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菅野康太Blog 輪るPh.D戦略

2015-02-17

今、空前の孤独ブーム

01:43 | 今、空前の孤独ブーム - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

たいした実験ではなかった筈なのに、今日はなんだか疲れた。

実験の合間もほとんど、この先の仕込み作業をしていたせいかもしれないが。

データを足したところ、僕の神経データは概ねホンモノらしくて安心してるんだが、亜核レベルでの細かい解剖になると、チト自信がない。個体差なのかもしれないし、僕の「眼」が洗練されてないのかもしれない。なんらかのマーカー遺伝子と一緒に染めないと不安。

奥深いなぁ。局所and/or機能解剖学

貼り付けて割と直ぐ顕微鏡覗いたから、封入したらまた違うランドスケープが見えるかもしれない。

今日は、特に夜になってから、21時過ぎくらいからだろうか、没頭した感じがあるのは、振り返ってみると気持ちが良い。



ところで、

「研究に没頭する」という言葉、よく聞くのだが、研究にも色々な作業があるし、1日の中でも色々あるから、皆んなが何をさして没頭すると言ってるのか、実はよく分からない。

脳の切片貼り付けてるときと、顕微鏡覗いてるときと、統計ソフトでデータ掘ってるときと、調べ物の読み物は、没頭してると思える。切片は、筆を使ってるのが職人ぽくて好きなのかも。ウェスタンブロットも、染物職人みたいで好き。あと、あんまり疲れない

なんだか、実験大好きな人みたいな感じのこと言ってるが、基本的には疲れるからキライで、最近では超音波解析とかちょーキライ。はやく機械がやって欲しい。


没頭しているとき、これは没入感を伴った作業をしているとき、ということだと思っているのだが、後から振り返るとそう思えるが、ただ中にいるときには気付かない。没頭しているときは、感性や感覚が研ぎ澄まされるし、頭の回転が異様に速い感じがする。視力すら良くなったような気がする(もちろん、没頭しているときはだいたい凝視しているので、我に返ると視力は明らかに落ちているように感じるが)。

この感じを持てるとき、もしくは、持つことが多いときに僕は「あぁ、研究してるなぁ」と思える。

じゃあ、没頭していれば良いじゃないかという話しだが、没頭という言葉に僕が違和感を持ってしまうのは、人から「没頭しなさい」と言われることがあるからだ。おそらく、若い人がより年上から言われることが多いのではないだろうか。

そう言う場合の「研究に没頭しなさい」に含意されるものは、おそらく、「研究だけしなさい」「余計なことはするな(博士のキャリアパスとかサイエンスコミュニケーションとか考えるな)」「自分の言うことをきけ」「私生活を犠牲にしろ」等だと感じている。ときおり、現代では研究者の活動のうちとして推奨、あるいは認められていることをしている場合でも、ジェネレーションギャップが主な原因で「あいつはよそ見をしている、気が多い、研究に身が入っていない」と見なされることがある。


そもそも、没頭する、ということは、しようと思って出来るものでは無い気がする。繰り返しになるが、後から振り返ったとき、ふと気付くとそういう時間帯が存在したということだと思う。では、どういうときに没頭していたかを振り返ると、僕の場合は圧倒的に夜が多い。人が皆帰った後の、静かなラボ。この光景を圧倒的に思い出す。早稲田東大麻布。これまで所属したどの場所でも鮮明に思い出せる。

つまるところ、没頭することの前提条件には「孤独」が必要なのではないだろうか。

だから、僕は夜が好きなのかもしれない。何かが「降ってくる」のは、圧倒的に夜だ。

没頭することで、クリエイティブなものは生まれると思うが、その没頭に必要なのは「孤独」であり、それによって生まれるものが「個の創発」だろう。

だから、他人に対して、クリエイティブな何かに没頭して欲しければ「放っておけば?」「 放っておいて下さい」と思う。


*最近は、繋がりの時代、ソーシャルな時代なわけだが、そもそも「個」がなければ、何も生まれないわけで、その辺のことも考えてみたい。

2014-11-16

【越境する理科教育がくるのか!?】おじいちゃん達はこれからの理科教育をマジで考えていた

00:01 | 【越境する理科教育がくるのか!?】おじいちゃん達はこれからの理科教育をマジで考えていた - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

