「おのれナポレオン」

大劇場でやる「完成された」商業演劇にあまり興味がない。だって、おもしろいのはあたりまえだから。

でも三谷幸喜野田秀樹が組み、しかも野田秀樹が主役を演じるとなると、話は別だ。演劇ファンで金がありさえすれば誰でも観たいと思うだろう。なんとか手に入れた立ち見席。

「おのれナポレオン」。チケットの日付は5月11日(土)。

8日。まさかの天海祐希降板、もう観劇は無理かとあきらめたところでの宮沢りえ代役。

宮沢りえという女優を、これまで強く意識したことはなかったけれど、1度観ただけの舞台を2日でマスターするという北島マヤも真っ青なことをやってのけたのである。演劇史上、歴史に残る偉業ではないか。

ーナポレオンは誰が殺したのか?
ワーテルローの戦いで敗北し、セントヘレナ島に幽閉され、彼はその生涯を閉じる。島で彼につかえていた登場人物全員が容疑者という、ミステリー。

宮沢りえは、モントロンという旦那がいながら、ナポレオンの愛人というなかなかのオンナ、アルヴィーヌ役。冒頭5分もたたぬうち、さっそうと現れた彼女は「やる」と決めた女の美しさと強さがぴかーんと全身から出ていて、客席全体が息をのんだ。

途中、ナポレオンの機嫌をとるための芝居の稽古をするシーンがあり
「あなた、台詞覚えたの?」(りえ)
「お前に言われたくないわ!」(山本耕史
「1日やそこらで舞台に立てるもんなの?」(野田秀樹
「いっぱいいっぱいなんです!」(りえ)
みたいなアドリブがあって、拍手かっさい。

弱みを笑いに変換し「そういうの聞きたかったんです」という客の心が、ぐらりと舞台にかたむいた。

甲高い声で落ち着きがなく、子供じみたナポレオンと、ちょっとプッツン気味の正統派美女のかけあいは絶妙で、笑いスイッチが入った後はもう、この役はもともと彼女のものではなかったかいう錯覚さえ。

この人の端正さって、コメディだとこういう風に生かせるのね・・・と、発見がいっぱいあった。

それにしても、野田秀樹の怪演である。誰もが描くナポレオン像を180度覆す軽やかさ、チャーミングさ!今回、降板事件がなければ、この演技自体が事件になったはず。

終演後、某テレビ局の取材にキャッチされ、天海祐希が見られなくて残念だったかと問われたが、そもそも彼女が目当てではなかったし、答えに困った。

いわば「たなぼた」のような派手な話題がふりかかり、この芝居自体の評価が宮沢りえのみに集中するのは違う。でもそれは彼女自身が一番よくわかっているように見えたので、私はりえという女優を好きになった。

カーテンコール。2度目で全員が総立ちになり、りえを讃えた。りえはしきりに恐縮し共演者を讃えた。だよね、と、ひときわ拍手の音が大きくなった。商業演劇ではじめてカーテンコールでじーんときた。

芝居ってなんだろう。一人でも寝坊したり病気になったりしたら完成しなくて、そのあやうさを、目覚まし時計とか家族とか恋人とか共演者が支えて、役者は気力をエネルギーにして、みたことのないものを一度だけ産み落とす。その刹那が、私の心を捉えてはなさないのでしょうか。

「演劇1」「演劇2」

想田和弘監督の観察映画「演劇1」「演劇2」を見た。5時間42分。

想田和弘監督 映画『演劇1 演劇2』公式サイト

幾度となく、このブログでも青年団系の芝居について書いてきた。

私は青年団という劇団を知った16歳くらいの頃、あまりに自然なその口語演劇に猛烈な「かっこよさ」を感じ、京都で稽古があると知ればのぞきに行き、平田オリザのワークショップがあると知れば参加し(確か北海道だったか)、挙句の果てに出演者公募のオーディションに応募し、伊丹アイホールで「でも高校生じゃ、授業はどうするの?」とオリザさんに困られた経験の持ち主である。結局そのオーディションには落ちたけど(高校生というのだけが落ちた理由ではないと思う)。

