古い絵葉書  剣禅一致

  






昨日、老僧の古い知人が珍しい資料を持ってこられた。



ネットで取引されている古い絵葉書のなかに山寺の境内を撮影したものがあるというのである。



この山寺は昭和の火災で庫裏、方丈が焼失しているので、かっての面影は無いが、私にとっては珍しい資料で興味く拝見した。








風帆の歩きと魂合気の術 - 誇るべき日本文化、その諸能の原点を知る (MyISBN - デザインエッグ社)

風帆の歩きと魂合気の術 - 誇るべき日本文化、その諸能の原点を知る (MyISBN - デザインエッグ社)




大野朝行「風帆の歩きと魂合気の術   誇るべき日本文化、その諸能の原点を知る 」



密林で買ったオンデマンドブックの古書だが実に面白い内容だった。



先月、読んで刺激を受けた「剣術抄」(1、2巻及び続編)ともつながる内容で機縁を感じる。



剣術抄 2 (SPコミックス)

剣術抄 2 (SPコミックス)




著者によれば昔の日本人は腰の反らない平な腰と重心を踵に置いた立ち方、歩き方をしていたという。



そのようにして歩くと帆が風を受けて船が海面をすべるように歩けることから「風帆の歩き」と名づけられたのである。




宮本武蔵の「五輪書」を手がかりに日本人のなかで共有されていた歩法、呼吸法、姿勢、合気道などへの考察が書かれている。



著者の修練の中心は合気道である。




氏の主宰されている「魂合気」(たまあいき)については主な成果をネットで公開されているという。


一部しか拝見していないが非常に深いものを感じる。




【魂合気】http://tamaaiki.com/




昔からドラマや映画で描かれる剣法家の対決を思い浮かべると





集中、気迫、敵愾心、闘争心、執念…




といったものが表現されているが


上級者になるとそういった境地を越えて



閑寂、ぼんやり、芒洋、放心、脱力…



といった状態になるという。





戦う相手を必死に意識するのではなく、ぼんやりと遠くの風景を見るようにして相手を見ていると相手の心の起こりがよく感知できるのだという。



相手や自分の行為を意識化するのではなく、自分の心を放す(離す)ことによって、却って相手の心を察知し、それによって勝機を得るというのは実に興味深い。






69連勝にして破れた双葉山が「未だ木鶏におよばず」と「荘子」の一節を引用した話は有名である。




この「木鶏」も長い間、超然とした<鶏>を想像していたが、もっと素朴で、穏やかなものかもしれない。




「荘氏」のなかに「一般人は喉で呼吸し真人は踵で呼吸すると」いう一節があって昔から気になっていたのだが、著者のいうように踵に重心を置いて立つと、丹田が落ち着き、呼吸が深くなる気がする。





江戸時代は剣禅一致の境地が追求された時代でもある。



江戸時代初頭の兵法家で上泉伊勢守に新陰流を学び、後にタイ捨流を創始した丸目蔵人という人物があるが、「懸待一如、牡丹花下、眠猫を見るがごとし」という言葉を残している。


相手に飛び掛るのでもなく、相手を待つのでもない、たた牡丹の花の下で眠っている猫が剣術の最高の奥義なのだという。



この部分を読んで思い出したのが日光東照宮にある陽明門の眠り猫である。



陽明門には500あまりの彫刻があるが、なかでも左甚五郎作をされる眠り猫は徳川家康の霊廟である奥宮に通じる入り口に掘られていて特別な意味がもたされていることが想像される。



一般には猫が眠っていることから平和の象徴という解釈がされることが多いが、丸目蔵人の「牡丹と眠れる猫」というのは陽明門の眠り猫とあまりに類似点が多い。もし眠れる猫が剣禅一致を極めた奥義を表わすとしたら面白くはないだろうか。



「おのずから映らば映る、映るとは、月も思わず水も思わず」(上泉伊勢守