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灰かぶり姫の灰皿 RSSフィード

2011-10-19 このエントリーを含むブックマーク

お知らせです。

明日、10/20発売のユリイカ増刊号『魔法少女まどか☆マギカ 魔法少女に花束を』に、フランス文学研究者中田健太郎さんと僕の対談が掲載されます。掲載される論考および対談の詳しいラインアップと表紙イメージは、すでにご存じのかたも多いかと思いますが、こちらの青土社HPで見ることができます。

対談内容の詳細はこの場では伏せさせていただきますが、校正時点で原稿用紙換算115枚、図版数35点という大ボリュームとなりました。個別の作品の手触りを通して、なおかつアニメを語る言語の可能性をも拡張するためにどんなアプローチがありうるか、我々二人でいくつかの提案を行ってみたつもりです。

それにしても、この増刊の顔ぶれは本当にすごいです。まどか役を演じた悠木碧さんとほむら役の斎藤千和さん、脚本の虚淵玄さんと田中ロミオさんの対談が掲載される時点で既に神なのに、さらに小川びいさん・泉信行さん、さやわかさん・ばるぼらさんの二対談を読むことができる。

論考は、青土社サイトの掲載順に斎藤環さん、村上裕一さん、飯田一史さん、石岡良治さん、石田美紀さん、冨田明宏さん、加野瀬未友さん、そして巻頭には中田さんの全話解題、巻末には飯田さんの手による『まどか☆マギカ』の作品事典と、まさに超強力布陣です。一執筆者である以前に、一読者として少しでも早く本誌を手に取ってみたくなるほどで、明日がとても待ち遠しいです。

ぜひ、書店でお手にとってごらんになってみてください。お知らせは以上です!

2010-06-02

[][]対談 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序対談 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を含むブックマーク


2007年11月某日、渋谷アミューズCQNで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観た。

公開初日から二ヶ月以上経っているとあって、館内にはリラックスした雰囲気が漂っていた。初日に並んで観にゆくほどではないが、あの『エヴァ』の新劇場版が作られることはもちろん知っており、こうして劇場がすいてくるのを待って、さて、とやってきたという感じの人が多い。こうした穏やかな期待の波に包まれて映画を観られることは、幸運なことだ。

上映終了後、同じ映画を見ていた七里(id:nanari)と出口付近で合流、無言で互いにうんと頷く。彼、七里について、このブログを読んでくださっている方に長々と説明する必要はおそらくないだろう。インターネットのブログ上における最高の書き手の一人だと言えば説明はそれで足りる。彼のブログ『七里の鼻の小皺』2004年末に開設され、簡潔な読書メモとなることを目指していた当初の目論見を大きく上回りながら、マンガアイドル、あるいはお笑いについてきわめて鋭い批評を提起しつづけてきた。彼との対話は常に真剣勝負になる。「ともかく、座れる場所へ」とだけ言い、劇場から出て、二人とも黙って公園通りを上っていった。

七里がよく使っているというSUZU cafeには入ることができなかったので、別のカフェを探す。ほどなく、暖色系の落ち着いた内装の店が見つかる。案内された席で、さきほどの映像の内容を思い出しながら30分ほどそれぞれメモをとる。頃合いをみて、劇場版パンフレットEVANGELION: 1.0』や『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序  ENTRY FILE1』、『CONTINUE』35号、『キネマ旬報』2007年9月1日号、『CUT』2007年9月号などをそれぞれ鞄から取り出した。10年前とは別種の緊張感があった。

以下に紹介する対話は、この後意見交換を行いながら、その内容を速記したノートを対談形式に再構成したものだ。ノートは一旦全てテキストに起こし、これを双方のレビューのもと、順次再配列・編集したうえで、最終的に七里が筆者となって再構成を行っている。


なお現在(2010年6月)、この対談のオリジナルを2008年1月4日付で掲載していた『七里の鼻の小皺』は一時的にプライベートモードに設定されている。そこで長岡が序のほか一部の記述を本ブログ向けに改稿した上で、七里の許可を得て、ミラーとして改めて掲載することにした。対談の内容そのものには、変更は行っていない。





七里  もうすこしこのままでいますか?

長岡  いえ、いいですよ。はじめましょう。

七里  まず、全体的な感想を聞かせてもらえますか?

長岡  傑作です。傑作だと思います。しかし、いいところと悪いところがあるというのが、第一の感想でした。良かったカットは、映画の後半部、ヤシマ作戦の部分に集中してしまうのですが、作戦準備のために働くネルフ職員や、作戦会議の描写、それから指揮通信車内のカットがとくに素晴らしかったように思います。葛城ミサトに作戦開始をさりげなく告げる際の、ネルフスタッフの切れのある芝居。暗いトーンで画面の周囲を落としながらも、張りつめた車内の雰囲気と空間性を巧みに構成した美意識など、ほんとうに強度の高い演出でした。良くなかったカットについては、映像的な話がすこし長くなってしまうかもしれないのですが、構いませんか?

七里  もちろん。お願いします。

長岡  では、つづけましょう。

七里  はじめつづけましょう。




1. 「再構築」作業について――画面サイズの変更

f:id:nanari:20070902173400j:image

長岡  旧作の映像素材をもとにしてリビルドと称し「再構築」された、ヤシマ作戦以前の部分には、良くないカットが多かったように思います。元々テレビの4:3アスペクトの画面を想定して制作された映像を、今回はアスペクト比1.85:1という横長のビスタサイズに合わせて「再構築」しているわけですが、テレビ版の構図に引きずられているカットが多く残されていました。もとの素材を参照したため、当然のことながらワイド画面のポテンシャルを使い切る大胆な構図を取りにくくなったのでしょう。左右を切り落としてテレビ版と同じアスペクト比にしても意味が通ってしまう画が散見されました。またそれとは別に、都市や風景などロングショットに、はっとするような魅力あるものがすくなかったのも残念です。

七里  なるほど。どこか間延びしたカットが多かったという印象を受けていたのですが、その理由が分かったような気がします。

長岡  もちろん、テレビ版の素材を用いながらも、まったく新しいカットになっていると言える箇所もありました。演出の原口浩さんの証言によれば、旧作の素材を参考にしつつも兼用はせず、「再構築」部分は「実質的には全カット起こし直し」たものだといいます(新劇場版パンフレット『EVANGELION: 1.0』、9頁)。しかし単純に画角調整をして、デジタル化と後処理を施しただけのように見えてしまうカットもあって、そのなかには、もしも時間が十分にあったならこうはしなかっただろうという奇妙な構図のものが散見されます。

七里  具体例を挙げていただいても構いませんか?

長岡  悪い意味でとくに目についたのは、テレビ版のカットから上下を落としてトリミングしてつくられた映像です。たとえばテレビ版第壱話、戦略自衛隊の幹部に向かってゲンドウが「そのためのネルフです」と見得を切るシーン。あれは、画面下半分を覆うようにゲンドウの胸から上が描かれ、またネルフのスタッフや発令所の特大モニターなどが彼の背後に入り込むことによって、ゲンドウの自信と恫喝じみた迫力が伝わってくる名場面になっていたわけですが、しかし今回の劇場版のバージョンでは、画面下部が大きく切られることによって構図がずいぶんと窮屈なものに変わってしまっている。ゲンドウの鎖骨あたりまでトリミングしてしまっているため、下からゲンドウが顔を出すような構図になっているわけです。戦自幹部の視界に立ち塞がるようなゲンドウの威圧感、ネルフを「背負って立つ」かのような迫力は削がれ、演出意図も不明瞭になってしまっていました。

七里  12年前の旧素材に「修正」を加えるだけという、逃げの処置をしている箇所がたしかにあったようですね。




2. 物語の時間の「再構築」――想起とカッティング

キネマ旬報 2007年 9/1号 [雑誌]

七里  今回の「再構築」作業を考えるにあたって、TVと映画のメディアの違いについて意識しておく必要があるということが、いまの長岡さんのお話で、ぼくにも予感されてきました。その意味で、尺の長さが変わっているということは、きわめて重要だと思います。TV版の約20分の各話本編が、98分のひとつながりの映画になったことで、映像に別種のリズムが生まれていたようです。

長岡  TV版の各話放送は、ひとつのエピソードを語りきり、また次週にそれを語り継ぐという、切断と接続を前提としています。しかし今回の『序』には、一本の映画としての時間、TV版とは別種のスピード感をもった時間が生じていたように思われます。

七里  スピード感というと?

長岡  言い換えると、よどみのない連続性です。最近の劇場映画にしては珍しいほどに、冒頭から出来事だけが連続していくという感覚がありました。サキエルが登場しても、それに対するリアクションがすくない。TV版第壱話の、「15年ぶりだね」、「ああ、間違いない。使徒だ」といった類の確認の台詞は省かれ、またTV版のサブタイトルなども当然廃されて、非常に速度の早い映像になっている(逆に言えば、いかにTVがノイズに満ちた細部をともなっているかということでもあるが)。

七里  TV版冒頭の展開は、もともとスピーディーでしたが、その速度がさらにあげられているということですね。

長岡  はい。これはTV版から受け継がれた描写ですが、国連軍VTOL戦闘機パイロットの「ウァァ!」という断末魔が無線から聞こえてきたあとで、サキエルの攻撃が命中する様が描かれる、というシーンがありますよね。動作の因果関係からするともちろん、サキエルの攻撃を受けたから断末魔の叫びがあがったわけですが、速度を重視するために、この因果関係が逆転されているわけです。まず結果を置き、視聴者に何が起こったのかを推測させつつ原因を描くというのは、庵野摩砂雪ラインがもともと得意としている演出です。

七里  よく分かります。

長岡  いずれにせよ、連続した一本の映画をつくるために、シンジがエヴァに乗せられ、エヴァから逃げ出し、エヴァに乗り、エヴァから逃げ、また乗るという展開のリズムが明確になり、そのリズムが映画の論理を形づくっているということは言えると思います。その展開の流れが明確なので、すべてが滑らかに早く過ぎていくという印象があります。使徒が3体連続でやってきた、という連続性が、「読み切り」感覚のTV版にはないテンションをもたらしていました。使徒がいつ来るかわからない、だから逃げたい、でも乗るしかない。こうして、切迫感が強化されていたように思います。


七里  まったくその問題です。その点で、きわだっていた演出がひとつあります。映画が一直線の時間を描く、その結果として、「想起」の演出が過剰になっていたように感じるのですが。

長岡  いま、具体例が挙りますか?

