グローバルな個人戦略はきっと「幸せ」を「運ば」ない -ニッポンのジレンマ 「僕らの新グローカル宣言」観た-

もはや、毎月恒例になってきたが、やはり感想をまとめておこう。
後で述べるが、この回は大学というものを考える上で僕にとって良い機会になったので、僕自身のタメのメモとして、これまで見聞きしたことも含めまとめておこうと思う。


さて、
録画しといた ニッポンのジレンマ 「僕らの新グローカル宣言」を観た。


グローカル
今回のテーマは「僕らの新グローカル宣言」ということで、とりたてて文言には、新しさを感じなかったので、そこまで期待しないで見始めたのだが(失礼!)、結果的には、これまでのジレンマでもっとも具体的な内容に感じたし、なんだか温かい希望を感じられた回になった。

グローカルとは、グローバルとローカルをかけ合わせた言葉で、早稲田大学なんかも随分前から掲げていたコンセプト。僕なりの理解としては「グローバル社会になっていくわけだが、だからこそ、地域に目を向けよう!」という意味の言葉。なぜ「だからこそ」なのかというと、番組の最初の20分くらいで結構議論もされていたけど、グローバル経済だと体力の無い地方ほど競争に勝てずに取り残されて行く危惧があるため、地域・地方を守ろうという割と後ろ向きな理由と、ローカルなところにこそ日本特有のオリジナリティがあるんだから、それはグローバル化の中でも武器になる!というような攻めの姿勢の両方が含意されて、それが理由(だと思ってる)。

収録は長崎大学で行われ、ゲスト以外でも地域に所縁のある人が登場して、それが議論を具体的で、現場感のあるものにしていてとても良かった。構成として、とても立体感を感じた。JR九州の取り組みとかがJRの担当者から会場で直接プレゼンされて、その辺は「なるほどなー、良いことだなぁ」と興味深く見ていたのだが、僕は経済学者でも地域研究者でもないので割愛。


大学の地域社会における機能
実例として取り上げられた内の一つに立命館アジア太平洋大学(APU)があった。
この大学は大分の別府に2000年に開学され、各種国内雑誌の大学ランクとかでも特色ある大学として取り上げられてると思うのだが、映像を見た限りかなり多くの国から留学生が集まっている様子。登壇した学生もとても生き生きとしてる。

ここで思い出したのが、一連の国立大学改革。国立大学ってのは全国にこれくらい(文科省へリンク)あるのだけれど、僕は、地方大学はある種の日本の「インフラ」であり、地方に残された数少ない、若き人材の獲得マシーンとしての社会機能があると思っている。

2001年、小泉政権下での構造改革で地方国立大の統廃合の必要性が記され、民主党政権下では大学改革実行プランが発表された。

深くは触れないが、研究大学と教育大学、専門学校的な大学をはっきり分けたりする選択と集中のお話で、今回の番組に重要な結論めいた部分を大胆に要約すると、旧帝大と地方国立大の格差が大きくなるだろうと予想される内容である。
この選択と集中は、大学の研究力を上げ、イノベーションを産む環境を作ることが目的なので、それ自体が悪いわけではないが、様々な問題を含んでいる。

詳しくは豊田先生ブログインタビューを参照して頂くと良いと思う。

また、ネット上では割と有名な対談はこちらだが、財政難ということもありとにかく理由があれば(みつければ; 豊田先生のインタビューも参照されたい)予算を減らしたい財務省の思惑もあり、色々相まって、地方国立大が疲弊していくシナリオが予想されているのだ。

確かに、GDP比で見ると日本の研究費は一貫して高い(アメリカよりも)。しかし、総額で見れば圧倒的にアメリカの方が多いことや、中国などの追い上げにも注意したい。
参考資料:総務省統計(リンク先の格PDF) 総務省統計の平成23年度webでの要約 

