大飯原発差止判決
大飯原発の運転を差し止めた一昨日の福井地裁判決は画期的なものだ。米国の最高裁判所は、議会で成立する『多数の正義』をしばしば憲法上の判断で簡単に覆すことで知られるが、日本の裁判所は「そこは政治で決めてください」と安易に『統治行為論』で逃げてしまうことが多い。ところが、今回の判決は、いつもの『統治行為論』に逃げ込まずに、生命を守り生活を維持するという人格権は、原子力を使って電気を生産するという経済的自由権よりも憲法上、上位の基本的人権であるという法理で、大胆に司法判断を示した。日本にも骨のある裁判官がいるものだ、と正直、感心した。日本は三権分立と言いながら、司法の影が一番薄い。司法がこういう正論を吐くことで、日本の統治機構がより洗練されていくのではないか。控訴審の行方を注目したい。判決要旨全文は以下のサイトで読めます。www.news-pj.net/diary/1001
加藤コミッショナーの心
プロ野球の統一球を今季から飛びやすい仕様に変更しながら公表してこなかった問題で加藤コミッショナーのリーダーとしての資質が問われている。
この問題は色々な角度から見ることができるが、ここでは加藤コミッショナーの心のありようについて考えてみたい。
まず、6月12日に行われた最初の記者会見だ。
このときの加藤コミッショナーは明らかに怒っているように見える。元々、加藤コミッショナーは穏やかな人柄で知られるが、目が怒り狂っている。
その目は、「なんで俺がこんな目に遭わなければいけないんだ。◯◯の不始末を俺に押し付けて。自分の尻は自分で拭け」と言っているように見える。
◯◯が誰かというのは、今のところ不明だが、野球関係者や報道関係者などの事情通には明らかなようだ。
「昨日まで自分は知らなかった」とか「不祥事だとは思っていない」という発言もさることながら、記者会見での怒りに満ちた目や事務局長に対するぞんざいな態度が世間の猛反発を招いたように思える。「どういう事情があるかは分からないが、あの人は、人の上に立つ人ではない」というのが世間一般の印象であろう。
ことの成り行きを苦々しいと思いながらも、◯◯に遠慮して黙っていたら、いつの間にか自分が悪者にされてしまったという状況に対する怒りは分かるが、この時点では心のマネジメントが全くできていない。残念である。
次に、昨日行われた12球団への説明会である。
すでに「辞めろコール」がかなり盛り上がっていたので、さすがにまずいと思ったのであろう。少し、神妙な態度になっている。しかし、相変わらず、目には怒りが宿っている。
第三者機関を設定して真相を究明することになったが、「本当に悪いのは◯◯だ」ということを第三者の力を借りて明らかにするぞ、という宣戦布告を宣言したように思える。昨日まで、◯◯に遠慮してきた結果、自分が悪者にされてしまったので、外圧を利用して形勢を逆転しようという戦略であろう。
次いで、「ガバナンスの責任を取って辞任するのか」と報道陣に聞かれた時に、「それを決めるのは自分ではない」と答えていたが、これは自分にガバナンスがないと言っていると同じことであり、現在のコミッショナー制度にはガバナンスがないという真相を明らかにしようという戦略なのか、あるいは、まだ、心の整理ができていないためなのか、定かではない。
正解は、「うやむやにならないように、第三者機関を設置して真相を明らかにしたうえで、ガバナンスを立て直すのがコミッショナーとしての責任である」という言い方ではなかっただろうか。
実は、加藤コミッショナーは僕の外務省の先輩であり、最も頭の良い3傑の内の1人である。(後の2人は、小和田元国連大使と岡崎和彦元タイ大使。)条約課長もされた方で、非常に論理的で緻密な頭脳の持ち主だ。田中眞紀子が外相だった時に、本来、次官候補だったが、彼女に潰されては困ると、駐米大使に緊急避難させた外務省の宝である。
ある程度出来上がった枠組みの中で、優れた頭脳を駆使して局面を打開するのは得意だが、自分の心のあり方が枠組みそのものを変えてしまう政治的状況で局面を打開するのはあまり慣れていないのかも知れない。何しろ頭のいい人なので、すぐに、このダイナミズムにも気づくだろう。次の動きを注目したい。
中国における反日デモ
ご無沙汰していて、申し訳ない。
