butoh-artの日記

2010-10-26

先般行われたJTANフェスティバル2010への評を2本掲載します。

ありがとうございます

表現の新たな可能性への一歩」JTAN FESTIVAL 2010

               加納 星成(ダンス映像研究

 JTANフェスティバルは、<素舞台において、身体のみで舞台に立つこと>を基本とするジャンルにとらわれない様々な舞台表現22団体・個人が結集した大変見ごたえのあるものだった。演劇はもとより、一人芝居・朗読ダンス舞踏映像表現アーチストが限られた舞台設定の中で「舞台芸術本質」を希求する有様はまさに表現の新たな可能性を示すものであった。

 小劇場を中心に活動する団体も数多く参加している。彼らは北海道から関西などからここに集結し、既成の劇場表現の基本に疑問符を投げかけ、開かれた表現模索した。従来の劇的な話法・行為を再検証し、舞台と観客の間に横たわる数多くの問題に立ち向かった。あるものはオリジナル台本により、あるものは一人に身体に託し、あるものはストリートダンスという身体表現で、あるものは孤立した精神の呟きを映像とのコラボ示唆し、あるものは舞台という仕組み自体を再構成し、あるものは即興という形で劇解体を促し、多義的に、この問いに答えようとした。また、ダンス舞踏といったノンバーバルな表現者たちは、こうした言葉で成立する劇的なものに対し、まさに身体が奏でる音楽志向し、実際に生演奏という手法を用い、この「舞台芸術本質」に迫っていった。

 この一歩は、この世界ではほんの小さな一歩であるかしれない。だが、この真摯な一歩は今後の舞台表現には大変貴重な提言であるといえよう。このフェスは最終日にこれまで行われてきた何回かのシンポジウムを総括するとともに、また観客と共に開かれた討議を経て、これからの一歩を期待させる宣言と共に締めくくられたこと記しておこう。

「異種混交の身体表現の追求」JTANフェスティバル2010

                     結城 朱鷺文化論)

 2010年9月27日から10月3日の7日間、JTANによるフェスティバル、JTANフェスティバル2010が、東京神楽坂小劇場ディプラッツで開催された。

 これは、「舞台芸術本質を追求する」ことを目的として2007年に結成されたJTAN(ジャパン・シアター・アーツネットワーク)によるもので、参加団体は公募を含めて22団体。1日に3、4団体の公演が行われ、最終日の10月3日(日)には、公演後、シンポジウムが行われた。参加団体は演劇ダンスパフォーマンスなどさまざま。いずれもエンターテイメントではなく新しい表現を追求しようとする団体や個人だった。

 今回のフェスティバルの特徴は、舞台制作や当日の舞台監督、照明、音響などを基本的に参加者自分たちで行うというものだ。それは、「舞台芸術本質を追求する」ことを、概念理論と演出、舞台表現のみならず、舞台づくりなどすべてを自分たちで体験することで、実践的に行うという意図によるとしている。通常、演出家、振付家と俳優、ダンサー、そしてスタッフは分業化され、お互いの領域を守って舞台をつくる。それは効率的ではあるが、照明や音響ノウハウから舞台制作の詳細までを把握することで、舞台に対する認識を新たにし、舞台表現に役立てつつ、自分芸術表現をより深く追求することができると考えたためだという。小劇団や小さい団体では当然、それらのノウハウを持つものがおり、それを共有して舞台として他と遜色ないものを仕上げるという点では、成功していたといえるだろう。

 では実際に舞台はどうだろう。参加団体が多いため、紙幅の関係もあり、ごく短い評にしたことをお断りする。

 9月27日(月) 「aji」の演劇は短時間に多層的構造を見せ魅力的だったが、どこかに抜ける道がほしい。「さのともみ」は語りがなかなか巧みだが、伴奏二胡が問題。フレットレス楽器は耳がよくないと辛い。浅見入江門馬+(武藤)による女3人のダンス『きょうのからだ』は、入江淳子の動きが際立った。「長堀博士奥村拓」による奥村拓の独り語りは、結婚式スピーチを私的に拡張し、切なく素晴らしい。

 9月28日(火)赤石園子『ハッピーエンド』今井尋也伴奏で、シンプルな独り語りがひきつけた。赤井康弘『その部屋に、ふたり』(イヨネスコ)は、流れる映画台詞に対して男性意図的な囁き声が聞こえないのがストレス意図はわかるのだが。KDANCE THEATER『トラベラーズ』は、坂田洋一による映像もうまく使い、構成はかっちりと、そして浮かび上がる優しさも一つの世界。ただ、それを効果的に生かすには混沌がほしい。

