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2005/10/21

[][] 先週の週刊書評

最後の息子 (文春文庫)

最後の息子 (文春文庫)

息子たちは明日を殺す

吉田修一の初期短編集。表題作「最後の息子」は、1997年文學界新人賞を受賞した吉田修一デビュー作。同時収録された「破片」「Water」も、その後のまもない時期に、「文學界」に発表された作品である。

三つの作品の中では「Water」の異質さが際立っている。「破片」と「Water」は、吉田修一の出身地である長崎舞台とし、設定も似通っているが、「破片」が、後の『熱帯魚』などへと連なるであろう、ガサガサと擦れるような独特の触感を、読者に与える作品であるのに対し、「Water」は、呆れてひっくり返りたくなるほど鮮やかに、爽やかに、男子高校生の日常を描き出した青春小説であるからだ。

長崎高校水泳部に所属し、県大会に向かって意気込む、4人の少年たちの夏休み

水泳部キャプテンである、健やかきわまりない主人公・凌雲の一人称は「ボク」ですよ、「ボク」!会話では普通に「俺」って言っているのに…。

冒頭の麻雀のシーンで松本大洋青い春』を思い出し(甲子園出場を逃した野球部員たちが延々と麻雀をし続ける『夏でポン!』収録)、水泳部の練習風景望月峯太郎『バタ足金魚』を想起し、結末からは『バタ金』続編の『お茶の間』を連想した…ここで挙げた三つのタイトルはいずれもマンガであるが、前の二つは、青春漫画の傑作として、映像化もされた作品である。

一方、「最後の息子」は、長崎ではなく東京、それも新宿舞台とし、やや頽廃的な雰囲気の漂う作品である。ビデオの映像を媒介に設定し、重いはずのテーマを、その重圧を感じさせることなく、ドライに描いた、凝った語りの描写力は、デビュー作とは思えないほどに見事。

三つの作品は、雰囲気をまったく異にしながらも、「息子」たちの物語である、という点では共通している。彼らは一体、何を求めているのだろうか?『最後の息子』という題名が、何を意味しているのか?考えながら読んでみてほしい。

http://books.bitway.ne.jp/shop/mt-detail_B/trid-main/ccid-0101/cont_id-B0420500294.html

2005/10/14

[][] 先週の週刊書評

オール・アバウト・セックス (文春文庫)

オール・アバウト・セックス (文春文庫)

いまどきのセックスを網羅

博覧強記のフランス文学者鹿島茂先生が作り上げた「エロス図書館」。そこに足を踏み入れた読者は、余程の好き者でもない限り、自分の想像を絶する、凄まじいセクシュアリティに、いくらでも出くわすことができるだろう。

そして、それらは、私たちから物理的・精神的にかけ離れたものでは決してなくて、他ならぬ私たち自身が属するこの現代日本において繰り広げられている、性の自由の謳歌であり、バリエーションに富んだ性の饗宴の実相なのである…。女の性欲という問題にはじまり、売買春現代史、通常は「変態」「倒錯」扱いされてしまうような特殊ジャンル、さらには、ヒトだけではなくサルの性行動まで、その蔵書目録は実に幅広い。

本書自体は、『文藝春秋』に長らく連載された、エロス本の書評によって構成されている。そこで取り上げられ、紹介されたエロス本は、「現在の日本のセックス状況が露呈されているような本」であり、結果的に、その連載の中で「セックスに関するありとあらゆる分野がカバー」されているからこそ、鹿島先生は、この本を「エロスの総合図書館」として、『オール・アバウト・セックス』と名付けたのだという。

実を言うと、筆者は、このタイトルから、もっと直接的なセックスの記述、たとえば、マニュアル本めいた実用的な内容、あるいは、鹿島先生自身の性の告白、いわば「ヰタ・セクスアリス」のような中身を想像していて、読み始めたとき、少々、退屈を感じなくもなかったのだが、読み進むにつれて、今までには知らなかったエロティシズムの世界を覗き見する淫靡な悦びに打ち震えている自分自身を発見していたのであった。鹿島先生書評はまさしく絶技!その恐るべきテクニックに、気が付いたら私、なんだかじゅんとしちゃってたんです……。

http://books.bitway.ne.jp/shop/mt-detail_B/trid-main/ccid-0501/cont_id-B0420500286.html

