
長岡。
消すか残すか決めていない文章をまれにこの欄で書いていることがあります。
ご連絡は、ca_nagaoka@livedoor.comまで、お気軽にどうぞ。
2012/4/4
今年度はけっこう忙しくなりそうなのだが、どうも気が抜けてしまっていていけない。そろそろしゃっきりしないと。
僕がなぜこのプロフィール欄を使い始めたかというと、ここは表のはてなダイアリーよりもずっとシンプルで、更新も気軽にできたからだった。今は更新するのに階層を掘り下げないといけないし、わけのわからない文字数制限は相変わらずあったりで(二万字あたりでそうなるようだ)、この欄を使い続けるメリットは薄くなったように思う。
思うんだけど、まあ、要は慣れた仕組みを使えばいい。結局ちょっとした更新はここでやってしまいそうな感じがある。ここを使い出した理由はもう一つあって、それは、文章中のキーワードが抽出されてそれが相互参照されてしまうという、数年前には珍しかったはてなのシステムに、少々辟易していたからだった。このプロフィール欄ではそういうことはない。ここを誰がどういうふうに見ているかや、僕が書いたことにどこかからリンクされて言及されていたとしても、そのことはすぐ分からないようになっている。検索すればだいたいは分かるけど、僕はそんなにやらない。言及と反応の間に時差ができるわけだ。そこがいい点だ。
人間は特に誰かを相手にしないでも物を言ったり書いたりしたくなることがある。そういう私的な言葉は誰かとコミュニケーションすることを第一の目的としていないし、多くは熟慮を伴っていない。なら、そういうテキストを一切合切検索可能にして、遠い将来の歴史家をうんざりさせるような真似は止めるべきだ。といってそれらに意味が全くないというわけではない。何気ない一言でも、それはその言葉を口にした人間を本気で考え出させることがたまにある。だからひとは独り言を言うことを止めてはいけないが、それを他人にいちいち聞かせて回るのは迷惑なことでもある。つまり、放言は適当にアクセス不能にしておき、適当にアクセス可能にしておく必要がある。
というわけで、ここなわけだ(だから何なんだよという感じだが)。基本的に日記的なことはこれからもここに書くつもりで、それはあとで取捨選択して、表にまとめて一つの記事として上げるつもりだ。ここを読んでくださっている方は、ここだけアンテナ類に入れておいていただいて問題はないと思う。ただ、即時的に何か意見したい場合はそれでは間に合わないので、表にいきなり書くしかないだろうし、それとは別にいくつかじっくり考えてみたいこともある。ここを介さないではてなダイアリーを直接更新した場合は、その旨ここに書いておくことにします。
うん。今日は事務連絡だけですね。最近は、学生時代に少しやっていたトレッキングがまた面白くなってしまって、時々出かけています。今冬は冬山登山にも二度ほど行けました。その話もしたいですし、他にもいろいろと。
七里くんの『七里の鼻の小皺』、プライベートモードになってから随分経ちますね。時々読みたくなります。ポチッと公開に戻してくれると嬉しいんですが。今度彼に連絡するついでにでも言っておくことにします。
2012/3/18
私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ
あ、この欄でもアマゾンの書籍の貼り付けはできるんですね。
倉数茂『私自身であろうとする衝動』(以文社、2011年)を読んだ。正直なところ、評価に迷うところがある一書だと思う。筆者の拠っている参照枠や用語がかつての『批評空間』周辺を強く想起させるもので、その点、それらにある程度は親しんでいた僕個人はすいすい読めてしまうところがある。他方、そのような議論に全く無関係の読者がこれをどう受け取るかが気になるところ。
各章に卓見と言いたい指摘がちりばめられていると思う(あくまで一例だが、ドゥルーズの他者概念に拠りつつ宮沢賢治のテクストに他者性が欠けている、と指摘したところなど、おお、と思った)。他方で、いわゆる文学研究のディシプリンにある人間で、ここに取り上げられた個別作家の研究に携わっている人間は本書に食い足りなさも感じるかもしれない。保田與重郎における「美的アナキズム」の崩壊など、もう少しじっくりと議論を読んでみたかったように思う。
とはいえ、僕は最終章「美的主体の行方」の議論には大賛成。そこで倉数は、本書が主に扱ってきた大正・戦前期の美学言説からはみ出して、戦後の状況を一瞥している。戦後の大衆社会では、戦前の美学至上主義――「美的主体至上主義」とでも言うべきかもしれない――が依拠したような「大衆、ないしは民衆のなかに直接的な生の現れをみる態度」が再度可能になっているようにみえる。ところが筆者によればそうではない。それはサブカルチャーをみることで確証される、という。