今日は、(財)理数教育研究所主宰の

シンポジウム 小・中・高の理科カリキュラムを考える」(PDF)に行ってきました。

というのも、この団体が次期学習指導要領の改訂に向けて、かなり具体的な理科教育に関する提言をまとめており、その委員会委員長が僕の博士課程の指導教員だった石浦章一先生(東京大学大学院総合文化研究科)だったからです。残暑伺いを送った折りに、その返事に「これからの理科教育に一石を投じたい」旨、仰って、興味がありました。最近関わってることが、理科教育と無縁ではないため、勉強の意味も兼ねて。

*ちなみに、大学が法人化されてからは 指導"教官" ではなく 指導"教員" と呼ぶべきであるというのは、石浦先生のがよく仰ってることでした。

会場に行ってみると、休日のシンポジウムなのに8割5分の人がスーツだし、スタッフの人達もスゲー腰低いし、「え、政治色強いの??恐いの???」と思いながら席について、場違いだったかなぁと思いつつ開始を待ちました。始まってみると、やっぱり司会の人の喋りもお役所っぽいし、最初のお話は文科省審議官の方で、スライド文字多いし、

「ああ、やっぱり教育系って、こういうことなのかしら」

と思ってしまいました。

しかし、実際にカリキュラム案の提言をつくった先生方のお話が始まると、先生達がマジで提言を作ったのだということが分かりました。

この委員会は、小中高の先生達と大学の先生達から構成され、あたらしい物理・化学・生物・地学のカリキュラムについて、かなりの回数の会合を開いて策定が進められたようです。

まずは石浦先生から全体の説明がありました。

よく言われることですが、小学生くらいでは理科は割と「好きな科目」に分類されるですが、学年が上がるにつれて児童・学生から重要視されなくなっていきます。その理由は、学年が上がると抽象概念が増え、自分の生活や社会との結びつき、繋がりを感じにくくなること。難しくてとりあえず点を取るために暗記科目になり、つまらなくなること。そして、理系に進むことが就職に有利ではないこと、が挙げられます。ここ、かなり僕の言葉で言い換えてます。実際には様々なアンケート結果をもとに議論してました。

地学のパートの先生が仰っていたのですが、化石燃料などの資源が豊富な国では、地学を専攻していると給料の良い省庁のポジションや企業に就職しやすいことも多いそうで、このへんは日本特有の事情もありそうです。

そういうことがあり、全ての先生が強調していたのは、自分や社会、人間との繋がりを感じられるカリキュラムにしようということでした。

具体的にどの項目を教え、どれを削るか、というのは非常に複雑なので、ここでは割愛します。写真のような資料にまとめられ、かなり具体的に提言が作られていることが分かります。作成過程では、大学側から一方的に押し付けるのではなく、現場の小中高の教員の方々も委員に入って作られた、というのが好感が持てます。

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*配られた資料の一部。かなり作り込まれている。


さて、その「繋がり」を感じるカリキュラム、先生方の言葉から印象的だったものをいくつか。

例えば、生物であれば、もうちょっと医学領域のものも入れたり、物理であれば放射線についても項目を増やそうということらしいです。

さらに、地学は、高校になるとかなり軽んじられているのはご承知の通りかと思いますが、よくよく考えてみると、科学を最初に考える上では、非常に良い題材であるといえます。

とくに、日本では、地震津波、火山、台風など、自然災害との関係が強いですし、宇宙からミクロの物質まで、物理・化学・生物との繋がりを、大きなスケールで俯瞰することが出来ます。

20世紀の科学は要素還元主義により成功をおさめたわけですが、これからの科学はそれだけではいけないことは、全ての科学者が感じているところです。複雑系、システム論、それらのシミュレーション、こういったものは、気候変動や環境問題、もしくは人の移動や通信など、都市の動態とも関わる現代的な問題です。

