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2014-08-18 【重要】艦これ合同誌『落陽白書』長岡・七里対談への補足情報 このエントリーを含むブックマーク

コミックマーケット86が無事終了しました。初日となった15日は、艦これ合同誌『落陽白書』を発行する漢江鎮守府のスペースにも、たくさんの方にお越しをいただきました。寄稿者の一人として、みなさまに心から御礼申し上げます。ありがとうございました。



さて、合同誌に収録された長岡司英・七里の対談「ゲームのエンディング、ゲームとのエンゲージング」(120-135頁)ですが、たいへん申し訳ないことに、図版のキャプションや強調傍点など、いくつかの記載が掲載ページから抜けていたことがわかりました。この場にて、その補足をさせていただきたく思います。

キャプションに相当する情報は本文中に含まれておりますので、普通にお読みいただくぶんには支障はなく、また、以下に掲載する補足は、対談内容そのものに変更をくわえる性質のものではございません。ただ、われわれの記事を参照などしていただく場合は、可能でしたら以下の内容にもお目通しをいただければさいわいです。カッコ内は『落陽白書』のページ数となります。




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(123頁)
図版キャプション「図1」→「図1:『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)一九四一年一二月九日(日刊)」

(127頁)
図版キャプション「図2」→「図2:>>580氏作成、イベントマップおよび5-3合成図」

(127頁)
図版キャプション「図3」→「図3:ガダルカナル島周辺衛星地図(bingより)」




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(124頁上段)「徳之島西方二十哩(ママ)ノ洋上、「大和轟沈シテ巨体四裂ス」→
f:id:c_a_nagaoka:20140818215625j:image:w410,h30


(126頁中段)「飛龍から発艦していくあの攻撃機には、もしかしたら人が乗り込んでいるんじゃないか。」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215626_original.jpg


(126頁中段)「一人一人がちがう名前で呼ばれうるような、人がいるのかもしれない。」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215627_original.jpg


(133頁下段)「一つには、ゲームの論理のなかでの投了という問題でしょう。」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215628_original.jpg


(134頁上段)「この対談で一番こだわってきた、参照される戦争の終わり、つまり敗戦」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215630_original.jpg


(134頁中段)「表象される歴史がどのようなものであれ、艦娘とともにゲームから降りるという自由も」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215631_original.jpg




以上となります。

原稿の内容には万全を期しておりましたが、後日このようにして記載の抜け落ちをご案内することとなり、ほんとうに申し訳ありませんでした。取り急ぎ上記をもちまして、ご報告、そしてお詫びとさせていただきます。みなさまの御諒解をいただければ、さいわいです。

2014-08-08 『艦隊これくしょん -艦これ-』合同誌に寄稿しました このエントリーを含むブックマーク

毎日暑いですね──さて。


今月15日のコミックマーケット一日目にて、ふみふみこさん主宰サークル「漢江鎮守府」より、艦これ合同誌『落陽白書』が発行されます(142P、頒価1500円)。この本に、七里さん(id:nanari)とぼくの対談記事を寄稿いたしました。タイトルは「ゲームのエンディング、ゲームとのエンゲージング」です。

寄稿は五十音順に、・秋月耕太・今井哲也板倉梓さやわか・しまどりる・師走の翁大沖・ちろり・七里・PALOW・ふみふみこ円居挽mot・山本充の各氏とわたし長岡です。カバーイラストは今井哲也さんが、デザインを川名潤さん、motさんが担当されました。

われわれの対談ですが、分量は27000字強、原稿用紙換算では八〇枚弱といったところでしょうか。その詳しい内容は当日のお楽しみとして、これまで七里さんとしてきた対談のうちでも、今回のものがもっとも異形の対話となったと、入稿を終えたいま感じています。一言でいえば、風変わりで奇妙な対話です。ぜひ、コミケにお運びいただき、それを誌面にてご確認いただければと思います。なお、ふみふみこさんのご意向によれば、後日COMIC ZINさんにて通販の予定もあるとのことです(価格はコミケとは異なります)。


8/15(金)、コミケ一日目の「漢江鎮守府」ブースは東L04bです。皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げております。熱中症には、どうかくれぐれもお気をつけて!

2014-04-07 長岡日記(3) このエントリーを含むブックマーク

宿題が積み重なっている。一つ一つ解いていきたいと思う。





2014/4/5
もはや疑いようもなく太ってきている。いかん。

ぽよぽよしている。ぽよぽよしているぞ。





2014/4/2
最近、新書類のタイトルに「〜は絶対するな」「〜はやめなさい」という、命令形の書名が増えてるのはなぜなんだろう。特に、否定命令文が多いのが気になっていて。光文社新書に多いかもしれない。一種の脅迫商法のように思えるのだが…

それと、年度明け以降、前田愛をよく読むこと。なぜ本郷で前田がかくも厭悪されるのかを──むろんその嫌悪は不当だ──、どうでもいいような人脈の話(本当はどうでもよくないのだが、それはもう聞き飽きた)を抜きにして、前田の仕事そのものから考えたい。その上で、それを歴史的に位置づけること。

スポルティバのボルダーXミッドはいてるが、ふかふかで歩き心地そんなに悪くない。街で履くのもったいないね、旅行か軽い山登りででも。





2014/3/18
人文書院の『レクチャー 第一次世界大戦を考える』シリーズを少しずつ読み出している。興味深いテーマが並ぶが、頁数の制約から、各冊とも、そのテーマについての端緒を読者に与えることを目指しているよう。研究の中間報告風とも言える。

昨日終わったばかりの、一年がかりの仕事の慰労会をしてきたのだが、卓上に残った串焼きを包んでもらって持ち帰るという、はじめての経験をした。今までは、なんとか食い切ってしまうか(わたし大食なので)、とても一人でどうにかできないような大きな会などでは、食べ物が廃棄されるのを黙って見過ごすかのどちらかだったのだが。お店の人に頼めば意外とすんなり包んでくれるものだ。

その会では妙にSTAP細胞の話などしてしまったが、小保方さんに本当の意味で手を差し伸べようとした人間、今まで誰一人としていなかったんじゃないのか、という意見をその場でした。もちろん事実関係はまだ分からんけれど、この件では彼女よりもっと悪い人間がほかにいるだろうし、あともう一つ、学術的追求の仮面を被った単なるミソジニーが横行してやしませんか、などとも。





2014/3/12
高層ビルか高い塔があって、なかのエレベーターに乗り込むが、エレベーターはきまって途中の階で勝手に停止して、勝手にドアが開く。後はボタンを押しても、インターホンを押してもうんともすんともいわなくなる。ぼくはもっと上に行きたいのに。

エレベーターを見捨てて、螺旋状の避難階段を駆け上がっていく。階段の壁は腰の高さにえぐられていて、そこには人間がおおぜい、切れ目なく座っている。みな一様に本を開いて読んでおり、間断なく低い声で感想をつぶやいている。階段の明かりは上階に行けば行くほど暗くなっていき、やがて周囲は完全な暗闇になる…。

という、自分の状況をあまりにもひねりなく夢に置き換えた夢を何日も続けて見てしまった。うんざりするな。おれが登りたいのは「この」塔じゃない、こんな塔知るか、むしろ塔など吹っ飛んでしまえ、と夢の中で言うべきだったんだと思う。


カラコレ本買ってみた。ケチって英語のKindle版。翻訳でこれ(↓)が出てる。ただし、これは出版時期的に第一版の訳のよう。





2014/3/5
ヱスビーの「四川風ラー油」、うまいです。100円で買えるのでスーパーで見かけたら是非。ノーマルのラー油とは別物。カレーホットとしても使える。





2014/2/24
昨日2/23(日)放映の日テレNNNドキュメント、『自衛隊の闇 不正を暴いた現役自衛官』すばらしかった。web公式によると3月2日に再放送するようなので、ぜひ。http://www.ntv.co.jp/document/


海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」での自衛官いじめ自殺事件をテーマとする番組だが、いじめ(パワハラと言うべきか)の経過に関する隊員の直筆アンケートが隠蔽されていたという問題があった。それを海自の現役三佐が告発し、海上幕僚長が実質上の謝罪会見をするという事態になっている。裁判は進行中。

この三佐のキャラクターが特異。顔にぼかしがかかっているが、これはおそらく取材許可とトレードオフになったものと思われる。ただ、彼の話し方も挙措もとても軍人らしくもなく闘士ふうでもない。率直に感じたところを言えば、きょどきょどした弱気なタイプとの印象を受ける。

ところが、彼は「たちかぜ」の調査経過をずっと心にとめていて、部内での問題解決に見切りをつけるとすぐ裁判所と遺族に働きかけ、組織を動かした。退職圧力を受けながら、部内に留まり、ICレコーダで録音した首席法務官とのやりとりの詳細を番組中で暴露している。番組の重点はやはりここだろう。それを支える彼の信念は、番組末尾にあった「私は組織のために仕事をしているのではなく、国民のために仕事をしているのです」(大意)というものだっただろう。公益通報制度の不備や、隊内の高い自殺率にも触れ、一人の人物を軸に自衛隊のガバナンスを問う、今どきめずらしい硬派な内容だった。

制作はTSP。質の高い音響効果で知られるプロダクションだが、制作部を持っており、いい仕事をする。ドキュメンタリージャパンテレビマンユニオンが担当しても良い内容となったとは思うが、地味ながら一貫した取材内容と番組構成でテーマを掘り下げていったあたり、会社の路線が出た感じもする。

日本のテレビドキュメンタリーの特質が良く出た番組だとは思った。先に「きょどきょど」と書いた彼のキャラクターが何よりいい。頼りなさげな彼の言動が組織に波紋を拡げていく様を、番組は人物に密着しながら淡々と写しとっていく。それは、彼が持つ存在感(「抵抗」と言ってもいい)によってあらかじめ引かれていた番組の路線が次第に変わっていったということでもある。

もちろん細部には疑問も残る。たとえば二度目の首席法務官との会見が不調に終わった後、彼はすぐ問題を公にしているが、公判が迫っているとはいえ、部内の解決に対する見切りが余りにも早すぎないか。二、三日では部隊に対して詳細な調査はできまい。このへんは依然不可解な点として残ってはいる。

事件そのものの解明や、直接の加害者に対する究明も大事なことだが、そこに傾斜しすぎることなく、大組織が持つ問題点を取り出そうと細心を払っていたところによい点があったと思う。自衛隊のプレゼンスは国際情勢とともに高まっているが、それとは別の冷静な視点で組織を眺めていく試みはあっていい。





2014/2/19
体調悪くて家に滞留する日が多い+事務作業ばかりしている、となると、ついつい冬季五輪を観てしまうという流れになる。過去最高くらいの勢いで観てしまう。





2014/2/14
今日はバレンタインじゃないですか! チョコください!!





2014/2/12
これ、そうじゃなかった場合にこのまとめサイトの管理人は責任とってくれるんですかね? http://hamusoku.com/archives/8253157.html

記事に貼り付けられた画像は、静止画キャプチャで1フレームだけ取り出されたものなので、このインタビューの他の箇所で女性が終始顔を隠していたのかどうかは分からない(インタビューの完全な複製VTRがあり、それを参照しながら上記の記事が執筆されたのかどうかは知らない)。そのため、この画像は不自然に見える特定のフレームが恣意的に抽出されたものではという疑念が残る。

一般人がテレビカメラを向けられたさい、人が驚きや照れから顔を背けたり手で顔を覆うことはあって、それは類似のインタビューでは必ず起こることだ。まして、一、二フレームという単位で起こる生理的(に近い)反射を、不意打ちされた状態で制御することなどできない。職業人ですらそうだ。

万に一つ、このカップルの挙動に妙なところがあったとしても、それを判定するために第三者がこのVTRを全部見て、一コマづつコマ送りして検証するようなことが必要なのかといえば、もちろんそんなことは全然不要なことだ。天気に関する街頭インタビューに応じたからといって、その人の身体の生理的反射を1/30秒単位で他人が観察し、好き勝手に論評する権利などどこにもない。それは単純にやっちゃいけないことなのだ。2ちゃんねるのこういう言説を何も考えず拡散するまとめサイトは輪をかけてアホではないのか。





2014/1/22
明日、ママがいない』第二話了。僕は一話は未見で、それもあって全体的な判断を言える段階ではないが、言われているほどひどくないぞ、これ。


野島ドラマらしいベタな表現が大変に多く(例:過剰なフィルターワークと効果音)、それもあってシリーズの着地点がまだ見えづらいところがあるが、里親候補の母親の顔ののっぺりしたメイク・表情の演出などに典型的なように、保護者的な「大人たち」を単純な善として描いていない点が狙いの一つか。養護施設関係者・里親となることを欲する男女の中にある「悪」をあぶり出すところにむしろ積極的な意図があるといえ、関係者の怒りの原因がそこにあるだろう。「然り、大人達にこそ問題点があると作品は言いたいのです」という回答は論理的には明確だが、もっとも、それは番組に抗議している側が納得する答えではないだろう。

見たところ、抗議の声の中には実務家の「善意」や「現場の努力」といった主観に基づくものが多く、それは大半その通りだろうが、現実に児童養護施設内での虐待事案は報告されており例外はある。番組が事前にどういうリサーチを行って作品内の施設描写に到ったのかは、検討の余地があるだろう。

一部でフレームアップ気味に言われた「ポスト」の呼び名だが、本放映回のみ観た印象では、残念ながら病院側の抗議は失当ではないかなと感じた。こうしたあだ名は、たとえばギャンブル依存の母親によるネグレクトを受けた子が「パチ」と呼ばれているように、児童が保護時いた場所による命名で、その取り扱いはエピソードの構成や台詞の展開の必然性に即したものであったと思う。三浦翔平演じる年長の青年が「ロッカー」と呼ばれていることは恐らく村上龍の小説を遠く引いたもので、「ポスト」「パチンコ」「ロッカー」といった名辞の選択自体、児童虐待の歴史的記憶を反映するよう意図されたものかもしれない。

かりに本作の描く施設の子供たちすべてが集合的に「ポスト」と呼ばれていたのなら、「熊本県に現存する慈恵病院のポストで保護された子供たち全員」を指示してしまう面があったはずだが…。ただし、この名前は芦田愛菜演じる主役に割り当てられたものであり、今後「ポスト」という名前の上に、ドラマの独創にかかる想像力を展開できない限り、その選択はやはり安易なものだったということになるだろう。またそれとは別に、現実の施設内で児童の履歴がどのように共有されているか、それをあだ名として呼び合うようなことが実際あるかも気になるところ。

以下の点も、一回観ただけでは明確に分からなかったが、どうもこの作品は、「ポスト」を中心に子供たち自身が解決を作り出していくファニーさ・爽快感に重点があるようだった。とするならば、三上博史演じる施設長が冷たくやや戯画的に描かれるのも、里親候補のカップルが愛情の取り違えに到るのもとてもよく理解できることだ。その場合、ドラマの重点は「大人」たちの作り出した秩序の最終的転覆にあることになる。当然児童養護の既存の制度もまた、転覆されるべき「大人」の秩序の一部ということになるだろう。単純化とコミカルさがそこに生まれるし、実務家が不快感を覚えるのもそこだろう。

あるいは、「大人」の中でも解決能力をまるで持たない存在として男を描くなど(あの無能な里親候補の夫を見よ)。以上の点全部を含めても、最終的に浅い定型に収まってしまう可能性は大いにあるけれど、番組にジャッジを下す上でいくつか評価軸はあるんじゃないか、ということで私見を。





2014/1/2
江角マキコきれいだなーとゴチになります観てて思ってた。顎のところの強情そうな線が大変よい。





2013/12/30
これはまたすごくいいMMDモデルが出てきたなあ。特にライティングがいい。トゥーンっぽさと人形っぽさのちょうど中間の味付けで、人肌と微妙に違う反射率なのがいいな。

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2013/12/24
あまりに進まないので、防弾ベンツの情報など読んでいる。手榴弾二個の爆発を防ぐ能力とは。

