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bunboxの雑記

2011-12-10 大学を選ぶための情報・選ぶ能力

以下の内容を2012.01.05に執筆した。日記の初日に置くのに向いている文章だと思うので、この日付で敢えて載せる。事実・現状に関する主張にはあまり裏づけがないことをお断りしておく。

「進学する大学・学部学科・専攻を、教育内容によって決めよう」とする高校生・高卒生の支援になるような活動をめざしています。そうすると活動の方向は大別して二つになります。

一つは、そのような決定を支援する環境を高等学校が内蔵するように民意を動かしていくことです。とりわけそのような支援活動ができる教員というものが養成されるような制度的改革、および、教員が高等学校に確実に配置されるような制度的改革を(政府に?)求めていくことになります。高校生が大学選びを内容本位でおこなうのが難しいのは、それをアドバイスできる人材が養成されていないということと、そういう人材がいたとしても大学(教員)にしかいないということです。ですから、制度的に養成することと、制度的に高等学校に配置することの両方を求めたいと思います。

もう一つは、高校生がそのような決定をできることを一種の「能力」と捉え、他の「能力」と同様かそれ以上に重視することです。特に、小中高の教育カリキュラム自体を、そのような「能力」の養成に向けて再編成する必要があります。その際決定的に重要になるのが、従来「国語科」とされてきた科目の大幅な削減です。「国語科」は文学作品の教育に切り詰めて、文学専門家以外の言語や思考や分析の専門家を大量に投入した別科目を構想する必要があります。それは複数の科目になっても構いませんし、実際なるでしょう。「言語活動」や「リテラシー」の教育をする権限の多くを国語教員から奪還し、もっと適合的な人材に担当させ、カリキュラム自体を構想する改革が必要になります。高校のカリキュラムの方を改革することなく「小論文」などの入試科目を恣意的に大学側が設定したところで誰も得をしないと思います。

今までの初中等教育は、良くてもせいぜい「大学教育を受けるための準備」であって、大学や専攻分野を調べて検討し選ぶという目的のためのものではありませんでした。そのような選択ができる人になら役に立つこともある、という内容でしかありませんでした。しかも役に立つとしても優先順位を考えたものではないので、その目的のためにすら不充分であることも多かったわけです。たとえば統計学や論理学は高等学校では暇つぶし程度にしか教えられていません。「大学教育を受けるための準備」という目的にすら充分適ってはいないのです。まして大学教育を選ぶために高等学校の教育が有益であることなどさらに期待できないわけです。ですから社会科学のほぼすべてや人文科学の多くについては高校生はほとんどまともな情報をもたないまま選ぶことになっていましたし、海外の(特に英語圏以外の)文化について知る機会も高等学校カリキュラムの中にはほとんどありませんでした。自然科学・英語・日本の歴史や古典にほぼ偏ったこのような高等学校までの教育内容は、半分は「国家」による故意によるものでもあるし、半分は惰性によって結果的にこうなってしまったものです。

高校生に与えられた時間は限られていて能力はさらに限られています。ですから、「大学を選ぶ能力の重視」は結局のところ、それまで重視されてきた能力のいくらかを軽視することをも要請します。いままで高等学校で教えられてきたカリキュラムの何割かが削減されることを、あるいは、重要でない扱いにすることを、求めることになります。そうでないと、高校生の限られた時間と能力でできることの限界を超えてしまうからです。特に、「大学教育を受けるための準備」と称して要求されてきたことの一部は、大学に返還し、高等学校までのカリキュラムからは外して良いと思えます。

高等学校までの学力の多くは、単に理解することを超えて、条件反射的に解答できるようになるまで訓練することの重視に傾いていました。特に英語と数学です。この訓練的な要素を少し削減する必要があるでしょう。大学教育を受けるために必要なら大学でやるようにするべきです。また、大学入試でのランク付けは、有名企業等が採用行動を行うにあたって有用性があるため、大学入試(やその前段階の高校や中学の入試)においても選別機能を果たすかどうかが重視されてきました。そのことは、単に従順な努力の度合いを測るためにのみ存在するような、科目の本質とは縁の薄い内容を入試に頻出させることにもなりました。中学数学の文章題などが良い例です。積極的に削減していくべき内容でしょう。古文や漢文も重視されすぎています。まして古文を学習するための準備としての「学校文法」などは論外です。現代日本語の文法を何をどのようにどのくらい教えるかは難しい問題ですけど、ともかく今中学で教えているような文法教育はやめるべきです。やるなら専門家を結集してきちんと検討された内容を教えるべきですし、もっと実用的な観点から学ぶ内容を決めるべきです。

高等学校までの国語科の内容のうち、読解する課題に関して次のような事が言えると思います。まず「読解力」の養成という問題設定が間違っています。読解力の養成が目標になると、読みづらい文章、お手本にならないような文章をたくさん与えることになります。そんなことはやめて、つまり「読解力」を目標にしないで、読みやすく書かれたお手本になるような文章を読ませるように改善するべきです。読みにくい文章を読解させて、同時に読みやすい文章を書くように要求しているのが今の国語教育です。間違っています。第二に「読解力」が目標になると、文章の内容自体はどうでも良くなります。たとえば書かれている知識や情報自体が生徒のためになるかどうか、優先順位の高い内容かどうか、という視点が後退することになってしまいます。また、生命科学経済学の文章を国語教師が教えることの正当化になってしまいます。国語教師が教えることがいけないというよりは、もっとも教えるのにふさわしい専門家が教えていないということ、初中等教育専門家が配分されていないことの正当化が問題なのです。

「大学を選ぶ能力」という言い方はほんとうはミスリードな言い方でしょう。「能力」というものを個人のどこかに内蔵されたものだと捉える見方が一面的だからです。(たとえば「能力」というのは、それを「能力」と捉えて評価する人間の存在と不可分です。そのような人間があらかじめ当たり前のように存在するわけではありません。)ただいったんはそういう言い方をすることによって、たとえば「大学教育を受ける能力」や「大学に入るための能力」などと対比させて捉えられることが重要だと思えます。そのための方便です。

このようなコンテンツを「初日」に置いたことに意味があるかどうかはわからない。しかし、今後書くものは多少なりとも、この「初日」の内容に関連したものになるだろうと予感できるから、このようにしてみたのだ。