渡し守ないしはパイプマン

今朝の夢はケッタイな夢だ。近頃は老後であと何年生きるのか?10年か、1年か自分では分からない。でも自分としては何年でもいい。多分与えられた寿命を粛々と生きていくだけだと思っている。現在69歳なのであと10年生きれば79歳になる。まあ多分そんなところでいいんではないかと思っている。

今朝の夢は自分の寿命ではなく、僕は何と他人の寿命をあるいは死を司っている。つまり僕は暗い淵の傍に立ち、死んでいく人を導いている。死んでいく人は細いパイプに、金属製の1メートル位の細いパイプに入り死の世界へと降りていく。そのパイプは太い場合もあり、多分その時は一時に大量に死ぬんだろう。

僕はその死んでいく人のパイプを管理しているというか扱っている。だから場面は暗い。そして僕は変な役割だ。だから奇妙な夢だ。僕自身体が弱く、今も人工透析に通っている明日をも知れぬ身なのに…?だから変な夢だ。気になるので一応書き留めてみた。只それだけだ…。

この頃の日常と非日常

この頃マイブログとも久しい。僕自身の老化や人工透析通院の疲れもあるかも知れないが…。日常生活は今までとあまり変わらないけれど、この頃は意外な夢を見る。荒唐無稽というか、思いもしなかった映像が夢の中に現れる…。

例えば突然霍去病の夢を見たり、今日は九六式艦攻?の夢を見た。九六式艦攻が目の前でどんどん着陸する夢だ。双発の巨体が目の前に降りてくる。僕は空母ではなく地上基地にいる。大体僕は九六式艦攻(艦上攻撃機)がどんな姿をしているのかも良く分からないのに。でもそういう夢を見るので仕方がない。

今後僕の夢にどんな映像が現れるか分からないが、こればかりは自分でもどうしようもない…。コントロール不可能である。自分の夢の範疇内ならいいが、突然自分のイメージ以外の映像が出てくる。多分夢というのは自分のイメージだけではなく、大げさに言えば人類や民族の経験をも反映しているものかもしれない。だからその内突然桶狭間の戦闘シーンが現出するかもしれない。ちょっと怖いな。


でもいいや、自分の想定外の映像が出てきても、それを楽しめばいいんだ?先日も何だか良く分からない中国南部の映像を見た。中国人達が黒くてモッソリした服を着て街の中を歩いている。僕は何故かその中に立っている。このイメージがどこから来るのか僕には全く分からない…。僕の頭の中は一体どうなっているんだ?でもまあ夢だからいいや。あまり気にしないで夢の映像を楽しもう。それでなくともこの頃の僕はヒマ&ボケ老人なのだから…。

南の島

今は午前4時。いつもの明け方の夢で目を覚ます。今朝の夢はサンゴ礁の夢だ。暗い海にヤシの木陰が走り、穏やかな砂浜に白い波頭だけが見える。ここはどこだろう?サイパンかグァムか?僕は仕事でしか南の島にいっていない。

でも南の島は好きだった。カメラマンとタレントと人気のない砂浜に行き撮影をする。仕事が終わると夜はホテルのバーに入り浸る。大抵はフィリピンの下手なバンドが下手な曲を奏でている。そこで毎晩ビールを飲む。何ビールだったか?ブランド名は忘れた…。

ある時ホテルの部屋の係りの娘と仲良くなった。??ちゃん、名前はもう忘れてしまった。フィリピンの出稼ぎの娘である。フィリピン人にしては色が白く、彼女は山岳民族だといっていた。彼女は清純派女優のような顔をした美人だった。でも家に遊びに行ったらオジサンという男性がいた。多分夜を一緒に過ごすオジサンだろう。

秋になると二人はカナダに行くという。いわゆる出稼ぎであり、随分逞しい民俗だと思った。年中どこかの国で仕事をしている。元々フィリピンはアメリカの植民地だった。だから仕事でも欧米圏をぐるぐる回っているのだろう。考えてみれば日本人が一番国際的ではない。日本は日本の中で十分仕事があるからである。アメリカのホテルへ泊まると大抵メイドは有色人種である。

しかしとにかく南の島はいい。のんびりしているし生活パターンもシンプルだ。昼はとにかく暑いので仕事もしないでじっとしている。それでも食べていけるのだからそれで十分だ。サイパンチャモロだった。体の小さいおとなしい人種である。

