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四丁目でCan蛙

2017-08-14

「沖縄のこころ」古谷経衡(「文藝春秋」八月号)

09:23 | 「沖縄のこころ」古谷経衡(「文藝春秋」八月号)を含むブックマーク 「沖縄のこころ」古谷経衡(「文藝春秋」八月号)のブックマークコメント

ロンドン世界陸上、400mリレーで、日本は銅メダル。得意のバトンワークが巧くいって、あのままボルトが走っていればジャマイカが1位だったかもしれませんが、そのボルトがあのハプニング! イギリスアメリカ、そして日本がメダルに。

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f:id:cangael:20170813185056j:image:leftf:id:cangael:20170813185300j:image:left有終の美を飾るはずと誰もが思っていたボルトにドラマが待っていました。冷たい空気の中で40分、表彰式のテレビ中継を待っていたのだそうです。世界的なスポーツの祭典は今やテレビ時間優先なんですね。f:id:cangael:20170813203904j:image:right

オリンピックもテレビを優先して期間が先に決められていて、その期間限定で開催できる国が手を挙げたんだとか。何事も行き過ぎると本末転倒になってしまいますね。なにはともあれ、陸上日本男子、層の厚さも見ごたえありました。あの奇妙?な歩き方を競う競歩、銀と銅を日本人選手がとっています。

◎さて、先週の10日の朝刊に「文藝春秋」九月号の広告が出ていました。その日、母から頼まれて本屋さんに行くことに。出かける前に隣へ寄ってみましたら、父が「ついでにハガキ大のノートを2冊買ってきてほしい」と。まず、ビルの駐輪場自転車を置いて本屋さんへ。文具も置いていたはずなのに、コーナーが小さくなって、見当たらず。駅前のビルの中に、古くからやっている文房具屋さんがあるので、そのまま歩き出したのですが、木曜日は休館なのを思い出しました。自転車の前輪がパンク気味なので、ひとまず家に帰って、南のスーパーの文具コーナーへ歩いていくことに。これなら、最初から書籍も置いているこっちへ来るべきだった。でも歩くのもいいから…なんて考えながら、ハガキ大の普通のノートとコイル式のノートを2冊。ちょうどお昼前に注文通り、「文春」とノート2冊を父に渡せました。それで、私の手元には、父が読み終えた「文藝春秋」の八月号が来ました。

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その中に、「沖縄のこころ 古谷経衡(ふるやつねひら)(文筆家)」というエッセイを見つけました。古谷氏といえば、今から、もう7年も前になるNHK討論番組で初めて知りました。ルックスも特徴的ですが、その席で、韓国併合肯定した発言が強く印象に残りました。古谷氏をWikipediaで調べると、こんな風に書かれています:

2010年(平成22年)8月14日放送のNHK日本の、これから〜ともに語ろう日韓の未来〜』に一般参加で出演した際、1910年明治43年)の韓国併合について「列強諸国が世界各地の小国を植民地化していく当時の流れの中では、日本が大韓帝国を併合したことはやむを得なかった」との趣旨の発言を行う。この発言に対し出演者の崔洋一小倉紀蔵の間で議論が起こった。

それから以後もこの時の印象が強烈でしたので保守の「文筆家」として活動されているのは何となく知っていました。最近は、「日本会議の研究」の菅野完氏との共著の表紙の写真でお目にかかっています。

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「文藝春秋」八月号に載っているエッセイは、先ごろ92歳で亡くなられた元沖縄県知事大田昌秀氏の追悼文ですが、県知事時代の反基地闘争についてではなくて、戦中時代の「鉄血勤王隊」についてかなり詳しく書いておられます。最近の対米従属に徹している安倍政権を、日本の保守といわれる人々はなぜ支持できるのかと思っていましたが、古谷氏のこれを読むと、最後に大田実中将遺書に当たる電報にも触れていて、これは、これで筋が通っています。何が右で保守なのか、何が左で革新なのか分からなくなっているなか、古谷さんのこのエッセイは、間違いなく、これぞ保守!です。沖縄の基地反対闘争は、「左」だと思われて来たようですが、右でも左でもない、あるいは右にとっても左にとっても、日本を取り戻す戦いだと思います。

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    沖縄のこころ

                 古 谷 経 衡              

 またひとり歴史の生き証人が逝った。大田昌秀氏、享年九十二氏は沖縄県知事を二期務め、在任中、米軍基地返還・縮小運動の先頭に立ったことで知られる。また「鉄血勤王隊」として沖縄戦を経験したことも知られているが、あの凄絶な戦いで氏が何を体験したのか。本土人の多くは「沖縄戦の生き残り」というたった八文字の理解以上の想像力を持ち得ていない。