2005/10/07

[][] 9/2の週刊書評

ぼくらのSEX (集英社文庫)

ぼくらのSEX (集英社文庫)

性とは心で生きることである

タイトルだけで判断して、単純なスケベ心でこの本を開くと、ほぼ確実にガッカリすることになる。なぜなら、これは、現代における「正しいSEXとはどういうものか」を追求した、とっても真面目な本だから。この本は「あなたにとって正しいSEXとはどういうものか」を考えるための性教育の本であって、エロ本ではないのである。さらに言うと、本書は、SEXについて、未だに安易に付き纏う、いやらしい・いかがわしい・恥ずかしい…といったネガティブな意味付けを乗り越えて、「SEXのことをもっとちゃんと考えようよ!」と真摯に呼びかけている、新しい性の教科書であり啓蒙書であるのだ。

著者である橋本治は、小説から古典文学の現代語訳、独特の切り口が際立つ評論まで、幅広いジャンルにわたり多数の著作を発表している。なお、本書では言及されてはいないが、ゲイとしてカミング・アウトしていたはず…。

冒頭ではっきりと宣言されているように、本書は、SEXを、人間が生きていくためのエネルギーとして、人間が生きるということの核心として、前向きに位置付けている。その上で、SEXという複雑怪奇な問題を、なるべくわかりやすく語っている。それは正しいSEXについての考察であると同時に、人間個人についての考察でもある。自分というものをどう捉えるべきなのか?他人とどのように向き合わなければならないのか?…

そうした思索からさまざまなテーゼが次々と導き出される。

「人間のSEXの基本はオナニーである」

「ポルノはSEXの教科書だ」

「同性愛は『ヘンなこと』じゃない」

これらの言葉を正しいと思いますか?おかしいと思いますか?

この『ぼくらのSEX』は、性をめぐるテーゼを論じることで、読者に対して常に問いを投げかけてくる本である。そこでの議論について考えてみることで、読者であるあなた自身が、自分にとっての自然で正しいSEX、という答えを出さなければならない。

http://books.bitway.ne.jp/shop/mt-detail_B/trid-main/ccid-0901/cont_id-B0280500262.html

[][] 8/26の週刊書評

熱帯魚 (文春文庫)

熱帯魚 (文春文庫)

ひやりとする不穏な予感が

「パーク・ライフ」で芥川賞を受賞し、テレビドラマ『東京湾景』の原作者でもある、吉田修一の短篇集。

汗が皮膚を伝って流れ落ちていく、夏が過ぎ去っていく余韻、そこに含まれる気怠さを、じゃりじゃりと噛みしめたような、そんな味わいを、読み終えた後に感じた。

「パーク・ライフ」と同様に、『熱帯魚』に収録された短篇にも、東京とその周辺の具体的な地名がいくつも登場する。芦花公園、新宿西口、荻窪、原宿、千葉の九十九里、東京湾アクアライン…。それらの土地の名前が喚起する景色が、それぞれの作品を構成する重要な要素となっている。

しかし、『熱帯魚』に収められた短篇、表題作の「熱帯魚」、さらに「グリンピース」と「突風」において描き出されている雰囲気は、「パーク・ライフ」のそれとは、ずいぶん趣を異にしている。

熱帯魚』の登場人物たちは、「パーク・ライフ」の主人公だった「ぼく」の、フラットでつるつるとした存在感に似た要素は、ほとんど持っていない。「熱帯魚」の野放図なようで繊細な大輔も、「グリンピース」の自分勝手で底意地の悪い「僕」も、「突風」の勘に突き動かされて長期休暇を民宿のバイトに費やす新田も。

彼らは、「パーク・ライフ」の「ぼく」よりも、はるかに生々しく、人間臭く、実体的な人物として描かれている。自分自身の感情や感覚や性欲にやたらと正直で、そんな自分の思考や行動に疑念を抱かない。だから、ひどく無神経でいやらしくも見えるし、残酷なようにも見える。

そして、彼らは、取り返しのつかない出来事に向かって、危なっかしく落ちていく。その先が破滅であろうが、地獄であろうが極楽であろうが、何が待ち受けていても構わないのか、何も考えずに、その場の衝動で、相手の出方次第で。そうした描写は、「パーク・ライフ」のプラスチックのような手触りに対して、サンドペーパーのザラリとした触感を、私に思い起こさせるものだった。

http://books.bitway.ne.jp/shop/mt-detail_B/trid-main/ccid-0101/cont_id-B0420500256.html

[][] 8/5の週刊書評

ヒートアイランド (文春文庫)

ヒートアイランド (文春文庫)

渋谷はいつも戦争状態みたいだ!