芸術の自律性とは、芸術が真や善の領域に依拠することなく、自らを産出できるということを意味していた。この場合、真や善とは、科学的認識や因果法則、権力を支える制度や法をも含む。そして芸術の優位は、この自律性を通して人間が自らの内なる自然の能産性を解放し、人間の絆、すなわち社会体を産出できると信じられるということだった。美的アナキズムとは、こうした発想を極点まで突き詰めたものにほかならない。
しかし、サブカルチャーに定位するとき、こうした発想は疑わしいものになる。それらは、一時期アンダーグラウンドカルチャー(アングラ)と言われていたことからもわかるように、あくまで社会の全体性という観念に、敵対的にふるまうものだからだ。むしろそれらは、社会の複雑性が爆発的に増大し、もはやすべてを俯瞰できる視点などありえない、という感覚に親和的である。(282頁)
こうした分析はとてもよく理解できるものだ(倉数が「動物化」という表現を用いていることからも分かるように、著者はここで21世紀の状況を明確に念頭に置いている)。「サブカルチャー」も「アンダーグラウンドカルチャー」も、今や歴史的概念であるには違いないけれど、しかし今日の細分化した文化状況が、単一の社会体なるものの俯瞰(最早それはありえない)よりも、自らを取り巻く情報の複雑性の「縮減」をそれぞれに任務にしていることは明らかなことだろう。そこでマスターになるのは、「当然自然の能産性[という単一の理念の自己実現]などではなく、無限に利潤を追求していく資本の運動に見いだされるほかはない」(著者)、ということになる。いかに芸術が「過激」で「新奇」なものとして示されようと、それは結局資本の運動への従属に基礎づけられていることになってしまうわけだ。
この戦後〜現在に至る分析は、例えば椹木野衣『日本・現代・美術』が、戦後のアヴァンギャルド美術に見いだした「悪い場所」の生成とその無限反復の論理と響き合うところがあるように思う。また、そのような意味で、本書の「戦後篇」を読者は期待してよいのではないか。
「文学研究」の狭い範疇にとどまらない、領域横断的な見通しの良さを与える一冊だったと思う。そしてここからいろんなことが考えられそう。面白かった。
2012/3/13
過去三年くらいのメモのうち、一部を本欄に戻してみました。
2012/3/3
しばらくここで書かないでいた。しばらくどころではない。数年間だ。驚くべきことと言うしかない。
はてなというか、ブログで書いている人は今どれくらいいるのか、よく分からない。一時期より間違いなく減っただろう。確かにTwitterは便利だ。140字という制限は少ないように見えて、日本語だと実は結構いろんな事が書ける。まとまったことが言いたければ、きっちりメモを書いてそれを順に5,6ポストもすれば、それだけでかなりのものだ。そしてそれで大半の用は足りる。そのことに誰もが気付いてしまったのかもしれない。
まだどうなるとも分からないが、このブログを続けてみることにする。なんとなくそうしたい気分になったのだとしか言いようがない。特に書きたいことがあるわけでもないけれど…。ただ、自分の話すあらゆる言葉が実用そのものになって、それらすべてがソーシャルネットでの他人からの働きかけの言葉と対応しているような状態、要するに、自分が一言も無駄な言葉を喋っていないといういまの状態を少し窮屈に感じはじめた、とは言えるかもしれない。
ともあれ始めてみよう。以前、このプロフィール欄を使ってゆるい日記のようなものを書いていたが、とりあえずはその形でやってみるつもりだ。今年もアニメについてなにか書ければ嬉しく思う。『魔法少女まどか☆マギカ』特集の『ユリイカ』2011年11月臨時増刊号での対談への反応は、すべてを確認するのはとうてい不可能ながら、極力拝見させていただいている。同対談では一定の達成もあった一方で、今後への課題も多く見つかった。これから当分の間はそれに対処する作業があるだろう。個人的には、2010年代に入った去年という段階で、また『まどか☆マギカ』という作品を通す形で、シャフトという制作会社(そして、そこに集った作家たち)の積み重ねてきた仕事がもつ現在的な意味を考えることができて、とても良かったと感じている。
ウォーカーのショートブレッドはバターたっぷりで美味しいですね。
それでは、また!
