「自由と『権威への服従』・日本とドイツ、そして戦前と今【思考と行動と権威の一体化】」(山崎雅弘)


◎いつもツィッターを覗いている山崎雅弘氏、4月に入って9日から10日間ほど更新がなく、またどこか旅行?と思っていたら、ドイツから帰国でした。「自由からの逃走」を読んで考えたことをツィッターに書いておられます。「自由」の反語として「権威への服従」を上げて、いろいろ考察されています。丁度、白井聡氏の新著「国体論 菊と星条旗」の記事をブログに取り上げたところでしたが、自由・自立はだれしも望むものという前提が正しいか? 隷従は嫌だけど、「権威への服従」の結果、自分も権威の一部と錯覚できる人は、自由より隷従を簡単に選ぶのかもしれない・・・と思いました。山崎氏の一連のツィートを並べてみます:(十文字の花、ミニリラが強い香りを放っています)

山崎 雅弘
@mas__yamazaki 4月21日

・今回の旅の間、飛行機やホテルで隙間の時間に読んだのは、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(東京創元社)。自由という言葉の反語はいくつかあり得るが、「権威への服従」という観点は重要だと思う。今の日本社会で顕在化する「戦前的価値観への回帰」も、権威主義時代への回帰と言い換えられる


自由とは「人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現」を求める人間には魅力的だが、それよりは「強大な権威に服従して自分もその権威の一部になること」の方がいいという人には、自由とは権威をむやみに傷つける邪魔な存在でしかない。今の日本でも、両者の対立が顕在化しつつある。

●ここから山崎氏は、ドイツのナチスヒトラー時代について考えます。どうして、あのナチスヒトラーにドイツ人はやすやすと巻き込まれて行ってしまったのか:

・ドイツでは、ヒトラーナチスがいかにしてドイツ国民の心を掴んだかという説明をあちこちの博物館で目にしたが、改めて強い印象を受けたのは、当時の写真に写る「ナチス従属者たち」の晴れ晴れとした笑顔と充実した表情。権威への服従という道を選び、権威と一体化して自分の価値も高まったと感じる

権威への服従という道を選び、権威と一体化して自分の価値も高まったと感じる人々にとって、従属する権威が絶対化すればするほど、自分の価値も高まると感じるそれゆえ、権威に傷をつけるような言動をする人間は許せない。自発的に懲罰し、社会から排除する。特定の敵への攻撃が権威として成立する。


・権威への服従を思考と行動の土台に埋め込んだ人々は、集団の中で権威化された価値判断基準に疑問を抱かないただ権威に従う形で、その価値観に沿う行動をとるなぜあれほどの非人道的行為を為し得たかは、当時の人々が共有した「権威の力」を無視しては説明できない人は簡単に、権威の奴隷になる。

●そして、帰国後、今の日本について:

今の日本で続発する、社会の病理を示す出来事も、そのほとんどは「権威への服従」という側面が大きいように思える官僚の忖度とは、特定政治家への配慮というより、特定政権という「権威への服従」であり、辞めるべき首相や大臣が辞めないことを許す社会の態度も同様の「権威への服従」の原理だろう。


性的加害(セクハラ)者の居直りも、そんな事例を黙認する男性が多いことも、男尊女卑を前提とする男性上位者の「権威への服従」が根底にある。上位者が女性で、性的加害に厳しい態度を取る企業なら、男性社員の態度も変わる。自国優越の思想と男尊女卑が一体化した人が少なくないのも不思議ではない。


・子どもの頃から「権威への服従」という思考と行動の原理を脳みそに植え付けられた人は、権威者の敷いたレールの上を走る貨車のように、決まった観点からしか物事を見ない。「現状の権威」に刃向かう人間への罵倒や言いがかりがパターン化するのも当然で、権威が用意した現実の解釈をただ鵜呑みにする。


●日本の官僚の忖度や居直りは今に始まったことではなく、大正時代や昭和初期の日本軍や社会でも絶対的権威に服従して権威と一体化する『自由からの逃走』は確かにあった:

・大正時代の日本軍では、部下の兵士に横暴に振る舞う将校が、徒党を組んだ兵士によって暴力的手段で報復される事例もあった。しかし1935年の天皇機関説事件と国体明徴運動のあと、昭和初期の日本軍では「上官の権威」が絶対化し、部下の兵士への暴力が日常化した権威への従属が、組織の体質となった。