真夏の夜に読みたいとびきりのエンターテインメント・ミステリー!読んでいるときの緊迫感、読み終えた後の爽快感がたまりません!

主人公少年はアキ。鍛え上げられた長身、素早く的確な判断を下す頭脳、周囲を圧倒する不思議な魅力。まさにカリスマ。

そして、マッチョかつ知的…と言えば、マツモト店長の好み!

「店長、このキャラなどいかがでしょうか?」

「それでインテリメガネなら完璧です!」

「いえ、渋谷のストリートギャングのリーダーとして、それらしい恰好をさせられている、という設定なんですが…」

「知的でマッチョのインテリメガネっていうミスマッチがいいのに〜」

「どうもすみません…」(なぜ私が謝る?)

アキは、カオルと偶然に出会ってその相棒となり、情報操作に長けたカオルのアイデアをもとに、アキが実戦を勝ち抜いて、二人で渋谷最大のチーム「雅(みやび)」を作り上げた。パーティーや遠征でのファイトマネーで、雅は十分に潤い、万事快調のはずだったのだが…。

しかし、とんでもないブツが突然転がり込んできた!凄腕の強盗チームがヤクザの裏カジノから強奪した大金の入ったボストンバッグ。しかも、それを持ち去ったのが、たまたま雅のメンバーだったという事実に、強奪犯は気が付いているかもしれない?!

雅は強奪犯の実像を掴もうとし、強奪犯は雅を追う。大金を盗られたヤクザは、強奪犯を追い、別のヤクザに協力を依頼する。依頼されたヤクザは雅の利権と大金両方の横取りを狙う。追いつ追われつ、四つ巴の攻防戦。その渦中に巻き込まれてしまった雅は絶体絶命。このピンチをどう切り抜ける、アキ?

東映ヤクザ映画やその流れを汲むVシネマが個人的に好きなので、そうした男だけの世界に通じる匂いを全編から感じました。ドライでクールだけど、情けもある。己を知る者のために生きて死ぬ。それが男同士の絆。虫けらのように這い回った挙句にあっけなく死ぬ。それは愚かな若者の哀しさ。

http://books.bitway.ne.jp/shop/mt-detail_B/trid-main/ccid-0201/cont_id-B0420500101.html

2005/08/05

寺スカル

[][] 先週の週刊書評

伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』(東京創元社)

風に吹かれて、流されて僕は

『アヒルと鴨のコインロッカー』という小説は、二つのパートから成り立っている。東北の大学に進学して引っ越してきたばかりの「僕」の物語である現在と、その二年前の物語と。二つの物語は、一章ずつ交互に配置され、それぞれの物語が並行して描かれていく。その配置に、最初は少し戸惑いながらも、読者は読み進むにつれて、二つの物語の狭間に次第に引き込まれていくことになり、その構成の見事さにいずれは舌を巻くことになるだろう。この作品の面白さを存分に堪能するには、決して軽く読み流したりなどしてはいけない。二つの物語の関連を把握するのはもちろんだが、ちょっとしたエピソードや会話、文体の細部にまでも注意を払うべきだ。二年前の物語については特に。なぜならば、そのすべてにほとんど無駄がなく、小説の中でそれなりの意味を与えられているからである。たとえば、本書のタイトル、「アヒル」「鴨」それから「コインロッカー」、それらの言葉はどうして繋げられているのか?その答えを知りたいのならば、この小説をとにかく丁寧に読み通さなければならない。

本書は、ミステリーとして、そのようにきわめて巧緻に書かれており、その仕掛けだけでも、小説ならではの醍醐味というものを、読者に小気味よく味わわせてくれるのだけれども、この小説は、ストーリー自体にも、フレッシュな魅力が満ちていて、最初は楽しく、やがて切ない。典型的な巻き込まれ型の主人公である「僕」が放つ愚かしいほどの青臭さ。他の登場人物たちも皆、個性的でやけに印象に残る。だって、わたしもね、人間よりも犬や猫のほうが好きなの、かもしれないから。おかげで、感情移入のボルテージが、個人的には大幅に上昇してしまったのだが、逆に言えば、動物に興味関心がない人が、この小説を読んでも、登場人物の心理が理解できなかったりするのかもしれない、などと、ふと思ったりもしたのだが、どうだろうか?