 9月29日(水)「長堀博士上松頼子」は3人のリーディング三島由紀夫『熱帯樹』を語り、なかなか面白いが、ピントが少し甘い印象。「ふぞろいなぱいなぽー」の『さがしもの』は女性7人の群舞で、シンプルモダンダンスだった。「y0suka」『夢人間』(作:下亜友美、演出:森田金魚)は自分レプリカントを作った夫と妻、3人の物語でなかなか聞かせる。高田真琴『innerB』は町田トシユキの音楽とともにシンプルダンスだが、切なげな表情と醸す雰囲気が非常に魅力的だ。

 9月30日(木)「ワタクシー」はビデオ映像男と女の対話で女を4人が演じる。「OM-2」はハムレット映画をバックに女がマイクロカメラ自分と腹の中を映しオフェーリアの衣裳で去ると男女によるパーカッション、女のヴォイスなどで幻惑する。「劇団ING」はダンス・コロスを交えてチェーホフの『かもめ』を演じる。

 10月1日(金)「ワタクシー」は前日同様。クリタマキ『気配、予感』はソロダンス漢字映像という発想は面白い。「とりととら」の『触れて、煮込んで、泳いでる』は、大数みほのシンプルな語りに動きがつき、素朴さが新鮮。「相良ゆみ」の舞踏は、上半身裸の前半、薔薇を持つ後半ともに、緊張感が持続してひきつける、とてもいい舞台だった。

 10月2日(土)実験演劇集団「風蝕異人街」『チェーホフの憂鬱』(演出・構成:こしば きこう、振付演出:三木 美智代)はチェーホフの『三人姉妹』をモチーフにして、女性2組のコントラストがよく、ダンス混じりのアングラテイスト楽しい。「武藤容子」のソロダンス『続・きょうのからだ』はテンションも高く引き込む作品。「Megalo Theatre」はアルファベットの紙を並べシェークスピア台詞とともにパフォーマンスアイデア空間性が魅力。「とりととら」は前日同様。

 10月3日(日)「万城目純(永久個人)」は朗読撮影、そして舞台上で八ミリを現像・上映するという実験舞台の発想がいい。「テラアーツファクトリー」は、作・演出・出演、磯村哲司『隅田川』。杖の老人の一人芝居。なんとも凄い存在感と身体の動きで圧倒。「Delfino Nero Annex」は在ル歌舞巫と南阿豆2人の舞踏音楽。「Megalo Theatre」は前日同様。

 そして最終日の公演後のシンポジウムは、「風蝕異人街」のこしばきこうの司会で、上松頼子、紙田昇らがパネラーをつとめた。パネラーはいずれも今回のフェスをきっかけに参加した団体の主宰者。まず多かったのは、演劇ダンスパフォーマンスと違うジャンルが一緒になることで、お互いの交流が深まり、新たな発見がそれぞれあったという意見だった。そして、企画から舞台づくりまで、意見を出し合って行うという経験も初めてで、有益な体験だったという意見もあった。

 筆者から見て、作品は玉石混交といえる部分があり、コンセプトがそのまま提示されているものもあった。また「表現しようとしてできない男の悲哀」ともいえる作品が数点重なったのも気になった。しかし、手馴れた劇団が集まるフェスティバルやショーケースよりは、もっと鮮度のある実験的な意欲が感じられる舞台も多く、こういった意識のある表現者が集まってネットワークをつくっていくことは、とても意義ある活動だと思う。また、20分から40分という短い時間に凝縮して作品を発表するという機会もいい。観客もさまざまなタイプの違う表現を楽しんでいるようだった。というのは、最終日のシンポジウムには、思ったより多くの観客が集まったからだ。通常、こういったフェスティバルシンポジウムというと、当日舞台観客の1割から3割だが、半数以上の観客がシンポジウムに参加して、発言もあったことは、「舞台表現本質を追求する」ことに、観客も関心が高かったといえるのではないか。

 現代日本表現は多様化し、演劇新劇からアングラ演劇、第二世代、第三世代、静かな演劇などと変化し、第三世代の野田秀樹、次の世代のケラリーノ・サンドロビッチ松尾スズキらは活発に活動している。ダンスでは、バレエ日本舞踊からモダンダンス舞踏コンテンポラリーダンス、さらにバリ、フラなどの民族舞踊も盛んだ。パフォーマンス1920年代から萌芽があり、50〜70年の一期、80年代の二期、さらにインスタレーション流行を経て再び活動が高まって、音楽パフォーマンスとのコラボレーションも増えている。

 このような現在、「舞台表現本質を追求」というややアナクロニックなスローガンとともに、実験的な舞台を異種混交で提示することは、とかく舞台お笑いを含めた単なるエンターテイメントに流れがちな現代には、大きな意味があると考えている。今後の展開に期待したい。