昭和初期の日本軍や日本社会においても「皇軍」や「国体」という絶対的権威に服従し、権威と一体化して自分の価値も高まったと感じる人々が多数派であり、従属する権威が絶対化すればするほど、自分の価値も高まるという高揚感を味わっていた大正デモクラシー時代の「自由」から、日本国民も逃れた

●そして、「権威への服従」は、今また、力を持ち始めている、要警戒:

戦前日本と現在との類似性を「戦前回帰」という言葉で表現することに、形式的・皮相的な観点で反論してくる人はいるが、社会の構造を「権威への服従」が支配した時代へと回帰させる上で、戦前の国体思想の世界観や死生観は、今なお「権威」として再利用可能な威圧力を保持している警戒が必要だろう

●「権威に服従」することで「権威との一体感」を得た者は、権威に歯向かう者を徹底攻撃し、社会もそれを黙認する。戦前のアカ攻撃や非国民の風潮です。豊橋市で、学生が演説中の共産党市会議員に暴行なんて事件があったのですね。

山崎 雅弘
‏@mas__yamazaki 4月21日
こんな事件が続発する社会になってきた。「現状の権威に刃向かう相手は攻撃しても許されるという空気に追従しているのが特徴的特定方向にのみ「力」が働いている1930年代の日本やドイツと類似する面があるし、冷戦時代の「親米反共右派独裁国」でも同様の事例があった。https://www.asahi.com/articles/ASL4P01LKL4NOIPE03V.html


演説中の共産市議に暴行か 学生逮捕「主張気に入らず」
2018年4月21日00時40分

豊橋警察署
 愛知県警豊橋署は21日、愛知県田原市の男子大学生(22)を暴行の疑いで現行犯逮捕したと発表した。「ひっかいたことは間違いないが、殴ってはいない」と容疑を一部否認しているという。


●「戦前回帰」はこんなところでも。自衛隊員の国会議員罵倒事件。防衛大臣は暴言について擁護する発言も。ひたひたと押し寄せて来る怖さを感じてしまいます:

国家主義」や「国防という大義名分」が過度に権威化された社会では、それを批判する人間を「左翼」や「共産党」と定義・分類すれば、何を言っても、何をしても許されるという暗黙の空気が次第に醸成される。そうした行為は「国の権威のお墨付き」を得ているという錯覚が、有形無形の暴力を誘発する


権威への服従という道を選び、権威と一体化して自分の価値も高まったと感じる人々は、自分が従属する権威が「敵」と見なす相手を痛めつけることを容赦しない権威の代理人と自分を見なす人間は、自分が従属する権威が「左翼」「反日」「共産党」等の属性を貼った相手を、何の疑問も抱かず殴りつける。



・統幕3佐暴言に波紋(朝日)https://www.asahi.com/articles/ASL4M5HNVL4MULZU00C.html
「3佐の暴言が明らかになった17日、小野寺氏は報道陣に『若い隊員なので様々な思いもある』と3佐を擁護」自衛官トップの河野克俊統合幕僚長「最低限、暴言ととられる発言があったのは事実組織上層部の認識の甘さも戦前の風潮とよく似ている


統幕3佐暴言に波紋 防衛相「若く、思い様々」後に釈明
編集委員・土居貴輝、古城博隆 阿部峻介
2018年4月20日07時20分


(←5・15事件と近年問題になった自衛隊員の言動)


 防衛省統合幕僚監部に勤務する30代の男性3等空佐が民進党小西洋之参院議員に「国民の敵だ」と暴言を吐いたとされる問題で、小野寺五典防衛相は19日の参院外交防衛委員会で「大変不快な思いをさせてしまい改めておわび申し上げる」と陳謝した。
(https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180419005032.html)


●いまや「安倍政権=日本国家」になってしまっていると:

山崎 雅弘
‏@mas__yamazaki 4月24日

下村博文文科相が講演会で「日本のメディアは日本国家をつぶすために存在しているのか、と最近つくづく思う」と発言(共同)https://this.kiji.is/361111743583274081


この発言の「日本国家」を「安倍政権」に置き換えれば意味が通じる。つまり安倍政権と支持者たちは「日本国家」と「安倍政権」を同一視している


・「日本国家」と「安倍政権」を同一視する人間から見れば、安倍政権に敵対的な人間は「日本国家に敵対的な人間」となり、「反日」や「国民の敵」等の罵倒の言葉がスッと出てくる権威への服従という実例を、安倍政権と支持者たちは2018年の日本で見せてくれている。思考と行動が権威と一体化している。