2007-06-10 長岡日記(1)
見えないところでぐだぐだ日記を書いていたら、いつの間にかプロフィール欄を吹っ飛ばしていたらしいです。三万字を超えるあたりで書き込めなくなる仕様になっているみたい。こちらに出せそうなものは再構成の上、移しておきました。ああ、びっくりした。
■[作家と作品たち][エヴァ][雑記]島編とエヴァのあいだ

6/2
ナディア島編が楽しすぎる。作画にかかってる手数が本当に激変するんだもの。そして出現するダジャレの嵐! 80秒ワンカット! 全てがありえねえ。ありえなさすぎる。これを放映したっていうのか。
いや。いや。正確に言い直しますね。ガイナの常として、作画の作業量の配分にムラがあるんですよ。しかもそれは意識的に行われていたと考えられる。例えば26話「ひとりぼっちのキング」では、夢の中でジャンが自分に絶対出来ないような高度な発明を次々ナディアにお披露目していくというシーンがある。最後には核爆弾を飛ばしちゃうんですが(NHKが嫌がりそうだなあ)、その爆発描写の細やかなこと。
お前らな。絶対分かってやってるだろこれ。イメージの動きの質として、彼らには妥協することのできないポイントがあって(爆発、メカ描写や走り、等々)、そのためには残るカットにあらゆる皺寄せが行こうとそんなのは知ったこっちゃない。加えて確認しておきたいのは、だからと言って残りの部分が保たないということではないんですよね。そこで現れるのが声優のあまりにも過剰な声の演技であったり、シチュエーションコメディの戯画的な引用であったりという、作画的な快楽とはまた異質な楽しさなのだと思います。実際、サンソン役の堀内賢雄やマリー役の水谷優子らの伸び伸びした演技なしには、島編の存在はほとんど考えられないのではないか。
まとめましょう。確かに当時のガイナックスは作業リソースを官僚的に配分することに失敗していたと言えるかもしれません。その問題は「エヴァンゲリオン」の制作環境に引き継がれ、さらに破局的な形で現れてしまった。しかし同時に注目しなければならないのは、そうした映像的な不均質さというディスアドバンテージを彼らが逆手に取ろうとしていたことです。リソースが足りない。ならば我々にとって妥協できないところだけは徹底的に動かしてしまえ。残りのパートに回せる画がない、ならばイメージ外での楽しさを作りだしてやれ。庵野秀明や樋口真嗣は物質的な欠乏を徹底操作することによって、そこから相互に異質ではあるが、明確な視点によって充溢させられた複数の作品的審級を分離させるという離れ業を行いえた*1。やや比喩的に言うならば、彼らは作品を引き裂くことによってそこに多様性を導入しようとしたと表現してもいいかもしれない。ガイナックスの映像がピーキーであるというのは、そういう意味においてなんだと思います。
ああもう。力を抜いていきましょう。第29話「キング対キング」、『ゴジラ対メカゴジラ』をパロってたんだ。今気が付いた。ここで、メカキングがあおり構図でばかばかしくも仰々しく登場するシーンなんですが、…

ん?

ワカメ影じゃないか、これ。
ハイライトとシャドウ部をぐにゅぐにゅと歪ませながら描いていくワカメ影で、80年代ロボットアニメではお馴染みですよね。確かどこかで庵野は「ワカメ影はダサい!」と指摘していたし、彼らが早くからフラットでシャープな塗り分けを志向していたことはナディアやエヴァ、それ以降の『フリクリ』やさらには『トップ2』への流れを見ることではっきりしています。ついでに言うと一番露骨に影が描きこまれているのはメカキングのきんたまなんですが(ひでぇなおい)、これは庵野たちにとっての「引用」の地位をよく伝えているかもしれません。もちろん特撮とロボットアニメ双方のパロディなのですが、こうした引用の仕方は単なる小ネタや手法としての機能を超え出てしまっている。予め方向性の定まった企画を進めねばならないことからくる「絶望感」、「パロディが勝てるのはパロディだけだ」といった述懐に明らかなように、90年代初頭の庵野は引用に引用以上のステータスを与えようと試みていた。あるコンテクストを「徹底して引用する」ということによってです。そのことで作品のビジュアルな統一性は解体してしまうけれど、それは同時に、別種の表現を作品内で衝突させるという賭けにも通じている。これがオンエアされたというのは、やはり奇跡に近いですよ。よくチェック通ったなあ。
もうひとつ。


井上喜久子の演技が鬼気迫る第22話『裏切りのエレクトラ』から。島編にモードが切り替わる一話前で、こうした濃密なドラマが演じられていること自体驚きです。これはエレクトラの回想パートなのですが、死体の腕がもげて落ちるといったトラウマ的な光景が、モノトーンの線画を主体に描かれていきます。思い出したくない映像だということを、あえて描写の密度を落とし、線も鉛筆や木炭を思わせるざらっとしたものに置き換えていくことで表現しているのですが、興味深いのは、ここだけ動き自体もガクついたものに変えているんですよね。これは人物のセル、これは背景だといったように、アニメーション表現がレイヤーの組み合わせだということを自ら暴露しつつ自己解体を始めてしまう。そこで思い出すべきなのは、エヴァ第弐拾四話予告として流されたこれかもしれません。