七里  ヤシマ作戦の最後の局面、一度陽電子砲を外したシンジが、ケンスケとトウジの励ましの言葉(「シンジ、頼むで」、「碇、頑張れよ」)を想起する場面がもっとも象徴的だと思います。このような近しい過去の想起、「小さな想起」の場面は、この一本の映画のリズム・論理を途切れさせないように、ひとつの時間軸の進行を維持するために与えられていたように思われます。一方で興味深いのは、TV版第弐話のBパートにあったような「大きな想起」の場面、つまりサキエル戦の全体がフラッシュバック的にシンジの意識に戻ってくるというような、直線的話法を転倒させる大胆な演出が消滅していることです。

長岡  各話毎の放送ではなくなり、連続性をもった展開が尊重されるために、話法の大きな転倒は避けられる。そして、その連続性を糊塗するための「小さな想起」が目立ってくるというわけですね。

七里  TV版第弐話の「大きな想起」のあと、つまりあの戦いの記憶が戻ってきたあとには、「あなたは人に褒められる、立派なことをしたのよ」というミサトの言葉が、シンジの耳を不意打ち気味に襲っていました。しかし『序』では、ミサトの同じ台詞は、その不意打ちの衝撃力を失っています。むしろこの台詞は、その直後、トウジに殴られたシンジの頭のなかで再度鳴り響き、つまり想起されることによって、TV版の第弐話と第参話の間にあったはずの断絶を埋め合わせ、映画の一貫性を維持するための話法に従属させられているわけです。

長岡  今回の『序』でも、ベッド上に寝ているシンジに、サキエル戦の記憶が数カット、フラッシュバック的に想起されるシーンがありました。しかしそこでシンジは、不快な記憶の映像に襲われながらも目を見開いてベッドに横たわっているだけで、フィルムの精細な情報量によって支えられた現在時制の画面に揺らぎはありませんでした。つまりここでは、シンジの想起は充分になされていない。過去の戦いの記憶を、恐怖を、消化し受け止めることができないまま、物語の時間は彼を押し流していくようです。

七里  まったく、おっしゃるとおりだと思います。各話ごとに語りきるというカタルシスがない分、シンジの不安は、乗る・逃げるという反復運動のなかで、解消されずに募り、倍加しています。


長岡  テレビ版でも、想起の演出はありましたね。しかし特徴的なのは、そこでは物語時間を止めることがほとんどなかったということです。物語内の時間を一時止めて内面の想起へと入っていく、通常よくある「回想」の演出ではなかった。むしろしばしば、過去の情景を描いたカットを一瞬で多数挿入することによって、フラッシュバック的な想起を表そうとしていた。こうして、フィルムの時間を止めずに、なおかつ映像のショックによって過去が不意打ち的に侵入してくるさまを描くことが可能になるわけです。しかし、今回はそれがいわば「封じ手」にされているかのように姿を消している。大月俊倫はあるインタビューのなかで、エヴァに特徴的な、文字を多用した演出を、今回は「封じ手」にしたと言っていますね。

七里  『キネマ旬報』2007年9月1日号、30頁参照。

長岡  ありがとうございます。そこで大月は、かつての手法を自己模倣しないと宣言しているわけですが、『序』をみるかぎり、旧来のエヴァに特徴的だった高速のカッティングも、やはり「封じ手」とされているような印象を受けるわけです。

七里  なるほど。それで今回の映画版では、物語内の時間を止めた回想シーンが登場してきているわけですね。

長岡  おっしゃるとおりです。特徴的なのは、ヤシマ作戦のラスト近くでシンジが、「綾波ほどの覚悟もない。上手くエヴァを操縦する自信もない。[......]なんでぼくなんだ」云々と想起するシーンです(『序』のセリフは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版検証スレまとめwiki」:[http://wiki.livedoor.jp/shingekijouban/d/FrontPage]から引用。拙文の表記にあわせ、部分的に改変をほどこした場合があります)。まるで往年の野球マンガで、ボールが投げられている間に選手たちの心内語が交わされるように、シンジの内面世界での回想が延々と描かれたシーンでした。これは正直なところ、すこし古くさい演出にみえます。


七里  カッティングの魅力は全体的に低減しているように感じていましたが、それが新劇場版の直線的な展開全体に係る問題であることが分かってきました。この点でもっともよい比較対象となるのが、1997年春の『DEATH』編ではないかと思います。『DEATH』では、テレビ版の各話放送のもつ切断のリズムを、まさに高速のカッティングによって代補していたように思います。一方で今回の『序』は、その切断を埋め合わせ、一直線の流れを構築することを目指しているようです。

長岡  「編集」という水準が、従来の高速カッティングのように分かりやすい形で今回出てきていないというのは、とても大きい問題だと思います。あのTV版の切迫感を象徴するのが、高速な繋ぎの多用であったと思うからです。東浩紀が「アニメ的なもの、アニメ的でないもの」(『Inter Communicaton』No. 18:http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/intercity/higashi_J.html)で評価するとおり、リソースのすくないはずのTVであの演出はまず何をおいても贅沢なものです。そして一方でそれは、映像を新規に動かす余裕がなくても、過去の映像素材をカッティングでもって繋ぎ直せば新しい運動になる、リソース無しで映像をつくり出してしまう、なによりも「エヴァらしい」演出だったわけです。

七里  よく分かります。

長岡  TV版では、制作リソースの不足がそのまま、ある種の切迫感の表現となっていました。このままではTVの画面が停止してしまうかもしれない、何もない映像が流れてしまうかもしれない、だから何とかして動かさなくてはならないのだという、あの退路なしの切迫感。『ナディア』や『エヴァ』において特権的に現れたあの緊張感が、今回の映画にはない。すでにある素材を、時間内にどの程度「修正」できるかが問題になってしまった箇所は、TV版に比べて弱くなってしまうでしょう。

七里  武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』に倣って言えば、停止と測りあえるほどの運動が、TV版にはありました。高速のカッティングによって物語の死せる断片と向き合う『DEATH』と、伸びやかな運動によって特徴づけられる(はずだった)『REBIRTH』とが表裏にあったことも象徴的で、エヴァには死・停止と測りあえるほどの生としての再始動・再運動がなくてはいけないのでした。

長岡  それでは、今回の映画になにがあったのか。というところで、新作部分の話に移りましょうか...。その前に、注文しても構いませんか?


長岡がホットチョコレートとチョコバナナサンドを注文したのを見て、七里は手洗いに向かった。隣の席の男女二人がちらちらとこちらに視線を送ってきている気配が先ほどからある。男のほうは立派な仕立てのスーツを――今日は日曜日だというのに――着ている。女も美しく着飾っているのだが、彼らは恋人たちというわけでもないらしく、要するにこの男は、この雰囲気のいいカフェで彼女を盛大に口説こうとしていたところだったようなのだ。そしてどうも彼の試みはさきほどから我々が繰り広げている会話によっていささか邪魔されてしまった感じなのである。まったく気の毒なことだが、もはやどうしようもない。トイレから帰ってきた七里に「失礼、再開する前に、まずはこちらをやっつけてしまいたいのですが。何しろこれは熱々が一番ですからね」などと断って、軽い焦げ目のつけられたチョコバナナサンドを食べる。当世風のカフェには珍しく、この店のチョコレートはとても甘い。




3. 新作部について――大人の事情

Cut (カット) 2007年 09月号 [雑誌]

七里  なにか、妙に不安になっています。このまま、ぼくはこの映画を見失うのではないかという恐れが生じてきてもいます。長岡さんに道案内をお願いしなくてはいけません。新作部分は、2種類に分けられますね。ヤシマ作戦の部分と、それから序盤の「再構築」部分を繋ぐようにして作られた、細かい新作カット群です。絵コンテはそれぞれ、樋口真嗣さんと京田知己さんが担当しています(注:京田氏の作品への関わりについて、本対談末に新たに追記を行いました*1)。

長岡  はい。2種類に分けて考えるのでいいと思います。

七里  まず、京田さんの担当した新作カット群ですが、これは面白いものが多かったように思います。とくに大人どおしの会話や、大人の事情を描く地に足のついたシーンが多いのが目立ちました。たとえばネルフ内のバーで、「最近の男は、すべからく自分にしか興味ないのよ」、「女には辛い時代になったわね」といったことをリツコとミサトが語り合う場面には、「大人なエヴァ」の側面が色濃く出ていました。数度挿入される、リツコとミサトの対話のシーンがやはり印象的です。マヤと三人で飛行機に乗っているところも悪くない。そしてなにより、ネルフB棟のリフトの上でミサトとリツコが話し合うあの場面。脚をぶらぶらさせるミサト、背景のCG三石の演技(「お尻が冷えてたまんないのにね」)など、すべて素晴らしかったと思います(『CUT』2007年9月号、87頁で、このリフトの場面の絵コンテを一枚だけみることができる)。

長岡  完全に同意します。

七里  大人の事情が多く描かれているという点を、すこし展開させてください。逃げ出したシンジが、尾行していた黒服たちに、「いいですよもう......ミサトさんのところに連れていってください!」と叫んだシーンなども、TV版にはなかったもので、ネルフ側の大人の事情と、それに取り囲まれたシンジの現状を明示的に表していました。また、シンジが初めてラミエルに攻撃を受けたとき、初号機からプラグを強制射出するとA.T.フィールドがなくなってしまうため、「最も憂慮すべき事態となる」という台詞がありました。これはつまり、初号機が大破してしまうことがネルフにとっての「最も憂慮すべき事態」であり、そのような事情のためにシンジの苦しむ時間が長引いたという点を強調した演出になっています。


長岡  同じことは、ヤシマ作戦以降の、樋口さん担当部分でも言えませんか?

七里  言えると思います。ヤシマ作戦でも、「ダミープラグは試験運用前の段階だ。実用化に至るまでは今のパイロットに役立ってもらう」、「最悪の場合、洗脳か」といったゲンドウと冬月の対話など、大人たちの事情が子細に描かれていました。作戦中の大人たちの地道な準備作業の描写も、この流れのなかに現れるわけです。

長岡  ヤシマ作戦は、ネルフ職員たちの活躍が、泥臭いまでに丁寧に描かれていましたね。作戦会議での興奮したミサト(あの鼻下からのカメラアングル!)と、クールなままのリツコ、前のめりに会議に参加している多くのネルフ職員たち、さらにはケーブルを手で引く一介の職員たちまで(彼らは、おそらくエヴァ初号機をほとんど肉眼で見たことがないので、それを物珍しそうに見上げたりしています)。戦自には「いろいろと貸しがある」といったミサトの台詞も、泥臭くて面白い。

七里  人事を尽くすのは大人たちなんですね。作戦前に病室の前で本を読んでいる綾波に象徴されるように、子供たちはそのときには待っているだけです。

長岡  ネルフ職員だけでなく、おそらくはシェルターに入れなかったのだろう、湖畔から戦いを見つめている市民なども描かれていますね。シンジやミサトが、それらの人々の中にあって、自分の役割を果たそうとしているのだということが、よく分かる演出になっていました。

七里  ミサトやリツコのような幹部職員が、先を急ぐために、手を挙げて輸送車を止めているシーンなどは象徴的でしたね。TV版ではメインキャラクターが、その他の一般職員や市民と関わる場面がすくなかったので。

長岡  重要なのは、一般職員や市民が背景としてではなく、死にうる人間として描かれているということですね。

七里  樋口さんの発言を引きます。「前のTVシリーズってネルフの人たちしか、そこにいないという感じがしたんです。誰かのために戦っているというより、謎を解くために戦っているように思えた。「住んでいる人たちを守るためにネルフの人たちも一生懸命戦っているんだ」っていう目的をもっと明確にしようと思ったんです」(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE1』、94頁)。この意図は明確に達成されています。これは、特撮的な想像力かもしれない。

長岡  これらの場面は、一言で言えば、リアリズムを意識している点で評価できます。そこでは、人間が死にうるものとして描かれる。ヤシマ作戦前、シンジが「死ぬ」という言葉を二度用いているのが印象的です(「嫌なんだよ、エヴァに乗るのが。うまく行って当たり前、だから誰も褒めてくれない。失敗したらみんなに嫌われる。酷けりゃ死ぬだけ。なんでぼくはここにいるんだろう」/「これで、死ぬかもしれない」)。

七里  シンジも命がかかっていて、逃げたいんだけれど、シンジの振る舞いによって生死の分かれる人たちがいる、という関係が明確になっているわけですね。

長岡  そのような意味で、旧版第伍話に描かれていた起動実験失敗の場面に、今回の新劇場版バージョンでは、綾波の出血が描き足されていたことを指摘しても無駄ではないのかもしれない。綾波の包帯というのは、旧版では記号性の高いフェティッシュなものとしてあったわけですが、『序』では現実の受傷箇所に対応するものになっているわけです。