こう見ると、現在の財政状況だと潤沢なところから一律シーリングされてもしょうがないだろうと思うかもしれないが、ただソロバンをはじいていてもしょうがないと思う(騙されてしまう)。
番組中でも鈴木謙介さんが言及されていたが、(地域振興などの)各種補助金も数だけつじつまを合わせてもしょうがなくて(ただ消化されてしまう→そして行政が仕事した実績に書類上はなる)、問題は「内容とやり方」である。大学の予算は少子化に伴う20代前後の人口推移に基づき必要な予算や人件費が決められていくのだが、そこには「大学が担うべき機能はなんなのか?」という議論、ゴールセッティングが抜け落ちている。


センター・オブ・コミュニティー(COC):寛容な場としての地方と大学
上述のAPUは、地方行政の意思としても協力されたもので、その地域の行政が、短期的な投資をするよりも長期的な投資を選んだカタチだ。地域に国際大学を誘致することで、別府という街に日本国内のみならず世界から若者があつまり、4年間だけかもしれないがその地に住み、日本の、そして大分の理解者として世界に戻って行く。安定的に地域に若者がやってくることと、それによって出来る将来の繋がりにこそ、投資をしたのだ。

このように、僕は大学というものが地域に人材を集めてくる装置としての社会的意義があると思っている。大学改革実行プランでは、大学の新しい法人のカタチも提唱されており、一つの法人がいくつかの大学を経営できるようになったりすると思うのだが、その際に地方国立大の統廃合がおこることも予想される。これは、グローバルvsローカルが二項対立してしまうかのごとき事態に思える。
単に「経営的」観点からのみ、文科省予算(だけの)の費用対効果からのみ、このような統廃合を行うのは、教育の機会均等の観点からも、グローカルな発展の観点からもマイナスに思える。もちろん、豊田先生のインタビューにあるとおり統廃合もやりようによっては良い方向に向かう可能性もある。今後の道州制などの地方行政の方向によっては、地域の枠組みも変わるかもしれないし、藤村龍至さんのいうようにダウンサイジングをはかる必要性もあるようにおもうが、短絡的な統廃合や「選択と集中」による地方大学の弱体化はグローカルな日本の強みを失うことになると思う。このようなことを行う際には、大学が地域にとってどのような存在であるべきかということを考えなくてはならない(まさにこのへんは藤村さんの専門だと思う)。
APUは別府のなかでも山の上にあるそうだが、学生達は「下界」に降りて地域と交わる。学生サークルが主体的に地域に関わり、またNPOなどもそれに協力するような連携が産まれているとのこと。このような繋がりの萌芽がそこにあるのに、なぜ一方では地方大を切り捨て、一方では地域振興を唱えるのか、僕には政策のグランドデザインが、チグハグに見えて仕方ない。

それ以外にも、地方大学にはフィールド調査とかクリーンエネルギーの実装実験、社会実験など様々な研究の可能性が眠っているように思う。こういう「場」が必要な研究には、都会よりも地方にメリットがあることも多いように思う。
PARTY代表取締役(CEO)の伊藤直樹さんが番組中に言っていてその通りだろうなーと思ったのは、地域の「寛容性」がクリエイティビティを生みやすくするというお話。長崎大学の留学生が中心となるサークルによって、留学生の視点から見た「長崎」をテーマにするインデペンデント映画が作製されたのだが、そこから見える世界は地元の人が見た長崎とは違うもので、外から見た「長崎」の再発見(グローカルな強み)につながる。それはそれで大事なのだが、今はそれは置こう。この映画では、ローカル線を貸し切って撮影してたりして、それに対して伊藤さんが「大変じゃないですか?」的なことを質問したんだが、貸し切ってもかなり安いっw
このことを聞いて伊藤さんが、福岡は映画やCMの撮影などでも市が協力的だとか、東京だと人とモノが密集し過ぎて撮影対象以外もカメラに映り込むからすぐにクレームが入ったりするとか、社会学者の新さんも、東京はすぐにスクラップ アンド ビルド が進むから古いものが残ってなかったりするけど福岡だと古い工場とか撮影に適したところが残ってるとか、地方の強みが挙げられた。で、しかも人が(少ないせいか)寛容で色々やりやすい面があると。