カイユボット展よかったです。最終日ゆえやや混みでしたが、好きな絵をかぶりつきで好きなだけ観られる喜びを味わえしあわせ。当人の作品も良かったけれど、弟のパリ写真が素晴らしい。常設の印象派コレクションとも響き合う企画展でした。常設観ないと勿体なかったかも。

当時の写真、逆光だとハイライトがすぱんと飛んで、被写体が夢幻的な空間に包まれてるようないい描写をする。砂浜で石を投げてるカイユボットの写真が良かったです。ところで、観覧しながら日本文学に海のモチーフがなぜか希薄だったことに気付きました。


フィギュアスケート真央ちゃんは当然すごいと思うし結局みんなすごいと思うのだが、演技前「私の父はドイツ軍に殺されました」みたいな陰鬱な表情を浮かべていたロシア人スケーターが、氷の上では全然対照的な典雅な演技をしてるの見ると、つくづくロシア人のための競技ですよねえという感想を持つ。





2013/12/22
阿部金剛…。

口内調味の件、僕も気になってるんだけど(この表現自体が不明瞭で気持ち悪い…)、この実践が戦後の学校給食のある一時期に突然出現したと考えるのは少し無理があるのではないか、ときょう歩いていて考えついた。「三角食べ」もそうだが、児童に食事作法を押しつける権力性はどこから来たのか。

まず参照すべきなのはおそらく兵食だろう。食事作法という本来プライベートなものに入り込んでくる、この有無を言わさないやり方には、どうも戦前的なものを感じる。戦前特に師団数が増加した昭和期に、兵士の体格向上のために書かれた栄養学の本やマニュアル類に、関連記載があるような気がする。

↑特に根拠はないんですけど、機会があったら探してみよう。兵食というやつはその国のイデオロギーが濃く出るところで、有名な森鴎外と麦飯と脚気のエピソードもその一つ。先行研究あるんだろうか。人文書院の第一次大戦セミナー、あるいは『ナチスのキッチン』などが近著ではすぐ思い出されるが。


近デジで調べてみたらこういうのあった。宮入慶之助『食べ方問題』続(南山堂書店、1924年、http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970477)。後半に兵食の記載がある。

この本、調査の仕方に今和次郎のような手付きがありなかなか楽しい。同時代の栄養学雑誌をあたれば、戦後への展開も含めて答え出そうな感じある。こっちは『食べ方問題』一巻。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970476


給食といえば小学校のとき、「私ぶどうパン嫌いなんだ、長岡くん食べてよ」と周辺の女子に言われ、嬉々としてぶどうパンを毎食数人分余計に食っていた記憶があるが(おまけとしてときには牛乳も)、あれか、食感が嫌だったのか、ぶどうパン…





2013/11/23
とうとう。>『ジョルジュ・エナン 追放者の取り分 (シュルレアリスムの25時) 』 http://honto.jp/netstore/pd-book_25979154.html


長い間、本当におつかれさま。





2013/11/11
噂の鹿肉バーガー食べてみた。おいしい! 臭みがないのにしっかり肉の味がして、下処理に手間暇かけてそうな感じ。プレートで850円はやや高いと最初思ったが、これなら見あうね。

長野の鹿の食害は洒落にならんことになってるけれど、一頭づつ仕留めてメニューとして出すまでの手間を加味すると、このくらいの値段にしないとだめなんでしょうね。





2013/11/7
ホットワイン作ってみました。グラニュー糖すこし入れただけだけど結構美味しい。香りもいい。

そういえばキルラキル観ていて、回想シーンが4:3の画角で表現されているの、時代だなあと思った。在来型テレビのタテヨコ比が「レトロ」な調子を示すのに使われているというのが。





2013/11/5
メモも兼ねて。今晩のクローズアップ現代は要注目。今まで情報がほとんどなかった、GHQ民間検閲支隊の日本人検閲官の活動実態を取り上げるそう。>知られざる“同胞監視” 〜GHQ・日本人検閲官たちの告白 〜 - NHK クローズアップ現代 http://www.nhk.or.jp/gendai/yotei/index_yotei_3425.html


クロ現前に帰宅成功。とても良かった。最近の米政府機関の情報収集活動と絡めてきた導入部、結論部は予想通りだが、元検閲官(男性1女性1)の証言が番組に厚みを与えていた。画面すべてをモザイクで塗りつぶすのではなく、本当に必要な部分以外ぼかしはなし。その背後にある粘り強い取材交渉に敬服。

この企画は、むしろNスペ案件ではと思う所があった。物故した検閲官の残した手記1をふくめ、元検閲官二名の取材許可が下りた時点で番組成立すると制作者は判断したのだろうが、1947年の新憲法施行以後むしろCCD検閲が活発化した点(当然新憲法違反)には充分なハイライトが当たりきらなかったかもしれない。

検閲を指揮した日系二世も存命で、ディレクターアメリカまで会いに行っているので、今後の番組展開もあるのかもしれない。とはいえ、短い時間ながらやはり証言パートが良い番組だった。女性の元検閲官は、今年発見された検閲官リストを契機に、かつての日本人検閲官仲間に再会したいと手紙を出したというが、いくらか戻ってきた手紙は拒絶の返答ばかりだったそう。それを見ながら彼女がもらした「皆[今では]偉くなりましたからね」という趣旨の呟きが印象的。手紙の相手が相応の社会的地位にあることを示唆する証言の選択で、これが番組としてなしうる最大限だっただろう。

それにしても、「GHQの民間検閲は周知の事実であり、自分が話す必要はない」というその手紙の返答には正直引っかかるものはある。正反対で、その実態はまったく知られていない、というのが「周知の事実」だと思うんだけど。ただ占領期の対米協力にここまで強力な自己規制がかるというのは、それ自体とても興味深いことだ。

来年は心を入れ替えてがんばります…





2013/11/4
駅ナカファストフードベッカーズで、鹿肉ハンバーガーが提供されるようになったそう。まだ食べてないけど。中部では鹿の食害がほんと半端ないことになっているので、ジビエとして消費されるルートができるといいけど。

うろ覚えで間違いかもしれないんだけど、鹿は頭数はやたらいる一方で、山中で仕留めてから食肉処理するまで時間がかかるので、安定的に供給するには設備面で課題があると聞いた記憶がある。どこで読んだんだろう。思い出しておきます。





2013/10/24
エロトランプという文化が男子高校生どもの間に依然残存していることを知り驚愕した一日だった。





2013/10/20
「このアーモンドうまいっすな」「それはアーモンドじゃなくてピーナッツですね」という会話を、した。

イーストボーイとかのお嬢様風またはトラッド風の若い女性向けの服屋、以前はよそ行き用ですかねえくらいに思っていたのだが、不意に存在意義が分かったかもしれない。あれは、私服可の私立高に通う生徒が「高校生っぽい」格好をするための需要にこたえる意味があったのですね。自分の好きな私服着て浮くよりも、「制服っぽい私服」にしておいた方がましという判断か。そんなら制服の方が良くないですかねとも思うのだが。私服化のひとつの側面。


千葉雅也さんの新著『動きすぎてはいけない』、もちろんエッチなニュアンスを感じる。





2013/10/13
先日、二泊三日で立山周辺を歩いてきました。弥陀ヶ原湿原の下、美女平駅から少し上がったところに見事なブナ林が広がってた。ガイドブックでは立山杉が紹介されることが多い一帯だけど、晩秋にあそこを訪れれば、室堂までのすばらしい林間のトレッキングが楽しめそう(二日行程かな)。コースも完備してるし。

山で積極的に他の登山者に話しかける人たち、印象としてはどうも教師経験者が多いような気がするのだが、どうか。山頂での情報交換は山の最も楽しい時間の一つなので、職業柄からかそれに積極的な人たちがいるというのは、むしろ嬉しいことだけど。





2013/9/8
来年は統計学やろう。初歩的なものでいいので確実なものを。


丹羽文雄『海戦』(中央公論社、1942年)を調べものの関係で読んだりしたが、大戦時の小説家の位置を示した証言としてたしかにひとつの頂点だと思った。兵士の肉体への羨望、戦争遂行に直接協力できない後ろめたさ、大状況への情緒的没入、等々。戦死者の安置所で「海ゆかば」の旋律を丹羽が幻聴するという終わりかたも含めて、完璧な定型に達している。


一人の防暑服の兵もゐなかつた。袖の長い、ズボンも長い作業服であつた。これが戦闘服であり、艦内の正服であると私は眺めた。気がつくと、士官も昨日までの防暑服をやめて、詰襟の純白の正服にかへてゐた。[……]私の防暑服だけが、兵たちの目からは、おきわすられた荷物のやうにも見えたであらう(71)


上は海戦当日の朝の重巡「鳥海」の記述。本書を批判的に読むべきなのは当然だが、こうした細部がとても興味深く感じる。「防暑服」とは開襟に半ズボンの簡易な作業服のことだが、乗員すべてが「正服」に身を包んだ情景に、防暑服姿のままの丹羽が強烈な疎外感を感じたというのは彼の率直な感想だと思う。

丹羽の感想は個人的にも分かる部分がある。以前仕事で自衛隊のイージス艦に乗り込んだことがあるが、灰色の艦上に上がって整列した乗員と対面した時、自分の着ている私服が突然なんともだらけたものに思えて(そんなにラフな格好をしていたわけではないのだが…)、自分でびっくりしたことがあるから。勿論これは自分に備わっていない属性を過大に見積もった結果の印象で、幻想の産物ではある。

現在でさえそうなのだから、実戦へ向かう艦内で丹羽が受け取った圧迫感たるや僕のそれなどとは比較にならなかったことだろう。そこから兵士への無制限の羨望と文芸の不能性の認識へは一足飛びだが、『海戦』の記述はそこに振幅があり面白い。以下は、同行の朝日新聞記者の勧めに従って兵と同じ作業服を受け取った際の記述。


作業服の上衣をかむつたが、厚い、丈夫な生地は空気をとほさず、胸は流れるほど汗をかいた。長いズボンをはいてみたが、腿のところから上にはどうしても上つてこないのだ。ズボンがせますぎた。戦闘となると、半袖や半ズボンではやけどをしたり、爆傷をうけやすいといふ。仕方なく私は作業服をたたみなほして士官室にもどつた。円山や毛利や堺は作業服を着て、すましてゐた。(98)


他社の報道班員たちは作業服を受け取って着替え、「すましてゐ」るのだが、丹羽は作業服をたたみ直して返納してしまう。「贅肉がつきすぎたからだらう」と嘲笑する記者たちに向かって、「僕はこの防暑服で押し通すよ」と彼は言い返す。戦場にありうべからざる丹羽の半袖短パン姿…。結局、彼はその格好で海戦を取材して、8インチ砲弾(不発だったらしい)の破片で負傷し、例の防暑服は「黄や青」の着色剤を派手にぶっかけられて汚されることになる。丹羽は参謀たちから「全くいい経験をしたよ」「君はほんたうに選ばれた幸運児だ」とまで賞賛されるのだが、その言葉を彼は率直に受け取ることができない。

結論からいえば、作業服を受けつけない丹羽の「十九貫」の肉体というみもふたもない物質性が、戦場の兵士たちと作家との紐帯を不可能にしてしまったのだろうと僕は思う。戦争という「偉大なもの」に同一化し幻の「海ゆかば」を聴きながら、丹羽は、それがあくまで想像上のものであることを、想像と「贅肉」の存在感を対照させることで半ば方法的に示しているようでさえある。

この地点と、丹羽の戦後の文業――中村光夫『風俗小説論』を引き出すことになる、風俗小説の首魁としての――とを結びつけることは根拠のあることだろう。すなわち、権力に対する可能的抵抗としての「肉体」。ともあれ、ある意味で恐ろしい作家だ。決して軽く見るべきではない。





2013/9/6(2)
午前中にエヴァ展(http://www.asahi.com/event/evangelion/)の図録が届いたので少し見てみたが、一言でいうとこれは良くないものだ。美術展の図録として見ても、全記録全集に代表される公式刊行物と比べてどれほどの独自性を打ち立てられているかという点から見ても、そこに明確な視点を発見することは難しい。

EVA-Extraから全記録全集に至るまで、ここの製作が出す出版物には「その描画/そのカット/そのシークエンスが観る人間の視聴経験にどう訴求するのか」という視点が徹頭徹尾皆無で、今回もその前例が踏襲されたという感想がある。Qの全記録全集を会場で売った方がまだましだなと思った。こうした視点の欠如を埋め合わせるために「手作業」が称揚されるのだが、そうでありながら制作スタッフの仕事の個別性への視点は貫徹されておらず、極めて不可解。以前も言ったけれどイメージボード類と同様、各種原画や修正指示の担当者も明確にクレジットするべきで、それが内製することの強みなのでは?

こうした混乱の結果残るのはたんなる資本の論理だけで、まあそれはそれで好きなだけやればいいし、はっきりしたキュレーションなんかいらないよねという人だって多いのだからますます勝手にやればいいんだけど、おれはこういうのは嫌です。


サンマルクのりんごクリームパンおいしい。りんごの軸を模したチョコレートが、パンのへそのところに入っていて、コーヒーにぴったり。





2013/9/6
最近抑留記録ばかり読んでいる。必要からとはいえ。



オーテス・ケーリ『真珠湾収容所の捕虜たち』(ちくま学芸文庫、2013年)。原著は1950年刊。著者は米海軍の情報将校で小樽生まれ。米軍にとって貴重な人材だったと思われ、かなり自由な行動を認められている。ドナルド・キーンが一時彼とともに日本兵捕虜の尋問にあたっていた。

彼の大戦中の仕事のひとつが、B29から投下された伝単『マリヤナ時報』で、これは非常に編集が行き届いていた伝単ビラのひとつとして有名。その理由は、ケーリが捕虜の中にいた新聞記者経験者を選抜して組織化したことによる。彼と元記者たちとの協力関係の詳細が本書の大きな特徴だろう。特に驚きだったのが、「北川」こと横田正平(朝日新聞社)の、『マリヤナ時報』への関与が詳細に記述されていた点。横田の遺著『玉砕しなかった兵士の手記』(草思社)は、太平洋戦線の証言記録としては数え落とすことができないと思う著作なのだが、その著者のもう一つの顔が明らかになり、嬉しい。

ケーリの下で作られた元ジャーナリスト捕虜の人脈が、また戦後日本のメディア史(特に地方紙)を形作っていくわけだが、人名が全て仮名になっていることもあり、すべてを特定するのが困難なのが残念な点。ただ解説の助けを借りつつ、本書の記述から比定することは十分可能と思われる。特に、横田の義兄である式場隆三郎(精神科医)と、その弟で編集者の式場俊三による記録文学ブームへの影響関係の裏付けがほぼとれたのが大きい。俊三の編集で日比谷出版社から出たのが藤原てい流れる星は生きている』永井隆『長崎の鐘』などで、いずれも講和条約発効前の記録文学の代表作。

明らかに不自然な点も本書にはある。高松宮にいきなり会いに行けたりとか。これはまた別に確認する。





2013/8/31
国会図書館で複写待ち中、第一次大戦をテーマにしたグラフ誌『欧州戦争実記』(博文館、月刊+増刊、100号終刊)を見ていたのだが、同時代の雑誌より質が良く、多色刷り写真や図版も豊富。海外記事の翻訳も多い。後期のものなど、日中戦争のグラフ誌と言われても驚きではないと思った。

今の段階の感想として、日露戦争(萌芽的には日清戦争)時に大新聞が展開した戦争報道に、おそらく西欧的な「報道」の手法が持ち込まれ融合した編集方針との印象を受けた。編集人は「長谷川誠也」名で出ているからこれは長谷川天渓だが、彼が実際はどれほど関与していたか。実務担当者は誰だろう。

