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菅野康太Blog 輪るPh.D戦略

2011-11-02

事実を見つめて

| 01:25 | 事実を見つめて - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

どうすれば今の状況を抜け出せるのか、分からないのだけれど、

事実を見つめる姿勢を忘れないことにしました。

運命の至るところが、想いと違えど。

2011-10-08

いやぁ、研究って、本当に上手くいかぬぁいですね。

| 01:34 | いやぁ、研究って、本当に上手くいかぬぁいですね。 - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

何をやっても、何も出ません。

自分のテーマが、重要ではなさそうだと言ことだけが、

分かってきました。

2011-08-13

科学が、科学たるための、流儀

| 00:53 | 科学が、科学たるための、流儀 - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

twitterからの転載ですけど。

実は、とある晩の、どこぞの方面の方々の、

僕がくだらないと思ったTL上の議論に関して、そのときはメンドクサイからクビを突っ込まなかったけども、そのとき思っていたことも含めて、なんとなく、まとめる。




科学者教育の初期においてもっともしつけるべきものは、「結果と考察を明確に分ける」ことだと、改めて思いますね。結果が素朴に示すものは何で、それは自身の仮説を支持するのか、否定するのか、予期せぬ発見があったのかを、まずは狭い範囲で考察したうえで、夢のある考察である妄想を未来に繋ぐ。

論文に使えるのは、狭い考察くらいだけど。 総説とか書く機会あれば、妄想を仮説というカタチでぶち上げも可能か。 モデルの提唱。 そのモデルじゃダメなら、更新すればいい。 Articleで新仮説まで言えれば、そうとうな実験・研究。 将来的には、僕もそこを目指す。

経験的に、修士や博士の予備審査などで、結構すごそうな発見してて実験量もあるのに、他の可能性に留意せず自分の結果を過度に評価しすぎると「そこまで攻め込まなくても・・・」ってくらい先生たちがカチンと来てる感じの質問する。 


(さすがに先生たちは、意識的にか無意識的にか、結果と考察を明確に分けているのだろう。まともなひとなら。昔の科学者は、けっこうその辺うるさかったんじゃないかとおもう)


そこそこ結果があって、示せたことは少なくても的確な考察と、今後の展望を示せると、まぁまぁの反応が返ってくる。 もちろん全て完璧に出来れば良いけど、そうもいかないから、今後独り立ちするのに必要な能力としては、得られた結果に適切な考察をあたえつつ、次の夢を追うための計画を練る力、だろうと思う。テーマを捨てる、とうい選択肢も含めて。捨てる前には、コンパクトでも、まとめられるとこはまとめる。

しかし、最初からコンパクトにまとめることばかりしてると、諦め癖が付くから、ある程度期限決めて、粘る。 どこで粘るかは、センスと、運かな。あとは、自分がやりたいことに正直に。その方が、前向きに、諦めもつく。



*予備審が間近に迫った院生の、戯言であるっw 功を急いで大事なものを見落とさないように。



結果と考察を分けるというものは、科学を科学足り得るものとしている、もっとも重要な点な筈。 極論すれば、考察には誰もが同意出来なくとも、結果は誰もが重要だと判断することも、あり得る。

ぼくなんかも、ダン性ホルモンであるアンドロゲンに注目してるから、前立腺癌の研究は勉強になる。アンドロゲン受容体の分子特性に関する結果は、僕の実験にも即応用可能である。 でも、僕は脳の研究しているので、機能に関する考察は、ほとんど飛ばし読み。(前立腺と脳では、その分子周囲のマシーナリーが違うので、要注意)



考察まで含めて、広く広まるのは、とてもいことだけど、むしろ、結果が「一人歩き」することが、科学における参照可能性を上げるだろう。技術的問題がない限り、理論は時代とともに更新されても、結果は何かを示し続ける。

イントロと考察には、科学も人の営みなので、主観やイデオロギーが入り込む。 なので、結果はむしろ、結果だけ一人で歩かせて、様々な研究者に引用され、ヒントを与え、共有されればよい。 それによって、実験をおこなった研究者のバイアスを排して、次の結果や考察が行われるから、科学の客観性は、コミュニティとして担保されうる。 だからこそ、書く側も読む側も、結果と考察を明確に分けるべき。 

nature型、PNAS型の論文は、字数の関係でソコの線引きは不明瞭。

最近は、若い研究者の採用期間も短く、競争も激しく、必要とされる業績も多きので、そりゃ。nature, cell、Neuron、Nature neuroscience、PNASなどに、論文を出したい。

でも、だからと言って、そういうジャーナルの論文ばかり読むことは、科学者に必要な姿勢を身につけさせると言う教育的側面からは、良くないと思う。



ところで、

考察が寧ろ一人歩きしたのは、「脳科学が自由意志を否定する」という論拠にされる、リベットの実験とか? さらっと見た感じ、僕は、あの結果が自由意志を否定するとは、必ずしも、思わなかった。

僕はちょっとしか哲学などの人文系の論文を読んだことがないので、よくわからないというのが本音なんだけど、科学論文程は明確に章の区別とかがない様な気もするし、レトリックも駆使して議論をしていくので、まるっと考察やその他の表現も含めた思索をひとまとめにして、読み取るのだろう、な。

can-nocan-no 2011/08/14 01:01 ちなみに、僕は人文、社会系学問の考え方、記述の仕方が悪いとは、言ってません。政治的立ち位置を含まない議論は、科学であっても科学技術政策などでは、ありえないので、寧ろ、思想やイデオロギーも含まれる考察まで含めた評価がなされて当然と思います。

