2010-06-02
■[作家と作品たち][エヴァ]対談 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』

2007年11月某日、渋谷のアミューズCQNで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』を観た。
公開初日から二ヶ月以上経っているとあって、館内にはリラックスした雰囲気が漂っていた。初日に並んで観にゆくほどではないが、あの『エヴァ』の新劇場版が作られることはもちろん知っており、こうして劇場がすいてくるのを待って、さて、とやってきたという感じの人が多い。こうした穏やかな期待の波に包まれて映画を観られることは、幸運なことだ。
上映終了後、同じ映画を見ていた七里(id:nanari)と出口付近で合流、無言で互いにうんと頷く。彼、七里について、このブログを読んでくださっている方に長々と説明する必要はおそらくないだろう。インターネットのブログ上における最高の書き手の一人だと言えば説明はそれで足りる。彼のブログ『七里の鼻の小皺』は2004年末に開設され、簡潔な読書メモとなることを目指していた当初の目論見を大きく上回りながら、マンガやアイドル、あるいはお笑いについてきわめて鋭い批評を提起しつづけてきた。彼との対話は常に真剣勝負になる。「ともかく、座れる場所へ」とだけ言い、劇場から出て、二人とも黙って公園通りを上っていった。
七里がよく使っているというSUZU cafeには入ることができなかったので、別のカフェを探す。ほどなく、暖色系の落ち着いた内装の店が見つかる。案内された席で、さきほどの映像の内容を思い出しながら30分ほどそれぞれメモをとる。頃合いをみて、劇場版パンフレット『EVANGELION: 1.0』や『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE1』、『CONTINUE』35号、『キネマ旬報』2007年9月1日号、『CUT』2007年9月号などをそれぞれ鞄から取り出した。10年前とは別種の緊張感があった。
以下に紹介する対話は、この後意見交換を行いながら、その内容を速記したノートを対談形式に再構成したものだ。ノートは一旦全てテキストに起こし、これを双方のレビューのもと、順次再配列・編集したうえで、最終的に七里が筆者となって再構成を行っている。
なお現在(2010年6月)、この対談のオリジナルを2008年1月4日付で掲載していた『七里の鼻の小皺』は一時的にプライベートモードに設定されている。そこで長岡が序のほか一部の記述を本ブログ向けに改稿した上で、七里の許可を得て、ミラーとして改めて掲載することにした。対談の内容そのものには、変更は行っていない。
●
七里 もうすこしこのままでいますか?
長岡 いえ、いいですよ。はじめましょう。
七里 まず、全体的な感想を聞かせてもらえますか?
長岡 傑作です。傑作だと思います。しかし、いいところと悪いところがあるというのが、第一の感想でした。良かったカットは、映画の後半部、ヤシマ作戦の部分に集中してしまうのですが、作戦準備のために働くネルフ職員や、作戦会議の描写、それから指揮通信車内のカットがとくに素晴らしかったように思います。葛城ミサトに作戦開始をさりげなく告げる際の、ネルフスタッフの切れのある芝居。暗いトーンで画面の周囲を落としながらも、張りつめた車内の雰囲気と空間性を巧みに構成した美意識など、ほんとうに強度の高い演出でした。良くなかったカットについては、映像的な話がすこし長くなってしまうかもしれないのですが、構いませんか?
七里 もちろん。お願いします。
長岡 では、つづけましょう。
七里 はじめつづけましょう。
1. 「再構築」作業について――画面サイズの変更
長岡 旧作の映像素材をもとにしてリビルドと称し「再構築」された、ヤシマ作戦以前の部分には、良くないカットが多かったように思います。元々テレビの4:3アスペクトの画面を想定して制作された映像を、今回はアスペクト比1.85:1という横長のビスタサイズに合わせて「再構築」しているわけですが、テレビ版の構図に引きずられているカットが多く残されていました。もとの素材を参照したため、当然のことながらワイド画面のポテンシャルを使い切る大胆な構図を取りにくくなったのでしょう。左右を切り落としてテレビ版と同じアスペクト比にしても意味が通ってしまう画が散見されました。またそれとは別に、都市や風景などロングショットに、はっとするような魅力あるものがすくなかったのも残念です。
七里 なるほど。どこか間延びしたカットが多かったという印象を受けていたのですが、その理由が分かったような気がします。
長岡 もちろん、テレビ版の素材を用いながらも、まったく新しいカットになっていると言える箇所もありました。演出の原口浩さんの証言によれば、旧作の素材を参考にしつつも兼用はせず、「再構築」部分は「実質的には全カット起こし直し」たものだといいます(新劇場版パンフレット『EVANGELION: 1.0』、9頁)。しかし単純に画角調整をして、デジタル化と後処理を施しただけのように見えてしまうカットもあって、そのなかには、もしも時間が十分にあったならこうはしなかっただろうという奇妙な構図のものが散見されます。
七里 具体例を挙げていただいても構いませんか?
長岡 悪い意味でとくに目についたのは、テレビ版のカットから上下を落としてトリミングしてつくられた映像です。たとえばテレビ版第壱話、戦略自衛隊の幹部に向かってゲンドウが「そのためのネルフです」と見得を切るシーン。あれは、画面下半分を覆うようにゲンドウの胸から上が描かれ、またネルフのスタッフや発令所の特大モニターなどが彼の背後に入り込むことによって、ゲンドウの自信と恫喝じみた迫力が伝わってくる名場面になっていたわけですが、しかし今回の劇場版のバージョンでは、画面下部が大きく切られることによって構図がずいぶんと窮屈なものに変わってしまっている。ゲンドウの鎖骨あたりまでトリミングしてしまっているため、下からゲンドウが顔を出すような構図になっているわけです。戦自幹部の視界に立ち塞がるようなゲンドウの威圧感、ネルフを「背負って立つ」かのような迫力は削がれ、演出意図も不明瞭になってしまっていました。
七里 12年前の旧素材に「修正」を加えるだけという、逃げの処置をしている箇所がたしかにあったようですね。
2. 物語の時間の「再構築」――想起とカッティング
七里 今回の「再構築」作業を考えるにあたって、TVと映画のメディアの違いについて意識しておく必要があるということが、いまの長岡さんのお話で、ぼくにも予感されてきました。その意味で、尺の長さが変わっているということは、きわめて重要だと思います。TV版の約20分の各話本編が、98分のひとつながりの映画になったことで、映像に別種のリズムが生まれていたようです。
長岡 TV版の各話放送は、ひとつのエピソードを語りきり、また次週にそれを語り継ぐという、切断と接続を前提としています。しかし今回の『序』には、一本の映画としての時間、TV版とは別種のスピード感をもった時間が生じていたように思われます。
七里 スピード感というと?
