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菅野康太Blog 輪るPh.D戦略

2015-08-19 『狂気の科学』を正気で読んでいる このエントリーを含むブックマーク

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狂気の科学 真面目な科学者たちの奇態な実験』を読んでいる。

というのも、翻訳者の一人が大学院時代の指導教員である石浦章一先生なのである。とはいえ、タイトル自体にも魅かれ、手にしたのだが。「狂気の科学」と聞いた時、なんとなく、池上高志先生を思い出し「読んでます」と伝えてしまった。彼は、石浦先生のことを「男気のある人」と慕う。

さておき、この本は、石浦先生が英国を旅行中に書店でみつけ、企画を出版社に持ち込んだそうだ(訳者 前書き による)。さすが、そのへんの嗅覚が鋭い。

ちなみに、この本にまつわる石浦先生のトークイベントが八重洲ブックセンター開催される #とのこと 。私は合わす顔がないので、いかないが、行ってみたい気もする。

2015年9/10(木) 八重洲ブックセンター

石浦章一先生講演会 〜本当にあった狂気の科学〜

東京化学同人刊『狂気の科学』刊行記念

http://www.yaesu-book.co.jp/events/talk/7187/

本書は、1600年から2002年までの「狂気の科学」実験を紹介しているもので(現在、1950年くらいまで読んだところ)、ある種、科学史上のエポックメイキングな実験を紹介していることになり、様々な分野のターニングポイントが描かれている格好になる。面白いのは、先の実験に触発されて行われた後の実験が違う章で登場し、裏話や科学者為人までも、あの手この手で取材して書かれた本であるため、非常に臨場感がある。古い時代のものほど、時代背景として、人種差別的な社会風土なども描かれており、様々な形で科学が社会に影響されていることも、ジワっと伝わってくる。

ネタバレになるのであまり書かないが、一つ触れると、ドップラー効果実証実験は、狂気というよりも「お疲れ様」としか言いようがなく、実験者たちに一杯おごってやりたくなる感じで面白かった。

恥ずかしながら、ドップラー効果が元々は「星の光が様々な色に見える理由」の説明として提唱されたということは知らなかった。詳細は省くが、簡単に言うと「高速運動をする天体から発せられる光は、地球に近づいてくるときと遠ざかるときでは違う色に見える」という仮説である。当時の技術では天体に関してこの仮説を実験的に調べることは難しかったのだが、光と同じく「波」である音でも、理論的には同様の現象(近づいたり遠ざかったりすれば違う音に感じる)が観察されるはずである。とすれば、移動する蒸気機関車からトランペットを吹き、それを線路脇から聞けば、機関車の移動に伴い一定であるはずの音が違う音に感じられるに違いない(救急車のサイレン音のアレである)。そう思い立ち、1845年、28歳の物理学者クリストフ・ボイス・バロットは実験を行ったのであった。しかし、現実には、機関車の音がうるさくてトランペットの音が聞こえづらい、奏者が一定の音を上手に出せないなど、鈍臭い苦労が重なるのである。苦労の末、仮説は(なんとか?なんとなく?)定性的に実証されたのであった。のちにボイス・バロットは科学雑誌上で、実験を再現したい人たちに対し「よく訓練された人」を使うように、とアドバイスした #とのこと 。

現在では、このドップラー効果は音に関しては上述の仮説通りであるとわかっているが、光に関しては間違えであったことも分かっている。間違えではあったのだが、その理論の発表によって触発された若き科学者が、これを見事実証したことになる。近年は、実験系が精緻化したので、あまり不用意で杜撰な発表を行うべきではないが、理論や仮説に関しては、現代でも、もうちょっと大胆なものがあった方が、いろいろ萌芽するのではないかと思った。実際、ドップラー効果はその後、様々な医療機器や航空システムに用いられているのであるし。

ただし、実験を成功させたボイス・バロット自身は「いつの日かより良い楽器を作るのに役立つかもしれない」としか言わなかったそうだが…(この章のオチ、各章にいちいち皮肉っぽいオチがあって面白い)。

わたし自身は、マウスを用いた性の研究、雌雄間コミュニケーション脳科学的研究を行う生物学領域の人間なのだが、性に関するきわどい実験も数多く、読み進めるのが楽しみである。

行動神経科学心理学を学んだ人なら誰でも知っているパブロフの犬スキナー箱、アイアンマザー、チンパンジーと共に育てられた子供の話など、そこに関わった人たちのドラマも描かれており、教科書では味わえないリアルな姿を思い浮かべることができる。

半分くらいは、マジで狂気でしかないものもあるのだが、少なからず、これら実験は、証明するための妥当な方法を論理的に考えたらこうなった、と感じられるものも多い。倫理的にも感情面での生理的にも、現代ではやりたくないものも多いのではあるが。