大戦中のグラフ誌と言えばまずは『写真週報』だが、戦争とテクノロジーという観点からはプロカメラマンが寄稿した『報道写真』かなあ、と今日思った。通読しないとなんとも言えないが。青弓社から出たこの研究は良さそう。http://t.co/QDdW0BIsHp





2013/8/27
『ウラルを越えて』(樋口欣一編、乾元社、1949年)。将校抑留者のシベリア証言集なんだけど、類書と比べても内容はかなり興味深い。再刊はたぶんないと思う。

梶原康人「囚はれの生活」は、抑留生活のスケッチとして印象的。カザンにあった収容所と言うからモスクワにも近いところだが、ソ連市民との交流が活写されていて、高杉一郎『極光のかげに』を思わせるところがある。巻末の執筆者プロフィールには「梶原康人(昭、一四、――東歯専卒)歯科医(元、大尉)」とある。たぶんこの人と同一人物だろう。帰国後は歌人として活動したようだ。http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/155076.html

「東医専」だから現・東京歯科医科大のこと。軍医の語りには特異なものがあって、気になっていた。将校であり理系インテリであり、戦闘の鼓舞が任務ではないという他にない位置を有し、大量召集によって開業医を含む多様な層が戦場に送られたことで、一般の補充兵に近似した多様性を持っていた点、など。





2013/8/23
今日もレモンミルクレープとか食べてしまった。





2013/8/16
風立ちぬ、とても良かった。ミニマルな要素の反復と変奏(航空機のみならず自動車や機関車のデザインやファッション)に幻想を織り込む手法が巧みで、西欧的なもののアダプテーションとして堀を超えている(反復vs回想とも言える)。その反復にエネルギーを備給するのが歴史性といえ、ここが争点か。

庵野さんの声がすばらしかったです。フィルムから浮き上がっている人物(それが彼の強みである)を描くには、人物から浮き上がっている声の演じ手を起用する必要があったということなのだと思う。というか、こうした逆説を弄するまでもなく、庵野さん、声のテクスチャが細やかで、すでに声としていい。ラストシーン、まるで「ゲームの背景」ででもあるかのようなのっぺりした平面に「風が立つ」とはどういうことなのかということ。

駅前に居着いてる三毛猫がげっそりやせてた。夏バテが原因だな。





2013/8/9
デルU2713HM、スタンドの高さ調節機能の出来が秀逸かつなにげに便利。携帯やデジカメを充電したりするときは、モニタパネルを上にはねあげて、スタンドの脚部のところに引いたタップにACアダプタをつなぐ。そして充電中はモニタを下に降ろしておくと、画面が目隠しになって机のうえがすっきりと見える。頻繁に上げたり下げたりすることになるので、高さ調節部分の摩耗がちょっと心配だけど。これは使っていくうちにわかることだろう。

一部で言われている縞々現象だけど、白ベタを表示して、距離40cm前後くらいまで近寄ると、確かに格子状の規則正しい模様が見える。とはいえこのサイズのモニタの作業距離では気づかないし、僕の環境では実用上問題にはなってないな。

LEDバックライトの液晶モニタは、コントラストが明瞭すぎて目に「刺さる」と感じるので、コントラストを下げて、輝度も日中で30%以下に落としてsRGBモードに変えると、発色が落ち着いて目疲れを感じなくなった。大画面なので視線移動の疲労があるが、これはウインドウの配置で解決できそう。あと、でかいのには完全に慣れた。思ったより早かった。


関西いくときはモンパルナスのピロシキを忘れずに食べておきたい。ロシア革命ロシア料理と日本の三題噺で調べたら面白そうだ。これは開港地という問題とも重なるところであり、となるとむろん長崎と中国料理との関係を考えないわけにはいかない。

「洋食」の研究史はかなりたくさんあるけれど、そのなかでもとくにエグザイルとしての外国人が持ち込んだ、外国料理とその受容および文化形成として全体を枠づけられるのかな。これは部分的に「被差別の食卓」というテーマとも重なってくるものがあるかもしれない。

わりと本業の範囲内の話かもしれん。最近ほとほと思うが、「好き」って本当に重要なことで、そしておれは飯を食うことがきわめて好きなのだった。これは美食に限らず。


以上すべてから容易に察せられるとおり、いま腹が減っている。





2013/8/7
「米国のパブリックドメインの映画雑誌が検索可能に:Media History Digital Libraryが検索プラットフォーム“Lantern”を公開」http://current.ndl.go.jp/node/24142 全部PDFになってて読めるようだ。驚愕。これはすばらしい。


ところで、別の調べ物で野内良三『無常と偶然』(中公選書)を手に取ったが、ちょうど今考えていたことを触発してくれる一書で、きょうは収穫だった。もっとも書名と本書の本来のコンセプトが合っていないようにも思え、むしろ『偶然性の比較文学理論』が適しているのではとも思われたのだが…。おそらく出版社の要望もあり、比較文明論の体裁になったのだろうが、理論として緻密に詰められたバージョンを読みたいなと思った。特に、偶然性を問題設定とし九鬼周造を理論的背景として、マラルメランボーブルトンのラインを見る視線が新鮮。

とはいっても、これだけの説明では本書のアプローチが際物に見えてしまいそうだ。一方で、1930年代の日本の文壇が西欧文学に向けていた視線/そのアダプテーションにはこういう「牽強付会」や「理論的短絡」とみえるものが散見されるのは確かなことで、その問題点のほうは西欧のオリジナルと対照することで明瞭だけど、その裏としてある可能性のほうは見えづらい。

で、後者、その可能性の方を示唆してくれたという点で、本書の議論はとても触発的だったと思っている(さらに言えば、この理論的可能性は戦後になって開花したと言うのが適切かもしれない)。以上、個人的な気づきのメモとして。

そう、特に、日本浪曼派が偶然性の問題をどうハンドリングしていたかが気になるところで、さらにこれには京都学派の動向が絡んでくる。1930年代半ばの、妙な三木清ブーム(パトスの文学)をどう位置づけるか、かねて考えていたところでもあった。『コギト』は以前からの宿題なので、いずれこれは近いうちに。





2013/8/2
NHKで、陸軍船舶工兵部隊の軍法会議記録が出てきたことを紹介していた。番組の構成がやや一面的だったこともあって、右の人たちカンカンだろうなと思って案の定だったのだが、これは証言者や資料が固められるようなら、また改めて別の番組で取り上げたほうがいいんじゃないかなと思った。非常に貴重な資料。

軍法会議の資料自体が貴重だし、船舶工兵という存在そのものも特異。太平洋戦中、大発を操って離島間の輸送をやっていたいわゆる「暁部隊」なのだが、漁業関係者を召集したり、前科持ちの人間が紛れ込んだりして部隊が肥大した結果、士気が非常に低下したとのこと。その結果の裁判資料ということになる。罪状も窃盗とか、母親に会いに行くための原隊離脱とか、部隊の統制力の低下を示すものが多い(性犯罪の報告もみられる)。いずれにせよ、戦争末期の軍隊の「融解現象」を示すものとして興味深く、離脱兵の事情のみならず軍法務官の側にも着目してしっかり手をかければ、深いリポートとなったのではと思う。

漁業関係者の暁部隊への根こそぎ徴用という問題は、徴用船員の問題とも重なるものがある。船舶工兵以外にも当時の記録を見ていると、漁業関係者を軍属で徴用して、南方戦線で機帆船などを操船させていた記録がある。船舶工兵もまた、離島間の物資のレートの違いを利用して取引に従事することがあった。

つまり船舶工兵は専門性を有する正規兵でありながら、そこからはみ出す軍属的(あるいは非戦闘員的)な性質をも持っていた複雑な組織で、なおかつ、南方戦線の末期的ロジスティクスの支柱でもあったといえる。軍隊組織のそのような部分に、太平洋戦争の特質の露頭を探ろうとする試みは、あっていいのではないか。

たしか原隊離脱事件の被告だったと思うのだが、乗組み船が海没して、長時間海に投げ出された経験が忘れられずその恐怖から脱走、という例があった。無人の外洋に放り出されて死の直前までいった人間が、戦争から逃げようとすることを現在の立場から非難するのは、僕にはとても難しいことのように思われた。


メモリテストが終わらず、PCの前でぼーっとコーヒー飲んで携帯でネットみてる。

結局デルのPrecision(T1650)なんだけど、先代のより鉄板も厚くてケーブルマネジメントも考えられており良い。ファンの固定がゴムのピンでされてるなど防振対策もされてて実際静か。Quadroがかなり発熱しそうなことくらいが心配材料か。何十時間もフル稼働させるような用途には向かないだろう。





2013/7/30
渡邉大輔氏、シンプルに反論文の掲載を要求すればいいだけなのではないか。





2013/7/30
新創刊の『アニメ・ビジエンス』、気になりますね。





2013/7/22


今もぱらぱらめくっているのだが、岩波文庫から出た『日本近代短篇小説選』、本当にいいシリーズだ。特に収録作の選定、配列が巧みで、一冊一冊が独自の問題を主張しているように思う。全六冊。明治大正で二冊、大正一冊、昭和が三冊。全部買っても五千円ですね。全部読んで決して損はしないものだと思います。おすすめ。

収録作に独自色があるのは、文学史に新しい光を投げかけようとする意図によるものだろう。例えば戦後直後の短篇を集成した昭和篇2だが、野間宏は暗い絵ではなく「顔の中の赤い月」、大岡昇平は「俘虜記」でなく「出征」、梅崎春生「蜆」、ニート息子と母親の共依存を取りあげた林芙美子「水仙」。

顔の見える他者とのコミュニケーションを媒体に戦争や戦後の問題を提示する作品を多く収録していく方針なのかもしれない。教科書が教える「戦後」とか「戦後文学」という問題設定を無前提には共有しない現代の読者を想定してとられたものだろうと思う。その結果、情報量に反して非常に読みやすくなった。明治篇1とかは、決してすいすいとはいかないけれど。

上のような意味で、本シリーズはやはり21世紀の企画だなと思うし、独自性に走りすぎてもいないので、十分に各時代の見取り図を描くことも可能だ。底本に後年の全集を多く使っていたりするのが気になるが、それも含めて調べてもらうなど、教材としての利用価値も高いのではと思う。





2013/7/16
ズボンぬいで、シャワーで冷水を足にぶっかけて、しっかり拭いて、ジャージのパンツに着替えて、アイス食べてる。





2013/7/15
右足の、親指の爪に違和感があったのだが、ちょっとつついてみたら、爪が全部剥がれて、下から新しい爪が出てきた。

たぶん山登りしていて加わった衝撃が累積して、上の爪が剥離するかなにかして、下に爪が出来ていたのだと思う。今までこういうのはなかったので驚いた。あと、爪剥いでる光景は傍目にはグロ画像なのだが、やってる側は当然楽しい。


艦これを始めてしまった。始めてしまった…。





2013/7/6
おにぎりうまし。横浜港を望む公園でお昼。横浜はスリーエフの勢力圏だということを思い出した。


社研の細川文庫で見つけた、チェリスト・井上頼豊の著書『シベリアの音楽生活』(1949年)はとてもいい本だった。シベリア抑留関係の本をけっこう読んでいるが、高杉一郎『極光のかげに』に匹敵するのでは。もう少しじっくり腰をすえて読みたいが。

これはあるいは今次の震災にも言えるのかもしれないが、戦後すぐのシベリア抑留に関する記録文学の粗製乱造ぶりはひどい。企画する側も書く側も、市場の要望(ソ連体制下の抑留事情に関する情報へのニーズetc.)に目が眩んで、充分にテクストや構成を練りきらないまま出版している。それはそれで仕方ないのかもしれないが、何よりやりきれないのが、こうした粗製乱造が、戦中・日中戦争期の従軍文学のスタイルやフォーマットを転用して行われている点だ。その種の従軍文学の扉についていた、高級軍人や参謀の推薦の辞が「民主日本」をうたう空疎な前書きに変わっただけのこと。

多く元兵士であった抑留者や編集者が、「事実」とはこうしたフォーマットによってのみ語られ書かれるのだという信念に取り巻かれてきたことを考えれば、むろんこの結果は理解できるものではある。戦後隆盛する「記録/ルポルタージュ」なる方法は、むしろこうした戦前からの連続性の相において把握すべきと思う。

切断よりも連続性が強い。そして一旦は否定されたその戦前・戦中との連続性は、昭和40年代前後に相次いで出版される「郷土部隊」の師団戦記に再び見いだされることになる。だからこそ、過去の記憶と経験にまみえるにあたって、表現を・表現のルールを新たに作り出した少数の書き手たちの試行が重みを増してくる。同じシベリア抑留を語るにしても、高杉一郎と内村剛介の散文が描くロシアは違う。たとえば内村のテクストにみられる、父称を呼びかけに折り込んだ力強い対話は、やはりドストエフスキーを思わせるものがある。内村は新しい「ルール」の創造にあたって、ドストエフスキーを求めたということなのだろう。


雑誌『LIFE』の写真アーカイブ、googleがホストして検索、閲覧できるようになってたのか。images.google.com/hosted/life


KITTEはじめて行きましたが、吹き抜け気持ちいいですね。吹き抜けにかぎらずあのくらい空間広いほうがいいのかも。

鯖寿司いただいて、ビールをぷしゅっとして今。時節柄(?いつもかも)しっかり酢のきいたお寿司だったが、夏らしくてかえってよかった。





2013/7/3
今日も今日とて新型スキャンスナップ見に行ったが、説明員がいなかったので自由に触れてしまった。

で、自分で触っての結論だが、デモ見てたときの感想とは違い、かなり実用になるとの印象を受けた。今週から新しくi7のデスクトップクライアントになってたが、クアッドコア機なら十二分にサクサクと動く。S1500での作業と差も感じない。

補正時、補正範囲をパスで囲む必要があるが、動作が賢い。本のページ歪みに自動で吸着するので非常にやり易く、一度補正範囲を作れば全ページに適用できる(ならそう言ってくれれば!)。これ、慣れればぱっぱとスキャンできるのでは? 連続スキャンしててもストレスなかったし。

これは、値段さえ下がればちょっとほしいなあ。四万切らないかな。


沖野亦男『生ける屍の記』(1946年)読んでるが面白いなこれ。著者は戦争中捕虜になった日本軍人の中では最高位(大佐)でしかも情報将校なのだが、重慶からインド、カサブランカ経由で米本土に送られて捕虜生活を送っている。日記に現れた観察眼は的確かつ鋭い。題がいう「生ける屍」とは彼の自己規定をさす。つまり、捕虜になった自分はゾンビのようなものだということだ。ただそれが「まゝよ、どうせやるなら一般と異つたことをせよ、どうせ汚名は汚名なのだ重慶の一隅に居るのも汚名、それなら天下に撒き散すのも汚名」という好奇心と結合しているのが珍しい。


山崎の110円で売ってる月餅、かなりうまいです。人によっては鼻血出すんじゃないかというくらいの甘甘。







2013/6/23
今日は仲本和彦 『研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド』(凱風社)の現物を手に取って確認することができたのが嬉しかった。条件が許すなら一ヶ月くらいNARAに行ってみたいと思っているので。

ヴァシリー・グロースマン『人生と運命』全三巻を購入すべきか迷い続けている。一万円超え…





2013/6/19
はーげんだっつ…





2013/6/18
宮崎駿『風立ちぬ』、戦争扱いたければ、『雑想ノート』をやればいいのだし、彼の中にある兵器フェティシズムミリタリズム礼賛をそれによって画面上に死ぬほどぶちまければいいでしょう。ロマネスクはこの場合隠れみのにすぎない。

宮崎さんの仕事に対して常々思っていることですが。





2013/6/15
scansnapの例のオーバーヘッド型、月末に実機を見られるそうなので楽しみ。いずれにせよ、図書館で紙に複写してスキャンする、という、手を動かしているあいだ頭が創造的な方向にまったく使えなくなる無駄を大幅に省けそうなのがすばらしい。個人的には貴重書のスキャンが相対的に安全に出来そうな点に期待大。 光源に何を使っているかはわからないので、文化財レベルの貴重書は無理だろうけど、酸性紙で頁端が劣化してたり、綴じがゆるくなっている20世紀前半くらいの本ならたぶんこれでいける。個人の日記や原稿、メモ類にもいけますね。