手前のカヲルは、おそらく『Groundworks of EVANGELION VOL.3』(2001年)、175頁収録の原画「#24-C076/078」と同一です(影の付き方から判断)。こうした、レイアウトや原画をそのまま次回予告に使用するという手法は「エヴァンゲリオン」弐拾弐話OA時点から採られはじめていた。制作体制の行き詰まりの象徴として言及されることが多い演出なのですが、なぜこの手法(原画のコラージュ)でなければならなかったのか。これとはまったく異なった環境にあった「ナディア」中盤で下された演出判断が、「エヴァ」でいよいよ状況がまずくなってきた段階で再度思い起こされ自己引用のターゲットとなったということ、そして類似の手法がさらに徹底して空虚な形態を取りつつTV版最終二話で反復されたことの意味が探られるべきでしょう。選択の自由がほとんどない状態にあってなされた「これを使おう」「これなら演出として成立する」という作家的選択一つ一つの持つ意味は、かえって重いと見るべきです。
島編や「エヴァ」第弐拾話以降が与える不思議な感動は、「よく描けている」といった質のものでは明らかにない。むしろそれはその時手にすることのできたリソース、コミュニケーションの「帯域幅」を彼らが100%使い切ろうとしていた点に求められるべきことのように思えるんです。手塚以降の日本のリミテッドアニメーションにおける諸条件を「徹底操作すること=最後までやり抜くこと」のよき事例は、むしろそのような倫理に求められるべきではないか、と僕は思います。
庵野は後年、ナディアの経験が苦痛そのものだったと振り返っていました。では彼は「エヴァ」ではもっと賢く、「ナディア」のような冒険を抑圧してまわることを身につけたのか。そうではない。驚くべきことに、彼は「エヴァ」で前作を、したがってまたその苦しみをこそ徹底的に反復しようとしたように思えます。とすれば、その反復は具体的に「エヴァ」のどのような試みに現れたのかが問題となるに違いありません。
と、こうした具合で、しばらくの間ひとり勝手にエヴァ祭りです。祭るぜ。
5/29
きのう曖昧に書きかけてやめてしまったんですが、最近また東浩紀さんの周辺で何かあったみたいですね。僕ともかなり近い世代の論者が、それぞれ異なった立場から東氏に批判を提起していたのですが、なんなんだ、この既視感は。宇野常寛「ゼロ年代の想像力」(『SFマガジン』連載)について一言。批判っていうのは文士の持つ唯一の武器であるわけで、それを始めてしまった以上、論として形をなす地点まで一気に突っ走らなければダメだろう。あなたは第一回末尾に、東と自分の個人的関係について弁解がましく書くべきではなかった。前段で散々批判しているわけだから、それを書いたからってどうなるものでもない。同じことは同時期に渦状言論関連の件で東を批判していた人にも言えて、いずれブログかSNSあたりで書いていた愚痴が外部に漏れでもしてしまったのだろう。しかしそもそもどのような媒体への掲載にも耐えるように文筆家はテクストを書くべきで、一字一句同じことを、例えば商業誌で自分が持ってる枠に書ける? という自己検証くらいあってしかるべきなのではないか。要するに、びびってんじゃねーよ、っていうことなんですが。
5/27
revolcismたんかわゆす。かわゆす。かわゆす。かわゆす。かわゆす。
■[作家と作品たち][スタブ]今村昌平の70年代、四本のドキュメントたち

5/21
今村昌平・黒木和雄レトロスペクティブで、今村演出のドキュメンタリーを4本。『未帰還兵を追って マレー篇』、同『タイ篇』。47/49分。クレジットにテレビ東京の表記があって、CM込み一時間番組のフォーマットに収まる長さだけど、これ放映したのかな。70年代の作品であることを考えても画が厳しい。それ以上に状態が悪いのが音声で、よく見るとレポーターの今村自身が手に持ったハンドマイク一発で収音している! 東南アジアの夕暮れの中、船外機の騒音や、市場の喧噪が充満し、時には現地に定住した元日本兵の家族たちがフレーム内外をうろうろと行き来する。クリアな言葉を切り取るどころか、証言の決定的な箇所さえそうしたノイズに埋もれてしまっている。明らかに通常の制作手法ではない。
好意的すぎる見方かもしれないが、これは意図的に選択されていた節がある。前提には技術的な要因があって、フィルム時代の作品だから気軽に撮影し続けることは無理。それで音声レコーダー(オープンリールなんだろうなあ)を常時ぶん回しつつ、要所要所で映像を確保していく、という戦法になる。アーカイブ自体が音主導のものになる傾向があったわけだ。ついで、作家の選択の水準。基本的に質問は控えめで、証言者の語るに任せるという態度が採られていたように思う。語りの起伏や澱みをそのまま記録し、その状態で提示していく。硬い軍隊語によって語られる出来事、そして決して一直線にはならない会話の進行だけがフィルムに抵抗を与えるのではない。時折「菊は」「菊が」という単語が出てきて何だろうと思ったのだが、何度も繰り返されるうちにこれはビルマで戦った第十八師団(久留米、通称菊兵団)のことらしいと分かる。それは分かったのだけど、早口の九州弁に結局は付いていくことができず、多くの感情や情報が僕のなかに入ってくることなくはじき返されてしまった、と感じる。
