マンガの最先端はマンガ誌であるべきなのか。


KINO Vol.7 | 21世紀のマンガ コミック雑誌の消滅する日
http://kinobook.jp/07/index.html



なかなか刺激的な特集タイトルだなととるか、何を今さら……ととるか。どちらにしても、この先数年のマンガ界が将来を左右する曲がり角に来ていることに、疑いはないだろう。
部数の落ち込みは、いまや誰にとっても周知。月ジャン、ヤンサン、ボンボン、gao!などの休刊にそれを見るもよし、雑協の部数データでおさらいするも良し(印刷証明のない雑誌は名目部数の1/3〜1/5で遠からず)。


なぜ、部数が下げ止まる気配がないのか。
まず、少子化にともなうパイの縮小、ゲームのインタラクティブ性やネット上のユーザー参加型コンテンツとの競合といった理由をおさえておく。
そこに、

  • 読者の高齢化、子供の読者離れ
  • ストーリー軽視、キャラクター重視
  • 疎かな新人育成

などの内部事情を見ているのが「日はまた昇るのか!? 日本マンガ再生の道は何処に!!」で対談する竹熊健太郎中野晴行

中野 
「読者の高齢化とも関係してくるのですが、私は入り口のところで子供を入れてこなかったのがコミック雑誌の衰退にいちばん影響しているように思います」
「「ジャンプ」がうまくいっているのは小学生の読者をつかんでいるからだし、「サンデー」が苦戦するのは「コロコロ」の読者を持って来れてないこと」
「小学生はいまさら「ジャンプ」とケンカしても勝てそうにないし、それならうちは中学生でやると。「ジャンプ」を卒業した連中を何とかとりこもうというのが「少年ライバル」なんです」
「やはりある年齢になれば購読をやめるじゃないですか。で、オタクを意識してみたらしいんです。オタク向けというのは単行本がある程度売れるんですね。でも、そうするとますます少年読者は離れていく。さらに、大きな問題として長期連載という問題がある」

竹熊
「やはり、ストーリーよりもキャラクターにマンガの重心が移っていったのが大きいんじゃないですか。キャラクターならいろいろなビジネス展開もしやすいし」

中野
「結局、単行本を売ろうとすることによってキャラを重視するようになる。それがストーリーのダイナミズムを失わせ、結果として雑誌が売れなくなる。雑誌が売れなくなるからますます単行本を重視する。悪い循環にはまっている」

竹熊
「それが80年代後半になってきて、エロ本もだんだん厳しくなってきて、代わりにコミケが新人の受け皿として台頭する。コミケでも人材は出てくるんだけど、コミケの問題というのはそこで自己完結しちゃうこと」

中野
「私がいちばん「これは産業だな」と思ったのが「ジャンプ」の部数が突然落ちたときに、印刷会社のラインが一台余ったときです。それまで大手三社でだいたい棲み分けていたんです。ところがラインが一台余っちゃった会社が機械を遊ばせておくわけにいかず、営業をかけたものだからバランスがとれなくなった。ですから、今は棲み分けは崩れてしまった。これが産業です」

「自己完結しちゃう」コミケに対して、商業誌への意欲が比較的高い作家を多く集めるコミティアは、大手から中小まで毎回二桁の数の“出張編集部”がブースを出すようになった。作家が自ら持ち込んでくるのを待つより、先に出向いて青田刈りしてしまえという姿勢は、作家と編集部のどちらの目論見にも今のところ合致しているようなので歓迎しているが、それだけ切羽詰っているという捉え方もできる。
中野の言う、「「ジャンプ」の部数が突然落ちたとき」というのは、おそらく、1996年に588万部あった部数が1997年に405万部へ急落したときのことだろう(参考)。96年にスラムダンクダイの大冒険が、歴代最高部数を記録した前年(1995年)にはドラゴンボールが終わっていた。




ライター兼編集者の大谷隆之は「21世紀のマンガ研究/王道の次に来るもの それでも21世紀マンガは面白い」という論考の中で、

  • 嗜好の細分化
  • ネットの発達による個人ニーズの把握の容易さ

に触れる。

「グルメ志向を強めた読者は、自分の好みにあった1〜2タイトルを楽しむために、他の10数タイトルに付き合いきれなくなってきている」
「かつては発売される雑誌に満遍なく目を通していたコアなマンガ読みたちも、今ではブログなどを通じて「いま面白いマンガ」を簡単にキャッチできる。玉石混合のコミック雑誌に貴重な時間とコストを投資しなくても、十分目利きでいられる」