その後、鈴木さんから、イノベーションが起きるのに必要な条件として「寛容性」が挙げられて、なんか会場も盛り上がったというか、目が輝いた気がした。鈴木さんからは様々な前向きなメッセージが投げかけられたと思うんだけど、ただ補助金を与えられるよりも、自分が「参加している」という感じがモチベーションになるとか、なんというか、会場には大学生が多かったと思うんだけど、大学という何にチャレンジしても良い場所でどんどんあたらしくて面白いことやっていけば良いじゃん!地方のコンテンツと寛容性、可能性あるし!!(すいません、ざっくりまとめ過ぎですけど番組ではロジカルに語ってらっしゃいます)みたいなのが(ロジカルに語られたからこそ)未来を感じられた。実際、規模の小さい地方の方が、大学や学生が効果的に一つの地方行政区域や地域にコミットしやすい。

ちなみに、上述の大学改革実行プランでは今後の大学の構想として、センター・オブ・コミュニティー(COC)としての役割が明記されており、これはホントに実現して欲しいなぁと思うのだが、実際には研究大学強化よりも大分予算は少なかったので、予算としてもその意思を示して欲しいと思う。

そう言えば、買ったまま、まだ読めていないWIRED「未来都市2050」では、僕の故郷である仙台の新しい地下鉄の構想の話しが書いてあるらしく、この地下鉄は東北大学青葉山キャンパス(マジで山です)と仙台都心部も繋ぐもので、それに合わせて「街」としての機能を持ったキャンパスも造られるとのこと。今回のジレンマのテーマと関連して、読むのも実現されるのもとても楽しみにしている。



Think Global, Act Local:「頭脳流出」から「頭脳循環」へ

さてさて、終盤になって古市さんが、日本に留学した外国人が祖国に戻っちゃう、とか、日本人が海外に流出しちゃう、といった問題を考えると、こういった方向での活動方針は国策としての意義を持つのか?みたいな疑問を投げかけた。この人は、いつもちゃらんぽらんなふりして、こういうカターイ議論もふっかけられて、実は本当にバランス感覚よく鋭い、面白い司会者だなぁと思った。
それに対して鈴木さんによれば、確かに実際留学した人が祖国に戻らないという「頭脳流出」が中国や韓国では問題になっていて(だからこそ韓国は「流出」しちゃった方がうれしいコンテンツ産業とか電子家電など輸出品に力を入れてるらしい)、しかし、それは新興国ほど問題になるということらしい。発言の真意を僕が掴みきれてないかもしれないが、日本の場合は経済規模もそれなりに大きく、その他の環境も良いので、それほど恐れなくて良いのではないかということかもしれない。逆に言うと、日本が元気になる頭脳循環を生み出せる可能性すらあるということだろうか。

実は、若手研究者であるところの僕は、この件に関しては個人的にもよく考える。実際、僕も留学経験を持っておいた方が色々な面で良いと思うのだが、、、金かかるよなーとか、結婚どうしようとか、うかうかしてると親も歳だしなぁとか、とかとか、色々他にも問題はあるのだが、行った方が良いのだろうと思っている。しかし、留学や研究者の生存戦略を取り巻く言説の中には、やや受け入れられないものもある。僕はこれまで色々とキャリアパスのシンポジウムを学会などで運営したこともあるのだが、海外至上主義みたいなものには、どうも馴染めない。
確かに、日本よりもアメリカの方が研究環境が良い側面はある。だが、よくある極論のように、日本の大学はダメで、できれば大学や院からアメリカ行った方が良くて、アメリカでラボを持つことを目指した方が良い、という意見には「個人的」に賛同出来ない(これは、社会全体としてみると頭脳流出である)。