長岡 言い換えると、よどみのない連続性です。最近の劇場映画にしては珍しいほどに、冒頭から出来事だけが連続していくという感覚がありました。サキエルが登場しても、それに対するリアクションがすくない。TV版第壱話の、「15年ぶりだね」、「ああ、間違いない。使徒だ」といった類の確認の台詞は省かれ、またTV版のサブタイトルなども当然廃されて、非常に速度の早い映像になっている(逆に言えば、いかにTVがノイズに満ちた細部をともなっているかということでもあるが)。
七里 TV版冒頭の展開は、もともとスピーディーでしたが、その速度がさらにあげられているということですね。
長岡 はい。これはTV版から受け継がれた描写ですが、国連軍のVTOL戦闘機パイロットの「ウァァ!」という断末魔が無線から聞こえてきたあとで、サキエルの攻撃が命中する様が描かれる、というシーンがありますよね。動作の因果関係からするともちろん、サキエルの攻撃を受けたから断末魔の叫びがあがったわけですが、速度を重視するために、この因果関係が逆転されているわけです。まず結果を置き、視聴者に何が起こったのかを推測させつつ原因を描くというのは、庵野=摩砂雪ラインがもともと得意としている演出です。
七里 よく分かります。
長岡 いずれにせよ、連続した一本の映画をつくるために、シンジがエヴァに乗せられ、エヴァから逃げ出し、エヴァに乗り、エヴァから逃げ、また乗るという展開のリズムが明確になり、そのリズムが映画の論理を形づくっているということは言えると思います。その展開の流れが明確なので、すべてが滑らかに早く過ぎていくという印象があります。使徒が3体連続でやってきた、という連続性が、「読み切り」感覚のTV版にはないテンションをもたらしていました。使徒がいつ来るかわからない、だから逃げたい、でも乗るしかない。こうして、切迫感が強化されていたように思います。
七里 まったくその問題です。その点で、きわだっていた演出がひとつあります。映画が一直線の時間を描く、その結果として、「想起」の演出が過剰になっていたように感じるのですが。
長岡 いま、具体例が挙りますか?
七里 ヤシマ作戦の最後の局面、一度陽電子砲を外したシンジが、ケンスケとトウジの励ましの言葉(「シンジ、頼むで」、「碇、頑張れよ」)を想起する場面がもっとも象徴的だと思います。このような近しい過去の想起、「小さな想起」の場面は、この一本の映画のリズム・論理を途切れさせないように、ひとつの時間軸の進行を維持するために与えられていたように思われます。一方で興味深いのは、TV版第弐話のBパートにあったような「大きな想起」の場面、つまりサキエル戦の全体がフラッシュバック的にシンジの意識に戻ってくるというような、直線的話法を転倒させる大胆な演出が消滅していることです。
長岡 各話毎の放送ではなくなり、連続性をもった展開が尊重されるために、話法の大きな転倒は避けられる。そして、その連続性を糊塗するための「小さな想起」が目立ってくるというわけですね。
七里 TV版第弐話の「大きな想起」のあと、つまりあの戦いの記憶が戻ってきたあとには、「あなたは人に褒められる、立派なことをしたのよ」というミサトの言葉が、シンジの耳を不意打ち気味に襲っていました。しかし『序』では、ミサトの同じ台詞は、その不意打ちの衝撃力を失っています。むしろこの台詞は、その直後、トウジに殴られたシンジの頭のなかで再度鳴り響き、つまり想起されることによって、TV版の第弐話と第参話の間にあったはずの断絶を埋め合わせ、映画の一貫性を維持するための話法に従属させられているわけです。
長岡 今回の『序』でも、ベッド上に寝ているシンジに、サキエル戦の記憶が数カット、フラッシュバック的に想起されるシーンがありました。しかしそこでシンジは、不快な記憶の映像に襲われながらも目を見開いてベッドに横たわっているだけで、フィルムの精細な情報量によって支えられた現在時制の画面に揺らぎはありませんでした。つまりここでは、シンジの想起は充分になされていない。過去の戦いの記憶を、恐怖を、消化し受け止めることができないまま、物語の時間は彼を押し流していくようです。
七里 まったく、おっしゃるとおりだと思います。各話ごとに語りきるというカタルシスがない分、シンジの不安は、乗る・逃げるという反復運動のなかで、解消されずに募り、倍加しています。
長岡 テレビ版でも、想起の演出はありましたね。しかし特徴的なのは、そこでは物語時間を止めることがほとんどなかったということです。物語内の時間を一時止めて内面の想起へと入っていく、通常よくある「回想」の演出ではなかった。むしろしばしば、過去の情景を描いたカットを一瞬で多数挿入することによって、フラッシュバック的な想起を表そうとしていた。こうして、フィルムの時間を止めずに、なおかつ映像のショックによって過去が不意打ち的に侵入してくるさまを描くことが可能になるわけです。しかし、今回はそれがいわば「封じ手」にされているかのように姿を消している。大月俊倫はあるインタビューのなかで、エヴァに特徴的な、文字を多用した演出を、今回は「封じ手」にしたと言っていますね。
七里 『キネマ旬報』2007年9月1日号、30頁参照。
長岡 ありがとうございます。そこで大月は、かつての手法を自己模倣しないと宣言しているわけですが、『序』をみるかぎり、旧来のエヴァに特徴的だった高速のカッティングも、やはり「封じ手」とされているような印象を受けるわけです。
七里 なるほど。それで今回の映画版では、物語内の時間を止めた回想シーンが登場してきているわけですね。
長岡 おっしゃるとおりです。特徴的なのは、ヤシマ作戦のラスト近くでシンジが、「綾波ほどの覚悟もない。上手くエヴァを操縦する自信もない。[......]なんでぼくなんだ」云々と想起するシーンです(『序』のセリフは、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版検証スレまとめwiki」:[http://wiki.livedoor.jp/shingekijouban/d/FrontPage]から引用。拙文の表記にあわせ、部分的に改変をほどこした場合があります)。まるで往年の野球マンガで、ボールが投げられている間に選手たちの心内語が交わされるように、シンジの内面世界での回想が延々と描かれたシーンでした。これは正直なところ、すこし古くさい演出にみえます。
