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灰かぶり姫の灰皿 RSSフィード

2007-11-20

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Beautiful World / Kiss & Cry

Beautiful World / Kiss & Cry

渋谷アミューズCQNヱヴァンゲリヲン新劇場版観てきた。言いたいことは山ほどあるし、複雑な気分でスクリーンを見ていた時間が長かったんだけど、最後は宇多田ヒカルに合わせて小刻みに頭をスウィングさせながらエンドクレジットに見入ってました。要するに、そういうことです。


いろいろ考えたけど、本題だけ簡単に。旧作に難点込みで向き合った上で、もう一度新しい物語を模索しようという姿勢ははっきりしていたと思う。そのことに好感を持ちました。例えば旧版の六話にあたるヤシマ作戦では、シンジミサトたち以外の人間に血肉を与えようとする努力が払われていた。群衆や中学校の同級生や、多分エヴァなんてこれまで目にしたことさえなかったネルフの下級職員たちはもう背景としてではなく、キャラクターとして生きている。彼らはシンジが失敗すれば死ぬしかない人々です。そして、シンジが逃げ出すことは彼らを放り出すことを意味する。物語にその種の動機付けを与え直すことと、不条理な暴力から逃げ出したいシンジとの間には新しいテンションが発生することになり、そうした力学をどのようにコントロールするかがおそらく今後の展開にも関わってくるんだと思う。かなりベタベタなリアリズム劇の方法論でそれをやろうとしている箇所もいくつかあって(伝言メッセージの使い方など)、若干危なさも感じたんだけど。でも、それはまあそうなるしかないんじゃない? あれほど気合いの入った反物語を引っ繰り返そうとするのだから、細部で多少グダグダしないはずがない。


垂直発射されるミサイルアナログな電力ゲージの動き、全周防御に使われる荷粒子砲などは、『王立宇宙軍』『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』のセルフパロディか。ヤシマ作戦発動後の指揮通信車内の描写など、新作カットの多くが緊張感あふれるものになっていたのに対し(一体誰なんだろう、あそこを担当したのは?)、旧作カットのリビルド部分が良くないのが気になった。はっきり言って相当良くない。特に引き画。基本的にサイドカットしても(左右を落としてTVと同じもとのアスペクトにしても)全部意味が通ってしまう画でした。ビスタサイズ固有のポテンシャルを出し切った構図ではまったくないし、そのことによって「TV」という審級がフィルムの中に持ち込まれてしまっている。実際、物語・構成面と比較すると、映像・編集面でのディレクションが固まっていない印象が強くて、例えば旧版で強力だった高速カッティングを抑えたり、アクションの演出を鈍さ・重さを強調する方向性に振ってみたりというものは確かにあるんだけど、決定的なものにはなりきれていないんじゃないか。そして終盤近く、あのミサトとの廊下でのダイアローグを僕は避けてほしくなかった。あそこでは作り手が逃げに入ってしまっていたと思う。


でも、それも悪いことではないかもしれない。いまは多くの点で旧版に拘束された状態かもしれないけど、それは見方を変えれば『エヴァ』と『ヱヴァ』という二つの作品の間に対話が成立していることでもあるから。その齟齬の中からこれから庵野たちの新しい仕事は独自の作品へと変化していくのだろうし、また逆に『序』やそれ以降の新劇場版を通すことによって、旧世紀版や、それが批判を繰り出そうとしたTVやテレビアニメーションというメディアの持った意味も別の角度からはっきりするのではないか、とすごく期待しています。長い時間が経って、それでもまだ解けない問題があり、それに再び立ち向かっていこうとする制作者たちがいる。それこそが文句なく嬉しいことなのだと、僕は思うんです。

BigHopeClasicBigHopeClasic 2007/11/23 14:29 公開から三ヶ月近く経ってもまだ、こうしたフレッシュな感想を読める事に感激しています。