その上で、ざっくり要約すると「雑誌部数の落ち込みは不可避だが、表現水準は高まっている」という主張を広げる。

「「21世紀のマンガ」においては、舞台となる世界のディティールをきっちり丁寧に描いてこそ、初めてストーリー展開の面白さが読者に届く。言い換えれば、いわゆる王道的マンガのハードルが、はじめからきわめて高く設定されている」
「たしかにエンターテインメント産業において、市場規模と表現水準とがある程度の相関関係にあることは否定できない。新しい才能を排出し、表現として停滞しないためには、資金が回っていることが必要だからだ。だがそれは、けっして正比例を描いているわけではない。市場規模=表現水準というのはあまりにも短絡的な思い込みだろう」
「だがそれは、不特定多数のニーズに応える作業から解放された作家たちが、より作品性の高いテーマに腰を据えて取り組み、適正な数の読者がそれをしっかり支えるシステムへの過渡期と捉えることもできる」

市場が縮小する一方で質は確かに向上している、という見方は、頷けないこともない。が、部数低迷はこのままで良いのか、どうやって手を打つべきなのか、という課題についての正面からの解答は回避しているように見える。




サンデーで高橋や細野を見出した小学館クリエイティブ代表の三宅克(みやけ・しのぶ、「うる星」のあの人)が「21世紀のマンガ研究/脱出できるか!? マンガ雑誌を襲う負のスパイラル」の中で上げているのは、

  • 雑誌掲載より単行本収録を優先した作品づくり
  • デジタルメディアと比較したライブ感の相対的喪失

の大きく2つ。

「〈マンガの衰退はマンガ雑誌の衰退に起因している〉〈雑誌がメディアとしての力を失ったために、マンガの衰退が始まった〉とするこの調査(←※10年ほど前に調査会社を使って市場調査をしたとのこと)の結論を信じるなら、〈マンガの衰退に歯止めをかけるには、雑誌の復活が重要だ〉ということになる。ところで、マンガ雑誌はなぜ読まれなくなったのだろう?」
「それは、〈マンガ家がマンガ雑誌を売るために作品を描かなくなった〉という、きわめてシンプルな真実ではないだろうか」
「マンガの質が高くなってしまっていて、読者の評価を得るには、雑誌のことよりも作品の全体構想を優先しなくてはいけない。一話一話に拘泥していたのでは作品全体を通した高い品質は維持できない」
「雑誌の制約から解かれ、単行本という自由空間を与えられたマンガ家は、自身のリズムと体温とで誰にも気兼ねすることなく描けるようになったのだ」
「しかし、出来が良いせいでマンガはおだてられ過ぎたかもしれない。「世界に誇る文化だ」などと国にまで褒められると、とても不自由だ」
「表現のコードが厳しくなる」
「かつてマンガ雑誌はライブ感にあふれていた。新連載はニュースだった。しかし。もはやデジタルの持つライブ感にはかなわない。雑誌は一方通行なメディアになってしまった(と編集者は思い込んでいる)。その分よけいに、〈質で勝負するしかないのだという自縛〉に、陥ってしまったのだ」

そして、雑誌が落ち込めば単行本も落ち込む、マンガそのものが読まれなくなっていく、と危機感をつのらせる。

「マンガの創作者たちには、マンガ雑誌しかない。小説のように書き下ろすにはマンガはあまりにもお金がかかる。何十万部も売れる人気作家にしか書き下ろしはできない。単行本があるさ、とはいかない。マンガ家はマンガ雑誌がなくては作品が作れない。マンガ家そのものが育たない。出版社も、雑誌を失えば単行本も失う。単行本だけが残るということはない」
「もちろん、世の中からマンガが消え去ってしまうことはない。浄瑠璃も歌舞伎も講談も、手紙もラジオも映画も、みんな残った。当然、マンガも残るだろう。要はどんな残り方をするかだ」