しかし、科学が特徴である客観性の担保のためには、結果と考察をきちんと分けることが重要でり、この作法的な流儀を維持することは、科学の本質を守るためのものである、ということで、担うべきものが違うだけの話です。です。

2010-11-11

進化神経行動学

| 03:36 | 進化神経行動学 - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

夏に岩波書店の方から頂いた、科学六月号を、最近読んでいる。

特集は「進化神経行動学」。

昔は、学部生にしてはこの手の話に詳しかった筈だが、

最近では全くアップデート出来ていなかった。恥ずかしい。

ヒトの疾患モデルとしての培養細胞、マウスに関する論文を

読んでばかりいたからかもしれないが。

本特集の冒頭、ロナルド・R・ホイ氏のエッセイによると、

進化集団遺伝学者のテオドシウス・ドブジャンスキーは

「進化的な見方を排した生物学は生物学ではない」と

過去に言い切っているらしい。

それは、私も同意している。

生物学の「なぜ?」に答えるには、

大きくは二つの答え方が有る(厳密には4つらしい)。

至近要因的な答え方と、究極要因的な答え方だ。

前者は主にメカニズムの説明をし、後者は適応的な答え方をする。

(なので、厳密には前者は「Why」に答えるというより「How」だ)

例えば、なぜ色が存在するのか、という問いに対してはこうだ。

ある波長に反応する視細胞が眼に何種類か有り、その細胞から

脳の視覚野に神経が伸びて、情報が処理されるから。

コレが至近要因。

もうひとつは、色を識別出来た方が、

果物などの状態を判別するのに都合がいいため、

採取をする生物に取っては進化的に有利・適応的だったから、

という答え方。究極要因。


まだまだ素朴だった高校生・学部生の頃の私には、

この二つが揃っていた方が腑に落ちるし、今もそうだ。


私が信頼するある研究者が、現在の科研費のあり方等を話しながら

研究会の飲みの席でこういった。

「疾患から学ぶこともある。でもそれだけでは生物は理解出来ない」



生物医学の発展のためには、

つかいやすく、ゲノム情報が揃っているモデル生物やヒトを

主たる対象として研究することは理にかなっているし、

否定はしない。

しかし、生物とは何か、生命とは何か、

生物に行動を起こさせている「心」や「意識」、

「情動」のようなものは何なのか。

これらに答えるためには、ドブジャンスキーの言う

「生物学」がなくてはならいない気がする。

我々ヒトが認識している世界など、この世界の一部に過ぎない。

それは、比較生物学的な知覚の研究を見れば明らかだ。


以下、twitterでの私のつぶやきから。


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ものすごい、不勉強だった。分子のことはそこそこ詳しくなったのかもしれないが、それだけで理解出来るものの幅等狭い。応用可能性は高いが、個体レベルでの専門性にはほど遠い。

昔の方が、知識の得方の質が高かったように感じる。学部生の頃。最近はモデルとしてのマウスや疾患に特化し過ぎ。

動物は、人間からしたら恐ろしい感覚、知覚をする。それでもってコミュニケーションもする。世界とは何なのかを、あらためて考えさせられる。つまり、我々の人間の脳で構成されてる「世界」など、この世界のほんの一部に過ぎないだろう。

比較生物学、進化生物学の観点を持つと、動物ごとの世界の取り入れ方の違いに注目することになる。神経系が可能にしている「認識世界」や「意識世界」が同じ物理空間に存在していても我々と違うことになる。これは、意識や心とは何かという本質的な問いに繋がる気がしている。生きることとは?にも。

同様の意味で、池上先生の様な複雑系を用いた理論的研究にも、最近実は比較生物学的な意味合いを、僕の中では勝手に感じている。

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SYNAPSE Vol. 2の編集を始めた関係で、

光とは何なのか、から動物の視覚世界を調べているので、

こんなつぶやき。


脳の分野もサルやヒトの心理実験の話はやはり主流で、

とても興味深い。


普段、分子の実験をしていて、学部生の頃のような

個体レベル、行動レベルの実験から離れている私にとって、


サルやヒトの研究をしている人達の議論はとてもエキサイティングだ。

今の自分が惨めになるくらい。うらやましい。


しかし、いまさらモデル動物を離れる気も、そんなにない

というのが、私の現状。

分子のツールを得た私に、何が出来るか。

そのヒントも、進化神経行動学の論考にある気がしている。


神経科学、脳科学分野には、医者もいれば心理学者もいる。

近年では、経済学者もいる。

そんななかで、やはり私の立ち位置は

「生物学」だと、最近強く感じている。

進化神経行動学の視点をもちつつ、

モデル生物で研究する。比較対象には、ヒトもはいる。


もやもやっとした感じで、最後の方は

ロジックが整っていないが、明日は朝からゼミなのでこの辺で。


やはり最近興味深いのは、

コミュニケーションにおいても嗅覚系、フェロモンの

影響が大きいマウスにおいても超音波域での

音声コミュニケーションやLove songを使っているということが

わかり(解ったのはかなり前)、近年は研究の環境が整っているということ。

モデル動物としてのマウスは、生物学の対象としても、

まだまだ侮れない存在かもしれない。

2010-10-07

備忘録:ルーキーについて書こう

| 02:06 | 備忘録:ルーキーについて書こう - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

ちょっと、科学とかサイエンスコミュニケーションの現場における、

「ルーキー」という存在について、近々書こうと思う。

対比するのは、スポーツ、ワンピース、など。