七里 カッティングの魅力は全体的に低減しているように感じていましたが、それが新劇場版の直線的な展開全体に係る問題であることが分かってきました。この点でもっともよい比較対象となるのが、1997年春の『DEATH』編ではないかと思います。『DEATH』では、テレビ版の各話放送のもつ切断のリズムを、まさに高速のカッティングによって代補していたように思います。一方で今回の『序』は、その切断を埋め合わせ、一直線の流れを構築することを目指しているようです。
長岡 「編集」という水準が、従来の高速カッティングのように分かりやすい形で今回出てきていないというのは、とても大きい問題だと思います。あのTV版の切迫感を象徴するのが、高速な繋ぎの多用であったと思うからです。東浩紀が「アニメ的なもの、アニメ的でないもの」(『Inter Communicaton』No. 18:http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/intercity/higashi_J.html)で評価するとおり、リソースのすくないはずのTVであの演出はまず何をおいても贅沢なものです。そして一方でそれは、映像を新規に動かす余裕がなくても、過去の映像素材をカッティングでもって繋ぎ直せば新しい運動になる、リソース無しで映像をつくり出してしまう、なによりも「エヴァらしい」演出だったわけです。
七里 よく分かります。
長岡 TV版では、制作リソースの不足がそのまま、ある種の切迫感の表現となっていました。このままではTVの画面が停止してしまうかもしれない、何もない映像が流れてしまうかもしれない、だから何とかして動かさなくてはならないのだという、あの退路なしの切迫感。『ナディア』や『エヴァ』において特権的に現れたあの緊張感が、今回の映画にはない。すでにある素材を、時間内にどの程度「修正」できるかが問題になってしまった箇所は、TV版に比べて弱くなってしまうでしょう。
七里 武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』に倣って言えば、停止と測りあえるほどの運動が、TV版にはありました。高速のカッティングによって物語の死せる断片と向き合う『DEATH』と、伸びやかな運動によって特徴づけられる(はずだった)『REBIRTH』とが表裏にあったことも象徴的で、エヴァには死・停止と測りあえるほどの生としての再始動・再運動がなくてはいけないのでした。
長岡 それでは、今回の映画になにがあったのか。というところで、新作部分の話に移りましょうか...。その前に、注文しても構いませんか?
長岡がホットチョコレートとチョコバナナサンドを注文したのを見て、七里は手洗いに向かった。隣の席の男女二人がちらちらとこちらに視線を送ってきている気配が先ほどからある。男のほうは立派な仕立てのスーツを――今日は日曜日だというのに――着ている。女も美しく着飾っているのだが、彼らは恋人たちというわけでもないらしく、要するにこの男は、この雰囲気のいいカフェで彼女を盛大に口説こうとしていたところだったようなのだ。そしてどうも彼の試みはさきほどから我々が繰り広げている会話によっていささか邪魔されてしまった感じなのである。まったく気の毒なことだが、もはやどうしようもない。トイレから帰ってきた七里に「失礼、再開する前に、まずはこちらをやっつけてしまいたいのですが。何しろこれは熱々が一番ですからね」などと断って、軽い焦げ目のつけられたチョコバナナサンドを食べる。当世風のカフェには珍しく、この店のチョコレートはとても甘い。
3. 新作部について――大人の事情
七里 なにか、妙に不安になっています。このまま、ぼくはこの映画を見失うのではないかという恐れが生じてきてもいます。長岡さんに道案内をお願いしなくてはいけません。新作部分は、2種類に分けられますね。ヤシマ作戦の部分と、それから序盤の「再構築」部分を繋ぐようにして作られた、細かい新作カット群です。絵コンテはそれぞれ、樋口真嗣さんと京田知己さんが担当しています(注:京田氏の作品への関わりについて、本対談末に新たに追記を行いました*1)。
長岡 はい。2種類に分けて考えるのでいいと思います。
七里 まず、京田さんの担当した新作カット群ですが、これは面白いものが多かったように思います。とくに大人どおしの会話や、大人の事情を描く地に足のついたシーンが多いのが目立ちました。たとえばネルフ内のバーで、「最近の男は、すべからく自分にしか興味ないのよ」、「女には辛い時代になったわね」といったことをリツコとミサトが語り合う場面には、「大人なエヴァ」の側面が色濃く出ていました。数度挿入される、リツコとミサトの対話のシーンがやはり印象的です。マヤと三人で飛行機に乗っているところも悪くない。そしてなにより、ネルフB棟のリフトの上でミサトとリツコが話し合うあの場面。脚をぶらぶらさせるミサト、背景のCG、三石の演技(「お尻が冷えてたまんないのにね」)など、すべて素晴らしかったと思います(『CUT』2007年9月号、87頁で、このリフトの場面の絵コンテを一枚だけみることができる)。
長岡 完全に同意します。
七里 大人の事情が多く描かれているという点を、すこし展開させてください。逃げ出したシンジが、尾行していた黒服たちに、「いいですよもう......ミサトさんのところに連れていってください!」と叫んだシーンなども、TV版にはなかったもので、ネルフ側の大人の事情と、それに取り囲まれたシンジの現状を明示的に表していました。また、シンジが初めてラミエルに攻撃を受けたとき、初号機からプラグを強制射出するとA.T.フィールドがなくなってしまうため、「最も憂慮すべき事態となる」という台詞がありました。これはつまり、初号機が大破してしまうことがネルフにとっての「最も憂慮すべき事態」であり、そのような事情のためにシンジの苦しむ時間が長引いたという点を強調した演出になっています。
長岡 同じことは、ヤシマ作戦以降の、樋口さん担当部分でも言えませんか?
