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菅野康太Blog 輪るPh.D戦略

2015-02-28

世界との接点とも言える色の情報は、どちらも確かに残されてはいるようだ

19:50 | 世界との接点とも言える色の情報は、どちらも確かに残されてはいるようだ - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

話題になった「ドレスが白金に見えるか、青黒に見えるか」問題は、僕には結構重要な問題だった。

色は、僕にとって非常に大事な、世界との接点だからだ。

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ことの次第がよくまとまっているかなぁと思える記事はこちら。リンクも豊富。

http://www.softantenna.com/wp/unknown/dress-color/

SNSで知人の反応をみてみると、「白金に見える人」と「青黒に見える人」の両方が、それぞれ結構な割合でいるようだ。はじめはどちらかに見えていたけど後で見たら別の色にも見えた、という人も多い印象。

ちなみに、僕にはどうあがいても白金にしか見えていない。

色調情報としては、薄い青というか、うすい紫に分類されるであろうとは理解しているが、経験的には光沢のある白いシルクのようなものに影かかったときの見え方のように思う(と僕の脳が処理しているのか)。

このようなことがなぜ起きるのか、その認知科学的考察としてはこちらが丁寧で分かりやすく面白かった。

なぜドレスの色の錯覚はおきたか?-色の恒常性-

上記考察にも載っているが、AとBの色が実は同じ、という色の恒常性を示す有名なこの絵は、何度見ても面白い。

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この考察でも示されているように「ドレスと光源の位置関係をどのように認識しているか」がこの色の認知問題のポイントだということで、ドレスの部分だけを自分でトリミングした画像を見てみたのだが、どうも、白金にしか見えない。色調を冷静に判断しても「薄い紫と黄土色」が良いところだろう。。。

経験上、色の認識の錯視問題は、周辺情報を切り落とすと納得が出来る(例えば、上記のタイルと柱の絵でAとBの色が同じであると感じる)のだが、どうも、このドレスの問題は納得出来ない。どうして、青黒に見える人がいるのだろう。。。

web上のツールで、トリミングした画像を解析した結果がこちら。

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やはり「薄い紫と黄土色」である。

しかし、友人はtwitter上で僕が紫と言うこの色を「青だ」というので、この時点で既に個人差があるのかもしれない。

僕は色の心理学的・認知神経科学的理論については詳しくないのだが、日頃、色は意識しているつもりで、エクセルなんかにデータを打ち込むときもカテゴリごとに色分けしたりしているので、毎日カラーパレットを何度も見てる。ので、やはり、紫系に思う。今、カラーパレットで色を確かめてみてもなお... 。 顕微鏡も頻繁に使うので波長のことも普段から考えているし。

むかしやってみたこちらのテストでもかなり成績がよかったので、僕の色の弁別域があいまい、ということはないように思う。寧ろ、良い方だろう。暖色系の弁別は少し弱いように思う。

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Online Color Challenge


昔、母とした口論を思い出した。

母に「そこの黄色い湯呑みとって」と言われ「そんなものは無いが」と答え、「そこにあれでしょう!それ!!」と指を指され「コレはどう見ても緑じゃないか。百歩譲っても黄緑...」、「黄色でしょ!!」

これは、認知の個人差ではなく、どの色を黄色と命名するかの経験(学習)の違いによるかもしれないが、色以外のことでも、僕の人生には結構この手の口論は耐えなくて、しばしば「強情だ」「頑固だ」「神経質だ」「融通がきかない」などと罵られるのだが、しょうがないだろう。色調は青と黒を示していないし、僕には白金(もしくは湯呑みなら緑から黄緑)にしか見えないし、色調としても薄紫と黄土色なのだから。

しかし「どちらにも見える」という人が結構いるので、そういう「認知機構の柔軟性」みたいなものがあるのだろうなぁと思うし、主観的な色というのは客観的に定義されえないものなのだから、そう見えることを否定するつもりもなく、ただ、やはり僕は認知のシモのレベルから「強情」で「頑固」で「神経質」で「融通がきかない」のかもしれないなと、色々諦めみたいなものがついた気もするし、話し合いとかの以前のレベルでの断絶があることを受け入れて、やはりひっそり生きていった方が良いのかもしれないな、と、自分について思うのである。


