恵方 私は虻

    


年中行事である節分祈願祭は無事終了。


節分祈願祭では地元の真言宗のお寺から助法にきていただき、午後はお手伝いに来ていただいたお寺の節分法要に助法に伺う。


1日で2件の法要というのはなかなか骨がおれるが、本格的な護摩を焚かれるので勉強になる。






昨年末から続く年中行事も節分で一区切り。


昨晩は娘を寝かしつけながら爆睡してしまった。


本日は本堂の片付け、古い納め札のお焚き上げをする。


地温も上がり残雪がどんどん溶け始めている。


久しぶりに天気が良いので心地が晴れ晴れとする。






今年の恵方は北北東とのこと。


正月に京都の旅行会社から連絡があり京都市内から北北東にあたる各所にお参りするツアーが企画され、2月3日に当山にも参拝したいと連絡を受けた。


その後、かなりの降雪があった。


都会からの参拝者は軽装の方も多く、地元ならそれなりの心がけでこられるが、雪の残る参道にハイヒールで来られては…と思いいつになく懸命に除雪した。


車の轍の跡から雪が解けるのを見て、少しでも雪を溶かそうと境内を車で走り回っていたら、雪に隠れていた庭石に車をぶつけ、ボディも凹み、心も凹んだ。


さらに節分のバスツアーは募集人数に足らず中止になったとうおまけまでついた。



禅のまなざし

禅のまなざし



密林の古書に注文した青山俊薫「禅のまなざし」(すすき出版)が届く。密林価格1円なり。



先日読んだ「泥があるから、花は咲く」と同じエピソードが収録されていた。




江戸末期、風外本高という方が、大阪の破れ寺に住んでおられた。そこへ川勝太兵衛という富豪が、人生相談にやってきた。太兵衛がいろいろと悩みを訴えている。そこへ一匹の虻が飛びこんできた。立てつけのわるい戸の隙間から飛びこんできた虻は、自分がここから出ようと思う方向の窓に、勢いよくぶっつかり、失神して畳に落ちた。しばらくするとモソモソと起きあがり、また同じ障子にぶつかっては落ちるという愚を、ふたりのまえで繰りかえしはじめた。
 禅師さまは太兵衛の話を聞いておられるのかおられないのか、虻ばかりを見ておられる。たまりかねた太兵衛は、思わず「禅師さまはよっぽど虻がお好きとみえますなあ」というと、禅師さまは、
「やあ、これはすまんことでした。しかしあまりに虻がかわいそうでなあ。この寺は有名な破れ寺で、障子もやぶれていれば、立てつけもガタガタ。どこからでも出てゆくところはあるのに、ここからしか出られぬと思って、そこへ頭をぶっつけてはひっくり返り、ぶっつけてはひっくり返り…。あんなことをしていたら死んでしまううわいな。しかし、かわいそうなのは虻ばかりじゃないの。人間もよう似たことをやっておりますなあ」
 と語られた、虻にことよせての、このおさとしに、太兵衛はハッとし、思わず「ありがとうございました」と畳に頭をすりつけた。
 禅師のさりげない導きにより、虻である自分にきづくもうひとりのわたしの目を開くことのできた太兵衛は、以後、熱心な参禅の弟子となった。
     
   『わたしは虻だった』
    (青山俊薫「禅のまなざし」より)



誰しも似たことをやっているのではないだろうか。ここしかない、これは嫌だと思うと狭い狭い世界に入り込み、そこから抜け出せない。自分も同じ失敗を何度したことか。


自分を相対化できるようになるというのは宗教のひとつの力であるのだろう。もっとも他人が虻であるのは分かっても自分が虻であることにはなかなか気づけないものである。


泥があるから、花は咲く

泥があるから、花は咲く




ブログランキ

ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←いつもご訪問ありがとうございます!
丹後の山寺の住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)





.