古山高麗男のような作家の仕事、例えば『フーコン戦記』や『龍陵会戦』に親しんだ人ならば、会話の中にいくつか激戦地の固有名詞を認めることもできただろう。けれど、元兵士たちにとって決定的な意味を持つのは、その場所で自分たちの拠った陣地が「公路の200m右」か「左」だったのか、そこでどんな方向から砲弾が飛んできて、結果誰が負傷し死んだのか、といった、微細すぎるほどの細部なのだ。そうした致命的な細部が、早口の声とともに惜しげもなくバラ撒かれ、そして理解不能なものとして、後へ後へと押し流されていくしかない。時には私たちの侮蔑に伴われて。
天皇について異見を持つ戦友との再会の後、カメラに向かって「[彼のような者は]斬ってやる」(殺してやる、だったかもしれない)とある元兵士が言いつのった瞬間、室内には笑いが起こっていた。そのような彼の憤激は、今や現実性のない、ありえない冗談のような感情として受け取られてしまっていたわけだ(70年代の公開当時はシャレにならなかったと思うが)。罠は観衆の側にも現にそのようにあり、しかもそれは時間の経過と同時にますます増えるような性質のものだったのだ。私たちは、私たちに向けられた言葉をすべてうまくキャッチできるとは限らない。その権利として、読み解かれてほしい、あるいは理解してほしいと呈示された言葉たちが、もう現に私たちには理解不能な情報としか受け取られなくなっている。ドキュメントの映像はそうした折れ曲がった伝達の理路、コミュニケーションの問題をこそ追跡しなければならないのだろう。
『からゆきさん』('73)『無法松故郷に帰る』('73)。どちらも、すっごい良かった。
後者はもっと早く観ておくべきだったな。いろんな意味で不明を恥じる。この二作品が作家の見識を反映してとにかく素晴らしいのは、登場人物が能動的に映像を切り開いていった過程を捉えたことだと思う。例えば『からゆきさん』。最初に今村が訪ねた女性は、その後の彼の人捜しに常に同行していく。一緒に路地から路地へと歩きながら、最後には彼からインタビュアーの役を奪って、自分から聞き取りをしていくようになっていく。今村はそれを彼女の脇で見守るだけだ。取材者が画面内に写り込みながら、その逡巡を同時に記録するような演出は近年避けられる傾向があって、それは視聴者にとにかく夾雑物のない映像を届けようという努力の現れなんだけど、こういうのだっていいじゃないか。全然オッケーだよ。老からゆきさんの郷里を訪ねる今村と農夫が二人、並んで農道をゆっくりと歩いていくのを望遠で捉えた3ショットが忘れられない。左肩にレコーダーを吊り下げ、ケーブルを引き回しながら、今村がマイクを向ける。応えつつ、ぱぁん、と音を立てて一人の農夫が両手で羽虫を潰す。そうした細部だけが持つ生の感触をなんとか復権できないものか。
『無法松故郷に帰る』。「未帰還兵を追って タイ篇」での九州師団の元上等兵(だったと思う)の帰国に同行。タイトルでの空港での彼の表情からして既にただならぬ雰囲気が漂っていて、最後の兄との対決は圧倒的。カメラマンも動けないでいる。ちょっとまだ言葉にならないけど、とにかく傑作。ロードムーヴィーとしても、必見よ。
●
「花影」の件*2などもあって、大岡昇平『昭和末』(岩波書店)。死去の四年前から遺稿を含むエッセーを約80篇収録。とはいえ、突っ掛かってくるような調子のテクストが好ましく、相変わらず密度が高い。これ文芸文庫入りしねーかなー。88年1月群像掲載の「盗まれた手紙」。まあタイトルからしてそのものなんだけど、バーバラ・ジョンソン「参照の枠組」とともにラカンのエクリを読んでいる。曰く邦訳が「あまりひどいので、原書を取り寄せて読んだ」とのこと。スゴス。
■[作家と作品たち][エヴァ]新しい「ミックステープ」の擁護のために

4/18
アバウト欄だけが更新され、今や日記以外の何物でもないものとして書かれている。度し難い。
提示された映像をいったんすべてまともに受け取った上で、きちんと読んでみるという形式での海外エヴァAMVのレビューはかねてしてみたいなと思っていて、一応簡単に調べも進めている(youtubeでいろいろ観るだけだけど。そのうちいくつかの作品は、ここでも順次紹介してきた通り)。
基本的に海外制作のこうしたAMVは、対象となる作品の主題にかなりストレートに反応してくる傾向があって、「エヴァンゲリオン」に関して言えばシンジとゲンドウとのオイディプス的関係とか、シンジ=アスカ関連の映像のカットアップから性の主題系を引き出してくるもの(たとえば彼の手に飛び散った精液のカットの多用)が目立つ。使用楽曲もポスト/オルタナロック系の重めのものが多く選ばれるなど、サウンドとアニメの映像を意図的にズレさせて楽しむというよりは、むしろ二つの異なるメディウムの一致点を探るような方向性なのだ。つまり彼ら、北米在住者に加え、最近はスペイン語圏や東欧圏の作者も存在感を増しているこれらの人々は、本気でアニメーションの映像とその外部との間に何らかのリンクを存在させようとしている。それはアニメの表現やナラティブの性能を、音楽というそれ以外の表現手法のナラティブと正面から競合させるということだ。一瞥して分かるとおり、もちろん失敗は圧倒的に多い。ライツ的な問題(もっとも単純な形態のムービー作品でも、楽曲と映像の無断使用で最低二倍のリスクを負うことになる)がこの種の創作行為に、鋭敏な形で永遠について回ることもはっきりしている。それでも僕はこの向こう見ずさは擁護したい。表現されたものをしっかりと読むことにかけて、それは真摯な応答の仕方だと思うからだ。