多分昔は、観光地でなかった昔は、彼らは漁師として生きていたのだろう。何しろ周りは広大な太平洋である。小魚ならいくらでもいるし、時には数メートルの大物も釣れる。そして青い空と昼間はスコールがザッと降る。島の間をプロペラ機で移動するとそれが良く分かる。時々スコールの分厚い雲が通り過ぎる。とにかくシンプルな生活である…。


だから僕は時々南の島の夢を見る。いつも晴れていてスコールがザッと降り。真っ赤な夕日が太平洋に沈む。こんな所にすんでいたら、バカバカしくてまじめに仕事なんかしたくないだろう。もっともまともな仕事なんかは南に島にはない。だから観光地になる以前はとんでもないシンプルな生活をしていたんだろう…。でも所詮人間はそれでいいと思う。複雑化した現代の方が人間としては生きにくい…。だから僕は時々南の島の夢を見る。

霍去病(かくきょへい)

先日伊勢佐木町商店街古書店の前を通ると、店の出張った平台に懐かしい名前が目に飛び込んできた。霍去病――漢の(あるいは後漢の?)若き天才将軍で、匈奴との戦いで自ら塞外へ出ていき匈奴を遠くタクラマカンの果てまで追い払った若き天才将軍である。しかし彼は天才の名の通り長生きせず、若くしてこの世を去った。その時わずか24歳であった。

僕は中国史の、古代中国の小説を色々読んでいるが、何故か今まで霍去病の本は見かけなかった。こんなロマンに溢れた、中国古代の若き英雄の本が出ていないのは不思議であった。でもやはり“犬も歩けば棒に当たる”で、僕は伊勢佐木町書店街の古書店で、ついに若き英雄霍去病の名前を見つけた。作者は塚本青史、出版社は河出書房である。

古代中国は常に塞外民族との闘争の歴史であった。あるいは塞外民族に征服され、その王朝に長く支配された歴史でもある。つい最近の清王朝満州族の王朝である。でも歴史は進み今の共産中国が今後塞外民族に征服される事はないだろう…。

古代中国の将軍は皇帝の愛妃の親族、親戚がなる事が多く、多くは軍事的に無能であったが、霍去病だけは軍事天才であった。しかし天才は早世する。若き美しい青年の死に、愛妃も皇帝も悲嘆にくれただろう…。この本を読み彼がどんな人生、宿命の人生を過ごしたかを楽しもう?人の命は長短ではなく、何をしたか?何を残したか?が重要である…。


古代中国では皇帝の愛妾の兄弟や親戚が良く将軍に取り立てられた。ほとんどは役立たずであったが、霍去病だけは天才軍人であった。若く美しい天才将軍、しかし天才は長生きせず、若くしてこの世を去った。彼は肺病であった。肺病はつい最近まで死病であった。僕はのんびりこの本を楽しもう…。人工透析の病床の上で、散歩途中の喫茶店で、若き古代中国の英雄を楽しもう。でも彼は早世する。だから最後は涙だろう。何故か英雄に悲劇は付き物だ…。

何だか違和感が…

三浦雄一郎がハシャいでいる。80歳のエベレスト登頂を成功させた。しかも3回目の登頂であった。何もそこまでやらなくても?あるいはマスコミがそこまで大々的に取り上げることもないのでは…?つまりそれはジジイの単なるパフォーマンスである。勝手にやらせておけばいい。マスコミもピーピー騒ぐ程の事ではない。日本のマスコミはそんなにヒマなのか?

確かに一人の人間として、80歳になって自分に何ができるか?あるいは自分の生きている証として、過酷な経験に挑むことは価値が有る。でもテレビで映像を見ていると、何だか少し痛々しくなる…。三浦はたまたま登山家、冒険家であったから、こんな形で自己表現をしたのかも知れないが。逆に日本ではこんなことが大々的にマスコミに取り上げられる…。

つまり昔の日本の武士であれば、40を過ぎれば引退し、息子に家督を譲り自分は悠々自適の生活をする…。そしてその後は息子を立て、あまり目立たないように生きていく。これが日本人の昔からの美学ではなかったか?三浦は80歳にもなって俺が俺がという感じがして、何だか浅ましく痛々しい感じがする…?