2012/2/7
芳野満彦氏が死去した。
素晴らしい登山家で、著述家だった。小学生の時に父に与えられて読んだ『山に登ろう』(ちくまプリマーブックス)が、僕が登山に親しむきっかけでした。ご冥福をお祈りします。
2012/1/24
NHKの秀作ドキュメンタリー『証言記録 兵士たちの戦争』、ここで視聴できるのか。
今日、書店でこのシリーズの書籍版を見かけたんだけど、今やこれらは文字データ化した上でタブレットなどでも読めるようにしていいように思う。書籍の形にすることで完結させるだけでなく、それ以外の番組内で収集された証言と並べて比較したり、取り上げる地域のタグをつけたりしてまとめて分析可能にすることで、証言へのアクセス可能性がより高まるようになっているといい。『戦争証言アーカイブス』は既に相当いい仕事をしていると思うので、そうなることを期待しつつ。
下記のリンクからは、1992〜3年のNHKスペシャル『ドキュメント太平洋戦争』が全部観られるようになってますね。外見的に古びているところもありますが、これは素晴らしいドキュメントで、構成凝縮度共に文句のない企画。DVDで買うと二万弱していたはずです。第一集「大日本帝国のアキレス腱」は、南方還送油の輸送状況と輸送船の船腹量をCGIを用いてビジュアル化した先駆的な試みの一つ。アメリカのcomputer assisted reportingを意識した演出手法と思われますが、今でも十分通用する。これ、時々ニコニコに上がってた(そして即刻削除されてたりしてた)なあ。
2011/12/15
講談社文芸文庫版で、久々に中村光夫『風俗小説論』を読んだ。記憶よりもずっとハイコンテクスト。丹羽文雄を文学史的なレベルで抹殺するのが狙いだったと、まずは言えるか。「思想」と「観念」という範疇がはっきり使い分けられているのが面白い。
で、ノート取ったりしたけど、やはり異様に良い。この論は確実にある部分では丹羽を潰すために書かれているんだけど、そういう論争的な仕事の中にどれだけ自分の理論的問題を盛り込めるかが批評家の狙いの高さを知る上では大切だと思う。その意味ではやはり第一章が要か。他者性の問題。
リアリズムの成立に絡む他者性の問題。中村は日本の近代小説における真実性が作家本人の生を「事実」と見なしそれにもたれかかることで成立させられたと読む。有名な主張でもある。ところがここの分析は、西欧のリアリズムを説いたその前段部分と読み合わせると妙に引っかかる部分でもある。
中村の見る西欧小説のリアリズムの要点はこうなる。
(1)実生活から切り離された仮構の世界に、
(2)作者の思想と判断力に支えられた、
(3)「事実・事実らしさ」(蓋然的一般性)を作り上げるための、
(4)「思想的力技」であること。
で、この構図をそのまま先ほどの明治日本の自然主義の構図にインポートすると以下のようになる。明治四十年代小説は、西欧リアリズムとの対立関係では(A)仮構としての真実性=構成されるべき「真実」・「真実らしさ」が、(B)作家本人の生を「事実」と見なしそれにもたれかかることで成立させられている、という定義になる。
中村が「もたれかかり」と言うのは、ここでのABの関係が、論理的な根拠付け関係になっていないことを指しているだろうと思われる。中村の考えでは、作家本人の生という「事実」(B)は小説的「真実」(A)を基礎づけない。なぜか。ポイントとなると思われるのは、中村が西欧リアリズムの要件に入れていた「蓋然的一般性」としての事実・事実らしさという論点。これがABからは脱落している。
中村の考えでは、仮構としての小説が作り出す「事実・事実らしさ」は、「蓋然性」の範疇に存立する。つまりそれは時には成立するが、ある時には成立しないようなものだ。だから近代小説においては妥当な「事実らしさ」の成立・非成立が常に争われている。ではその妥当性――「一般的」妥当性――は誰によって判断するのか。中村の論ではそれは明らかに「社会において、読者(作家以外の第三者)が」、ということになる。
中村の拠る西欧リアリズムの構図は、図式的なスタティックなものとして読まれる可能性の高い箇所だけど、こう読むと、読者=他者によって何が「リアル」なのかを絶えず問われつつ読み進まれていく中村のテクスト観が浮上してくる。この点も含めて彼の私小説批判の当否を見るべきなのかもしれない。