地学を通して、なぜこれら理科の科目を学ぶ必要があるのか、それぞれの学問は何を解き明かそうとしているのかが良くわかります。地学担当の先生のスライドで

「我々はどこから来て、どこへ行くのか」

とありました。

なんだか、イームズのPowers of Tenを思い出しました。

D


物理担当の先生は、実は高校の教科書にもグラショウのウロボロスが載っているのだが、このことは、どれくらい伝えられているのだろうか、と心配していました。

http://legacy.kek.jp/newskek/2006/novdec/Satointerview.html

KEKHPから)

最後に、月の地平線上に見える小さな地球の写真を出して、

この一つの小さな星の中で、人々が争うことのナンセンスさ、そういったことも、科学を俯瞰することで感じられる筈であると。


各論では、色々な意見が出されたのですが、色んな科目に共通して重要なことがあります。

たとえばDNAタンパク質は生物で習いますが、これらは化学の対象でもある、物質です。

実際、最近のノーベル化学賞には生命科学に貢献したものも増えている印象もありますね。

こういった、領域を横断して教えた方が良いものを、各科目が有機的に結びつくようなカリキュラムにすることで教えていきたいとのことで、とても好感が持てました。

今回の提言では見送ったが、国語と科学の領域横断だってありえると。

偉いおじいちゃん先生が多かったので、カタくて保守的な提言になるのでは、と、数パーセント懸念をしていましたが、大変失礼しました。とてもチャレンジグで魅力的。近年のキーワードである領域横断や越境、繋がりということがキーワードに。

社会活動の分野では、もはや使い古された感もありつつ、まだまだ実現していない越境性。

これらが、理科教育、教科書で実現されるとしたら、それは素晴らしいことだなぁと思います。


質問タイムでは、これらの理念を実現するための教材はどのようなものを考えているか、聞いてみたかったのですが、会場のおじいちゃん達が元気過ぎて、僕があてられることはなく終りました。

それに気を使った財団関係の方が、わざわざ僕のとこまで来て話しを聞いて下さって、ありがとうございました。

個人的には、教科書や資料集がもっと楽しくなれば良いなぁと思います。

インフォグラフィックでデータや抽象概念を分かりやすくするとか、物質の動態や、数学や物理に関わる関数も、3Dのムービーにする、気候変動のシミュレーションをするアプリを使って、社会のどの要素が環境に負荷を与えるのか、グループディスカッションして仮説を立て、それをアプリの変数を変えて、出力される結果を確かめるとか、色々やれることがあると思います。想定される100年後の地球が自分たちの思ったように改善されているかなど、インタラクティブな電子教材を使うことで、児童・学生が主体的に学ぶ姿勢が身に付くかなと。

このへんの話しになると、最近我々がやっていた連続レクチャー

写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

の企画主旨とも繋がってくるなぁと、思っています。

こういった教材造りに関しては、プログラマーデザイナー達が参画して行く必要性があるように思います。その辺のことも、考えてもらえたら良いなーと思いました。


最近、お年を召されて定年が近くなり、ちょっと元気がなくなったかなぁと思っていた元ボスですが、今日は昔と変わらずなお話ぶりでした。是非、こういったカリキュラムを実現して欲しいと、心から思います。


*色々な政治的な動き、やはり、2020年東京オリンピックに照準を合わせている印象を受けました。どんな風に変わっていくでしょうか。

2014-10-30

第3回を終えて:写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

09:59 | 第3回を終えて:写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現− - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

昨日の「写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−」第3回、超次元編「11次元空間は可視化できるか?」 お越し下さったみなさま、ゲストのみなさま、ありがとうございました!