>映像・編集面でのディレクションが固まっていない印象が強くて
この点は全く同感です。
この映画もご多分にもれず制作スケジュールは押しに押して、貞本義行が作監として入った今年6月の段階で、「もうなんぼなんでも8割はできてるだろうと思ったらとてもそんな状態じゃなかった」ところから、公開週の月曜日に完成してその日に初号試写、次の日に映倫へ持っていって木曜にフジテレビで試写会、土曜に全国公開という状態で、編集面までとても詰め切る余裕がなかったのはむべなるかな、という感じでした。
エヴァ板では7月の予告第一弾と8月の予告第2弾の画像を比較して、「第5の使徒」が飛行形態から直立形態に移行したシーンで、ビルのテクスチャが7月ではまるでなってなかったことを指摘した猛者がいましたが、ほんとうにギリギリまで仕事をしていたことがうかがえるものでした。

>あのミサトとの廊下でのダイアローグを僕は避けてほしくなかった。

これがどのことをさすのか、詳しく教えて頂けますか?
思い当たるシーンがいまひとつ浮かばないのです。

>『エヴァ』と『ヱヴァ』という二つの作品の間に対話が成立している
大月俊倫が「庵野と帰ってきたウルトラマンの映画を作るなら1話から6話のダイジェストだよねという話をずっとしてきて、それと全く同じ構図が序」という話を繰り返ししていましたが、わたしは「序」はその言葉通り、6話までのダイジェストという形を取って一気にテレビ版19話までを濃縮しきったのだと見ました。
一見不要とも思えた葛城家でのコント風のカットを残したりしたのもその意図であったかもしれず(いわゆるアクション編の代替)、第拾六話の心理描写シーンは先取りされて二度持ち込まれています。ヤシマ作戦を迎えるに当たってのシンジとミサトの会話は、第拾九話の加持とシンジの会話に対比され、その後のシンジの戦いに至る経過も拾九話の要素が濃い。
とすれば「序」はテレビ版において、「一般的なアニメ」の枠内に収まっていた部分を全て収めたとも言え、それはつまり、作り手側がエヴァの「一般的なアニメ、としての面白さ」をどのようにいま理解しているのかを呈示した機会として貴重であったと思うのです。
そして同時に、これをつくった事でテレビ版のエヴァからはほぼ自由になり、今現在のフレッシュな問題意識が破において呈示されるだろう事への確信が、わたしたち見る側を今から期待させているのだとも。

c_a_nagaokac_a_nagaoka 2007/12/01 03:18 BigHopeClasicさん、はじめまして。
このブログを開設して、初めて頂いたコメントがこのように剛速球の言葉であったことが、本当に嬉しかったです。ご関心に応えられるよう、頑張ります。

新劇場版の制作スケジュールは、相当無理をしたものだったそうですね。正確な状況については制作関係者の証言を待たなければいけないですが、各劇場への搬入やプリントなども含めてどう考えてもギリギリだったでしょうし、お疲れ様でしたとしか言葉が出ません。僕もYahoo! の制作日誌を読んで、「これ、間に合うのか?」とはらはらしていたうちの一人です。今年2月から3月にかけてのロケハンで撮影されたと思しき素材が、そのままラミエル戦での変電施設内のパネルや空撮カットになっていましたね。また、日程がここまで押せ押せになったため、結局かつてのTV版の進行状況と似た環境下での作業になったことにも因縁を感じます。例によって脚本+コンテにかなりの時間を取られたのではないかと思うのですが、そうした乱調や混乱が、意外と作品の内容にも響いているかもしれません。

