Hatena::ブログ(Diary)

灰かぶり姫の灰皿 RSSフィード

2016-12-12 更新停止のお知らせ このエントリーを含むブックマーク

こんばんは。

このブログ、『灰かぶり姫の灰皿』がきょう以降更新されることはありません。

これは、ぼくの最後の投稿です。


このブログは2006年に開設されましたが、当初のぼくの関心と、現在のぼくの関心とのあいだには大きな距離があります。その距離は広がり続けるでしょう。したがって、ぼくが今後考え、または書くとき、この場所を使用することはありません。


2006年のぼくは、自分にはたくさんの言いたいことがある、という予感を持っていました。2016年のぼくも、その予感をまったく同じ強さで持っています。本当に数多くの、たくさんのことです。ぼくは、自分が発見したと信じることを他者に伝えようと、近いうちに再び試みはじめるでしょう。少し時間が必要でしょうが、きっとまたあなたに会えると思っています。


それでは、また。

2014-08-18 【重要】艦これ合同誌『落陽白書』長岡・七里対談への補足情報 このエントリーを含むブックマーク

コミックマーケット86が無事終了しました。初日となった15日は、艦これ合同誌『落陽白書』を発行する漢江鎮守府のスペースにも、たくさんの方にお越しをいただきました。寄稿者の一人として、みなさまに心から御礼申し上げます。ありがとうございました。



さて、合同誌に収録された長岡司英・七里の対談「ゲームのエンディング、ゲームとのエンゲージング」(120-135頁)ですが、たいへん申し訳ないことに、図版のキャプションや強調傍点など、いくつかの記載が掲載ページから抜けていたことがわかりました。この場にて、その補足をさせていただきたく思います。

キャプションに相当する情報は本文中に含まれておりますので、普通にお読みいただくぶんには支障はなく、また、以下に掲載する補足は、対談内容そのものに変更をくわえる性質のものではございません。ただ、われわれの記事を参照などしていただく場合は、可能でしたら以下の内容にもお目通しをいただければさいわいです。カッコ内は『落陽白書』のページ数となります。




 ●

(123頁)
図版キャプション「図1」→「図1:『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)一九四一年一二月九日(日刊)」

(127頁)
図版キャプション「図2」→「図2:>>580氏作成、イベントマップおよび5-3合成図」

(127頁)
図版キャプション「図3」→「図3:ガダルカナル島周辺衛星地図(bingより)」




 ●

(124頁上段)「徳之島西方二十哩(ママ)ノ洋上、「大和轟沈シテ巨体四裂ス」→
f:id:c_a_nagaoka:20140818215625j:image:w410,h30


(126頁中段)「飛龍から発艦していくあの攻撃機には、もしかしたら人が乗り込んでいるんじゃないか。」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215626_original.jpg


(126頁中段)「一人一人がちがう名前で呼ばれうるような、人がいるのかもしれない。」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215627_original.jpg


(133頁下段)「一つには、ゲームの論理のなかでの投了という問題でしょう。」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215628_original.jpg


(134頁上段)「この対談で一番こだわってきた、参照される戦争の終わり、つまり敗戦」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215630_original.jpg


(134頁中段)「表象される歴史がどのようなものであれ、艦娘とともにゲームから降りるという自由も」→
http://f.st-hatena.com/images/fotolife/c/c_a_nagaoka/20140818/20140818215631_original.jpg




以上となります。

原稿の内容には万全を期しておりましたが、後日このようにして記載の抜け落ちをご案内することとなり、ほんとうに申し訳ありませんでした。取り急ぎ上記をもちまして、ご報告、そしてお詫びとさせていただきます。みなさまの御諒解をいただければ、さいわいです。

2014-08-08 『艦隊これくしょん -艦これ-』合同誌に寄稿しました このエントリーを含むブックマーク

毎日暑いですね──さて。


今月15日のコミックマーケット一日目にて、ふみふみこさん主宰サークル「漢江鎮守府」より、艦これ合同誌『落陽白書』が発行されます(142P、頒価1500円)。この本に、七里さん(id:nanari)とぼくの対談記事を寄稿いたしました。タイトルは「ゲームのエンディング、ゲームとのエンゲージング」です。

寄稿は五十音順に、・秋月耕太・今井哲也板倉梓さやわか・しまどりる・師走の翁大沖・ちろり・七里・PALOW・ふみふみこ円居挽mot・山本充の各氏とわたし長岡です。カバーイラストは今井哲也さんが、デザインを川名潤さん、motさんが担当されました。

われわれの対談ですが、分量は27000字強、原稿用紙換算では八〇枚弱といったところでしょうか。その詳しい内容は当日のお楽しみとして、これまで七里さんとしてきた対談のうちでも、今回のものがもっとも異形の対話となったと、入稿を終えたいま感じています。一言でいえば、風変わりで奇妙な対話です。ぜひ、コミケにお運びいただき、それを誌面にてご確認いただければと思います。なお、ふみふみこさんのご意向によれば、後日COMIC ZINさんにて通販の予定もあるとのことです(価格はコミケとは異なります)。


8/15(金)、コミケ一日目の「漢江鎮守府」ブースは東L04bです。皆様のお越しを、心よりお待ち申し上げております。熱中症には、どうかくれぐれもお気をつけて!

2014-04-07 長岡日記(3) このエントリーを含むブックマーク

宿題が積み重なっている。一つ一つ解いていきたいと思う。





2014/4/5
もはや疑いようもなく太ってきている。いかん。

ぽよぽよしている。ぽよぽよしているぞ。





2014/4/2
最近、新書類のタイトルに「〜は絶対するな」「〜はやめなさい」という、命令形の書名が増えてるのはなぜなんだろう。特に、否定命令文が多いのが気になっていて。光文社新書に多いかもしれない。一種の脅迫商法のように思えるのだが…

それと、年度明け以降、前田愛をよく読むこと。なぜ本郷で前田がかくも厭悪されるのかを──むろんその嫌悪は不当だ──、どうでもいいような人脈の話(本当はどうでもよくないのだが、それはもう聞き飽きた)を抜きにして、前田の仕事そのものから考えたい。その上で、それを歴史的に位置づけること。

スポルティバのボルダーXミッドはいてるが、ふかふかで歩き心地そんなに悪くない。街で履くのもったいないね、旅行か軽い山登りででも。





2014/3/18
人文書院の『レクチャー 第一次世界大戦を考える』シリーズを少しずつ読み出している。興味深いテーマが並ぶが、頁数の制約から、各冊とも、そのテーマについての端緒を読者に与えることを目指しているよう。研究の中間報告風とも言える。

昨日終わったばかりの、一年がかりの仕事の慰労会をしてきたのだが、卓上に残った串焼きを包んでもらって持ち帰るという、はじめての経験をした。今までは、なんとか食い切ってしまうか(わたし大食なので)、とても一人でどうにかできないような大きな会などでは、食べ物が廃棄されるのを黙って見過ごすかのどちらかだったのだが。お店の人に頼めば意外とすんなり包んでくれるものだ。

その会では妙にSTAP細胞の話などしてしまったが、小保方さんに本当の意味で手を差し伸べようとした人間、今まで誰一人としていなかったんじゃないのか、という意見をその場でした。もちろん事実関係はまだ分からんけれど、この件では彼女よりもっと悪い人間がほかにいるだろうし、あともう一つ、学術的追求の仮面を被った単なるミソジニーが横行してやしませんか、などとも。





2014/3/12
高層ビルか高い塔があって、なかのエレベーターに乗り込むが、エレベーターはきまって途中の階で勝手に停止して、勝手にドアが開く。後はボタンを押しても、インターホンを押してもうんともすんともいわなくなる。ぼくはもっと上に行きたいのに。

エレベーターを見捨てて、螺旋状の避難階段を駆け上がっていく。階段の壁は腰の高さにえぐられていて、そこには人間がおおぜい、切れ目なく座っている。みな一様に本を開いて読んでおり、間断なく低い声で感想をつぶやいている。階段の明かりは上階に行けば行くほど暗くなっていき、やがて周囲は完全な暗闇になる…。

という、自分の状況をあまりにもひねりなく夢に置き換えた夢を何日も続けて見てしまった。うんざりするな。おれが登りたいのは「この」塔じゃない、こんな塔知るか、むしろ塔など吹っ飛んでしまえ、と夢の中で言うべきだったんだと思う。


カラコレ本買ってみた。ケチって英語のKindle版。翻訳でこれ(↓)が出てる。ただし、これは出版時期的に第一版の訳のよう。





2014/3/5
ヱスビーの「四川風ラー油」、うまいです。100円で買えるのでスーパーで見かけたら是非。ノーマルのラー油とは別物。カレーホットとしても使える。





2014/2/24
昨日2/23(日)放映の日テレNNNドキュメント、『自衛隊の闇 不正を暴いた現役自衛官』すばらしかった。web公式によると3月2日に再放送するようなので、ぜひ。http://www.ntv.co.jp/document/


海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」での自衛官いじめ自殺事件をテーマとする番組だが、いじめ(パワハラと言うべきか)の経過に関する隊員の直筆アンケートが隠蔽されていたという問題があった。それを海自の現役三佐が告発し、海上幕僚長が実質上の謝罪会見をするという事態になっている。裁判は進行中。

この三佐のキャラクターが特異。顔にぼかしがかかっているが、これはおそらく取材許可とトレードオフになったものと思われる。ただ、彼の話し方も挙措もとても軍人らしくもなく闘士ふうでもない。率直に感じたところを言えば、きょどきょどした弱気なタイプとの印象を受ける。

ところが、彼は「たちかぜ」の調査経過をずっと心にとめていて、部内での問題解決に見切りをつけるとすぐ裁判所と遺族に働きかけ、組織を動かした。退職圧力を受けながら、部内に留まり、ICレコーダで録音した首席法務官とのやりとりの詳細を番組中で暴露している。番組の重点はやはりここだろう。それを支える彼の信念は、番組末尾にあった「私は組織のために仕事をしているのではなく、国民のために仕事をしているのです」(大意)というものだっただろう。公益通報制度の不備や、隊内の高い自殺率にも触れ、一人の人物を軸に自衛隊のガバナンスを問う、今どきめずらしい硬派な内容だった。

制作はTSP。質の高い音響効果で知られるプロダクションだが、制作部を持っており、いい仕事をする。ドキュメンタリージャパンテレビマンユニオンが担当しても良い内容となったとは思うが、地味ながら一貫した取材内容と番組構成でテーマを掘り下げていったあたり、会社の路線が出た感じもする。

日本のテレビドキュメンタリーの特質が良く出た番組だとは思った。先に「きょどきょど」と書いた彼のキャラクターが何よりいい。頼りなさげな彼の言動が組織に波紋を拡げていく様を、番組は人物に密着しながら淡々と写しとっていく。それは、彼が持つ存在感(「抵抗」と言ってもいい)によってあらかじめ引かれていた番組の路線が次第に変わっていったということでもある。

もちろん細部には疑問も残る。たとえば二度目の首席法務官との会見が不調に終わった後、彼はすぐ問題を公にしているが、公判が迫っているとはいえ、部内の解決に対する見切りが余りにも早すぎないか。二、三日では部隊に対して詳細な調査はできまい。このへんは依然不可解な点として残ってはいる。

事件そのものの解明や、直接の加害者に対する究明も大事なことだが、そこに傾斜しすぎることなく、大組織が持つ問題点を取り出そうと細心を払っていたところによい点があったと思う。自衛隊のプレゼンスは国際情勢とともに高まっているが、それとは別の冷静な視点で組織を眺めていく試みはあっていい。





2014/2/19
体調悪くて家に滞留する日が多い+事務作業ばかりしている、となると、ついつい冬季五輪を観てしまうという流れになる。過去最高くらいの勢いで観てしまう。





2014/2/14
今日はバレンタインじゃないですか! チョコください!!