第1回と第2回は、宇宙や細胞という対象を観察、観測、計測し、そのデータを如何に可視化し、何を理解するかというお話でした。

昨日の第3回は、理論物理学の世界において、数式で語られる次元を如何に可視化するかという試みで、過去の2回とは少し異なります。

まずは、橋本さんから超ひも理論の解説をしていただき、その後、我々の視界(2次元もしくは3次元)に通常は落とし込めないもの(多次元)を、橋本さんと山口さんが共同して画像化する現在進行形のプロジェクトの一部を見せて頂きました(6次元の可視化など)。

鳴川さんからは、かつて作製した全方位カメラで撮影した写真のお話、立体を平面(地図など)に落とし込むお話、2次元(設計図)からは立体を想像しづらい構造物のお話をしていただき、2次元と3次元を行ったり来たりした心地がしました。

直感的には理解出来ない、容易にはイメージ出来ないものを、会場全体が頭をひねりながら想像していたように思います。とても抽象度の高い回でした。

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しかし、1-3回全てを通して感じる共通点もあります。それは、いずれも人間の認識論に深く関わるということです。

何かを観察しようとするとき、そもそもヒトはそこに何があると想定しているのか。何を観ようとしているのか。逆に、何をみないままでいるのか。観ていないことに気付いているのか、いないのか。

次回はいよいよ最終回。人間の認識そのものに迫る回になると思います。よろしくお願いします!

第4回:11月6日(木)20:00〜22:00

SR(代替現実)編「現実と虚構が交わるイメージ」

ゲスト: 藤井直敬 (脳科学者)、 湯浅政明 (アニメ―ション監督)、 森本晃司 (アニメーション監督)

http://imaonline.jp/ud/event/54117ee6b31ac94368000001

2014-10-24

1回目と2回目を終えて。写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

13:03 | 1回目と2回目を終えて。写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現− - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

現在、IMA CONCEPT STOREにて、連続企画をやらせてもらってます。

写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

2回目を昨日終えて、1回目の感想もからめてダラ

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っとFBに書いたものを、こちらにも転送。






昨日の「写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−」、ご来場者のみなさま、田尾くん、高木さん、ありがとうございました!

もう5年前になるでしょうか。まだ僕らが大学院生だった頃に、ミトコンドリアが移動する様子を捉えた田尾くんの実験動画を観て感動して、いつかこの映像を色んな人に見てもらいたいなぁと思っていたのが、昨日やっと実現しました。新しいバージョンの動画も持ってきてくれて大感謝!

田尾くんは今年のノーベル賞の話も含む顕微鏡の歴史からプレゼンしてくれました。顕微鏡画像の処理・重ね合わせの話から、高木さんの作品のレイヤーの重ね方(girlsなど)の話にも広がりました。

一番最初のカハールのスケッチの話の時点で高木さんが「ありのままに撮るとは、どういうことか(可能なのか?)」という旨をおっしゃり、冒頭から科学者としても突き刺さるものがありました。

「みえないものを可視化する」話として始まったわけですが、そもそも「何を撮るか?」、「観たいものだけ観ていて全体を知ることができるのか」などという話まで色々広がり、科学論もしくは科学観の話に達した感があります。

「みたいものに特化してるんね〜」的なことを高木さんが仰りましたが、「特化することで捨象されるもの」や「一つの視点からしか観察していないこと」に自覚的でありたいなぁという想いを更に強めました。

日々の実験で何か活動している神経をみつけると、そこに自分が観ている現象の因果がありそうだと喜んでしまうものですが、「口パクしてるだけかもしてない(みたい現象の偽陽性)」とか「FB上でのよわーい情報の蓄積が自分に与える影響(ノイズとみなされているものの影響)」とか、高木さん流のメタファーを交えた質問が、田尾くんのことも内心唸らせていたみたいです。僕も会場でうなってましたw

これは、第一回でMitakaで表現される宇宙像に対して疑問を投げかけた小阪さんの問いにも通じるものを感じました。いつも小阪さんにも唸らされます。

ひなさんが見せてくれた宇宙の画像も田尾くんの画像も、とても素晴らしいもので、データとしても純粋な印象としても感激してしまうのですが、

それに対して疑問を投げかけられた時、「科学"業界"の既存のフォーマットに安住して、存在し得る他の可能性に目を向けられなくなってるかもなぁ」と思うのです。

目的やアウトプットのカタチは違えど、「世界」から抽出した素材を、一旦還元論的にいくつかのレイヤーに分解して、それをもう一度統合しようとする行為は、科学にしても小阪さんや高木さんのやり方にしても共通点があるなぁと。いわば、みんなデータを扱ってるわけで。

