転轍器

古き良き時代の鉄道情景

D60大分の12輛 昭和44年

 昭和44(1969)年3月時点で大分運転所には12輛のD60が配置されていた。小川さん撮影の写真から各機号の細部と個性を眺めてみた。

D6021 日田 S44(1969)/4
 改造前:D50226[川崎]
 改造:浜松工場 S27(1952)/5/30
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ/縁取り無し
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

D6057 日田 S44(1969)/4
 改造前:D5040[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/10/16
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

 公式側には空気作用管と動力逆転棒が付く。美しい化粧煙突はとても優雅に映る。大分のD60の中で唯一タブレットキャッチャーを装備していた。大分運転所 S44(1969)/8

 1枚窓のすっきりとしたキャブはタブレットキャッチャーも見える。ランボード上の清缶剤タンクの位置は機号によって給水ポンプの前後で異なるようだ。 野矢~由布院 S45(1970)/8

D6058 日田 S44(1969)/4
 改造前:D5097[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/10/20
 除煙板:標準/点検蓋付/背高前斜め
 前照灯:LP405
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 運転席はナンバープレートと「大」の区名札、D50時代の「大14 川船」、「D5097」プレート、改造工場「浜松工場」の銘板が整然と並んでいる。積・空換算標記板は積:13.0、空9.5と読める。

 昭和43(1968)年8月に郡山から大分へ転属となったD6058は、当初シールドビーム2灯の郡山装備で稼働していたが、昭和44年の秋頃までにLP403へ換装された。 大分運転所 S45(1970)/3

D6060 日田 S44(1969)/7
 改造前:D50152[川崎]
 改造:浜松工場 S29(1954)/11/16
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧胴伸
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:8-20

 側窓の肘かけの位置にスティック状のバーが渡されている。非公式側の運転席下部中央に給水配管をつなぐ板状に見える二子三方コックが付けられている。

D6061 豊後森機関区 S44(1969)/4
 改造前:D50282[汽車]
 改造:浜松工場 S29(1954)/11/24
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17 

 D60のサイドビューは美しい。汽車会社製の角ばったサンドボックス、砂撒管の細かいディテールがよくわかる。架線注意標識は砂箱とボイラ梯子上部に、発電機下部にも小さい標識が付けられている。 久留米 S44 (1969)/8

D6062 日田 S44(1969)/4
 改造前:D50229[日立]
 改造:浜松工場 S29(1954)/12/17
 除煙板:標準/点検窓有
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

 D6062は公式側、非公式側ともエアータンク上のランボードが真っすぐではなくて前方に向かって上向きに反り返って取り付けられていた。 田主丸~筑後吉井 S44(1969)/3

 ボイラ周りのクローズアップ。ランボードに沿う暖房管とエアータンク上のランボードとの角度が違うのがよくわかる。 天ヶ瀬 S44(1969)/4

D6063 鳥栖 S45(1970)/7
 改造前:D50351[川崎] 
 改造:浜松工場 S30(1955)/1/10
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席窓下
 炭水車:12-17

D6064 鳥栖機関区 S44(1969)/8
 改造前:D50283[汽車]
 改造:浜松工場 S30(1955)/2/1
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

 D6064を正面から見ると非公式側にリンゲルマン濃度計が付き、公式側はまるでリンゲルマン濃度計を撤去した後のような何の用途かはわからないステイだけが上を向いていた。短いパイプ煙突は63・67と同様に縁取りが施されている。

D6065 鳥栖 S45(1970)/7
 改造前:D50191[日立]
 改造:浜松工場 S30(1955)/2/14
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:12-17

 原形2枚窓を持つD6065は元D50191。大正から昭和にかけての優雅な外観を醸し出している。 由布院 S44(1969)/4

D6067 恵良~引治 S44(1969)/4
 改造前:D50228[日立]
 改造:浜松工場 S30(1955)/3/19
 除煙板:小工式
 前照灯:LP403
 煙突:パイプ
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席裾
 炭水車:12-17

D6069 野矢 S44(1969)/7
 改造前:D5033[川崎]
 改造:浜松工場 S30(1955)/9/9
 除煙板:標準/点検蓋付/背高前斜め/ステイ湾曲
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱後
 運転席窓:1枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20