マンガ雑誌がなければマンガという市場そのものが痩せ細っていく、という、ある種、雑誌原理主義的な見方。伝統芸能やワンオブセムとして残れれば良しとするのか、あくまでメジャーにこだわっていかないとマンガではなくなってしまうか。では、どうしていくべきなのか。三宅は「送り手都合な事情を内部に抱え込んだまま売れなくなっているのだから、「策」はまだあるはず」「やむなくそうなってしまっていることの逆を、関係者のすべてが歯を食いしばって実践すれば、雑誌は再生されマンガが復活するのではないか」と続ける。「送り手都合」や「歯を食いしばって実践」すべきこととは、雷句誠のサンデー編集部原稿紛失訴訟たけくまメモのエージェント制導入案などの形でタイムリーに表面化し始めている。が、それがひとつの解なのか、混乱を助長しかねないのか、好むと好まざると手をつけざるをえないのか、答えを出しにくい。




KINO編集長と京都精華大学教授を兼ね、ヤンサンやスペリオールの編集長を歴任した熊田正史は「21世紀のマンガ研究 ついにやってきたコミック雑誌が消滅する日」の中で、市場規模の縮小が時間の問題である理由付けのため、

  • 映画→テレビのように距離感の近いメディアへの不可避的交代

という寿命論に着目する。

「このマンガ産業の市場規模は海外も含めて約10数兆円。ゲーム、グッズ等の商品化権、アニメ、テレビ、映画等のライセンス収入、こういったところが主なものである。こうした二次利用、三次利用の数字が積み重なって世界規模での10数兆円という市場が出来上がる」
「しかし、この核となるマンガの市場規模は意外に小さい。コミック雑誌が約2300億円(2006年度)、コミックスが2500億円(2006年度)、両者を合わせても約5000億円と市場全体の十数分の一でしかない」
コミック雑誌とコミックスの売り上げは長らくコミック雑誌がコミックスを上回っていた。だが2005年度にそれが逆転し、以降コミック雑誌は落ちる一方になってしまった」
コミック雑誌の採算部数は大手出版社では少年誌で100万部、青年誌で50万部と言われている。この採算部数の高さが、ここにきて出版各社の経営を圧迫していることも確かだろう。原価率で見ると100パーセントを超えるコミック雑誌が増えてきているのだ。某大手出版社のマニア向けコミック雑誌に至っては約400パーセント。つまり2000円をかけて作ったコミック誌を500円で売っているのだ」
コミック雑誌が売れなくなる。人気コンテンツが減少する。コミックスが売れなくなるというドミノ倒しの始まりである。マンガ産業の核であるコミック市場から人気コンテンツが供給されなくなれば、10数兆円というこの産業の崩壊も時間の問題になってくるだろう」
「正解はメディアの交代ということだろう。産業でもメディアでも永遠に栄えるということはありえない」
「そう、映画産業からテレビへの交代である。かつてどんな地方の町にもあった映画館は、テレビの普及と共に姿を消して行き、今や映画館のある町は稀でしかない」

その上で、この本の第2の特集である、携帯電話配信コミックの世界へ話をつなげていく。

「メディアの交代は常によりユーザーへの距離感の近いハードへと移行する」
「では今、このマンガを載せるコミック雑誌というハードに対して、ユーザーにより近い距離感を持つハードが登場しているのだろうか。実は登場しているのだ。それは携帯コミックである」
「現在は100億円規模(2006年度)でしかないが、その成長のスピードには目を見張るものがある。2006年度の市場規模は2005年度のそれと比較すると約3倍」
「いつでも、どこでも読みたい時に読める携帯というハードが圧倒的にユーザーに近い距離感を持っている」

部数の低落がコンテンツの供給減少を招くことを防ぐためにも、携帯電話へメディアを移し、マンガ市場を再生していくことができるのではないか、と期待を寄せる。

メディアの移行については、最初に紹介した竹熊×中野も、「ケータイとか、ネットコンテンツとか、いろいろ出てきてもマンガのノウハウは必ず生かせると。逆に紙媒体のコミック雑誌固執しすぎると、これからの未来のマンガを見誤っちゃう危険性がある」(竹熊)、「新しい表現を獲得することによって、マンガの市場はさらに拡大していくと思います」(中野)と述べており、おおむね“期待派”と呼べるようだ。




心情的に同意するのは三宅の「身を削ってでもマンガ誌の復権が不可欠」と叫ぶ姿勢だ。
「衰退しつつあってもマンガの質は高まっている」と叫ぶ大谷の声は、評論家然として切実さが足りないように聞こえる。
「ケータイマンガからメディアとしての力を再生しよう」という熊田は……、なんだか信用がおけない。



