渡辺京二「日本はナショナリズムから卒業した」

◎「苦海浄土」の著者である石牟礼道子さんが亡くなられました。水俣病を告発し、水俣から日本の近代化や現代文明をも告発し続けた石牟礼さんでした。今世紀に入ってからの言葉を「shuueiのメモ」さんの語録の中から引用させていただきます:(http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20180212/1518396144
新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

・心の故郷はどこも汚染されてしまいました。水俣は日本列島の内視鏡で、そこから何でも見えます。不知火海の向こうは天草、その先に大陸と広がり、海にお日さまが沈む。そのとき太陽の箭(や)が海底に直入し、生命の根源に光の柱が立つ。生命の永遠、誕生と死の劇が夕昏(ゆうぐ)れの海にあらわれる。あらためてそれを考えさせる水俣病の事件があり、ただならぬ死が今も続く(2002年)


・日本の近代は壊れてると思いました。まず、水俣病ですね。チッソは罪悪感を持ってませんから。海を汚し、豊かな漁師さんの生活を壊して、気がつかない。近代化は鈍感な人間を大勢作り出してきた(2008年)


水俣病でいちばんつらかったのは、人とのきずなが切れたと感じるときでした。政治家や企業人のなかには、患者さんが魂の底から発する言葉さえ通じない方がいました(2011年)


・(東日本大震災について)息ができなくなっていた大地が深呼吸をして、はあっと吐き出したのでは。死なせてはいけない無辜(むこ)の民を殺して。文明の大転換期に入ったという気がします(2011年)

◎そして、この石牟礼道子さんのいろんな追悼の記事を読むと必ず編集者として関わってこられた渡辺京二氏の名前があがっています。「逝きし世の面影」で初めて著作を読んだ方で、明治以前の江戸時代の日本の姿を生き生きとよみがえらせてくれる読書体験は新鮮でした。(蛙ブログ:http://d.hatena.ne.jp/cangael/20111015/1318660997
この時、ブログの記事の最後に「この本は、日本は誇るに足る国で否定すべきものは何もないという新しいナショナリズムに寄与するものという捉え方がされて最近また評判になったような気もします。しかし、そういう読み方も著者自身の思いとは相容れないものです。著者自身があとがきで述べているところを引用してみます」と書いて、渡辺氏自らの言葉を紹介しています。
(写真は渡辺京二氏の書斎:本文からのコピー)
◎今回、「総じてけっこうな時代」という渡辺氏の言葉を引いて、安倍政権の今を”結構な時代”と肯定する立場の方が、渡辺京二氏の次の記事を紹介されていました。よく読んでみると、やはり、渡辺氏は、昨今のナショナリズムの復活ともいえる傾向に対して異を唱えておられます。

◎確かに、出だしの「総じてけっこうな時代」という見出しのところだけ読むと、今の右傾化とか安倍政権の政治を容認、是認しているととられかねない書き方ですが、全部読んでみると違いました。半藤一利氏が明治維新薩長の西軍に対する東軍という横軸で論じておられるのに対して、渡辺京二氏は明治150年を歴史の縦軸で眺めておられます。西洋という外圧によって外発的に明治維新はなされたもので、西洋文明に対抗するため幕藩体制を捨て、尊王攘夷天皇を担ぎ出し、国民国家を仕立て上げ、富国強兵の日本に。その結果、国家と国民はともにナショナリズムという病で戦争にまで。敗戦後、民主主義を手に入れ、ナショナリズムを卒業。現憲法下の今は、明治憲法下の時代と比べれば、”総じてけっこう”という意味だと分かります。

◎それでは、長いですが全文引用です。写真を4枚ほどカットしました。(引用元:https://news.yahoo.co.jp/feature/876
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「日本はナショナリズムから卒業した」思想史家が語る明治150年
「1/31(水) 10:15 配信