AMV/MAD ムービーという二次創作のレヴェルでの、彼我のパフォーマンスの違いという問題でもそれはある。残念ながら、エヴァと、他の作品由来の素材を混交させながら作られる、国内制作分で大部分を占めるパロディ的なムービーは、結局の所その場で消費されてしまうだけで(コンポジットソフトは必然性があって使っているのだろうか?)、国内でオンエアされるアニメに関してのマニアックな文脈を知らない者にはそれ単体での視聴に堪えないことがほとんどだ。これは根拠のない洋モノ礼賛ではない。作品に対して限定的なアクセスしか持てない状態に陥った時に、ひたすら黙り込むだけかそれを逆手に取ること――この場合はコンテクストの批評的な読み替えと普遍化――が私たちにできるのか、という疑いでもあるからだ。
そういえば僕は、エヴァのSSでもパロディ系のがなんとなくダメだった。この作品の「深刻さ」が、成熟した受け手たちには薄っぺらなものに見えているらしいことも感じてはいたけれど、それを解体して手近な「ラブコメ」の型に流し込んでしまうような作家を信頼することはできなかった。それよりも、劇場版の後でシンジとアスカにどんな物語の余地が残っているのか、夏エヴァでの徹底した物語破壊まで読み込んだその上で「二次創作」している作品が、独特の読みにくさはあったけれど好きだった。補完計画でLCLに一度溶けたあと、世界に帰還した人間たちがどんな生き方をしていくのか。その後彼ら二人が高校へ行ったりしながらどんな関係を築いていくのか(それは傷つけあいながらでしかありえないだろう)、といった想像力を働かせた作品。思いつくまま挙げると、CREATORS GUILDのDARUさん、「Crow X Factor」での投稿が多かったO.Lさん、それからオリジナル設定ながらテクストのやわらかな描写のセンス、完成度が群を抜いていた「パパゲリオン」のヒロポンさんといった人たちの、僕はファンだった。更新が待ち遠しかった。
劇場版エヴァに向き合いながら彼らの文章はそれぞれの仕方で硬度を高めていったけれど、それは「二次創作」としての完成に近づくことであると同時に、そうした営みが不可能で、不幸なものをはらんでいるかもしれないという認識に近付くことでもあった。二次創作とはある作品をファンとして楽しむことの一部なのだと思われている。僕もそう思っていた。だけど、エヴァのメッセージをまともに被りながら書くということは、その程度に差はあっても書き手自身の性や恋愛や家族関係の問題をざっくり抉るということだ。そしてそれをしたせいでかえって、彼らの書いたものは二次的なものであることから逃れられなくなっていく。人物やもろもろの主題、そして物語的な整合性といった「THE END OF EVANGELION」までのプラットフォームを尊重することを選択した瞬間、それらはSSのテクストに、庵野秀明ら制作者の生がかなりの程度刻まれた「他者性」そのものとして割り込んできてしまう。そして彼らすぐれた書き手が自分の問題と作品を反響させ、苦しみながら書けば書くほど、それらは彼らの物語ではなく「エヴァの」優れたSSとして読まれてしまうことになるだろう。でもそうした陰り、テクストの存在根拠に落とされた不安こそは、実は紛れもない作家のそれだったのだと言えるのではないか。現在は一括してダウンロード可能なように圧縮ファイルのみが置かれたサイト「CREATORS GUILD」http://www.asahi-net.or.jp/~tm3r-nd/で、DARUさんは「いまだに正面切ってエヴァンゲリオンを見直すことができないアホな管理人」と自己紹介している。いつか「正面切って」エヴァを見直す日が来るかもしれないし、できないままかもしれない。どちらになるかは、彼のこれからの人生と相関した事柄なのだ、とこの筆者は言っていることになる。
このように言いながら彼は、書き手のそれと同時に読み手の倫理も語っているように思える。あの名作「時が、走り出す」の筆者が――いまファイルを展開してみたところ、現在サイトトップに置いてある圧縮アーカイブには同作が含まれていないようだ――、この作品への見方がなお将来変わるかもしれないのだと慎重に留保し続けているのだ。彼にとっては、ただいつかの記憶を再確認するためだけに作品を「見る」などということはありえない。「見る」とは自分が変わっていくことの謂いであり、だからそれは常に「正面切って」の経験なのだ。書き手としての地位を、「いつか正面切って」と「二度と起こらないかもしれない」という二つの可能性の前にこの筆者は置いている。貴重な態度表明と言うべきだろう。
そうなのだ。庵野たちの仕事だけを絶えざる注意と共に見つめてきたわけではない。だが、僕もエヴァという作品を「正面切って」読み切ることができる日がいつか来るはずだ、というかたちで自分に約束をしていたのだ。時折そのことを忘れてしまいもするし、その約束といっても、結局は激しすぎる思いこみの産物だったのじゃないか、と恥ずかしくなってしまう時だってあるけれど、思い出した約束くらいは守るさ。たとえ、どれだけの時間がかかってしまうとしても。
■[作家と作品たち][エヴァ][スタブ]「東浩紀の二つのエヴァ批評、ほか」補記

4/2