D6071 豊後森機関区 S44(1969)/4
 改造前:D5095[川崎]
 改造:土崎工場 S30(1955)/10/7
 除煙板:標準/点検蓋付
 前照灯:LP403
 煙突:化粧
 ボイラ梯子:砂箱前
 運転席窓:2枚窓
 区名札差:運転席中央
 炭水車:8-20/外観12-17スタイル

 前照灯は郡山から大分転属後にLP403からLP405に換装された模様。フロントデッキのスノープラウ取付け穴は郡山時代の名残りか。テンダ外観は12-17スタイルに見えるが20立方米形である。 大分運転所 S44(1969)/8

 写真は全て小川秀三さん
 (D6058 3枚目のみ転轍手)

向之原

 国鉄時代の向之原駅舎を撮っていたが、残念なことにフィルムをパトローネからあまり引っ張り出さずに巻き込んでしまったからか左半分は感光していた。開業は賀来と同じく大正4(1915)年10月30日であるが、現存の駅舎は国有化された後の大正12年に建てられたとのことであった。
 向之原はこの地域を境に、久大本線は東は河岸平野、西は河岸段丘を行き、平野部と峡谷部のつなぎ目に当る川をはさんで、北の豊前街道と南の肥後街道とをつなぐ交通の要衝であった、と聞く。

 車窓の下に見えた峡谷の大分川は向之原を過ぎると大分平野の穏やかな流れとなる。大分川右岸から向之原へ進入する急行列車を見る。車がやっと通れる道幅の狭い橋は、蒸機時代は確か欄干のない沈み橋だったように記憶している。 久大本線向之原 S61(1986)/5

 2面3線の向之原駅は他の駅と同様にホーム間に平面横断通路が設けられていた。それが横断歩道橋のような跨線橋が架けられたのはいつ頃であっただろうか。上下線とは別のもう1線は貨車の留置線であったが、蒸機時代終焉と共に貨物扱いも終了したようだ。街は大分市ベッドタウンとして都市化が進んでいる。

賀来

 久大本線久留米~大分間は昭和9(1934)年11月15日に全通した。大分側の大分~小野屋間はそれよりも早い大正4(1915)年10月30日に、私鉄大湯鉄道として開通している。その後大正11(1922)年12月1日に国有化され、鉄道省大湯線となった経緯がある。

 国鉄時代末期に賀来駅を訪れていた。片面1線の交換不能の配線であるが、行止まりの貨物側線が画面手前大分寄りから分岐していた。その名残りの貨物ホーム跡がこの時まだ残っていた。貨物ホームの後ろに大きな農業倉庫が建っていたので農産物が出荷されていたものと思われる。 久大本線賀来 S61(1986)/5

 キハ58246〔分オイ〕先頭のキハ53が間に入った4輛編成。 621D 久大本線賀来 S61(1986)/5

 撮影時、50系の客車列車は大分口で3往復、久留米口で4往復が運転されていた。朝の豊後森発大分行客車列車は蒸機時代から続いている。 623レ 久大本線賀来 S61(1986)/5

 賀来駅は大分川に支流の賀来川が合流する辺りにあり、画面右側へ進むと賀来川を渡る。近くにあった豊後国分寺は古代大分の宗教の中心地だったとか。駅周辺はバイパス道路ができて店舗や住宅が建って都市化が進んでいる。逆に駅は無人化されて寂しくなっていくように映る。 久大本線賀来 S61(1986)/5

 大分平野の西の端に下りて来た下り列車は賀来を過ぎると平坦な区間となり、大分市の市街地へと向かう。 久大本線賀来~南大分 S61(1986)/5

玖珠盆地の東端

 久大本線の恵良から引治、豊後中村にかけては玖珠盆地を抜けて飯田高原北の端をさらなる上り勾配が続く。

 野焼きの跡を感じるきれいな築堤をD6057〔大〕が客車5輛を従えてR300の左曲線に姿を現す。勾配標が示す通り引治を出ると鳴子川の鉄橋まで25‰の上り勾配だ。 1635レ 久大本線引治~豊後中村 S44(1969)/4/1

 鳴子川橋梁を渡ると野上トンネルが待っている。鉄橋を渡る轟音は周りののどかな風景で聞こえるひばりのさえずりをかき消す。 1635レ 久大本線引治~豊後中村 S44(1969)/4/1