自分についての戯言はともかく、世界をどのように認識しているか、というのは非常に重要な問題で、実は我々SYNAPSEでも何度か取り上げて来た。

SYNAPSE Vol.2 のテーマは「光」で、「ニュートンゲーテの色彩論」およびその神経科学的解釈を飯島さんが、動物やヒトにおける色覚の違いの生物学的解釈を僕が書いた。

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*中央見開きに見える図の、上段が色弱の人とそうでない人の色の見え方の違い。下段が人間が見てる世界(普通の写真)と紫外線撮影(昆虫とかには「こう見える?」的な写真)。昆虫が見ているであろう世界の撮影については福岡教育大学の福原達人先生のHPに詳しい。SYNAPSE vol.2でも福原先生から写真をご提供頂きました。

もう残部がないし、web公開もしてないので、残念である。アートディレクションを担当してくれたNOSIGNERさんが、コチラで少し内容に言及してくれいる。

神経科学的背景は、こちらのブログ

「色は眼ではなく脳が見ている?」- スウィングしなけりゃ脳がない!

10年も前からこういうことを書いてらして、偉いなぁ。


とあるイベントに参加した際に共感覚写真家さんと話したのも、他人とジブンの認識世界の差異を考える上で、非常に大事な経験だった。

誰かの視点を想うこと

共感覚関連本のレビュー


色弱の人なんて、特に男性だととても沢山いて(たぶん全国の「鈴木さん」と同じくらい)、社会的に考慮すべき課題。実際、色んな機械の電源が「充電中→完了」に変わったかどうか色では弁別出来なかったり、地下鉄の路線図の色分けが分からなかったりという問題があって、それらは結構改善された。そのへんは、伊藤啓先生のHPに詳しい。

色覚バリアフリー

SYNAPSE vol.2でも写真を使わせてもらいました。


色のシミュレータというアプリがあって、コレを使うとモノが色弱の人にどう見えるかを画像化してくれる。プレゼン資料をつくっているときなど、僕もよく使う。

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Photoshopにも、色弱の人にどのように見えるかをチェックする機能が、実は付いている。色覚バリアフリー・カラーユニバーサルデザインは是非広まって欲しい。10年くらい前に、プレゼン用のポインターに緑が登場したのも、そういう経緯なはず。



科学的な考え方というのは、無味乾燥としていて冷たいものと、とらえられることもあるけれど、科学的であるために必要なものとして客観性があり、客観的に考えるということは、自分以外の何ものかの視点から考えるということなので、感情的なエモい共感とかよりも、案外(いや、絶対)「他者」に対して優しい。共感はともすれば自分と似たものにばかりしてしまうので。

その辺は、この辺を読んでもらいたい。結構現代に必要な考え方だと想う。

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)

科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)




だいぶ話がそれたが、やはり、青黒に感じられない自分が気持ち悪い。一番最初に紹介した記事で、このドレスがAmazonに載っているとのことだったので、見てみた。

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見える!見えるぞ!!!青黒に!!!!(良かった)

確かに、ドレスの色は青黒らしい。だとしたら、認知的な問題の他に、もう一つの謎が立ち上る。この、明らかに(めっちゃ濃い)青と黒が、なぜ、画像解析からしてもかけ離れた白と金になったのだろうか???

これはこれで、信号処理の問題として、なかなか面白いように思う。直感的に、めっちゃつよい白熱灯の近くだと、黒も黄色みがかって黄土色っぽくなるだろうか。周辺環境と、スマホカメラのある種の質の低さによって可能になった写真では無いだろうか。かなり、特殊な撮影で、普通の状況ではありえなそうにも、未だに思えてしまうのだが。

「ありえなそうなことだけど、ありえること」として、飯島さんからペンローズの三角形について、昨夜教えてもらった。



ともかく、だ。

今後、神経科学・認知科学の授業や講演でこの写真を題材に多くの先生達が色覚についての話しをするだろうし、今回のことで自分と他者の違い、とくに言語で語り合う以前の知覚・認識世界の違いについて、人々が語り合ったのは良いことだと思う。SNSによってそのための題材がつくられたのも面白い。この思考を拡大解釈していくと、少し世界の平和に近付くと思う(とても希望的アレだが)。