ところで、ふと、思う。今のアカデミア、もしくは社会にこのような「狂気」を受け入れる寛容さと自由、クリエイティビティみたいなものは、どれくらいあるのだろうか。

二十歳になる直前だった私が研究の世界に足を踏み入れることを後押しし、駆り立てるように知的好奇心を刺激した、そんな研究があったことを、いま思い出している。そんな研究が詰まった本。

2014-11-16

【越境する理科教育がくるのか!?】おじいちゃん達はこれからの理科教育をマジで考えていた

00:01 | 【越境する理科教育がくるのか!?】おじいちゃん達はこれからの理科教育をマジで考えていた - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

今日は、(財)理数教育研究所主宰の

シンポジウム 小・中・高の理科カリキュラムを考える」(PDF)に行ってきました。

というのも、この団体が次期学習指導要領の改訂に向けて、かなり具体的な理科教育に関する提言をまとめており、その委員会委員長が僕の博士課程の指導教員だった石浦章一先生(東京大学大学院総合文化研究科)だったからです。残暑伺いを送った折りに、その返事に「これからの理科教育に一石を投じたい」旨、仰って、興味がありました。最近関わってることが、理科教育と無縁ではないため、勉強の意味も兼ねて。

*ちなみに、大学が法人化されてからは 指導"教官" ではなく 指導"教員" と呼ぶべきであるというのは、石浦先生のがよく仰ってることでした。

会場に行ってみると、休日のシンポジウムなのに8割5分の人がスーツだし、スタッフの人達もスゲー腰低いし、「え、政治色強いの??恐いの???」と思いながら席について、場違いだったかなぁと思いつつ開始を待ちました。始まってみると、やっぱり司会の人の喋りもお役所っぽいし、最初のお話は文科省審議官の方で、スライド文字多いし、

「ああ、やっぱり教育系って、こういうことなのかしら」

と思ってしまいました。

しかし、実際にカリキュラム案の提言をつくった先生方のお話が始まると、先生達がマジで提言を作ったのだということが分かりました。

この委員会は、小中高の先生達と大学の先生達から構成され、あたらしい物理・化学・生物・地学のカリキュラムについて、かなりの回数の会合を開いて策定が進められたようです。

まずは石浦先生から全体の説明がありました。

よく言われることですが、小学生くらいでは理科は割と「好きな科目」に分類されるですが、学年が上がるにつれて児童・学生から重要視されなくなっていきます。その理由は、学年が上がると抽象概念が増え、自分の生活や社会との結びつき、繋がりを感じにくくなること。難しくてとりあえず点を取るために暗記科目になり、つまらなくなること。そして、理系に進むことが就職に有利ではないこと、が挙げられます。ここ、かなり僕の言葉で言い換えてます。実際には様々なアンケート結果をもとに議論してました。

地学のパートの先生が仰っていたのですが、化石燃料などの資源が豊富な国では、地学を専攻していると給料の良い省庁のポジションや企業に就職しやすいことも多いそうで、このへんは日本特有の事情もありそうです。

そういうことがあり、全ての先生が強調していたのは、自分や社会、人間との繋がりを感じられるカリキュラムにしようということでした。

具体的にどの項目を教え、どれを削るか、というのは非常に複雑なので、ここでは割愛します。写真のような資料にまとめられ、かなり具体的に提言が作られていることが分かります。作成過程では、大学側から一方的に押し付けるのではなく、現場の小中高の教員の方々も委員に入って作られた、というのが好感が持てます。

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*配られた資料の一部。かなり作り込まれている。


さて、その「繋がり」を感じるカリキュラム、先生方の言葉から印象的だったものをいくつか。

例えば、生物であれば、もうちょっと医学領域のものも入れたり、物理であれば放射線についても項目を増やそうということらしいです。

さらに、地学は、高校になるとかなり軽んじられているのはご承知の通りかと思いますが、よくよく考えてみると、科学を最初に考える上では、非常に良い題材であるといえます。

とくに、日本では、地震津波、火山、台風など、自然災害との関係が強いですし、宇宙からミクロの物質まで、物理・化学・生物との繋がりを、大きなスケールで俯瞰することが出来ます。

20世紀の科学は要素還元主義により成功をおさめたわけですが、これからの科学はそれだけではいけないことは、全ての科学者が感じているところです。複雑系、システム論、それらのシミュレーション、こういったものは、気候変動や環境問題、もしくは人の移動や通信など、都市の動態とも関わる現代的な問題です。

地学を通して、なぜこれら理科の科目を学ぶ必要があるのか、それぞれの学問は何を解き明かそうとしているのかが良くわかります。地学担当の先生のスライドで

「我々はどこから来て、どこへ行くのか」

とありました。

なんだか、イームズのPowers of Tenを思い出しました。

D


物理担当の先生は、実は高校の教科書にもグラショウのウロボロスが載っているのだが、このことは、どれくらい伝えられているのだろうか、と心配していました。

http://legacy.kek.jp/newskek/2006/novdec/Satointerview.html

KEKHPから)

