ラースと、その彼女

『ラースと、その彼女』を観た。
映画館で上映される予告編を観て、観にいくかどうか見当をつけることがある。この映画は観にいかないと見当をつけた映画だった。予告編に写されるリアルドール、それに喚起されるエグさと痛々しさが、気に入らなかった。
そうやって見当つけていたら沢木耕太郎が朝日新聞紙上に連載中の「銀の街」からで取り上げていた。この次に彼が取り上げた『そして、私たちは愛に帰る』も私は観に行かないと見当をつけていた作品だ。ここ一年近く、沢木耕太郎の映画レビューで取り上げられた作品を観てきたが、そういうことは多かった。このおかげで、おそらく観ないであろう映画を観るきっかけにはなっている。その点において、沢木耕太郎が取り上げた作品を観るという去年からのルールは役に立っている。しかしそろそろ、そういうのも止めようと思っている。
 
『ラースと、その彼女』の素晴らしさ、それは私が予告編を観た時感じた、エグさや痛々しさがその内容にも関わらず、無いというところである。リアルドールを恋人だと公言する男を、家族、仲間、街の人々が受け止めることによって、私が予告編によって想像した痛い物語を、あっさりと飛び越えているのである。主人公の住む街は、ショッピングモールがあって、会社があって、教会があって、子どもの頃遊んだ湖があるという、田舎である。この物語では、教会というコミュニティが主人公を受け止めてあげる選択をする。主人公のような存在を排他的に行動するのが教会だと思っていたので私には意外であった。また教会というコミュニティが率先することによって街にラースを受けとめる雰囲気が出来上がる。この教会というコミュニティの描かれ方が、今回は良い意味で気になった。
リアルドールを恋人だと思うことによって現実に対応する主人公。しかし現状が変われば主人公の精神にも変化が現れる。それはリアルドールが必要なくなるということである。その過程こそこの物語の重要なところであると思う。劇中、主人公とその兄が大人になるための通過儀礼について語りあう。この通過儀礼にあたる主人公の変化がとても興味深い*1。そして通過儀礼が終わるその最後まで街の人々は、主人公と恋人であるリアルドールを受け止めてみせる。これには脱帽するしかなかった。

*1:私は主人公が現実と妄想による葛藤を無理やり解消する、リアルドールを八つ裂きにしたり、実際に「使って」みるなど、ひどい妄想をしたが、そうならなくて安心した。