2014/2/12
これ、そうじゃなかった場合にこのまとめサイトの管理人は責任とってくれるんですかね? http://hamusoku.com/archives/8253157.html

記事に貼り付けられた画像は、静止画キャプチャで1フレームだけ取り出されたものなので、このインタビューの他の箇所で女性が終始顔を隠していたのかどうかは分からない(インタビューの完全な複製VTRがあり、それを参照しながら上記の記事が執筆されたのかどうかは知らない)。そのため、この画像は不自然に見える特定のフレームが恣意的に抽出されたものではという疑念が残る。

一般人がテレビカメラを向けられたさい、人が驚きや照れから顔を背けたり手で顔を覆うことはあって、それは類似のインタビューでは必ず起こることだ。まして、一、二フレームという単位で起こる生理的(に近い)反射を、不意打ちされた状態で制御することなどできない。職業人ですらそうだ。

万に一つ、このカップルの挙動に妙なところがあったとしても、それを判定するために第三者がこのVTRを全部見て、一コマづつコマ送りして検証するようなことが必要なのかといえば、もちろんそんなことは全然不要なことだ。天気に関する街頭インタビューに応じたからといって、その人の身体の生理的反射を1/30秒単位で他人が観察し、好き勝手に論評する権利などどこにもない。それは単純にやっちゃいけないことなのだ。2ちゃんねるのこういう言説を何も考えず拡散するまとめサイトは輪をかけてアホではないのか。





2014/1/22
明日、ママがいない』第二話了。僕は一話は未見で、それもあって全体的な判断を言える段階ではないが、言われているほどひどくないぞ、これ。


野島ドラマらしいベタな表現が大変に多く(例:過剰なフィルターワークと効果音)、それもあってシリーズの着地点がまだ見えづらいところがあるが、里親候補の母親の顔ののっぺりしたメイク・表情の演出などに典型的なように、保護者的な「大人たち」を単純な善として描いていない点が狙いの一つか。養護施設関係者・里親となることを欲する男女の中にある「悪」をあぶり出すところにむしろ積極的な意図があるといえ、関係者の怒りの原因がそこにあるだろう。「然り、大人達にこそ問題点があると作品は言いたいのです」という回答は論理的には明確だが、もっとも、それは番組に抗議している側が納得する答えではないだろう。

見たところ、抗議の声の中には実務家の「善意」や「現場の努力」といった主観に基づくものが多く、それは大半その通りだろうが、現実に児童養護施設内での虐待事案は報告されており例外はある。番組が事前にどういうリサーチを行って作品内の施設描写に到ったのかは、検討の余地があるだろう。

一部でフレームアップ気味に言われた「ポスト」の呼び名だが、本放映回のみ観た印象では、残念ながら病院側の抗議は失当ではないかなと感じた。こうしたあだ名は、たとえばギャンブル依存の母親によるネグレクトを受けた子が「パチ」と呼ばれているように、児童が保護時いた場所による命名で、その取り扱いはエピソードの構成や台詞の展開の必然性に即したものであったと思う。三浦翔平演じる年長の青年が「ロッカー」と呼ばれていることは恐らく村上龍の小説を遠く引いたもので、「ポスト」「パチンコ」「ロッカー」といった名辞の選択自体、児童虐待の歴史的記憶を反映するよう意図されたものかもしれない。

かりに本作の描く施設の子供たちすべてが集合的に「ポスト」と呼ばれていたのなら、「熊本県に現存する慈恵病院のポストで保護された子供たち全員」を指示してしまう面があったはずだが…。ただし、この名前は芦田愛菜演じる主役に割り当てられたものであり、今後「ポスト」という名前の上に、ドラマの独創にかかる想像力を展開できない限り、その選択はやはり安易なものだったということになるだろう。またそれとは別に、現実の施設内で児童の履歴がどのように共有されているか、それをあだ名として呼び合うようなことが実際あるかも気になるところ。

以下の点も、一回観ただけでは明確に分からなかったが、どうもこの作品は、「ポスト」を中心に子供たち自身が解決を作り出していくファニーさ・爽快感に重点があるようだった。とするならば、三上博史演じる施設長が冷たくやや戯画的に描かれるのも、里親候補のカップルが愛情の取り違えに到るのもとてもよく理解できることだ。その場合、ドラマの重点は「大人」たちの作り出した秩序の最終的転覆にあることになる。当然児童養護の既存の制度もまた、転覆されるべき「大人」の秩序の一部ということになるだろう。単純化とコミカルさがそこに生まれるし、実務家が不快感を覚えるのもそこだろう。

あるいは、「大人」の中でも解決能力をまるで持たない存在として男を描くなど(あの無能な里親候補の夫を見よ)。以上の点全部を含めても、最終的に浅い定型に収まってしまう可能性は大いにあるけれど、番組にジャッジを下す上でいくつか評価軸はあるんじゃないか、ということで私見を。





2014/1/2
江角マキコきれいだなーとゴチになります観てて思ってた。顎のところの強情そうな線が大変よい。





2013/12/30
これはまたすごくいいMMDモデルが出てきたなあ。特にライティングがいい。トゥーンっぽさと人形っぽさのちょうど中間の味付けで、人肌と微妙に違う反射率なのがいいな。

D







2013/12/24
あまりに進まないので、防弾ベンツの情報など読んでいる。手榴弾二個の爆発を防ぐ能力とは。

カイユボット展よかったです。最終日ゆえやや混みでしたが、好きな絵をかぶりつきで好きなだけ観られる喜びを味わえしあわせ。当人の作品も良かったけれど、弟のパリ写真が素晴らしい。常設の印象派コレクションとも響き合う企画展でした。常設観ないと勿体なかったかも。

当時の写真、逆光だとハイライトがすぱんと飛んで、被写体が夢幻的な空間に包まれてるようないい描写をする。砂浜で石を投げてるカイユボットの写真が良かったです。ところで、観覧しながら日本文学に海のモチーフがなぜか希薄だったことに気付きました。


フィギュアスケート真央ちゃんは当然すごいと思うし結局みんなすごいと思うのだが、演技前「私の父はドイツ軍に殺されました」みたいな陰鬱な表情を浮かべていたロシア人スケーターが、氷の上では全然対照的な典雅な演技をしてるの見ると、つくづくロシア人のための競技ですよねえという感想を持つ。





2013/12/22
阿部金剛…。

口内調味の件、僕も気になってるんだけど(この表現自体が不明瞭で気持ち悪い…)、この実践が戦後の学校給食のある一時期に突然出現したと考えるのは少し無理があるのではないか、ときょう歩いていて考えついた。「三角食べ」もそうだが、児童に食事作法を押しつける権力性はどこから来たのか。

まず参照すべきなのはおそらく兵食だろう。食事作法という本来プライベートなものに入り込んでくる、この有無を言わさないやり方には、どうも戦前的なものを感じる。戦前特に師団数が増加した昭和期に、兵士の体格向上のために書かれた栄養学の本やマニュアル類に、関連記載があるような気がする。

↑特に根拠はないんですけど、機会があったら探してみよう。兵食というやつはその国のイデオロギーが濃く出るところで、有名な森鴎外と麦飯と脚気のエピソードもその一つ。先行研究あるんだろうか。人文書院の第一次大戦セミナー、あるいは『ナチスのキッチン』などが近著ではすぐ思い出されるが。


近デジで調べてみたらこういうのあった。宮入慶之助『食べ方問題』続(南山堂書店、1924年、http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970477)。後半に兵食の記載がある。

この本、調査の仕方に今和次郎のような手付きがありなかなか楽しい。同時代の栄養学雑誌をあたれば、戦後への展開も含めて答え出そうな感じある。こっちは『食べ方問題』一巻。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970476


給食といえば小学校のとき、「私ぶどうパン嫌いなんだ、長岡くん食べてよ」と周辺の女子に言われ、嬉々としてぶどうパンを毎食数人分余計に食っていた記憶があるが(おまけとしてときには牛乳も)、あれか、食感が嫌だったのか、ぶどうパン…





2013/11/23
とうとう。>『ジョルジュ・エナン 追放者の取り分 (シュルレアリスムの25時) 』 http://honto.jp/netstore/pd-book_25979154.html


長い間、本当におつかれさま。





2013/11/11
噂の鹿肉バーガー食べてみた。おいしい! 臭みがないのにしっかり肉の味がして、下処理に手間暇かけてそうな感じ。プレートで850円はやや高いと最初思ったが、これなら見あうね。

長野の鹿の食害は洒落にならんことになってるけれど、一頭づつ仕留めてメニューとして出すまでの手間を加味すると、このくらいの値段にしないとだめなんでしょうね。





2013/11/7
ホットワイン作ってみました。グラニュー糖すこし入れただけだけど結構美味しい。香りもいい。

そういえばキルラキル観ていて、回想シーンが4:3の画角で表現されているの、時代だなあと思った。在来型テレビのタテヨコ比が「レトロ」な調子を示すのに使われているというのが。





2013/11/5
メモも兼ねて。今晩のクローズアップ現代は要注目。今まで情報がほとんどなかった、GHQ民間検閲支隊の日本人検閲官の活動実態を取り上げるそう。>知られざる“同胞監視” 〜GHQ・日本人検閲官たちの告白 〜 - NHK クローズアップ現代 http://www.nhk.or.jp/gendai/yotei/index_yotei_3425.html