最後に、月の地平線上に見える小さな地球の写真を出して、

この一つの小さな星の中で、人々が争うことのナンセンスさ、そういったことも、科学を俯瞰することで感じられる筈であると。


各論では、色々な意見が出されたのですが、色んな科目に共通して重要なことがあります。

たとえばDNAタンパク質は生物で習いますが、これらは化学の対象でもある、物質です。

実際、最近のノーベル化学賞には生命科学に貢献したものも増えている印象もありますね。

こういった、領域を横断して教えた方が良いものを、各科目が有機的に結びつくようなカリキュラムにすることで教えていきたいとのことで、とても好感が持てました。

今回の提言では見送ったが、国語と科学の領域横断だってありえると。

偉いおじいちゃん先生が多かったので、カタくて保守的な提言になるのでは、と、数パーセント懸念をしていましたが、大変失礼しました。とてもチャレンジグで魅力的。近年のキーワードである領域横断や越境、繋がりということがキーワードに。

社会活動の分野では、もはや使い古された感もありつつ、まだまだ実現していない越境性。

これらが、理科教育、教科書で実現されるとしたら、それは素晴らしいことだなぁと思います。


質問タイムでは、これらの理念を実現するための教材はどのようなものを考えているか、聞いてみたかったのですが、会場のおじいちゃん達が元気過ぎて、僕があてられることはなく終りました。

それに気を使った財団関係の方が、わざわざ僕のとこまで来て話しを聞いて下さって、ありがとうございました。

個人的には、教科書や資料集がもっと楽しくなれば良いなぁと思います。

インフォグラフィックでデータや抽象概念を分かりやすくするとか、物質の動態や、数学や物理に関わる関数も、3Dのムービーにする、気候変動のシミュレーションをするアプリを使って、社会のどの要素が環境に負荷を与えるのか、グループディスカッションして仮説を立て、それをアプリの変数を変えて、出力される結果を確かめるとか、色々やれることがあると思います。想定される100年後の地球が自分たちの思ったように改善されているかなど、インタラクティブな電子教材を使うことで、児童・学生が主体的に学ぶ姿勢が身に付くかなと。

このへんの話しになると、最近我々がやっていた連続レクチャー

写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

の企画主旨とも繋がってくるなぁと、思っています。

こういった教材造りに関しては、プログラマーデザイナー達が参画して行く必要性があるように思います。その辺のことも、考えてもらえたら良いなーと思いました。


最近、お年を召されて定年が近くなり、ちょっと元気がなくなったかなぁと思っていた元ボスですが、今日は昔と変わらずなお話ぶりでした。是非、こういったカリキュラムを実現して欲しいと、心から思います。


*色々な政治的な動き、やはり、2020年東京オリンピックに照準を合わせている印象を受けました。どんな風に変わっていくでしょうか。

2014-10-24

1回目と2回目を終えて。写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

13:03 | 1回目と2回目を終えて。写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現− - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

現在、IMA CONCEPT STOREにて、連続企画をやらせてもらってます。

写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−

2回目を昨日終えて、1回目の感想もからめてダラ

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っとFBに書いたものを、こちらにも転送。






昨日の「写真とサイエンス −視野を拡張するビジュアル表現−」、ご来場者のみなさま、田尾くん、高木さん、ありがとうございました!

もう5年前になるでしょうか。まだ僕らが大学院生だった頃に、ミトコンドリアが移動する様子を捉えた田尾くんの実験動画を観て感動して、いつかこの映像を色んな人に見てもらいたいなぁと思っていたのが、昨日やっと実現しました。新しいバージョンの動画も持ってきてくれて大感謝!

田尾くんは今年のノーベル賞の話も含む顕微鏡の歴史からプレゼンしてくれました。顕微鏡画像の処理・重ね合わせの話から、高木さんの作品のレイヤーの重ね方(girlsなど)の話にも広がりました。

一番最初のカハールのスケッチの話の時点で高木さんが「ありのままに撮るとは、どういうことか(可能なのか?)」という旨をおっしゃり、冒頭から科学者としても突き刺さるものがありました。

「みえないものを可視化する」話として始まったわけですが、そもそも「何を撮るか?」、「観たいものだけ観ていて全体を知ることができるのか」などという話まで色々広がり、科学論もしくは科学観の話に達した感があります。

「みたいものに特化してるんね〜」的なことを高木さんが仰りましたが、「特化することで捨象されるもの」や「一つの視点からしか観察していないこと」に自覚的でありたいなぁという想いを更に強めました。

日々の実験で何か活動している神経をみつけると、そこに自分が観ている現象の因果がありそうだと喜んでしまうものですが、「口パクしてるだけかもしてない(みたい現象の偽陽性)」とか「FB上でのよわーい情報の蓄積が自分に与える影響(ノイズとみなされているものの影響)」とか、高木さん流のメタファーを交えた質問が、田尾くんのことも内心唸らせていたみたいです。僕も会場でうなってましたw