東浩紀のエヴァ評についてのエントリからようやく「スタブ」のステータスを外せた。よかったよかったなどと言ってられるのはおそらく僕だけで、この件で最初のメモを投げたのが2月10日のことだから、二ヶ月かけてだらだら直していたことになる。度し難い。
あの投稿のどこにも入れ込む余地がなかったし、というのはあれ以上大学のレポートくさくなることを避けたかったから参照テクストについてここで。あそこで使った東浩紀のテクストは、1996年のもとの掲載誌を引っ張り出してきて引用している。インコミのほうは句読点のスタイルまでオリジナルに合わせましたことよ。しかも、文庫入りしている『郵便的不安たち#』に掲載されたものと初出との間に実は特別な内容的変更があるわけではない。強いて言えば、ところどころでニューアカ文体的な言い回しが抑えられてこなれた記述になり(「容赦なく侵犯する」が「容赦なく犯し」といった具合に)、最終話放映後のリメイク予定の紹介など97年以後は意味のなくなってしまった情報が削られたりと、それも穏当なもので、あえて昔のバージョンを紹介する意味は薄いのかもしれない。
著者本人が文中で言っているように、あのテクストはどちらも作品の本格的な分析には入りこまないでいる。それは時評という時間的にも経済的にも限界があるフォーマットの制約によるもので、あまり手間はかけられないから一番本質的と考えることを書くしかない。そこで東が優先して言ったのは、メタフィクショナルな水準、物語上の個々の要素と80年代以降のアニメ制作の現場をともに縛る数々の隠微な配慮(このキャラはこれこれの作品のパロディだ、というように)が崩壊させられる際、むしろ物語の一次的なリアリティを直接支持してしまうという「反復的ねじれ」(東)の構図だった。この指摘は正しいし、鋭い。そして、だとするならば、エヴァに対してのありうべき批評とは、この作品を形式的にかつ内容的に読み切ってしまうような分析だ、ということになる。誰かがそうした包括的な仕事をするべきだし、あるいはとっくにその種の成果があってよかった。
エヴァという作品に関する批評と評論の水準は概してかなり悲惨だと思う。もちろん野火ノビタ(榎本ナリコ)の批評はいつ読んでも切実だし、宮台真司の時評は、進行中の事象にあって論理的に何が言えるかということを教えてくれた。澤野雅樹の評は知性と誠実さをうまく組み合わせていたし、増田聡の言説分析もクレバーだ。ヒイロ・ゆいの怪文書からは逆に筆者の生真面目そうな性格が漏れ出ているし、2chエヴァ板の名無しさんたちはえらく博覧強記で、誰も知らないようなデータをスパッと出してくれる。謎本も、あれだけ出版されればいやでも瞠目すべき見解は集まってくる。スタジオ雄はいい仕事をしたし、近刊中では北村正裕の作品解釈もレベルが高い。―― んだけど、どこかに不満が残ってしまう。上の分けかたで言えば、みんな「形式」(メタ批評ね)か「内容」のどちらかを選んだその上で分析を展開していて、なんというか物わかりが良すぎるのだ。そして、リリースから年代が下れば下るほどますますそうなっていく。
件のエントリで、東浩紀の「エヴァンゲリオン」評が「おそらくこの作品への最も優れた分析であり続けている」と僕は書いたけれど、実のところ東のなかであのテクストはもう過去のものなのだろう。ただ、「時評」がいまだに作品のポテンシャルをもっとも適切に抽出しえたテクストであり続けているということは、「エヴァンゲリオン」を巡る論説空間の歪さをそのまま物語っていると思う。「日本には、アニメーションに関する批評が存在しな」かったし、今もその状況に何らの変化もない。その状況は正されるべきだ。最初の話題に戻るけれど、東のテクストを初出で引っ張ってきたのは、1996年の時評をいまだ現在のものとして受け取らざるを得ない、その状況を多少なりとも説明する助けにしたかったからだ。あまり機能している方法とは言いがたいのが泣けるけど。
おおう。何だかたくさん書いちったぜ。ところでついでに脚注形式を変えてみました。やり方自体けっこう忘れてしまっていて、院生やっている友人に泣きついてみたりしたんだけど、分からないことがあるたび聞いた日にはえらい迷惑になるんで、自己解決をはかってみました。各種媒体別の挙示方式が細かく整備されているのと、最新版ではブログを参照する際の書式なんかも標準化されていて、ネットに合ってるかなと思ってシカゴ方式のやり方にしてみました。なんか変なところあったら、こっそり指摘してくれると嬉しいです。
- 作者: Kate L. Turabian,Wayne C. Booth,Gregory G. Colomb,Joseph M. Williams
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もらったジョニ黒がおいしい。すげえうまい。「ところでジョニ黒と言えば大西巨人ですが」。
■[作家と作品たち][雑記][スタブ]

2/15
エヴァリニューアルDVDは色も綺麗だし、小さいDVDケースに移してしまえばすぐ取り出して観れるし、いいことずくめなんだけど、評価に迷うところも確かにある。リニューアル版での変更はたくさんありすぎて、多分ほとんど把握できていないと思うけど、気になる点が二つ。以下、該当箇所は多いはずだから、あくまで例です。
というのは、2003年再発の段階で、カラコレやアナウンス類の追加だけでなくかなり声自体をいじった形跡があるんですよね。全体に声の演技に関して、演じ手の個性が突出した箇所を削り取っていくような方向性があるように思います。