クロ現前に帰宅成功。とても良かった。最近の米政府機関の情報収集活動と絡めてきた導入部、結論部は予想通りだが、元検閲官(男性1女性1)の証言が番組に厚みを与えていた。画面すべてをモザイクで塗りつぶすのではなく、本当に必要な部分以外ぼかしはなし。その背後にある粘り強い取材交渉に敬服。

この企画は、むしろNスペ案件ではと思う所があった。物故した検閲官の残した手記1をふくめ、元検閲官二名の取材許可が下りた時点で番組成立すると制作者は判断したのだろうが、1947年の新憲法施行以後むしろCCD検閲が活発化した点(当然新憲法違反)には充分なハイライトが当たりきらなかったかもしれない。

検閲を指揮した日系二世も存命で、ディレクターアメリカまで会いに行っているので、今後の番組展開もあるのかもしれない。とはいえ、短い時間ながらやはり証言パートが良い番組だった。女性の元検閲官は、今年発見された検閲官リストを契機に、かつての日本人検閲官仲間に再会したいと手紙を出したというが、いくらか戻ってきた手紙は拒絶の返答ばかりだったそう。それを見ながら彼女がもらした「皆[今では]偉くなりましたからね」という趣旨の呟きが印象的。手紙の相手が相応の社会的地位にあることを示唆する証言の選択で、これが番組としてなしうる最大限だっただろう。

それにしても、「GHQの民間検閲は周知の事実であり、自分が話す必要はない」というその手紙の返答には正直引っかかるものはある。正反対で、その実態はまったく知られていない、というのが「周知の事実」だと思うんだけど。ただ占領期の対米協力にここまで強力な自己規制がかるというのは、それ自体とても興味深いことだ。

来年は心を入れ替えてがんばります…





2013/11/4
駅ナカファストフードベッカーズで、鹿肉ハンバーガーが提供されるようになったそう。まだ食べてないけど。中部では鹿の食害がほんと半端ないことになっているので、ジビエとして消費されるルートができるといいけど。

うろ覚えで間違いかもしれないんだけど、鹿は頭数はやたらいる一方で、山中で仕留めてから食肉処理するまで時間がかかるので、安定的に供給するには設備面で課題があると聞いた記憶がある。どこで読んだんだろう。思い出しておきます。





2013/10/24
エロトランプという文化が男子高校生どもの間に依然残存していることを知り驚愕した一日だった。





2013/10/20
「このアーモンドうまいっすな」「それはアーモンドじゃなくてピーナッツですね」という会話を、した。

イーストボーイとかのお嬢様風またはトラッド風の若い女性向けの服屋、以前はよそ行き用ですかねえくらいに思っていたのだが、不意に存在意義が分かったかもしれない。あれは、私服可の私立高に通う生徒が「高校生っぽい」格好をするための需要にこたえる意味があったのですね。自分の好きな私服着て浮くよりも、「制服っぽい私服」にしておいた方がましという判断か。そんなら制服の方が良くないですかねとも思うのだが。私服化のひとつの側面。


千葉雅也さんの新著『動きすぎてはいけない』、もちろんエッチなニュアンスを感じる。





2013/10/13
先日、二泊三日で立山周辺を歩いてきました。弥陀ヶ原湿原の下、美女平駅から少し上がったところに見事なブナ林が広がってた。ガイドブックでは立山杉が紹介されることが多い一帯だけど、晩秋にあそこを訪れれば、室堂までのすばらしい林間のトレッキングが楽しめそう(二日行程かな)。コースも完備してるし。

山で積極的に他の登山者に話しかける人たち、印象としてはどうも教師経験者が多いような気がするのだが、どうか。山頂での情報交換は山の最も楽しい時間の一つなので、職業柄からかそれに積極的な人たちがいるというのは、むしろ嬉しいことだけど。





2013/9/8
来年は統計学やろう。初歩的なものでいいので確実なものを。


丹羽文雄『海戦』(中央公論社、1942年)を調べものの関係で読んだりしたが、大戦時の小説家の位置を示した証言としてたしかにひとつの頂点だと思った。兵士の肉体への羨望、戦争遂行に直接協力できない後ろめたさ、大状況への情緒的没入、等々。戦死者の安置所で「海ゆかば」の旋律を丹羽が幻聴するという終わりかたも含めて、完璧な定型に達している。


一人の防暑服の兵もゐなかつた。袖の長い、ズボンも長い作業服であつた。これが戦闘服であり、艦内の正服であると私は眺めた。気がつくと、士官も昨日までの防暑服をやめて、詰襟の純白の正服にかへてゐた。[……]私の防暑服だけが、兵たちの目からは、おきわすられた荷物のやうにも見えたであらう(71)


上は海戦当日の朝の重巡「鳥海」の記述。本書を批判的に読むべきなのは当然だが、こうした細部がとても興味深く感じる。「防暑服」とは開襟に半ズボンの簡易な作業服のことだが、乗員すべてが「正服」に身を包んだ情景に、防暑服姿のままの丹羽が強烈な疎外感を感じたというのは彼の率直な感想だと思う。

丹羽の感想は個人的にも分かる部分がある。以前仕事で自衛隊のイージス艦に乗り込んだことがあるが、灰色の艦上に上がって整列した乗員と対面した時、自分の着ている私服が突然なんともだらけたものに思えて(そんなにラフな格好をしていたわけではないのだが…)、自分でびっくりしたことがあるから。勿論これは自分に備わっていない属性を過大に見積もった結果の印象で、幻想の産物ではある。

現在でさえそうなのだから、実戦へ向かう艦内で丹羽が受け取った圧迫感たるや僕のそれなどとは比較にならなかったことだろう。そこから兵士への無制限の羨望と文芸の不能性の認識へは一足飛びだが、『海戦』の記述はそこに振幅があり面白い。以下は、同行の朝日新聞記者の勧めに従って兵と同じ作業服を受け取った際の記述。


作業服の上衣をかむつたが、厚い、丈夫な生地は空気をとほさず、胸は流れるほど汗をかいた。長いズボンをはいてみたが、腿のところから上にはどうしても上つてこないのだ。ズボンがせますぎた。戦闘となると、半袖や半ズボンではやけどをしたり、爆傷をうけやすいといふ。仕方なく私は作業服をたたみなほして士官室にもどつた。円山や毛利や堺は作業服を着て、すましてゐた。(98)


他社の報道班員たちは作業服を受け取って着替え、「すましてゐ」るのだが、丹羽は作業服をたたみ直して返納してしまう。「贅肉がつきすぎたからだらう」と嘲笑する記者たちに向かって、「僕はこの防暑服で押し通すよ」と彼は言い返す。戦場にありうべからざる丹羽の半袖短パン姿…。結局、彼はその格好で海戦を取材して、8インチ砲弾(不発だったらしい)の破片で負傷し、例の防暑服は「黄や青」の着色剤を派手にぶっかけられて汚されることになる。丹羽は参謀たちから「全くいい経験をしたよ」「君はほんたうに選ばれた幸運児だ」とまで賞賛されるのだが、その言葉を彼は率直に受け取ることができない。

結論からいえば、作業服を受けつけない丹羽の「十九貫」の肉体というみもふたもない物質性が、戦場の兵士たちと作家との紐帯を不可能にしてしまったのだろうと僕は思う。戦争という「偉大なもの」に同一化し幻の「海ゆかば」を聴きながら、丹羽は、それがあくまで想像上のものであることを、想像と「贅肉」の存在感を対照させることで半ば方法的に示しているようでさえある。

この地点と、丹羽の戦後の文業――中村光夫『風俗小説論』を引き出すことになる、風俗小説の首魁としての――とを結びつけることは根拠のあることだろう。すなわち、権力に対する可能的抵抗としての「肉体」。ともあれ、ある意味で恐ろしい作家だ。決して軽く見るべきではない。





2013/9/6(2)
午前中にエヴァ展(http://www.asahi.com/event/evangelion/)の図録が届いたので少し見てみたが、一言でいうとこれは良くないものだ。美術展の図録として見ても、全記録全集に代表される公式刊行物と比べてどれほどの独自性を打ち立てられているかという点から見ても、そこに明確な視点を発見することは難しい。

EVA-Extraから全記録全集に至るまで、ここの製作が出す出版物には「その描画/そのカット/そのシークエンスが観る人間の視聴経験にどう訴求するのか」という視点が徹頭徹尾皆無で、今回もその前例が踏襲されたという感想がある。Qの全記録全集を会場で売った方がまだましだなと思った。こうした視点の欠如を埋め合わせるために「手作業」が称揚されるのだが、そうでありながら制作スタッフの仕事の個別性への視点は貫徹されておらず、極めて不可解。以前も言ったけれどイメージボード類と同様、各種原画や修正指示の担当者も明確にクレジットするべきで、それが内製することの強みなのでは?

こうした混乱の結果残るのはたんなる資本の論理だけで、まあそれはそれで好きなだけやればいいし、はっきりしたキュレーションなんかいらないよねという人だって多いのだからますます勝手にやればいいんだけど、おれはこういうのは嫌です。


サンマルクのりんごクリームパンおいしい。りんごの軸を模したチョコレートが、パンのへそのところに入っていて、コーヒーにぴったり。





2013/9/6
最近抑留記録ばかり読んでいる。必要からとはいえ。



オーテス・ケーリ『真珠湾収容所の捕虜たち』(ちくま学芸文庫、2013年)。原著は1950年刊。著者は米海軍の情報将校で小樽生まれ。米軍にとって貴重な人材だったと思われ、かなり自由な行動を認められている。ドナルド・キーンが一時彼とともに日本兵捕虜の尋問にあたっていた。

彼の大戦中の仕事のひとつが、B29から投下された伝単『マリヤナ時報』で、これは非常に編集が行き届いていた伝単ビラのひとつとして有名。その理由は、ケーリが捕虜の中にいた新聞記者経験者を選抜して組織化したことによる。彼と元記者たちとの協力関係の詳細が本書の大きな特徴だろう。特に驚きだったのが、「北川」こと横田正平(朝日新聞社)の、『マリヤナ時報』への関与が詳細に記述されていた点。横田の遺著『玉砕しなかった兵士の手記』(草思社)は、太平洋戦線の証言記録としては数え落とすことができないと思う著作なのだが、その著者のもう一つの顔が明らかになり、嬉しい。