これは、第一回でMitakaで表現される宇宙像に対して疑問を投げかけた小阪さんの問いにも通じるものを感じました。いつも小阪さんにも唸らされます。

ひなさんが見せてくれた宇宙の画像も田尾くんの画像も、とても素晴らしいもので、データとしても純粋な印象としても感激してしまうのですが、

それに対して疑問を投げかけられた時、「科学"業界"の既存のフォーマットに安住して、存在し得る他の可能性に目を向けられなくなってるかもなぁ」と思うのです。

目的やアウトプットのカタチは違えど、「世界」から抽出した素材を、一旦還元論的にいくつかのレイヤーに分解して、それをもう一度統合しようとする行為は、科学にしても小阪さんや高木さんのやり方にしても共通点があるなぁと。いわば、みんなデータを扱ってるわけで。

さてさて、普段は生物学研究をしていて、即物的にものごとを解析するのが仕事ですので、宇宙のスケールも僕には理解するのがなかなか大変です。それでも写真があるので理解できる部分も多いのですが、

しかし、次回のテーマは次元。写真的なイメージで全く捉えられないので、いつも理解に苦しむのですが、その数学的解析の行為みたいなものを、可視化しちゃう話の回です。

次回は10/29(水)です!引き続きよろしくどうぞ!!

第3回 超次元編「11次元空間は可視化できるか?」ゲスト: 橋本幸士 (物理学者)、 山口崇司 (映像作家/d.v.d)、 鳴川肇 (建築家)

2013-12-22

グローバルな個人戦略はきっと「幸せ」を「運ば」ない -ニッポンのジレンマ 「僕らの新グローカル宣言」観た-

01:11 | グローバルな個人戦略はきっと「幸せ」を「運ば」ない -ニッポンのジレンマ 「僕らの新グローカル宣言」観た- - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

もはや、毎月恒例になってきたが、やはり感想をまとめておこう。

後で述べるが、この回は大学というものを考える上で僕にとって良い機会になったので、僕自身のタメのメモとして、これまで見聞きしたことも含めまとめておこうと思う。


さて、

録画しといた ニッポンのジレンマ 「僕らの新グローカル宣言」を観た。


グローカル

今回のテーマは「僕らの新グローカル宣言」ということで、とりたてて文言には、新しさを感じなかったので、そこまで期待しないで見始めたのだが(失礼!)、結果的には、これまでのジレンマでもっとも具体的な内容に感じたし、なんだか温かい希望を感じられた回になった。

グローカルとは、グローバルとローカルをかけ合わせた言葉で、早稲田大学なんかも随分前から掲げていたコンセプト。僕なりの理解としては「グローバル社会になっていくわけだが、だからこそ、地域に目を向けよう!」という意味の言葉。なぜ「だからこそ」なのかというと、番組の最初の20分くらいで結構議論もされていたけど、グローバル経済だと体力の無い地方ほど競争に勝てずに取り残されて行く危惧があるため、地域・地方を守ろうという割と後ろ向きな理由と、ローカルなところにこそ日本特有のオリジナリティがあるんだから、それはグローバル化の中でも武器になる!というような攻めの姿勢の両方が含意されて、それが理由(だと思ってる)。

収録は長崎大学で行われ、ゲスト以外でも地域に所縁のある人が登場して、それが議論を具体的で、現場感のあるものにしていてとても良かった。構成として、とても立体感を感じた。JR九州の取り組みとかがJRの担当者から会場で直接プレゼンされて、その辺は「なるほどなー、良いことだなぁ」と興味深く見ていたのだが、僕は経済学者でも地域研究者でもないので割愛。


大学の地域社会における機能

実例として取り上げられた内の一つに立命館アジア太平洋大学(APU)があった。

この大学は大分の別府に2000年に開学され、各種国内雑誌の大学ランクとかでも特色ある大学として取り上げられてると思うのだが、映像を見た限りかなり多くの国から留学生が集まっている様子。登壇した学生もとても生き生きとしてる。

ここで思い出したのが、一連の国立大学改革。国立大学ってのは全国にこれくらい(文科省へリンク)あるのだけれど、僕は、地方大学はある種の日本の「インフラ」であり、地方に残された数少ない、若き人材の獲得マシーンとしての社会機能があると思っている。

2001年、小泉政権下での構造改革で地方国立大の統廃合の必要性が記され、民主党政権下では大学改革実行プランが発表された。

深くは触れないが、研究大学と教育大学、専門学校的な大学をはっきり分けたりする「選択と集中」のお話で、今回の番組に重要な結論めいた部分を大胆に要約すると、旧帝大と地方国立大の格差が大きくなるだろうと予想される内容である。