七里  シンジが初めてエヴァに乗せられようとしている場面では、初号機がプラグなしで動きだし、落下してくるライトからシンジを手で守る、という場面が削除されていました。あの場面には、エヴァが母性的な存在であり、それに搭乗することが、父の組織のなかで働くことであると同時に、母体回帰をすることでもあるというねじれが、すでに予感されていたはずです。しかしそれが削除されることで、エヴァに乗ることのうちに無意識に秘められていたはずの母体回帰願望がみえなくなる。そうして新劇場版では、傷ついた少女を危ない目にあわせられないという健康的な理由に、初号機に乗る理由のすべてが掛けられることになったわけです。この問題も、死にうる人たちのために戦うという問題設定のなかで考えることができそうです。

長岡  『序』では、「人類を守る」といった言葉があらたに用いられはじめ、目的が強調されていることも面白いですね。このように、他人の命のために戦うという目的を再認識しているところも、大人の事情から目をそらさない、新劇場版の美点かもしれません。


長岡  「大人のエヴァ」という話を敷衍させた問題意識なのですが、人間同士の衝突とふれ合い、ダイアログをきちんと描くというのが、新劇場版の新しい挑戦となるような気がしています。小黒祐一郎さんが、まったく見事なエッセー「エヴァ雑記」のなかで、旧版『エヴァンゲリオン』では登場人物たちが目をあまり合わせていないと指摘されていました(『アニメ様の七転八倒』第35回:http://www.style.fm/as/05_column/animesama35.shtml)。小川びいさんの発見に基づいてなされたこの小黒さんの指摘は、基本的には新劇場版にも妥当します。新たに付け加えられた、シャムシエル戦のあとのミサトとシンジの対話の場面などは、まるで視線の出会わない、ディスコミュニケーションそのものの表現です。

七里  異論ありません。つづけてください。

長岡  しかし変化の兆しがありそうなのです。非常に興味引かれるのは、ヤシマ作戦の前、ミサトがシンジを渡り廊下で説得する場面で、シンジが一度だけミサトに視線を送っていることです。あそこでシンジは、自分が死ぬかもしれないという恐怖を、ミサトを見ながら言葉にしています(「恐いんですよ。エヴァに乗るのが。ミサトさんたちはいいですよ、いつも安全な地下本部にいて命令してるだけなんですから。ぼくだけが恐い目にあって。ミサトさん達はずるいです」)。しかしミサトはシンジの訴えに、視線と言葉で答えることをしませんでした。彼女はシンジの手を取ってリリスをみせにいく前に、同じ画面内で呼吸する人間として、単一のカットのなかで、対話を成立させるべきだったのではないかと思えてなりません。

七里  なるほど。問題意識はよく分かります。もちろんミサトはその後、シンジの手を引いてターミナルドグマへと連れていき、リリスが「サードインパクトのトリガー」となっていること、ネルフの職員たちはみな、使徒と刺し違えてもサードインパクトを未然に防ぐ覚悟であることを語るわけです。それはつまり、シンジの死の恐怖の訴えに対して、自分たちも同じ恐怖を抱えていることを示すというかたちでコミュニケーションを計ったのだと理解することもできそうです。しかしいずれにせよ、それがまだ視線と言葉の対話にはなっていないわけですね。

長岡  視線と言葉以外のコミュニケーションがみられるのも、大きな変化の兆しだと思います。鶴巻さんがインタビューで、「ミサトがシンジの手をひいたのが印象的なんですね。エヴァって、キャラどうしがあまり触れ合わないんですよ。孤立している人たちが口先だけで接してまた離れていくみたいな感じだった。接触する芝居は作画的に手間がかかるという事情もあったんですけど、それがエヴァの独特な雰囲気をつくってましたよね。なのに、今回は違う」(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE1』、113頁)と語っていますね。

七里  ミサトがシンジの手を引くシーンでは、さらにシンジがその手を握りかえしている演出が面白い。鶴巻さんが同じインタビューで、その演出の成立背景を詳しく語っていますね。とても興味深いので、以下に全体を引いてみます。「そのシーンは二転三転してるんです。2人は手を繋いだまま、セントラルドグマへと降ります。脚本では「手を握ったまま」という描写はなかったんですが、コンテで足してみたんです。そのまま通ったんで、あ、この方向でOKなんだなと。ただ、握り返すシーンは僕のコンテでは、もう少しさっぱりしたものにしてた。ミサトの真意を知ってシンジからぎゅっと握り返すというような。でも庵野さんが、もう少しTVのシンジも残したいと言って。だから庵野さんのコンテ修正では、ミサトがさらに強く握って、シンジは握り返さないことになってたんじゃないかな。シンジが「乗ってみます」と言ったのに対し、ミサトが手を握ってこたえるところまで。それで作画に入ったんですけど、今度は松原さんのほうから、ここは握り返したほうがいいんじゃないかって話が出て。議論のすえ、現行の「ミサトに手を握られて、おずおずと握り返すシンジ」バージョンになったんです。このシーンが入ったことで、結果的に今回はまっとうな人たちの話になった気がします」(同書、114頁)。批評的な作家らしい鋭い分析で、とくにつけ加えるべきことはありません。

長岡  庵野秀明が、手を握り返す「まっとうな」交流に、一度待ったをかけたというのが面白いですね。

七里  まさにその手を握るシーンの艶かしさが代表的ですが、今回の新劇場版には、ミサトとシンジが男女であることを意識させる場面が、何度かありました。1997年夏の『THE END OF EVANGELION』では、二人のキスの場面によって、ミサトとシンジが男女である事実が唐突に前景化され、奇妙な印象を残していたように思うのですが。

長岡  『序』では、リツコとミサトのバーでの会話も面白いですよ。「まだ緊張してるの? 男と暮らすの初めてじゃないでしょう?」、「8年前とは違うわよ。今度のは恋愛じゃないし」、「それはどうかしら。シンジ君、あなたがいるから残ったんじゃない?」。リツコがシンジを「男」と言ってしまっているのが、いままでとははっきり違いますね。




4. 新作部の作画について

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七里  すこし物語の話にのめり込んでしまいましたが、その新作部分の作画についてはいかがでしょうか? 今回の映画は、見せたいところと、そうでないところがはっきりしていて、全体としてはヤシマ作戦の映画になっているという印象があるのですが。

長岡  同じ印象をもちました。ヤシマ作戦で持ち直したな、という感想です。

七里  たしかに、後半部の作画の水準は高いですね。しかし、TV版にあった高速のカッティングが失われているという話がさきほど出ましたが、それに代わるような作画の方向性というか、方法論を欠いていたように思うのですが。

長岡  そうですね。京田さんの手による*2、ミサトとリツコがともにいる新作カットは、構図は面白いけれど、運動の面白さがあるとは言いがたい。垂直に発射されるミサイルや、丸い電力計、360°全方向に発射されるレーザーなど、旧来のガイナックス作品からのイメージが自己引用されている部分は、とても面白かったですが、これは庵野お得意のパロディで、目新しいというものではありません。結局、運動として面白かったものとしては、ヤシマ作戦部分での人物の移動ショットが挙るような気がします。場面をまたぐ長いショットがエヴァで使われるのは目新しく、興味深くみました。しかしこれは樋口経由の特撮テイストが強いようで、これが庵野秀明のやりたかったことなのか、意識的に採られた新しい方向性なのかはよく分かりません。

七里  特異なカッティングで注意を引きつける方向性を捨てて、特撮的な想像力に向かうというのは、庵野秀明の実写作品でもみられた傾向ですが...。

長岡  いずれにせよ、「破」はまるで違う展開をみせる可能性がありますから、現段階で庵野秀明の今後の方向が示されたと考えることはできないような気がします。


七里  今回あたらしく導入された表現法として、CGがあるわけですが、この使用についてはいかがでしょう? 個人的には、CGが使われる箇所が見事に統制されているという印象を受けました。どこをCGにするか、とてもよく「分かっている」という感想です(具体的な事情については、パンフレット『EVANGELION: 1.0』の11頁を参照)。ヤシマ作戦を準備するメカや機材(あるいは、電車電柱電線など)にほとんどCGが使われておらず、機材の物質観と、働いている大人たちの泥臭いまでの熱量が描き込まれていた点が、なんともすばらしかった。その一方で、使徒はCGで作り込み、無機質的な動きを追求している(ラミエルの豊かな構造!)。この選択がすばらしかったと思います。

長岡  異論ありません。ネルフのコンピュータ上の画面などでは、CGが見事な効果をあげていたように思います。




5. その他、細部の印象

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序―ENTRY FILE 1

七里  なにか、すこし議論めいたものがはじめられそうな予感もしてきましたが、ここであえてすこし肩の力を抜いて、話を細部へと広がらせてみましょうか。「スタジオカラー」の手書きのカタカナ表記がちょっと「スタジオジブリ」の筆跡に似ていてかわいいとか、「THE END OF EVANGELION」以来の赤のイメージが強いとか、あるいは、いわゆる「ループ」ものになっていることについてなど、なんでも構いません。吐き出してください。

長岡  そうですね。「チルドレン」という名称が、新劇場版で使われなくなっていたことが、興味深かったですね。代わりに、「適格者」という語が用いられている。それとあわせて考えたいのが、TV版第四話にあたるシンジの逃走です。あの逃走劇は、TV版バージョンではじっくりと描かれていたものですが、新劇場版では高速で処理されていたように思います。TV版が放映された当初、「14歳の少年の苦悩」が描かれるのがすごいんだという評価のされ方がありましたが、おそらく1997年の旧映画版の時点で、すでにそういう問題は時流に遅れはじめていた。そこで2007年の新劇場版では、「14歳の少年」の特殊性が、「チルドレン」という言葉とともに後景化しているのではないか。これは、「大人のエヴァ」になっているという、われわれのいままでの話とも係る問題ですが。

七里  なるほど。新劇場版では、シンジの葛藤は「シナリオどおり」だと冬月に言われていますね。逃げ出したシンジを、つねに黒服たちが尾行していたという場面を挙げてもいいですが、いずれにせよこの映画は子供たちの一回的な苦悩や情熱ではない論理にしたがっているという印象があります。旧作でまじめに生きられていたはずの内面劇よりも、むしろ大人たちの冷静なやり取りの方がクローズアップされているようです。

長岡  シンジの内向の問題は、あまり掘り下げられずに、むしろ象徴的に済まされてしまっている。その点でとくに重要なのは、やはりイヤホンですね。シンジが「逃げ出した」場面で、つねにイヤホンをつけていることから、この自閉的なアイテムの象徴性がさらに増していたように思います。

七里  ところで、シンジが使っているのが、mp3プレイヤーなどになっていなかったのは、ひとつの見識だと思いました。音楽テープの物質感と、「25、 26」曲目を反復する触覚的な味わいが残されていて、よかったです。

長岡  あれは、DATウォークマンがモデルですよね。業務用以外では、オーディオマニアしか使っていないものですから、中学生があれをもっているのは不思議です。どっしりとした存在感があって、面白い選択ですね。


長岡  すこしだけ作画の話に戻ります。スピード感のある処理がなされている箇所と、物質感のある重い描写とが共存しているという、肯定的な感想です。たとえば対サキエル戦。サキエルに向かう初号機の突進、初号機を迎え撃つべくゆっくり上体を起すサキエル、頭部を破損しうなだれる初号機などのシーンの重量感は見事です。そしてやはり「暴走」の場面ですね。TV版と同様、一瞬アブノーマル処理されたシンジの表情アップが挿入されるわけですが、彼の反応を待つことなくTV版よりもさらに高速で出来事がすすんでいきます。シンジの意志などお構いなしに使徒を殲滅する初号機の体の重さ。グイーン。初号機の振り向き、左腕部復元。バババ。

