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菅野康太Blog 輪るPh.D戦略

2011-10-26

「大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査 」について

05:58 | 「大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査 」について - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

日経新聞の記事

大学院、来年度から修士論文不要に 試験などで審査

に対して、思うままに、書き残す。



わらわは、

大学の組織の改革も無く、新卒一括採用が無くなる様な社会の側の変化もないまま、この制度が適用されることは、研究推進上は確実に失策になると思う。

余剰博士問題、学生と指導教員のミスマッチ労働基準法や最近の労災認定基準からすれば明らかに過剰労働なコアタイムを強いるラボ、

これらを回避するための社会政策としてん、ある程度成功するかもしれない。

しかし、研究力の面では、

短期的にも長期的にも、良いことは無いと考える。

学生に課すだけで、組織が変わらないなら。

アメリカ式の評価は、アメリカ式の組織がある上で、成功する。


修論の有る無し、以上に、

とくに、日本の学生が、22歳過ぎてもなお、

試験で評価され続けると思うと、ぞっとする。

東大生なんて、ただでさえ、

受験戦争、進学振り分け、と、

試験試験で、来ているのに。。。

(因に私は、早稲田出身だぐぁ)


じっくり、実験・研究もできなくなるとは、

これ以上、世界と業績でどう戦えば良いのだろうか。


絶対失策、もしくは、形骸化必至。

あんとなく、理系では形骸化に向かう気がする。

東大は、形骸化という策を取りそうな気がする。

じゃなきゃ、やってられん。



僕の疑問は、ゆったり研究に専念したらいろんな研究会に顔を出し、たまに授業に潜ったりしながら外と交流を持ち、自分で研究進められる資質がある院生まで「厳しい筆記試験」を課すというリスクとコストを払って、これまで以上に日本から世界topクラスのジャーナルに載ることが増えるのかということ。

日本でこういうことやって、博士論文が、J.Neurosci.やPNASに載るのが、

スタンダーとになるとか、少なくとも、今よりもよくなるのかということ。


ちなみに、現在駒場に、マウスやラットの行動神経科学に(僕より)詳しい教員がいるとも思えないが、そこでどうやってこのような教育をやるのかと。篩にかけたければそもそも定員減らせば良い。


アメリカではPh.Dがあれば社会にもあるていど認められるし、その「専門性が買われ」、(日本よりは)企業でも職がある。そもそも人材の流動性が高い。

故に、大学側が厳しい査定で質の保証をすることは、学生にとっても人材市場での価値が上がっていいことかもしれない。

しかし、日本にそのような構造は無い。

したがって、研究に割ける時間を、座学や筆記試験のタメに当てることになる。

ただでさえ、テクニシャンが少ない日本のラボで、より効率的な実験をしないと、海外には勝てないことになる。

そもそも実験は、経験量が最後はモノを言う。

優秀な学生でも、修士なんて一つの方法に習熟して、その手法だけでデータをだすのが精一杯なコトも多いのに。

視野を広げるため、であれば、学際研究体制作りに成功しているとはとても言い難い日本で、どこに、そのような広い分野の教育をなし得る教員がいるのか、組織があるのか。オムニバス以上の何が出来るのか。

ただのオムニバスな知識だけ増やして、軸足の無い研究者に、将来だれが共同研究を持ちかけたいと思うのか。

きっと何ものにもなれない。


アメリカでは必修の単位厳しいけど、オーソドックスな分野、例えば、生化学や遺伝学など、単位を持っていれば他の大学に移ってもその習熟度が認められ、単位認定される。院であってもされるらしい。逆に、他大から院を移って、移った先の学部生の必修にあたるものを履修した経験が無ければ、学部生に混ざって授業を受けさせられる。

しかし、今回の制度にそのようなものがあるのか、不明。印象としては、なさそう。

しかし、このような制度も、教員と大学の側に、これだけの教育をする準備があるからできることで、

組織の側に変革と準備が無く、研究の効率化もされず、

学生の側だけにあらたな措置をするのは、

意味不明としか、思えない。

日本の大学の研究の担い手なんて、実際院生なんだから、

8年後くらいの業績が、落ちるのではないかと思う。


僕は、一過性の筆記試験でそんなことさせるより外部に副指導教員みたいなのをおいた方が、良いと思う。

逆に、研究する気のある院生にとっては、

そこそこ研究以外の経験もしつつ(例えば近年のサイエンスコミュニケーションなど)、ゆったり自由に研究出来て、まぁ、自由なら、悪くもないとも、思うこともあったけど、中途半端にその自由さも無くなるなら、