PFUさんには、本機のキャリーバッグ開発もお願いしたい。もうやってるのかもしれない。





2013/6/6
ケンタで売ってる「胡麻と山椒のぶっかけチキンサンド」かなり美味しかった。男性向けの味付けかな。山椒で辛みを出しているので、じんじんとした辛みが残らず、食後はさっぱりするのも○。



地図と測量のQ&A

地図と測量のQ&A


『地図と測量のQ&A』((財)日本地図センター)を買いました。これ、すばらしいな。

必要があって「古地図で歩く明治・大正の東京」のたぐいの本、今日あらかた読みましたが、そのほとんど(読んだ限り全部?)が一次資料の地図へのアクセス方法や入手方法を記載していなかったのが残念。一般書レベルなので仕方ないのだろうか。





2013/5/11
アルチュセールはアル中」でかれこれ五分くらい思い出し笑いしてる。





2013/5/9
何の脈絡もなく思い出したのだが、以前「おう授業をやるぞ」と、強く働きかけるつもりで「やる」に強勢をおいてしゃべっていたら、その話し方が面白かったらしい一人の女子生徒に「『ヤる』? せんせー、何を『ヤる』んですかぁ?」と毎回目をきらきらさせて質問されていた時期があった。答えは「セックス」であることは200%明らかだったが、俺がやるのは現代文の授業であってセックスではない。家でやるといいと思うね。





2013/5/4
長野は入山税やるしかないんじゃないかな。入山一回でひとり三千円くらい徴収していいと思う。運転免許や携帯の料金体系のように、頻回に入山する人には優遇措置をとって最終的に800円くらいまで落とすとかすれば、あまりマイナスのインパクトにはならないと思う。

自治体の収入試算だけど、赤外線を使って、ひとり単位でゲート通過者をカウントできる装置があるので、これでまず正確な累計入山者を計数できる。これと、バイオトイレの追加設置など必要な整備項目、前年度の遭対費用を対照してもろもろの係数で処理すれば、適正な税額は出せるだろう。ジャーナリズムを巻き込まねばどうにもならないな。議論好きの『岳人』などにぜひお願いしたいところ。

Harvardから昨年末、キース・ヴィンセント『Two-Timing Modernity』http://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674067127 が出ていたことを知ったので(祝!)、すかさ購入依頼をするという善行を積んだ…! というか、図書館本にしないまでも自分で買うな、これは。





2013/5/4
OnanieCEOさんじゃないか! そして良動画。

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スタバのサンドイッチもしゃもしゃしながら思ったけど、脂ぎっとりさせたり、二郎のように山盛りのトッピングをしたり、爆発的な外見にしたりといったB級グルメの現象は、やはり一種のバロック主義なのかな。それに対し、だしや穀物を厳選して狙いの味わいを引き出す立場はミニマリズムに比定できる。

ではラーメンの「スープ」信仰をどこに定位させればよいか。ある種の「本質」がそこには想定されているわけだが、それでは結局表層と深層の二項対立を回帰させることにつながりはしないか…。





2013/5/1
ゆゆ式はパッキンヤンキーが一番常識人というのがすばらしい。





2013/4/29
学部四年の時に書いたアニメ論があるのですが、何年ぶりかに見たらアニメーションを「可視的な二つ以上のヴァージョンを持つ層に対して操作的に介入すること」と定義してあったので、すいませんがんばりますと思った。

ヱヴァンゲリヲンのすべて』、ZINに山積みしてあった! 買えた! 仕事はやくて良い!渡邉さんの映像論、うちとは真っ向対立だな。面白い。併読するときっと楽しいと思う。

バロキズムの問題。渡邉論はQにその全面化をみ、中田・長岡論はそれを部分的なもの(接ぎ木されたもの)とみる。抽象表現主義の位置付けも異なっている。これは実に愉しいこと。こうでなければ。





2013/4/28
いま「あっ」と声を出して気がついたのだが、最近いろんな人が五月中旬の発表やら調査やら司会やらなにやらをやたらと回避したがっていたのは、もしかして連中がGWを謳歌したいがためだったのではないか。

やられた、そして俺はバカだ…。





2013/4/27


ユリイカ今号、鬼束ちひろインタビューがとにかくすごい。アーティストの「過激な言動」といったものは時に音楽誌上にはあるし、それ自体一つの定型的な枠組みになっている側面があるけれど、インタビュアーとアーティストとの関係そのものがドキュメントとなることは稀なことだ。そしてそれが起きている。


森川すいめい氏は精神科医ということで、てっきり臨床家とクライアントとして旧知の間柄だとばかり早合点していたのですが、それどころの騒ぎではない。ぜひ読んでみてください。そして、批評の言葉はこのインタビューに拮抗しえているか? よく胸に手を当てて考えてみたい。

この鬼束ちひろ特集、安西信一氏(もしかして『ももクロの美学』の著者と同一人物?)のPV論がじつにクリアーで面白い。それだけではなく書き方も好もしく思える。

たとえば「爆破して飛び散った/心の破片が/そこら中できらきら光っている」という鬼束のリリックを評した安西論の、以下のような箇所。「ここにはどこか、病/爆破を美的に眺めているような気配が漂う」とある。

「美的に眺めている」という表現について、別の評者は別の表現を選択するかもしれない。しかしながら筆者はいったん立ち止まり、「美的に眺めている」という中性的な把握を用いる。こうすることが、鬼束ちひろという強い吸引力を持った音楽/詞の入力に対する一種のバッファとして機能し、批評の視点のための場所(あるいは、待ち時間)が切り開かれる。こうした一つ一つの表現の細部に評者の姿勢とは出るものだろう。庭園様式の変遷とロマン主義にからめた結論部も面白かった。


スタンダールの『パルムの僧院』で一番好きな箇所、お尋ね者になったファブリスが、過去に自分で植えた木のことが気になってそれをわざわざ見にいき、木がすくすく育っているのを目にして個人的幸福を感じるという箇所。幸福な単純バカに惹かれるところがあるらしい。

ケーキを食いたいという感情をむしろ軽く見積もるべきではないな。





2013/4/22
「ただいマントヒヒ〜」等の言語感覚は積極的に採用したいもの。

以前から朝の電車内で気になっていたことなのだが、スクール用のボストンバッグを肩から掛けるとき、持ち手を一本はずして片側だけで肩に掛ける女子高生がかなり多くなった。この意味についてどなたか、識者のかた。当然一本しかないので肩に食い込むし、重量バランスが崩れるのでジッパーが開いていた場合中身をぶちまけることになる。だが問題は、彼女らが一本掛けのどこに積極的美点を見いだしているかだ。それを知りたい。

おそらく「くずし着」の美学の一種なんだと思う。揃えて肩に掛けるのが真面目くさっているように感じられるので、それを解除したいということではないか。とはいえそれも「積極的美点」ではないね。

うっかりAndroid用の恋愛ゲームをインストールしてしまったのだが、お兄ちゃんアラームみたいなものがオンになってしまい、解除方法がわからない。電車内で鳴ったらやばい。





2013/4/19
ふと、鬼束ちひろの「桜流し」が聴きたい。ヒッキーのオリジナルがそれ自体マスターピースであるというのは大前提として。





2013/4/14
新潟の山菜を大量にいただいたのだが、とりあえず初級編ということで、灰汁抜きが比較的簡単なウドとこごみを天ぷらにして塩でいただきました。カタクリの若芽(これは土地所有者により採取されたもの)が絶品。和え物にしてみたら、花の香りとしかいいようがない上品な芳香がして、なるほどこれは春の味覚

晩年の開高健にグルメ調査員みたいのを主人公にした小説があって(超適当紹介)、ああいうのはきちんと書き手が体張って調査した感があって小説としていいと思った。19世紀フランス小説に学んだ人だからわかるっちゃわかるが。ひるがえって現代の身辺五メートル小説が文体実験になるのは、ぶっちゃけ金がないというのが主要因なのではないか。じつは。みもふたもないことだが。


横180cmくらいの天然木のデスクを買って、オフタイムには物ひとつおかず、前日の仕事おわりに必ず一度拭きあげてピカピカにして、そのデスクで毎日気分もあらたに仕事したい。





2013/4/11
健康診断に行った。自分の血がぴゅるぴゅる吹き出すの超おもしろい。「もっとガンガンいっちゃって(=血を抜いて)くださいよ」と口走った記憶があるが、そういううるさい男性ってたまに病院でいるよね。

今年こそ本郷近辺でうまい定食屋を見つけたい。700円くらいで魚が美味しくて温野菜がしっかり食べられるところがいい。きっとあるとは思う。うまい鯖塩焼き・秋刀魚塩焼き・鰯塩焼き・鮭塩焼き・ほっけ塩焼き定食があればそれのローテーションでもはや毎日通いつめてもよい。

信じがたいことなのだが、今までのおもな昼食が中央食堂のラーメンで、これだけを過去数年間集中的に食って食って食って食いまくって、確実に千杯以上食べてきたのだが、今年にはいってまったく足が向かなくなったのよ……。





2013/4/7
けっきょくスタバにいるのだが、机椅子類などのあらゆる環境においてサンマルクに圧勝しているにもかかわらず、なぜか今やここで読書できる気が全くしない。

ということで、例のアレはサンマルク北千住店二階の喫煙コーナー(わたしは吸いませんが)でレビューされ、追記され、仕上げられました。その次も恐らくはまた。

うにょーんとスマホいじってたら、柏に行きたいという韓国の人に話しかけられた。Galaxyの翻訳機能を駆使して千住までたどりついてここで詰んだらしい。古名が大事なのはわかるがJRは「緩行線」みたいな言葉が機械翻訳不能ってことを認識したらいいと思う。その文字列だけ訳されず残ってた。よい旅を。


久しぶりに草野球がやりたいが、わたしには友達が8人いなかった。





2013/4/1
やられた、今年も釣られた…





2013/3/28
ヱヴァQ、ダッシュ中のエヴァに乗ってるマリとアスカについて、バストアップとミドルショットのカットはしっかり全カット乳を揺らせてるので、油断ならない。

それと、アスカ(改2号機)に集中線がつきまくってる。なんかそういう細部が、サブタイトル明けの物語的展開と著しい齟齬をきたしてるというか、ある種の「突っ込み」として機能してしまっている。

考え事に詰まると室内をぐーるぐるしてしまう。上野動物園スマトラトラも檻の中でぐるぐるしていた。親近感。





2013/3/26
あとヱヴァQって電車のイメージ皆無になったよね。登場人物が繰り返し立ち返っていく、ああいった原形質的「場所」イメージって旧作との連続性を主張する上での一つの手段だったと思うのだけど(赤い浜辺のイメージも同様)、なんかいろいろ爆発しててそういうのもうどうでもよくなってる感じ。

エヴァ破の英語台詞部分の字幕、映画字幕フォント使ってるのか。フィルムに焼き込む時のことを考慮して、囲み線の一部に破れ目を作ってあるもの。デジタル制作なんだから本来その必要はないんだけど。当該部分を「疑似シネマ」として見せようとした、ということだろう。比較的よくある手法でもあるし。

映画内で利用されてるフォントワークスの通常書体を使えばいいのに、とも思った。使用されたのはフォントワークス製映画字幕フォントでしょうね。同社のサイトにはこんな頁があった。> 映画字幕書体を語る fontworks.co.jp/font/knowledge/





2013/3/14
ジッツオGT3532Sはビデオ雲台セットしてカムコーダを乗せればちょうど光軸が目高にきますね。使える。

ヱヴァQ、山手線という旧作に並走する京浜東北線に乗りこんで、破で遂に品川を発車した(鶴巻和哉の見事な比喩)ことになってたのが、品川を出てすぐ目隠しをされ、それが外れたと思ったらなぜか湘南新宿ラインに乗っていて、結局着いたのは新宿駅の別番線でした、というお話だと考えると結構ひどい。





2013/3/10
スタバのクリームはさんだスコーン二種、どちらも大変うまい。(ああ、ああ、両方食ったよ)

びっくりするのが水仙の生命力。切り花にして花瓶(大きい)にいけてみたら、二週間くらい良い香りをさせていた。もうすぐ三週間だと思う。さすがに少し元気がなくなってきた。すごいなあ。もうちょっと植える量を増やせば来期はドア前がさらにいい香りに包まれそう。





2013/3/6
中判はでかいので、風速が強い日は、風でボディがあおられてブレの原因になることがわかった。手ブレならぬ風ブレ。

二眼はスローシャッターには強そう。両吊りのストラップで下げて、片手で底面をホールドしてもう一方の手でピントを繰り出すから、つごう四点でボディを保持してる計算になる。ほんとか嘘か知らないが、所有者は「1/15秒でも余裕で止められる」と言っていた。

食器洗いはとても好きなので、進んで引き受けることにしている。水と洗剤の使用量を最小限にするための段取りというものがあって、そのためには食器を洗浄を要する度合い・種類ごとにグループへと整理することが必要だ。

つまり皿洗いの端緒にはこのような有用性に基づく思考が置かれている。素晴らしいのは、この端緒に置かれた有用性の思考が、皿洗い作業の進行につれ次第に溶解していく点だ。この作業は熟練に達することは簡単だから、手は効率的に動き、最初の分類さえ間違わなければほとんど思考を介することなく動きつづける。そこに漂うような無思考状態、あるいは半思考状態が訪れる……。

そして不意のひらめきは、こうした半思考状態の持続のなかにこそ現れる。だからわたしにとって皿洗いという単純作業は、新たなる思考をそこに呼び込むための苗床となっているに違いない。このようにわたしにとっての皿洗いは貴重なものなので、他人から奪い取ってでもやりたいくらいの仕事である。


Evangelion ART、『序』の京田さんの没コンテを採用してるのか。もはや何が「正典」なのかなんて言えないな。普通の感覚では「新劇場版」シリーズこそあまたの「エヴァ/ヱヴァ」を統合する「正典」となるだろうはずなのに。いいことだと思いますよ。当然。

ヱヴァ新劇場版の完結時、いろいろ企画が持ち上がるだろうけど、パチンコエヴァの系譜をしっかりした人がまとめたほうが絶対いいと思う。





2013/3/6
ニコ動の登山動画はこの主のが一番好き。虚飾がなく淡々としているのがいい。

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2013/2/27
昨日は2.8Kgの三脚をバックパックの片側に付けているだけでめちゃくちゃバランス崩れて疲れた。カウンターウェイトとして反対側に何か吊すしかないか? 80cm前後あるビデオ用三脚を横にして担ぐのは引っかかって危険すぎるので山では無理だと思う。山動画をひとに見せられるようになるまでにはまだまだ練習が必要だな。

ここのところ吹雪の日が続いていただけあって、雪の上の風紋がとてもきれいだった。風紋だけ撮ったり眺めたりしててもいいくらい。

フルハイビジョンテレビにSDカードを挿して観てみたけどすっごいきれい。雪のトーンが白飛びせずにきちんと出てたし(驚愕)、マゼンタにも転んでいない。キヤノンのCMOSは樹皮とか常緑樹の緑の再現がすごく上手い。

反面、手ぶれ補正を弱にしているのに相変わらず画面歪み(CMOSの特性)が出るのはいただけない。パン速度は相当ゆっくりにする必要がある。三脚に載せる時も気を使って撮る必要は感じた。かなり気難しい挙動をするカメラだが、はまりどころをつかんでそれを引き出したい気持ちにはなった。

AEはオートで大丈夫ですね。雪山ではオート任せにしたほうが極端に失敗することはなさそう。





2013/2/11
おお! この人の視点は確かだ! と思ったamazonレビュアーの他のレビューを見てみたら、そのほとんどがアダルトビデオの情熱的なレビューだった。