さて、個人的に最後に残された問題は「なぜ僕には白金にしか見えないのか」だ。この個人差はどこからくるのだろうか。強情なまでのロジカルさが、認知までも変えてしまっているのか。どうなのかしら。

Photoshopのポスタリゼイションの機能を使って、しかも諧調を「2」にして、色調をexaggerateな感じにしてみた。

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確かに、画像の情報としては、黒も青も、白も金も、水色も紫も黄土色も、なにがしかの連続したグラデーションとして含まれているようだ。思ったほど、断絶は無いのかもしれない。もしくは、断絶の壁は越えられるのかもしれない。



ところで、勝手に言及してごめんなさい、ですが、SNSで知人が件のドレスについて「絶対買わないからどっちでも良い」と言ってたのが、なんだか救われるなぁ。

2014-11-16

【越境する理科教育がくるのか!?】おじいちゃん達はこれからの理科教育をマジで考えていた

00:01 | 【越境する理科教育がくるのか!?】おじいちゃん達はこれからの理科教育をマジで考えていた - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

今日は、(財)理数教育研究所主宰の

シンポジウム 小・中・高の理科カリキュラムを考える」(PDF)に行ってきました。

というのも、この団体が次期学習指導要領の改訂に向けて、かなり具体的な理科教育に関する提言をまとめており、その委員会委員長が僕の博士課程の指導教員だった石浦章一先生(東京大学大学院総合文化研究科)だったからです。残暑伺いを送った折りに、その返事に「これからの理科教育に一石を投じたい」旨、仰って、興味がありました。最近関わってることが、理科教育と無縁ではないため、勉強の意味も兼ねて。

*ちなみに、大学が法人化されてからは 指導"教官" ではなく 指導"教員" と呼ぶべきであるというのは、石浦先生のがよく仰ってることでした。

会場に行ってみると、休日のシンポジウムなのに8割5分の人がスーツだし、スタッフの人達もスゲー腰低いし、「え、政治色強いの??恐いの???」と思いながら席について、場違いだったかなぁと思いつつ開始を待ちました。始まってみると、やっぱり司会の人の喋りもお役所っぽいし、最初のお話は文科省審議官の方で、スライド文字多いし、

「ああ、やっぱり教育系って、こういうことなのかしら」

と思ってしまいました。

しかし、実際にカリキュラム案の提言をつくった先生方のお話が始まると、先生達がマジで提言を作ったのだということが分かりました。

この委員会は、小中高の先生達と大学の先生達から構成され、あたらしい物理・化学・生物・地学のカリキュラムについて、かなりの回数の会合を開いて策定が進められたようです。

まずは石浦先生から全体の説明がありました。

よく言われることですが、小学生くらいでは理科は割と「好きな科目」に分類されるですが、学年が上がるにつれて児童・学生から重要視されなくなっていきます。その理由は、学年が上がると抽象概念が増え、自分の生活や社会との結びつき、繋がりを感じにくくなること。難しくてとりあえず点を取るために暗記科目になり、つまらなくなること。そして、理系に進むことが就職に有利ではないこと、が挙げられます。ここ、かなり僕の言葉で言い換えてます。実際には様々なアンケート結果をもとに議論してました。

地学のパートの先生が仰っていたのですが、化石燃料などの資源が豊富な国では、地学を専攻していると給料の良い省庁のポジションや企業に就職しやすいことも多いそうで、このへんは日本特有の事情もありそうです。

そういうことがあり、全ての先生が強調していたのは、自分や社会、人間との繋がりを感じられるカリキュラムにしようということでした。

具体的にどの項目を教え、どれを削るか、というのは非常に複雑なので、ここでは割愛します。写真のような資料にまとめられ、かなり具体的に提言が作られていることが分かります。作成過程では、大学側から一方的に押し付けるのではなく、現場の小中高の教員の方々も委員に入って作られた、というのが好感が持てます。

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*配られた資料の一部。かなり作り込まれている。


さて、その「繋がり」を感じるカリキュラム、先生方の言葉から印象的だったものをいくつか。

例えば、生物であれば、もうちょっと医学領域のものも入れたり、物理であれば放射線についても項目を増やそうということらしいです。

さらに、地学は、高校になるとかなり軽んじられているのはご承知の通りかと思いますが、よくよく考えてみると、科学を最初に考える上では、非常に良い題材であるといえます。