これは中村の有名な「です・ます調」の採用とも絡む問題かもしれないなあ。私見では中村光夫=小林秀雄のテーゼは「日本語小説には言語を介した去勢が足りない」(仮構の不徹底とそれを補填する自意識の表出、社会化した私の不在)と言い換えられるだろう。『風俗小説論』は中村が長編評論にです・ます調を採用した最初で、昭和25年『風雪』での三好達治との対談でその成立事情への自注がある。以下は「創作批評」『風雪』昭和25年6月号の中村発言。
矢張り國語文といふものが実際の話し言葉と一時非常に近かつたがまたそれが或る程度離れ出したのではないかと思ふんです。さういふいはゆる、國語文の定型をもう一ぺん動かせるのではないかと考へてみたのですね。
小説の場合は、國語化運動が兎に角徹底したでせう。ところが、評論の場合にはそれが徹底しなかつたのです。それで表現が古びやすくなつていることは確かにあるので、何んとかして評論の文章を口語に近づける努力は何んとか一ぺんやらなければいけないのではないか、さういふことを僕は考へているわけなんですがね。結局、日本語で思想を表現して一番古びないやうにするにはどうするか、といふことが問題なんですが。
と、こんな感じで、ですます調の狙いを中村は言う。「國語文といふものが実際の話し言葉と一時非常に近かつたがまたそれが或る程度離れ出した」のところの前で、中村が「実際の話し言葉と近い」例の一つとして挙げるのが京都学派の口述筆記なのは興味深い。ヴァレリーも田邉元も「書くと非常に難しいのだけれども、口述筆記では、まあ判るのです」。と。
2011/12/11
バーガーキングのポテト、塩強めで空腹時は美味しく感じる。
今日のNHKグレートサミッツ(の再放送)は良かった。アコンカグア。高度馴化に失敗した撮影クルーが次々に脱落していき、山頂に到達したのはカメラマン一名とガイドだけという凄まじい状況。ガイドの的確な判断によって番組がまた新しい状況へと導かれていったところがあり、その意味で今回はガイドの物語とも言えたかもしれない。
アコンカグアは登頂許可が20日間しかないそうで、番組成立を焦ってのサミットプッシュに陥らないか心配だったがそれはなかったよう。今日のはそれ以前の再放送だけど、今年はエベレストで番組取材中の死亡事故も起きた。肩載せカメラを山頂になんとしてでも送ろうとする辺りはいかにもNHKらしい。あと、山頂手前の標高6500m付近まで、皆ストック(ダブル)で登っていたのにびっくりしてしまった。これは他の登山隊も皆一緒。風が強すぎて雪が飛んでしまうので、短いピッケルではなく足下まで届くストックが好んで使われているようだ。
アイゼンは日本で中級山岳用として売ってる、グリベルの爪の短いものを選択。岩の上を歩く時間が長いので、敢えてそれでよしとしたものと思われる。こういうのを目にすると自分の中のギア信仰を見直したくなる。道具とは状況に応じて適材適所で使うべきもので、そうでないと害のほうが大きいということ。
ともかく、90分間すっかり引き込まれてしまったのでした。そして撮影隊と同時期にアコンカグアに登っていた人のブログに番組のことが。大きな事故のないままシリーズが完結してくれるといいが。
2011/9/9
まどか☆マギカのシステムを最後にぶっ壊すのはもちろんまどかだけど、ほむらもそう。物語内の時系列だと最速でルールブレイカーになってる。
誰が魔法少女になれるかは前半の諸エピソードでははっきりしないままだけど(確率的なもの? あるいは事故の結果なる? マミの場合)、それがだんだん「業の深い人間がなるもの」のように変わってきて(杏子)、第10話のほむらの契約は「強く願えば契約できる」という風に変化する。しかし強く願いさえすれば契約できるのなら、魔法少女になれる者となれない者、何が魔法で何が魔法でないかを仕切っていた物語的規約が解体してしまい、物語の外部に接触してしまう(ほむらの保有する魔法少女としてのスキルはそれを示している)。
ほむらとの契約のシーンで、キュゥべえの登場は唯一オーバーラップで描かれることに注意したい。従来のようにカットを割らない。画面中央に小さくOLでふわっと現れる。こうして、彼女の契約の成立は、物語的に処理されると同時に描画によって成立するものとして示されていることがここで明確になる。ほむらはなぜ魔法少女になったのか。それは彼女の願いがそうであり、かつ、物語作者がそう記述し、アニメーターの手によってそう描かれることによってだ。この三つのレベルが10話の当該シーンには流れこんでいる(それを制作者は隠していない)。魔法少女の生を送るかそれ以外の生を送るかは、最終的にこれら三つの要因の調整によって決定されるのだ。人はマミのように魔法少女になっても、杏子のように魔法少女になってもほむらのようになっても構わない。好きな可能性を選べばいい。