マンガ誌の衰退は目に見えて始まっている。あと2、3年のうちに、発行点数が今の半分に減ったって、きっと、「まぁ、しょうがないよね……」と迎え入れてしまえそうだ。
別に今だって、毎週、毎月発行されるマンガ誌のすべてをチェックできてはいない。半分以上が少女・女性向けだとすれば、その時点で、読破率は50%を切っている。立ち読みで済ませている分を含めたって、その中から少年・青年・成年誌をどれだけ読めているか。そう考えれば、発行点数の減少は、さほど嘆くこともないのかもしれない。嘆きたいのは別のことだ。


真剣に嘆きたいのは、マンガ誌がマンガの最先端でなくなってしまうかもしれないことだ。ネットにライブ感の最上位を明け渡したとはいえ、毎週、毎月発行されるマンガ誌を逐一チェックしておけば(早売りも十二分に活用しながら)、商業のはやりすたり、これから何がきそうか、ある程度を掴めた。
それがネットに移ってしまうなんて、しかもあんなちっこいケータイの画面の中に押し込められてしまうかもしれないなんて。どうにも、それが我慢できない、らしい。もうぽしゃってしまったが、GUMBOへの期待は、あくまで雑誌メディアを貫いた上で新しい形態を目指そうとしたところに惚れたのかもしれない。だとしたら、自分の懐も案外せまかった。
第2特集のケータイマンガのページを読み進めていると、配信会社の人間たちの前向きな攻めの姿勢に、ため息がもれる。Bbmfのケータイ★まんが王国の谷口裕之社長によれば、主な購読層は「5割以上が女性」「いままでマンガも水商売も知らなかった女性」(水商売系の古いマンガタイトルが人気だという)。従来のマンガ読みとは明らかに異なるシーンがそこにある。雑誌が失おうとしている最先端をケータイマンガに求めようとしても、それが杓だとかいう以前に、お呼び出ない、という可能性もある。もちろん、市場規模の頭打ちを嫌って、従来のマンガ読みを取り込もうと、あの手この手でオリジナル作品の配信にも手を尽くすだろう。実際、谷口社長は「量の拡大から質の向上、高品質なマンガを読んでもらうという方向に少しずつ営業戦略を変えていきつつある」という。「1誌10タイトル入った週刊携帯マンガが2誌」の配信や「うちでも紙媒体を出す」ことも考えているという。マンガ誌が打てる手を全部打つ前に、ケータイマンガのほうが矢継ぎ早の手を打ってくる気配だ。
過去の名作を再利用してほそぼそと利益をあげるしかない今のビジネスモデルにさえ辟易しているところがあるのに、さらに、コマ切れにされて先行配信されたオリジナルのケータイマンガを、またケント紙の上で元のように配置しなおして、それを後で単行本で読まされるなんて……、まっぴらごめんだ。遠吠えと言われようが。





一方で、マンガ家たちは、したたかだ。



「21世紀のマンガ・ロングインタビュー」の中で、Bbmfのケータイ★まんが王国で「ビリー・ザ・キッド21枚のALBUM」を連載するベテラン・六田登は、

「時代を共有できるメディアだった。それを失ったんじゃないかと思うわけ。雑誌界は。いや、紙のメディアは。じゃあ、いま、「今日性」を得ているものは何か。それは携帯電話なんだよ。電話だってことなんだよ。あんなちっこい画面じゃなくて、もっと持ち運びにしてもでっかい画面のものだって出来そうなもんじゃない。でもダメなんだよ。電話じゃなきゃダメなの。電話であるってことがさ、物凄く重要なファクター」
「描き手としては、メディアに携わる人間としては、むしろその水脈をどう結びつけていくかが大きな要素なわけ。そうすると、もう携帯しかない。残念ながら好むと好まざるとに関わらず、これしかないわけ。次のプラットフォームは。ただし、携帯しかないから携帯マンガを描くかというと、それは違う。30年近く紙で描いてきた俺みたいな人ならわかってくれると思うんだけど、オレ、心配なのよ。携帯マンガが。携帯マンガがけったいなことになることが。携帯でコミックを読むというのは、もう今日性という意味では、正解だと思っているけど、心配なの。可逆性。世界を俯瞰できるのかどうか。それからエロばっかりにならないか。豊穣な世界をつむげるのか。雑誌がやってこれた世界を作れるのか。ただただ心配(笑)。気が付いたらさ、携帯コミックといいつつ、ちょこちょこ動いたら、可逆性もクソもなくなっちゃうからさ。その意味で携帯コミックにおける演出家を育ててくれと言っている。そういう職業を育てて欲しいというのを描く条件として、暗中模索の中で始めている」

