群像七月号『イキルキス』

群像七月号に載っていた舞城王太郎の『イキルキス』を読んだ。

久しぶりに舞城王太郎の文章を読んだ。饒舌な主人公の語りと自己言及に付き合いながら、楽しい反面、少し疲れた。今の自分の精神状態によるのだろうが、もう少し突き放して読ませてくれてもいいのではないか、と感じた。

主人公が経験の更新をあえて止めるという選択を選び取ったことに、妙な現実感が残る。語るために語らない、語りたいことがあるために語る。しごくまっとうな正論である。とはいえその逆を地でいく私には耳が痛い。

その他にも色んなエッセンスに溢れていたような気がしたが、今のところ、私には回収不可能のようだった。

いや、しかし語るために語らない、語りたいことがあるから語る、というのが正論か?語るために語るということが、語りたいことがあるために語る、という事の訓練になるんじゃないか。可能性をひろげるというのは、訓練なしでは不可能なのではないか。

とはいえ、最近の「脳を鍛える」とかテレビの教養クイズ番組にはウンザリだし、変に達観した考えの人にもウンザリだ。別に『イキルキス』の主人公はもっと違う経験の更新において考えていたから、上記の暇潰しとはわけが違うのだろうけど。