これは「魔法少女」という物語装置を維持しつつ、そこに物語外のレベルを滑り込ませるうまい工夫かもしれない。魔法少女は確かに存在する。しかし魔法少女という存在は様々な仕方で成り立ち一様ではない。魔法少女の生って、現実の視聴者の生との類似性をはっきりと示すものではないけれど、しかし同型性は強く持っていると思う。「ソウルジェムを砕かれるまではゾンビとして在り続ける」という魔法少女の生と、「死ぬまでは生き続けている」という私たちの生の条件とは、実は形式的には同じなのではないか。だとすると、魔法少女になることとは、人間とは違う別の存在になることであるというよりも、むしろ二重身の問題として捉えることができる。義体の問題系が結局メランコリーの問題に帰着するなら、二重身の問題は解離の問題に帰着するだろう。
問題は、その解離の距離が極めて小さく、しかも先ほど挙げたような三つの要因が関わることによって、その距離も微妙に変化しているという点だ。魔法少女の生の条件と魔法少女ではない生の条件(日常の彼女たちの/私たち視聴者の)とは同型でありその距離も近いが、その距離が微妙に変わり続けているために、それは「これは何の、どういう比喩なのか、いったい何をどの程度有効に指し示しているのか」という問題を呼び起こしてしまうだろう。「魔法」が成り立つ世界と、それが成り立たない(ことになっている)世界との繋がりが、実は意外に近く、しかしその間の距離が固定されず、ゆらゆらと揺れているような事態。つまりは虚淵氏すごいという話なのだけど、同時にこれは映像の問題として追求してもいい事柄なのではないか。
まどマギの、岸田さんのキャラデザインを通したうめ先生の絵は非常に正面性――「平面性」というよりもこのほうが適当な表現だと思う――が強い顔だが、対して横顔のプロポーションは普通だ。というかむしろシャープなくらいで、結果、押しつぶした楕円形の正面顔(A)と普通の縦横比の横顔(B)との間で顔貌性が揺れてる。アクションの際など、斜めからのキャラの顔が、同じ角度なのに(A)の系統になったり(B)の系統になったりする。もちろんこれを統一することは無理で、それは大元のキャラクターデザインが原理的にそうなっているためだ。(A)と(B)が何度で切り替わるかなんて定義できない。結果、そこはあえて線引きせず、両者を混在ぎみにして作画的なうねり、気持ちよさを狙ったというのが実情だろう。そして、この選択はむしろ作品の強みになっているのではないか。この選択を下した結果、本作品のキャラクターデザインの顔貌には、同じ顔であっても二つの側面が現れてくるように思うのだ。
魔法少女の二重の生(魔法少女と魔法少女になる前)とを貫通する映像的水準は、コスチュームに覆われたキャラの身体の覆われていない部分、つまり顔だけだ。そしてその顔貌そのものが、私たちが見る/制作者が描く角度の違いによって、押しつぶした楕円形の正面顔(A)と普通の縦横比の横顔(B)という、同じではない二つの表情ABの間を行ったり来たりするのだった。とするなら、「魔法」のかかった世界と「魔法」のかかっていない世界の両方において、常に私たちに見えており、そのことで世界を連絡させる鍵のようなものとして機能しているのが、個別の顔の表情や造形(それらは(A)(B)の間で常時揺れている)ではなく、それらが一段抽象された、そしてそれらが帰属する「顔」というレベルではないか。正面から見ても横から見ても、その人物が(例えば)さやかだと識別できるような「顔」。この「顔」によって、二つの世界の距離の変動(揺れ)をある程度フィックスしているように思う。
その連絡プロセスは私たち視聴者がキャラクターたちの「顔」を「見る」ことによって起動される。そしてそれは、シャフト作品においては、「シャフ度」と呼ばれる空間性と身体性との連結のテクノロジーによってブーストされているわけだ。
むう。あまりうまくまとめきれなかったですが、とりあえず残しておきます。
2011/8/19
ゴダール的方法もうすぐ終わる。ゴダールvsランシエールvsディディ=ユベルマン。スリリング!