ケーリの下で作られた元ジャーナリスト捕虜の人脈が、また戦後日本のメディア史(特に地方紙)を形作っていくわけだが、人名が全て仮名になっていることもあり、すべてを特定するのが困難なのが残念な点。ただ解説の助けを借りつつ、本書の記述から比定することは十分可能と思われる。特に、横田の義兄である式場隆三郎(精神科医)と、その弟で編集者の式場俊三による記録文学ブームへの影響関係の裏付けがほぼとれたのが大きい。俊三の編集で日比谷出版社から出たのが藤原てい流れる星は生きている』永井隆『長崎の鐘』などで、いずれも講和条約発効前の記録文学の代表作。

明らかに不自然な点も本書にはある。高松宮にいきなり会いに行けたりとか。これはまた別に確認する。





2013/8/31
国会図書館で複写待ち中、第一次大戦をテーマにしたグラフ誌『欧州戦争実記』(博文館、月刊+増刊、100号終刊)を見ていたのだが、同時代の雑誌より質が良く、多色刷り写真や図版も豊富。海外記事の翻訳も多い。後期のものなど、日中戦争のグラフ誌と言われても驚きではないと思った。

今の段階の感想として、日露戦争(萌芽的には日清戦争)時に大新聞が展開した戦争報道に、おそらく西欧的な「報道」の手法が持ち込まれ融合した編集方針との印象を受けた。編集人は「長谷川誠也」名で出ているからこれは長谷川天渓だが、彼が実際はどれほど関与していたか。実務担当者は誰だろう。

大戦中のグラフ誌と言えばまずは『写真週報』だが、戦争とテクノロジーという観点からはプロカメラマンが寄稿した『報道写真』かなあ、と今日思った。通読しないとなんとも言えないが。青弓社から出たこの研究は良さそう。http://t.co/QDdW0BIsHp





2013/8/27
『ウラルを越えて』(樋口欣一編、乾元社、1949年)。将校抑留者のシベリア証言集なんだけど、類書と比べても内容はかなり興味深い。再刊はたぶんないと思う。

梶原康人「囚はれの生活」は、抑留生活のスケッチとして印象的。カザンにあった収容所と言うからモスクワにも近いところだが、ソ連市民との交流が活写されていて、高杉一郎『極光のかげに』を思わせるところがある。巻末の執筆者プロフィールには「梶原康人(昭、一四、――東歯専卒)歯科医(元、大尉)」とある。たぶんこの人と同一人物だろう。帰国後は歌人として活動したようだ。http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/155076.html

「東医専」だから現・東京歯科医科大のこと。軍医の語りには特異なものがあって、気になっていた。将校であり理系インテリであり、戦闘の鼓舞が任務ではないという他にない位置を有し、大量召集によって開業医を含む多様な層が戦場に送られたことで、一般の補充兵に近似した多様性を持っていた点、など。





2013/8/23
今日もレモンミルクレープとか食べてしまった。





2013/8/16
風立ちぬ、とても良かった。ミニマルな要素の反復と変奏(航空機のみならず自動車や機関車のデザインやファッション)に幻想を織り込む手法が巧みで、西欧的なもののアダプテーションとして堀を超えている(反復vs回想とも言える)。その反復にエネルギーを備給するのが歴史性といえ、ここが争点か。

庵野さんの声がすばらしかったです。フィルムから浮き上がっている人物(それが彼の強みである)を描くには、人物から浮き上がっている声の演じ手を起用する必要があったということなのだと思う。というか、こうした逆説を弄するまでもなく、庵野さん、声のテクスチャが細やかで、すでに声としていい。ラストシーン、まるで「ゲームの背景」ででもあるかのようなのっぺりした平面に「風が立つ」とはどういうことなのかということ。

駅前に居着いてる三毛猫がげっそりやせてた。夏バテが原因だな。





2013/8/9
デルU2713HM、スタンドの高さ調節機能の出来が秀逸かつなにげに便利。携帯やデジカメを充電したりするときは、モニタパネルを上にはねあげて、スタンドの脚部のところに引いたタップにACアダプタをつなぐ。そして充電中はモニタを下に降ろしておくと、画面が目隠しになって机のうえがすっきりと見える。頻繁に上げたり下げたりすることになるので、高さ調節部分の摩耗がちょっと心配だけど。これは使っていくうちにわかることだろう。

一部で言われている縞々現象だけど、白ベタを表示して、距離40cm前後くらいまで近寄ると、確かに格子状の規則正しい模様が見える。とはいえこのサイズのモニタの作業距離では気づかないし、僕の環境では実用上問題にはなってないな。

LEDバックライトの液晶モニタは、コントラストが明瞭すぎて目に「刺さる」と感じるので、コントラストを下げて、輝度も日中で30%以下に落としてsRGBモードに変えると、発色が落ち着いて目疲れを感じなくなった。大画面なので視線移動の疲労があるが、これはウインドウの配置で解決できそう。あと、でかいのには完全に慣れた。思ったより早かった。


関西いくときはモンパルナスのピロシキを忘れずに食べておきたい。ロシア革命ロシア料理と日本の三題噺で調べたら面白そうだ。これは開港地という問題とも重なるところであり、となるとむろん長崎と中国料理との関係を考えないわけにはいかない。

「洋食」の研究史はかなりたくさんあるけれど、そのなかでもとくにエグザイルとしての外国人が持ち込んだ、外国料理とその受容および文化形成として全体を枠づけられるのかな。これは部分的に「被差別の食卓」というテーマとも重なってくるものがあるかもしれない。

わりと本業の範囲内の話かもしれん。最近ほとほと思うが、「好き」って本当に重要なことで、そしておれは飯を食うことがきわめて好きなのだった。これは美食に限らず。


以上すべてから容易に察せられるとおり、いま腹が減っている。





2013/8/7
「米国のパブリックドメインの映画雑誌が検索可能に:Media History Digital Libraryが検索プラットフォーム“Lantern”を公開」http://current.ndl.go.jp/node/24142 全部PDFになってて読めるようだ。驚愕。これはすばらしい。


ところで、別の調べ物で野内良三『無常と偶然』(中公選書)を手に取ったが、ちょうど今考えていたことを触発してくれる一書で、きょうは収穫だった。もっとも書名と本書の本来のコンセプトが合っていないようにも思え、むしろ『偶然性の比較文学理論』が適しているのではとも思われたのだが…。おそらく出版社の要望もあり、比較文明論の体裁になったのだろうが、理論として緻密に詰められたバージョンを読みたいなと思った。特に、偶然性を問題設定とし九鬼周造を理論的背景として、マラルメランボーブルトンのラインを見る視線が新鮮。

とはいっても、これだけの説明では本書のアプローチが際物に見えてしまいそうだ。一方で、1930年代の日本の文壇が西欧文学に向けていた視線/そのアダプテーションにはこういう「牽強付会」や「理論的短絡」とみえるものが散見されるのは確かなことで、その問題点のほうは西欧のオリジナルと対照することで明瞭だけど、その裏としてある可能性のほうは見えづらい。

で、後者、その可能性の方を示唆してくれたという点で、本書の議論はとても触発的だったと思っている(さらに言えば、この理論的可能性は戦後になって開花したと言うのが適切かもしれない)。以上、個人的な気づきのメモとして。

そう、特に、日本浪曼派が偶然性の問題をどうハンドリングしていたかが気になるところで、さらにこれには京都学派の動向が絡んでくる。1930年代半ばの、妙な三木清ブーム(パトスの文学)をどう位置づけるか、かねて考えていたところでもあった。『コギト』は以前からの宿題なので、いずれこれは近いうちに。





2013/8/2
NHKで、陸軍船舶工兵部隊の軍法会議記録が出てきたことを紹介していた。番組の構成がやや一面的だったこともあって、右の人たちカンカンだろうなと思って案の定だったのだが、これは証言者や資料が固められるようなら、また改めて別の番組で取り上げたほうがいいんじゃないかなと思った。非常に貴重な資料。

軍法会議の資料自体が貴重だし、船舶工兵という存在そのものも特異。太平洋戦中、大発を操って離島間の輸送をやっていたいわゆる「暁部隊」なのだが、漁業関係者を召集したり、前科持ちの人間が紛れ込んだりして部隊が肥大した結果、士気が非常に低下したとのこと。その結果の裁判資料ということになる。罪状も窃盗とか、母親に会いに行くための原隊離脱とか、部隊の統制力の低下を示すものが多い(性犯罪の報告もみられる)。いずれにせよ、戦争末期の軍隊の「融解現象」を示すものとして興味深く、離脱兵の事情のみならず軍法務官の側にも着目してしっかり手をかければ、深いリポートとなったのではと思う。

漁業関係者の暁部隊への根こそぎ徴用という問題は、徴用船員の問題とも重なるものがある。船舶工兵以外にも当時の記録を見ていると、漁業関係者を軍属で徴用して、南方戦線で機帆船などを操船させていた記録がある。船舶工兵もまた、離島間の物資のレートの違いを利用して取引に従事することがあった。

つまり船舶工兵は専門性を有する正規兵でありながら、そこからはみ出す軍属的(あるいは非戦闘員的)な性質をも持っていた複雑な組織で、なおかつ、南方戦線の末期的ロジスティクスの支柱でもあったといえる。軍隊組織のそのような部分に、太平洋戦争の特質の露頭を探ろうとする試みは、あっていいのではないか。

たしか原隊離脱事件の被告だったと思うのだが、乗組み船が海没して、長時間海に投げ出された経験が忘れられずその恐怖から脱走、という例があった。無人の外洋に放り出されて死の直前までいった人間が、戦争から逃げようとすることを現在の立場から非難するのは、僕にはとても難しいことのように思われた。


メモリテストが終わらず、PCの前でぼーっとコーヒー飲んで携帯でネットみてる。

結局デルのPrecision(T1650)なんだけど、先代のより鉄板も厚くてケーブルマネジメントも考えられており良い。ファンの固定がゴムのピンでされてるなど防振対策もされてて実際静か。Quadroがかなり発熱しそうなことくらいが心配材料か。何十時間もフル稼働させるような用途には向かないだろう。





2013/7/30
渡邉大輔氏、シンプルに反論文の掲載を要求すればいいだけなのではないか。





2013/7/30
新創刊の『アニメ・ビジエンス』、気になりますね。





2013/7/22


今もぱらぱらめくっているのだが、岩波文庫から出た『日本近代短篇小説選』、本当にいいシリーズだ。特に収録作の選定、配列が巧みで、一冊一冊が独自の問題を主張しているように思う。全六冊。明治大正で二冊、大正一冊、昭和が三冊。全部買っても五千円ですね。全部読んで決して損はしないものだと思います。おすすめ。