まず「REBIRTH/Air」の飛び抜けて残虐な表現で、視聴記にも必ず登場していたシーンのひとつ。戦略自衛隊の兵士がエレベーター内のネルフの女性職員に火炎放射を浴びせる時、あの頭に焼き付くような断末魔の叫び(声は林原めぐみ)がありますよね。これの演出変更。劇場公開時よりかなり音声レベルを落とされてしまっているんです。劇場では大きく引き裂くような絶叫が入っていたのが、リニューアル版では女性の声であるのがようやく判別できるくらいに丸まってしまう。これはレイ役の林原の声だということを隠すためかもしれませんが*3、「Air」の劇場公開時点での攻撃性を落として、できるだけ違和感なく視聴させるための処置のように思えます(つまり制作者の自作への評価が揺動している)。劇場版内の改変で、ほかに類似の項目が見つかれば興味深いかもしれない。
もう一つ、例えば第八話での国連軍オペレーターの声「全艦キングス弁を抜きました」〜「目標はテンペストの艦底を通過」。TV版オリジナルでは山口由里子が担当していた箇所なのですが、こういったアンビエンス風の台詞でメイン声優陣が担当した部分が別の演じ手の声に差し替えられている、というもの。
しかし、こうした細かい変更が2003年の「リニューアル」をより楽しく、強固なものにする機能を果たしているかは疑問です。一人が二役も三役もこなさざるを得ず、その欠乏から多様性を引き出さねばならないという要請を課せられていたのが日本における「テレビアニメーション」の物質的条件だったのではないか。そもそも新しい役者の声を当てたところで、「声をはめ込む」過程のなかでは話者をチョイスするという演出上の選択が介在していることに変わりはない。想定され演技の宛先となるパーソナリティ=身体に「本質的に帰属する」声が存在しない(映像に音声を焼き込んだ段階ではじめて「人物が話している」という見掛けは作り上げられる)以上、「誰かに選ばれたものだ」という閉鎖性は避けがたく発生してしまう。放っておけばよかったのに、大差ないじゃんというのが、まあ素朴な感想。春エヴァ「REBIRTH」編で山寺宏一があてていた戦自指揮官の台詞が1つありましたが、それが EoEで差し替えられたというエピソードも思い出します。こうした痕跡隠しによって結局は、放映から劇場公開にいたる仕事の一貫性を崩壊させてしまうような雑さを逆に呼び込んでしまうんじゃないだろうか。オンエア時や劇場公開時のネガティブな攻撃性まじりのテンションを制作陣が「消すべきもの」として考えてしまっているようで、それは、やはりちょっと悲しいことのように思うんです。
2/12
ナディアの絵コンテ集、なんとかチェックできないかな。島編の各話コンテが読みたいというのもあるんだけど、「Studio Ponytail」さん(ナディアのサントラ音源を網羅したすばらしいサイト)で、コンテ1巻所収という下のような庵野の回想の一部を読んでしまったのが大きかった。
こうして私にとっての「ナディア」は、「ラピュタ」とそっくり同じという所からスタートしたのである。この時、何をどんなに頑張っても所詮は「ラピュタ」と一緒という絶望感から抜け出すための方法論の一つとして始めたのが " パロディ・引用(ひらきなおり)" だった。つまり、「パロディが勝てるのはパロディだけだ」という発想。
『Studio Ponytail』より、「ナディア用語辞典」「ラピュタ.....?」の項。
こうした「絶望感」と表裏となった引用への賭けの意識が、やがて庵野の「方法論」のベースへと練り上げられていったことは、たとえば『エヴァ』後に太田出版から刊行された庵野秀明へのインタビュー集でも確認可能ではある*4。パロディや先行作品へのオマージュとは自分にとっていったい何なのだろう? DAICONIII、同IVのOPAや『帰ってきたウルトラマン』でのデビュー以来、庵野は自分自身にそうした問いを投げかけ続けてきたのだろう。そして彼はここで、単なる趣味の誇示や手法として以上のなにかを引用とともに達成(「勝つ」)しようとすることを選び取ったのだと振り返っている。
とはいっても、こうした自注は素朴に参照できない。『のーてんき通信』での武田康廣や庵野たちのこうした証言とともに、営業的な理由から「ラピュタ」の再演を強要してきたNHK像とでも言うべきイメージが、既に私たちにはあるのではないか。あるいはもっと進んでそれを自明の存在として想定し、ナディアのコアでとんがった表現をそこから説明しようとしたりしていないだろうか。こういう所こそむしろ慎重に確定しておくべきかもしれない。具体的に放送局側からどのような要請がどんな場で提示されたのか(たとえば、NHK/NHKエンタープライズにはどの程度まとまった企画原案やイメージボード、パイロットフィルムの類があったのか、それとも企画会議の席上で大まかなイメージが口頭で伝えられただけなのか、その要望は個別の演出内容にまで踏み込んだものだったのか、など)。それが制作現場や監督に就いた庵野にどのようなプレッシャーとして加えられたのかをはっきりさせる必要があるような気がしている。少なくとも今のままの持ち駒で”公共放送からの圧力に抗し周到なゲリラ戦術に打って出た庵野”なんて言ったりするのは難しいんじゃないか。局側の担当者に、改めて事実関係を確認するのがバランスというものなんだろうけど。プロデューサー級の職員は下手すればそろそろ退職時期だなぁ。