興奮の読書体験だった。最後はベンヤミンの「模倣の能力について」。フォルマリズムを徹底しつつもそれをテマティズムとコネクトさせ絡み合わせる手腕(=ジャンプ・カット!)が絶妙。その文章技法そのものがゴダールの映像思考に「内在」したものだといえ、良い。まったく、こういう風に書きたいものだ。
この人は絶対アニメ論を書くべきだ。
2011/8/19
90年代アニメから00年代アニメへの転換を「身体性」から「レイアウト性」への重点の移動、と要約してもいいかもしれないですね。
2011/8/14
反アニ批評夏、ざっとだが読むことができた。どの論考も面白い。特集ということでまどかについて。映像分析としては平田@のぶ氏のアートアニメとの比較が面白かったし、作品論としては志津A氏、喉氏のものを特に興味深く読んだ。喉氏のものでは、さやかの位置づけに関する指摘がブリリアント。
周知の通り『ままま』の提示する魔法少女のシステムは歪んでいて、主人公のまどかは最終話でそのようなシステム自体を消し去ろうとする。ところが、その消去対象として映像が示すのはまどか達よりも遙か先行する歴史上の魔法少女達であって、まどかや、彼女と同時期に魔法少女になった少女たちがどう救済されるかは判然としない。更に作品内で唯一明示的に魔女に落ちてしまったさやかという少女は、まどかの提示した救済の枠組みに乗せることが不可能であり、その結果最終話のまどかによる世界救済が「むしろさやかの魔女化というシナリオを永遠に刻印し続けてしまう」と指摘する。
作品の強い外部への志向性に対し、作品内のコンテクストに内属した論理を拡張していくとそれとは背馳するようなロジックが致命的な点で出てくる点を指摘して、とても有益な知見だと思う。ジャンル的な閉域を「外部」の理念によって突き抜けた、というような読みを適用してはまずいということだ。
さらに分量を増やした論考として読みたいと思ったのは志津A氏の論。震災という問題系との接合、又『あの花』と本作を並行して取り上げたことも良かったと思う。『ままま』の遂行した喪の作業を物語分析ベースで切り出していくが、この論じ方は映像分析にも明らかに拡張可能と思われる。例えば繰り返されるまどかの死を「目の当たりにしながらも、ただ見ていることしかできなかった」ほむらの姿とは、同時に視聴者の謂いでもあるだろう。観るという、原則的に受動的な経験の中でいかにして映像的な「再生」の経験を立ち上げるのかという映像的要請と、ほむらの変化をいかに描くかという物語的=映像的要請とは明らかにパラレルなもので、その意味ではむしろ対象との間に距離を取ろうとする本作のレイアウトの問題が気になる。一例としてこうした点で両者の架橋を試みることはできないか、などと考えさせられ、やはり触発される論考だった。
2011/8/9
まどか☆マギカのレイアウトの問題。意図的な対称性とズレ。まどかの走りがOPとEDで逆方向になっているというのは既に有名なはず(下手へvs上手へ)。
それは明らかに意識してやっているのでしょうね。追加。OPのまどか走りはものをナメる・ごしのショットで捉えられ、EDのまどかの走りはキャラの影に挟まれてそれを縫うようにしながら描かれている。この点も対称性をはっきり意識しての処理なんだろうなあ。ただ、ざくっと読んだかぎりで出てくるそれらは基本的に映像言語の意味の自明性に乗った上での操作だと言える。1990年代後半の庵野秀明が疑ってみせたのはアニメにおける「身体」という審級の自明性だったのだが、そのような庵野の疑いと比べると、前者は一見ラディカルさの点で後退しているようにも見える。
とはいえ、庵野も捨て去った(のだろう)その段階にとどまり続けることは難しい(し、あの破壊的なアプローチは一回しか使えない)。別の選択肢を考える必要がある。そういう意味では黒瀬陽平さんの一連の論文も、「非=身体」の位置に次世代のアニメ論の準拠点を探そうとした試みだと位置づけることもできそう。