収録作に独自色があるのは、文学史に新しい光を投げかけようとする意図によるものだろう。例えば戦後直後の短篇を集成した昭和篇2だが、野間宏は暗い絵ではなく「顔の中の赤い月」、大岡昇平は「俘虜記」でなく「出征」、梅崎春生「蜆」、ニート息子と母親の共依存を取りあげた林芙美子「水仙」。

顔の見える他者とのコミュニケーションを媒体に戦争や戦後の問題を提示する作品を多く収録していく方針なのかもしれない。教科書が教える「戦後」とか「戦後文学」という問題設定を無前提には共有しない現代の読者を想定してとられたものだろうと思う。その結果、情報量に反して非常に読みやすくなった。明治篇1とかは、決してすいすいとはいかないけれど。

上のような意味で、本シリーズはやはり21世紀の企画だなと思うし、独自性に走りすぎてもいないので、十分に各時代の見取り図を描くことも可能だ。底本に後年の全集を多く使っていたりするのが気になるが、それも含めて調べてもらうなど、教材としての利用価値も高いのではと思う。





2013/7/16
ズボンぬいで、シャワーで冷水を足にぶっかけて、しっかり拭いて、ジャージのパンツに着替えて、アイス食べてる。





2013/7/15
右足の、親指の爪に違和感があったのだが、ちょっとつついてみたら、爪が全部剥がれて、下から新しい爪が出てきた。

たぶん山登りしていて加わった衝撃が累積して、上の爪が剥離するかなにかして、下に爪が出来ていたのだと思う。今までこういうのはなかったので驚いた。あと、爪剥いでる光景は傍目にはグロ画像なのだが、やってる側は当然楽しい。


艦これを始めてしまった。始めてしまった…。





2013/7/6
おにぎりうまし。横浜港を望む公園でお昼。横浜はスリーエフの勢力圏だということを思い出した。


社研の細川文庫で見つけた、チェリスト・井上頼豊の著書『シベリアの音楽生活』(1949年)はとてもいい本だった。シベリア抑留関係の本をけっこう読んでいるが、高杉一郎『極光のかげに』に匹敵するのでは。もう少しじっくり腰をすえて読みたいが。

これはあるいは今次の震災にも言えるのかもしれないが、戦後すぐのシベリア抑留に関する記録文学の粗製乱造ぶりはひどい。企画する側も書く側も、市場の要望(ソ連体制下の抑留事情に関する情報へのニーズetc.)に目が眩んで、充分にテクストや構成を練りきらないまま出版している。それはそれで仕方ないのかもしれないが、何よりやりきれないのが、こうした粗製乱造が、戦中・日中戦争期の従軍文学のスタイルやフォーマットを転用して行われている点だ。その種の従軍文学の扉についていた、高級軍人や参謀の推薦の辞が「民主日本」をうたう空疎な前書きに変わっただけのこと。

多く元兵士であった抑留者や編集者が、「事実」とはこうしたフォーマットによってのみ語られ書かれるのだという信念に取り巻かれてきたことを考えれば、むろんこの結果は理解できるものではある。戦後隆盛する「記録/ルポルタージュ」なる方法は、むしろこうした戦前からの連続性の相において把握すべきと思う。

切断よりも連続性が強い。そして一旦は否定されたその戦前・戦中との連続性は、昭和40年代前後に相次いで出版される「郷土部隊」の師団戦記に再び見いだされることになる。だからこそ、過去の記憶と経験にまみえるにあたって、表現を・表現のルールを新たに作り出した少数の書き手たちの試行が重みを増してくる。同じシベリア抑留を語るにしても、高杉一郎と内村剛介の散文が描くロシアは違う。たとえば内村のテクストにみられる、父称を呼びかけに折り込んだ力強い対話は、やはりドストエフスキーを思わせるものがある。内村は新しい「ルール」の創造にあたって、ドストエフスキーを求めたということなのだろう。


雑誌『LIFE』の写真アーカイブ、googleがホストして検索、閲覧できるようになってたのか。images.google.com/hosted/life


KITTEはじめて行きましたが、吹き抜け気持ちいいですね。吹き抜けにかぎらずあのくらい空間広いほうがいいのかも。

鯖寿司いただいて、ビールをぷしゅっとして今。時節柄(?いつもかも)しっかり酢のきいたお寿司だったが、夏らしくてかえってよかった。





2013/7/3
今日も今日とて新型スキャンスナップ見に行ったが、説明員がいなかったので自由に触れてしまった。

で、自分で触っての結論だが、デモ見てたときの感想とは違い、かなり実用になるとの印象を受けた。今週から新しくi7のデスクトップクライアントになってたが、クアッドコア機なら十二分にサクサクと動く。S1500での作業と差も感じない。

補正時、補正範囲をパスで囲む必要があるが、動作が賢い。本のページ歪みに自動で吸着するので非常にやり易く、一度補正範囲を作れば全ページに適用できる(ならそう言ってくれれば!)。これ、慣れればぱっぱとスキャンできるのでは? 連続スキャンしててもストレスなかったし。

これは、値段さえ下がればちょっとほしいなあ。四万切らないかな。


沖野亦男『生ける屍の記』(1946年)読んでるが面白いなこれ。著者は戦争中捕虜になった日本軍人の中では最高位(大佐)でしかも情報将校なのだが、重慶からインド、カサブランカ経由で米本土に送られて捕虜生活を送っている。日記に現れた観察眼は的確かつ鋭い。題がいう「生ける屍」とは彼の自己規定をさす。つまり、捕虜になった自分はゾンビのようなものだということだ。ただそれが「まゝよ、どうせやるなら一般と異つたことをせよ、どうせ汚名は汚名なのだ重慶の一隅に居るのも汚名、それなら天下に撒き散すのも汚名」という好奇心と結合しているのが珍しい。


山崎の110円で売ってる月餅、かなりうまいです。人によっては鼻血出すんじゃないかというくらいの甘甘。







2013/6/23
今日は仲本和彦 『研究者のためのアメリカ国立公文書館徹底ガイド』(凱風社)の現物を手に取って確認することができたのが嬉しかった。条件が許すなら一ヶ月くらいNARAに行ってみたいと思っているので。

ヴァシリー・グロースマン『人生と運命』全三巻を購入すべきか迷い続けている。一万円超え…





2013/6/19
はーげんだっつ…





2013/6/18
宮崎駿『風立ちぬ』、戦争扱いたければ、『雑想ノート』をやればいいのだし、彼の中にある兵器フェティシズムミリタリズム礼賛をそれによって画面上に死ぬほどぶちまければいいでしょう。ロマネスクはこの場合隠れみのにすぎない。

宮崎さんの仕事に対して常々思っていることですが。





2013/6/15
scansnapの例のオーバーヘッド型、月末に実機を見られるそうなので楽しみ。いずれにせよ、図書館で紙に複写してスキャンする、という、手を動かしているあいだ頭が創造的な方向にまったく使えなくなる無駄を大幅に省けそうなのがすばらしい。個人的には貴重書のスキャンが相対的に安全に出来そうな点に期待大。 光源に何を使っているかはわからないので、文化財レベルの貴重書は無理だろうけど、酸性紙で頁端が劣化してたり、綴じがゆるくなっている20世紀前半くらいの本ならたぶんこれでいける。個人の日記や原稿、メモ類にもいけますね。

PFUさんには、本機のキャリーバッグ開発もお願いしたい。もうやってるのかもしれない。





2013/6/6
ケンタで売ってる「胡麻と山椒のぶっかけチキンサンド」かなり美味しかった。男性向けの味付けかな。山椒で辛みを出しているので、じんじんとした辛みが残らず、食後はさっぱりするのも○。



地図と測量のQ&A

地図と測量のQ&A


『地図と測量のQ&A』((財)日本地図センター)を買いました。これ、すばらしいな。

必要があって「古地図で歩く明治・大正の東京」のたぐいの本、今日あらかた読みましたが、そのほとんど(読んだ限り全部?)が一次資料の地図へのアクセス方法や入手方法を記載していなかったのが残念。一般書レベルなので仕方ないのだろうか。





2013/5/11
アルチュセールはアル中」でかれこれ五分くらい思い出し笑いしてる。





2013/5/9
何の脈絡もなく思い出したのだが、以前「おう授業をやるぞ」と、強く働きかけるつもりで「やる」に強勢をおいてしゃべっていたら、その話し方が面白かったらしい一人の女子生徒に「『ヤる』? せんせー、何を『ヤる』んですかぁ?」と毎回目をきらきらさせて質問されていた時期があった。答えは「セックス」であることは200%明らかだったが、俺がやるのは現代文の授業であってセックスではない。家でやるといいと思うね。





2013/5/4
長野は入山税やるしかないんじゃないかな。入山一回でひとり三千円くらい徴収していいと思う。運転免許や携帯の料金体系のように、頻回に入山する人には優遇措置をとって最終的に800円くらいまで落とすとかすれば、あまりマイナスのインパクトにはならないと思う。

自治体の収入試算だけど、赤外線を使って、ひとり単位でゲート通過者をカウントできる装置があるので、これでまず正確な累計入山者を計数できる。これと、バイオトイレの追加設置など必要な整備項目、前年度の遭対費用を対照してもろもろの係数で処理すれば、適正な税額は出せるだろう。ジャーナリズムを巻き込まねばどうにもならないな。議論好きの『岳人』などにぜひお願いしたいところ。

Harvardから昨年末、キース・ヴィンセント『Two-Timing Modernity』http://www.hup.harvard.edu/catalog.php?isbn=9780674067127 が出ていたことを知ったので(祝!)、すかさ購入依頼をするという善行を積んだ…! というか、図書館本にしないまでも自分で買うな、これは。





2013/5/4
OnanieCEOさんじゃないか! そして良動画。

D


スタバのサンドイッチもしゃもしゃしながら思ったけど、脂ぎっとりさせたり、二郎のように山盛りのトッピングをしたり、爆発的な外見にしたりといったB級グルメの現象は、やはり一種のバロック主義なのかな。それに対し、だしや穀物を厳選して狙いの味わいを引き出す立場はミニマリズムに比定できる。

ではラーメンの「スープ」信仰をどこに定位させればよいか。ある種の「本質」がそこには想定されているわけだが、それでは結局表層と深層の二項対立を回帰させることにつながりはしないか…。