 近年、特に歴史に無知なネット空間の右派的言説や自称「保守系言論人」の中から大田昌秀氏を「反日左翼」と罵倒する向きが顕著だ。彼ら親米保守は、「日米同盟紐帯」とやらを保守し、米軍や在沖米軍基地に反対する者を「反日」だの「左翼」だのと決めつけている本土決戦の捨て石たるを自覚し、天皇の為に戦った大田氏。そして県知事として「銃剣とブルドーザー」により祖先の土地が米軍に接収され、あまつさえ無辜の同胞米兵の嬲り者になっていることに憤怒決起した大田氏を、「反日左翼」と罵る。どちらが本当の保守で、どちらが本当の愛国者なのか昨今、「反米軍基地」とみるや、すわ「反日」のレッテルを張る彼らの軽挙には目を覆いたくなる

 一九四五年四月一日、S・B・バックナー中将麾下の米沖縄攻略軍十八万は、沖縄本島中部、嘉手納に殺到した。当時、大田昌秀氏は十九歳首里にある沖縄師範学校の学生であった。この前日、兵員不足を現地から補う第三十二軍(牛島満中将)の防衛召集により、県下の男子学徒ら約千三百名が「鉄血勤王隊」として正式に軍の指揮下に編入された兵の配属は「千早部隊」。朱里の軍司令部と後方を往来し、中央からの(誇大な)戦果発表を迅速に伝え、以って後方民間人の戦意を高揚させる、というある種の宣伝部隊である。

 物量で劣る三十二軍は、しかし八原博通高級参謀の「戦略持久」計画が奏功し、米軍上陸から約一か月、日米ほぼ互角の死闘を演じた。だが、大本営からの再三再四の攻勢要請に屈し、五月に入ると反転攻勢に出て大敗北。ここから六月二十三日の摩文仁における司令部玉砕に至るまで、日本軍は劣勢一辺倒に転ずる。この間、大田青年は終始軍中枢と行動をともにする。

 級友は次々と倒れいく。母校のある首里は砲爆撃で地形が一変し、愛する郷土は一木一草とてない無残な姿を晒す。だからこそ大田青年は、救国の志を激高させたはずだ。

 二〇一五年、翁長知事辺野古移設問題に関連して沖縄本土の歴史的変遷に触れ、「沖縄は戦前、戦中、戦後と日本国に操をつくしてまいりました」と言った。近代以降、明治国家の辺境として日本に取り込まれた沖縄は、一時期を除き明らかに二級県の位置づけであっただからこそ県民は、本土人よりも一層本土人らしく振舞うことを良しとし、また本土への献身こそが模範的臣民として自らの地位向上に寄与すると信じた。このような過剰同化ゆえの滾る救国の思い/span>という、およそ本土より熾烈でいじらしい愛国心を持った青年の典型が大田氏であったといえる。

 刀折れ矢尽き、牛島満司令官、長勇参謀長以下軍司令部が玉砕したのが六月二十三日(沖縄慰霊の日)。日本軍組織的抵抗は終わった……はずであった

 しかし大田青年は、「民間人に紛れて的中突破し、国頭方面でゲリラ戦を展開せよ」の軍命令に忠実に従い、司令部玉砕の後も敗残兵とともに本島南部を彷徨い歩く。国頭は沖縄本島の最北部。米軍上陸後、早々に占領されたが山岳地帯であり、米軍看守が手薄いとみられていた。氏が沖縄本島南部東風平で正式に米軍に投降し、捕虜になったのは日本が無条件降伏してのち、ひと月以上が経過した一九四五年九月二十三日大田青年にとっての終戦は、四五年の六月でも八月でもなく九月下旬である。「鉄血勤王隊」員としての使命感は、それほど凄まじかった。

 日本敗北が明瞭となった六月二十日、沖縄師範学校の野田校長は、摩文仁に追い詰められた残存の勤王隊学徒を前にこう訓示したという。「決して無駄死にをしてはいけない。勇気を奮い起こして生を全うせよ」(『沖縄のこころ』大田昌秀)。校長は手榴弾二個を腰に、敵陣突破を目指して散っていったという。米軍基地除去を願う「沖縄のこころ」を抱き続けた大田氏の鉄血の意思に報いる事こそ、「後世特別のご高配」への返礼文であろう。 

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◎「後世特別のご高配」を含む大田実中将の自決前の遺言電報全文はコチラで:

大阪府警の「土人・シナ人」に府知事がご苦労様?と「沖縄県民に特別のご高配を」(仁愛の碑)」(http://d.hatena.ne.jp/cangael/20161020/1476942597

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