さてさて、普段は生物学研究をしていて、即物的にものごとを解析するのが仕事ですので、宇宙のスケールも僕には理解するのがなかなか大変です。それでも写真があるので理解できる部分も多いのですが、

しかし、次回のテーマは次元。写真的なイメージで全く捉えられないので、いつも理解に苦しむのですが、その数学的解析の行為みたいなものを、可視化しちゃう話の回です。

次回は10/29(水)です!引き続きよろしくどうぞ!!

第3回 超次元編「11次元空間は可視化できるか?」ゲスト: 橋本幸士 (物理学者)、 山口崇司 (映像作家/d.v.d)、 鳴川肇 (建築家)

2013-06-06

晒されること、晒すこと(ZENRA)

16:28 | 晒されること、晒すこと(ZENRA) - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

クーリエ・ジャポン『共感する仲間が増える「働きかた」を始めよう。』号の、

瀧本哲史「そのニュースが君の武器になる Vol. 7」、結構有名なエピソードと思われるハーバード大のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフによる2010年の論文『Growth in a Time of Debt(国家債務時代の経済成長)』における計算的間違いをマサチューセッツ大学大学院生が見つけた話。

院の課題でこの論文が題材となり追試を試みたものの再現出来ず、上記の著者に生データのエクセルの提供を依頼し、送られて来たエクセルの中に間違いを発見したというもの。

様々な英語メディアでも取りざたされた。件の論文は「GDP比で政府債務残高が90%を超えると経済成長が低迷する」という主張で各国の政策の根拠としても挙げられる影響力のあるものとのこと。近年では、EUの政策はまさに当てはまると思われる(僕は専門ではないのでエラそうなことをホントは言えませんが)。

件の院生 トーマス・ハードン氏の功績はもちろん大きいのではあるが(課題にまじめに取り組んだらこの発見にたどり着いたというストーリーが、なんともアカデミックのあるべき姿と、院生にも十分な力と専門性があり、もしかしたら教授級、いや、それ以上のものを持ち合わせていることを示す例として、素晴らしいではないか。まぁ、28歳だし、自我と思考力は既に十分なわけですよね)、その計算違いを認めてもなお、著者らは論文の主張の正当性は崩れないとしている。

もちろん、他の専門家の主張やIMFのデータ等、議論は最前線で確固たる結論に至るには拙速だし、ここは、私の専門ではないのでこれくらいにする。

瀧本氏の指摘として、そもそも債務残高の高さが低成長を導くという因果のストーリー以外に、低成長が債務残高を助長するという逆の因果の可能性もあるわけで、時系列もファクターに含めたより詳細な解析が必要であるが、そもそも、経済学や社会科学で相関以上の因果を解析することは難しい(実験が難しいから)。

これは、さすが瀧本さん、全うな科学的姿勢だと思うわけだが、さらに彼が指摘する重要なことは「晒される」こと、だというのだ。

このコーナーの「今月の格言」を引用させてもらえば、

「あらゆる命題の正しさは、反証に耐えて残っている、つまり、議論にさらされていることで保証されている」というのだ。

これは、自然科学研究にまで拡張しても、現実的運用として私は賛同する。

実験室レベルの(手法的に手堅いと思われる)研究であっても、実験の確率的誤差、手技の難しさ(熟練度)、論文の言語的記載からもれるコツ・ラボごとの些細な手法の違い、などによって結果は左右される。

同じ命題に対し、様々なラボ、様々な手技によって時間をかけて確認される(晒される)ことに耐えた知見は、実に再現性が良い。

私の分野で言うと、「実験の48時間前にエストロゲンを、6時間前にプロゲステロンを打つと雌ネズミが発情する」というのは「見つけた人マジエラい」と思うくらい、再現性が良く、多くの研究者が長年用いている方法である。