思想史家・渡辺京二

明治元(1868)年から150年。政府をはじめ、各所で「明治維新150年」を祝う行事が企画されている。武家による幕藩体制だった時代からの転換。あの明治維新とは何だったのか。また、あの時代から見て、現代とはどのような時代なのか。来日外国人の書籍の丹念な研究からあの時代の日本を描き、ロングセラーとなった『逝きし世の面影』。著者の思想史家・渡辺京二氏が、あの時代といまを振り返った。(ノンフィクションライター・三宅玲子/Yahoo!ニュース 特集編集部)

総じてけっこうな時代

福祉予算は削られる。長い不況を経て、社会の格差は広がるばかり。少子高齢化による縮小社会にも直面している。なるほど現代社会の問題はいまなお少なくありません。
さらには、いまの社会が「右傾化している」とか「ネトウヨが」とかいう言葉もよく目にします。安倍(晋三)首相のもと憲法9条が改正されたら、日本は戦争する国になってしまうから戦前に後戻りしてしまうなどと、不安がる声も聞こえてきます。
だから、メディアではいまの日本が危機にあるような言説もある。
でも、本当にそうでしょうか。
2018年という現在を評価するなら、総じてけっこうな時代だと私は思います。


熊本市の自宅。思想史家の渡辺京二氏は微笑むように語る。
幕末から明治にかけて日本を訪れた西洋人の膨大な文献をもとに、当時の日本の姿を鮮やかに描き出した『逝きし世の面影』。1998年に刊行した同書は江戸から明治に移っていく在りし日の日本を描き、ロングセラーとなった。渡辺氏は同書で訪日外国人の目を借りて、明治という近代社会が江戸時代という文明の滅亡のうえに生まれ出たことを論じた。


渡辺京二(わたなべ・きょうじ) 思想史家、河合文化教育研究所主任研究員。1930年、京都府生まれ。大連一中、旧制五高を経て、法政大学社会学部卒業 。『逝きし世の面影』で和辻哲郎文化賞、『北一輝』で毎日出版文化賞、『黒船前夜』で大佛次郎賞を受賞。最新作『バテレンの世紀』は10年余の連載をまとめた大作。(撮影:宮井正樹)


明治維新は西洋による外発的な変革

『逝きし世の面影』で、渡辺氏は江戸期の日本を「遅れた」国ではなく、訪日英国人エドウィン・アーノルドが「その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは謙譲ではあるが卑屈に堕することなく」(1889(明治22)年)と形容したように魅力的だった姿を浮き彫りにした。
今年は「明治150年」。
政府も関連施策を推進しているが、渡辺氏の目にはあの近代の変革がどのように映っているのか。

『逝きし世の面影』は現代を相対化することを試みたのだという。(撮影:宮井正樹)

50年前の1968年、「明治維新から100年」と言われました。当時は高度経済成長の真っただ中で前向きな声もありましたが、今回の明治150年はどうでしょう。いまも「明治維新をすごい」とたたえる声もあるのかもしれませんが、明治維新の実質を言えば、西洋という外圧による外発的な変化でした
そのことについては、夏目漱石も明治の歴史は一種の潮流に押し流されてきただけだとし、1911(明治44)年、和歌山県での講演でこう語っています。

<西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後、外国と交渉を付けた以後の日本の開化は大分勝手が違います。(中略)つまりは何でもない、ただ西洋人が我々より強いからである。(中略)しかも自然天然に発展して来た風俗を急に変える訳にいかぬから、ただ器械的に西洋の礼式などを覚えるより外に仕方がない。(中略)我々のやっている事は内発的でない、外発的である。これを一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であると云う事に帰着するのである>(『現代日本の開化』)

つまり、情勢に迫られてやっただけのこと。ウェスタン・インパクトによる緊急避難が明治維新だったのです。
1873(明治6)年に来日し、38年間を過ごした英国人バジル・ホール・チェンバレンは1905(明治38)年に、『日本事物誌』でこう記している。
<一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている>(『逝きし世の面影』)
外国人から見ても大きな変化が感じられていたのが、江戸から明治への移行だった。