2013/5/1
ゆゆ式はパッキンヤンキーが一番常識人というのがすばらしい。





2013/4/29
学部四年の時に書いたアニメ論があるのですが、何年ぶりかに見たらアニメーションを「可視的な二つ以上のヴァージョンを持つ層に対して操作的に介入すること」と定義してあったので、すいませんがんばりますと思った。

ヱヴァンゲリヲンのすべて』、ZINに山積みしてあった! 買えた! 仕事はやくて良い!渡邉さんの映像論、うちとは真っ向対立だな。面白い。併読するときっと楽しいと思う。

バロキズムの問題。渡邉論はQにその全面化をみ、中田・長岡論はそれを部分的なもの(接ぎ木されたもの)とみる。抽象表現主義の位置付けも異なっている。これは実に愉しいこと。こうでなければ。





2013/4/28
いま「あっ」と声を出して気がついたのだが、最近いろんな人が五月中旬の発表やら調査やら司会やらなにやらをやたらと回避したがっていたのは、もしかして連中がGWを謳歌したいがためだったのではないか。

やられた、そして俺はバカだ…。





2013/4/27


ユリイカ今号、鬼束ちひろインタビューがとにかくすごい。アーティストの「過激な言動」といったものは時に音楽誌上にはあるし、それ自体一つの定型的な枠組みになっている側面があるけれど、インタビュアーとアーティストとの関係そのものがドキュメントとなることは稀なことだ。そしてそれが起きている。


森川すいめい氏は精神科医ということで、てっきり臨床家とクライアントとして旧知の間柄だとばかり早合点していたのですが、それどころの騒ぎではない。ぜひ読んでみてください。そして、批評の言葉はこのインタビューに拮抗しえているか? よく胸に手を当てて考えてみたい。

この鬼束ちひろ特集、安西信一氏(もしかして『ももクロの美学』の著者と同一人物?)のPV論がじつにクリアーで面白い。それだけではなく書き方も好もしく思える。

たとえば「爆破して飛び散った/心の破片が/そこら中できらきら光っている」という鬼束のリリックを評した安西論の、以下のような箇所。「ここにはどこか、病/爆破を美的に眺めているような気配が漂う」とある。

「美的に眺めている」という表現について、別の評者は別の表現を選択するかもしれない。しかしながら筆者はいったん立ち止まり、「美的に眺めている」という中性的な把握を用いる。こうすることが、鬼束ちひろという強い吸引力を持った音楽/詞の入力に対する一種のバッファとして機能し、批評の視点のための場所(あるいは、待ち時間)が切り開かれる。こうした一つ一つの表現の細部に評者の姿勢とは出るものだろう。庭園様式の変遷とロマン主義にからめた結論部も面白かった。


スタンダールの『パルムの僧院』で一番好きな箇所、お尋ね者になったファブリスが、過去に自分で植えた木のことが気になってそれをわざわざ見にいき、木がすくすく育っているのを目にして個人的幸福を感じるという箇所。幸福な単純バカに惹かれるところがあるらしい。

ケーキを食いたいという感情をむしろ軽く見積もるべきではないな。





2013/4/22
「ただいマントヒヒ〜」等の言語感覚は積極的に採用したいもの。

以前から朝の電車内で気になっていたことなのだが、スクール用のボストンバッグを肩から掛けるとき、持ち手を一本はずして片側だけで肩に掛ける女子高生がかなり多くなった。この意味についてどなたか、識者のかた。当然一本しかないので肩に食い込むし、重量バランスが崩れるのでジッパーが開いていた場合中身をぶちまけることになる。だが問題は、彼女らが一本掛けのどこに積極的美点を見いだしているかだ。それを知りたい。

おそらく「くずし着」の美学の一種なんだと思う。揃えて肩に掛けるのが真面目くさっているように感じられるので、それを解除したいということではないか。とはいえそれも「積極的美点」ではないね。

うっかりAndroid用の恋愛ゲームをインストールしてしまったのだが、お兄ちゃんアラームみたいなものがオンになってしまい、解除方法がわからない。電車内で鳴ったらやばい。





2013/4/19
ふと、鬼束ちひろの「桜流し」が聴きたい。ヒッキーのオリジナルがそれ自体マスターピースであるというのは大前提として。





2013/4/14
新潟の山菜を大量にいただいたのだが、とりあえず初級編ということで、灰汁抜きが比較的簡単なウドとこごみを天ぷらにして塩でいただきました。カタクリの若芽(これは土地所有者により採取されたもの)が絶品。和え物にしてみたら、花の香りとしかいいようがない上品な芳香がして、なるほどこれは春の味覚

晩年の開高健にグルメ調査員みたいのを主人公にした小説があって(超適当紹介)、ああいうのはきちんと書き手が体張って調査した感があって小説としていいと思った。19世紀フランス小説に学んだ人だからわかるっちゃわかるが。ひるがえって現代の身辺五メートル小説が文体実験になるのは、ぶっちゃけ金がないというのが主要因なのではないか。じつは。みもふたもないことだが。


横180cmくらいの天然木のデスクを買って、オフタイムには物ひとつおかず、前日の仕事おわりに必ず一度拭きあげてピカピカにして、そのデスクで毎日気分もあらたに仕事したい。





2013/4/11
健康診断に行った。自分の血がぴゅるぴゅる吹き出すの超おもしろい。「もっとガンガンいっちゃって(=血を抜いて)くださいよ」と口走った記憶があるが、そういううるさい男性ってたまに病院でいるよね。

今年こそ本郷近辺でうまい定食屋を見つけたい。700円くらいで魚が美味しくて温野菜がしっかり食べられるところがいい。きっとあるとは思う。うまい鯖塩焼き・秋刀魚塩焼き・鰯塩焼き・鮭塩焼き・ほっけ塩焼き定食があればそれのローテーションでもはや毎日通いつめてもよい。

信じがたいことなのだが、今までのおもな昼食が中央食堂のラーメンで、これだけを過去数年間集中的に食って食って食って食いまくって、確実に千杯以上食べてきたのだが、今年にはいってまったく足が向かなくなったのよ……。





2013/4/7
けっきょくスタバにいるのだが、机椅子類などのあらゆる環境においてサンマルクに圧勝しているにもかかわらず、なぜか今やここで読書できる気が全くしない。

ということで、例のアレはサンマルク北千住店二階の喫煙コーナー(わたしは吸いませんが)でレビューされ、追記され、仕上げられました。その次も恐らくはまた。

うにょーんとスマホいじってたら、柏に行きたいという韓国の人に話しかけられた。Galaxyの翻訳機能を駆使して千住までたどりついてここで詰んだらしい。古名が大事なのはわかるがJRは「緩行線」みたいな言葉が機械翻訳不能ってことを認識したらいいと思う。その文字列だけ訳されず残ってた。よい旅を。


久しぶりに草野球がやりたいが、わたしには友達が8人いなかった。





2013/4/1
やられた、今年も釣られた…





2013/3/28
ヱヴァQ、ダッシュ中のエヴァに乗ってるマリとアスカについて、バストアップとミドルショットのカットはしっかり全カット乳を揺らせてるので、油断ならない。

それと、アスカ(改2号機)に集中線がつきまくってる。なんかそういう細部が、サブタイトル明けの物語的展開と著しい齟齬をきたしてるというか、ある種の「突っ込み」として機能してしまっている。

考え事に詰まると室内をぐーるぐるしてしまう。上野動物園スマトラトラも檻の中でぐるぐるしていた。親近感。





2013/3/26
あとヱヴァQって電車のイメージ皆無になったよね。登場人物が繰り返し立ち返っていく、ああいった原形質的「場所」イメージって旧作との連続性を主張する上での一つの手段だったと思うのだけど(赤い浜辺のイメージも同様)、なんかいろいろ爆発しててそういうのもうどうでもよくなってる感じ。

エヴァ破の英語台詞部分の字幕、映画字幕フォント使ってるのか。フィルムに焼き込む時のことを考慮して、囲み線の一部に破れ目を作ってあるもの。デジタル制作なんだから本来その必要はないんだけど。当該部分を「疑似シネマ」として見せようとした、ということだろう。比較的よくある手法でもあるし。

映画内で利用されてるフォントワークスの通常書体を使えばいいのに、とも思った。使用されたのはフォントワークス製映画字幕フォントでしょうね。同社のサイトにはこんな頁があった。> 映画字幕書体を語る fontworks.co.jp/font/knowledge/





2013/3/14
ジッツオGT3532Sはビデオ雲台セットしてカムコーダを乗せればちょうど光軸が目高にきますね。使える。

ヱヴァQ、山手線という旧作に並走する京浜東北線に乗りこんで、破で遂に品川を発車した(鶴巻和哉の見事な比喩)ことになってたのが、品川を出てすぐ目隠しをされ、それが外れたと思ったらなぜか湘南新宿ラインに乗っていて、結局着いたのは新宿駅の別番線でした、というお話だと考えると結構ひどい。





2013/3/10
スタバのクリームはさんだスコーン二種、どちらも大変うまい。(ああ、ああ、両方食ったよ)

びっくりするのが水仙の生命力。切り花にして花瓶(大きい)にいけてみたら、二週間くらい良い香りをさせていた。もうすぐ三週間だと思う。さすがに少し元気がなくなってきた。すごいなあ。もうちょっと植える量を増やせば来期はドア前がさらにいい香りに包まれそう。





2013/3/6
中判はでかいので、風速が強い日は、風でボディがあおられてブレの原因になることがわかった。手ブレならぬ風ブレ。

二眼はスローシャッターには強そう。両吊りのストラップで下げて、片手で底面をホールドしてもう一方の手でピントを繰り出すから、つごう四点でボディを保持してる計算になる。ほんとか嘘か知らないが、所有者は「1/15秒でも余裕で止められる」と言っていた。

食器洗いはとても好きなので、進んで引き受けることにしている。水と洗剤の使用量を最小限にするための段取りというものがあって、そのためには食器を洗浄を要する度合い・種類ごとにグループへと整理することが必要だ。

つまり皿洗いの端緒にはこのような有用性に基づく思考が置かれている。素晴らしいのは、この端緒に置かれた有用性の思考が、皿洗い作業の進行につれ次第に溶解していく点だ。この作業は熟練に達することは簡単だから、手は効率的に動き、最初の分類さえ間違わなければほとんど思考を介することなく動きつづける。そこに漂うような無思考状態、あるいは半思考状態が訪れる……。

そして不意のひらめきは、こうした半思考状態の持続のなかにこそ現れる。だからわたしにとって皿洗いという単純作業は、新たなる思考をそこに呼び込むための苗床となっているに違いない。このようにわたしにとっての皿洗いは貴重なものなので、他人から奪い取ってでもやりたいくらいの仕事である。