2013/1/23
今日はマームとジプシーの公演観てきた。すっげ良かった。脚本というか劇のデザインが良いのみならず演じ手も良い。帰途いろいろ考えが触発された。時間や空間や無意識をいろんな「枠」が貫くのだが、その境界の揺らぎを起動するのが「演じる」行為そのものなので、理論的でありながらおもしろい。





2013/1/09
「ご恵投」には個人的にちょっと違和感がある。動作主が著者ではあるが、それでも著書を「投げる」というのが引っかかるところ。「ご恵贈」のほうがいいような気がするなあ。流通してるんだからそれでもいいのでしょうけどね。





2012/11/23
慶應ボーイの手の早さについて重要な省察を得た。





2012/11/17
ヱヴァQ観てきた。

すばらしかった、と思う。ここ数年間で類例のない狂った映画だった。以下印象のみ。

気になった点から。シンジがヴィレから逃走するまでのところでは、短いカットを重ねるスピーディさやデコラティブな細部に反して映像に冗長さを感じた。3DCGIと描画の融合度は破よりずっと上がっているし、コンテ・レイアウト作業は、モデリングしたエヴァ他を3D空間で動かしつつ進められていったかもしれない。こうして達成された動きはとてもゴージャスで、それは「テレビ/フィルム」という二分法を無効化し「デジタルシネマ」としてあろうとする自己主張だったと思う。

ただ、特にアクションに関しては、それが旧作や序・破までの映像的原則を刷新するようなものとは今はまだなっていないのではないか、と思う。マンガで例えれば、決定的コマにもかかわらず、それを安易に集中線で囲ってしまったため凡庸に見えてしまうような、悪い意味で定型性が強いカットも少数あった。しかもそれらが強烈な「赤」に埋没することで(ブルーレイ上ですら赤のトーンが失われて同色に見えるかもしれない)、いっそう、エヴァの動きを動きとして、一連のアクションを連続したアクションとして、スクリーンを見て把握することが難しくなったように思う。但しこの評価は今後大きく変更する必要があるかもしれない。理由は後述。


物語的な面から。今まで「新劇場版らしさ」として把握されてきたシンジの積極的な性格造形が、Qでは半ば強引に奪い去られてしまっていた。テレビ版第壱話から最終話、旧劇場版までの間に段階的にシンジを見舞った混迷が、今回まとめて彼を打ちのめしたような印象すらある。

この作品は、旧劇場版『The End of Evangelion』後を描くために、サードインパクト後に続いていく時間と歴史を構想しようとしている。そしてそこでは、もはや「ロボットアニメ」という枠組みを壊してしまいかねないところまで物語が追い詰められていく。実際、『Q』の物語は、旧作『The End of Evangelion』より徹底している面がある。『EoE』でもエヴァ初号機は「物語を終結させる」という役割を、シンジと共に最後まで担わされていた。あの凄まじい物語破壊にも関わらず、それがなければフィルムが終わらないという意味でエヴァ初号機という存在はなお信頼されていたことになる。

ところが『Q』で、シンジの記憶する初号機はそれにとてもよく似た(が違う)13号機へとすり替えられる。本作でシンジは、「エヴァ初号機に乗るか乗らないか」という問いだけでなく、「自分の搭乗すべきエヴァがどれなのか言い当てられない」という事態に直面してしまう。この「すり替え」の効果により、Qの時空間で目覚めたシンジにとって出来事のほとんどが意味不明に近づいてしまっている。懐かしい人たちに話しかけても到底理解できないような返答がなされる。会話だけでなく、「綾波を助けようと」したつもりの自分の行為が破局をもたらしていたことも彼は知ってしまう。破までのシンジが強要されていたのが「エヴァに乗らなければ(自分が/他者が)死ぬ」という原則だったなら、Qの冒頭で彼に与えられるのは「エヴァに乗れば死ぬ」という原則だ。シンジは「乗らなければならない」かつ「乗ってはならない」という二重の原則に拘束されてしまっている。

問題は、新劇場版が旧エヴァの物語論理/映像的原則/レイアウトへの参照をキープしそれを反照しつづけるだけでなく、新劇場版のここまでの展開の内部からこうした難題を引き出してきて、物語に更に書き込んでしまうことだろう。そのことはサードインパクト後の歴史を設定することで可能になっている。サードインパクト後に歴史が延長され、シンジがその歴史をショートカットしてしまったこと(これがQの独創だろう)結果、シンジを経由し、シンジの知らない歴史や出来事への参照が行われる。この第二の参照を手にすることで、新劇場版は旧劇場版との差異からのみはかられるだけではなくなっていく。

Qのシンジは、自分の行為がなにをもたらしたのか――というか、自分の行為が特定の帰結に繋がるのだという事態そのもの――を理解できなくなってしまっている。「綾波を助けようと」手を差し伸べただけのつもりが、世界が崩壊してしまったと言われてしまったのだから、それも理解できることだ。

彼の記憶のなかにある「綾波/アスカ=エヴァ2号機/トウジ」は、Qでは「綾波によく似た少女/アスカ=エヴァ2'号機/サクラ」へと横滑りしている。こうした横滑りがシンジの混迷へと繋がる「すり替え」なのだとすれば、やはり注意するべきは、シンジが初めて遭遇するカヲルという存在だろう。シンジとカヲルとの関係性には、はっきりとセクシャリティを示唆する描写がなされている。ところがそれは、最終的に愛がそれを目指すような他者との合一・一体化──他者との合一と拒絶からなるディアレクティック──を志向するようなものとしては描かれていないことに注意が必要と思われる。カヲルとシンジの連弾のシークエンスがよい例示になると思う。

そこでは何故シンジがピアノの演奏技術を短期間に習得できるのか、といったリアリズムの問いが失効してしまっている。シンジはカヲルの横にいるうちに「なぜか」ピアノの演奏ができるようになってしまうし――つまりカヲルはシンジに「教えた」のではなく、シンジに並ぶことで「模倣」させたのだ――、カヲルはもともとシンジがしていたチョーカーを首に装着し、それによって自殺を遂げてしまう。カヲルはシンジにとって不可解な他者として現れると同時に、シンジの分身としても振る舞うわけだ。カヲルはシンジと甘く一体化するどころか、Qの世界にシンジを繋留するアンカーとなることを拒否し、シンジをシンジ自身の破砕された自己に再び向き合わせてしまう。この点で、カヲルは他者として双数性の範疇に属すると同時に、映像的にはシンジの自己像にたいして分身/幽霊的な存在としても出現することになる。この双方の意味合いにおいて、カヲルは一層徹底的にシンジを突き落とすことになる。

こうした描写の重畳によって、シンジは「なにをすればいいのかわからない」状態へと追い込まれていってしまう。他者/外界にアクセスする方法がわからないだけではない。音楽プレーヤーのようにシンジと他者との絆を表象するアイテムすら、レイやカヲルの手を介し、彼らとの記憶をそのつど少しずつ蓄積していくことで、次第に複数人の関係性へと「汚染」されていく。冬月が示すボードゲームの隠喩のように、Qのシンジにとって世界のなにに触れるか、誰をかけがえのない存在として選ぶかの根拠は失われてしまっているし、それどころか「誰を選んでも同じ」という、ルールなきゲームへと陥る可能性すらなくはない。

シンジと外界との交渉は打ち砕かれている。こう考えてみたとき、先ほど定型的な動きが多すぎる、動きばかり先行していると否定的にみた本作のアクションが、逆に気がかりな存在として浮上してくるように思う。本作まで旧作・新劇場版が保ってきた原則とそれが衝突する可能性があるからだ。

エヴァ/ヱヴァ共通の造形として、エヴァンゲリオンの「アクション」は、パイロットの身体の延長として考えにくい点がある。エヴァのコクピットには前方にレバーが備え付けられているくらいで、エヴァのアクションはパイロットの身体と一対一に対応していない。彼らはシートに「座って」いるだけだ。エヴァのアクションはパイロットの身体運動に対応せず、「シンクロ率」という言葉やそのグラフィック表現のような代理物でしか裏書きされない。

そのような跳躍を創造してやらない限り戦争機械は起動しない。これが旧作『エヴァンゲリオン』が設定し、新劇場版に引き継がれた反物語の原則なのだった。とするならば、Qの、延長された時空間の中に描かれた「アクション」――キャラクターとエヴァのインタラクション――の一部に不備な要素があるとすれば、それはシンジだけではなく、アスカやマリたちの他者/外界へのアクセスにもまた、深刻なエラーが引き起こされていることを示唆するのではないか。そして、そのことは本作最終部の、「ロードムーヴィー的」展開が意味するものについてのヒントを与えてくれるように思う。エヴァに乗るのではなく、Qの世界をあらためて「歩いていく」途上でシンジやアスカやレイ(偽レイと言うべき?)がなにを得るのか、僕はとても知りたく思う。


おわりに一点だけ。本作の画面には、通常映画に期待される「風景」がほぼ存在しなかったように思う。宇宙空間や青空のような、視点にたいして無限に遠ざかった「背景」か、運動体に自在に回り込んでいく動き主導の快楽だけがあって、人物がそこで自身を位置づける空間としての「風景」が不在だったように思う。それは色彩の偏在ということにも繋がる。まず暗部に多数の細部を潜り込ませた後、それをハイライトの中で一気に展開するという色・輝度のダイナミックレンジの広さ自体がある一方で、本作で提示される色はあの禍々しい「赤」や「青」あるいは「黒」、「白」など少数のグループに引き絞られていくのだ。「風景」も「中間調」も失った世界……。

あまりまとまっていませんが、とにかく、直後の感想として。





2012/11/16
ヱヴァ破の再放送みてる。居酒屋のところなんだけど、新劇の加持とミサトって、既にこのあたりで快調に仲直りセックスしてるような気がする。

すっごいねこれ! これだけでは何とも言いようがないけれど。二点。まず3DCGIとの融合がさらに進んだ感じ。第二、色彩のダイナミックレンジを目一杯使ってる感じ。破のタイトル前と同様、シャドー部に無数のディティールを折り畳んだのち、それを一気にハイエストライト側で展開する気持ちよさ。

新劇場版を、色彩と白黒(輝度)の二層によって織り成される詩学として読み解いてみることができるのではないか。





2012/10/29
ちょっと前、国会図書館の準機関誌(だと思う)、『読書春秋』の昭和25年前後の巻号を読んでたけど、そこに載ってた中井正一の文章がどれもはっとするくらい良かった。特に映画論は文章に独自のうまさがある。1952年没だから晩年のものだなあ。その名も『中井正一のメディア論』という研究書があるらしい。





2012/10/24
大林宣彦『この空に花を 長岡花火物語』をすべり込みで。すっっばらしい! すっっばらしい!! これは観られるべき作品。二時間半とやや長い映画ですが時が経つのが早かった。Blu/ray出たら買おう。そして来年の長岡花火は絶対行こう。





2012/09/19
Internet Archive、2009年からのニュース番組35万本を公開 - Engadget Japanese
これはすごい。画質もDVD並でかなり良好。

貧乏人あるある──茹で時間の違うパスタを時間差で投入。あっちに0.3束、こっちに半束、あんなところに0.4束という感じで残ってたパスタを集成して一皿にする。豆もやしと牛挽肉とトマトソースでアラビアータ風に。美味。

なお、「トマトソースで」とは「ケチャップ入れた」、「アラビアータ風に」とは「タバスコたくさん入れました」の意である。ものはいいようってこと。





2012/9/16
金沢の女の人たちはふわふわした・たっぷりとドレープした服を好んでいるようだ。明らかに東京とは流行りが違う。関西圏の影響なのかもしれないがよく分からない。そして、駅前の本屋に鏡花・秋声・犀星あたりがある程度揃ってるあたりはさすが金沢であった。


NHK-BSの『にっぽん百名山』、今回は「御岳」。とてもいいんじゃないでしょうか。恐らく以前の『日本百名山』シリーズへの反省から、深田久弥の名前すらあまり出てこない。尺が30分に増えたことで、単にきれいな映像を見せるだけではなく、山と地元の人々との関わりの歴史を、ガイドの解説とナレーションで紹介していくようになったのが今シリーズの特徴か。

回によって、その試みがうまくいくことも今ひとつなこともあるのだが、今回はそれに十分成功していたように思う。それによって、特定の山への興味がかきたてられるだけでなく、視聴者の周辺にあるほかの山への理解も深まっていく点がいい。ここがイメージビデオ的だった旧シリーズと違う点なのかもしれない。





2012/9/9

よくわかるテレビ番組制作の法律相談 (KGビジネスブックス)

よくわかるテレビ番組制作の法律相談 (KGビジネスブックス)


梅田康宏、中川達也『よくわかるテレビ番組制作の法律相談』(角川学芸出版)。放送局の企業内弁護士執筆による、番組制作の関係法令、判例、考え方を典型的ケースに即して事典的に解説。プロデューサー、またプロデューサーの判断を先読みし適切に行動したいディレクターやアシスタントの要望に応える一書。

──なのだが、これはオンエア系の番組制作者に独占させておくのがもったいない良書。放送だけにしか適用できない事例解説はむしろ少なく、ustやニコ生など、映像を用いた制作・配信に関わる人にとっての必須知識が満載でお勧めできる。放送関係者向けということもあり、権利処理事例の解説が厚いのもよい。「名誉毀損を防ぐ取材手法と取材メモの取り方」「道路[公道]での撮影と許可手続き」「インターネットサイトの「引用」「報道利用」」などの各節は、わずかの修正を適用するだけで、あるいはそのままでネットでの映像配信や映像制作にも使うことができる。2008年の本なので、この点も視野に入れた改訂があるといいと思う。第二版が出たらまた買いたい。





2012/8/27
スタバでコーヒーとレモンカスタードケーキ。

やたらと甘ったるいがそれがいい。さらに言えば、これの二倍でかく二倍甘ったるいクソ最高なレモンカスタードケーキが食いたい。

横の席の男女が「あの子契約だけど、誰それ君に紹介してもいいかな?」みたいなじわじわと嫌な会話してた。合コンのセッティングみたいな文脈で。「契約」とはもちろん「契約社員」のこと。


これは某所で申し上げたことでもあるが、新海誠さんはまじで原作つきやればいいとつねづね思う。芥川とかチェーホフとか。ほどよく古典でほどよくリリカルなテクストについたほうがきっといい仕事してくれると思う。つまり、古典主義と他人のリリシズムという二つの枠によって規制を受けるということが、氏の仕事に間違いなく味方すると思う。近作二作を経て次作でまたあの感傷を再演されたらさすがに擁護することは難しい。それならそれで観てみたい気持ちもあるにはあるのだが。





2012/8/25
九州地方には「寿しまどか」という回転寿司チェーンがあるそうなのだが、同じ企業が、さらにプレミアムな回転寿司チェーンとして「寿し清か(さやか)」というものを運営しているらしい。九州ではさやかちゃん大勝利じゃないですか。

昨夜は大阪在住の20際の娘さんが深夜にベランダで一人で花火に興じるというニコ生を観ました。親父とかが乱入してくるのを期待したがそれはなかった。





2012/7/27
伝聞なのですが、ニコ動の「踊ってみた」などで最近EOS 5Dmark2などのラージセンサー機が使われだしたそう。言われて動画をさがして観てみると確かに特徴的なEOSトーン。踊っている姿を綺麗に記録したい→少々高くてもいい機材を使う、という選択があるんですね。

これはたぶん5D。ここまでくると「薄暗い室内でウェブカム撮影」という感じはまったくしない。

【マリス】shake_it_!踊ってみた (2:09)

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2012/7/17
Galaxy noteの利点:あおげる





2012/7/15

New World Line

New World Line


fhana『New World Line』聞いてるけどとてもいい。全曲良いが、特にIAが唄ってる「光舞う冬の日に」が好き。
フルMVがニコニコで視聴可。

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全国的にこれ以上気分の良い日はないだろうっていうようなお天気の日があったら、きっと藤枝さつきさんに電話などしてみようと思うの。





