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灰かぶり姫の灰皿 RSSフィード

2007-02-18

[][]ヱヴァンゲリヲン新劇場版庵野についてなど 02:16 ヱヴァンゲリヲン新劇場版と庵野についてなどを含むブックマーク


「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」と題された、庵野秀明の「所信表明」を読みました。


率直に言って、とてもいいと思った。言葉に無駄がない。ここ数年の庵野の発言に比べ、格段にすっきりと組み上げられた文。署名には「原作/総監督 庵野秀明」、日付は「2006 09/28 晴れの日に 鎌倉にて」とあって、彼にとっての何らかの区切りの日だったのでしょうね。さらに、テクストの題名は1995年の「我々は何を作ろうとしているのか?」を意識したものになっている。「原作/総監督」というクレジットも、これまであまり登場していなかったと思います。「エヴァンゲリオン」という作品をその始まりから見直そうとする彼の意志を、そうした、まだ理由のはっきりとしない変更点が語ってもくれそうで、なんだか嬉しい。


  10年以上昔のタイトルを何故今更、とも思います。
  エヴァはもう古い、とも感じます。
  しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。


1997年以降、庵野は主として実写へと仕事の領域を広げようとしていたけれど、彼がそうした作品を担う必然性を段々と僕は画面から感じられなくなっていた。その明らかに美しいレイアウトにもかかわらず、『式日』のような作品の演出内容は他の作家にも到達可能なレベルのものだった。安野モヨコとの出会いと前後し、彼女の作品を「現実」の肯定のありかたそのもののように語る庵野を、最近の私たちは目にしている。連載エッセイマンガ監督不行届」を読んだ数人の友人から庵野カントクって面白い人だね、と言われて、「カントクくん」として庵野秀明を初めて知る人もいることに意外で、楽しい思いを持ちつつも、では庵野にとっての「現実との出会い」とはそのようにしか、そしてそのようにのみしか記録されないものに変わってしまったのだろうかと訝しんでもいた。

そうではない。ぶっちぎりのパフォーマンスを、彼以外の人間には不可能なやり方で実現できる領域はあるのだ。その場所さえ自由に選ばれたものではない、と庵野は言う。「エヴァ」は終わった仕事だ。そして、日本アニメーションはいまだ何も変わっていない。「12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」と庵野が言う時(その判断は正しい)、彼は新しい仕事をはっきりといくつかの不可能性とともにあるべきものとして認識しているようだ。失敗と見なされた第弐拾伍話、第弐拾六話の単純なブローアップとなるはずだった二つの劇場版「エヴァ」が最終的にどのようなものとして提示されたかと考え合わせるならば、この不可能性には期待していい。庵野という作家はそうやっていつも不毛さそのものから生産性を引き出してきた。私たちがどうしようもなく彼に惹かれてしまう理由も、そこにある。


  「エヴァ」はくり返しの物語です。
  主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
  わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
  曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。


他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと言うとき、その願いは曖昧に名指しされた「主人公」のものであると同時に庵野自身のものでもある。庵野の「作家性」はこうした短絡を行うことを躊躇しない。実際この「声明文」には、庵野がこの十数年間、自身の問題を語ることと作品を自注することの双方において特権的に使ってきたやや硬質な語彙がほぼ全て顔を出している。その価値を再確認するためにではなく、おそらくその意味合いを、この新しい仕事を通してすべて更新するためにだ。そこに私たちが先ほどやや否定的に言及もした、1997年以後の十年間の彼の「現実」の重みを加えてみることもきっとできるのだろう。



「エヴァのブログをする予定はなかった」。いやそれは嘘で、エヴァについて誰かに届く言葉を編成するために、その方法ははっきりとは分からないけれどいつかどこかで書き出したいとずっと考えていた。