しかし、仮に私がそのときにオリザさんに気に入られ、青年団に入団したとて、幸せな「役者生活」が送れていたかと想像すれば、圧倒的に疑問符がともる。

なぜなら、平田オリザという人は「役者は将棋のコマ」と言い切り、秒単位で役者の動きを制限し、内面からにじみ出る何かよりも、表層を完成させることに力を注ぐからだ。ただ、観客の立場からすれば、青年団の芝居は登場人物の心の繊細な内面をのぞいた気になって満足できるので、プロセスがどうかは、確かにどうでもよい話である。

演劇にまったく興味のない友人にその話をすると「演出家がドSで、俳優がドMなんちゃう」と笑った。一部ではそれも真理かもしれない。または、役者が職人仕事に徹することに喜びを見出す人の集合体。マッドな研究者。

とにかく、どんな人が役者に選ばれるのか、という点に私の興味はあった。ずっと。

青年団の裏の裏まで1年に渡って密着したこのドキュメンタリー映画の中で、いくつかの納得や発見があった。

役者さんへのインタビューシーン。
「オリザさんは稽古で役者ではなく、脚本を追っていることもある。脚本はきっと楽譜みたいなもので、彼の中でははじめから完璧にすべてが決まっていることなのだと思う」


ロボット演劇の稽古場のシーンで、オリザさんがロボットに対するダメ出し(実際には操作をする人への指示)が、普段の役者への要求と何一つ変わらないものだった点。私が役者だったら、きっと自己否定されたような気になる。けど、2体のロボットと共演した役者さんは、自らが出せる人間らしさについて少なくとも立ち止まっていたし、人間の俺の方が優れているもんね、とはとても言いださない寛容さがあった。

青年団の役者が優秀で、見ていて違和感がないのは、自己肯定とか自己陶酔が目的ではなく、自分が演劇を通じて社会に発信していきたいものの方向性(人間の精神の不可思議さ)が劇団ひいてはオリザさんと限りなくマッチしているということなのだろうなというのがその結論。
当たり前といえば当たり前なのだが、劇団はもとより、会社という社会においても、この根本的な関係性でつまずいている人は多いように思う。私も含め。

一体、人は、演じるということを特別視しがちだが、誰もが社会生活を営む上での演じ手であることに気付いておらず、もしくは認めようとしないまま、心を病んで、他人のせいにしている。

そんな人ばっかりで、このままいけば、日本という国はやばいよ。そこまで考えて、演劇というフィールドから教育や政治の場へアプローチを仕掛けている彼の「今」は、悶々と厭世的な気持ちを抱えている人へのひとすじの光、ということになるだろうと感じた。

いい、ドキュメンタリーだった。

なんか頭でっかちな感想になったが、おかしな政治家の言動に笑えたり、劇団内の出来事にほっこりしたり、オリザさんの冷静さは冷たさとは違うんだな、とわかるところもたくさんあって、映画としても大変愉快だった。

劇団「野の上」ふすまとぐち

INDEPENDENTの一人芝居に関わることで知り合った役者さんが最近メキメキと次々とこれでもかと、いい芝居をするのが、自分のことのようにうれしい。

中でも劇団野の上の「ふすまとぐち」は、木曜の夜「明日もがんばってくださいね」と言って、劇場を後にしたにも関わらず、なぜか、なぜだか、翌日も客席に座ってしまっていたのである。ふだんならば金曜の夜は呑んでいたいのである。でも、呑むより前にやらなければならないことがある気がして、同僚の先輩を巻き込んでみたのである。


やりすぎ感満載の嫁姑バトル、あやしすぎの新興宗教、生意気すぎるガキ。
「こんな奴、いねーよ」と、極端さに大笑いしつつも、どこかバカにしきれない「いたーい」ところをついてくるのが憎らしい。そして最後には、すこーし心に灯をともしてくれる。素直にいやー、いいもんみたなーと思える芝居って、あんまない。私の中では最近。

