セシウム134、137を実測した論文。

チェルノブイリで本当にセシウム内部被曝を人間で実測した私の知っている二つの例のうちの一つで、オーストリアで実際に人間の筋肉からセシウム137を測った論文があります(J Nucl Med 32:1491, 1991)。これは、素晴らしい論文。

この論文では、25-35 kBq/m2のセシウム137の降下があった、オーストリアのグラッツでのもの。300体の検屍体から、筋肉中のセシウム134、セシウム137、それと天然にあるカリウム40、この三つを、チェルノブイリ事故が起きた1986年4月の後の7月から開始して、1990年7月まで4年間行いました。

だいたいの傾向では、セシウム137は、87年1月頃に100Bq/kgのピークに達し、ゆっくり下がって、89年1月頃には20Bq/kgとなった。

セシウム134は同様に、87年1月頃に30Bq/kgのピークに達し、ゆっくり下がって、89年1月頃には、10Bq/kgとなった。

この間、カリウム40は100Bq/kg程度で、変化はない。

これから、セシウム137は、60、70、20、10、合計約160µSv、セシウム134は、4年間で、40、40、10、3、合計約90µSv、全部で250µSv/4年の被曝。その間にカリウム40では、680µSv/4年の被曝をしていました。

結局、半減期30年のセシウム137による内部被曝は、実質半減期9−10ヶ月(半減期2年のセシウム134では実質半減期6−9ヶ月)で減少して、意味のある被曝は2年程になっている。これは汚染されていない食事を選べるよう、教育が行き届いたからではないか、だから、汚染食品の測定と排除が大事だ、と言っています。ここまでが論文。

私の考えでは、これはおそらく、都市環境では、付着したセシウムが雨にとけて流されていくこと、セシウムに汚染されやすい、山のもの、野いちごやきのこなどを食べない、汚染された食品を食べない、という教育が行き届いた事などによるのではないか、と思います。また、セシウムが蓄積していない、減っていく、というのも大事な点です。これは他の所では見た事がない。

福島の中通り、低度汚染地域ではどうなるのか。

ここは、最大で1-4µSv/h程度、今後核種の崩壊がおこり、さらに、適切な除染を行えば、10 mSv/年以下には下げられそうなところです。中部大学の武田さんには怒られそうな話ではあるが、この10mSv/年は、私は地球上に住むときのリスクだと思っています。根拠は、世界の自然被爆がおおよそ、1-10mSv/年であり(日本は低い方で1.5mSv/年)、その自然被爆で癌が多いという話はないから。もう既に人類が人体実験をした結果が出ているようなもの。逆に言えば、地球の環境に適応しない人はもう死んでしまったのかもしれない。日本での平均よりは確かに高いが、地球上では人類として自然に経験している規模の被爆である。ただし、文科省は平然と『20mSv以下は安全』と主張しているが、自然放射線による被曝が20mSv/年のところなど、地球上どこにもない。

オーストリアの例を応用すると

今回の中通りの例に応用すると、セシウム137の降下は、このオーストリアの例とくらべて最大20倍(600kBq/m2)くらいだと思いますが、それであっても、セシウム内部被曝は、4.8 mSv/ 4年位を覚悟すればよいことになります。これは、意外と多くない。真面目に除染を行えば、もっと減らすことができるし、汚染が高いのは、だいたい中通りでも、町中なので、学校など公共の場所から除染を始めればよいでしょう。また。当然、外部被曝をモニターすれば、被曝をどう減らせばよいかが分かります。

中通りに残るかどうかは、一人一人の政治的決意の問題。

ここで、科学の話はおしまいで、後は政治的な話になります。

ちゃんと除染をし、汚染されたものを食べないというような、合理的な対処をすれば、福島の中通りで住む事は一つのまともな選択肢だと私は思います。被曝する期間が長くなる子供は特に被曝を押さえる必要があるので、何も除染する気のない文科省の対応は認められない、というのは何度か書きました。そういう合理的な対応を前提として、私が住むのも選択肢だという理由を挙げます。

低度汚染地域に住む3つの理由。

一つ目には、強制移住の負荷は、他人が簡単に言う程軽くはないこと。前にも書きましたが、今回の双葉町の移送では45人が混乱の中でなくなっています。生命だけでなく、経済的な負荷も非常に大きい。

二つ目には、政治的な問題ですが、今、退去すれば、帰る事はできなくなること。戦時中の疎開ということを例に挙げている人がいましたが、問題が違う。戦争は数年で敗戦になりました。今回の場合、町中を除染するまでというのなら意味がありますが、除染もせずに半減期にまかせるだけだと、セシウムはなかなか減衰しないので、何十年も待つ事になる。政治的にはその町は終わります。誰がそんな町に住んでくれるのでしょうか。

三つ目は、現に日本に汚染地域に住んだ実例があること。それはもちろん、広島と長崎です。こちらは、原爆で爆死した人がいたり、戦後すぐの混乱期で、今日のようなまともな支援もできないなかで、はるかに厳しい選択でした。しかし、広島も長崎も復興して、癌で死んだ人はいますが、町は生き残っています。広島や長崎を放棄した方が良かったのか。そうでないと考える人は多いと思います。

最後に長崎大学の山下さんは悪くない。

長崎大学の山下さんが100mSvまで大丈夫だ、と言っているのを私は分からないでもない。それを非難している人もいるのは知っています。が、ICRPのモデルでも、100mSvを被曝して癌で死ぬのは、三割方ガンでもともと死ぬ日本人のうち、0.5%。ということは、集団の立場で考えれば何人か死ぬ人が出る話だが、

個人の立場から考えれば、100mSvですら、99.5%の確率で放射能とどうせ関係なく死ぬ。

自分が死ねるのは、最大一人。おまけに、そもそも、100mSvから下の所のLNTは実はよく分からない。ただ、少なくとも100mSvよりましなことは確実。汚染地域で生き残る決意をした人なら、そう考えた方がよっぽど精神衛生に良い、そういう考え方はありえます。

それしか選択肢のなかった、日本の広島長崎の人、またチェルノブイリ強制移住で悲惨な目をみてきた人を知っている人なら、特にそう思っても不思議ではありません。つまり、厳しい選択をしないといけない立場から見れば、彼の言う事は実存的には正しい。ただ、政府の立場は違う。政府としては、いわれのない被曝、そこからくるリスクを減少させる義務があります。山下さんの言う事を逆手に取って、政府が除染の手を抜くなどということは許してはならない。

以上が、わたしが山下さんは悪くない、という理由です。