七里  痛い痛い。分かりました、やめてください。たしかに使徒との戦闘シーンは見事でした。

長岡  一方で、新作カットの空中投下ミサイル、ロケットの発射カットなど、カット頭の初動は鈍めに動き、カット尻で瞬発するような、重厚な構成を狙ったカットも存在する。その代わり、旧版で目立っていた、サキエルが大型ミサイルを引き裂く非リアリズム的描写(磯光雄原案と言われる)は消滅している。荷粒子砲が命中し溶ける山、ポジトロンライフルのヒューズ交換なども、こうした鈍さとスピード感の使い分けが活きた、力のあるカットでした。


七里  個々のキャラクター、あるいは声優に関してはどうでしょう。個人的には、やはりミサトの三石琴乃が目立ったように思います。マンションに入る場面、「ここは、あなたの家なのよ」などの台詞は、TV版ではやや神経質さを強調したものでしたが、今回のバージョンでは、暖かさと人間的な懐の広さを増していました。ある種の成長を感じさせます。

長岡  同意します。大人の情感がありました。

七里  綾波役の林原さんは、変わらないですね。変わらないすごみを感じる。シンジ役の緒方さんは、その点で言うと、結構変化しましたね。叫ばないシンジ、という印象が強かった。ラミエルを倒した直後、綾波に駆け寄る際の、「綾波!」という台詞も、TV版よりもずいぶん落ち着いていたように思います。シンジには二回、混乱のまま上手く喋れないという場面がありますが(ペンペンをお風呂でみたシーンと、レイのアパートでのドタバタ劇)それらは二回とも今ひとつよくなかったように思います。

長岡  ゲンドウ役の立木さんの演技と声質は、さらに冷たく、重厚になっていてよかったですね。

七里  リツコの山口さんはやはり変わらず、作品世界への没入度が低い印象があって、それがリツコの立場とうまくかみ合っているような気もしますね。三石のミサトの、強烈な入り込み方と対照的です。

長岡  リツコさんは、冷徹さがさらに増しているのを感じました。陽電子砲の照準についてのシンジの質問を強引に遮断するところなど(「じゃあ、もし外れて敵が撃ちかえしてきたら……」、「今は余計なことを考えないで。一撃で撃破することだけを考えなさい」)、シンジを道具扱いする姿勢が強く出ていてよかったです。すでに七里さんが指摘された、ラミエル来襲時にシンジの生命より初号機の機体の保全を重視しようとする場面(「今パイロットを失うとエヴァのA.T.フィールドが完全に消失してしまう……最も憂慮すべき事態となるわ」)にしても、背景のゲンドウをバックに、彼の陰を背負うようにしてリツコが描かれている点が興味深いですね。彼女は見事に、ゲンドウの権威の代行者として振る舞っているわけです。


七里  しばしば指摘されている、「ループ」の問題についてはいかがでしょう。夏の映画版以来の「赤い海」がすでに描かれていることや、あるいは最後のカヲルくんの台詞(「また3番目とはね。変わらないな君は」)などから、今回の映画版が、旧来のエヴァの物語を一度経たあとに、もう一度同じ物語を再話している世界であろうということがしばしば言われています。庵野秀明が「所信表明」においてすでに、「「エヴァ」は、くり返しの物語です」と記しているのも示唆的です。エヴァがそもそも、あらゆる決断が空転してしまうような反物語のなかで、アクロバティックに物語と主体性の意味を再生させようとした作品である以上、この「ループ」的世界観は、すぐれてエヴァ的な結構であると言えそうです。

長岡  物語の「ループ」だけに注目するよりは、むしろエヴァのイメージのあり方、隠喩の体系が、きわめて本質的なループ構造をなしていて、旧作と今作を繋いでいるということを意識しておく必要があると思います。ご指摘された海の赤にしても、TV版ですでにさまざまな液体の表象があり、また外傷のもたらす血の赤の表象(たとえば、後半で頻出する残虐描写)がありました。そのうえで『THE END OF EVANGELION』の、あの赤い海が、羊水の隠喩を帯びつつ生まれてくるわけで、今回の赤い海にしても、そのようなイメージの体系のなかで現れているということは考え落とせないでしょう。

七里  イメージの自己引用が繰り返され、ループしてあるわけですね。

長岡  電車のイメージなどが、例として分かりやすいかもしれません。電車は、TV版拾六、拾九話では物語内時間に対応しない、特権的な対話の場になっていましたね。その電車内での対話のイメージが、新劇場版では冒頭直後にすでに描かれてしまっている。映画冒頭で、地中に多くの電車が逆さまに突き刺さっていたことも、このイメージの連鎖から派生した表象とみていいのでしょう。

七里  既存のイメージを自己引用すること。これは、エヴァというフィルム全体を駆動している、自己増殖の原理です。ビデオ版21-24話がリメイクされた際に、『THE END OF EVANGELION』で用いられたイメージが大量に自己引用されていることなどについて、われわれはすでにかなり長い時間を使って議論してきましたね。

長岡  おっしゃるとおりです。

七里  この対談よりも時間的に後のことになるのですが、『灰かぶり姫の灰皿』2007年11月20日付けの記事のコメント欄で、BigHopeClasicさんが、新劇場版が旧版六話までのみならず、それ以後のTV版後期エピソードの物語要素まで先取り的に取り込んでいるとされていますが、これはまったくたしかな指摘だと思います。

長岡  同感です。したがって問題は、広義のバンクシーンの使用にも係ってくるはずです。戦車・多連装ロケットの描写などには、『REBIRTH』編からのバンクが利用されていましたし、旧版参話該当部分では『DEATH』編からのレイアウトの転用がみられます(リツコが「人の言うことには大人しくしたがう。それがあの子の処世術じゃないの」と発言する場面での、管制室内のレイアウトなど)。この観点からは、ヤシマ作戦終了後、零号機のエントリープラグをプログナイフでこじ開けた場面も、TV版第拾八話バルディエル戦の描写を先取りしたものとして見えなくもない。

七里  ひょっとすると外部作品からの引用よりも、自己引用の方が、エヴァというフィルムの運動にとって本質的な問題かもしれません。リソースが不足しているなかで、自己模倣・自己引用を繰り返してでも映像を動かしていくところに、庵野作品の独特のテンションと、日本アニメーションに対する庵野の内在的な批評があったのではないかという直感があります。

長岡  ゼーレの面々が最初からモノリスの姿で描かれていることも、急いでつけ加えておきましょう。




6. 語り直すこと――TVの条件、映画の条件

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七里  はじめる前より、ずいぶんと視界がクリアになってきたような気がしています。やはり、TV版のためにつくられた映像が映画版になったことによって、画面サイズや、物語内の時間の流れ方などなど、さまざまな変化が生じているということはたしかなようです。

長岡  物語内の時間が一直線になったことで、演出に変化が加えられているという点は、やはり重要ですね。指摘し忘れたことで重要だと思われるのは、都市表象の問題です。TV版では、ちょうど各週放送の特撮シリーズ番組がそうであるように、一度都市が破壊されても、別のエピソードがはじまればそれはいつのまにか修復されていました(この点については、以下のすぐれた論文を参照:松田達第3新東京市の終わりなき日常」、『エヴァの喰べ方、味わい方』所収、139頁参照)。しかし新劇場版では、都市の時間も一貫していてリセットされず、破壊のあとがそのままに残されていました。

七里  すばらしい指摘です。一話に一体ずつ使徒がやってくるというTV版の構成は(それは、特撮ものの構成でもありますが)、本来映画版の文法ではない。「破」の予告が、使徒を単位としたものではなく、弐・参・四・伍・六号機(!)までのエヴァを単位としたものとなっていたのも、そのためですね。

長岡  新劇場版では初号機の射出シーンが幾度か描かれていますが、アングルを工夫することで、それぞれを違ったものに見せようという意識がみえるのは、興味深いですね。この射出シーンは、各話放送のTV版であれば、まったく同じものを放映しても違和感がなかったはずのものでした。しかし、一直線の時制をもった劇場版では、そのシーンを修正して、変化をつけていく必要に迫られる。ここに、反復に基づくTV版エヴァの尾てい骨をみる思いがあります。

七里  このように考えていくと、今回の新劇場版のさまざまな変更点が、TV版の条件を逆照射してくれる側面があるように思われます。エヴァはクリティカルな作品ですが、そのクリティックは、TVというメディアの条件に向かうものでした。エピソード毎にリセットされる各週放送という枠組み、そしてあの、TV特有の狭小な画面。エヴァという作品が格闘していた条件を、『序』は思い出させてくれるようです。

長岡  そう、まさにその点で映画版を評価できるような気がしています。

七里  本当にそうです。よかった。

長岡  冒頭でぼくは、旧作を劇場版に「再構築」する際の手法について否定的に発言しました。何もかも自由なはずの劇場公開作で、なぜ過去を引きずった画面を創るのかと。しかし見方を変えれば、それは『ヱヴァンゲリヲン』がTVという旧い、異種のメディアを避けがたく参照し、また同時にフィルムという新しい媒体の条件を問いながらすすんでいくような作品たらざるをえないことも予感させます。庵野秀明がエヴァンゲリオンという作品を「再構築」し、「エンターテイメント」を目指すと発言した際、自分はこれから過去の仕事にもう一度立ち向かうのだと彼は言おうとしていたのだと思います。過去を忘れ去るのではなく。




七里  不安な映画でした。

長岡  よく分かります。

七里  不安の連続のような映画です。さまざまな恐怖を十分消化し受け止めることができないままに、一直線の物語の時間がシンジを押し流していくという話を長岡さんがしてくださいましたが、まったくそのとおりで、新劇場版で彼に襲いくる不条理の度合いはさらに強くなったように思います。

長岡  物語が、人の生き死にの問題を明確に意識しつつ切迫感を増している分だけ、シンジの不安の出口がみえなくなっていました。

七里  ヤシマ作戦を経ても、シンジはまだ戦う理由を見いだしたわけではないのでしょう。「綾波ほどの覚悟もない。上手くエヴァを操縦する自信もない。理由も分からずただ動かせてただけだ。人類を守る? こんな実感も湧かない大事なことを。なんでぼくなんだ」と戸惑っている。あそこでは、想起される友人との間のかすかな「絆」が、さしあたりの理由として機能しただけです(トウジの、「碇。いや、シンジと呼ばせてくれや」というセリフは、いま出来上がりかけている友人関係の表現となっている)。だからこそ映画は最後、綾波と手が結ばれそうになるところで終わるわけです。完全に手が結ばれずにあること。ここに「you are (not) alone」というサブタイトルの含みと希望がともに、たしかな「序」の、はじまりの予感としてあるような気がします。

長岡  このような不安の連続の物語に、もう一度向き合い、再話しはじめてくれたことに感謝したいですね。

七里  まったくです。まったくそうなのです。何度でも、語り直すことが重要なのです。そのたびに、前にすすめるような気がします。われわれも、「破」に向けて語り直しはじめることにしましょう。


そうしてわれわれは、永遠があるようにして、喋りつづけていたのである。






*1:(2010/06/05追記)――本対談の続く部分には、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のいくつかの箇所について、京田知己氏の担当によるとの想定に基づいて話し合われている部分があります。このことについて、我々が対話を行った2007年11月よりも後に出てきた資料・証言によって、我々の想定と実際の制作過程の間に一致しない点があることがはっきりしました。対談時、我々が京田氏の担当箇所だと考えていた部分に、その他の制作陣の手が事後に大きく加えられていた、というのが、その要約です。したがって、これから先の部分で京田氏の仕事として言及される部分については、逐次、「京田氏と、その他の制作陣による」作業箇所であると読み替えていただければ幸いです。

京田知己氏は2008年5月にカラーより発行された公式資料集『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 全記録全集』でインタビューに応じていますが、そこで氏が担当した『ヱヴァンゲリヲン:序』の新作パート(樋口真嗣氏担当「ヤシマ作戦」以外の新作パート)のための画コンテが、最終的なコンテにほとんど残っていなかった、という発言を行っています。インタビュアーの「TV版の話数と話数の間にあるキャラ同士の絡みのところが[担当範囲の]中心と聞いてますが、それで良いのでしょうか」という質問を「ええ」と肯定した上で、京田氏は次のように発言しています。