Gendo's Paradise。有名みたいですね。すごくよく出来ていて楽しい。海外ファン層の厚みも感じます。03:10の後で病室のシンジが呟く口パクとボーカルの拍を合わせたり、自爆シーンで綾波が叫ぶカットを脈絡無く入れ込んで、そこにふざけたリリックをぴったり合うように持ってきたり。歌詞がレイの実際の台詞に見えてしまうくらい、自然に合ってます。
歌詞の内容も練り込まれているし、整音に力が入っているぶん声の個性が圧縮に負けないでかなり残っている。そうしたローテクな部分の丁寧な仕上げもすごく参考になりますね。これは編集ソフトで素直に繋いで、効果も内蔵のDVEだけでやってるんじゃないかな。ワイプの入れ方もディゾルヴの効きも、しっとりしていて見ていて気持ちいい。動体視力を試すようなAMVは誰でも作るけれど、ゆっくりとした流れを崩さず、音楽の寄り引きを読んで最も適したカットを繋いでいく作品を作るのは相当技がないと難しいと思う。
むっ、これのツインボーカルって、内容からするとゲンドウとリッちゃんですよね。歌詞がどうも煤けてると思ったらそれが原因だったのか。ヨゴレカップル万歳。いや、リツコさん好きなんですよ。痛すぎるあなたが大好きです。
2/9
- 作者: 赤間啓之
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2003/10
- メディア: 単行本
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以前から気にはなっていて、買ったもののそのまま放置していた赤間啓之『デッサンする身体』(春秋社)が面白い。オーセンティックなようでもあり、怪しさ大爆発でもありそうなこの香り。マニアックなラカン論でならしたこの筆者らしい。大体、当のラカンが戦後すぐからサイバネティックスやコンピュータに頻繁に言及していたことを忘れるべきじゃないだろう*5。外部に新鮮に開かれてあるには、ちょっと怪しいくらい、ちょっと都合良すぎるくらいに新しい知見を自分の言説に接ぎ木してみせるのがちょうどいいのだと思う。誤りの可能性もあるけれど、その衝突から生まれる発見だってきっと多いはずだ。
北村正裕『エヴァンゲリオン解読』レビューを仕込み中。時間が無くてあまり進まない。よく考えてみたら、エヴァのブログをする予定はなかったんだけどな。訳わかんね。
2/2
オーディオテクニカがこういうのを出しているとは知らなかった。
・ASM600がさらに進化して ワサビ付け機能をプラス!
http://www.audio-technica.co.jp/autec/kitchen/kitchen_susi.html
ハルヒフルEDを見終わってかすかに残る違和感。なんでストイックに1カメ収録をシミュレートしているんだろう。よく観察してみると、カットの繋ぎ目でカメラ位置が変わっていない。ズーム&パンだけで処理している。後半で黒板がバックになってから、人物に律儀に追随してずるずると左右に動くフレーム。あれはひょっとして、キョンの覗きこんでいるDVカメラで撮影されたものという設定なのか(あれ、でもキョン一緒に踊ってるよ?)。
不在の視点、そうなのだ。連中はまったくもってそういうことを涼しい顔してやるのである。ええーっとみんな、『涼宮ハルヒの憂鬱』第2話の最初のカット、自転車の回転するスポークが光を受けてきらきらと反射する、それがフィルムの映写機の隠喩になっているっていうのはOKだよね? いや、OKもなにも、標準的な読解をよく知らないで言っているんですが、いかにも京アニらしい心憎さ。伝説的な「朝比奈ミクルの冒険」での恨みを返すかのような、しっかりとした画面設計となによりあの落ち着いたフィックスに僕は腹を抱えてげらげら笑い転げてしまった。いや冗談じゃなくって、長回しのエスタブリッシング・ショット単体が直接に快楽を生んでしまうということはもうちょっと真剣に考えたほうがいいっすよ。下手に「動く」ことの精緻な模倣(転びまくる色、カット尻はいつも空、人物の動きは追いきれず、音は潰れ…)はアニメーションに不安をもたらす。制作手法が要求する省力化や各人のタッチの共通化という必要を超えて、アニメにおいては動きもまた過剰なコード化を蒙ってきたはずで、山本寛のような演出家がそのことに鈍感であろうはずがないのだ。ああ、要するに何が言いたかったかというと、第12話「ライブアライブ」のハルヒがすごい良かったよ!――ということなんだけど。
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12月3日の短い文章で、
新海誠の新作「秒速5センチメートル」の予告編が新しくなっていて、山崎まさよしが主題歌というのも少し驚いた。さすがにフルHD版をいつまでも置いておくわけにはいかなかったんでしょうね。
と書いたのだけど、一般的には「フルHD」って、1920*1080iのことを指すみたいですね。公式サイトに上がっていたのは1280*720の24Pムービーだったと思うから、そうすると表現として正確じゃないことになるのか。でも「フル」と言うからには「ハーフHD」とか、クォーターHDとかいった規格があるかといえば、それは無い。なんか釈然としないけど、こんど直しとこ。ハイデフハイデフ。