国民国家ナショナリズム

もう少し明治維新を顧みてみましょう。
江戸末期の1853年、アメリカからやってきたペリー艦隊は日本に強硬に開国を迫ります。その近代的な軍備に驚愕し、江戸幕府は開国するわけですが、それがきっかけで日本は幕藩体制という統治機構から天皇制による近代国家へと変わっていく。
日本が西洋文明に対抗するには、西洋と同様に近代的な国民国家ネーションステート)システムを創設しなくてはなりませんでした。しかし、維新をリードした武士たちにとって、維新はこれまで仕えてきた将軍や藩主に刃向かうことでもあった。そこで武家社会を超越する忠誠の対象として、天皇を担ぐ必要があったのです。そこで謳われたのが尊皇攘夷です。
また、アメリカやイギリスの近代的な軍事力に対等に向き合うには、軍事力を支えるだけの経済力も持たなくてはならなかった。それが富国強兵でした。

ペリーによる黒船来航。1854 年の 2 度目の来航。東京湾。(写真:アフロ)

この時から「国家」と「個人」の関係が生まれた。江戸時代の「士農工商」という身分制度が、明治維新で「四民平等」になった。その代わり、「民」は有事の際には国のために尽くすよう、教育されました。
それまで、農民の暮らしは藩政と距離がありました。
たとえば、維新の混乱期、板垣退助会津を攻めた際、会津藩が悲壮な戦いをしているさなか、近くの農民たちは知らん顔をしていたという有名な話があります。それほど、政治と庶民には距離があったということでしょう。
それが近代国家になると、国民ひとりひとりが権利を持つと同時に、国家との関係で言えば、教育勅語に『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ』とあるように、「戦になれば死にます」と教え込まされる国民教育が行われたわけです。

こうした日本の変化について心配していたのは、日本の魅力に気づいていた外国人だった。長崎海軍伝習所の教育隊長カッテンディーケは2年ほど長崎で過ごしながら、その変化を目にしてこう記した。
<日本はこれまで実に幸福に恵まれていたが、今後はどれほど多くの災難に出遭うかと思えば、恐ろしさに耐えなかったゆえに、心も自然に暗くなった>(『逝きし世の面影』)


危機的な存在としての西洋が現れたことで国家という概念が国民に生まれ、国民という概念も育った。個人と国家という関係が生じると、国民は自分の所属する国に勝たせたいという感情を持つようになる。その感情が個人を戦争へと駆り立てます。ナショナリズムです。

<写真は、1906 年(明治 39 年)日露戦争日本橋凱旋門を行進の歩兵部隊。(写真:毎日新聞社/アフロ)>

大陸侵略は軍部主導だったと言われますが、当時国民はこぞって支持していました
日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)で大国に連勝し、日本人の間に国民としての自覚が生まれていきます。当時、日本の社会がナショナリズムという感情に覆われたのは、それがその時点での日本国民の成熟度合いだったのです


ナショナリズムを経済で乗り越える

渡辺京二氏は1930(昭和5)年、京都府に生まれる。中国・北京や大連で小学時代を過ごし、戦後、熊本に戻ると旧制中学から五高へ進学した。大連時代に左翼思想に目覚め、18歳で共産党に入党するが、1956年左翼思想と決別する。1969年から熊本の公害病である水俣病に関して、15年ほど闘争運動に参加。作家・石牟礼道子の編集者でもあり、当時から現在まで同志の関係は続く。46歳で『評伝 宮崎滔天』を発表。予備校で現代文の講師として教壇に立ちながら、日本の近世・近代の研究に在野で取り組み、独自の視点から日本近代史、近代思想史家論を描いてきた。

1945年の敗戦後、マッカーサーGHQ連合国最高司令官総司令部)の民主主義教育が行き届いたこともあり、日本は戦争に対して痛烈に反省に転じた。復興の過程では経済成長が国家の最優先課題となり、経済性が社会の価値観の中心となりました。池田勇人首相がフランスに行った際、シャルル・ド・ゴール大統領に「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されたほどです。
つまり、日本は経済的な成長さえできればいいと割り切った。その結果、どうなったか。