http://books.bitway.ne.jp/shop/mt-detail_B/trid-main/ccid-0201/cont_id-B0690500025.html

アヒルと鴨のコインロッカー (ミステリ・フロンティア)

アヒルと鴨のコインロッカー (ミステリ・フロンティア)

2005/07/29

[][] 先週の週刊書評

長嶋有『猛スピードで母は』(文藝春秋

わたしたちがこどもだったときに

大人になってからも幼少期のことをよく覚えている人と、すっかり忘れてしまっている人がいる。この前者に属する人は、些細な出来事の細部まで、いつでもはっきりと思い出すことができる。

子どもの視野は、家庭と学校を中心に成立していて狭く、時として理解不能な物事に直面しては戸惑う。けれど、その不可解さも含めて、自らの感覚の命ずるままに、心に焼き付けられてしまう。子ども時代の思い出は、そんな風に窮屈で曖昧で、時には捏造が混じったりすることもあるけれど、思いの外にざっくりと深く、心の中に刻み込まれているものだ。

本書に収録された二つの短篇、「サイドカーに犬」「猛スピードで母は」はどちらも、そうした子ども独特の視界の有り様を鮮明に描いた作品である。まずは軽やかなリズムを持ったタイトルが良いと思う。「サイドカーに犬」は、薫という女性の国立に住んでいた小4の夏休みの回想を描き、「猛スピードで母は」は、北海道を舞台に慎という小6男子の視点から見た母の姿を描いている。薫も慎も決して幸福な子どもではない。薫の母は夫婦喧嘩の末に家出し、慎は東京で結婚に失敗したという母と二人きりで暮らしている。だが、どちらの作品からも不幸の翳りは読み取れない。なぜなら、薫も慎も、あくまでも淡々と、自分なりに生きて、生活しているからである。二人とも自らを不幸せな小学生だとは思ってなさそうなのだ。だから、薫は突然家に出入りするようになった洋子さんの存在を友達として受け入れ、後年も懐かしく思い出すし、慎は母の葛藤を冷静に見つめていられる。

そういう子どものリアルな感性を、べたつかずドライに、かつ丹念に描いているからこそ、本書は、安易な甘いノスタルジーに陥ることなく、読者の記憶の底の子どもを刺激してやまない。かつての小学生だったときの自分自身が、ひょっこり顔を出して、目の前を猛スピードで横切っていく、そんな錯覚にふととらわれるのだ。

http://books.bitway.ne.jp/shop/mt-detail_B/trid-main/ccid-0101/cont_id-B0420500264.html

長嶋有公式サイト

http://www.n-yu.com/

わたしも子供の頃からバイクのサイドカーに憧れている。

たぶん、『ルパン三世』のアニメとか、アメリカのアクション映画とかの影響だと思う。

同居人が突如としてバイク乗りになり、今夏には大型二輪の免許を取る計画を立てている。

当然、サイドカーに乗せてもらえるようにせがんだのだが……即座に一蹴された。

なぜならば、まず価格がべらぼうに高い。ヤフオクの「サイドカー」の検索結果を見て驚いた。何しろサイドカーだけで車が買えそうな値段が付いているのだ。

そして、危ない。バイクの免許を取ってまだ日が浅いバイク乗り曰く、サイドカーを付けて、そこにわたしを乗せた状態で、大型バイクを乗りこなす自信がない、と。怖いんだ、と。カーブを曲がりきれるのか、万が一事故で切り離されてサイドカーだけ吹っ飛んだらどうするのか。たぶん、制御不能の状態で、ぐるぐる回転しながら、空中を舞って路上に叩きつけられる、または、路上を滑走して対向車やガードレール等に衝突するか。想像しただけで恐ろしい。

でも、そういった事実を知っても、わたしはまだいつかサイドカーに乗ってみたいと思ってやまないのだ、そう、まるで犬みたいに。

猛スピードで母は (文春文庫)

猛スピードで母は (文春文庫)