2011/7/29
平野綾の一件について。その種の写真が、時に合意の上で撮られることはありうることだけど、そういう写真は外に出さないという信頼があって通常撮らせるものだから、外部に流出させるような状況を作った撮影者が悪いんじゃないの。バカ男を踏んじゃった責任を除けば、平野綾は被害者の側面が強い。
ということを、あるかたの昨日のツイートを見ていて思ったのでした。もちろん上記は、画像の被写体になっている人間が本人であるとの仮定に立っての話です。要は他人のプライベートを外に出した奴が悪い。平野綾自らがそれをやるとは考えにくいし。
2011/7/20
お前らが忘れても俺は「現代思想のアナル」を忘れてはいないんだぜ。
最近『花咲くいろは』が楽しい。岡田さんの脚本の特徴が僕にもクリアーになってきたと感じる。二点言うと、(1)リアリスト、(2)(1)の帰結のひとつとして男性を物語上から排除する際、その理由を明示する、の二点。ダメ男のダメさをきちっと描かせるということ。
2011/7/6
登山靴買った。マインドルのヤリジャパン。すごくいい靴だよこれ!
2011/5/28
1話を観返している。ほむらが自己紹介でホワイトボードに名前書き込む時の手元のアップのカットで、まままは細部に凝るなあと思った。ペンの動きに従って描かれるラインの軌跡がインクのベタ黒のそれではなくて、デジタル方式で描かれたことを示す網目が入っている。人物と世界との接触面の手触り。
2011/5/23
まどか☆マギカ、何かと話題の10話に突入。
…うん、これは1クールアニメに最適化されたドラマツルギーだなあ。少女性の外皮を被ったマチズモが根底に隠れている点も。コマが回転力を失って倒れる直前にぐるぐる蛇行し始める時のように、元から用意されていたナラティブの軸の外側に別の重心が生まれ、偏心を起こして歪みはじめるのがおもしろい。それと「コネクト」が唄う「閉ざされた扉開けよう/未来を描くため」の脱出口ってどこで開くんだろう。脚本家はそこを目指すのだろうけど…。
時間芸術としてのアニメーションと時間への言及の中に入り込む喪の作業の双方への自己言及、という形なのかしら。なるほど、それでOPがEDを乗っ取って最後に入り込むと。結構なお点前でした。全話視聴終了。
2011/5/16
「ほう、長岡くんはさやか派ですか」と言われた。
2011/5/8
『星を追う子ども』、とてもよかった。
一言で言えば、ほしのこえ〜雲のむこう〜秒速に至る新海誠の映像的ストックが再編成されたという印象。そしてその再編成は『雲のむこう、約束の場所』の線により強く沿っている。批評的に擁護は可能か? 僕は可能と思う。
言われているジブリテイストについて。確かにその側面はありまた目につくところに配されているけれど、物語的映像的に必然性のある選択だった。新海さんの独自色が強い演出がある程度抑えられ、作品のトーンに溶けこむようコントロールされていることと一対だろう。
数点。恐らく新海さんはここまでの彼の履歴にどう向かうべきかを本作で考えていて、過去作との接続と切断は常に意識されていた。アガルタって名付け、『ほしのこえ』でミカコが降り立った惑星の名前だ。はるかな「私のこと、忘れちゃったかな…?」の声。本作タイトルもそれを思わせるものだ。
一言で言えば本作は死と愛をめぐりながら象徴的去勢に至る古典的な物語で(去勢から始まるのではない)、その点があの自閉的・回顧的な『秒速』へのアンサーなのだろう。震災を受けて、制作作業の継続に疑問と苦痛を感じたというコメントも、そのようなモチーフを用いたことと相即しているに違いない。