日本人はナショナリズムを乗り越え、卒業した。つまり、日本人は国家を超える感覚をもったのです。これはじつに喜ばしいことです。
中国や韓国ではいまでも「国が侮辱された」といったことで騒ぎます。これはナショナリズムで、国家の成熟度としては、まだその段階なのです。でも、日本は違います。もう抽象的な演説などでは騒いだりしない。それだけの成熟をしたのです。
いわゆる国民国家は、昨今世界のどこでも災いのタネになっています。でも、国民ごとにまとまる国家というシステム以外に、世界を秩序立てる形態は今のところは見当たりません。国家は必要悪なのです。
異なる国が接して暮らしていて、 トラブルが起こったときに感情的になる。ナショナリズムはひとつの病気です。ナショナリズムを刺激する側面があるオリンピックやサッカーは、戦争の代わりをやっているようなものです。


西郷隆盛が夢想した「道義国家」

その意味で、「維新の三傑」の一人、薩摩藩出身の西郷隆盛は「国家は道義(人としてのあるべき倫理)こそが大事で、道義が守られないなら国家は滅んでもよい」とまで言っています。「道義国家」というものの姿を夢想していたのです。
彼が目指していた「道義国家」とは、民の生活が成り立つための最低限のルールづくりは国家がするが、民はそれを意識しなくていい。道義が民の間で実施されているのが大事でした。
そんな道義国家を現代で謳うのであれば、どうなるか。
それは「生きがいがある国をつくろう」ということじゃないかと思います。生きがいとは、自分がいる場所で何か力を出して役に立つ、つまり、存在意義があるということ。
現代から明治150年で振り返ると、そんな課題が残っているのです。

実際、今はなかなかそういう社会になれない。根本的な原因は、経済成長を絶えず求めざるを得ないような社会構造。だからといって、理想の社会の青写真を描いたところで、権力で実行するとなると社会主義に向かってしまうが、それは違う。
ではどうすればいいのか。
結局は我が身から始めるということです。
国家をつくるのは役人の仕事。けれども、社会をつくるのはひとりひとり。個人がどのように生きがいを見つけられるかが大切。出世や肩書、収入など、いわゆる社会的に評価される職業的地位の価値観が単純化していますが、そんな幼稚な尺度に縛られる必要はありません。
そのかわり、人のせいにもしない。


人生とはどういう人間と出会うか

2016年4月に発生した熊本地震。その直後、地元紙に寄せたエッセーに、非常事態がかえって人々のつながりを認識させることになったとして、渡辺氏はこう記した。
<この美しい地球上にほんのひととき滞在する私に、まるで『指輪物語』のような旅の仲間が、こんなに大勢いようとは>


30代から熊本で文芸誌を複数創刊。2016年に発刊した文芸誌『アルテリ』にも関わっている。(撮影:宮井正樹)

87年という時間を生きてきて思うのは、人生とはどういう人間と出会うかに尽きるということです。
現代社会では、生活を便利にするはずのテクノロジーがかえって煩わしさを増やしているというパラドックスの悲劇もあります。大切なのは、テクノロジー以前に人間関係です。同性同士でも男女の関係でも、傷つけ合うようなややこしいことや煩わしさがあります。これをむやみに避けないほうがいい。生きがいとは、結局のところ、人との関わり合いの中にしかないのです。
傷つくことを恐れず、世間や人の言うことなどいちいち気にせず、自分の好きなように生きればいい。そしていまはそれができる時代です。
明治などに幻想を抱くのではなく、いまはもっといい時代になっている、そう認識することが大事なのだと思います。

三宅玲子(みやけ・れいこ)
1967年、熊本県生まれ。ノンフィクションライター。「人物と世の中」をテーマに取材。2009〜2014年、中国・北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「Billion Beats」運営。