「僕としてはシナリオと、打ち合わせのときに聞いたイメージを自分なりに膨らませて描いてみるという感じでした。ただ最終的な鶴巻さんたちの監督修正が入ってまとまった画コンテを見たら、僕のコンテはほとんど残っていなくて、それ以上に、そもそも打ち合わせで聞いたものとはまったく違う印象のものになっていたんですね。ト書き自体が変わってたり、シナリオから受ける印象とは違うシークエンスになっていたり、あまりにもシナリオと上がったコンテの中身が違っていたので、「こっちの方向へ振るなら、最初から言ってくれればいいのに」というのが、正直な感想でした」(356頁)と氏は率直に証言しています。京田氏へのインタビュー頁には、氏による新作・画コンテ準備稿が二シーン分掲載されていますが、氏の証言通り、それらはいずれも完成作品にはそのままの形で残っていません(片方は該当するシーンそのものが完成作中に存在しません)。また、我々の対談中で言及される、トンネル内リフト上でのミサトとリツコとの会話シーンについても、『全記録全集』に併録された『序』の画コンテである「ヱヴァンゲリヲン 新劇場版 01 A PART」では、京田氏のものとは明らかに違うタッチ(恐らく鶴巻和哉監督によるもの)で画面欄と内容・音声指示欄が描(書)き込まれています。

これら三つの点と、京田氏が自身の切ったコンテが最終コンテに「ほとんど残っていな」いと感じたという感想とは、強く符合します。また、『全記録全集』の以前にも、京田氏は2007年10月に刊行された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE1』(角川書店、2007年)で既に同趣旨の発言を行っています。氏は同書所収のインタビューで、『ヱヴァンゲリヲン:序』につき、「最終的には参加を決めましたが、ただその後の監督修正で、僕の画コンテは本編にはほとんど残っていませんでした。趣味が合わなかったのかもしれませんね」(99頁)と発言しています。
『全記録全集』と、同書併録の画コンテの出版によってこうした点がより明確になったこと。京田氏が、自身の参照したシナリオとは全く異なった印象を監督修正が入った最終的な画コンテに感じた、という証言を残していること。これらから総合すると、庵野総監督をはじめとした監督陣の作品構想そのものの変化もあって、京田氏の画コンテには多大な監督修正が加えられ、結果として京田氏より提示された画コンテが最終的なコンテには大部分残っていない、という事態に至ったと考えるのが妥当なようです。(『灰かぶり姫の灰皿』長岡・記)

*2:同上。

2010-04-01

[]エヴァを壊すこと、鏡を割らないでいること――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』について エヴァを壊すこと、鏡を割らないでいること――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』についてを含むブックマーク



 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』はある強い困難に向き合った仕事だ。もちろん新しい物語的展開やエピソードの挿入はある。そのことは旧作を引き継ぎながら超えていこうとする『ヱヴァンゲリヲン』の姿勢を示しているだろう。しかし、そうした努力によって逆にかつての仕事が呼び戻されてしまっている箇所が本作には多くみられる。それどころか、その処理はどうも意図的に行われているようだ。


 『ヱヴァンゲリヲン:破』では、基本的に以前の『新世紀エヴァンゲリオン』テレビシリーズ第八話から第拾九話まで*1の内容が一本のフィルムにまとめ直されている。そのためにテレビ版のいくつかの放映回は姿を消しているし(たとえば第拾壱話「静止した闇の中で」や第拾参話「使徒、侵入」)、大きく圧縮されて映画の中に組み込まれた出来事もある(たとえば『破』の第8の使徒は落下中、旧版第拾六話に登場する使徒レリエルに似た形態をごく短時間だけとる)。そうすることによって空けられた部分の多くには、かわりに登場人物たちの厚みのあるダイアローグが挿入されることになる。あのミニチュアの波打ち際で加持とシンジが交わす会話によって、シンジはミサトの過去のことを知るし、それはシンジにとって自分が生まれる前の世界――青い海があった世界――を知ることでもある。

 しかし、知ることや触れあうこととは一切関係なく使徒が襲来するのがこの世界だ。個々の使徒の出現には必然性も理由もなく、強いて言うなら「現にそこに在るから在る」または「出現しているのは、『殲滅』されねばならないからだ」という転倒した論理だけが彼らの存在を根拠づけている。そして、物語を駆動するそのようなストラクチャーを『ヱヴァンゲリヲン』は旧作から継承している(これは疑いなく正しい選択だ)。

 「使徒Angel」たちは、たとえば敵意のような理解可能で、断念または解除が可能な行動原則を持っていない。碇ゲンドウの言葉に従えば、使徒はそれぞれが「生物」*2として、欲動にも似たそれ固有の原則を自らが破壊されるまで貫徹し続ける存在なのだという。そして彼らの内部には判断や思考と呼べるものが全くみられないにもかかわらず、なぜか彼らは例外なく第3新東京市へと向かって侵攻してくる。そのことは決戦兵器エヴァンゲリオンによる迎撃を招くだろう。『ヱヴァンゲリヲン』の物語は、旧作と同様にエヴァと使徒との接触が必ず起こるようデザインされている。シンジたちとは違い、使徒には「敵」にならなかったかもしれない、無害な存在であり続けたかもしれないというその「前史」における可能性が一切なく、彼らは純粋な敵としての機能だけを持つものとして物語に参入してくる。使徒たちはその出現の仕方において特異なのではなく(気づいた時には既に到来してしまっている)、エヴァと戦い、「殲滅」されることではじめて固有性を獲得するのだ。本作の第8使徒に対して行使された描写に典型的なように、彼らの造形の豊かさは、そのプレヒストリーに起源を持つものではなく、そのすべてが戦闘と「殲滅」の映像的な快楽をそそるためのものとして構築されている。

 使徒たちは「殲滅」させられるためにこそ存在している。フィルムの制作者はいつでも望むところに使徒の襲撃を配置することができるし、その恣意性を覆い隠すために、物語内部の出来事を時間軸の上に配列していく「日付」という審級(たとえばカレンダーという道具)は極限まで弱体化させられている*3。使徒の個別の出現には謎はない。それは作者によって半ば恣意的にそこに置かれたものだ。にもかかわらず使徒たちが次々「殲滅」されていく事象群は、その「配置」において意味のある謎を生産してしまう(たとえば旧作テレビシリーズ後半における使徒たちの明快な形態の消退と、アスカやシンジの混迷、それに引き続くカヲルの出現)。だがそれは、自分たち制作者がそのような物語を発案してしまったこと、ストーリーをそのように「編み上げて」しまったこと*4それ自体の必然性をめぐる自己言及を引き起こしてしまったはずだ。かつての『エヴァンゲリオン』を見舞ったのは、そうした物語的困難だったと要約できるだろう。

 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は、旧版のこのような反物語のファンダメンタルスを排除するどころか、完全に引き継いでしまっていることをまず確認しておこう。本作のフィルムが、ミサトについて会話しながら青空を見上げる加持たちに引き続いて突然発令所にいるミサトの胸元のクロスへと接続し、おもむろに第8使徒との戦いを描きはじめてしまうのは、恐らくそうする以外に物語を推進するための方法がないからだ。このカットの接続が露わにしてしまうのは、『ヱヴァンゲリヲン』がさまざまな要素を縫い合わせながら、使徒との戦いの連続を意味をなすものにしようといま語りつつあるという事実性だ。新しい挿話を用意し、大胆な省略と整理を行えば行うほど、『ヱヴァンゲリヲン:破』は「”なにか”が編集されたもの」として自らを示さざるを得なくなっていく。ミサトや加持が「この世界」と言うとき、それが「他ならぬこの世界」ではなく、「かつてあったものではない、この世界」というふうに外部を指し示して聞こえてしまうのはそのためだ。ミサトがアスカにむかって「この世界」で「楽しみなさい」と語りかけたあとアスカの陥った不運が悲劇的なのは、「この世界」が実は依然として『エヴァンゲリオン』の論理、つまり「使徒(使徒に侵食されたエヴァ)は必ず殲滅されなければならない」というロジックに侵入されたままで、アスカが「笑う」ことがまだ不可能な世界なのだということを、フィルムがあとから認めてしまったからなのだろう。

 『ヱヴァンゲリヲン』は、旧作と同じで、そして違う。そこに課せられているのは、「同じ」もの、物語や表象システムの構造を再生産しながら、そのプロセスのただ中に、旧作と同じ時間的持続のなかに 「違う」ものを作りだそうとする、極めて難しい作業だ。そのための最初の回答が、たとえばあのゴージャスなアクションなのだろうし、あらためて丁寧に描き込まれた登場人物たちの心の揺れ動きということなのだろう。キャラクターを軸とした新規なドラマを、反復される旧作の中に分散させながらひそかに埋め込み、ラストシーンでのシンジのあの決断へと一気に結実させるというやりかたで旧作をもう一度描き直そうと払われた努力は、きわめて誠実なものだ。しかし、それはこの仕事に含まれた困難を除去するものというより、むしろそれをはっきりと可視化させかねない試みでもある。


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 いくつか気になる細部がある。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の開始から時間が経てば経つほど、この作品はなにか妙なことをやろうとしているという印象が強くなっていくのだ。なるほど、『エヴァンゲリオン』のストラクチャーを保ちつつ、そこにもともと代入されていた出来事を移動し削除することで、新しい物語のための場所を空けようとしていることは物語手法として十分理解できる。そしてそのようにして作られた空のアドレス上には、論理的にいってまったく新しいものを描き込んでいいはずだ。たとえば今回新しく追加されたラブコメ的描写はそういう性質のものだし、そこで描かれていた出来事を通して登場人物たちの関係は別なものへと緩やかに変わっていくだろう。しかし『ヱヴァンゲリヲン:破』の多くの部分では、それが出来たにもかかわらず、上に書いたような意味での「新しさ」が意図的に抑圧されていた。それらが持たされていたのは「新しさ」ではなく、かつての『エヴァンゲリオン』と「違うこと」(示差性)なのだ。「同じこと」(過去と同一なもの)でも、「新しさ」(過去に存在しなかったもの)でもなく、過去と「違ってある」(当該カットの内部で旧作が参照され、同時にそれを上書きする)という水準を『破』はずっと追求している。

 加持とシンジの対話や、シンジとアスカとの心の交流、シンジとミサトの別れ、そういった新しい物語が起こっていく「この世界」の大部分は、実はかつての『新世紀エヴァンゲリオン』の世界がねじれ、鏡像のように反転したものとして描かれている。その奇妙さを要約するとたぶん以下のようになる。旧作通りの世界で、旧作通りの出来事をリファインして描くこと(『序』が採用した「REBUILD」の手法)は分かる。それは旧作を語り直す上で避けられないことだ。旧作が描かなかった舞台を導入し、そこに旧作になかった新規な出来事を描き入れようとするのも分かる。それも新たな物語を構想する上でやはり必要なことだろう。問題は、『破』が、旧作の世界を一度反転させたうえで自らのなかに取り入れ、その上で、そこに新しい出来事を描き込もうとしているらしいことだ。この『ヱヴァンゲリヲン:破』でキャラクターたちの新しいドラマが描き込まれていくその「地」、すなわちイメージ群を統制するレイアウトの構成原則にはフェイクの『エヴァンゲリオン』が入り込んでしまっている。乱暴を承知であえて言ってしまえば、『破』のスクリーンは、キャラクターとレイアウトとの間で裂けている。その操作は演出の節度を超えてあまりに執拗に行われているものだ。旧作のそのカットで左にいたはずの人物は右に、画面右手へとパーンしていたはずのカメラは画面左へ向かってゆっくりとトラヴェリングし、上昇運動は下降運動へ、夜は昼へ、背景は入れ替わり、運動の方向は一八〇度差し替えられ、万事がこういった調子だ。いやそもそも、『破』の冒頭でタイトルが明けた直後の最初のカットが既におかしい。そこは視野の続くかぎり墓標の立ち並ぶ場所である点は同じだが、記憶のなかのそこは空虚な盆地だったはずだ。山並みははるか遠くに退いていたはずで、画面は稜線になど遮られてはいなかった。墓碑銘は地面に置かれてはいなかったし、花束は風に揺れていなかった……。シンジとゲンドウとの(ディス)コミュニケーションという同じ物語的効果を得たいのならば、前作『序』と同じようにして単純に同じ場所をより精細に描き直せばよいだけのことだ。なぜ『ヱヴァンゲリヲン:破』の演出家は、「エヴァンゲリオンと違う」風景をフィルムへ次々に導入しようと試みるのか。