この選択と集中は、大学の研究力を上げ、イノベーションを産む環境を作ることが目的なので、それ自体が悪いわけではないが、様々な問題を含んでいる。

詳しくは豊田先生ブログインタビューを参照して頂くと良いと思う。

また、ネット上では割と有名な対談はこちらだが、財政難ということもありとにかく理由があれば(みつければ; 豊田先生のインタビューも参照されたい)予算を減らしたい財務省の思惑もあり、色々相まって、地方国立大が疲弊していくシナリオが予想されているのだ。

確かに、GDP比で見ると日本の研究費は一貫して高い(アメリカよりも)。しかし、総額で見れば圧倒的にアメリカの方が多いことや、中国などの追い上げにも注意したい。

参考資料:総務省統計(リンク先の格PDF) 総務省統計の平成23年度webでの要約 

こう見ると、現在の財政状況だと潤沢なところから一律シーリングされてもしょうがないだろうと思うかもしれないが、ただソロバンをはじいていてもしょうがないと思う(騙されてしまう)。

番組中でも鈴木謙介さんが言及されていたが、(地域振興などの)各種補助金も数だけつじつまを合わせてもしょうがなくて(ただ消化されてしまう→そして行政が仕事した実績に書類上はなる)、問題は「内容とやり方」である。大学の予算は少子化に伴う20代前後の人口推移に基づき必要な予算や人件費が決められていくのだが、そこには「大学が担うべき機能はなんなのか?」という議論、ゴールセッティングが抜け落ちている。


センター・オブ・コミュニティー(COC):寛容な場としての地方と大学

上述のAPUは、地方行政の意思としても協力されたもので、その地域の行政が、短期的な投資をするよりも長期的な投資を選んだカタチだ。地域に国際大学を誘致することで、別府という街に日本国内のみならず世界から若者があつまり、4年間だけかもしれないがその地に住み、日本の、そして大分の理解者として世界に戻って行く。安定的に地域に若者がやってくることと、それによって出来る将来の繋がりにこそ、投資をしたのだ。

このように、僕は大学というものが地域に人材を集めてくる装置としての社会的意義があると思っている。大学改革実行プランでは、大学の新しい法人のカタチも提唱されており、一つの法人がいくつかの大学を経営できるようになったりすると思うのだが、その際に地方国立大の統廃合がおこることも予想される。これは、グローバルvsローカルが二項対立してしまうかのごとき事態に思える。

単に「経営的」観点からのみ、文科省予算(だけの)の費用対効果からのみ、このような統廃合を行うのは、教育の機会均等の観点からも、グローカルな発展の観点からもマイナスに思える。もちろん、豊田先生のインタビューにあるとおり統廃合もやりようによっては良い方向に向かう可能性もある。今後の道州制などの地方行政の方向によっては、地域の枠組みも変わるかもしれないし、藤村龍至さんのいうようにダウンサイジングをはかる必要性もあるようにおもうが、短絡的な統廃合や「選択と集中」による地方大学の弱体化はグローカルな日本の強みを失うことになると思う。このようなことを行う際には、大学が地域にとってどのような存在であるべきかということを考えなくてはならない(まさにこのへんは藤村さんの専門だと思う)。

APUは別府のなかでも山の上にあるそうだが、学生達は「下界」に降りて地域と交わる。学生サークルが主体的に地域に関わり、またNPOなどもそれに協力するような連携が産まれているとのこと。このような繋がりの萌芽がそこにあるのに、なぜ一方では地方大を切り捨て、一方では地域振興を唱えるのか、僕には政策のグランドデザインが、チグハグに見えて仕方ない。

それ以外にも、地方大学にはフィールド調査とかクリーンエネルギーの実装実験、社会実験など様々な研究の可能性が眠っているように思う。こういう「場」が必要な研究には、都会よりも地方にメリットがあることも多いように思う。

PARTY代表取締役(CEO)の伊藤直樹さんが番組中に言っていてその通りだろうなーと思ったのは、地域の「寛容性」がクリエイティビティを生みやすくするというお話。長崎大学の留学生が中心となるサークルによって、留学生の視点から見た「長崎」をテーマにするインデペンデント映画が作製されたのだが、そこから見える世界は地元の人が見た長崎とは違うもので、外から見た「長崎」の再発見(グローカルな強み)につながる。それはそれで大事なのだが、今はそれは置こう。この映画では、ローカル線を貸し切って撮影してたりして、それに対して伊藤さんが「大変じゃないですか?」的なことを質問したんだが、貸し切ってもかなり安いっw

このことを聞いて伊藤さんが、福岡は映画やCMの撮影などでも市が協力的だとか、東京だと人とモノが密集し過ぎて撮影対象以外もカメラに映り込むからすぐにクレームが入ったりするとか、社会学者の新さんも、東京はすぐにスクラップ アンド ビルド が進むから古いものが残ってなかったりするけど福岡だと古い工場とか撮影に適したところが残ってるとか、地方の強みが挙げられた。で、しかも人が(少ないせいか)寛容で色々やりやすい面があると。