とくに、日本では、地震津波、火山、台風など、自然災害との関係が強いですし、宇宙からミクロの物質まで、物理・化学・生物との繋がりを、大きなスケールで俯瞰することが出来ます。

20世紀の科学は要素還元主義により成功をおさめたわけですが、これからの科学はそれだけではいけないことは、全ての科学者が感じているところです。複雑系、システム論、それらのシミュレーション、こういったものは、気候変動や環境問題、もしくは人の移動や通信など、都市の動態とも関わる現代的な問題です。

地学を通して、なぜこれら理科の科目を学ぶ必要があるのか、それぞれの学問は何を解き明かそうとしているのかが良くわかります。地学担当の先生のスライドで

「我々はどこから来て、どこへ行くのか」

とありました。

なんだか、イームズのPowers of Tenを思い出しました。

D


物理担当の先生は、実は高校の教科書にもグラショウのウロボロスが載っているのだが、このことは、どれくらい伝えられているのだろうか、と心配していました。

http://legacy.kek.jp/newskek/2006/novdec/Satointerview.html

KEKHPから)

最後に、月の地平線上に見える小さな地球の写真を出して、

この一つの小さな星の中で、人々が争うことのナンセンスさ、そういったことも、科学を俯瞰することで感じられる筈であると。


各論では、色々な意見が出されたのですが、色んな科目に共通して重要なことがあります。

たとえばDNAタンパク質は生物で習いますが、これらは化学の対象でもある、物質です。

実際、最近のノーベル化学賞には生命科学に貢献したものも増えている印象もありますね。

こういった、領域を横断して教えた方が良いものを、各科目が有機的に結びつくようなカリキュラムにすることで教えていきたいとのことで、とても好感が持てました。

今回の提言では見送ったが、国語と科学の領域横断だってありえると。

偉いおじいちゃん先生が多かったので、カタくて保守的な提言になるのでは、と、数パーセント懸念をしていましたが、大変失礼しました。とてもチャレンジグで魅力的。近年のキーワードである領域横断や越境、繋がりということがキーワードに。

社会活動の分野では、もはや使い古された感もありつつ、まだまだ実現していない越境性。

これらが、理科教育、教科書で実現されるとしたら、それは素晴らしいことだなぁと思います。


質問タイムでは、これらの理念を実現するための教材はどのようなものを考えているか、聞いてみたかったのですが、会場のおじいちゃん達が元気過ぎて、僕があてられることはなく終りました。

それに気を使った財団関係の方が、わざわざ僕のとこまで来て話しを聞いて下さって、ありがとうございました。

個人的には、教科書や資料集がもっと楽しくなれば良いなぁと思います。

インフォグラフィックでデータや抽象概念を分かりやすくするとか、物質の動態や、数学や物理に関わる関数も、3Dのムービーにする、気候変動のシミュレーションをするアプリを使って、社会のどの要素が環境に負荷を与えるのか、グループディスカッションして仮説を立て、それをアプリ変数を変えて、出力される結果を確かめるとか、色々やれることがあると思います。想定される100年後の地球が自分たちの思ったように改善されているかなど、インタラクティブな電子教材を使うことで、児童・学生が主体的に学ぶ姿勢が身に付くかなと。

このへんの話しになると、最近我々がやっていた連続レクチャー

写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

の企画主旨とも繋がってくるなぁと、思っています。

こういった教材造りに関しては、プログラマーデザイナー達が参画して行く必要性があるように思います。その辺のことも、考えてもらえたら良いなーと思いました。


最近、お年を召されて定年が近くなり、ちょっと元気がなくなったかなぁと思っていた元ボスですが、今日は昔と変わらずなお話ぶりでした。是非、こういったカリキュラムを実現して欲しいと、心から思います。


*色々な政治的な動き、やはり、2020年東京オリンピックに照準を合わせている印象を受けました。どんな風に変わっていくでしょうか。

2013-11-30

アーキテクチャまで持ってけ! ニッポンのジレンマ-新TOKYO論

| 03:27 | アーキテクチャまで持ってけ! ニッポンのジレンマ-新TOKYO論 - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