 ひとつ具体例を挙げたい。下校中、買い食い目的でいつもの通学路から外れたのだろうシンジたちが夕暮れのなかでやりとりするシーンだ。バスケットボールを手にしたトウジ(どこかで見た映像だ)がいて、彼が「ハズレかいな」とアイスの棒に向かって毒づく。そうすることで、彼は「自分がエヴァに乗る世界」にもういないのだと自覚していることが、分かりやすすぎるほどに分かる。やや離れてシンジとケンスケがいる。ケンスケの興味は、3号機のパイロットが誰かをシンジから聞き出すことにあるようだ。二人が同じ主題を話し合うところは旧作で二カ所ある。そちらの場所は中学校の屋上で、時刻は真昼だった。構図はフェンスに向かって立ち(片方の箇所のケンスケを除く)、もたれる彼らをいずれも後ろ側(背中側)から捉えていた*5。ところが『破』での二人は構図のなかに、背後ではなく正面から捉えられている。カメラと彼らとの間にはフェンスが大きく入り込んでおり、しかも『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』はレンズの効果を強調することに概して禁欲的であるにもかかわらず、前景に侵入したこのフェンスはスクリーン全体にわたってボケさせられている。それが「シミュレートされた」対象であると誇示するかのように。

 世界を切り取っていく『破』のレイアウトがここでケンスケとシンジを捉えた視線は、旧作の構図が彼らを捉えていた視線と正対する位置から発せられるものとして想定されている。もちろんそれだけなら、単に「同じもの」を違う角度から切り取っているだけのことだ、と言うこともできるのだろう。だからおそらく世界が何らかの意味で「違う」ためには、そのように反対側から見られた世界を一挙に変換してしまうような映像的装置が必要とされるはずだ。今も『エヴァンゲリオン』と多くの要素を共有しているその世界がただ再生産されたものでなく、「違う」世界だと見る者に信じこませるための一つの方法は、「そこにないはずのもの」/「そこにいないはずの人間」がいつのまにかそこに紛れ込んでいることだろう。私の隣を見てもそこには何もいない。しかし鏡のなかには、鏡が送り返してくる私の鏡像のとなりには、しっかりと幽霊が映りこんでいる。私だけがいる世界が本当なのだろうか、それとも、幽霊と私とがいる世界がほんとうなのだろうか? マリがフィルムのなかに呼ばれたのは、恐らくそういう形式の問いを与えるためだ。そして、彼女が入り込むことになる『ヱヴァンゲリヲン』の世界が「模造されたもの」、「シミュレートされたもの」としてせり出しつつあることを改めて受け手に確認させるためだ。


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 マリはフィルムのなかで一度も名前を呼ばれなかったが、そのことを気にした様子はない。孤独に仕事をすることは、もしかすると彼女自身が望んだことなのかもしれない。電話がかかってきたので、彼女は荷物から旧式の携帯電話を取り出し、外国語で喋りはじめた。マリはその通話の最初のところで一度だけ、名前らしいものを口にしてはいる*6。単なる自称で、音の集塊でしかないそれを、字幕が「マリ」とフォローすることで画面上に固定している。だが字幕とは映像の外にある審級で、それは生産されつつある彼女の身体イメージの系列に対し、事後のエンジニアリング=ポストプロダクションの工程によって焼き付けられるものなのだった。そうすることで一度だけフィルムに書き込まれる彼女の名には、従ってすでに「第三者によって作為的に挿入されたもの」としての痕が刻まれている。マリにはまだ名前がない*7。だから彼女は、一人のキャラクターというよりも様々な「もの」――たとえばメガネ――の集積体としてこの世界に到来したのだ*8。その柔軟性が、たぶん彼女の強みなのだろう。

 そう、マリのやりたい放題ぶりときたら、まったくもって「目に余る」ほどだ。何しろ彼女は『ヱヴァンゲリヲン』へと入り込むために、主要なキャラクターたちをこれまで捉えてきたフレームそのものを強奪してしまったのだから、これほど傍迷惑なメガネキャラもそうはいない。『破』冒頭のファーストカットで暗闇のなかから浮かび上がってくるマリのアップショットは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のあのクライマックスでポジトロンライフルの照準をつけようとしていたシンジの姿を丸ごと盗んできたものだった(バイザーをつけているところまで一緒だ)。そのあとでマリは実際にシンジに出会うことになるのだが、その時シンジをあとに屋上を走り去る彼女を捉えたロングショットのレイアウトは、もともと『序』でシンジから同じように走って去っていく綾波レイを描くために用意されていたはずのものだ(シンジとレイとの関係性の乗っ取り)。アスカについてはどうだっただろうか。『序』の最後に置かれていた予告篇では、これから『ヱヴァンゲリヲン』に起こるはずの変化の一つとして、旧版で「チッ! 次っ!」とパレットガンを捨てる*9アスカの表情が修整の上で一瞬挿入されていた。しかし脚本は変更され、アスカが『破』でその動きを所有することはない。アスカのために『ヱヴァンゲリヲン:序』が予約してくれていた未来、つまり第10使徒戦の動きと時間の場は、いつのまにかマリのものになってしまっていた。マリが侵入し、フェイク化するのは『エヴァンゲリオン』だけではない。前作の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』の映像空間にまでその範囲は及んでいる。問題は、そのような強引なやりかたでフィルムの中に入り込んだあと、マリが何をしたかだ。

 なるほど彼女は、これまでの『エヴァンゲリオン』にいなかったタイプのキャラクターだ。旧作のパイロットたちが、母親の魂が封じ込められているエヴァのコアと一対一の関係で結びつけられていたとするなら、マリは自分のエヴァ(仮設5号機)を失うことで逆に解放され、第3新東京市へと到来する。彼女がエヴァに乗って戦うのは、父親からの評価(シンジ)や自分の居場所(アスカ)が欲しいからではなく、それが単純に「面白い」ことだからだ(「すっげえ痛いけど/面白いから、いい」)。

 さきほど触れた通り、『ヱヴァンゲリヲン:破』で起こる事件それ自体は、旧作テレビシリーズのおよそ四分の三までの話数で描かれていた出来事に、大枠では沿っている。だが『破』の一部には、物語的にも映像的にもずっと後続するものである旧劇場版『THE END OF EVANGELION』(一九九七年)のフィルムに属していたイメージが時折無造作に挿入されている。本作の最後で起こった使徒との戦闘でマリのエヴァ2号機がとる高密度なアクションの中には、『THE END OF EVANGELION』においてアスカの操る弐号機がとったアクションだけでなく、それ以外のものが同居させられ、輻輳を起こしていた。『THE END OF EVANGELION』で上方に射出され、量産型エヴァの頭部を串刺しにしていたニードルは、『破』ではマリによって下方に射出されるが、それは第10の使徒のA.T.フィールドを貫通することができない。一方でマリが2号機の「モード」を変えることで発動される「噛みちぎる」という動物的な動作は、かつてアスカの弐号機をバラバラに解体し食い尽くした際の量産型エヴァンゲリオンの動作だった。アスカの死にもの狂いの戦いに属していたはずのイメージの系列は、まるで「面白い」なら何でもよいとばかりに読み出され、マリのアクションの構成要素として次々に消費されていく。それはまるで、彼女の行動とともに旧作『エヴァンゲリオン』がその先に辿りえた展開可能性が残らず抜き取られ、いやでも制作者に新種の物語を語らせようとしているかのようだ。マリの口にする「面白さ」という表現は、ここまでの『ヱヴァンゲリヲン:破』が追跡してきたはずの”なにか”、つまり旧版の物語的連続性に、それが辿りえた「未来」をアクションという形式で強引に接ぎ木してしまうことによって、レギュラティヴに旧作をコントロールしようというフィルム制作の(従ってまたメタレヴェルの)論理をキャラクターの水準で回収するための装置だと考えることができるだろう。

 ここにあるのは、あたかも『ヱヴァンゲリヲン』という新しい作品が「マスター」となって、『エヴァンゲリオン』という古い「スレーブ」を参照し読み替えるというような、通常見られるテクスト間の相互関係ではない。仮にマリが「面白さ」のために大暴れの限りを尽くしたからといって、そのことは『ヱヴァンゲリヲン』が、今後あの『THE END OF EVANGELION』の凄惨なアプローチや、テレビ版『エヴァンゲリオン』最終二話での映像的実験を反復することを一切妨げはしない。マリが達成してしまうのは、逆に旧版のデッドコピーをも含めた『ヱヴァンゲリヲン』のあらゆる展開可能性を肯定しながら、同時にそれが展開される時には、既にそれが彼女の手によって反復されフェイク化されてしまっているかもしれないという可能性のラベルを、『エヴァ』/『ヱヴァ』のすべてに貼り付けて回ることなのだ。マリからのメッセージは極めてシンプルである。キミのその選択は既に繰り返されたものかもしれないが、それでもキミはそれを選ぶか、その対象は既に私がフェイクに書き換えておいたものだが、キミはそれにどう抵抗するのか、と。

 『ヱヴァンゲリヲン:破』のラストで、碇シンジはそれまでの物語に対して唐突とも思える決断をする。シンジは自分がどうなっても構わない、世界がどうなっても構わないと叫んで使徒に取り込まれた綾波レイを救う。シンジのこの選択は、かつての『エヴァンゲリオン』の物語(「自分」への撤退とディスコミュニケーション)と、『ヱヴァンゲリヲン』の新しい物語の条件(この世界に生きる他者への信頼とコミュニケーション)を共にリセットし、それを新しい物語的展開に接続させることができる質のものだ。シンジは「世界がどうなったっていい」、「せめて」綾波レイだけは助けると言う。それは彼が、『ヱヴァンゲリヲン』の世界に背を向けて自閉することを必ずしも意味していない。シンジは、自分が世界において取り得る選択肢の全体をスキャンして、その中からレイを救うという選択をしただけではない。「せめて」レイは助けるという言い換えの中には同時に、彼が「助けられなかった」人間(アスカ)の記憶が反響している。シンジが「せめて」レイを救うと決断するとき、彼は既に『エヴァンゲリオン』の影の中にはいない。彼は新劇場版という新しいテクストが切り開いていった、固有の物語の時間のなかで決断を下しているのだ。

 マリがシンジに本格的に接触したのはこの時だった。これまでバックグラウンドで『エヴァ』/『ヱヴァ』を操作してきたマリがシンジの新しい物語に割り込む時、何が起こるのか。マリはこの出来事のベースとなっている旧版第拾九話の出来事の構造それ自体を変えられないし、彼女のエヴァ2号機は、アスカの時と同様に最終的には使徒に敗れ去る。しかし一方でマリは、旧版と違う決断を下そうとしている時のシンジになんとしてでもアクセスしようと試みる。レイによって投げ飛ばされた2号機は、「なぜか」シンジのいるシェルターの位置に正確に落下し、「なぜか」かつてのように無関係の市民を頭部で押し潰すことなくシンジの目の前へと姿を現す。あまりにもご都合主義的に見える演出ではある。そこまでして、一体何の為にマリはシンジに接触したのか。