その後、鈴木さんから、イノベーションが起きるのに必要な条件として「寛容性」が挙げられて、なんか会場も盛り上がったというか、目が輝いた気がした。鈴木さんからは様々な前向きなメッセージが投げかけられたと思うんだけど、ただ補助金を与えられるよりも、自分が「参加している」という感じがモチベーションになるとか、なんというか、会場には大学生が多かったと思うんだけど、大学という何にチャレンジしても良い場所でどんどんあたらしくて面白いことやっていけば良いじゃん!地方のコンテンツと寛容性、可能性あるし!!(すいません、ざっくりまとめ過ぎですけど番組ではロジカルに語ってらっしゃいます)みたいなのが(ロジカルに語られたからこそ)未来を感じられた。実際、規模の小さい地方の方が、大学や学生が効果的に一つの地方行政区域や地域にコミットしやすい。

ちなみに、上述の大学改革実行プランでは今後の大学の構想として、センター・オブ・コミュニティー(COC)としての役割が明記されており、これはホントに実現して欲しいなぁと思うのだが、実際には研究大学強化よりも大分予算は少なかったので、予算としてもその意思を示して欲しいと思う。

そう言えば、買ったまま、まだ読めていないWIRED「未来都市2050」では、僕の故郷である仙台の新しい地下鉄の構想の話しが書いてあるらしく、この地下鉄は東北大学の青葉山キャンパス(マジで山です)と仙台都心部も繋ぐもので、それに合わせて「街」としての機能を持ったキャンパスも造られるとのこと。今回のジレンマのテーマと関連して、読むのも実現されるのもとても楽しみにしている。



Think Global, Act Local:「頭脳流出」から「頭脳循環」へ

さてさて、終盤になって古市さんが、日本に留学した外国人が祖国に戻っちゃう、とか、日本人が海外に流出しちゃう、といった問題を考えると、こういった方向での活動方針は国策としての意義を持つのか?みたいな疑問を投げかけた。この人は、いつもちゃらんぽらんなふりして、こういうカターイ議論もふっかけられて、実は本当にバランス感覚よく鋭い、面白い司会者だなぁと思った。

それに対して鈴木さんによれば、確かに実際留学した人が祖国に戻らないという「頭脳流出」が中国や韓国では問題になっていて(だからこそ韓国は「流出」しちゃった方がうれしいコンテンツ産業とか電子家電など輸出品に力を入れてるらしい)、しかし、それは新興国ほど問題になるということらしい。発言の真意を僕が掴みきれてないかもしれないが、日本の場合は経済規模もそれなりに大きく、その他の環境も良いので、それほど恐れなくて良いのではないかということかもしれない。逆に言うと、日本が元気になる頭脳循環を生み出せる可能性すらあるということだろうか。

実は、若手研究者であるところの僕は、この件に関しては個人的にもよく考える。実際、僕も留学経験を持っておいた方が色々な面で良いと思うのだが、、、金かかるよなーとか、結婚どうしようとか、うかうかしてると親も歳だしなぁとか、とかとか、色々他にも問題はあるのだが、行った方が良いのだろうと思っている。しかし、留学や研究者の生存戦略を取り巻く言説の中には、やや受け入れられないものもある。僕はこれまで色々とキャリアパスのシンポジウムを学会などで運営したこともあるのだが、海外至上主義みたいなものには、どうも馴染めない。

確かに、日本よりもアメリカの方が研究環境が良い側面はある。だが、よくある極論のように、日本の大学はダメで、できれば大学や院からアメリカ行った方が良くて、アメリカでラボを持つことを目指した方が良い、という意見には「個人的」に賛同出来ない(これは、社会全体としてみると頭脳流出である)。

賛同出来ない理由は、それが現状の「ルール」の上で、個人が成功するためのモデルだからだ。あくまで、一個人が。これは研究のみならず、IT系や金融証券系のビジネスでも同じことだと思う。

英語圏だけが覇権を握るという現状自体にも、疑問を投げかけたい。つまり、グロ−バルがローカルを潰すという流れに、僕は乗りたくないなぁと、昔から思い続けているのである。

基本的には、日本の伝統的な縦社会や体育会系的なノリには、僕は全く馴染めず、滅びれば良いと思っている反面、伝統文化とか、自分の故郷とか、そういうものに、残って欲しいという想いが強くある。それは本当に昔からなのか、震災を気にそれが強まったのか、定かではないが。もちろん、地方出身者なので、地縁血縁からなるしがらみだらけのゲマインシャフト的コミュニティの悪さも知っているつもりである。基本的にはゲゼルシャフト的コミュニティで仕事や活動をしたい。しかし、たとえば九月に吉祥寺祭りで今住んでる地域の人に交じって神輿を担いだのだが、地域特有の縦社会を嫌う一方で、それによって育まれた文化は残したいと感じるのだ。