七里 言えると思います。ヤシマ作戦でも、「ダミープラグは試験運用前の段階だ。実用化に至るまでは今のパイロットに役立ってもらう」、「最悪の場合、洗脳か」といったゲンドウと冬月の対話など、大人たちの事情が子細に描かれていました。作戦中の大人たちの地道な準備作業の描写も、この流れのなかに現れるわけです。
長岡 ヤシマ作戦は、ネルフ職員たちの活躍が、泥臭いまでに丁寧に描かれていましたね。作戦会議での興奮したミサト(あの鼻下からのカメラアングル!)と、クールなままのリツコ、前のめりに会議に参加している多くのネルフ職員たち、さらにはケーブルを手で引く一介の職員たちまで(彼らは、おそらくエヴァ初号機をほとんど肉眼で見たことがないので、それを物珍しそうに見上げたりしています)。戦自には「いろいろと貸しがある」といったミサトの台詞も、泥臭くて面白い。
七里 人事を尽くすのは大人たちなんですね。作戦前に病室の前で本を読んでいる綾波に象徴されるように、子供たちはそのときには待っているだけです。
長岡 ネルフ職員だけでなく、おそらくはシェルターに入れなかったのだろう、湖畔から戦いを見つめている市民なども描かれていますね。シンジやミサトが、それらの人々の中にあって、自分の役割を果たそうとしているのだということが、よく分かる演出になっていました。
七里 ミサトやリツコのような幹部職員が、先を急ぐために、手を挙げて輸送車を止めているシーンなどは象徴的でしたね。TV版ではメインキャラクターが、その他の一般職員や市民と関わる場面がすくなかったので。
長岡 重要なのは、一般職員や市民が背景としてではなく、死にうる人間として描かれているということですね。
七里 樋口さんの発言を引きます。「前のTVシリーズってネルフの人たちしか、そこにいないという感じがしたんです。誰かのために戦っているというより、謎を解くために戦っているように思えた。「住んでいる人たちを守るためにネルフの人たちも一生懸命戦っているんだ」っていう目的をもっと明確にしようと思ったんです」(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE1』、94頁)。この意図は明確に達成されています。これは、特撮的な想像力かもしれない。
長岡 これらの場面は、一言で言えば、リアリズムを意識している点で評価できます。そこでは、人間が死にうるものとして描かれる。ヤシマ作戦前、シンジが「死ぬ」という言葉を二度用いているのが印象的です(「嫌なんだよ、エヴァに乗るのが。うまく行って当たり前、だから誰も褒めてくれない。失敗したらみんなに嫌われる。酷けりゃ死ぬだけ。なんでぼくはここにいるんだろう」/「これで、死ぬかもしれない」)。
七里 シンジも命がかかっていて、逃げたいんだけれど、シンジの振る舞いによって生死の分かれる人たちがいる、という関係が明確になっているわけですね。
長岡 そのような意味で、旧版第伍話に描かれていた起動実験失敗の場面に、今回の新劇場版バージョンでは、綾波の出血が描き足されていたことを指摘しても無駄ではないのかもしれない。綾波の包帯というのは、旧版では記号性の高いフェティッシュなものとしてあったわけですが、『序』では現実の受傷箇所に対応するものになっているわけです。
七里 シンジが初めてエヴァに乗せられようとしている場面では、初号機がプラグなしで動きだし、落下してくるライトからシンジを手で守る、という場面が削除されていました。あの場面には、エヴァが母性的な存在であり、それに搭乗することが、父の組織のなかで働くことであると同時に、母体回帰をすることでもあるというねじれが、すでに予感されていたはずです。しかしそれが削除されることで、エヴァに乗ることのうちに無意識に秘められていたはずの母体回帰願望がみえなくなる。そうして新劇場版では、傷ついた少女を危ない目にあわせられないという健康的な理由に、初号機に乗る理由のすべてが掛けられることになったわけです。この問題も、死にうる人たちのために戦うという問題設定のなかで考えることができそうです。
長岡 『序』では、「人類を守る」といった言葉があらたに用いられはじめ、目的が強調されていることも面白いですね。このように、他人の命のために戦うという目的を再認識しているところも、大人の事情から目をそらさない、新劇場版の美点かもしれません。
長岡 「大人のエヴァ」という話を敷衍させた問題意識なのですが、人間同士の衝突とふれ合い、ダイアログをきちんと描くというのが、新劇場版の新しい挑戦となるような気がしています。小黒祐一郎さんが、まったく見事なエッセー「エヴァ雑記」のなかで、旧版『エヴァンゲリオン』では登場人物たちが目をあまり合わせていないと指摘されていました(『アニメ様の七転八倒』第35回:http://www.style.fm/as/05_column/animesama35.shtml)。小川びいさんの発見に基づいてなされたこの小黒さんの指摘は、基本的には新劇場版にも妥当します。新たに付け加えられた、シャムシエル戦のあとのミサトとシンジの対話の場面などは、まるで視線の出会わない、ディスコミュニケーションそのものの表現です。
七里 異論ありません。つづけてください。
長岡 しかし変化の兆しがありそうなのです。非常に興味引かれるのは、ヤシマ作戦の前、ミサトがシンジを渡り廊下で説得する場面で、シンジが一度だけミサトに視線を送っていることです。あそこでシンジは、自分が死ぬかもしれないという恐怖を、ミサトを見ながら言葉にしています(「恐いんですよ。エヴァに乗るのが。ミサトさんたちはいいですよ、いつも安全な地下本部にいて命令してるだけなんですから。ぼくだけが恐い目にあって。ミサトさん達はずるいです」)。しかしミサトはシンジの訴えに、視線と言葉で答えることをしませんでした。彼女はシンジの手を取ってリリスをみせにいく前に、同じ画面内で呼吸する人間として、単一のカットのなかで、対話を成立させるべきだったのではないかと思えてなりません。
七里 なるほど。問題意識はよく分かります。もちろんミサトはその後、シンジの手を引いてターミナルドグマへと連れていき、リリスが「サードインパクトのトリガー」となっていること、ネルフの職員たちはみな、使徒と刺し違えてもサードインパクトを未然に防ぐ覚悟であることを語るわけです。それはつまり、シンジの死の恐怖の訴えに対して、自分たちも同じ恐怖を抱えていることを示すというかたちでコミュニケーションを計ったのだと理解することもできそうです。しかしいずれにせよ、それがまだ視線と言葉の対話にはなっていないわけですね。