2012/5/3

摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)

摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)


永井荷風『摘録断腸亭日乗』上下(岩波文庫)。面白かった。荷風の重要なテクストであるという位置づけ以上に、同時代風俗のドキュメントとしてすごく面白い。「江戸情緒の中に引きこもったデタッチメントの作家」という先入観は完全に覆された。

政治に対する消極的抵抗というものでもない、もっと能動的な、作品生産装置としての「日記」。彼がこれほど「歩行する文学者」だったとは。文壇や世相に対する態度と並んで、彼の「東京」記述が興味深い。彼が撮ってたというスナップ写真はアーカイブになってるのだろうか。

作品を生む「日記」という意味では、本書のハイライトは『墨東綺譚』執筆に至る昭和十年頃にあるように思う。「カメラを持った男」荷風の像が鮮やか。全集で読むと七巻あるそうだが、思わずそっちで全部読みたくなる面白さがあった。もう誰かがやってるんだろうけど、荷風の外出日と彼の遊歩コースを当時の地図上にプロットして、それと作品生成との関連からみてみたい。分析としてどうこうっていうより、単純に楽しそうな気がする。彼の歩行路にそって、自転車で走りながらハンドルに固定したGoProで撮ってみたり。





2012/3/20
自主映画の某コミュニティで、親身になってフィルターテクニックとか音声収録のアドバイスをしている「高山カツヒコ」氏って、あの「高山カツヒコ」氏なのか、ここ五年くらい気になって仕方がない。





2013-04-26 『ユリイカ』5月号に寄稿しました このエントリーを含むブックマーク

青土社さんのサイトに正式告知が出ましたので、お知らせします。

明日4/27日発売の『ユリイカ』5月号に、フランス文学研究者中田健太郎さんと僕の対談が掲載されます。鬼束ちひろさん特集号として、すでに多くの場所で話題を呼んでいる同号ですが、あわせて、昨年公開された『ヱヴァンゲリヲン:Q』の小特集が企画されています。われわれの対談は、後者の『ヱヴァQ』についてのものです。5月号の詳細な内容については、青土社ウェブサイト http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791702541 をごらんください。

この『ヱヴァQ』小特集には、サンキュータツオさん、ふみふみこさんが寄稿されていて、お二方の頁を開くのが今から楽しみです。そしてまた、みずからが作り上げたかたちの中に決して安らぐことなく、いまも歩き続ける「ヱヴァ」という現象と、鬼束ちひろというアーティストの歩みとは、どこか共鳴するところがあるように僕には思えます。それだけに、一執筆者として鬼束さんの特集号に寄稿できたことは、僕としてとても嬉しいことです。

分量は校正時点で60枚程度でしょうか。通常の対談としては長い部類に属すると思いますが、実は直前に約1/2に圧縮してこの枚数となったため、そのぶん濃い内容に仕上がっているのではないかと思います。書店にてお手にとってご覧いただければ、幸いです。

2012-03-17 長岡日記(2)

しばらくここで書かないでいた。しばらくどころではない。数年間だ。驚くべきことと言うしかない。


魔法少女まどか☆マギカ』を特集した『ユリイカ2011年11月臨時増刊号での対談への反応は、すべてを確認するのはとうてい不可能ながら、極力拝見させていただいている。同対談では一定の達成もあった一方で、今後への課題も多く見つかった。これから当分の間はそれに対処する作業があるだろう。

個人的には、2010年代に入った去年という段階で、また『まどか☆マギカ』という作品を通す形で、シャフトという制作会社(そして、そこに集った作家たち)の積み重ねてきた仕事がもつ現在的な意味を考えることができて、とても良かったと感じている。

ウォーカーショートブレッドはバターたっぷりで美味しいですね。


過去三年くらいの間とっていたメモのうち、一部を本欄に戻しました。





2012/2/7
芳野満彦氏が死去した。

素晴らしい登山家で、著述家だった。小学生の時、父に薦められて読んだ氏の『山に登ろう』(ちくまプリマーブックス)が、僕が登山に親しむきっかけだった。


ご冥福をお祈りします





2012/1/24
NHKの秀作ドキュメンタリー『証言記録 兵士たちの戦争』、ここで視聴できるのか。

今日、書店でこのシリーズの書籍版を見かけたんだけど、今やこれらは文字データ化した上でタブレットなどでも読めるようにしていいように思う。書籍の形にすることで完結させるだけでなく、それ以外の番組内で収集された証言と並べて比較したり、取り上げる地域のタグをつけたりしてまとめて分析可能にすることで、証言へのアクセス可能性がより高まるようになっているといい。『戦争証言アーカイブス』は既に相当いい仕事をしていると思うので、そうなることを期待しつつ。

下記のリンクからは、1992〜3年のNHKスペシャルドキュメント太平洋戦争』が全部観られるようになってますね。外見的に古びているところもありますが、これは素晴らしいドキュメントで、構成凝縮度共に文句のない企画。DVDで買うと二万弱していたはずです。第一集「大日本帝国アキレス腱」は、南方還送油の輸送状況と輸送船の船腹量をCGIを用いてビジュアル化した先駆的な試みの一つ。アメリカのcomputer assisted reportingを意識した演出手法と思われますが、今でも十分通用する。これ、時々ニコニコに上がってた(そして即刻削除されてたりしてた)なあ。




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風俗小説論 (講談社文芸文庫)

風俗小説論 (講談社文芸文庫)

2011/12/15
講談社文芸文庫版で、久々に中村光夫『風俗小説論』を読んだ。記憶よりもずっとハイコンテクスト丹羽文雄文学史的なレベルで抹殺するのが狙いだったと、まずは言えるか。「思想」と「観念」という範疇がはっきり使い分けられているのが面白い。


で、ノート取ったりしたけど、やはり異様に良い。この論は確実にある部分では丹羽を潰すために書かれているんだけど、そういう論争的な仕事の中にどれだけ自分の理論的問題を盛り込めるかが批評家の狙いの高さを知る上では大切だと思う。その意味ではやはり第一章が要か。他者性の問題。

リアリズムの成立に絡む他者性の問題。中村は日本の近代小説における真実性が作家本人の生を「事実」と見なしそれにもたれかかることで成立させられたと読む。有名な主張でもある。ところがここの分析は、西欧のリアリズムを説いたその前段部分と読み合わせると妙に引っかかる部分でもある。


中村の見る西欧小説のリアリズムの要点はこうなる。

(1)実生活から切り離された仮構の世界に、
(2)作者の思想と判断力に支えられた、
(3)「事実・事実らしさ」(蓋然的一般性)を作り上げるための、
(4)「思想的力技」であること。


で、この構図をそのまま先ほどの明治日本の自然主義の構図にインポートすると以下のようになる。明治四十年代小説は、西欧リアリズムとの対立関係では(A)仮構としての真実性=構成されるべき「真実」・「真実らしさ」が、(B)作家本人の生を「事実」と見なしそれにもたれかかることで成立させられている、という定義になる。

中村が「もたれかかり」と言うのは、ここでのABの関係が、論理的な根拠付け関係になっていないことを指しているだろうと思われる。中村の考えでは、作家本人の生という「事実」(B)は小説的「真実」(A)を基礎づけない。なぜか。ポイントとなると思われるのは、中村が西欧リアリズムの要件に入れていた「蓋然的一般性」としての事実・事実らしさという論点。これがABからは脱落している。

中村の考えでは、仮構としての小説が作り出す「事実・事実らしさ」は、「蓋然性」の範疇に存立する。つまりそれは時には成立するが、ある時には成立しないようなものだ。だから近代小説においては妥当な「事実らしさ」の成立・非成立が常に争われている。ではその妥当性――「一般的」妥当性――は誰によって判断するのか。中村の論ではそれは明らかに「社会において、読者(作家以外の第三者)が」、ということになる。

中村の拠る西欧リアリズムの構図は、図式的なスタティックなものとして読まれる可能性の高い箇所だけど、こう読むと、読者=他者によって何が「リアル」なのかを絶えず問われつつ読み進まれていく中村のテクスト観が浮上してくる。この点も含めて彼の私小説批判の当否を見るべきなのかもしれない。


これは中村の有名な「です・ます調」の採用とも絡む問題かもしれないなあ。私見では中村光夫=小林秀雄テーゼは「日本語小説には言語を介した去勢が足りない」(仮構の不徹底とそれを補填する自意識の表出、社会化した私の不在)と言い換えられるだろう。『風俗小説論』は中村が長編評論にです・ます調を採用した最初で、昭和25年『風雪』での三好達治との対談でその成立事情への自注がある。以下は「創作批評」『風雪』昭和25年6月号の中村発言。


矢張り國語文といふものが実際の話し言葉と一時非常に近かつたがまたそれが或る程度離れ出したのではないかと思ふんです。さういふいはゆる、國語文の定型をもう一ぺん動かせるのではないかと考へてみたのですね。

小説の場合は、國語化運動が兎に角徹底したでせう。ところが、評論の場合にはそれが徹底しなかつたのです。それで表現が古びやすくなつていることは確かにあるので、何んとかして評論の文章を口語に近づける努力は何んとか一ぺんやらなければいけないのではないか、さういふことを僕は考へているわけなんですがね。結局、日本語で思想を表現して一番古びないやうにするにはどうするか、といふことが問題なんですが。


と、こんな感じで、ですます調の狙いを中村は言う。「國語文といふものが実際の話し言葉と一時非常に近かつたがまたそれが或る程度離れ出した」のところの前で、中村が「実際の話し言葉と近い」例の一つとして挙げるのが京都学派の口述筆記なのは興味深い。ヴァレリーも田邉元も「書くと非常に難しいのだけれども、口述筆記では、まあ判るのです」。と。





2011/12/11
バーガーキングのポテト、塩強めで空腹時は美味しく感じる。


今日のNHKグレートサミッツ(の再放送)は良かった。アコンカグア。高度馴化に失敗した撮影クルーが次々に脱落していき、山頂に到達したのはカメラマン一名とガイドだけという凄まじい状況。ガイドの的確な判断によって番組がまた新しい状況へと導かれていったところがあり、その意味で今回はガイドの物語とも言えたかもしれない。

アコンカグアは登頂許可が20日間しかないそうで、番組成立を焦ってのサミットプッシュに陥らないか心配だったがそれはなかったよう。今日のはそれ以前の再放送だけど、今年はエベレストで番組取材中の死亡事故(他局)も起きた。肩載せカメラを山頂になんとしてでも送ろうとする辺りはいかにもNHKらしい。あと、山頂手前の標高6500m付近まで、皆ダブルのトレッキングポールで登っていたのにびっくりしてしまった。他の登山隊も皆一緒。風が強すぎて雪が飛んでしまうので、短いピッケルではなく足下まで届くストックが好んで使われているようだ。

アイゼンはグリベルの爪の短いものを選択。岩の上を歩く時間が長いので、敢えてそれでよしとしたものと思われる。こういうのを目にすると自分の中のギア信仰を見直したくなる。道具とは状況に応じて適材適所で使うべきもので、そうでないと害のほうが大きいということ。

ともかく、90分間すっかり引き込まれてしまったのでした。そして撮影隊と同時期にアコンカグアに登っていた人のブログ番組のことが。大きな事故のないままシリーズが完結してくれるといいが。




[][]まどマギメモ(1) まどマギメモ(1)を含むブックマーク

2011/9/9
まどか☆マギカシステムを最後にぶっ壊すのはもちろんまどかだけど、ほむらもそう。物語内の時系列だと最速でルールブレイカーになってる。


誰が魔法少女になれるかは前半の諸エピソードでははっきりしないままだけど(確率的なもの? あるいは事故の結果なる? マミの場合)、それがだんだん「業の深い人間がなるもの」のように変わってきて(杏子)、第10話のほむらの契約は「強く願えば契約できる」という風に変化する。しかし強く願いさえすれば契約できるのなら、魔法少女になれる者となれない者、何が魔法で何が魔法でないかを仕切っていた物語的規約が解体してしまい、物語の外部に接触してしまう(ほむらの保有する魔法少女としてのスキルはそれを示している)。


ほむらとの契約のシーンで、キュゥべえの登場は唯一オーバーラップで描かれることに注意したい。従来のようにカットを割らない。画面中央に小さくOLでふわっと現れる。こうして、彼女の契約の成立は、物語的に処理されると同時に描画によって成立するものとして示されていることがここで明確になる。ほむらはなぜ魔法少女になったのか。それは彼女の願いがそうであり、かつ、物語作者がそう記述し、アニメーターの手によってそう描かれることによってだ。この三つのレベルが10話の当該シーンには流れこんでいる(それを制作者は隠していない)。魔法少女の生を送るかそれ以外の生を送るかは、最終的にこれら三つの要因の調整によって決定されるのだ。人はマミのように魔法少女になっても、杏子のように魔法少女になってもほむらのようになっても構わない。好きな可能性を選べばいい。

これは「魔法少女」という物語装置を維持しつつ、そこに物語外のレベルを滑り込ませるうまい工夫かもしれない。魔法少女は確かに存在する。しかし魔法少女という存在は様々な仕方で成り立ち一様ではない。魔法少女の生って、現実の視聴者の生との類似性をはっきりと示すものではないけれど、しかし同型性は強く持っていると思う。「ソウルジェムを砕かれるまではゾンビとして在り続ける」という魔法少女の生と、「死ぬまでは生き続けている」という私たちの生の条件とは、実は形式的には同じなのではないか。だとすると、魔法少女になることとは、人間とは違う別の存在になることであるというよりも、むしろ二重身の問題として捉えることができる。義体の問題系が結局メランコリーの問題に帰着するなら、二重身の問題は解離の問題に帰着するだろう。

問題は、その解離の距離が極めて小さく、しかも先ほど挙げたような三つの要因が関わることによって、その距離も微妙に変化しているという点だ。魔法少女の生の条件と魔法少女ではない生の条件(日常の彼女たちの/私たち視聴者の)とは同型でありその距離も近いが、その距離が微妙に変わり続けているために、それは「これは何の、どういう比喩なのか、いったい何をどの程度有効に指し示しているのか」という問題を呼び起こしてしまうだろう。「魔法」が成り立つ世界と、それが成り立たない(ことになっている)世界との繋がりが、実は意外に近く、しかしその間の距離が固定されず、ゆらゆらと揺れているような事態。つまりは虚淵氏すごいという話なのだけど、同時にこれは映像の問題として追求してもいい事柄なのではないか。


まどマギの、岸田さんのキャラデザインを通したうめ先生の絵は非常に正面性――「平面性」というよりもこのほうが適当な表現だと思う――が強い顔だが、対して横顔のプロポーションは普通だ。というかむしろシャープなくらいで、結果、押しつぶした楕円形の正面顔(A)と普通の縦横比の横顔(B)との間で顔貌性が揺れてる。アクションの際など、斜めからのキャラの顔が、同じ角度なのに(A)の系統になったり(B)の系統になったりする。もちろんこれを統一することは無理で、それは大元のキャラクターデザインが原理的にそうなっているためだ。(A)と(B)が何度で切り替わるかなんて定義できない。結果、そこはあえて線引きせず、両者を混在ぎみにして作画的なうねり、気持ちよさを狙ったというのが実情だろう。そして、この選択はむしろ作品の強みになっているのではないか。この選択を下した結果、本作品のキャラクターデザインの顔貌には、同じ顔であっても二つの側面が現れてくるように思うのだ。

魔法少女の二重の生(魔法少女と魔法少女になる前)とを貫通する映像的水準は、コスチュームに覆われたキャラの身体の覆われていない部分、つまり顔だけだ。そしてその顔貌そのものが、私たちが見る/制作者が描く角度の違いによって、押しつぶした楕円形の正面顔(A)と普通の縦横比の横顔(B)という、同じではない二つの表情ABの間を行ったり来たりするのだった。とするなら、「魔法」のかかった世界と「魔法」のかかっていない世界の両方において、常に私たちに見えており、そのことで世界を連絡させる鍵のようなものとして機能しているのが、個別の顔の表情や造形(それらは(A)(B)の間で常時揺れている)ではなく、それらが一段抽象された、そしてそれらが帰属する「顔」というレベルではないか。正面から見ても横から見ても、その人物が(例えば)さやかだと識別できるような「顔」。この「顔」によって、二つの世界の距離の変動(揺れ)をある程度フィックスしているように思う。


その連絡プロセスは私たち視聴者がキャラクターたちの「顔」を「見る」ことによって起動される。そしてそれは、シャフト作品においては、「シャフ度」と呼ばれる空間性と身体性との連結のテクノロジーによってブーストされているわけだ。

あまりうまくまとめきれなかったですが、とりあえず残しておきます。





2011/8/19
ゴダール的方法もうすぐ終わる。ゴダールvsランシエールvsディディ=ユベルマン。スリリング!