まぁ、そんな流れで、別にアメリカの流れに乗らなくても、日本独自の研究体制・研究テーマで、面白い研究して、世界から寧ろ人を集めるようなことをする方が、面白いじゃん!と思っているのである(ものすごーく、途中の感情とロジックをすっ飛ばしてますが)。


日本とか、日本の研究・文化が面白いなーと思う人が、一時でも日本に滞在し、その状況が入れ替わり立ち替わり続き、日本と繋がりを持った人が海外に戻って、日本人も海外行って、向こうに残ったり、戻ってきたりする。そういう人たちが、日本の中でも外でも出会ってまた繋がりが広がる。そういうことで、良いんじゃないかなぁーと。

で、それを実現するためにも、"グローカル" に活動する必要がある。

そのためには、世界に目を向けつつも、世界からも受け入れる寛容さをもって、アピールすることが重要。日本で、日本の地方で面白いこと出来るなーと思う人が、若者が、国内外に産まれるようにすることで、ゲゼルシャフトとゲマインシャフトが共存するグローカルな世界が産まれるのではないかなぁと。

この辺の事情があって、九月のジレンマの『“救国”の大学論』よりも、今回の方が「大学論」としても好きだなぁと思っていたり。



鈴木さんの発言は、とても「愛」があるなーと思いながら番組を見ていたが、こういうことが可能となる寛容な社会は「"大人"がつくっていかないといけない」旨の発言にも、非常に納得したし、自分もそういう大人になりたいし、やはり、何かへの「愛」を感じた。


ちなみに、前のエントリでも触れた、瀧本さんの本を読んで思ったことも、自分の中で深まった印象。



このエントリ、最後の方は疲れてゆるふわな文章になってしまったが、未来を感じる回だった。

"Think Global, Act Local"という言葉は、その道では有名な言葉だと思うのだけれど、僕はあまりこれまで明確に意識はしてなくて、しかし、この姿勢は、最近僕が考えていることだったり、実際の行動だったりの、基本原理になってるのかもしれないなーと思って、この言葉に自覚的になれて、とても良かった。

ある特定のコミュニティやポピュレーションが、もしくは、だけが、構造的に泣いたり、消えたりするのも、捨てられるのも、捨てるのも、嫌なのよね。

自分がそういう環境から抜け出すよりも(個人だけが成功するよりも)、まるっとよくなったなーみたいな世界を、見たいなと。



PS

年明けに行うイベントに、ニッポンのジレンマのディレクターなどもなさっている大西隼さんにも出て頂きます。実は、大学院の先輩なのです。

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SYNAPSE Classroom vol. 3「人と動物のつきあいかた」

2013-06-06

晒されること、晒すこと(ZENRA)

16:28 | 晒されること、晒すこと(ZENRA) - 菅野康太Blog 輪るPh.D戦略 を含むブックマーク

クーリエ・ジャポン『共感する仲間が増える「働きかた」を始めよう。』号の、

瀧本哲史「そのニュースが君の武器になる Vol. 7」、結構有名なエピソードと思われるハーバード大のカーメン・ラインハートとケネス・ロゴフによる2010年の論文『Growth in a Time of Debt(国家債務時代の経済成長)』における計算的間違いをマサチューセッツ大学大学院生が見つけた話。

院の課題でこの論文が題材となり追試を試みたものの再現出来ず、上記の著者に生データのエクセルの提供を依頼し、送られて来たエクセルの中に間違いを発見したというもの。

様々な英語メディアでも取りざたされた。件の論文は「GDP比で政府債務残高が90%を超えると経済成長が低迷する」という主張で各国の政策の根拠としても挙げられる影響力のあるものとのこと。近年では、EUの政策はまさに当てはまると思われる(僕は専門ではないのでエラそうなことをホントは言えませんが)。

件の院生 トーマス・ハードン氏の功績はもちろん大きいのではあるが(課題にまじめに取り組んだらこの発見にたどり着いたというストーリーが、なんともアカデミックのあるべき姿と、院生にも十分な力と専門性があり、もしかしたら教授級、いや、それ以上のものを持ち合わせていることを示す例として、素晴らしいではないか。まぁ、28歳だし、自我と思考力は既に十分なわけですよね)、その計算違いを認めてもなお、著者らは論文の主張の正当性は崩れないとしている。

もちろん、他の専門家の主張やIMFのデータ等、議論は最前線で確固たる結論に至るには拙速だし、ここは、私の専門ではないのでこれくらいにする。

瀧本氏の指摘として、そもそも債務残高の高さが低成長を導くという因果のストーリー以外に、低成長が債務残高を助長するという逆の因果の可能性もあるわけで、時系列もファクターに含めたより詳細な解析が必要であるが、そもそも、経済学や社会科学で相関以上の因果を解析することは難しい(実験が難しいから)。