 驚くべきことだが、マリはシンジに、使徒を「殲滅」するため戦えと言うような類の説得を一切行わない。逆に逃げろと唆してしまうほどだ。彼女がシンジにするのは、彼が戦闘に参加しなかったことで起こった結果をただ「見せる」ことであり、シンジの左手に2号機の人工の血液を浸させることだ。しかし、マリがシンジに与えたこの後者の血液は、使徒に取り込まれたレイを救出するよう直接彼に促すものではない。それがシンジにとってレイを指示する機能を持つためには、シンジの側での一種の翻訳作業が必要になるのだ。シンジとレイとの触れあいを表象する手の絡み合いは、これまでの『エヴァ』/『ヱヴァ』のなかで常に「右手」によって行われてきたことを思い起こしておこう。『エヴァ』旧劇場版のLCL の海の中で一度は結び合わされ(『THE END OF EVANGELION』)、触れそうで触れない距離を保ち(『序』)、レイの血液にまみれる(『新世紀エヴァンゲリオン』第壱話、『序』)という形でこれまで保たれてきたレイとシンジを結び合わせる右手の表象の系列にマリは決して入り込もうとはしない。マリがシンジにたった一つ手渡すものは、それのフェイク、シンジの「左手」に付着した血の映像なのだ。マリによる介入の結果として見たとき、シンジの決断は、マリの握らせた偽りの左手の表象を、シンジが彼自身にとっての「右手の物語」へと再翻訳すること、左手ではない「この右手」を使ってレイを救出するという水準に置かれている。『ヱヴァンゲリヲン』を全く新しい次作へと開くためのシンジの決断は、マリによる「手」のフェイク化と左右を入れ替えるオペレーションによって可能にさせられていたのだ。だから『ヱヴァンゲリヲン:破』の最終部でシンジが綾波レイを選ぶことの意味は、マリによって方向づけられたものとして見たとき一種の困難を含んだものになる。「左手」から「右手」へのこの移行は、隠喩の移動距離として単に短い。このような差し戻しは、それ自体鏡像の論理のような反転操作の水準に属するものかもしれない。「私が消えても代わりはいるもの」というレイに「違う、綾波は綾波しかいない」と叫んだシンジは、物語を新しく切り開く選択を下したのではなく、ことによると単なる否定(「違う」)を行っただけではないのか。だからこそ彼はレイの言葉を即座に否定することができたのではないか。

 綾波レイは、シンジの母親のユイがクローンされた人間なのだった。従ってシンジのエヴァ初号機は母親の複製を自らのうちに取り込んだことになる。そのことは物語的な問題性を孕むだろう。シンジが、ユイ(=唯、1なるもの)から派生したレイ(=零、0)の固有性をいかにして知るかは、次作での物語的課題になるだろう。しかし制作者は、「なぜレイなのか」だけではなく、「なぜ『この右手』なのか」というフィルムからの問いに対しても応答する必要がある。その答えはもはや物語的に解決可能な問題ではなく、アニメーションの表象体系の徹底操作として、『ヱヴァンゲリヲン』のイメージ戦略の内部において探し求められる必要がある。それがどのようなディレクションによって行われるかは私たちにはもはや想像もつかない。だが、次作でシンジの選択に対する揺り戻しが起こる可能性はかなり高いだろう。『ヱヴァンゲリヲン』が「この右手」への問いを内包してしまったことは、知的に完結させられていたはずの『エヴァンゲリオン』が、あの旧劇場版『THE END OF EVANGELION』を呼び出してしまったことを思わせる。次作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』が私たちに提示するのは、従って単に新規なドラマの「エンターテインメント」とはならないだろう。庵野秀明たちの仕事に、「楽なもの」などこれまで一つも存在しなかった。私たちは再び期待して待っていればいい。しかし私たちが次に目にするのは、今度こそ決定的に恐るべき仕事になるかもしれない。『ヱヴァンゲリヲン』とはそういう期待と畏怖を抱かせる仕事だ。それは「エヴァ」の時代から変わることがない。



上に公開されたテキストに関する注記

 この文章は、同人誌『RE:EV』(リ:エヴァ)に同タイトルで収録されたテキストの全文です。

 『RE:EV』は2009年12月のコミックマーケット頒布されました。同誌の詳細な内容については、編集・発行を務められたさやわかさんのブログ『Hang Reviewers High』の告知ページをご覧ください。
 テキストの転載にあたり、追記は行っていません。従って内容は同一です。ただし、ネット向けに行分けなどが変更されていますし、強調傍点をイタリックで代用したり、横書きに適した表記に変えたりしています。そのため、オリジナルの誌面と厳密には同じになっていない部分があることをご承知おきください。拙稿を引用・参照などされる際は、可能でしたら『RE:EV』の本誌を入手して行っていただければ、と思います。

 この同人誌が世に出るまでの間には多くの出来事がありました。編集協力をいただいた飯田一史さん、西島大介さん、youkiss(壁の彩度)さん。装丁・本文デザインを担当された柊椋さん。素晴らしいイラストレーションを描いて下さった、創作サークル「壁の彩度」saitomさん、TNSKさん。インタビュー、アンケートに応じてくださった皆様。そして原稿の転載を快諾くださり、『RE:EV』刊行に尽力されてきた、さやわかさん。筆者の一人として、心からお礼を申し上げます。

*1:『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』には、旧作テレビシリーズ第拾九話以降の内容も先取り的に取り入れられていると考えられるが、ここでは制作者サイドの認識を優先した。監督の一人である鶴巻和哉はインタビューの中で、本作が当初扱うことを想定していた旧シリーズの範囲が「八話から拾九話まで」であったと証言している。『Cut』二〇〇九年八月号、鶴巻へのインタビューより。

*2:『EVANGELION:1.11』(二〇〇九年)、追加カットナンバーC-1700 でのゲンドウの台詞表現より。この『EVANGELION:1.11』は、『破』の前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(二〇〇七年)をDVD 化した『EVANGELION:1.01』(二〇〇八年)に対しさらに三六の新作カットを追加し、DVD/Blu-ray の両パッケージでリリースされた、『序』の「修正版」といえる。本作中で使徒の圧倒的な復元能力を「単独で完結している準完全生物だ。当然だよ」と評したゲンドウの台詞を引き継いで、同C-1701 では、副司令冬月コウゾウの「生命の実を食べたモノたちか」、ゲンドウの「ああ、知恵の実を食べた我々を、滅ぼすための存在だ」との台詞の追加がみられる。本作は劇場公開版の『ヱヴァンゲリヲン:序』に対し多くの修正を加え、ミサトがシンジに「使徒」の存在を教えるシーンを追加するなど、「分かりやすさ」をさらに追求したバージョンとして考えることができる。にもかかわらず、使徒へのアクセス不能性と理解不可能性を強調したこのような会話シーンが追加されていることは、きわめて興味深い演出だ。

*3:たとえば旧版テレビシリーズ第参話Bパートにおいて、オペレーターが発した「 [ 前回の使徒の襲撃と今回との間隔は] たったの三週間ですからね」という台詞表現や、同第九話での「6日以内での特訓」といった物語要素は、『ヱヴァンゲリヲン』新劇場版では排除されている。

*4:旧版において、最初に明確な再編集とリミックスの方法論で制作された第拾四話の英文サブタイトルが「WEAVING A STORY」と題されていたことを思い出してもいいかもしれない。

*5:正確には、旧版拾七話Bパートでは左側にシンジ、右側にケンスケがおり、ケンスケだけがフェンスの向こう側に出て腰掛けている。同拾八話Aパートでは、左右の位置は同じ、シンジ、ケンスケともフェンスの手前にいて、立ってもたれかかっている構図になっている。背中側から捉えている点はいずれの箇所にも共通。

*6:この劇場公開版では、マリの通話相手の声は音声トラック上に入っていないように筆者には聞こえる。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の、時に過剰とも思えるアナウンス類の演出とは対照的な措置だ。

*7:マリがフィルム中で非人称的な存在であることの重要性は、ブログ『飲めヨーグルト』の優れた評が気付かせてくれることだ。同評に寄せられたユーザーからのブックマークコメントの一つは、マリを「メガネ」と表記し続けた同ブログ筆者の姿勢に対し「てかマリって書けよw」としている。しかし私たちがここまで見てきたとおり、『破』のなかには、私たちがマリをマリと呼ばなくてはならない必然性が実はどこにも見あたらない。正確には彼女は、たとえば「メガネ」(それがお好みでなければ、もちろん「ニーソックス」でも「チェックのスカート」でも構わない)と呼ばれなければならない。この点で筆者のyoghurt 氏はまったく適切なのだ。yoghurt「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破をみたZE!」(『飲めヨーグルト』http://d.hatena.ne.jp/yoghurt/  二〇〇九年七月三日、同七月二六日アクセス)。

*8:たとえばマリが持っているフリップ式の携帯は、その他のパイロットたちの持ち物と違ってかなり古めかしいもののように描かれている。それの形状は、一九九七年に公開された『エヴァンゲリオン』旧劇場版でネルフ職員たちが持っていた旧式の携帯電話に似ている。映画冒頭では加持と日本語で話していた彼女だが、『破』中盤でこの電話を使い、英語で会話した際の電話の主が誰なのかは明らかになっていない。レビュアーたちの多くがこれまで『ヱヴァンゲリヲン:破』に対して行ってきたような、細部へのトリヴィアルな読みに引き続き私たちが沈潜したいのだとするなら、たとえば私たちは以下のように問うてみるべきではないか。私たちのこの二〇〇〇年代においてすら古い世代の携帯電話は使用できなくなりそうだといわれているのに、マリの携帯は本当にどこかに通じているのか? マリがそれにむかって自分の名前を語りかけ、そうすることで作品のなかに「マリ」という一人のキャラクターとして彼女自身をインストールしようとする電話の主は、この『ヱヴァンゲリヲン:破』において本当に存在しているのだろうか? と。

*9:『序』末尾予告篇でのこのカットはテレビ版第拾九話Bパートの映像を兼用に近いかたちで参照している。なお、このテレビ版放映回で描かれたのが、『破』での「最強の拒絶タイプ」第10の使徒戦の原型となった使徒ゼルエルとの戦いだった。

2009-12-24 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』同人誌に寄稿しました このエントリーを含むブックマーク

お知らせです。

12月31日の冬コミ頒布される、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の同人誌レビューを寄稿させていただきました。同人誌の名前は『RE:EV』(リ:エヴァ)、さやわかさんが編集をされています。レビューのタイトルは「エヴァを壊すこと、鏡を割らないでいること」で、約一万二千字とかなり長い文章になりました。目次等詳細につきましては同誌の告知ページをごらん下さい。豪華な執筆陣を擁する論考欄の、な、な、なんとトップバッターです。

なお、このブログで今年七月に同じ題のエントリが投稿されていましたが、これに長い追記を行い、既にアップされた部分にも大幅に改変を行っているので、分量は三倍以上、内容でも完全な別物となっています。ほかの執筆者の方のレビューやインタビューも大変興味深いもので、さやわかさんの編集によってとても愉しい一冊に仕上がりました。僕も自分なりに全力で書いたつもりです。12月31日にコミックマーケットに行かれる方は、ぜひお手にとってページを開いていただければと思います。

このブログが次に更新されるのは2010年のことになるでしょう。それでは、どうぞよい休日を。



[2010/01/23追記]
昨年末のコミックマーケットで販売された『RE:EV』ですが、待望の通販が開始されました。関係された皆さまに心から御礼申し上げます。
購入には、COMIC ZINの情報ページ、またはまんだらけの商品紹介をどうぞ。誌面イメージも確認できますので、ぜひチェックしてみて下さい。『RE:EV』にあわせて展開される、西島大介さんの「RE:EV EXTRA」シリーズも必見ですよ!