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何かを考えるという意味では、まったくろくでもない生活を送っているんだけど、このひっくり返った体勢からでもなにごとかを書き出さなくてはいけないようで、とりあえずエヴァ関連書籍を集め直すことにしました。ここ数日、謎本が次々に配送されてきます。amazonマーケットプレイスはこういうときめちゃめちゃ便利ですね。今まで使わなかったのが不思議なくらいです。書店で平積みされていたのがまだ記憶に残っている、見覚えのあるタイトルもちらほらと見えます。幻冬舎の『THE END OF EVANGELION 僕という記号』の、黒い紙に黒インクで印刷されたデザイン。角度を付けないと読めず、90年代後半らしい病んだ意匠だなと一瞬思ったけれど、そういえば、瀧口修造の単行本にそっくりのものがあったはずだ。ブックデザインも総力戦だったんですね。同時代と過去の想像力のうち、使えるものはすべて使うという姿勢。タイポグラフィを含めた「エヴァ風」デザインの波及経路については、今後まとめていく必要があるのかもしれない。
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整理整頓が苦手です。でも、掃除というのもたまには悪くない。考え事をしながらなので遅いったらないですが。三年半前のamazonの注文票が出てきたので破く前にちょっと眺めてみる。竹村延和の「10th/テンス」を聴いて、すごく気に入ったのはごく最近のことのような気がしていたけれど、買ったのは2003年の秋だったんだ。一緒に北村正裕『エヴァンゲリオン解読』も買っている。それを読み終わったのは今年に入ってから。遅い。何もかも遅いよ。すべてが手遅れになったくさいなという感情。
*1:2月10日の「東浩紀の二つのエヴァ批評、ほか」の後半部では、エヴァの後期エピソードについて類似の視点から簡単に指摘をしています。あわせてhttp://d.hatena.ne.jp/c_a_nagaoka/20070210もどうぞ。
*2:4/5に書いて消した文章で大岡昇平『花影』に少し言及していました。以下に引用。「去年講談社文芸文庫から出た大岡昇平『花影』への小谷野敦の解題はすばらしかった。これについてはいつか書いておきたいです。詳細はその時に譲るけれど、小谷野は、大岡における恋愛小説と戦記(この二つは大岡の年譜上で交互に書かれていると言ってよい)が、その倫理において同質のものとして書かれているとそこで分析している。その同質性の有無の判定がというよりは、では同質であるとして、それが大岡においてはどのように同じものとして書かれ出すのか、を分析しきれるかどうかがレビュアーの腕の見せ所であるわけなのだが、彼はそこで、多少の荒っぽさをも含みつつ(あるいはそれをも辞さず)、かなり説得的な図式を描ききってみせたと言えると思う。この筆者のテクストは僕はたぶんこれが初読だけど、硬度と推進力のある文章を書く人のようだ。いやまあ、「猫を償うに猫をもってせよ」はいつも愛読していますがね!」
*3:LD/2003年DVD-BOXに再録された「EVA友の会」拾参号の小川びいのコメンタリーが的確なので、ちょっと引きます。「(画面向こうの)室内で悲鳴を上げているネルフ女は、林原めぐみが演じている。「[叫びの]2回目はもっとつらく」との指示がAR台本にある。痛々しげな悲鳴がお見事」(「声優博士のちょっちチェック」『エヴァ友の会』拾参号リーフレット裏面所載)
*4:例えば大泉実成が編集を担当した『庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン』(1997年)での以下のような発言を参照。「僕らは結局[過去の作品の]コラージュしかできないと思うんですよ。それは仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない、それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。それ以外はすべて模造といっても否定はできない。[……]それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。」(49-50)
*5:1954-55年の『セミネールII』23章(邦訳では下巻)収録の講演「精神分析とサイバネティックス、あるいはランガージュの本性について」とか、タイトルからして実にあやしい。と思いきや、かなりきちんと計算機科学を論じていて、N.ウィーナーへの言及もありますのことよ。

未だにエヴァFF界隈の周辺に住み着いている者として、長年感じていたことを上手に言語化されたテキストに出会う事ができ、感謝しております。
MADについての彼我の差も我が意を得たり、という感じで嬉しくなりました。
ところで、最近ニコニコ動画に投稿された「間違いだらけ(?)のエヴァンゲリオンは、コンテキストの批評的読み替えと普遍化という意味において優れていて、かつ和ものMADの他作品との混淆の路線上にあるという意味で注目すべき存在と感じましたが、よろしければお考えをお伺いしたく存じます。