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2012-02-20

三つ子の魂

昨日、光市母子殺害事件の判決が出た。

当時18才だった被告の死刑が確定した。

被害者遺族の本村さんは「この判決に勝者はない。犯罪が起こった時点で被害者も加害者も敗者なのだ」と言っていた。説得力のある一言だ。本村さんは事件当時死ぬほどの怒りを感じたに違いないが、今となってはその怒りも当時ほどではなくなっているように見えた。

この事件は本村さんが積極的に被害者の権利について運動されたということもあって大きな注目を浴びた。昨日のニュースでも、そのためか少年の生い立ちを少し紹介していたが、彼が育った環境では暴力が日常化していたという。多くの家庭環境から判断すると特殊なものと言ってよい。そういう中で育って、健全な道徳観が養われるものだろうか。何を良とし、何を良としないかという価値判断はごく幼少の頃に形成される。そして人は生まれる環境を選べない。

あまりにも少ない情報を基に軽々なことは言えないが、そうであってみれば、死を持って償わせるほどの責任を個人に負わせることができるのか、私にはどうしても判断できない。

昔、人種差別の根本にあると思われる問題を扱ったアメリカ映画があった。主人公は根深い白人優越感を持った両親の家庭に生まれた。そこでは黒人は人ではないのだという価値観のもとに、そのような言動が日常化していた。主人公はやがて青年になり、つまらないことから黒人を殺害するが、本人にはその行動が世間から非難される理由がどうしても理解出来ない。そういう内容だった。この映画が、日常のごく些細な場面にも細かい配慮をして、非常に丁寧に作られていたこともあって、偏見というものが本人も知らない間に脈々と受け継がれる様子が良く描かれており、なかなか失くならない偏見に対して、なるほどと納得するものがあった。

私は一貫して死刑には反対だったが、それは冤罪を生んだ場合に取り返しがつかないというのが理由だった。が、今回のように冤罪の可能性はゼロの場合でも、やはり上に述べた、どこまで本人の責任に帰することができるのかという問題でも、死刑という刑罰は課すべきではないような気がする。私が本村さんの立場だったら、やっぱり死ぬほど怒って、死刑を望むことは明らかだが、こういう大きな問題を個人的な感情で判断することは危険だと思う。

少年が刑務所で書いたという手紙が公表され、その内容を読んで、何ら反省の気持ちがうかがわれないことについても、死刑は当然だと思った人は多いかも知れないが、どんな言葉を使うかということもやはり育った環境に大きく左右されるのだ。少年法も環境の与える影響の大きさに注目して、18歳未満の犯罪者には死刑の適用をしていないのだと思う。

冒頭に掲げた「この判決に勝者はない。犯罪が起こった時点で被害者も加害者も敗者なのだ」という本村さんの言葉を、私は心に刻んでおきたい。加害者自体を出さないように、大人の一人ひとりが、よく考えて行動しなければならないと改めて思ったことだ。

2012-02-15

デルス・ウザーラ

アルセニエフ著 デルス・ウザーラ

これはロシアの地理調査隊と彼らが山中で出会ったデルス・ウザーラという人との、いわば交流を描いた話です。黒澤明監督によって映画化もされました。私は映画も見ましたが、原作から受ける感じが忠実に描き出されていてとても良い映画でした。

デルスは決まった家を持たず、山の中で獣を狩ったり植物を食べたりして暮らしています。動物も、木も、水も、彼を取り巻く全てのものを「人」として認識して、話しかけたりあるいは彼らの行動を観察して、その意図を探ろうとします。そういうふうですから、もちろん自分が食べる以上のものを捕まえたりはしませんし、彼らの縄張りにうっかり入り込んでしまった時には、謝ってからそっとその場を立ち去ります。

こんなデルスの生き様を見て、祖父母の時代にはこれに似た姿勢で暮らしていたことを思い出しました。いつの間にこんなに自然界に対して傲慢になってしまったものか。自然界を制御できると思い込むようになってしまったものか。