Evangelion ART、『序』の京田さんの没コンテを採用してるのか。もはや何が「正典」なのかなんて言えないな。普通の感覚では「新劇場版」シリーズこそあまたの「エヴァ/ヱヴァ」を統合する「正典」となるだろうはずなのに。いいことだと思いますよ。当然。

ヱヴァ新劇場版の完結時、いろいろ企画が持ち上がるだろうけど、パチンコエヴァの系譜をしっかりした人がまとめたほうが絶対いいと思う。





2013/3/6
ニコ動の登山動画はこの主のが一番好き。虚飾がなく淡々としているのがいい。

D





2013/2/27
昨日は2.8Kgの三脚をバックパックの片側に付けているだけでめちゃくちゃバランス崩れて疲れた。カウンターウェイトとして反対側に何か吊すしかないか? 80cm前後あるビデオ用三脚を横にして担ぐのは引っかかって危険すぎるので山では無理だと思う。山動画をひとに見せられるようになるまでにはまだまだ練習が必要だな。

ここのところ吹雪の日が続いていただけあって、雪の上の風紋がとてもきれいだった。風紋だけ撮ったり眺めたりしててもいいくらい。

フルハイビジョンテレビにSDカードを挿して観てみたけどすっごいきれい。雪のトーンが白飛びせずにきちんと出てたし(驚愕)、マゼンタにも転んでいない。キヤノンのCMOSは樹皮とか常緑樹の緑の再現がすごく上手い。

反面、手ぶれ補正を弱にしているのに相変わらず画面歪み(CMOSの特性)が出るのはいただけない。パン速度は相当ゆっくりにする必要がある。三脚に載せる時も気を使って撮る必要は感じた。かなり気難しい挙動をするカメラだが、はまりどころをつかんでそれを引き出したい気持ちにはなった。

AEはオートで大丈夫ですね。雪山ではオート任せにしたほうが極端に失敗することはなさそう。





2013/2/11
おお! この人の視点は確かだ! と思ったamazonレビュアーの他のレビューを見てみたら、そのほとんどがアダルトビデオの情熱的なレビューだった。





2013/1/23
今日はマームとジプシーの公演観てきた。すっげ良かった。脚本というか劇のデザインが良いのみならず演じ手も良い。帰途いろいろ考えが触発された。時間や空間や無意識をいろんな「枠」が貫くのだが、その境界の揺らぎを起動するのが「演じる」行為そのものなので、理論的でありながらおもしろい。





2013/1/09
「ご恵投」には個人的にちょっと違和感がある。動作主が著者ではあるが、それでも著書を「投げる」というのが引っかかるところ。「ご恵贈」のほうがいいような気がするなあ。流通してるんだからそれでもいいのでしょうけどね。





2012/11/23
慶應ボーイの手の早さについて重要な省察を得た。





2012/11/17
ヱヴァQ観てきた。

すばらしかった、と思う。ここ数年間で類例のない狂った映画だった。以下印象のみ。

気になった点から。シンジがヴィレから逃走するまでのところでは、短いカットを重ねるスピーディさやデコラティブな細部に反して映像に冗長さを感じた。3DCGIと描画の融合度は破よりずっと上がっているし、コンテ・レイアウト作業は、モデリングしたエヴァ他を3D空間で動かしつつ進められていったかもしれない。こうして達成された動きはとてもゴージャスで、それは「テレビ/フィルム」という二分法を無効化し「デジタルシネマ」としてあろうとする自己主張だったと思う。

ただ、特にアクションに関しては、それが旧作や序・破までの映像的原則を刷新するようなものとは今はまだなっていないのではないか、と思う。マンガで例えれば、決定的コマにもかかわらず、それを安易に集中線で囲ってしまったため凡庸に見えてしまうような、悪い意味で定型性が強いカットも少数あった。しかもそれらが強烈な「赤」に埋没することで(ブルーレイ上ですら赤のトーンが失われて同色に見えるかもしれない)、いっそう、エヴァの動きを動きとして、一連のアクションを連続したアクションとして、スクリーンを見て把握することが難しくなったように思う。但しこの評価は今後大きく変更する必要があるかもしれない。理由は後述。


物語的な面から。今まで「新劇場版らしさ」として把握されてきたシンジの積極的な性格造形が、Qでは半ば強引に奪い去られてしまっていた。テレビ版第壱話から最終話、旧劇場版までの間に段階的にシンジを見舞った混迷が、今回まとめて彼を打ちのめしたような印象すらある。

この作品は、旧劇場版『The End of Evangelion』後を描くために、サードインパクト後に続いていく時間と歴史を構想しようとしている。そしてそこでは、もはや「ロボットアニメ」という枠組みを壊してしまいかねないところまで物語が追い詰められていく。実際、『Q』の物語は、旧作『The End of Evangelion』より徹底している面がある。『EoE』でもエヴァ初号機は「物語を終結させる」という役割を、シンジと共に最後まで担わされていた。あの凄まじい物語破壊にも関わらず、それがなければフィルムが終わらないという意味でエヴァ初号機という存在はなお信頼されていたことになる。

ところが『Q』で、シンジの記憶する初号機はそれにとてもよく似た(が違う)13号機へとすり替えられる。本作でシンジは、「エヴァ初号機に乗るか乗らないか」という問いだけでなく、「自分の搭乗すべきエヴァがどれなのか言い当てられない」という事態に直面してしまう。この「すり替え」の効果により、Qの時空間で目覚めたシンジにとって出来事のほとんどが意味不明に近づいてしまっている。懐かしい人たちに話しかけても到底理解できないような返答がなされる。会話だけでなく、「綾波を助けようと」したつもりの自分の行為が破局をもたらしていたことも彼は知ってしまう。破までのシンジが強要されていたのが「エヴァに乗らなければ(自分が/他者が)死ぬ」という原則だったなら、Qの冒頭で彼に与えられるのは「エヴァに乗れば死ぬ」という原則だ。シンジは「乗らなければならない」かつ「乗ってはならない」という二重の原則に拘束されてしまっている。

問題は、新劇場版が旧エヴァの物語論理/映像的原則/レイアウトへの参照をキープしそれを反照しつづけるだけでなく、新劇場版のここまでの展開の内部からこうした難題を引き出してきて、物語に更に書き込んでしまうことだろう。そのことはサードインパクト後の歴史を設定することで可能になっている。サードインパクト後に歴史が延長され、シンジがその歴史をショートカットしてしまったこと(これがQの独創だろう)結果、シンジを経由し、シンジの知らない歴史や出来事への参照が行われる。この第二の参照を手にすることで、新劇場版は旧劇場版との差異からのみはかられるだけではなくなっていく。

Qのシンジは、自分の行為がなにをもたらしたのか――というか、自分の行為が特定の帰結に繋がるのだという事態そのもの――を理解できなくなってしまっている。「綾波を助けようと」手を差し伸べただけのつもりが、世界が崩壊してしまったと言われてしまったのだから、それも理解できることだ。

彼の記憶のなかにある「綾波/アスカ=エヴァ2号機/トウジ」は、Qでは「綾波によく似た少女/アスカ=エヴァ2'号機/サクラ」へと横滑りしている。こうした横滑りがシンジの混迷へと繋がる「すり替え」なのだとすれば、やはり注意するべきは、シンジが初めて遭遇するカヲルという存在だろう。シンジとカヲルとの関係性には、はっきりとセクシャリティを示唆する描写がなされている。ところがそれは、最終的に愛がそれを目指すような他者との合一・一体化──他者との合一と拒絶からなるディアレクティック──を志向するようなものとしては描かれていないことに注意が必要と思われる。カヲルとシンジの連弾のシークエンスがよい例示になると思う。

そこでは何故シンジがピアノの演奏技術を短期間に習得できるのか、といったリアリズムの問いが失効してしまっている。シンジはカヲルの横にいるうちに「なぜか」ピアノの演奏ができるようになってしまうし――つまりカヲルはシンジに「教えた」のではなく、シンジに並ぶことで「模倣」させたのだ――、カヲルはもともとシンジがしていたチョーカーを首に装着し、それによって自殺を遂げてしまう。カヲルはシンジにとって不可解な他者として現れると同時に、シンジの分身としても振る舞うわけだ。カヲルはシンジと甘く一体化するどころか、Qの世界にシンジを繋留するアンカーとなることを拒否し、シンジをシンジ自身の破砕された自己に再び向き合わせてしまう。この点で、カヲルは他者として双数性の範疇に属すると同時に、映像的にはシンジの自己像にたいして分身/幽霊的な存在としても出現することになる。この双方の意味合いにおいて、カヲルは一層徹底的にシンジを突き落とすことになる。

こうした描写の重畳によって、シンジは「なにをすればいいのかわからない」状態へと追い込まれていってしまう。他者/外界にアクセスする方法がわからないだけではない。音楽プレーヤーのようにシンジと他者との絆を表象するアイテムすら、レイやカヲルの手を介し、彼らとの記憶をそのつど少しずつ蓄積していくことで、次第に複数人の関係性へと「汚染」されていく。冬月が示すボードゲームの隠喩のように、Qのシンジにとって世界のなにに触れるか、誰をかけがえのない存在として選ぶかの根拠は失われてしまっているし、それどころか「誰を選んでも同じ」という、ルールなきゲームへと陥る可能性すらなくはない。

シンジと外界との交渉は打ち砕かれている。こう考えてみたとき、先ほど定型的な動きが多すぎる、動きばかり先行していると否定的にみた本作のアクションが、逆に気がかりな存在として浮上してくるように思う。本作まで旧作・新劇場版が保ってきた原則とそれが衝突する可能性があるからだ。

エヴァ/ヱヴァ共通の造形として、エヴァンゲリオンの「アクション」は、パイロットの身体の延長として考えにくい点がある。エヴァのコクピットには前方にレバーが備え付けられているくらいで、エヴァのアクションはパイロットの身体と一対一に対応していない。彼らはシートに「座って」いるだけだ。エヴァのアクションはパイロットの身体運動に対応せず、「シンクロ率」という言葉やそのグラフィック表現のような代理物でしか裏書きされない。

そのような跳躍を創造してやらない限り戦争機械は起動しない。これが旧作『エヴァンゲリオン』が設定し、新劇場版に引き継がれた反物語の原則なのだった。とするならば、Qの、延長された時空間の中に描かれた「アクション」――キャラクターとエヴァのインタラクション――の一部に不備な要素があるとすれば、それはシンジだけではなく、アスカやマリたちの他者/外界へのアクセスにもまた、深刻なエラーが引き起こされていることを示唆するのではないか。そして、そのことは本作最終部の、「ロードムーヴィー的」展開が意味するものについてのヒントを与えてくれるように思う。エヴァに乗るのではなく、Qの世界をあらためて「歩いていく」途上でシンジやアスカやレイ(偽レイと言うべき?)がなにを得るのか、僕はとても知りたく思う。


