようなものです。若いうちは定年退職をひとつのゴールと考えますが、では退職したらどこをゴールと考えればいいのでしょうか。やはりどこかのタイミングで自分の死と向き合わなければなりません。


 仏教では生きることと死ぬことを別々に考えることはありません。生死でセットなのです。その人らしい生き方があり、その人らしい死に方があります。もちろん、死は選べないものですが、死に対する姿勢には「らしさ」があります。避けることができないからこそ、どのように向き合うかが問われます。先人は様々な生死の姿を見せてくれていますが、私も自分らしさを求めて生きたいものです。

 

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2018-09-19 心の表現

 人間はいかに頑張っても自分の心を相手に見せることはできません。それなのに人は誰しも心で生きています。人間関係とはお互いに見せることのできない心と心の交流です。見せられない自分の心をいかに伝えるのか。見ることのできない相手の心をいかに感じるのか。私達にできることは普段の言葉や行動にいかに心を込めるかということです。友人に「大丈夫?」と声をかけるときに同じ言葉であっても、本当に相手のことを心配しているのか、それとも社交辞令なのか。どちらにせよ伝わるものはあるはずです。


 言葉や行動にはその人の心や人間性が表現されます。言葉や行動は表面的なものであり、私達は言葉や行動の根底にある心で交流しています。心の交流の要は信頼関係です。信頼関係の有無によって同じ言葉や行動でも受け取り方が大きく違います。この信頼関係は最初からあるものではなく、お互いに時間をかけながら築いていくものです。どのような時間を過ごしていくかで信頼関係が深まることもあれば、疎遠になることもあります。


 仮面夫婦という言葉がありますが、ただ一緒にいれば信頼関係が深まるというわけではありません。お互いを想う会話が必要ですし、2人で困難も含めて様々な経験を共有することも必要だと思います。すべての関係において、どのような時間を過ごしたのか内容が問われます。人間関係には相性というものもありますが、焦らずじっくりと関係を深めていきたいと思います。見せることのできない心をどのように表現していくのか。日々の生活は舞台であり、私達は心の表現者であることを忘れないようにしたいものです。



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2018-09-17 頼まれたらどうするか

 たとえば会社の先輩が熱を出して風邪薬を買ってきてほしいと頼まれたとします。業務ではありませんから断ることもできます。断るのも面倒だと嫌々買いに行くこともできます。気を利かせてポカリや冷えピタも一緒に買ってくることもできます。早く治ってほしいと走って買ってくる人もいるかもしれません。薬を買いに行くことは子供でもできますが、誰でもできることをどのようにおこなうかが問われます。


 特に会社での人間関係は相手の予想や期待を超えることが、信頼関係を築くことにつながると思います。相手の立場に立つならば、調子が悪いとすれば、気を利かせてくれたり、自分のために走ってきてくれれば嬉しいものです。そういったことの積み重ねが信頼関係につながると思うのです。頼まれたことを嫌々やっているうちは誰も認めてはくれません。自分が望んでいること以上のことをしてもらうからこそ感動が生まれるのです。


 もちろん形だけでは意味がありません。相手のことをまったく心配していないのに、心配しているように振る舞っても、最初のうちは騙されるかもしれませんが、数回のうちには口だけの人間だとかえって信用されなくなります。何事においても心が伴わなければ相手に感動を与えることはできません。大人になれば自分の能力ギリギリの役割などほとんどありません。それよりも誰でもできることを、どのような想いでどのような態度でおこなうかが大切なのではないでしょうか。



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