初日は笑った。
2日目は泣けた。

まるで生き物のようにおおいかぶさる感情のうねりをコントロールしながら、真摯に直球を、津軽弁で投げかけてくる役者の技量と魅力は相変わらず。

でも、それだけじゃなかろーな。山田百次という人を中心とした、ちょっと脱力系&愛情むきだし系の世界観に共感する人たちのパワーが大きくなってるのを感じた。客しかり、スタッフしかり。内輪ってことじゃなくてね。

バファリンの半分は愛情でできてます、だっけ?あれみたいな。
片棒を担ぎたくなるんだよね。


東京は7月14日〜16日。プロト・シアターにて。

私の言ってる意味がわからない人はぜひ自分の目とこころで確かめてくるがよいよ。

青年団「月の岬」

受付で料金を払うときにふと「学生・シニア(65歳以上)2000円」というのが目に入った。

「先生、何歳ですか?まだ65じゃなかったですよね?」
「68歳や」

15年という年月をそこで実感した。

1997年、演劇少女だった頃。アトリエ劇研でみた「月の岬」という芝居は、感じたことのないほど哀しくて色気があるオトナの物語で、確か私は、公開稽古にも参加し、平田オリザという人はこんなにも細かい演出をするのかと驚愕し、すべての心を持っていかれた覚えがある。


再再演のチラシを発見し、すぐ「先生」に電話をした。

先生は中学時代の演劇部の顧問で、12歳からの「オン」の私を知っている人。
「月の岬」も先生に勧められ、一緒に観に行ったのだ。
演劇がすべてだった頃の、振り返るのも恥ずかしいような一面も見られているので、半分親のようだと勝手に思っている。社会人になってからも芝居情報を交換し、年に数回会う今は友人のような存在。



下手からスッと登場した割烹着姿の内田淳子という女優さんの、美しさと儚さに二人して息をのんだ。
「ああ、こうだった」




舞台は長崎の離島。
超閉鎖的なコミュニティの中でのある家族の物語。

弟の結婚式の朝から物語ははじまる。
美人でどこか影のある独身の姉、ちゃっかり者の妹、弟の教え子と、新妻、姉の元恋人らしき男。

長崎弁で繰り広げられる何気ない日常会話の端々から、浮き上がる「関係性」は実にいびつで、大切なことをはぐらかしたり、タイミングを逃したりするうちに、崩壊の一途を辿る。



どこで間違えたのか、何がいけなかったのかと思い巡らせても、わからない。
すでに私たちは観客ではなく、目撃者になっている。

あーこれだこれだ、という懐かしい感覚と、目に見えないエロス、こんなすごかったっけかと感心し、あっという間の2時間だった。

公演後、内田淳子によるリーディング公演、太宰治の「皮膚と心」も秀逸だった。

「女というものは、誰でも泥沼を持っているものよ」

というセリフが、本編の女たちをも物語っているようで、ぞくぞくした。

女であっても、女というものが時に恐くなることがある。自分ですら。
ふたをして、なかったことのようにし続けることで不幸になるとも限らず混乱し、だからなおのこと、芝居やなんかの虚構の世界に答えを求めてしまうのかもしれず。

観劇後、ともに女である先生と、伊丹駅前のカフェで、私だけビールを頼んでしまった。

鹿殺し、満月動物園そして五反田団「びんぼう君」

金曜日に劇団鹿殺し「青春漂流記」、土曜日に満月動物園「ツキノウタ」、そして今日は五反田団「びんぼう君」をみました。

鹿殺しは…
高田聖子が「高田聖子キャラ大爆発」だったから、確実に勢いあって、
おもしろかったけど、「涙ダ――ッ」的な瞬間はなかったなあ。
彼らのキラキラ感とカオス感がすごく好きで、で、ときに切なくてしんどくてええ芝居みたなあっていう感覚を求めてたんだけど、今回はそれが少し足りなかったかも。ハッピーエンドとはいいがたい、アラサーのメランコリアを見せつけられて、私的に落ち込んだ(笑)。まあ、見る側のコンディションにもよりますね。