おわりに一点だけ。本作の画面には、通常映画に期待される「風景」がほぼ存在しなかったように思う。宇宙空間や青空のような、視点にたいして無限に遠ざかった「背景」か、運動体に自在に回り込んでいく動き主導の快楽だけがあって、人物がそこで自身を位置づける空間としての「風景」が不在だったように思う。それは色彩の偏在ということにも繋がる。まず暗部に多数の細部を潜り込ませた後、それをハイライトの中で一気に展開するという色・輝度のダイナミックレンジの広さ自体がある一方で、本作で提示される色はあの禍々しい「赤」や「青」あるいは「黒」、「白」など少数のグループに引き絞られていくのだ。「風景」も「中間調」も失った世界……。

あまりまとまっていませんが、とにかく、直後の感想として。





2012/11/16
ヱヴァ破の再放送みてる。居酒屋のところなんだけど、新劇の加持とミサトって、既にこのあたりで快調に仲直りセックスしてるような気がする。

すっごいねこれ! これだけでは何とも言いようがないけれど。二点。まず3DCGIとの融合がさらに進んだ感じ。第二、色彩のダイナミックレンジを目一杯使ってる感じ。破のタイトル前と同様、シャドー部に無数のディティールを折り畳んだのち、それを一気にハイエストライト側で展開する気持ちよさ。

新劇場版を、色彩と白黒(輝度)の二層によって織り成される詩学として読み解いてみることができるのではないか。





2012/10/29
ちょっと前、国会図書館の準機関誌(だと思う)、『読書春秋』の昭和25年前後の巻号を読んでたけど、そこに載ってた中井正一の文章がどれもはっとするくらい良かった。特に映画論は文章に独自のうまさがある。1952年没だから晩年のものだなあ。その名も『中井正一のメディア論』という研究書があるらしい。





2012/10/24
大林宣彦『この空に花を 長岡花火物語』をすべり込みで。すっっばらしい! すっっばらしい!! これは観られるべき作品。二時間半とやや長い映画ですが時が経つのが早かった。Blu/ray出たら買おう。そして来年の長岡花火は絶対行こう。





2012/09/19
Internet Archive、2009年からのニュース番組35万本を公開 - Engadget 日本版
これはすごい。画質もDVD並でかなり良好。

貧乏人あるある──茹で時間の違うパスタを時間差で投入。あっちに0.3束、こっちに半束、あんなところに0.4束という感じで残ってたパスタを集成して一皿にする。豆もやしと牛挽肉とトマトソースでアラビアータ風に。美味。

なお、「トマトソースで」とは「ケチャップ入れた」、「アラビアータ風に」とは「タバスコたくさん入れました」の意である。ものはいいようってこと。





2012/9/16
金沢の女の人たちはふわふわした・たっぷりとドレープした服を好んでいるようだ。明らかに東京とは流行りが違う。関西圏の影響なのかもしれないがよく分からない。そして、駅前の本屋に鏡花・秋声・犀星あたりがある程度揃ってるあたりはさすが金沢であった。


NHK-BSの『にっぽん百名山』、今回は「御岳」。とてもいいんじゃないでしょうか。恐らく以前の『日本百名山』シリーズへの反省から、深田久弥の名前すらあまり出てこない。尺が30分に増えたことで、単にきれいな映像を見せるだけではなく、山と地元の人々との関わりの歴史を、ガイドの解説とナレーションで紹介していくようになったのが今シリーズの特徴か。

回によって、その試みがうまくいくことも今ひとつなこともあるのだが、今回はそれに十分成功していたように思う。それによって、特定の山への興味がかきたてられるだけでなく、視聴者の周辺にあるほかの山への理解も深まっていく点がいい。ここがイメージビデオ的だった旧シリーズと違う点なのかもしれない。





2012/9/9

よくわかるテレビ番組制作の法律相談 (KGビジネスブックス)

よくわかるテレビ番組制作の法律相談 (KGビジネスブックス)


梅田康宏、中川達也『よくわかるテレビ番組制作の法律相談』(角川学芸出版)。放送局の企業内弁護士執筆による、番組制作の関係法令、判例、考え方を典型的ケースに即して事典的に解説。プロデューサー、またプロデューサーの判断を先読みし適切に行動したいディレクターやアシスタントの要望に応える一書。

──なのだが、これはオンエア系の番組制作者に独占させておくのがもったいない良書。放送だけにしか適用できない事例解説はむしろ少なく、ustやニコ生など、映像を用いた制作・配信に関わる人にとっての必須知識が満載でお勧めできる。放送関係者向けということもあり、権利処理事例の解説が厚いのもよい。「名誉毀損を防ぐ取材手法と取材メモの取り方」「道路[公道]での撮影と許可手続き」「インターネットサイトの「引用」「報道利用」」などの各節は、わずかの修正を適用するだけで、あるいはそのままでネットでの映像配信や映像制作にも使うことができる。2008年の本なので、この点も視野に入れた改訂があるといいと思う。第二版が出たらまた買いたい。





2012/8/27
スタバでコーヒーとレモンカスタードケーキ。

やたらと甘ったるいがそれがいい。さらに言えば、これの二倍でかく二倍甘ったるいクソ最高なレモンカスタードケーキが食いたい。

横の席の男女が「あの子契約だけど、誰それ君に紹介してもいいかな?」みたいなじわじわと嫌な会話してた。合コンのセッティングみたいな文脈で。「契約」とはもちろん「契約社員」のこと。


これは某所で申し上げたことでもあるが、新海誠さんはまじで原作つきやればいいとつねづね思う。芥川とかチェーホフとか。ほどよく古典でほどよくリリカルなテクストについたほうがきっといい仕事してくれると思う。つまり、古典主義と他人のリリシズムという二つの枠によって規制を受けるということが、氏の仕事に間違いなく味方すると思う。近作二作を経て次作でまたあの感傷を再演されたらさすがに擁護することは難しい。それならそれで観てみたい気持ちもあるにはあるのだが。





2012/8/25
九州地方には「寿しまどか」という回転寿司チェーンがあるそうなのだが、同じ企業が、さらにプレミアムな回転寿司チェーンとして「寿し清か(さやか)」というものを運営しているらしい。九州ではさやかちゃん大勝利じゃないですか。

昨夜は大阪在住の20際の娘さんが深夜にベランダで一人で花火に興じるというニコ生を観ました。親父とかが乱入してくるのを期待したがそれはなかった。





2012/7/27
伝聞なのですが、ニコ動の「踊ってみた」などで最近EOS 5Dmark2などのラージセンサー機が使われだしたそう。言われて動画をさがして観てみると確かに特徴的なEOSトーン。踊っている姿を綺麗に記録したい→少々高くてもいい機材を使う、という選択があるんですね。

これはたぶん5D。ここまでくると「薄暗い室内でウェブカム撮影」という感じはまったくしない。

【マリス】shake_it_!踊ってみた (2:09)

D





2012/7/17
Galaxy noteの利点:あおげる





2012/7/15

New World Line

New World Line


fhana『New World Line』聞いてるけどとてもいい。全曲良いが、特にIAが唄ってる「光舞う冬の日に」が好き。
フルMVがニコニコで視聴可。

D


全国的にこれ以上気分の良い日はないだろうっていうようなお天気の日があったら、きっと藤枝さつきさんに電話などしてみようと思うの。





2012/5/3

摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)

摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)


永井荷風『摘録断腸亭日乗』上下(岩波文庫)。面白かった。荷風の重要なテクストであるという位置づけ以上に、同時代風俗のドキュメントとしてすごく面白い。「江戸情緒の中に引きこもったデタッチメントの作家」という先入観は完全に覆された。

政治に対する消極的抵抗というものでもない、もっと能動的な、作品生産装置としての「日記」。彼がこれほど「歩行する文学者」だったとは。文壇や世相に対する態度と並んで、彼の「東京」記述が興味深い。彼が撮ってたというスナップ写真はアーカイブになってるのだろうか。

作品を生む「日記」という意味では、本書のハイライトは『墨東綺譚』執筆に至る昭和十年頃にあるように思う。「カメラを持った男」荷風の像が鮮やか。全集で読むと七巻あるそうだが、思わずそっちで全部読みたくなる面白さがあった。もう誰かがやってるんだろうけど、荷風の外出日と彼の遊歩コースを当時の地図上にプロットして、それと作品生成との関連からみてみたい。分析としてどうこうっていうより、単純に楽しそうな気がする。彼の歩行路にそって、自転車で走りながらハンドルに固定したGoProで撮ってみたり。





2012/3/20
自主映画の某コミュニティで、親身になってフィルターテクニックとか音声収録のアドバイスをしている「高山カツヒコ」氏って、あの「高山カツヒコ」氏なのか、ここ五年くらい気になって仕方がない。





2013-04-26 『ユリイカ』5月号に寄稿しました このエントリーを含むブックマーク

青土社さんのサイトに正式告知が出ましたので、お知らせします。

明日4/27日発売の『ユリイカ』5月号に、フランス文学研究者中田健太郎さんと僕の対談が掲載されます。鬼束ちひろさん特集号として、すでに多くの場所で話題を呼んでいる同号ですが、あわせて、昨年公開された『ヱヴァンゲリヲン:Q』の小特集が企画されています。われわれの対談は、後者の『ヱヴァQ』についてのものです。5月号の詳細な内容については、青土社ウェブサイト http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791702541 をごらんください。

この『ヱヴァQ』小特集には、サンキュータツオさん、ふみふみこさんが寄稿されていて、お二方の頁を開くのが今から楽しみです。そしてまた、みずからが作り上げたかたちの中に決して安らぐことなく、いまも歩き続ける「ヱヴァ」という現象と、鬼束ちひろというアーティストの歩みとは、どこか共鳴するところがあるように僕には思えます。それだけに、一執筆者として鬼束さんの特集号に寄稿できたことは、僕としてとても嬉しいことです。

分量は校正時点で60枚程度でしょうか。通常の対談としては長い部類に属すると思いますが、実は直前に約1/2に圧縮してこの枚数となったため、そのぶん濃い内容に仕上がっているのではないかと思います。書店にてお手にとってご覧いただければ、幸いです。