長岡 視線と言葉以外のコミュニケーションがみられるのも、大きな変化の兆しだと思います。鶴巻さんがインタビューで、「ミサトがシンジの手をひいたのが印象的なんですね。エヴァって、キャラどうしがあまり触れ合わないんですよ。孤立している人たちが口先だけで接してまた離れていくみたいな感じだった。接触する芝居は作画的に手間がかかるという事情もあったんですけど、それがエヴァの独特な雰囲気をつくってましたよね。なのに、今回は違う」(『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE1』、113頁)と語っていますね。
七里 ミサトがシンジの手を引くシーンでは、さらにシンジがその手を握りかえしている演出が面白い。鶴巻さんが同じインタビューで、その演出の成立背景を詳しく語っていますね。とても興味深いので、以下に全体を引いてみます。「そのシーンは二転三転してるんです。2人は手を繋いだまま、セントラルドグマへと降ります。脚本では「手を握ったまま」という描写はなかったんですが、コンテで足してみたんです。そのまま通ったんで、あ、この方向でOKなんだなと。ただ、握り返すシーンは僕のコンテでは、もう少しさっぱりしたものにしてた。ミサトの真意を知ってシンジからぎゅっと握り返すというような。でも庵野さんが、もう少しTVのシンジも残したいと言って。だから庵野さんのコンテ修正では、ミサトがさらに強く握って、シンジは握り返さないことになってたんじゃないかな。シンジが「乗ってみます」と言ったのに対し、ミサトが手を握ってこたえるところまで。それで作画に入ったんですけど、今度は松原さんのほうから、ここは握り返したほうがいいんじゃないかって話が出て。議論のすえ、現行の「ミサトに手を握られて、おずおずと握り返すシンジ」バージョンになったんです。このシーンが入ったことで、結果的に今回はまっとうな人たちの話になった気がします」(同書、114頁)。批評的な作家らしい鋭い分析で、とくにつけ加えるべきことはありません。
長岡 庵野秀明が、手を握り返す「まっとうな」交流に、一度待ったをかけたというのが面白いですね。
七里 まさにその手を握るシーンの艶かしさが代表的ですが、今回の新劇場版には、ミサトとシンジが男女であることを意識させる場面が、何度かありました。1997年夏の『THE END OF EVANGELION』では、二人のキスの場面によって、ミサトとシンジが男女である事実が唐突に前景化され、奇妙な印象を残していたように思うのですが。
長岡 『序』では、リツコとミサトのバーでの会話も面白いですよ。「まだ緊張してるの? 男と暮らすの初めてじゃないでしょう?」、「8年前とは違うわよ。今度のは恋愛じゃないし」、「それはどうかしら。シンジ君、あなたがいるから残ったんじゃない?」。リツコがシンジを「男」と言ってしまっているのが、いままでとははっきり違いますね。
4. 新作部の作画について
七里 すこし物語の話にのめり込んでしまいましたが、その新作部分の作画についてはいかがでしょうか? 今回の映画は、見せたいところと、そうでないところがはっきりしていて、全体としてはヤシマ作戦の映画になっているという印象があるのですが。
長岡 同じ印象をもちました。ヤシマ作戦で持ち直したな、という感想です。
七里 たしかに、後半部の作画の水準は高いですね。しかし、TV版にあった高速のカッティングが失われているという話がさきほど出ましたが、それに代わるような作画の方向性というか、方法論を欠いていたように思うのですが。
長岡 そうですね。京田さんの手による*2、ミサトとリツコがともにいる新作カットは、構図は面白いけれど、運動の面白さがあるとは言いがたい。垂直に発射されるミサイルや、丸い電力計、360°全方向に発射されるレーザーなど、旧来のガイナックス作品からのイメージが自己引用されている部分は、とても面白かったですが、これは庵野お得意のパロディで、目新しいというものではありません。結局、運動として面白かったものとしては、ヤシマ作戦部分での人物の移動ショットが挙るような気がします。場面をまたぐ長いショットがエヴァで使われるのは目新しく、興味深くみました。しかしこれは樋口経由の特撮テイストが強いようで、これが庵野秀明のやりたかったことなのか、意識的に採られた新しい方向性なのかはよく分かりません。
七里 特異なカッティングで注意を引きつける方向性を捨てて、特撮的な想像力に向かうというのは、庵野秀明の実写作品でもみられた傾向ですが...。
長岡 いずれにせよ、「破」はまるで違う展開をみせる可能性がありますから、現段階で庵野秀明の今後の方向が示されたと考えることはできないような気がします。
七里 今回あたらしく導入された表現法として、CGがあるわけですが、この使用についてはいかがでしょう? 個人的には、CGが使われる箇所が見事に統制されているという印象を受けました。どこをCGにするか、とてもよく「分かっている」という感想です(具体的な事情については、パンフレット『EVANGELION: 1.0』の11頁を参照)。ヤシマ作戦を準備するメカや機材(あるいは、電車や電柱、電線など)にほとんどCGが使われておらず、機材の物質観と、働いている大人たちの泥臭いまでの熱量が描き込まれていた点が、なんともすばらしかった。その一方で、使徒はCGで作り込み、無機質的な動きを追求している(ラミエルの豊かな構造!)。この選択がすばらしかったと思います。
長岡 異論ありません。ネルフのコンピュータ上の画面などでは、CGが見事な効果をあげていたように思います。
5. その他、細部の印象
七里 なにか、すこし議論めいたものがはじめられそうな予感もしてきましたが、ここであえてすこし肩の力を抜いて、話を細部へと広がらせてみましょうか。「スタジオカラー」の手書きのカタカナ表記がちょっと「スタジオジブリ」の筆跡に似ていてかわいいとか、「THE END OF EVANGELION」以来の赤のイメージが強いとか、あるいは、いわゆる「ループ」ものになっていることについてなど、なんでも構いません。吐き出してください。