興奮の読書体験だった。最後はベンヤミンの「模倣の能力について」。フォルマリズムを徹底しつつもそれをテマティズムとコネクトさせ絡み合わせる手腕(=ジャンプ・カット!)が絶妙。その文章技法そのものがゴダールの映像思考に「内在」したものだといえ、良い。まったく、こういう風に書きたいものだ。

この人は絶対アニメ論を書くべきだ。






2011/8/19
90年代アニメから00年代アニメへの転換を「身体性」から「レイアウト性」への重点の移動、と要約してもいいかもしれないですね。





2011/8/14
反アニ批評夏、ざっとだが読むことができた。どの論考も面白い。特集ということでまどかについて。映像分析としては平田@のぶ氏のアートアニメとの比較が面白かったし、作品論としては志津A氏、喉氏のものを特に興味深く読んだ。喉氏のものでは、さやかの位置づけに関する指摘がブリリアント

周知の通り『ままま』の提示する魔法少女のシステムは歪んでいて、主人公のまどかは最終話でそのようなシステム自体を消し去ろうとする。ところが、その消去対象として映像が示すのはまどか達よりも遙か先行する歴史上の魔法少女達であって、まどかや、彼女と同時期に魔法少女になった少女たちがどう救済されるかは判然としない。更に作品内で唯一明示的に魔女に落ちてしまったさやかという少女は、まどかの提示した救済の枠組みに乗せることが不可能であり、その結果最終話のまどかによる世界救済が「むしろさやかの魔女化というシナリオを永遠に刻印し続けてしまう」と指摘する。

作品の強い外部への志向性に対し、作品内のコンテクストに内属した論理を拡張していくとそれとは背馳するようなロジックが致命的な点で出てくる点を指摘して、とても有益な知見だと思う。ジャンル的な閉域を「外部」の理念によって突き抜けた、というような読みを適用してはまずいということだ。


さらに分量を増やした論考として読みたいと思ったのは志津A氏の論。震災という問題系との接合、又『あの花』と本作を並行して取り上げたことも良かったと思う。『ままま』の遂行した喪の作業を物語分析ベースで切り出していくが、この論じ方は映像分析にも明らかに拡張可能と思われる。例えば繰り返されるまどかの死を「目の当たりにしながらも、ただ見ていることしかできなかった」ほむらの姿とは、同時に視聴者の謂いでもあるだろう。観るという、原則的に受動的な経験の中でいかにして映像的な「再生」の経験を立ち上げるのかという映像的要請と、ほむらの変化をいかに描くかという物語的=映像的要請とは明らかにパラレルなもので、その意味ではむしろ対象との間に距離を取ろうとする本作のレイアウトの問題が気になる。一例としてこうした点で両者の架橋を試みることはできないか、などと考えさせられ、やはり触発される論考だった。





2011/8/9
まどか☆マギカのレイアウトの問題。意図的な対称性とズレ。まどかの走りがOPとEDで逆方向になっているというのは既に有名なはず(下手へvs上手へ)。

それは明らかに意識してやっているのでしょうね。追加。OPのまどか走りはものをナメる・ごしのショットで捉えられ、EDのまどかの走りはキャラの影に挟まれてそれを縫うようにしながら描かれている。この点も対称性をはっきり意識しての処理なんだろうなあ。ただ、ざくっと読んだかぎりで出てくるそれらは基本的に映像言語の意味の自明性に乗った上での操作だと言える。1990年代後半の庵野秀明が疑ってみせたのはアニメにおける「身体」という審級の自明性だったのだが、そのような庵野の疑いと比べると、前者は一見ラディカルさの点で後退しているようにも見える。

とはいえ、庵野も捨て去った(のだろう)その段階にとどまり続けることは難しい(し、あの破壊的なアプローチは一回しか使えない)。別の選択肢を考える必要がある。そういう意味では黒瀬陽平さんの一連の論文も、「非=身体」の位置に次世代のアニメ論の準拠点を探そうとした試みだと位置づけることもできそう。





2011/7/29
平野綾の一件について。その種の写真が、時に合意の上で撮られることはありうることだけど、そういう写真は外に出さないという信頼があって通常撮らせるものだから、外部に流出させるような状況を作った撮影者が悪いんじゃないの。バカ男を踏んじゃった責任を除けば、平野綾は被害者の側面が強い。

ということを、あるかたの昨日のツイートを見ていて思ったのでした。もちろん上記は、画像の被写体になっている人間が本人であるとの仮定に立っての話です。要は他人のプライベートを外に出した奴が悪い。平野綾自らがそれをやるとは考えにくいし。





2011/7/20
たとえお前らが忘れたって俺は「現代思想アナル」を忘れてはいないんだぜ。


最近『花咲くいろは』が楽しい。岡田さんの脚本の特徴が僕にもクリアーになってきたと感じる。二点言うと、(1)リアリスト、(2)(1)の帰結のひとつとして男性を物語上から排除する際、その理由を明示する、の二点。ダメ男のダメさをきちっと描かせるということ。





2011/7/6
登山靴買った。マインドルのヤリジャパン。すごくいい靴だよこれ!





2011/5/28
1話を観返している。ほむらが自己紹介でホワイトボードに名前書き込む時の手元のアップのカットで、まままは細部に凝るなあと思った。ペンの動きに従って描かれるラインの軌跡がインクのベタ黒のそれではなくて、デジタル方式で描かれたことを示す網目が入っている。人物と世界との接触面の手触り。





2011/5/16
「ほう、長岡くんはさやか派ですか」と言われた。





2011/5/8
星を追う子ども』、とてもよかった。


一言で言えば、ほしのこえ〜雲のむこう〜秒速に至る新海誠の映像的ストックが再編成されたという印象。そしてその再編成は『雲のむこう、約束の場所』の線により強く沿っている。批評的に擁護は可能か? 僕は可能と思う。

言われているジブリテイストについて。確かにその側面はありまた目につくところに配されているけれど、物語的映像的に必然性のある選択だった。新海さんの独自色が強い演出がある程度抑えられ、作品のトーンに溶けこむようコントロールされていることと一対だろう。

数点。恐らく新海さんはここまでの彼の履歴にどう向かうべきかを本作で考えていて、過去作との接続と切断は常に意識されていた。アガルタって名付け、『ほしのこえ』でミカコが降り立った惑星の名前だ。はるかな「私のこと、忘れちゃったかな…?」の声。本作タイトルもそれを思わせるものだ。


一言で言えば本作は死と愛をめぐりながら象徴的去勢に至る古典的な物語で(去勢から始まるのではない)、その点があの自閉的・回顧的な『秒速』へのアンサーなのだろう。震災を受けて、制作作業の継続に疑問と苦痛を感じたというコメントも、そのようなモチーフを用いたことと相即しているに違いない。

ただ、多分それって本筋じゃない。新海さんの作品に僕が惹かれるのは、作品ごとにすごく明確なゴールを決めてそこに向かって行こうとするんだけど、その途上で意図せざる要素が付け加わって、何か異様な強度というかツイストが作品に掛かるところ。この作品もそう。

ではその強度はどこにあるのか。この作品は後半になるにつれ加速していく。映像も物語論理も。そこがいい。詳しく触れないけれど、最終部で複数の記憶のプロセスが相互乗り入れする箇所があって、最も興味深く観た。だけどそこも一瞬。この速度の結果、それまで構築されてきたものが流動性を持ってしまっている。この流動性が評価できるのではないか。『雲のむこう』と似ているけれど、それともまた違った解決として。恐らく何らかの意義にリンクしているでしょう。それがなにかはもう少し時間をかけて考えてみたいですが…。





2011/4/25
まどか☆マギカ最終話よかったみたいだね。

まままってたぶん超ハイコンテクストな作品なんできちんと読めるか不安。何とかなると思うけど。僕は最初映像の水準だけで観て、それでこの作品面白いもっと知りたいと思ったら演出家や作家の情報を集めるという方向性です。それは訓詁学じゃなくて、より適切な読解のために必要な作業だと思うから。

正直、作オタの人とは見ているところが違うんだろうなとも思うし。わたしどこが誰の担当パートだなんて一発じゃわからないですよ。でも、それが何らかの理由によってどうしても必要なら、コンテなりその他の制作過程をクロスチェックでもなんでもして突き止める必要はあるでしょう。その作業の意義は実際、否定しがたい。





2011/3/27


昨日読み終わった小林尚礼『梅里雪山 十七人の友を探して』(ヤマケイ文庫)がとてもよかった。筆者は、1991年に梅里雪山で京都大学学士山岳会と中国人登山家の合同隊17名が死亡した事故の際、京大の山岳部員だった人。現地に通って遺体の捜索作業に携わったという。

雪崩でベースキャンプごと流された遭難者の遺体は、氷河に呑み込まれた数年後、麓の村近くの氷河の末端部付近から次々に発見された。事故当初、高山を単に登るための対象としてしか見ていなかった筆者は、遺体回収作業のため現地に通ううち、現地の人々の山への畏敬の念に次第に影響されていったのだそうだ。

だが、本書中で示される筆者の共感は、高地民たちの信仰に安易に同一化するような自己陶酔とは一線を画している。以下のような彼のいい文章。

梅里雪山を歩いて驚くのは、そんな自然の広がりとともに、その奥深くまで人間の痕跡が見られることだ。この地に暮らす人々は昔から山に深く入り込み、利用できる土地を広げてきたのだ、そして同時に、人間と神の境界を定めてきた。険しい自然に分け入る過程で、命を落とした人も多かったに違いない。そのようにして人と自然が対峙してきた結果、四つの聖地を始めとする数々の神話が生まれたのではないだろうか。

この即物的な文体と観察眼。


視点を対象の側に完全に移入するのではなく、あくまで報告者の側に置きながら、経験によってその視点が試される過程を記述することがルポルタージュの文体なのだとすれば、まさにこうした観察の積み重ねこそがルポルタージュなのだと言いたい。うん、刺激的な読書だった。





2011/3/19
民放のバラエティを楽しめる気分ではないが、『世界の車窓から』などBGV的に視聴できる番組はありがたい。世界には色々な場所でそれぞれに生活を営む人がいることを再確認させてくれる。こういう時だし、毎日の放送分を繋げ、アーカイブの映像素材も使って総集編をオンエアしてくれないだろうか。





2011/3/11
しかし、ひどい一日だった。さらにいまいましいのは、このひどさがまだ終わっていない人たちが大勢いるらしいということだ。





2011/2/13
さて、そろそろ満を持して『ゴダール的方法』を読むか。

あと明日は土下座してチョコレートをもらう日ですよね。





2010/12/19
シューマイブラウンマスタードで食べたら美味しかったんで報告するッス。

 




2010/10/23
電車内の、僕の正面の席に葬儀帰りらしい人がいた。そこで思ったのだが、お葬式の時参列者が渡されるものってどうにもぱっとしないものばかりじゃないですか。茶とか海苔とか。でもそれって、ちゃんと積極的な意味があるんじゃないかという気が急にしだしたのだ。

考えてみれば茶も海苔も、一度に消費できないようなものだ。きちんと消費するには一定期間を要する。つまり、それは生きてる人間の生活と歩調を合わせつつ次第に目減りしていく。だからこれらは、死を受け止め、それに次第に慣れていく喪の作業の伴走者としての役割を期待されているといえるのではないか。

これがどの程度正しい考えかは、ちょっと自信がない。が、もしそうだとすると、葬式の時もらったものを使いきるのは一種の義務であり、また死んだ人に対する挨拶ということにもなりそうだ。なるほど、この生活の知恵、意外と悪くない。





2010/10/13
行動食用に持っていった最後のチョコバーを処分中。もぐもぐ。





2010/10/7
二万五千分の一地図買い足した。帰って仕事。明日はデイパックに撥水スプレーかけないとなあ…





2010/8/30
イヤッホウウウウウウウウウ!!! 「米ウェンディーズ、日本外食市場に再挑戦 昨年末撤退」>http://www.asahi.com/business/update/0623/TKY201006230301.html





2010/8/14
昨日神保町行って驚いたこと。エスビットがない。あとお前らそんなに富士登山が好きか。


夏の日中、一日歩き回ってその間満足に水分を摂っていない、という状態に自分を追い込んだ後で、いま賞味期限を五年十ヶ月過ぎた「ASAHI本生」を飲んでいる。

…おいしい! 美味しいよこれ! ――というわけで結論だが、「賞味期限を約六年過ぎたビールは警戒して飲むべきである」という信念と、「夏の日中に水分を摂っていないことは致命的であり、できるだけ早期にその状態を除去しなければならない」という信念の強度とを比較すると、後者が勝る、ということが体感的に実証された。めでたい。





2010/8/2
山行きたい。中央アルプス千畳敷カールなんかロープウェーで行けていいと思うのだが、諏訪からが長い。高速バスで行けたっけ? 