ここしばらく色々と失望することが多く、すっかり書く気を失っていたが、いつまで経っても訪れてくれる読者がいるようなので、気を取り直して、徒然なるままに思うことを書いていきたい。
中国で反日デモが高まっている。報道によれば、反日デモの背後には、中国政府や共産党がいるという。日本企業への焼き打ちや略奪行為を容認しているとすれば、「他に打つ手がない」ことを暴露しているようなものだ。反日デモの発端となった尖閣列島問題では、まず、日本が実効支配している、次に、米国が尖閣列島は日米安保条約の対象だと明言している(言い換えれば、尖閣列島に対して武力行使すれば、アメリカが中国に武力行使すると言っている)ことで、勝負はついている。つまり、誰が見ても、日本の勝ちなのである。それなのに、石原都知事の動きに引きずられて、尖閣列島を国有化したものだから、いわば、「add an insult to injury」(傷口に塩を塗る、あるいは、傷つけたうえに侮辱した)結果になって、誇り高き中国政府としては、何らかの対応を取らざるを得ない。本当ならば、海軍を派遣するなど軍事力を行使したいところだが、日中間の武力対立どころか、中国としては最も避けたい米中間の武力対立の恐れがあるので、とてもそんなリスクは取れない。仕方なく、反日デモを容認することで「不快感」を示しているのだろう。
もう一つは、たまりにたまった格差に対する国民の不満のガス抜きを狙っているという側面もあるのだろう。グローバリゼーションが生み出す格差問題は世界中で起きているが、一人当たり国民所得がかなりの水準まで達している先進国よりも、一人当たり国民所得がまだまだ低い新興国の方がずっと深刻である。日本の高度経済成長期には、累進所得税に加えて、東京で稼いだお金を地方にばら撒く「55年体制」がうまく機能して、一億総中流社会が実現した。しかも、企業トップの収入もそれほど高くなかったし、一部の政治家を除いて、権力側の腐敗もそれほどではなかった。しかし、現在の中国では、一部の企業トップは日本人の感覚からしても信じられないほどの高収入を得ているうえに、政治家や官僚の腐敗は目に余るものがあると伝えられる。簿熙来の失脚事件の取り扱いが難しいのは、下手をすれば格差に対する国民の不満が権力側に対して向けられる恐れがあるからだ。内憂による不満のはけ口を外患に求めるのは政治の常套手段だが、インターネットの発達した時代に、どこまで政府がデモを「反日デモ」に留めておくことができるか分からない。現に、デモの参加者の多くが毛沢東の肖像を掲げているという。
つまり、反日デモは、尖閣列島問題で打つ手がない中国政府があえて不作為で選んでいる危険な賭けである。このまま放置すれば、害は日本よりもむしろ中国に及ぶ恐れがある。中国政府には一刻も早く冷静さを取り戻してもらいたいものだ。
コメの先物取引再開
米国債の格下げで世界的な株安の連鎖に歯止めがかからない。ドルとユーロから逃避したマネーは円とスイスフランに向かっており、円とスイスフランがじりじりと上がっている。折しも、昨日、コメの先物取引が72年ぶりに再開された。そもそも、先物取引は江戸時代に大阪の堂島で始まったものだ。長年、コメの価格が統制下に置かれていたため、市場の動きから取り残されていた。とうもろこしや大豆などの商品は国際商品で、ほとんどシカゴ市場の後追いである。コメの先物がシカゴ相場と独立した値動きを見せるのか、大いに興味のあるところだ。また、江戸時代の天才相場師、本間宗久によって考案されたという酒田五法が再び有用性を取り戻すのか、興味は尽きない。
民主主義というOS
8月5日付のロンドン・エコノミスト誌のタイトルは、「Turning Japanese」、いわば、「日本化の危機」。債務上限の引き上げをめぐる米国の政争や欧州におけるユーロ危機を評して、米国も欧州も国債の債務不履行リスクを抱えながら、債務削減できない政治的麻痺状態に陥っており、まるで日本になったようだと皮肉っている。グローバル化や少子高齢化という構造変化に対応できない日本の政治の機能不全はいまや世界的常識になっているということか。政治活動をしていた頃から感じていたことだが、政治家を責めるだけでは何の解決にもならない。コンピュータで言えば、政治家というアプリを動かす民主主義というOSに無数のバグが生じている。日本の民主主義を機能不全に陥らせている選挙のあり方や、公衆教育を抜本的に見直す必要がある。