これは、さすが瀧本さん、全うな科学的姿勢だと思うわけだが、さらに彼が指摘する重要なことは「晒される」こと、だというのだ。

このコーナーの「今月の格言」を引用させてもらえば、

「あらゆる命題の正しさは、反証に耐えて残っている、つまり、議論にさらされていることで保証されている」というのだ。

これは、自然科学研究にまで拡張しても、現実的運用として私は賛同する。

実験室レベルの(手法的に手堅いと思われる)研究であっても、実験の確率的誤差、手技の難しさ(熟練度)、論文の言語的記載からもれるコツ・ラボごとの些細な手法の違い、などによって結果は左右される。

同じ命題に対し、様々なラボ、様々な手技によって時間をかけて確認される(晒される)ことに耐えた知見は、実に再現性が良い。

私の分野で言うと、「実験の48時間前にエストロゲンを、6時間前にプロゲステロンを打つと雌ネズミが発情する」というのは「見つけた人マジエラい」と思うくらい、再現性が良く、多くの研究者が長年用いている方法である。

逆に、最新の知見は「マジかよ...!?」と感じることが多いのは、もしくは実は再現取れない、ということは、多くの研究者がアンダーグラウンドで思ったりしているわけである。

こういった観点、晒すということが重要であるという点で、再現を取る課題を出した教員、その課題に取り組んだ院生、データを提供した著者は、科学的姿勢に照らして極めて健全であるといえる。

一方、近年のハイレベル・ハイインパクトと言われるジャーナルは、その投稿数の多さによる紙面(字数)の都合から、方法についての記載が非常に少ない。

例えば、「この染色は "Standard protocol" で行った」みたいな感じである。

「普通の方法って何だよ!!っw 普通にやっても染まらねーしっ」なのである。

これでは、「空気感」科として、学が科学たり得ない(反証に"social"なコミュニケーションを要する)。

生物学領域でもっとも権威があると考えられるCell, nature, science (合わせて略してCNS: Cellは生物学総合誌、nature, scienceは科学全般の総合誌)では、以前からこのような傾向が強いが(Cellは、結構しっかり書いてくれるけど)、最近、専門Top誌であるNeuron(Cell 姉妹誌で、nature 姉妹誌のNature Neuroscienceとならぶ神経科学専門top誌)でも、物足りない記載を見かける。

せめて、神経科学の狭い意味での専門top誌で、北米神経科学学会(SfN)の雑誌である J. Neurosci. はそこのところ今後ともよろしく、である。(でも、参考資料のweb版への添付禁止になって、今後どうなるのだろう)。

もっと、自分の手法に自信があるなら、みんな晒していこう。

逆に、晒せないのなら、自信がないのだろう。


同じ意味で、学会や、カジュアルでフランクな研究会に出向いて、

細かい手法まで含めて他のラボの人と話し合うというのは、健全な科学、もしくは、

大学院生などが健全に成長する上で極めて重要に思われる。

実験手技は、実は、ラボごと、分野ごとに継承されるものが異なることがある。

自分のラボだけに閉じこもっていると、ともすれば、無批判に良くない方法を継承し、ガラパゴス化する可能性がある。

もしくは、無意識のウチに、自分(達)を肯定する(したい)方向にしか議論できなくなることもある。論文を投稿してからしか、間違えに気付けないのは、非常に悲しいし、(ボスは、まぁ、いいのかもしれないけど)実際に手を動かす現場の実験者は、それまでの数年(自分の人生)を振り返って、(言われたことを信じて従ってやった人ほど)軽く死にたい気分になるだろう。


個人的には、自分のマインドセットや自信が属するコミュニティ内に他者性を意識的に保ち(疑似晒し)、かつ定期的に、権威性や日本人的遠慮を排して、外部に晒して意見してもらう機会を持ち続けることを忘れたくない。逆に、晒しても怖くない実験と議論を日頃からしたいものである。



さて、科学の現場の話から瀧本さんの連載にもどってみると、

論拠がさらされてさえいれば、少しの教養があれば、専門家でなくとも反証に携わることが可能だと指摘している。

例えば、行政刷新会議が作成した「行政事業レビューシート」というものが公開されいるらしい。

これらに記録される政策に、本当に主張通りの効果があったか検証し、草の根ロビー活動に役立てる実験的な試みを行うサークルなども、東大・早慶・中央大の学生らによって組織されているらしい。面白そう。

瀧本さんもそうだし、データジャーナリズムに高い関心を持つと思われる津田さんがメディアで活躍されることは、非常に「科学的」で、個人的には期待をしている。あと、裏で早稲田のミッキー先生にも暗躍していただきたいw

ところで、この「晒す」ということは、科学的反証可能性を社会的に担保するものであるが、これは、言ってみれば、広い意味での情報公開であり、「民主的」であることの担保である。みんなで使って、みんなで試して、誰でも議論出来る。「みんな」の範囲は、現実的には状況依存ではあれど。



「大学をオープンにするとか、サイエンスコミュニケーションをすることの意味ってなんですか?」と問われることが多いのだが、その理由は、そういうことではないかと、ここ1-2年は考えている。