長岡 そうですね。「チルドレン」という名称が、新劇場版で使われなくなっていたことが、興味深かったですね。代わりに、「適格者」という語が用いられている。それとあわせて考えたいのが、TV版第四話にあたるシンジの逃走です。あの逃走劇は、TV版バージョンではじっくりと描かれていたものですが、新劇場版では高速で処理されていたように思います。TV版が放映された当初、「14歳の少年の苦悩」が描かれるのがすごいんだという評価のされ方がありましたが、おそらく1997年の旧映画版の時点で、すでにそういう問題は時流に遅れはじめていた。そこで2007年の新劇場版では、「14歳の少年」の特殊性が、「チルドレン」という言葉とともに後景化しているのではないか。これは、「大人のエヴァ」になっているという、われわれのいままでの話とも係る問題ですが。
七里 なるほど。新劇場版では、シンジの葛藤は「シナリオどおり」だと冬月に言われていますね。逃げ出したシンジを、つねに黒服たちが尾行していたという場面を挙げてもいいですが、いずれにせよこの映画は子供たちの一回的な苦悩や情熱ではない論理にしたがっているという印象があります。旧作でまじめに生きられていたはずの内面劇よりも、むしろ大人たちの冷静なやり取りの方がクローズアップされているようです。
長岡 シンジの内向の問題は、あまり掘り下げられずに、むしろ象徴的に済まされてしまっている。その点でとくに重要なのは、やはりイヤホンですね。シンジが「逃げ出した」場面で、つねにイヤホンをつけていることから、この自閉的なアイテムの象徴性がさらに増していたように思います。
七里 ところで、シンジが使っているのが、mp3プレイヤーなどになっていなかったのは、ひとつの見識だと思いました。音楽テープの物質感と、「25、 26」曲目を反復する触覚的な味わいが残されていて、よかったです。
長岡 あれは、DATウォークマンがモデルですよね。業務用以外では、オーディオマニアしか使っていないものですから、中学生があれをもっているのは不思議です。どっしりとした存在感があって、面白い選択ですね。
長岡 すこしだけ作画の話に戻ります。スピード感のある処理がなされている箇所と、物質感のある重い描写とが共存しているという、肯定的な感想です。たとえば対サキエル戦。サキエルに向かう初号機の突進、初号機を迎え撃つべくゆっくり上体を起すサキエル、頭部を破損しうなだれる初号機などのシーンの重量感は見事です。そしてやはり「暴走」の場面ですね。TV版と同様、一瞬アブノーマル処理されたシンジの表情アップが挿入されるわけですが、彼の反応を待つことなくTV版よりもさらに高速で出来事がすすんでいきます。シンジの意志などお構いなしに使徒を殲滅する初号機の体の重さ。グイーン。初号機の振り向き、左腕部復元。バババ。
七里 痛い痛い。分かりました、やめてください。たしかに使徒との戦闘シーンは見事でした。
長岡 一方で、新作カットの空中投下ミサイル、ロケットの発射カットなど、カット頭の初動は鈍めに動き、カット尻で瞬発するような、重厚な構成を狙ったカットも存在する。その代わり、旧版で目立っていた、サキエルが大型ミサイルを引き裂く非リアリズム的描写(磯光雄原案と言われる)は消滅している。荷粒子砲が命中し溶ける山、ポジトロンライフルのヒューズ交換なども、こうした鈍さとスピード感の使い分けが活きた、力のあるカットでした。
七里 個々のキャラクター、あるいは声優に関してはどうでしょう。個人的には、やはりミサトの三石琴乃が目立ったように思います。マンションに入る場面、「ここは、あなたの家なのよ」などの台詞は、TV版ではやや神経質さを強調したものでしたが、今回のバージョンでは、暖かさと人間的な懐の広さを増していました。ある種の成長を感じさせます。
長岡 同意します。大人の情感がありました。
七里 綾波役の林原さんは、変わらないですね。変わらないすごみを感じる。シンジ役の緒方さんは、その点で言うと、結構変化しましたね。叫ばないシンジ、という印象が強かった。ラミエルを倒した直後、綾波に駆け寄る際の、「綾波!」という台詞も、TV版よりもずいぶん落ち着いていたように思います。シンジには二回、混乱のまま上手く喋れないという場面がありますが(ペンペンをお風呂でみたシーンと、レイのアパートでのドタバタ劇)それらは二回とも今ひとつよくなかったように思います。
長岡 ゲンドウ役の立木さんの演技と声質は、さらに冷たく、重厚になっていてよかったですね。
七里 リツコの山口さんはやはり変わらず、作品世界への没入度が低い印象があって、それがリツコの立場とうまくかみ合っているような気もしますね。三石のミサトの、強烈な入り込み方と対照的です。
長岡 リツコさんは、冷徹さがさらに増しているのを感じました。陽電子砲の照準についてのシンジの質問を強引に遮断するところなど(「じゃあ、もし外れて敵が撃ちかえしてきたら……」、「今は余計なことを考えないで。一撃で撃破することだけを考えなさい」)、シンジを道具扱いする姿勢が強く出ていてよかったです。すでに七里さんが指摘された、ラミエル来襲時にシンジの生命より初号機の機体の保全を重視しようとする場面(「今パイロットを失うとエヴァのA.T.フィールドが完全に消失してしまう……最も憂慮すべき事態となるわ」)にしても、背景のゲンドウをバックに、彼の陰を背負うようにしてリツコが描かれている点が興味深いですね。彼女は見事に、ゲンドウの権威の代行者として振る舞っているわけです。
七里 しばしば指摘されている、「ループ」の問題についてはいかがでしょう。夏の映画版以来の「赤い海」がすでに描かれていることや、あるいは最後のカヲルくんの台詞(「また3番目とはね。変わらないな君は」)などから、今回の映画版が、旧来のエヴァの物語を一度経たあとに、もう一度同じ物語を再話している世界であろうということがしばしば言われています。庵野秀明が「所信表明」においてすでに、「「エヴァ」は、くり返しの物語です」と記しているのも示唆的です。エヴァがそもそも、あらゆる決断が空転してしまうような反物語のなかで、アクロバティックに物語と主体性の意味を再生させようとした作品である以上、この「ループ」的世界観は、すぐれてエヴァ的な結構であると言えそうです。