ただ、多分それって本筋じゃない。新海さんの作品に僕が惹かれるのは、作品ごとにすごく明確なゴールを決めてそこに向かって行こうとするんだけど、その途上で意図せざる要素が付け加わって、何か異様な強度というかツイストが作品に掛かるところ。この作品もそう。
ではその強度はどこにあるのか。この作品は後半になるにつれ加速していく。映像も物語論理も。そこがいい。詳しく触れないけれど、最終部で複数の記憶のプロセスが相互乗り入れする箇所があって、最も興味深く観た。だけどそこも一瞬。この速度の結果、それまで構築されてきたものが流動性を帯びてしまっている。この流動性が評価できるのではないか。『雲のむこう』と似ているけれど、それともまた違った解決として。恐らく何らかの意義にリンクしているでしょう。それがなにかはもう少し時間をかけて考えてみたいですが…。
2011/4/25
まどか☆マギカ最終話よかったみたいだね。
まままってたぶん超ハイコンテクストな作品なんできちんと読めるか不安。何とかなると思うけど。僕は最初映像の水準だけで観て、それでこの作品面白いもっと知りたいと思ったら演出家や作家の情報を集めるという方向性です。それは訓詁学じゃなくて、より適切な読解のために必要な作業だと思うから。
正直、作オタの人とは見ているところが違うんだろうなとも思うし。わたしどこが誰の担当パートだなんて一発じゃわからないですよ。でも、それが何らかの理由によってどうしても必要なら、コンテなりその他の制作過程をクロスチェックでもなんでもして突き止める必要はあるでしょう。その作業の意義は実際、否定しがたい。
2011/3/27
昨日読み終わった小林尚礼『梅里雪山 十七人の友を探して』(ヤマケイ文庫)がとてもよかった。筆者は、1991年に梅里雪山で京都大学学士山岳会と中国人登山家の合同隊17名が死亡した事故の際、京大の山岳部員だった人。現地に通って遺体の捜索作業に携わったという。
雪崩でベースキャンプごと流された遭難者の遺体は、氷河に呑み込まれた数年後、麓の村近くの氷河の下端から次々に発見された。事故当初、高山を単なる征服の対象としてしか見ていなかった筆者は、遺体回収作業のため現地に通ううち、現地の人々の山への畏敬の念に次第に影響されていったのだそうだ。
だが、本書中で示される筆者の共感は、高地民たちの信仰に安易に同一化するような自己陶酔とは一線を画している。以下のような彼のいい文章。
梅里雪山を歩いて驚くのは、そんな自然の広がりとともに、その奥深くまで人間の痕跡が見られることだ。この地に暮らす人々は昔から山に深く入り込み、利用できる土地を広げてきたのだ、そして同時に、人間と神の境界を定めてきた。険しい自然に分け入る過程で、命を落とした人も多かったに違いない。そのようにして人と自然が対峙してきた結果、四つの聖地を始めとする数々の神話が生まれたのではないだろうか。
この即物的な文体と観察眼。
視点を対象の側に完全に移入するのではなく、あくまで報告者の側に置きながら、経験によってその視点が試される過程を記述することがルポルタージュの文体なのだとすれば、まさにこうした観察の積み重ねこそがルポルタージュなのだと言いたい。うん、刺激的な読書だった。
2011/3/19
民放のバラエティを楽しめる気分ではないが、『世界の車窓から』などBGV的に視聴できる番組はありがたい。世界には色々な場所でそれぞれに生活を営む人がいることを再確認させてくれる。こういう時だし、毎日の放送分を繋げ、アーカイブの映像素材も使って総集編をオンエアしてくれないだろうか。
2011/3/11
しかし、ひどい一日だった。さらにいまいましいのは、このひどさがまだ終わっていない人たちが大勢いるらしいということだ。
2011/2/13
さて、そろそろ満を持して『ゴダール的方法』を読むか。
あと明日は土下座してチョコレートをもらう日ですよね。
2010/12/19
シューマイをブラウンマスタードで食べたら美味しかったんで報告するッス。