かぶとむしアル中

取材現場を離れて久しい新聞社員のブログ。 本の感想や旅行記(北朝鮮・竹島上陸など。最初の記事から飛べます)。

北朝鮮竹島イラン旅行記
ブログランキング・にほんブログ村へ

現代日本をも突き刺す偉大な「机上の空論」/『自発的隷従論』(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

たった一人の圧政者になぜかくも多くの人々が服従を強いられるのか。古代ギリシア・ローマなどの歴史を引きながら、その問いに答えようとした本です。
ひとことで言ってしまえば、書名こそが著者の導いた結論でありまして、服従する側が慣れきってしまってその状態を所与のものとして受け入れてしまうこと、また一方では圧政者にへつらう「小圧政者」がその下にどんどんぶら下がっていくことが、その要因とされています。また、圧政者側の「パンとサーカス」的な手練手管も挙げられています。
しかし、一読した私の興味を最も惹いたのはその示唆深い論旨ではなく、16世紀半ばのフランスで若くしてこの小論をものしたという著者が「真に」何を言おうとしているのか、という点でした。「人々が自由を望み、隷従をやめてしまえば圧政は容易に崩れ去る!」著者はこう喝破するわけで須賀、具体的に何/誰の圧政を終わらせるべきだと考えているのか、あるいは何故そのような思考に誘われたのかは判然としません。むしろ解説などでは、彼の置かれた社会的文脈に囚われることなく*1生まれた普遍的な議論であると称揚され、また親友であったモンテーニュが、この小論が何らかの政治的意図と結び付けて理解され、あるいは叫ばれることを避けようとしたとも述べられています。
「そんなのウソだ」というだけのバックグラウンドが私にはないので、その点については不思議だなあと述べるにとどめま須賀、古代史から導かれたその議論の射程の広さは特筆すべき点でしょう。「小圧政者」のくだりは『独裁者のためのハンドブック』(ブルース・ブエノ・デ・メスキータ、アラスター・スミス)を思い出させてくれましたし、『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員十人の思想と行動』(ミルトン・マイヤー)や、『大衆の国民化』(ジョージ・L・モッセ)はナチズムの「パンとサーカス」をそれぞれかすめています(個人的にはアベノミクス東京オリンピックという組み合わせこそ典型的な「パンとサーカス」だと思いますけどね)。加えて、それを発展史的に捉えていいものかはともかく、「隷従をやめさえすれば圧政は去る」という論法は社会契約論やそれに基づく抵抗権を連想させます。だからこそ、これが言わば「机上の空論」として書かれたということに驚きを禁じ得ないのです。
もちろんその射程は、今の日本をも捉えているでしょう。解題ではその好例として日米関係が挙がっていましたし、先ほどの続きで言えば、「首相一強」と称されてきた現政権はどうでしょうか。この度の安保法制に反対する学生たちが「民主主義って何だ」「立憲主義って何だ」などとコールしながら街頭で抗議の意思を示していると―いうのは有名な話になりつつあります。それを聞いた当初は「抗議する気なら『何だ』なんて尋ねてどうするの」なんて印象を持ったりしましたが、これまで慣れきった所与のものとして存在した何かを問い直し、気付かずにしていた隷従をやめる契機を孕んでいるのだとすれば、圧政は本当に脆くも崩れ去ってしまうかもしれません*2

*1:厳密に言えば10代にして古代ギリシア語とラテン語を読みこなせるだけの教育を受けられた、ということ自体かなり特徴深い文脈であるとは思いま須賀

*2:まぁ、こういう政治的色合いを込めた形でこのテクストが言及されることこそ、モンテーニュが恐れたことだったんだよね、という先ほどの話に戻るわけで須賀。ま、興味ないかwww