長岡 物語の「ループ」だけに注目するよりは、むしろエヴァのイメージのあり方、隠喩の体系が、きわめて本質的なループ構造をなしていて、旧作と今作を繋いでいるということを意識しておく必要があると思います。ご指摘された海の赤にしても、TV版ですでにさまざまな液体の表象があり、また外傷のもたらす血の赤の表象(たとえば、後半で頻出する残虐描写)がありました。そのうえで『THE END OF EVANGELION』の、あの赤い海が、羊水の隠喩を帯びつつ生まれてくるわけで、今回の赤い海にしても、そのようなイメージの体系のなかで現れているということは考え落とせないでしょう。
七里 イメージの自己引用が繰り返され、ループしてあるわけですね。
長岡 電車のイメージなどが、例として分かりやすいかもしれません。電車は、TV版拾六、拾九話では物語内時間に対応しない、特権的な対話の場になっていましたね。その電車内での対話のイメージが、新劇場版では冒頭直後にすでに描かれてしまっている。映画冒頭で、地中に多くの電車が逆さまに突き刺さっていたことも、このイメージの連鎖から派生した表象とみていいのでしょう。
七里 既存のイメージを自己引用すること。これは、エヴァというフィルム全体を駆動している、自己増殖の原理です。ビデオ版21-24話がリメイクされた際に、『THE END OF EVANGELION』で用いられたイメージが大量に自己引用されていることなどについて、われわれはすでにかなり長い時間を使って議論してきましたね。
長岡 おっしゃるとおりです。
七里 この対談よりも時間的に後のことになるのですが、『灰かぶり姫の灰皿』2007年11月20日付けの記事のコメント欄で、BigHopeClasicさんが、新劇場版が旧版六話までのみならず、それ以後のTV版後期エピソードの物語要素まで先取り的に取り込んでいるとされていますが、これはまったくたしかな指摘だと思います。
長岡 同感です。したがって問題は、広義のバンクシーンの使用にも係ってくるはずです。戦車・多連装ロケットの描写などには、『REBIRTH』編からのバンクが利用されていましたし、旧版参話該当部分では『DEATH』編からのレイアウトの転用がみられます(リツコが「人の言うことには大人しくしたがう。それがあの子の処世術じゃないの」と発言する場面での、管制室内のレイアウトなど)。この観点からは、ヤシマ作戦終了後、零号機のエントリープラグをプログナイフでこじ開けた場面も、TV版第拾八話バルディエル戦の描写を先取りしたものとして見えなくもない。
七里 ひょっとすると外部作品からの引用よりも、自己引用の方が、エヴァというフィルムの運動にとって本質的な問題かもしれません。リソースが不足しているなかで、自己模倣・自己引用を繰り返してでも映像を動かしていくところに、庵野作品の独特のテンションと、日本アニメーションに対する庵野の内在的な批評があったのではないかという直感があります。
長岡 ゼーレの面々が最初からモノリスの姿で描かれていることも、急いでつけ加えておきましょう。
6. 語り直すこと――TVの条件、映画の条件
七里 はじめる前より、ずいぶんと視界がクリアになってきたような気がしています。やはり、TV版のためにつくられた映像が映画版になったことによって、画面サイズや、物語内の時間の流れ方などなど、さまざまな変化が生じているということはたしかなようです。
長岡 物語内の時間が一直線になったことで、演出に変化が加えられているという点は、やはり重要ですね。指摘し忘れたことで重要だと思われるのは、都市表象の問題です。TV版では、ちょうど各週放送の特撮シリーズ番組がそうであるように、一度都市が破壊されても、別のエピソードがはじまればそれはいつのまにか修復されていました(この点については、以下のすぐれた論文を参照:松田達「第3新東京市の終わりなき日常」、『エヴァの喰べ方、味わい方』所収、139頁参照)。しかし新劇場版では、都市の時間も一貫していてリセットされず、破壊のあとがそのままに残されていました。
七里 すばらしい指摘です。一話に一体ずつ使徒がやってくるというTV版の構成は(それは、特撮ものの構成でもありますが)、本来映画版の文法ではない。「破」の予告が、使徒を単位としたものではなく、弐・参・四・伍・六号機(!)までのエヴァを単位としたものとなっていたのも、そのためですね。
長岡 新劇場版では初号機の射出シーンが幾度か描かれていますが、アングルを工夫することで、それぞれを違ったものに見せようという意識がみえるのは、興味深いですね。この射出シーンは、各話放送のTV版であれば、まったく同じものを放映しても違和感がなかったはずのものでした。しかし、一直線の時制をもった劇場版では、そのシーンを修正して、変化をつけていく必要に迫られる。ここに、反復に基づくTV版エヴァの尾てい骨をみる思いがあります。
七里 このように考えていくと、今回の新劇場版のさまざまな変更点が、TV版の条件を逆照射してくれる側面があるように思われます。エヴァはクリティカルな作品ですが、そのクリティックは、TVというメディアの条件に向かうものでした。エピソード毎にリセットされる各週放送という枠組み、そしてあの、TV特有の狭小な画面。エヴァという作品が格闘していた条件を、『序』は思い出させてくれるようです。
長岡 そう、まさにその点で映画版を評価できるような気がしています。
七里 本当にそうです。よかった。
長岡 冒頭でぼくは、旧作を劇場版に「再構築」する際の手法について否定的に発言しました。何もかも自由なはずの劇場公開作で、なぜ過去を引きずった画面を創るのかと。しかし見方を変えれば、それは『ヱヴァンゲリヲン』がTVという旧い、異種のメディアを避けがたく参照し、また同時にフィルムという新しい媒体の条件を問いながらすすんでいくような作品たらざるをえないことも予感させます。庵野秀明がエヴァンゲリオンという作品を「再構築」し、「エンターテイメント」を目指すと発言した際、自分はこれから過去の仕事にもう一度立ち向かうのだと彼は言おうとしていたのだと思います。過去を忘れ去るのではなく。
七里 不安な映画でした。
長岡 よく分かります。
七里 不安の連続のような映画です。さまざまな恐怖を十分消化し受け止めることができないままに、一直線の物語の時間がシンジを押し流していくという話を長岡さんがしてくださいましたが、まったくそのとおりで、新劇場版で彼に襲いくる不条理の度合いはさらに強くなったように思います。