登山靴と山用ジャケットか。ノースフェイスとかでいいかなあ…。登山靴はどうしようか。





2010/7/31
海老蔵ちんこでかそうなので俺の敵だ。





2010/7/24
電車内、ちょっとうるさいくらい活発に話し合っている女の子二人組がいる。こっちまでうれしくなる。


近代小説を読むことにたぶん効能もへったくれもないと思うけど、あれは近代二百年このかたのダメ男ダメ女の完璧なカタログになっているので、読者をその方面において慎重にしてくれる効き目はあるんじゃないかしら。ら。

まあ、先日「その小説面白そうだね」「うん、すごく面白かったよ」「最後で人死ぬ?」「うん、死ぬ死ぬ!」などという会話を繰り広げた私が言えることではないな。





2010/7/13
スターバックスでは「本日のコーヒー、薄めで」と頼むことが多いけど(だっておかわりできるし)、スタッフが新人さんだと、「それはありません」とか「カフェアメリカーノにしてください」と返されることがある。通常の濃さだと日本人の胃には正直きついし、アメリカンだと薄すぎるしで、その中間の濃さにしてもらいたいっていう理屈なんだけど。

で、今日も一度断られたあと、「いつもこういう風に作ってもらってるんですが」と説明して薄めを出してもらった。強気な客なら、「他店ではやってますよ」とか、「へえ、他の人の時は違いましたがね」などと言うのだろうが、それができない弱気な私なのであった。タリーズは近くにないしねえ。





2010/6/27
某コーヒー店で。隣のカウンターに外国人の男と日本人の女が座った。どちらかがどちらかを口説きたそうな雰囲気である。女の英語はあまりうまくない。たぶん聞き取りのほうも。でこの男、何度も相手に聞き返されているうち、ええとだねえ、僕はつまりこう言いたいんだが、というような感じで相手の側へ次第に寄っていき、最後には密着した。うまい、と思った。

全然関係ないけど、Wikipediaの「ブラジャー」の項で最初に出てくる Eカップの女の人の写真は大変エロティックで、その、エロい。





2010/6/27
講談社「再発見 日本の哲学」叢書に山田孝雄の巻が出ていた。時枝が来るかと思ったがいい選球眼してる。買ったので読もう。


その中の一冊、滝浦真人『山田孝雄――共同体の国学の夢』が面白かった。特に二章が刺激的。後半概説風になってしまうのは、入門書というフォーマットに制約された部分が大きく、この倍の分量で書かれてもいいくらい。彼がただのナショナリストではないということを知ることができた点でも大収穫だった。





2010/6/26
これすごいいいよ。「【ラブプラス】 寧々さんと臨海駅周辺をデートしてみた 【PV】」

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2010/6/10
この三日ほどで大岡昇平の『幼年』『少年』を読み返していた。『少年』は途中から一気に面白くなるけど、そこまでが長くて冗長、退屈という印象を与えがちで、ちょっと残念。大岡の創作テクスト全部がそうであるように、この二作品もやっぱり奇妙で、不思議な作品だ。


東大駒場キャンパスの裏門から一旦山手通りに出て、左の谷側に折れ、渋谷Bunkamuraに降りていくところに鍋島松濤公園がある。あの辺が青山学院中時代に大岡が住んでいた家のあったところ。取り壊された法の華三法行の本部(教祖の邸宅?)があった住所だと言えば、分かる人には分かるはず。

大岡が自分の少年時代を振り返った『少年』は、成城高校入学の手前までを振り返って終わっている。ちょっと面白いのは、その時期が、彼が自転車を入手する時期と重なっていたことが筆者によって強調されている点。

自己は直接語らない、「環境」に埋め込んで自分を語るという宣言が有名な『少年』だけど、自転車というヴィークルの登場によって、少年の歩行や友人との遊びを通して知覚されていた「環境」が後退し、渋谷は自転車を駆る大岡少年によって点と線で結ばれる平面以上の利用価値しか帯びなくなる。だからそれ以降の自身の歩みを負うには、『幼年』『少年』の地理学とは異なった方法論が必要だ、ということなのだろう。作品末で、高校入学を果たした大岡を惹き付ける地名として、新宿と銀座が挙げられるのも示唆的。

大岡の言うとおり、こうした関心の変化は彼が富永次郎や小林秀雄と出会って、もはや自伝ではなく小説の対象とするのがふさわしい「エゴイズム」を育てつつあったことと相即しているわけだけど、そのことは意識/自意識(「スノッブ」と言われる)のレベルで記述されるだけではなく、移動手段の変化による経験のありかたの変容としても実は記述されていたのではないか。


『大岡昇平 埴谷雄高 二つの同時代史』が去年岩波現代文庫に入っていたことを知った。一冊全部が対談なんだけど、二人のことを知るにはとてもいい内容になってる。しかも解説が樋口覚! 買おうかな。>http://tinyurl.com/2a4k6h9





2010/6/2
レンダリング速い速い。まさにi7万歳だ。五倍速くらいになってる。


そういえば、澤野雅樹氏の旧エヴァ評「左利きの小さな戦い:EVAに乗る者たち」(『ユリイカ』1996年8月号)、タイトルが長岡のヱヴァ破評の内容と連続していたので、念のため再読してみたけれど、内容的な関係性はなかった。

この論考は「左利き」を単なるスティグマとして祭り上げるのではなく、「右利き」と異なる記憶のテキスタイルを形成する力点と捉えるあたりがさすがだと思う。けれど、台詞表現とキャラクター造形を導きにアニメーションを読解している点が、現在では弱いと感じる。同時代評では勿論優れたもので、今でも参照されるべきテクストなのだが。五十嵐太郎編『エヴァンゲリオン快楽原則』(第三書館1997年)はいろいろ便利なアンソロジーで、旧エヴァの評価をめぐる各論者の位置関係を把握するにはいい一冊だと思う。野火ノビタ「大人は判ってくれない」を読むために選ぶべきなのはたぶんこの本。まだ手に入ります。

しかし、五十嵐太郎氏が編者…。1990年代末、エヴァにはまった建築系院生の手でエヴァの謎本が刊行されたけれど、類書とは視点が大きく違った内容になっていてとても面白い。もちろんクオリティは論者により様々なのだけど、五十嵐太郎氏、松田達氏ほかの論考は今読み返しても光ってる。その後の彼らの歩みを見ればそれも十分頷けることだ。たとえアニメ批評の定型に準拠してないとしても、違う入り口から入って慎重に作品に接近していけば、また別の書き方が出来るということを学んだのは、彼らのテクストからだった。





2010/6/2
2008年1月の七里・長岡対談を『灰かぶり姫の灰皿』に再掲しました。純粋にヱヴァ序だけを対象とした対談で、破の内容は含みません。が、二年前の段階ではこういう読みもあったという何らかのご参考になれば嬉しいです。こちらへ


というわけで、対談場所は別にSUZU CAFEではなかったのだった。確かあのカフェにチョコバナナサンドは置いてないはずです。これは間違いじゃなくて、七里が「微妙に嘘っぽくしておいたほうが面白い」と言ってわざと入れた記述なのだけど。要するにまあ、そういうことだったのです。

現在七里の鼻の小皺がプライベートモードになっているのと、長岡のほうでも載せたらどうかという七里くんのかねてよりの提案もあり、今回思い切って僕のほうでミラーさせてもらうことにしました。なお、破に関する七里と長岡の文章は同人誌『RE:EV』で読むことができます。こちらもぜひどうぞ!




[][]『True Tears』感想 『True Tears』感想を含むブックマーク

2010/4/11
『True Tears』12話まで。さすがに1クールアニメ観るのに二ヶ月もかかっているのはまずいだろうからこれから全部観る。細かい読みは措くけど、見た目の古典主義的均整に反して、むしろそれゆえに、この作品はゼロ年代後期のアニメの問題を凝縮しているように思った。理由はたぶん後述。


これは大変なことになったな。すごい悪意が込められているが、無論それは演出家の狙いでもある。世評も確立した作品だけど、『True Tears』は傑作だ。特に「飛ぶ」主題が破棄され、物語が閉じられようとする瞬間に吹く一陣の風の素晴らしさ。ひとつの物語の終わりを多数性に接続し得ている。

物語の終わりで、「飛ぶ」主題に対し「風」のそれを、あるいは「落下」に対し「気流」の運動性を、あるいはまた対象たちの落下(雪/花の切片)に対し、風の吹き抜ける空間に立ちつくす乃絵の姿を描くいうこと。問題は、物語末でのこれらの移行が「語り終わり」の機能をマークする切断としてではなく、あくまでこれまでの物語からのなめらかな移行として表現されている点だろう。

「飛ぶ」ことに人は成功したり失敗したりするが、そもそも「飛ぶ」ことのためには羽ばたくための場所が存在しなければならない。とするならば、ある場所に立つこと、そこで吹き抜ける風に触れることは、「飛べた/飛べない」ことのあとにあって、それが生起していく場所性を認めるということにつながる。そして、と同時に、その場所が「飛ぶ/飛ばない」こと以外の在り方にも開かれているということを認めるということでもある。

最終話の問題。乃絵(たち)が場所そのもの=描き込みそのものとの関係を取り結ぶということ。それは、「その場所において飛ぶ/飛べない」という、物語の基礎条件の再確認であると同時に(ナラティブへの再投入)、「その場所において別の何かをすることもできる」という、外部への解き放ちでもある。だからこそ、垂直性の問題を(落下する雪片と涙)を吹き流し、乃絵の髪を揺らすあの風は問題的なのだ。それが『True Tears』に、端的に言って世界を与える。


それまでの本作の演出が、基本的に「身体」に照準していたことを思い起こそう(カット尻まで人物を追って動いていくキャメラ!)。第1話から要所要所に多用されていた淡彩風のカット、3DCGIで執拗に表現された群衆(不気味な動きを辞していない)、眞一郎のモノローグの挿入、極端なアオリ/フカンをつけ垂直性を強調した構図の唐突な挿入、中間サイズのショットを時に省いて直接ヴェリークロースアップに接続していく、性急ともとれるサイジング…。

この作品は確かに典型的メロドラマの構図を持っているが、恐らく制作者はそこに初めから亀裂を入れている。メロドラマは何を通して表現されるか。それは、アニメ塗り/淡彩のインサート――語ることとモノローグ――平板さと垂直性――こうした要素を巧みに「嵌合」させることによってだ。例えば12話の祭りのシークエンスで描かれる身体には、そのように「嵌合」させられたうえで動く身体の「不気味さ」がよく出ていたように思う。そして、それがそのままで終わるならば、これはアニメーションの純粋な視覚表現の問題であり、物語内容とは切りはなして論じることのできる問題だ。

しかし恐らく本作においてはそうではない。最終話の物語的処方には、そのような身体を持つことを所与として、それでもその世界で誰かを愛して生きていくことについてある種の解決が与えられていたように思う。それはいかにしてなのか。西村さんの作品、いろいろ観てみたくなってきた。


ということで、『True Tears』が非常にアグレッシブな作品だということが確認できた夜だった。歯磨きして眠ろう。

『幻視球』さんの西村純二特集号を買い逃したことが惜しまれるなあ。





2009/7/27
なるほど。エントリープラグを握りつぶすのを避けたのは序とのレイアウトの被りを回避するためか。序破を連続して見た場合、序のラスト(レイの救出)から破のそのシーンまではおよそ90分。そうすると観る人の認知/記憶の回路に引っかかっちゃう。だから噛み砕くアクションに差し替えたわけだ。

だからこそ、被りを回避するのではなく意図的に重なりあわせてきた部分の存在が大きな問題になる。制作者がなんの考えもなしにレイアウト被らせるっていうことは絶対にないから(それが発生させる意味作用が演出の一貫性と競合し、それを損傷させてしまうから)。「制作者の意図にすらない症候的カット」など、そうはない。

だいたい鏡像っていう装置はすごいクラシックなものだ。ミラーで変換入れるというトリックは、恐らく映像にある種の枠構造をもたらすために使われていると思う。レイアウトの「反転」ということで一番気になったのは、シンジがミサトを拒絶して出て行く時の足下捉えたカット。彼は、以前この家に迎え入れられた時と同様、下手・左方向に向かって歩いて出ていく(つまり、『序』と第弐話のカメラ位置に対し、ラインを挟んで正反対の位置に視点がある)。だからシンジは、ミサトの家から今まさに出ていくところなのに、映像的には逆に家の中に入ろうとしているようにも見えてしまう。受容と拒絶の短絡。明らかに意図的な演出。

こういうテクニカルな展開は苦手なんだけど…。同じレイアウト(「リビルド」された)上で新しい物語を展開するのではなく、反転されたレイアウト上で新しい物語を展開しているのだ、という点は強調したほうがいいかもしれない。要するに無造作に新しく描くのではなく、鏡像に反転したものを上書きしている。こうしてヱヴァ破は画面内に距離を作っていく。





2009/7/21
エヴァと新ヱヴァとの間に成立している、映像の水準での鏡像的関係についてはもはや枚挙に暇がないわけだが、マリが2号機を乗っ取ったあとに肩から射出されるニードルガンもそう。(旧)A.T.フィールドを貫通できる/上方に射出される・(新)フィールドを貫通できない/下方に射出される。

これらの操作はたぶんメガネを導入するために行われている形跡がある。画面そこまで見てなかったから怪しいけど、メガネが撃ってたニードルガンって実体弾だったっけ? Airでは薬莢が出ていたから火薬式。メガネのは、弾頭のところがフレシェット弾っぽく見えた。

いや。細部への意志はやはり重要ですよ。今回再度取り入れられたという山下(・きお)デザインではエヴァの中は均質な構造になっているはずだったんだけど、ヱヴァ破でもやはり臓器が備わっている。勿論旧拾八話のぐちゃぐちゃをやりたいがために。蹂躙し上書きされることで、細部は細部として輝く。


それでマリだ。Qが出るまではマリは「メガネ」と呼称するべきだと思う(だって、その名前をまだ呼ばれていないのだ)。もちろんお好みであれば「メガネ」ではなくて「ニーソックス」でも「おっぱい」でもかまわない。人格に、その種の非人称性が入り込んでいるのがマリの強みであるわけだから。

(繰り返すけど)マリの持ってるフリップ型携帯のデザインがAir/まごころを君にでのネルフ職員用携帯電話に似ているのはなぜだろうな、と思う。既存のキャラのものと比べてみても、無骨すぎる。





2009/7/18
あらゆるところに性的なものの痕跡をかぎ取り(たとえば彼らは「白玉金時」から適切にも「玉金」を分離せずにはいないだろう)、そのことで、動物的で野蛮なあの諸力を文化の領域で再編成しようとするわれわれの必死の努力の全体像をあぶりだそうとする、現代の見者、精神分析医――男子中学生たち。





2009/7/16
昨日、高校生女子の三人組が、マックの横一列の席でDSの対戦をやっていたのだが、WiFiの設定方法からこまかなタクティクスに至るまでの、彼女たちの緊張の持続した会話にはほんとうに感動してしまった。

横一列に並んでいるため、他人の漏らす「おっと」とか「あぁ」といった呟きや、自分に向かって投げかけられるより具体的なアドバイスは、彼女たち一人一人にとってオフ=ヴォイスとして聴取されている。スクリーンへの視覚の没入とオフヴォイスによる外界の嵌入、そして、後者によるゲームの進行の修正、そして指先の精緻な動き、その力学が拮抗したとき、あの三人の間に働いていた親密な緊張感が生まれたのだろう。


つまり要約すると、おれ仕事してなかった。





2009/7/14
アニメが最もアクチュアルであるためには、それはテレビアニメとしてブロードキャストされねばならない、と思わず言いたくなってしまう時がある。すべてがIPネットワークに流れる時代だというのに、なんとも反動的なテーゼではある。





2009/7/14
ドンキの服コーナーがカオスなのは分かっていたつもりだけど、ネクタイコーナーはそれに輪をかけていた。僕のなかのネクタイ概念が拡張された。





2009/7/6
超おおまかに旧エヴァのラディカルさを要約するならそれは「編集」の水準にある、といえる。ポストプロダクションにおける通常の意味のそれだけではなく。原理上素材を無数のパターンにおいて繋ぎうる「編集」が同時に一回的な「事件」をも産み出すとはどういう事態か。

間をはしょろう。とはいえ旧エヴァの解体的アプローチはおそらく一回しか使えないものであり、「事件」をかつてと同様に反復することは多分不毛だ。さしあたり現在の時点で作り手たちのフリーハンドが利くのは描きこみの水準ということになる。描きこみの現在時において批判を構成するとはどういうことか。恐らくこれである。





2009/7/3
今度のヱヴァ破、『映画をめぐる怠惰な日常』の筆者、molmotさんの評が良かった。同人誌に収録された「セルフリメイクと再構築 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』をめぐって」、たぶん僕のツボだしぜひ読んでみたい。

『飲めヨーグルト』のヱヴァ破評はいいなあ。>http://d.hatena.ne.jp/yoghurt/20090703/p1





2009/6/27
倫理的なフィルムを観た。つまり、最高の映像を観た。

興奮しすぎるとぼくは頭が痛くなる。多分呼吸するのを忘れてしまうからだろうと思う。これは楽しみなことになってきた。





2009/3/26
代々木八幡の天下一のうまさは異常。





ippeiomoriippeiomori 2013/07/03 03:01 長岡さん、こんばんわ。夜分遅くに失敬します。
薮から棒ですが、今日新海誠監督の『言の葉の庭』を観に行きました。
はっきり言って駄作としかいい内容の作品でした。
簡単にダメなところを言うと、中央線というモチーフが全く活かれていないし、カメラワークと物語の連動性というものが感じられませんでした。
「長岡さんならどう観るのかな?」と純粋な好奇心から思い、投稿しました。

ippeiomoriippeiomori 2013/07/03 03:06 訂正→「駄作としか言いようがない」
あと僕の場合、「雨の中で男と女が心情吐露する」という描写を観ると“あーこれだめだセンサー“が働いて、
全部ダメだと思ってしまう僕も問題なのかもしれません(笑)