僕は昔仕事で三浦に会った事がある。その頃彼は原宿のセントラルアパートに住んでおり(今もそうか?)窓からは眼前に明治神宮の森が広がっており、彼はそれをアマゾンの森に住んでいるようで気分がいいと言っていた。彼は素直で気持ちの良い人であった。

彼は確か北大出身である。若い頃イタリアのスピードランセ?に出場し、その後の自分の進む道を見出したようだ。プロスキーヤーとして、そして冒険家として、登山家として。だから彼はその後次々と、彼独自の冒険的なパフォーマンスを繰り広げていった…。


でもテレビ映像で見ると彼の頭は真っ白である。明らかに老人である。だから何もそこまでやらなくてもという感じがしないでもない。見ていてもちょっとつらい気がする。まあ今の時代80歳といっても、まだ元気がいいし、まだまだ自己表現をしたいのかもしれないが…。老人が元気がいいのは良い事だが、あまり度が過ぎると?見ていて少し違和感を感じてしまう…。

ないないづくし

近頃人工透析の疲れが出て来たのか、自分の生活が段々ないないづくしになってきた。覇気がない。飲みにいかない。本を読まない。(もっとも目も悪くなったが…)歩かない。でも歩くことは僕の人生のコンセプトであったはず。だから今日は久しぶりに鎌倉を歩いた。

と言っても北鎌倉から鎌倉さらに海岸へではなく、鎌倉から海岸までとショートカットコースにした。でも今日は天気が良く波も穏やかで気持ちの良い海岸であった。そして空を見上げると沢山のトンビが舞っていた。こいつは結構曲者で不用意にオニギリでも食べようものなら、アッという間にさらわれる。それも器用にもオニギリだけさらっていく。こちらの指にさえ触れないで。

でもやはり歩くのはいい。海はいい。鎌倉もいい。天候も今日は最高だった。本当は泳ぎたかったが、昨年から海で泳ぐのは止めた。年齢のせいではない。とにかく昨年はクラゲに刺されっぱなしだった。鎌倉は今やクラゲの海だ。やはりこの年でクラゲの刺し傷だらけでは様にならない。だからこれからは海を眺めるだけだ。それでも気持ちはいい…。

僕は小樽生まれで小さい頃から海で泳ぎ、そして潜り、ウニやババガイを取ってきた。でももうクラゲにはかなわない。クラゲ以外にも海にはチクチク刺す小さな虫のような奴もいる。そして僕自身も多分アレルギー体質になったんだろう。だからこれからは海は眺めるだけにした。だから年とともに失うものは多い…。


でもないないづくしと言っても、まだまだやれることは山ほどある。そしてその内新しい事もやってみたい。例えば小説を書くとか。それもアトランティスを舞台にした大ロマンを…。でもちょっと無理か?僕は男女関係の事はちっとも分からない。昔から女の子とのゴチャゴチャはすぐ逃げだした。幸いうちの女房はサッパリしている。というかアッケラカンとしている。だから女房との間にややこしいゴチャゴチャはない。でも今日は何だか訳の分からない事をグズグズ書いている。まァいいや。とにかく書くことが大事だから…。

猫の宅急便

突然ですが皆様はご存じでしようか?クロネコヤマトの宅急便の出自を…?あれは昔魔女の宅急便の魔女が、ある日突然悪性のインフルエンザにかかり、アッという間にあの世に旅立ってしまった事から始まった。残されたクロネコは(キキだったっけ?)困った。注文は来るは、飯も食わねばならないは、コネコを育てなければならないは…。幸い魔女のホウキが残っていたので、キキはそれを使って宅急便の仕事を続けた。そのけなげな姿を度々見ていた山本さん(だったよナ?)というオジサンが、その姿にヒントを得てクロネコヤマトの宅急便を始めたと…。

と見てきたような嘘を言ってもしようがないか?でも山本さんが宅急便を始めた話は業界では有名である。この仕事を始めるために当時の運輸省?と相当長期間、丁々発止の戦いをしたと。僕も大昔本社のある銀座で山本さんとあった事がある。随分物静かな紳士だったことを覚えている。その時の話で彼は若い頃結核を患ったとも話していた。むしろ青白き文学青年のような印象を受けた。彼の場合も実は日本の中央官庁の規制との戦いだった。さらに戦った官僚も、山本さんも東大出だった。つまり実はエリート同士の戦いだった…。


話が何だかつまらなくなったので、この辺で止めよう。本当は猫の宅急便で、もう少し童話チックな話を書きたかったのに、落としどころはリアルチックでつまらなくなってしまったようだ…。