これは、研究したければ、いよいよ、日本なんかいないで、海外行くしか無くなると思う。

それに、論文の形式自体が、科学的思考の体現であって、例えば結果と考察を明確に分けるなどの実践の場で有り、修論を書かなくていいと言うことは、そのような実践の場も減少することになる。

じゃあ、修士の間なにやってんだと。まとめることも念頭に置かずに、なんの研究するのかと。落とし込む力とか、どこで着けるのかと。

まぁ、修論の有無は、各研究科にゆだねられるようですが。


僕は、学生にとっても、日本の研究力の成長戦略としても、

全てにおいて価値が無い愚作としか、思えません。


実力の無い院生を、博士に上げないように篩にかけたいなら、

修士の定員も減らせば良い。まぁ、育て上げる気もないなら、

院生という研究戦力すら、日本の大学から減るコトになるが。


と、書きなぐってしまいましたが。。。




ちなみに、この政策への印象は、

twitterを見る限り、理系と文系の人で、違う。

can-nocan-no 2011/10/27 06:01 まぁ、きっと形骸化という結末です。
可哀想ですね。僕の、数年下の世代っていつも。
教師とか、学校組織が変わること無く、御上のアレで制度にだけいつも振り回されて。

試験の時期と、就活もかぶっちゃうだろうし。

can-nocan-no 2011/10/27 06:53 わらわの様な者の考えを、科学技術社会論やサイエンスコミュニケーションを含む人文・社会系の人は「やはり感情的に反対している。修論の話が一人歩きしている」と思うのであろう。しかしそれは、実験やってるものから言わせれば、従業員を蔑ろにした、経営者や株主の論理の様なもの。最近ずっとそうだ、3.11以降特に。

2011-08-15

SYNAPSE Lab. のHistory的なもの

| 03:55 | SYNAPSE Lab. のHistory的なもの - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

現在のSYNAPSEに至るまでの活動歴および活動費・援助など


2009

4月

菅野(専門:神経科学)が、東京大学大学院副専攻・科学技術インタープリター養成プログラムの先輩である住田(専門:科学史、元 日本科学未来館サイエンスコミュニケーター)から呼び出され、東京大学UTCPが主催する「こまば脳カフェ」のミーティングに参加。そのまま菅野が第一回こまば脳カフェのスピーカーに。

10月

日本科学未来館にて、菅野が副専攻修了研究の一環として、サイエンスアゴラ2009 トークイベント「Art, Brain & Communication! -芸術と科学の接点-」を開催。ゲストは映像作家・音楽家の高木雅勝氏と東京大学大学院医学研究科の坂井克之准教授(当時)。このとき、大学およびBRUTUSアルバイト時代に菅野の後輩であった塚田が非公式に広報を担当。

12月

菅野と住田が第6回こまば脳カフェ「哲学×脳科学」を企画。研究会や喫煙所で以前から知り合いであった飯島(専門:認知神経科学、ゆるふわモテ形而上学)を召還、指定討論者に。ゲストはともに哲学者で、名古屋大学 戸田山和久教授と立教大学 河野哲也教授。理研BSIの藤井直孝氏が観客として一撃を放った。



2010

4月

東大本部広報清水氏より、東大オープンキャンパスで配布する冊子として、アカデミックグルーブの続編ミニ・アカデミックグルーヴの編集依頼を受ける。菅野、飯島、住田、塚田が編集チームを組み、塚田が「パターン・カタチ・リズム」というテーマが決まった直後に思い立ち、おもむろに知り合いであったNOSIGNERを下北に呼び出す。即、意気投合し、SYNAPSE Vol. 1のアートディレクションを担当することになる。

*制作費は東京大学総長裁量費による。

6月

飯島と菅野が申請した企画「東京大学を編集して魅せる!」が、東京大学学生支援事業・第3回学生企画コンテスト <学生による「タフな学生養成企画」>で優秀賞(1位)を受賞。SYNAPSE Vol. 2制作、イベント実施、本ホームページ作成などの運営費援助を受ける。その後、ホームページのディレクションをHitsme代表の佐々木新氏に依頼。また、本活動を通して、飯島の知人で福島、菅野の後輩筋である竹内、岡部が企画・運営に加わり現在のSYNAPSE Lab.のカタチに。