「あのミサトとの廊下でのダイアローグ」とは、ヤシマ作戦パート、説得に病院を訪れたミサトとシンジとの渡り廊下での対話です。一度観ただけの段階では、ミサトがシンジの手を取り地下へ連れて行くというその後の流れも含め、これは演出が逃げたな、シンジの問いかけを回避してしまったな、という印象を強く受けました。
旧版と新劇場版の違いのひとつとして、シンジが「死」という言葉を繰り返し発する点があると思います。この変更点は構成・脚本レベルで強く意識されているはずですが、実際、新しく90分に圧縮された新劇場版においては、シンジは使徒の襲撃に間断なく晒されているように描かれざるを得ない。エヴァに乗るということは死の危険を冒すことだ、失敗すれば死ぬかもしれない(にもかかわらず戦う理由が得られない)、という恐怖をシンジが一層強く持つ余地がそこには生まれるはずです。そこで『アニメスタイル』の小黒祐一郎さんのコラム「エヴァ雑記」http://www.style.fm/as/05_column/animesama35.shtmlを思い出したのですが、旧世紀版『エヴァンゲリオン』では、登場人物たちがほぼまったく視線を合わせないという指摘を小黒さんはされていました。一方、シンジはあの廊下でミサトに、自分が死ぬかもしれないことや、あなたたちは安全な地下で指令を出すだけではないか、ということを、はっきりミサトを見て問いかけています。状況を変えるには、そらしていた視線は相手へと真っ直ぐ向けなければならない。だとするならば、演出家は彼の問いかけを何よりもまず画面で受け止めてやるべきだったのではないか、換言すれば、ミサトがシンジの訴えにその場では答えずシンジの手を取る前に、同じ画面内で呼吸する人間として、まず二人を単一のカットの内部に置き、その場できちんと対話を成立させてほしい、と感じたんです。

ただ、その後観直してみたところ、その箇所も含め初回ほどの消化不良感はなかったんですね。シンジとミサトの間のドラマだけが問題なのでは当然ないですし。『ヱヴァンゲリヲン』という作品自体が、たぶん非常に微妙なバランスの上に立っていて、演出レベルで数箇所手を入れたくらいではどうにもならないような困難を――今回も、と言うべきなのでしょうが――抱えている。問題にするならそのこと自体を問わなければいけないだろうな、とちょっと考えを変えたんです。上の例で言えば、じゃあミサトには答えや確信があるのか。多分、いまの彼女はまだそれを持っていないんですよね。それならば多少ノイズが混ざっても、場所を変え、旧作にはない新しい映像やカット(例えばリリス)を描き起こすことによって、登場人物たちがTV版で経験し得なかった要素をまずフィルムに入れていってみようというのは一つの見識かもしれません。作劇上、いまシンジにリリスを見せていいのかという問題もあるはずですが、不確定要因をあえて大きく増やすことで、物語を今後動かしうる新しい方向性を探ろうとしているのかもしれません。BigHopeClasicさんの指摘ではじめて気付いたのですが、確かに『序』は第六話までのダイジェストにとどまらず、さらに進んで「テレビ版19話まで」を包含するような内容になっている。それも単にまとめるだけではなく、旧作の時系列に対し積極的に編集をかけていますね。例えば拾六、拾九話に該当する電車内の遣り取りを、『序』では冒頭直後に持ってくるというように、旧作の出来事の順序や心象風景の系列をシャッフルして、その意味作用を変えている。そのため旧『エヴァ』の持っていた演出技法の引き出しはどんどん空っぽになっていって、新しい演出を嫌でも出さざるを得なくなってしまう状況に自らを追い込んでいく。

『急』のあとの第四作まで既に脚本が完成していて、そこからの逆算で作っているのでは明らかにないですよね。庵野に限ってそれはありえない。アニメーションの制作プロセスそれ自体が、時にはその破綻さえ、彼にとっては表現の一部なのだということを、庵野秀明はこれまで多くのインタビューや自作を通じて直接的間接的に語ってきました。そしてそれは『ヱヴァンゲリヲン』でもほとんど変わっていないんだな、ということを画面から感じて、嬉しくなりました。彼のこのスタイルは制作現場に大きな緊張を強いますから、決して無条件にではありません。でも、過去作に見られたこうした姿勢を『ヱヴァ』が引き継いでくれたことは、やはりいい知らせのように思っています。