逆に、最新の知見は「マジかよ...!?」と感じることが多いのは、もしくは実は再現取れない、ということは、多くの研究者がアンダーグラウンドで思ったりしているわけである。

こういった観点、晒すということが重要であるという点で、再現を取る課題を出した教員、その課題に取り組んだ院生、データを提供した著者は、科学的姿勢に照らして極めて健全であるといえる。

一方、近年のハイレベル・ハイインパクトと言われるジャーナルは、その投稿数の多さによる紙面(字数)の都合から、方法についての記載が非常に少ない。

例えば、「この染色は "Standard protocol" で行った」みたいな感じである。

「普通の方法って何だよ!!っw 普通にやっても染まらねーしっ」なのである。

これでは、「空気感」科として、学が科学たり得ない(反証に"social"なコミュニケーションを要する)。

生物学領域でもっとも権威があると考えられるCell, nature, science (合わせて略してCNS: Cellは生物学総合誌、nature, scienceは科学全般の総合誌)では、以前からこのような傾向が強いが(Cellは、結構しっかり書いてくれるけど)、最近、専門Top誌であるNeuron(Cell 姉妹誌で、nature 姉妹誌のNature Neuroscienceとならぶ神経科学専門top誌)でも、物足りない記載を見かける。

せめて、神経科学の狭い意味での専門top誌で、北米神経科学学会(SfN)の雑誌である J. Neurosci. はそこのところ今後ともよろしく、である。(でも、参考資料のweb版への添付禁止になって、今後どうなるのだろう)。

もっと、自分の手法に自信があるなら、みんな晒していこう。

逆に、晒せないのなら、自信がないのだろう。


同じ意味で、学会や、カジュアルでフランクな研究会に出向いて、

細かい手法まで含めて他のラボの人と話し合うというのは、健全な科学、もしくは、

大学院生などが健全に成長する上で極めて重要に思われる。

実験手技は、実は、ラボごと、分野ごとに継承されるものが異なることがある。

自分のラボだけに閉じこもっていると、ともすれば、無批判に良くない方法を継承し、ガラパゴス化する可能性がある。

もしくは、無意識のウチに、自分(達)を肯定する(したい)方向にしか議論できなくなることもある。論文を投稿してからしか、間違えに気付けないのは、非常に悲しいし、(ボスは、まぁ、いいのかもしれないけど)実際に手を動かす現場の実験者は、それまでの数年(自分の人生)を振り返って、(言われたことを信じて従ってやった人ほど)軽く死にたい気分になるだろう。


個人的には、自分のマインドセットや自信が属するコミュニティ内に他者性を意識的に保ち(疑似晒し)、かつ定期的に、権威性や日本人的遠慮を排して、外部に晒して意見してもらう機会を持ち続けることを忘れたくない。逆に、晒しても怖くない実験と議論を日頃からしたいものである。



さて、科学の現場の話から瀧本さんの連載にもどってみると、

論拠がさらされてさえいれば、少しの教養があれば、専門家でなくとも反証に携わることが可能だと指摘している。

例えば、行政刷新会議が作成した「行政事業レビューシート」というものが公開されいるらしい。

これらに記録される政策に、本当に主張通りの効果があったか検証し、草の根ロビー活動に役立てる実験的な試みを行うサークルなども、東大・早慶・中央大の学生らによって組織されているらしい。面白そう。

瀧本さんもそうだし、データジャーナリズムに高い関心を持つと思われる津田さんがメディアで活躍されることは、非常に「科学的」で、個人的には期待をしている。あと、裏で早稲田のミッキー先生にも暗躍していただきたいw

ところで、この「晒す」ということは、科学的反証可能性を社会的に担保するものであるが、これは、言ってみれば、広い意味での情報公開であり、「民主的」であることの担保である。みんなで使って、みんなで試して、誰でも議論出来る。「みんな」の範囲は、現実的には状況依存ではあれど。



「大学をオープンにするとか、サイエンスコミュニケーションをすることの意味ってなんですか?」と問われることが多いのだが、その理由は、そういうことではないかと、ここ1-2年は考えている。