3月だっただろうか、金沢にいったとき、叔母と従妹に誘われて、金沢現代美術館に立ち寄った。旧金沢城のまん前、旧い伝統文物がたくさん集まるどまんなかにその美術館はあって、新鮮に驚いた。ここにこうした施設がなかったころの金沢はどうだっただろうかということも考えた。
 小京都とも呼ばれ伝統の美術や工芸が息づくところ。商売は保守的で、他所から来た人を容易には受け入れない。しきたりにうるさく、だからこそ昔ながらの伝統だけでなく、人付き合いの仕方から何までよく残る良さと、悪さも耳にする。自分の両親もこっちで暮らしていたが、この保守的な風土が嫌いで東京に来たのだと聞いたことがある。

 そのどまんなかに、ジェームスタレル、 エルリッヒレアンドロなどの先端の現代美術が常設されると、いったいコトはどうなるのか?
 この建物から透明な光の円柱が空に延びて、それが東京を通り過ぎてニューヨークやロンドンにつながっているようだね。ボクは叔母に感想を述べた。それだけでなく、周辺に色づく伝統的な風景も、輪島塗や九谷焼も含めて、何の予断なく、なんの事前説明もなく、権威付けもなしに、ストレートにすばらしい芸術として目に飛び込んでくるような気がする、と話した。
 それは現代アートが、人の意識というか、社会の定説などを等閑視することのできる存在であり、この国やこの社会で生きるための様々な文脈、常識、しきたりもろもろを通り抜けることができるからなのだと思う。そこに同居していることで、何かを考えないわけにはいかないような、そんな存在。ある意味暴力的なのかもしれないが、そのような存在は、必要なのだと思う。
 同様にこのほかの様々なことも、定まった解釈や見方に囚われずに俯瞰できる視点が求められているのだと思う。