この間、早池峰山の麓にあるというタイマグラに暮らすおばあさんの暮らしをドキュメントした番組を見ましたが、このおばあさんもやっぱりデルスと同じような感性を持っていました。イノシシや猿に野菜をとられるが、それは自分たちが彼らの領域に侵入したからで、文句をいう筋合いではないという意味のことを言っていました。また、百姓は食いたい時に食って寝たい時に寝られる、極楽じゃ、とも言っていました。もともと時間というものは私達のものであったはずなのに、今ではどうやらそうも言えません。それから、おばあさんはある日膝が痛くなったのですが、医者に行くこともなく、それはあんまり遠いからでしょうが、お灸を据えてじっとしていて治しました。これなどは家の猫が具合悪くした時に、ひたすらじっとしていて治すのに似ています。

人間は本当はもっと単純な暮らしができるに違いないのだと、この二人を見て思ったことでした。

2012-02-11

人生が、

人生がたとえどんなに受け入れがたいものであっても、それに向き合い、生き抜くことだ。避けたり、負担に思ったりしてはならない。H.D.ソロー

2012-02-05

物語の意味

フェイスブックを利用している方はすでにご存じの方も多いでしょう。しばらく前に人種差別に関するエピソードが公開されていました。概略は次のようなものです。

ある飛行機のエコノミークラスでのこと。高齢の婦人が自分の席に座ろうとすると、隣には黒人の男性がいた。黒人の隣に座るのはまっぴらごめんと、彼女はアテンダントを呼んですぐ席を替えるよう主張した。アテンダントは、それでは例外的にファーストクラスに移っていただきましょうと言って、黒人男性の方をファーストクラスに導いた。

この粋な計らいに賛同する人は大変な数に上って数万人の人がシェアしたり「いいね」を押したりしていました。私がその記事を読んで二三日後、人気の記事が表示されるサイトを見ていると、この記事は事実ではないこと、にも関わらず多くの人が騙されてシェアしており、SNSに集まる奴はバカばかりだ、というずいぶんな中傷記事がありました。こんな記事が高位にランキングされているのも残念に思いましたが、それ以上に私が思ったのは、あの記事が事実である必要があるのか、ということでした。

かつて遠藤周作は、聖書の中の話は必ずしも事実である必要はない、聖書を書いた人やキリストを信じる人達にとって、聖書の内容は事実ではないかも知れないが真実であるのだ、という意味のことを書いていました。

また、昨年文学賞を受賞した際に行われた村上春樹のスピーチでも、文学者にできることは大いなる理想を掲げることだとありました。

一歩前に踏み出そうとする時、人は理想や希望に向かって進みます。現実ではなく。

子供には質の高い文学作品を読ませるべきだと私が思うのにはこんな所にも理由があります。高い倫理観を持った人が登場する、よくできた物語を読むことで、子供はその倫理観を自分のものとすることができます。登場人物が経験する苦難やそれを乗り越える様子を疑似体験するのです。

物語に書いてあることが嘘か本当かを問うことは意味がありません。要はその内容をどう捉えるかということです。

真実は、往々にして事実よりも価値があるものだと、私は思います。

2012-02-01

中学高校で学んだ英語、どうやったら話せるようになるの?その6、言葉を覚える楽しさ

他の文化圏の言葉を習うということには、それが喋れるようになるということ以外に大きな楽しみがあります。それは全く違う価値観に触れることができること、そして視野が大いに広がることです。

例えば、日本ではキノコといえばしいたけ、松茸、えのき茸、舞茸と、ちょっと考えてもすぐにこれだけのものが浮かんでくるのですが、英語ではどれもmushroomの一語でまとめてしまいます。食文化の違いが現れているのです。また、日本語には友達言葉、丁寧語、敬語、謙譲語など、相手が目上の人か目下の人かで言葉遣いを何段階にも使い分けますが、英語では友達言葉か丁寧な言葉の別くらいしかなく、おおむね相手との心理的な距離によって使い分けています。親しい人なら相手が自分より年上でも友達言葉を使い、会ったばかりの人なら、年下に対しても丁寧な言葉を使うのです。

地球上には未だ原始共産制に近いような暮らしを営んでいる人たちがいますが、そのような島では所有格が無いそうです。誰かが海で採って来た魚でも、それは皆のものなので「私の」「あなたの」という言葉がそもそも存在しない。また別の島では、数を数えるのに1と2しかなく、それを超えるものは「たくさん」と言っているそうです。これは英語を勉強しているうちに私が本から得た知識の一部ですが、英語を勉強しなかったら決して知ることのなかったことでしょう。