賛同出来ない理由は、それが現状の「ルール」の上で、個人が成功するためのモデルだからだ。あくまで、一個人が。これは研究のみならず、IT系や金融証券系のビジネスでも同じことだと思う。
英語圏だけが覇権を握るという現状自体にも、疑問を投げかけたい。つまり、グロ−バルがローカルを潰すという流れに、僕は乗りたくないなぁと、昔から思い続けているのである。

基本的には、日本の伝統的な縦社会や体育会系的なノリには、僕は全く馴染めず、滅びれば良いと思っている反面、伝統文化とか、自分の故郷とか、そういうものに、残って欲しいという想いが強くある。それは本当に昔からなのか、震災を気にそれが強まったのか、定かではないが。もちろん、地方出身者なので、地縁血縁からなるしがらみだらけのゲマインシャフト的コミュニティの悪さも知っているつもりである。基本的にはゲゼルシャフト的コミュニティで仕事や活動をしたい。しかし、たとえば九月に吉祥寺祭りで今住んでる地域の人に交じって神輿を担いだのだが、地域特有の縦社会を嫌う一方で、それによって育まれた文化は残したいと感じるのだ。

まぁ、そんな流れで、別にアメリカの流れに乗らなくても、日本独自の研究体制・研究テーマで、面白い研究して、世界から寧ろ人を集めるようなことをする方が、面白いじゃん!と思っているのである(ものすごーく、途中の感情とロジックをすっ飛ばしてますが)。


日本とか、日本の研究・文化が面白いなーと思う人が、一時でも日本に滞在し、その状況が入れ替わり立ち替わり続き、日本と繋がりを持った人が海外に戻って、日本人も海外行って、向こうに残ったり、戻ってきたりする。そういう人たちが、日本の中でも外でも出会ってまた繋がりが広がる。そういうことで、良いんじゃないかなぁーと。
で、それを実現するためにも、"グローカル" に活動する必要がある。

そのためには、世界に目を向けつつも、世界からも受け入れる寛容さをもって、アピールすることが重要。日本で、日本の地方で面白いこと出来るなーと思う人が、若者が、国内外に産まれるようにすることで、ゲゼルシャフトゲマインシャフトが共存するグローカルな世界が産まれるのではないかなぁと。

この辺の事情があって、九月のジレンマの『“救国”の大学論』よりも、今回の方が「大学論」としても好きだなぁと思っていたり。



鈴木さんの発言は、とても「愛」があるなーと思いながら番組を見ていたが、こういうことが可能となる寛容な社会は「"大人"がつくっていかないといけない」旨の発言にも、非常に納得したし、自分もそういう大人になりたいし、やはり、何かへの「愛」を感じた。


ちなみに、前のエントリでも触れた、瀧本さんの本を読んで思ったことも、自分の中で深まった印象。



このエントリ、最後の方は疲れてゆるふわな文章になってしまったが、未来を感じる回だった。
"Think Global, Act Local"という言葉は、その道では有名な言葉だと思うのだけれど、僕はあまりこれまで明確に意識はしてなくて、しかし、この姿勢は、最近僕が考えていることだったり、実際の行動だったりの、基本原理になってるのかもしれないなーと思って、この言葉に自覚的になれて、とても良かった。
ある特定のコミュニティやポピュレーションが、もしくは、だけが、構造的に泣いたり、消えたりするのも、捨てられるのも、捨てるのも、嫌なのよね。
自分がそういう環境から抜け出すよりも(個人だけが成功するよりも)、まるっとよくなったなーみたいな世界を、見たいなと。



PS
年明けに行うイベントに、ニッポンのジレンマのディレクターなどもなさっている大西隼さんにも出て頂きます。実は、大学院の先輩なのです。

SYNAPSE Classroom vol. 3「人と動物のつきあいかた」