2007-11-20

[][][] 00:27 を含むブックマーク

Beautiful World / Kiss & Cry

Beautiful World / Kiss & Cry

渋谷アミューズCQNヱヴァンゲリヲン新劇場版観てきた。言いたいことは山ほどあるし、複雑な気分でスクリーンを見ていた時間が長かったんだけど、最後は宇多田ヒカルに合わせて小刻みに頭をスウィングさせながらエンドクレジットに見入ってました。要するに、そういうことです。


いろいろ考えたけど、本題だけ簡単に。旧作に難点込みで向き合った上で、もう一度新しい物語を模索しようという姿勢ははっきりしていたと思う。そのことに好感を持ちました。例えば旧版の六話にあたるヤシマ作戦では、シンジミサトたち以外の人間に血肉を与えようとする努力が払われていた。群衆や中学校の同級生や、多分エヴァなんてこれまで目にしたことさえなかったネルフの下級職員たちはもう背景としてではなく、キャラクターとして生きている。彼らはシンジが失敗すれば死ぬしかない人々です。そして、シンジが逃げ出すことは彼らを放り出すことを意味する。物語にその種の動機付けを与え直すことと、不条理な暴力から逃げ出したいシンジとの間には新しいテンションが発生することになり、そうした力学をどのようにコントロールするかがおそらく今後の展開にも関わってくるんだと思う。かなりベタベタなリアリズム劇の方法論でそれをやろうとしている箇所もいくつかあって(伝言メッセージの使い方など)、若干危なさも感じたんだけど。でも、それはまあそうなるしかないんじゃない? あれほど気合いの入った反物語を引っ繰り返そうとするのだから、細部で多少グダグダしないはずがない。


垂直発射されるミサイルアナログな電力ゲージの動き、全周防御に使われる荷粒子砲などは、『王立宇宙軍』『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』のセルフパロディか。ヤシマ作戦発動後の指揮通信車内の描写など、新作カットの多くが緊張感あふれるものになっていたのに対し(一体誰なんだろう、あそこを担当したのは?)、旧作カットのリビルド部分が良くないのが気になった。はっきり言って相当良くない。特に引き画。基本的にサイドカットしても(左右を落としてTVと同じもとのアスペクトにしても)全部意味が通ってしまう画でした。ビスタサイズ固有のポテンシャルを出し切った構図ではまったくないし、そのことによって「TV」という審級がフィルムの中に持ち込まれてしまっている。実際、物語・構成面と比較すると、映像・編集面でのディレクションが固まっていない印象が強くて、例えば旧版で強力だった高速カッティングを抑えたり、アクションの演出を鈍さ・重さを強調する方向性に振ってみたりというものは確かにあるんだけど、決定的なものにはなりきれていないんじゃないか。そして終盤近く、あのミサトとの廊下でのダイアローグを僕は避けてほしくなかった。あそこでは作り手が逃げに入ってしまっていたと思う。


でも、それも悪いことではないかもしれない。いまは多くの点で旧版に拘束された状態かもしれないけど、それは見方を変えれば『エヴァ』と『ヱヴァ』という二つの作品の間に対話が成立していることでもあるから。その齟齬の中からこれから庵野たちの新しい仕事は独自の作品へと変化していくのだろうし、また逆に『序』やそれ以降の新劇場版を通すことによって、旧世紀版や、それが批判を繰り出そうとしたTVやテレビアニメーションというメディアの持った意味も別の角度からはっきりするのではないか、とすごく期待しています。長い時間が経って、それでもまだ解けない問題があり、それに再び立ち向かっていこうとする制作者たちがいる。それこそが文句なく嬉しいことなのだと、僕は思うんです。

BigHopeClasicBigHopeClasic 2007/11/23 14:29 公開から三ヶ月近く経ってもまだ、こうしたフレッシュな感想を読める事に感激しています。

>映像・編集面でのディレクションが固まっていない印象が強くて
この点は全く同感です。
この映画もご多分にもれず制作スケジュールは押しに押して、貞本義行が作監として入った今年6月の段階で、「もうなんぼなんでも8割はできてるだろうと思ったらとてもそんな状態じゃなかった」ところから、公開週の月曜日に完成してその日に初号試写、次の日に映倫へ持っていって木曜にフジテレビで試写会、土曜に全国公開という状態で、編集面までとても詰め切る余裕がなかったのはむべなるかな、という感じでした。
エヴァ板では7月の予告第一弾と8月の予告第2弾の画像を比較して、「第5の使徒」が飛行形態から直立形態に移行したシーンで、ビルのテクスチャが7月ではまるでなってなかったことを指摘した猛者がいましたが、ほんとうにギリギリまで仕事をしていたことがうかがえるものでした。

>あのミサトとの廊下でのダイアローグを僕は避けてほしくなかった。

これがどのことをさすのか、詳しく教えて頂けますか?
思い当たるシーンがいまひとつ浮かばないのです。

>『エヴァ』と『ヱヴァ』という二つの作品の間に対話が成立している
大月俊倫が「庵野と帰ってきたウルトラマンの映画を作るなら1話から6話のダイジェストだよねという話をずっとしてきて、それと全く同じ構図が序」という話を繰り返ししていましたが、わたしは「序」はその言葉通り、6話までのダイジェストという形を取って一気にテレビ版19話までを濃縮しきったのだと見ました。
一見不要とも思えた葛城家でのコント風のカットを残したりしたのもその意図であったかもしれず(いわゆるアクション編の代替)、第拾六話の心理描写シーンは先取りされて二度持ち込まれています。ヤシマ作戦を迎えるに当たってのシンジとミサトの会話は、第拾九話の加持とシンジの会話に対比され、その後のシンジの戦いに至る経過も拾九話の要素が濃い。
とすれば「序」はテレビ版において、「一般的なアニメ」の枠内に収まっていた部分を全て収めたとも言え、それはつまり、作り手側がエヴァの「一般的なアニメ、としての面白さ」をどのようにいま理解しているのかを呈示した機会として貴重であったと思うのです。
そして同時に、これをつくった事でテレビ版のエヴァからはほぼ自由になり、今現在のフレッシュな問題意識が破において呈示されるだろう事への確信が、わたしたち見る側を今から期待させているのだとも。

c_a_nagaokac_a_nagaoka 2007/12/01 03:18 BigHopeClasicさん、はじめまして。
このブログを開設して、初めて頂いたコメントがこのように剛速球の言葉であったことが、本当に嬉しかったです。ご関心に応えられるよう、頑張ります。

新劇場版の制作スケジュールは、相当無理をしたものだったそうですね。正確な状況については制作関係者の証言を待たなければいけないですが、各劇場への搬入やプリントなども含めてどう考えてもギリギリだったでしょうし、お疲れ様でしたとしか言葉が出ません。僕もYahoo! の制作日誌を読んで、「これ、間に合うのか?」とはらはらしていたうちの一人です。今年2月から3月にかけてのロケハンで撮影されたと思しき素材が、そのままラミエル戦での変電施設内のパネルや空撮カットになっていましたね。また、日程がここまで押せ押せになったため、結局かつてのTV版の進行状況と似た環境下での作業になったことにも因縁を感じます。例によって脚本+コンテにかなりの時間を取られたのではないかと思うのですが、そうした乱調や混乱が、意外と作品の内容にも響いているかもしれません。

「あのミサトとの廊下でのダイアローグ」とは、ヤシマ作戦パート、説得に病院を訪れたミサトとシンジとの渡り廊下での対話です。一度観ただけの段階では、ミサトがシンジの手を取り地下へ連れて行くというその後の流れも含め、これは演出が逃げたな、シンジの問いかけを回避してしまったな、という印象を強く受けました。
旧版と新劇場版の違いのひとつとして、シンジが「死」という言葉を繰り返し発する点があると思います。この変更点は構成・脚本レベルで強く意識されているはずですが、実際、新しく90分に圧縮された新劇場版においては、シンジは使徒の襲撃に間断なく晒されているように描かれざるを得ない。エヴァに乗るということは死の危険を冒すことだ、失敗すれば死ぬかもしれない(にもかかわらず戦う理由が得られない)、という恐怖をシンジが一層強く持つ余地がそこには生まれるはずです。そこで『アニメスタイル』の小黒祐一郎さんのコラム「エヴァ雑記」http://www.style.fm/as/05_column/animesama35.shtmlを思い出したのですが、旧世紀版『エヴァンゲリオン』では、登場人物たちがほぼまったく視線を合わせないという指摘を小黒さんはされていました。一方、シンジはあの廊下でミサトに、自分が死ぬかもしれないことや、あなたたちは安全な地下で指令を出すだけではないか、ということを、はっきりミサトを見て問いかけています。状況を変えるには、そらしていた視線は相手へと真っ直ぐ向けなければならない。だとするならば、演出家は彼の問いかけを何よりもまず画面で受け止めてやるべきだったのではないか、換言すれば、ミサトがシンジの訴えにその場では答えずシンジの手を取る前に、同じ画面内で呼吸する人間として、まず二人を単一のカットの内部に置き、その場できちんと対話を成立させてほしい、と感じたんです。

ただ、その後観直してみたところ、その箇所も含め初回ほどの消化不良感はなかったんですね。シンジとミサトの間のドラマだけが問題なのでは当然ないですし。『ヱヴァンゲリヲン』という作品自体が、たぶん非常に微妙なバランスの上に立っていて、演出レベルで数箇所手を入れたくらいではどうにもならないような困難を――今回も、と言うべきなのでしょうが――抱えている。問題にするならそのこと自体を問わなければいけないだろうな、とちょっと考えを変えたんです。上の例で言えば、じゃあミサトには答えや確信があるのか。多分、いまの彼女はまだそれを持っていないんですよね。それならば多少ノイズが混ざっても、場所を変え、旧作にはない新しい映像やカット(例えばリリス)を描き起こすことによって、登場人物たちがTV版で経験し得なかった要素をまずフィルムに入れていってみようというのは一つの見識かもしれません。作劇上、いまシンジにリリスを見せていいのかという問題もあるはずですが、不確定要因をあえて大きく増やすことで、物語を今後動かしうる新しい方向性を探ろうとしているのかもしれません。BigHopeClasicさんの指摘ではじめて気付いたのですが、確かに『序』は第六話までのダイジェストにとどまらず、さらに進んで「テレビ版19話まで」を包含するような内容になっている。それも単にまとめるだけではなく、旧作の時系列に対し積極的に編集をかけていますね。例えば拾六、拾九話に該当する電車内の遣り取りを、『序』では冒頭直後に持ってくるというように、旧作の出来事の順序や心象風景の系列をシャッフルして、その意味作用を変えている。そのため旧『エヴァ』の持っていた演出技法の引き出しはどんどん空っぽになっていって、新しい演出を嫌でも出さざるを得なくなってしまう状況に自らを追い込んでいく。

『急』のあとの第四作まで既に脚本が完成していて、そこからの逆算で作っているのでは明らかにないですよね。庵野に限ってそれはありえない。アニメーションの制作プロセスそれ自体が、時にはその破綻さえ、彼にとっては表現の一部なのだということを、庵野秀明はこれまで多くのインタビューや自作を通じて直接的間接的に語ってきました。そしてそれは『ヱヴァンゲリヲン』でもほとんど変わっていないんだな、ということを画面から感じて、嬉しくなりました。彼のこのスタイルは制作現場に大きな緊張を強いますから、決して無条件にではありません。でも、過去作に見られたこうした姿勢を『ヱヴァ』が引き継いでくれたことは、やはりいい知らせのように思っています。