満月動物園。
なにより、シアトリカル應天院という劇場に腰を抜かしました。ここで、戒田さんの「生死」をモチーフにした芝居をやるか、と。客席へ通じる2階へ上がる階段の横壁がガラス張りで、本物のお墓がアートのようにこちらを向いてずらりと並んでいるのです。
ま、本物のお寺だから当たり前なんですけど…、シュールでした。
女優さんが全員何かと戦う目をしていて、圧倒的だった。
役者が自分と向き合う芝居をしているかとか、集中力が手にとるようにわかる、恐ろしい劇団だと改めて思いました。

そして五反田団「びんぼう君」!
まず、チラシの前田司郎さん直筆の脱力系文字と脱力系文章。
「たとえ貧しくとも、大切な人がいて、楽しむ工夫をして、健康に暮らせれば、そこそこ幸せなのではないか?」という思いを金持の立場から描いた作品です。僕の家はわりかし裕福だったので。・・・

「わりかし裕福」と、バッサリ言える人は少ない。
その言葉がインプットされた脳で、「お父ちゃん」の巨大にあいた靴下の穴や段ボールで作られたありえない机が飛び込んでくると、もう笑うしかない。

貧乏を笑う、という背徳感を楽しむ。
言葉にするとなんだかひねくれた感じだが、笑えるもんは笑えるんだからストレートにおもしろいんだと思う。仕方ない。

ものすごい守っていた(ように見えた)アクティングエリアが、盛り上がってくると突然ルールが取っ払われたり、男女のわかりあえなさの真髄を小学生女子の「ままごと」から教えられたり。

だらだらした芝居に見えて、実はものすんごく作りこまれているのが、文句なしに「かっこいい」んだ。

この芝居…マジで貧乏な人はどんな風に楽しんだのか。そればっかりは、私も「わりかし裕福」な観客なのでわからない。

というより、2500円払って下鴨東本町まで来れる人は、びんぼう君に比べたら全員「わりかし裕福」だよな。

田舎がほのぼのしてると思ったら大間違いだ!「臭う女〜におうひと〜」

さて、本日は劇団野の上「臭う女〜におうひと〜」です。

一人芝居フェスティバルで知り合った山田百次さん。青森の弘前劇場を経て、自身の劇団を立ち上げたのが2009年。そして、すでに公演3回やってるという。

今夏も一人芝居で全国を縦断するすき間に、アゴラで本公演を1本うつ、という意味のわからないスケジュールをニコニコしながらやってのける、愛すべきお兄さん。

開場後に半分衣装で舞台上から「いらっしゃいませ〜」と言ったかと思えば、おもむろに舞台装置の砂に水をやったり、あ、役に入ったのかな?と思ったら、「かばん、受付で預かりましょうか?」と、また最前列の客に声をかけたり。狙ってるんだか狙ってないんだかの、この独特の可笑しさって誰でも瞬殺されると思う。

でも、おっとりで片づけられないのが、この人の怖いところ。

だって、津軽弁にまさかの英語字幕。
どっちもほとんどわからんよわたしゃ。いくら京都がアカデミックでも。
狂ってるという言葉じゃ片づけられない。

ニンニク農家のおばさん5人がニンニクの皮をむく。(とにかく劇場がニンニク臭い!!)
あそこの嫁と舅があやしいとか、夫のチンポの大きさがどうとか下世話な話にはじまり、ニートの孫とか結婚詐欺とか中国人妻とか介護の話とかサラ金地獄とか、まあほんとに

「田舎がほのぼのしてると思ったら大間違いだ!」

と、驚愕してしまうお話。

けど、それがあまりに津軽の日常で、手に持ってるのがなにせニンニクだから、やっぱりどこかのん気で私にとってはファンタジー。そして黒幕には英字。シュールでした。かなり。そして、ぐっときました。かなり。