ニッポンのジレンマ、新TOKYO論、観た。

*ワイン飲みながら書いたから校正してない。


面白いなーと思ったのは、鈴木さんが言った「つまらない」ということ。

冒頭で社会学者の新さんが、東京でオリンピックをやらなきゃいけないのは、世界の主要都市間でのプレゼンスとして避けられない当然の流れで、国際競争力が落ちてる東京としては、こういうイベントを通しての変革(都市計画など)をやらざるを得ないと。で、これには建築家の藤村さんも同意。

だけど、そういう(おそらく資本主義的な観点の)話しを、鈴木さんはつまらないと。面白い都市ってのは、そこに住む人が面白い都市であると。僕なりに意訳すれば、そこに住む人が、自身の創発で何かをやってて元気であるのが面白いということかな。で、鈴木さんの実践であるリトルトーキョーの紹介がされる(ここの映像でYOSHさん登場)。

ここでは、仕事を持ってる人が、全く別の市民としての顔を持って、あたかも別の職業をしたり「税金」も払って自治をして、その税をどんな「公共福祉」に使うかの合意形成もする、そういうコミュニティ。

で、鈴木さんはその先に何が生まれるか、明確なヴィジョンを持っていないというか、コントロールするきはなくて、他の色んな都市でもオープンソースのモデルとして似たようなことが起きると、何か面白いことが生まれることを期待してる感じ。

この姿勢って、僕から言わせると非常に資本主義的な感じ。極めてボトムアップの自由な発想の中から生まれるイノベーションに期待している感じは、資本主義の原動力であり得意とするところそのものな感じ。

こういうことが沢山起きることこそが、都市としての国際競争力を上げることにつながる筈で、実はまったく相反することではないはずのことで、一瞬、鈴木さんと新さんの意見が対立したのが、面白いというか、日本の現状かなぁと。



それを物語るアドビの国際調査が途中で紹介されたんだけど、世界の主要都市で最もクリエイティブだと思われてる都市は、なんと東京であると!しかし、東京の人は、世界の他の都市の人と比べて自分たちをクリエイティブだと思ってはいない、というのが、調査の結果。

おそらくこれは、実際に東京、もしくは日本でクリエイティビティの高いアイデアは草の根的には沢山あって、各分野では国際的に有名なんだけど、東京もしくは国全体の構造を変えるには至らないので、自分たちの実感や自信としてフィードバックされないのではないか、というのが僕の意見。

今丁度、WIREDのオープンガバメンと特集を読んでる最中なんだけど、毎回WIREDを読んでて見受けられる事例は、アメリカだと、シリコンバレーのベンチャーが開発したシステムやアプリが、各自治体のシステムとして採用されたり、NYの商店がこぞって使い始めたり、ボトムアップのアクティビティが、全体の構造に影響を及ぼす、つまりアーキテクチャの改変に繋がってるんだなぁという、ところ。

おそらく、これが日本には足りない。

それは、アメリカは各州の自治が強くて、日本の地方分権が進んでいないからかなぁとも思う。藤村さんの言葉を借りれば、ある自治体機能を実装するために適した、機能単位がダウンサイジングされてないからかなぁと思う。

だから、クリエイティビティの高さを実感できて、社会全体に浸透させるには、アーキテクチャにまで持って行ける人が、特に日本には必要。

その意味で、番組の最後の方でも紹介されてた藤村さんの大宮の再開発の、計画から実行に至る各段階で住民と役人を交えて「見える化」し、選択肢や合意形成の適切なサイズも設計してやっていくやりかたは、非常に現実的で未来のある実践だと思えます。

藤村さんは建築家だから、様々な問題を、空間設計の問題としてとらえることで、人々に問題をシンプルなカタチで理解可能にするという手法で、見える可し、複雑さをダウンサイジングし、市民と役人、もしくは個人と集団の中で起こりうる齟齬、共通の言語で会話できなくなる共約不能な状態に、共通言語を与えているように思えます。

コミュニケーターやインタープリター、もしくは架け橋。

こういう役目は非常に重要なんだけど、翻って、ボトムアップな活動をしている社会活動家的なことをしている人には、それをアーキテクチャに持って行くビジョン、役人やものごとを俯瞰的に見る学者には、こういった活動を全体の構造を変えるのに役立てる目利き力みたいなものが必要なんではないかなぁと、思って、夜も更けました。

恋物語 -ひたぎ エンド- 第二話を、もう一回見て寝ます。