2011

塚田が申請した企画「学術と世界を繋ぐSYNAPSE Project」が、ソーシャルベンチャースタートアップマーケットから支援を受けるカタチで活動を継続。

2011-08-13

科学が、科学たるための、流儀

| 00:53 | 科学が、科学たるための、流儀 - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

twitterからの転載ですけど。

実は、とある晩の、どこぞの方面の方々の、

僕がくだらないと思ったTL上の議論に関して、そのときはメンドクサイからクビを突っ込まなかったけども、そのとき思っていたことも含めて、なんとなく、まとめる。




科学者教育の初期においてもっともしつけるべきものは、「結果と考察を明確に分ける」ことだと、改めて思いますね。結果が素朴に示すものは何で、それは自身の仮説を支持するのか、否定するのか、予期せぬ発見があったのかを、まずは狭い範囲で考察したうえで、夢のある考察である妄想を未来に繋ぐ。

論文に使えるのは、狭い考察くらいだけど。 総説とか書く機会あれば、妄想を仮説というカタチでぶち上げも可能か。 モデルの提唱。 そのモデルじゃダメなら、更新すればいい。 Articleで新仮説まで言えれば、そうとうな実験・研究。 将来的には、僕もそこを目指す。

経験的に、修士や博士の予備審査などで、結構すごそうな発見してて実験量もあるのに、他の可能性に留意せず自分の結果を過度に評価しすぎると「そこまで攻め込まなくても・・・」ってくらい先生たちがカチンと来てる感じの質問する。 


(さすがに先生たちは、意識的にか無意識的にか、結果と考察を明確に分けているのだろう。まともなひとなら。昔の科学者は、けっこうその辺うるさかったんじゃないかとおもう)


そこそこ結果があって、示せたことは少なくても的確な考察と、今後の展望を示せると、まぁまぁの反応が返ってくる。 もちろん全て完璧に出来れば良いけど、そうもいかないから、今後独り立ちするのに必要な能力としては、得られた結果に適切な考察をあたえつつ、次の夢を追うための計画を練る力、だろうと思う。テーマを捨てる、とうい選択肢も含めて。捨てる前には、コンパクトでも、まとめられるとこはまとめる。

しかし、最初からコンパクトにまとめることばかりしてると、諦め癖が付くから、ある程度期限決めて、粘る。 どこで粘るかは、センスと、運かな。あとは、自分がやりたいことに正直に。その方が、前向きに、諦めもつく。



*予備審が間近に迫った院生の、戯言であるっw 功を急いで大事なものを見落とさないように。



結果と考察を分けるというものは、科学を科学足り得るものとしている、もっとも重要な点な筈。 極論すれば、考察には誰もが同意出来なくとも、結果は誰もが重要だと判断することも、あり得る。

ぼくなんかも、ダン性ホルモンであるアンドロゲンに注目してるから、前立腺癌の研究は勉強になる。アンドロゲン受容体の分子特性に関する結果は、僕の実験にも即応用可能である。 でも、僕は脳の研究しているので、機能に関する考察は、ほとんど飛ばし読み。(前立腺と脳では、その分子周囲のマシーナリーが違うので、要注意)



考察まで含めて、広く広まるのは、とてもいことだけど、むしろ、結果が「一人歩き」することが、科学における参照可能性を上げるだろう。技術的問題がない限り、理論は時代とともに更新されても、結果は何かを示し続ける。

イントロと考察には、科学も人の営みなので、主観やイデオロギーが入り込む。 なので、結果はむしろ、結果だけ一人で歩かせて、様々な研究者に引用され、ヒントを与え、共有されればよい。 それによって、実験をおこなった研究者のバイアスを排して、次の結果や考察が行われるから、科学の客観性は、コミュニティとして担保されうる。 だからこそ、書く側も読む側も、結果と考察を明確に分けるべき。 

nature型、PNAS型の論文は、字数の関係でソコの線引きは不明瞭。

最近は、若い研究者の採用期間も短く、競争も激しく、必要とされる業績も多きので、そりゃ。nature, cell、Neuron、Nature neuroscience、PNASなどに、論文を出したい。