長岡 物語が、人の生き死にの問題を明確に意識しつつ切迫感を増している分だけ、シンジの不安の出口がみえなくなっていました。
七里 ヤシマ作戦を経ても、シンジはまだ戦う理由を見いだしたわけではないのでしょう。「綾波ほどの覚悟もない。上手くエヴァを操縦する自信もない。理由も分からずただ動かせてただけだ。人類を守る? こんな実感も湧かない大事なことを。なんでぼくなんだ」と戸惑っている。あそこでは、想起される友人との間のかすかな「絆」が、さしあたりの理由として機能しただけです(トウジの、「碇。いや、シンジと呼ばせてくれや」というセリフは、いま出来上がりかけている友人関係の表現となっている)。だからこそ映画は最後、綾波と手が結ばれそうになるところで終わるわけです。完全に手が結ばれずにあること。ここに「you are (not) alone」というサブタイトルの含みと希望がともに、たしかな「序」の、はじまりの予感としてあるような気がします。
長岡 このような不安の連続の物語に、もう一度向き合い、再話しはじめてくれたことに感謝したいですね。
七里 まったくです。まったくそうなのです。何度でも、語り直すことが重要なのです。そのたびに、前にすすめるような気がします。われわれも、「破」に向けて語り直しはじめることにしましょう。
そうしてわれわれは、永遠があるようにして、喋りつづけていたのである。
*1:(2010/06/05追記)――本対談の続く部分には、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』のいくつかの箇所について、京田知己氏の担当によるとの想定に基づいて話し合われている部分があります。このことについて、我々が対話を行った2007年11月よりも後に出てきた資料・証言によって、我々の想定と実際の制作過程の間に一致しない点があることがはっきりしました。対談時、我々が京田氏の担当箇所だと考えていた部分に、その他の制作陣の手が事後に大きく加えられていた、というのが、その要約です。したがって、これから先の部分で京田氏の仕事として言及される部分については、逐次、「京田氏と、その他の制作陣による」作業箇所であると読み替えていただければ幸いです。
京田知己氏は2008年5月にカラーより発行された公式資料集『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 全記録全集』でインタビューに応じていますが、そこで氏が担当した『ヱヴァンゲリヲン:序』の新作パート(樋口真嗣氏担当「ヤシマ作戦」以外の新作パート)のための画コンテが、最終的なコンテにほとんど残っていなかった、という発言を行っています。インタビュアーの「TV版の話数と話数の間にあるキャラ同士の絡みのところが[担当範囲の]中心と聞いてますが、それで良いのでしょうか」という質問を「ええ」と肯定した上で、京田氏は次のように発言しています。
「僕としてはシナリオと、打ち合わせのときに聞いたイメージを自分なりに膨らませて描いてみるという感じでした。ただ最終的な鶴巻さんたちの監督修正が入ってまとまった画コンテを見たら、僕のコンテはほとんど残っていなくて、それ以上に、そもそも打ち合わせで聞いたものとはまったく違う印象のものになっていたんですね。ト書き自体が変わってたり、シナリオから受ける印象とは違うシークエンスになっていたり、あまりにもシナリオと上がったコンテの中身が違っていたので、「こっちの方向へ振るなら、最初から言ってくれればいいのに」というのが、正直な感想でした」(356頁)と氏は率直に証言しています。京田氏へのインタビュー頁には、氏による新作・画コンテ準備稿が二シーン分掲載されていますが、氏の証言通り、それらはいずれも完成作品にはそのままの形で残っていません(片方は該当するシーンそのものが完成作中に存在しません)。また、我々の対談中で言及される、トンネル内リフト上でのミサトとリツコとの会話シーンについても、『全記録全集』に併録された『序』の画コンテである「ヱヴァンゲリヲン 新劇場版 01 A PART」では、京田氏のものとは明らかに違うタッチ(恐らく鶴巻和哉監督によるもの)で画面欄と内容・音声指示欄が描(書)き込まれています。
これら三つの点と、京田氏が自身の切ったコンテが最終コンテに「ほとんど残っていな」いと感じたという感想とは、強く符合します。また、『全記録全集』の以前にも、京田氏は2007年10月に刊行された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 ENTRY FILE1』(角川書店、2007年)で既に同趣旨の発言を行っています。氏は同書所収のインタビューで、『ヱヴァンゲリヲン:序』につき、「最終的には参加を決めましたが、ただその後の監督修正で、僕の画コンテは本編にはほとんど残っていませんでした。趣味が合わなかったのかもしれませんね」(99頁)と発言しています。
『全記録全集』と、同書併録の画コンテの出版によってこうした点がより明確になったこと。京田氏が、自身の参照したシナリオとは全く異なった印象を監督修正が入った最終的な画コンテに感じた、という証言を残していること。これらから総合すると、庵野総監督をはじめとした監督陣の作品構想そのものの変化もあって、京田氏の画コンテには多大な監督修正が加えられ、結果として京田氏より提示された画コンテが最終的なコンテには大部分残っていない、という事態に至ったと考えるのが妥当なようです。(『灰かぶり姫の灰皿』長岡・記)
*2:同上。

![キネマ旬報 2007年 9/1号 [雑誌] キネマ旬報 2007年 9/1号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51A%2BcVyY3QL._SL160_.jpg)
![Cut (カット) 2007年 09月号 [雑誌] Cut (カット) 2007年 09月号 [雑誌]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51eyHKTLIIL._SL160_.jpg)