THE END OF EVANGELION」で物議をかもした演出のひとつとして、現実の庵野秀明に寄せられたファンからのメッセージを画面中で暴力的に引用するというものがあった。スクリーンに映し出された、「庵野、殺す!」は有名だけど、その前、24フレーム/秒とはるかに早いスピードでシャッフルされているコマには、庵野へのむしろ転移過剰なメッセージが大量にちりばめられているのが確認できる。びっしりと便箋を埋めながら「まずお礼を言わせてください/だって、わたし『EVA』を見て、今までの自分を認めてもらえたような/そんな気もちになったからなんです」と延々続く長文の手紙や、電子メールのハードコピーの文面らしい「庵野総監督の心の中の心情がそのまま自分の心の中をかき回している感じでした/それが 私の心の奥にあるものと共鳴して(以下欠)」といった、おそらくそれを書いた本人にしかその生が帰属しないテクストを、彼は自分に向けられた脅迫的な言辞と同列の存在として取り扱っている(文中に記された個人メールアドレスを、わずかに組み替えただけで晒しさえしている)。ついでにいえば、あの恐るべき「庵野秀明への手紙」を書いたはいいものの、なにかものすごくやばい気がして埋葬してしまったヘタレ野郎はここにもいて、それはつまり僕のことだ。

結局のところ、私たちはまたその余白にいまさら書き足していくだけのことになるのだろうか。それどころか、かつては擁護できないと感じられた庵野の攻撃性は、ここに来てますます正当なものとなりつつあるのではないだろうか。愛の極限に達した言説の多くは自己完結してしまう。それは書かれることに目的があるのであって、その書かれたテクストによって何かを変えることなど期待されていない。90年代、文字通りの手紙と電子メールとの中間領域にあったメッセージの水準は、ますます充実していくテレコミュニケーションの手段によっていっそう容易に宛先に到達するようになり(それはブログに引き継がれた問題でもある)、にもかかわらずそれらは読まれることをあらかじめ期待していない。というより、読める構造をしていないのだ。愛しつつそれでも有効に語るにはどうすればいいのか、過ちに陥ることを恐れず試してみよう。それが必要なことなのだから。

シンジシンジ 2010/01/19 18:04 庵野監督へファンレターをおくりたいのですが、宛先がわかりません。よろしければお教えください

c_a_nagaokac_a_nagaoka 2010/02/22 23:39 シンジさん、お返事が遅れて本当にすみません。庵野監督が代表を務めている株式会社カラーですが、同社のwebを見たところ、感想を送るための連絡先は特にないようですね。最近のアニメ作品には制作ブログがあることが多いですし、その中には感想を書いたりトラックバックを送ることができるものもあるのですが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版ブログ:破』にはありません。また、記憶で申し訳ないのですが、旧劇場版『THE END OF EVANGELION』が公開された頃、あるアニメ雑誌が読者に対し、制作サイドに手渡すので感想を編集部まで寄せて欲しい、という告知を出していた例がありました。『破』も公開直後ならそうした方法があったのかもしれませんが、既に公開から半年以上が経過してしまっていて、現在はそれは難しいだろうと思います。

もちろん会社である以上は所在地があるわけで、なんらかの手段でそれを調べ、その住所にファンレターを出すことは可能でしょう。ただ、こういうエントリを書いた僕個人は、シンジさんが庵野監督作品についての感想を書き、それを誰でも見られる場所で公表することをお勧めしたいです。それが真剣に書かれたものであれば、考え抜かれたものであれば、いつか庵野氏ほか作品制作に関わる人々の目に止まる可能性は高くなるし、仮にそれがすぐ氏に届かなくても、その文章を読んだ誰かには届くはずだからです。

このエントリの終わりのほうでいくつか引用した感想文は、それを書き、送ること自体が目的となり、これからそれを読む人間のことは考えていない自己完結したものでした(僕にはそう思えます)。不特定多数に向けて書くことをお勧めするのは、それが自己完結の危険性を避けるために有効なことだと思うからですが、でも特定の誰かに語りかけながら、それが自分の感想を押しつけるだけの独善的なものとならないように試みてみるという方向性もあっていいはずです。その時最も適しているのは、やはり書き手の肉声を伝える「ファンレター」という手段でしょう。最終的には、シンジさんがファンレターをどういうふうに書きたいとお考えなのかが重要になってくると思います。それによって、どういう形式で書くべきかもまた決まるのだと僕は考えます。

あまりお答えになっていないようなレスでごめんなさい。