人と寄り沿うこと。
シンプルだけど、ぬくもりが生々しい舞台でした。

めったに出会えない種類の「好き」です。

気がついたら、中盤以降はほとんど英語を見ずに笑ったりしんとしたりする自分がいました。

よく考えたら、昨日の中屋敷さんと山田さんは同じ青森出身で、かたやデフォルメされた口語を選び、かたや地元の若者でも聞き取れないほどのネイティブ方言を選び、中屋敷さんはロジックで攻め、山田さんは感性で攻めるという、まったく真逆の道を進みながらも、同じく観客の心をゆさぶるその偶然はなんだろう、と一人脳内県民ショーをしていたのでした。

あえて206号系統のバスで下鴨東本町から京都駅までゆっくり帰りながら。

生きちゃう系?死んじゃう系?「悩殺ハムレット」

最近やけに芝居づいているが、一度のってしまった勢いは、止めることができないので、しばらく漂っておきます。


さて昨日みたのは、劇団柿喰う客「悩殺ハムレット」。今、ノリにのっている劇団です。チラシを見た瞬間から、女優15人の美しさの粒ぞろいぶりには挑戦的なものを感じていたし、それなりの覚悟はしていたけど、うーん。ここまで「若さ」にうちのめされるとは。

しかも昨夜は「ガールズナイト」。予習不足で、お客さんが女子限定なのかな、くらいに思ってたらノーノー。女子2500円、男子5000円。そんなアホな!な、不公平な価格設定のみならず、終演後にガールズトーク的なイベントが用意されていたのでした。

本編はというと、ハムレットを、全員女子でやる(しかも全員20代)。口語で。しかも標準語というよりは、とことん頭悪そうな東京弁というか、ほんまにこんなべしゃりしとる若者がおるんかいな東京では、近頃の若いもんは…的に思わざるを得ないくらいの。

「生きちゃう系?死んじゃう系?それ、問題じゃね?」

そこまで崩すと笑える上に、キチガイになったハムレットとか、亡霊のおとんとかも、軽い軽い!ローゼンクランツとギルデンスターンにおいては、渋谷のクラブを徘徊しとる、どーしよーもなさそうな若者そのもの。でも、だからこそ人間のバカバカしさや弱さが際立って、ストーリーがささってくる気がした。


ただ、それが全員女子である、ということは実は私にはそれほど、プラスもマイナスももたらさなかった。あまりに自然すぎて?

女子である、若い、というパワーを感じたのはむしろアフターイベント。もうすぐ誕生日を迎えるキャストのために、客全員巻き込んで、動画で「卒論ガンバレメッセージ」を撮ったり、「ラストシーンを客席で見たい」というわがままにつきあって、稽古着(たぶんそれも衣装)のまま、ラストシーンを演じたり。新鮮だったし、それこそ彼女たちがアイドルそのものに見えた。


パンフレット読んだら、演出の中屋敷さんには「劇作家」「演出家」「劇団代表」の3つの人格があって、その3人で脳内対談やってて、それがまたすげーおもしろいんだけど、自分の演劇の原点が無名塾の「シェイクスピア」で、女優=女性そのものをリスペクトしているつーことが書いてあって、その生粋ぶりにへえ、と驚いた。

そうかあ、この人本当におもろいなあ。この人の世界観をわかることはできても、同じレベルで共有できる人ってあんまおらんのちゃうかなあ。役者によってもとらえ方がちゃうやろし、何より役者それぞれに強烈な個性がありそうやしなあ。演出って、伝える力いるよなあ。当たり前か、やからこそ、できあがるものの予測がつかんくて、こっちはまた見たくなるよなあ。ずるいなあ。

と、思いながら、チャリこいで帰って、胸がいっぱいだったから豆腐だけ食べて、寝た。

今日の楽日は「乱痴気」の日ということで、キャストをオール入れ替えでやっちゃうらしい。つまり、なんというか、役者は全員2役できるということだ。

舌をぐるぐるぐるぐる巻いてしまいます。

「女体シェイクスピアシリーズ」第二弾はマクベス、だそうです。