でも、だからと言って、そういうジャーナルの論文ばかり読むことは、科学者に必要な姿勢を身につけさせると言う教育的側面からは、良くないと思う。



ところで、

考察が寧ろ一人歩きしたのは、「脳科学が自由意志を否定する」という論拠にされる、リベットの実験とか? さらっと見た感じ、僕は、あの結果が自由意志を否定するとは、必ずしも、思わなかった。

僕はちょっとしか哲学などの人文系の論文を読んだことがないので、よくわからないというのが本音なんだけど、科学論文程は明確に章の区別とかがない様な気もするし、レトリックも駆使して議論をしていくので、まるっと考察やその他の表現も含めた思索をひとまとめにして、読み取るのだろう、な。

can-nocan-no 2011/08/14 01:01 ちなみに、僕は人文、社会系学問の考え方、記述の仕方が悪いとは、言ってません。政治的立ち位置を含まない議論は、科学であっても科学技術政策などでは、ありえないので、寧ろ、思想やイデオロギーも含まれる考察まで含めた評価がなされて当然と思います。

しかし、科学が特徴である客観性の担保のためには、結果と考察をきちんと分けることが重要でり、この作法的な流儀を維持することは、科学の本質を守るためのものである、ということで、担うべきものが違うだけの話です。です。

2011-07-21

『専門家』の責務としての科学コミュニケーション 山口浩

| 11:39 | 『専門家』の責務としての科学コミュニケーション 山口浩 - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

WEBRONZA、シノドスの記事(表題に同じタイトル)で

SYNAPSE projectが目指していることが書いてあったので、

備忘録的に、リンク。

http://webronza.asahi.com/synodos/2011072100002.html

2011-06-26

嘘をついたら終わりとなる

02:45 | 嘘をついたら終わりとなる - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク


今日も、NHK 最後の楽園 Hot spots、良かったなぁ。ああいう、大きな流れの中での研究をしたいんだよなぁ。 進化的にというか。 生態という、ファクターの多い中から一本の流れをつかみ取る研究と言うか。 やっぱり、技術とは違うんだよな。目指すところが、科学は。

日本には、そういった、進化的、生態学的な動物行動がなぜ起きるのか、可能なのかを、麗しく解き明かしてきて神経行動学者達が沢山いたんだが、 やりづらい時代になってしまったのだな。 

正直、応用可能性も、科学か技術かも、1番かどうかも、Only 1かどうかも、全てがどうでもいいんだが。 説明責任も、社会との関係とか、科学者の責任とか。 そんなもの全てを圧倒する、大きな流れが、そこにあり、それを、掴んでみたい、だけなんだが。



正直なところ、やりたい研究以外は、やりたくはない。

そのためには、ボスとの関係も重要。

しかし、最近は、社会との関係も、厄介だ。

必要以上に、説明責任が必要になった。

アカデミックフリーダムは、いつの間にか、消えた。

それは、大学が単なる通過儀礼となったからか。

はっきり言えば、ここまで数十年の、

大学人と、非研究者である、社会の両方が悪い。

みんな、悪い。


科学者も、ただただ、自分が面白いと思うこと、

信じるところ、なぜ、科学に惚れたのか、それを、

ただ、語れば良かった。


戦後、学びの喜びを知っていた大人達は、

学びの楽しさ、世界をあり方をただただ眺めることの重要さを感じる「暇」を、

効率化の下とに、次世代から奪った。

そしていまだ、次世代に時代を譲らず、のさばっている。


自分たちが変えてしまった次の時代の流れに、

乗ることもできず、朽ちていくのだ。

しかし、その流れも、淀んでいる。


科学や技術と、社会を繋ぐ筈だった、

サイエンスコミュニケーションの業界からも、

教科書的な物言いしか聞こえてこない。

結局のところ、現場レベルの、

科学と技術の精神の違いは、あの業界には、

理解されていない。

研究のことも、分かっていない。

おそらく、このままいけば、

3.11を経て、彼らは政治的ポジションどりに終始することとなる。

科学側からも、社会・政治の側からも、必要とされなくなる。


科学は美しくなくなった。



次世代の旗手は、誰なのか。

残念ながら、今の僕は、

カスの様な前世代の産物的科学を、せざるを得ない、存在である。

時は、まだ来ない。