 引治駅は野上川が玖珠川本流に合流した位置にあり、駅を出るとカーブした玖珠川橋梁が待っている。D6067〔大〕が鹿鉄標記のヨ1輛を連れて鉄橋を渡る。 6696レ 久大本線恵良~引治 S44(1969)/4/1

 郡山装備2灯のD6058〔大〕が引治を発車して玖珠川橋梁に差しかかる。藁小積みときれいな築堤、はえたたきが写る古き良き鉄道情景に心が染みる。 638レ 久大本線恵良~引治 S44(1969)/4/1

 新車キハ45601〔分オイ〕が早くも運用に就いていた。気動車の方向幕に「久留米」と行先が表示されるのは当時画期的であった。キハ45600番台は簡易郵便荷物車として2輛(601・602)が大分運転所に新製配置された。 636D 久大本線引治 S44(1969)/4/1

 引治駅から見た玖珠川橋梁。上り列車はここから高度を下げて玖珠盆地へと下りて行く。 久大本線引治 S44(1969)/4/1

 写真は全て:小川秀三さん

水分峠 野上川の谷間

 久大本線の豊後中村~野矢間は分水嶺の水分峠に向かって25‰の上り勾配が続く。下り列車は日田盆地、玖珠盆地をぬける度に高度を稼ぎ上り勾配は豊後三芳を出た辺りから始まっている。標高607mのサミットまで豊後中村から急峻な上り坂となる。

 標高710mの城山頂上からは野上川に沿った線路を豊後中村の発車から野矢手前までの大パノラマが楽しめる。はるか下を行く機関車のドラフト音は山間にこだまして見えなくなるまで続く絶好の位置だ。この秋に迫るDL化を前に久大本線蒸機時代最後の記念にと、幾度か挑戦して断念した登頂を果たしたとお聞きした。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 昭和45(1970)年の山肌は樹木がまだ育っていないことがわかる。城山山頂には「昭和38年4月~5月植栽」の記念碑が建ち、「大分県九重町」が刻まれていた。眼下の列車の歩みは遅々とし、吹き上げる煙は客車に線路に沿って後に続く。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 豊後中村を出て野矢までの間に野上川を4度渡る鉄橋(第2~第5野上川)と、70mの鋳物師釣トンネルがある。列車は大パノラマの終わりとなる野矢手前の飛川橋梁を渡っている。汽車の前進とともに移り行く絶景に感動した。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S45(1970)/8/1

 城山中腹から水分峠側を望む。線路は画面右側野矢方から左に流れ、国道210号線は峠から降りてきて線路と並行する。野上川の谷がこんなにも深いことがよくわかる。野矢を出た上り列車が坂を下って来る。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/26

 水分峠西側の下り坂を鳥栖行が掛け降りて来る。牽引機は遠目から見てもエアータンク上のランボードが反り返っているのでD6062〔大〕とわかる。線路築堤の下はその名前が玖珠川に変わる野上川が谷底深くで流れている。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/26

 25‰上りに挑むD6065〔大〕の力強い奮闘が伝わってくる。オハユニ6157〔分オイ〕が続き、郵便マークとなりのサボは青地白抜きの楷書体に見える。 1635レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/4/5

 豊後中村を発車、野上川を2度渡り終えて左曲線をしなやかに行くD6060〔大〕。6輛の客車は内側に編成を傾けて続く。 629レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/7/24

 遠くに霞む由布高原の山々を背景に上り勾配に喘ぐ列車を名残り惜しい気持ちで見送る。D6060〔大〕の639レはR300の左曲線から山影に機影が隠れるまでかなりの時間を要した。

 原野と峡谷が織りなす原風景を汽車が行く。罐はデフの形状からD6069〔大〕と思われる。 638レ 久大本線豊後中村~野矢 S44(1969)/3/31

 写真は全て:小川秀三さん

 津島軽便堂写真館

津島軽便堂写真館のホームページは各地の鉄道情景を魅力的に発信され、これまで閲覧させていただいていた。久大本線のページは豊後中村~野矢間の城山登頂の苦労と雄大な景色の眺望が披露されている。併せて同日撮影の宮原線C11も貴重な記録として心に残る。