チャレンジを始めていた。

「しかも形だけは各作品もそこで読めて、雑誌を食いつぶしてさ、出版が作ってきた文化をそこで壊しかねないから」。

出版社と読者が最も懸念するところだ。

「どう変わっていくか。そこは未知数なんだよね。だけど恐ろしい勢いで携帯マンガの配信は進んでいるでしょ。まだまだHコミックで蔓延しているけれど、マンガをむちゃくちゃにされたくないという気持ちで、オレは描いているの、携帯マンガというものを」

そこまでカッコつけられてしまうと、嫌味も通り越す。

「電子メディアはグローバルなものになっていく。するとカンパニー編集者のくくりがなくなっていくんじゃないかなと思っている。その時に組める奴を、探し始めているんだオレは」

エージェントシステムやマンガプロデューサーの活躍の場は、案外、こういったところから芽吹いてくるのかもしれない。かすかな期待。



別のインタビューに応じている高橋ツトム東陽片岡は、携帯マンガと紙のマンガをほとんど区別していない。高橋は「でもこっちはコアだからアウトプットが何かは気にしない。ケータイという形態は気にしてない(笑)」、携帯マンガの依頼を受けた東陽は「隔週でページ2万円。僕にとっては最高ランクの依頼なんで、紙だろうと電波だろうと、関係ないですよ。それとコマ割の構成を考える手間もいらないんでラクですよ」と答えている。
六田、高橋、東陽の3人とも、ペンと紙を使うアナログ派でありながら、こういった見解に共通して行き着いている。読まれ方と金銭対価の面で、紙と携帯との違いに頓着する理由は、小さいのか。



かつて連載していたヤンサンの休刊という、マンガビジネスモデル崩壊の象徴的ケースに遭遇した一色登希彦は、「「漫画や、漫画雑誌のあり方はこうであるべき」という漫画への“夢”や“ビジョン”が感じられません。」と展望の無さを批判しながら、

「次のモデル」は何かなんて知らんよ。
俺の考える筋合いじゃないよ。
俺は漫画を描くだけだよ。
「聴かれる力のあるアーティスト」は、レコードから、ウォークマンから、iPodになっても
聴かれ続けるみたいに、読まれ続ける漫画を目指すだけだよ。
iPodを発明するのはミュージシャンの仕事じゃないでしょ。
その時に効率の良い「読まれ方/対価の発生のしかた」に乗せて読んでもらえるものならば、
「読まれ方」は何だっていいんだ。 
怒ってんだよ俺。

やはり、マンガ誌というモデルに拘泥しないようなスタンスを見せる。
マンガ誌の将来が暗いのはしょうがないが、営利企業として次の手を打ち出せない出版社はさらにどうしようもない。
厳しく言えばそういうことかもしれない。
ということであれば、ケータイマンガに流れる作家が増えて、おかしくはないのかもしれない。
ケータイ★まんが王国の谷口社長は、コンテンツの提供に色よい返事を返さない出版社に業を煮やし、出版社を中抜きする形で、あらゆるツテを使って作家個人へ営業のアプローチをかけまくったと話す。デジタルを恐れる出版社は、放置されて作家とケータイマンガ配信会社で勝手に話を進められる。
ヤフーコミックへの講談社リイド社幻冬舎コミックスのコンテンツ提供は、いっしょにがんばっていきましょう〜という業務提携だけ理由ではないだろう。中抜きをしかけられるくらいなら、コンテンツだけ提供してノウハウはやらないよ、というほうがかしこい。自前の配信事業を軌道にのせられれば、いつでも関係を終えられる。



……。




百歩ゆずって、ケータイ配信会社は、作家とエージェントと演出への先行投資を後、数年は決して疎かにするな。マンガ界は50年かかって、今の質へ高めてきた。たかだか4、5年で、追いつけるか。



KINO〈VOL.07〉21世紀のマンガ―コミック雑誌の消滅する日

KINO〈VOL.07〉21世紀のマンガ―コミック雑誌の消滅する日